おひさまの日記
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2010年01月30日(土) さよなら、郵便局

今日は郵便局最後の勤務だった。

が、郵便局の表窓口が休みの週末、
やはりゆうゆう窓口は狂ったように忙しく、
しみじみする間もないままバタバタと帰って来た感じ。

でも、終わったんだなぁ…

そして、なんと、
郵便課のみんなで私に花束を用意してくれていたの。

仕事を終えて帰る時に渡された花束は、
私の大好きなダリア、黒蝶も入っていて、
それはそれは立派で美しい花束。
つらくて辞めるんだけど、
でも、そんなみんなの気持ちがうれしくて、
目頭が熱くなってしまった…

みんな、本当に、本当に、ありがとうございました。
1年間お世話になりました。
過ぎてしまったからだけど、思い出すのはいいことばかり。
イヤなことを思い出しても、それはもういい思い出になっている。
喉元過ぎれば熱さ忘れるってのは、
今の私みたいな状態を言うと思うのでありました(笑)

さびしいけれど、今日で郵便局を卒業です。

シフト勤務なのでみんな出勤がバラバラで、
会えない人がいるまま終わるのがすごくさびしいな。
最後のあいさつくらいしたかった。

もし郵便局を続けていたら、
こんなに郵便局を好きにはなってなかっただろうな。
色々あったけど、勤めてよかったって思えるのは、
やっぱり自分の道を行く選択をしたからだと思う。

それに何より、1年続いたのは、
イヤなことだけじゃない、楽しいこともあったからだと思う。
それまでのパートは1ヶ月が限界だったからね。

さよなら、郵便局。
本当にありがとう。
私を育ててくれた場所、お世話になりました。
いただいたお給料で生活していくこともできました。

なんて、週明けには、
社員証やロッカーの鍵とか、備品返しに行くので、
またすぐ行くんだがよ。

そして、何より、おつかれ、私。
頑張ったね、ほめてあげよう。

今日帰ったら、
夜ごはんのおかずに鶏の唐揚げが買ってあって(大好物)、
なんだかごほうびみたいだと勝手に思い、
家族の誰よりも大量に喰らったのでした。
揚げ物はカロリーが高いから、普段は控えてるんだけど、
今日は郵便局卒業を口実に、心おきなく、ね(笑)

そして、明日はまず、昼寝。
念願の昼寝。


2010年01月28日(木) おとなこども

ある記事を読んでハッとした。
それは、水谷充さんのブログの記事だ。

写真も撮られる他、色々なことをなさっている水谷さん。
上の水谷さんのお名前にリンクを張ってあるので、
飛んで見てもらえれば、どのような人かわかる。

読んで何かがスコーンと抜けた。
そうだよねぇ…と、うなるばかりだった。
それは、彼のブログ「写真・映像制作人 水谷充の私的視線」のこの記事
短くて読みやすいので、まずぜひ読んでいただけたらと思う。

スゴイ人というのはどこまでもスゴイのだ。
これを読んで、私は水谷さんがえらくカッコイイと思った。

この記事に書いてあること(真ん中あたり)は、
私が日々感じていることと全くと言っていいほど同じだった。
けれど、私は自分がそうであると、この記事を読むまで気づかなかった。

気づかなかったと言うか、
それじゃあいけないと思っていたのかもしれない。
でも、読んで思った。
あ、同じ、って。

子供が描いた絵を母親に見せにくる時って、

「ねぇ、ママ、見て、上手に描けたでしょ?
 ほめて、ほめて!」

そんな気持ちなんだと思う。

そして、それは、私もそうだ。
子供の頃もそうだったし、今もそうなのだ。

「こんな写真撮っちゃった。
 ねぇ、見て、見て、よく撮れてる?
 ほめて、ほめて!」

そんな気持ち。
それが素直なまっすぐな気持ち。

でも、それじゃいけないと思っていたのは、
なんかこう、もっともらしい、いかにもな、
写真とはあーだこーだで、表現がなんちゃらで、って、
アーティストっぽい思いで写真を撮ることが正しくて、
それが立派なんだと思っていたからじゃないかと感じる。
今になってね。

自分が、水谷さんが書いていらしたような気持ちでいたことに気づいたことで、
初めて、そういう気持ちでいる自分を脇に置いてええかっこしーしてたんじゃないかって、
わかったんだよな、うんうん、わかったんだよ。

これは大きな気づきだった。

水谷さんはブログで、
ああして書いていらっしゃるけれど、
ああやって書けるのは、
人間として成熟しているからなんだと、つくづく思う。

そして「あまり崇高な意思は見えてこない」とおっしゃっているけれど、
それを素直にさらさらと感じて表現できるということは、
ある意味崇高なのだと、私は思う。
色々な体験を重ねて重ねて、
悲喜こもごもを感じて、たくさんの葛藤を越えて、
今ここにあるからこその言葉なんだと思う。
読んで果てしない奥深さを感じた。
すごいよ、カッコイイよ。

私もああしたことを、
さらりと言ったり書いたりできるようになりたいと思ったね。

背負っていた重たい荷物をおろしたような、そんな気持ち。
私、また、自分じゃない自分になろうとしてた。

そう言えば、abuもよく言う。

「俺は撮りたいから撮るんだよ」

と。
ポートフォリオレビューの準備をしていた時に、
私があわあわして、

「プレゼンどうする?
 なんて説明するの?」

そう尋ねると、

「俺はただ撮りたいから撮りました、って言うよ。
 難しいことは別にないし、
 ただえみやを撮りたいから撮って、
 それを見せたいだけだから」

と答えた。

プレゼンのための事前リサーチで、
ある写真家さんの写真哲学的思想に基づいた難しい記事を読み過ぎていた私は、
もっともらしいことを言わなきゃいけないのかと焦っていた。
それはそれでとても素晴らしいものだった。
けれど、私の場合はそんな哲学的思想のもとやってるわけじゃないし…
と困惑していたので、いい意味で拍子抜けしたのを覚えている。

「あ、そか。
 だよねー」

って。
さすがダンナ。
カッコイイ、カッコよ過ぎるぜ(笑)

ああ、いつもだわ。
私はいつもぐるっと回るわ。
ぐるっと回って一巡するわ。

一巡して戻ってくるんだからよしとする(笑)

abuが何十回も何百回もシャッターを切る間、
私は1回もシャッターを切れないことがあった。
そりゃそうだね。
だって、頭でか子さんで、心で感じるのをやめちゃってたんだもん。
撮りたいっていう素直な衝動を押さえ込んで、
もっともらしい、でも本意じゃない何かを用意しようとしてたんだもん。
そりゃ撮れねーわな。

大切なものは子供の心の中にある。
きらきらと。
大人になってもそんな子供の心を持っていられたら、
長く生きた分、成熟した子供になれるね。
大人がいっぱい持ってる余計なものをみんな削ぎ落としたら、
残るのはきっと子供の心。
何よりも大切なもの。

その大切なものは、人間としての成長と共に熟していくのだろう。
有り様はそののままに、より深みを増していくのだろう。
なんて素敵なんだろう。
私もそんなものを持った大人になりたい。
私の言葉で言えば、おとなこども。

成熟したからこそのシンプル。
成熟したからこそのありのまま。

すべての出来事がリンクする。
目にするもの、耳にするもの、体験するもの、すべてが。
そして、私は気づく。
大切なことに。

そして、abuは私の後ろでブログを書いている。
私達は背中合わせにパソコンを置いて作業しているのだ、
ま、どうでもいいことだが(笑)

そして、前に進もう。
よっしゃ。

なんかすっごく気分が晴れ晴れなのは、
きっとぐるっと回って自分に戻れたからなんだと思うよ。

水谷さんとは直接的関わりは何もないけれど、
それでも、ひょんなことであのブログを知って、
こうしてウェブを通して大切なことを感じさせていただけて、
心から感謝なのだった。
草薙素子ふうに言うと「ネットは広大だわ」な気分。
記事の最後に書いてあることも、本当に、本当に、素晴らしい。
モニターに向かって合掌だよ(笑)


2010年01月27日(水) すでに与えられている恩恵に感謝

郵便局のお仕事は年休消化中でまばらな出勤。
実際の勤務は残すところあと1日。
(郵便局はパートでも年休があって、それはすごいことだと思う!)

イヤで辞めるのに、いざ辞めるとなると、思い出すのはいいことばかり。
不思議だな。

もうすぐ約束された収入が完全になくなり、
まだ確立されていない場所で収入を得るために動くことになる。
夫婦そろって同じ動きをするってのが、かなりこわい。
もうお互に穴埋めはできないということになるのだから。
不安でひとり泣いてしまうことだってある。

実際のところ、金銭的にすごく厳しくて、
今度ばかりはマジでヤバいでしょう、って感じなんだけど、
このまま行くしかないし、これで何かが生まれるって感じてて。
なんの根拠もないんだけど。

abuとの出逢いから共に生きるようになるまでの体験で、
感覚や直感に従って生きることの大切さと、
それがもたらすものには間違いがないというのが、
私の自然な考え方になった。

ただし「感覚や直感」と「願望から生まれる予測」を混同してはいけない。
それは時に似ていながら全く別のものであり、もたらすものもまるで違うから。

それを自分にも言い聞かせながら、この道を歩き出した。

思うのよ。

住む家がある。
寝る場所も布団もある。
電気がつく。
水道が使える。
部屋を暖める暖房がある。
洗濯ができる。
毎日お風呂に入れる。
毎日ごはんが食べられる。
それだけでもなんと恵まれていることか。
なんとありがたいことか。

携帯電話を使っている。
パソコンを持っていて、プロバイダー料を支払ってネットしている。
車を2台所有している。
なんと贅沢なことか。

本当に金銭的に追い詰められたら、限界だと言うなら、
そんなことできるはずがない。

まだだ、まだまだだ。

ないものを数えるのは簡単だ。
足りないものを嘆くのは簡単だ。
でも、こんな時だからこそ、
今感謝できるもの、持っていられるもの、
そんなものを見ていたいと思う、現実逃避とは別の意味で。
すでに与えられている恩恵を知って感謝したい。
それなくしてその上に何が積み上げられよう。

そして、今できる精一杯のことをしようと思う。


2010年01月25日(月) 体重調整強化週間

先週、ゆうゆう窓口のみんなとバイキングに行った。
それを皮切りに、連日調子に乗って食べ過ぎた。

そして、なんだかお腹がキューピーチック。
太ももの隙間も狭くなってる(体重のバロメーターにしてるのだ)。
おそるおそる体重計に乗ってみると、しっかり増えていた ( ;゚Д゚) アアア…

慌てて体重の調整に入った。
私は背が低いので、1、2キロ増えただけでも結構危険だ。
少し増えたくらいの時に頑張って戻しておけば、
気づいたらこんなに増えてた…なんてことがないし。

まず食事。
1日1食をダイエットドリンクに置き換えて、
残り2食も低カロリーメニューに。

あと運動。
って言っても、がっつり何かするんじゃなく、
日常生活の中でできることだけ。
通勤を歩きにするとか、ストレッチするとか、階段は走って上り下りするとか。
歩きもただ歩くんじゃなく、筋肉を意識して姿勢よくしゃきしゃき歩く。

今日の夜はアンナに付き合ってもらって、
用を足すついでに、市内を自転車で走り回った。
親子チャリ暴走族、こいで燃焼、とにかく燃焼。
途中からもう暑くてたまらん状態、燃焼を感じて満足。

そして、さっき、abuと一緒にチョコレートを食べた。
ダメじゃーん(笑)
でも、おいちい。
体重も落ち始めたし、
少しだけなら誘惑に負け子さんもよしとする。

もう一息で元の体重だ。
頑張れーっ!


2010年01月21日(木) 真剣勝負

アンナと勝負した。

テーブルに手をついて、両足でぴょんぴょん跳ねる競争。
先にやめた方が負け。

なんでそんなこと始めたのかと言うと、
よくわからないけど、
とにかく始まってしまったのだ。

43歳 VS 11歳。

アンナは、持久走大会のために毎日走っていて、
持久力もついている。

が、しかーし。
母、負けるわけにはいかない。
有酸素運動のレッスンを3本続けてこなした過去の栄光にすがり、
ぴょんぴょん跳ね続けた。

ふたりで跳ねるもんだから、
テーブルだけじゃなく部屋中がガタガタいっている。
abuがコーヒーを入れながらにやにや笑っていた。

「く、苦しい、暑い、もうやめたい、アンナが負けろ!」

「やだ、ママが負けろ!」

「なんだよー、親に勝ちをゆずれ!」

「子供にゆずるんだよ!」

かれこれ10分近く跳ねていたんじゃないだろうか。
体のあちこちが痛くなって、母、結局リタイヤ。

「やったーっ!!!」

アンナは勝ち誇って叫んだ。
負けたけど、我ながらよく跳ねた。

「運動の後は必ずストレッチするんだよ」

そう言ってアンナと並んでストレッチをした。
競争は終わった。
そして、お互いそれぞれの部屋に戻った。

メッチャ楽しかった。
子供っていつもこんなに楽しいのかな。
全力で遊ぶんだな。
すごいな。
いいな、こういうの。
意味ないことなのにすっごく楽しくてハッピーになるんだな。

アンナは明日も対決すると言っている。
体力では叶わないと悟り、私は言った。

「算数対決とか漢字対決にしようよ」

あっさり却下された。

明日は何で勝負する?
側転と壁倒立なら負けないぜ。





夜、体重を計ったら、体重、体脂肪共に落ちていた。
勝負のおかげか!?
なら、明日もやってもいいよ(笑)


2010年01月20日(水) だじゅらー、なかまー

父が入院しているうちに衰弱してあまり動けなくなった。
以前より話すことも難しくなったようで、
懸命に何か言っているんだけど聞き取れない。

暑そうにしていたので、布団をはいでやると、
ガイコツのようにやせ細った体が横たわっていて、言葉を失った。

すべてが見たくない現実だった。

私は、うまく話せない父のために、あいうえお表を作った。
言いたいことを表を使って伝えてもらえれば、と思ったのだ。
あいうえお表には、五十音の他に、

「はい」「いいえ」
「喉がかわいた」「何か食べたい」
「痛い」「苦しい」
「うれしい」「ありがとう」

そうしたいくつかの言葉を書いておいた。
それを指せば伝わるように。

それを持って行って父に言った。

「お父さん、何か話したいことある?
 これで教えて」

けれど、腕を上げて一文字一文字を指差すことが難しいらしく、
父の震える指は、あいうえお表の上をよろよろと定まらず動くだけだった。
が、少しすると、震えながらも端の方を指している。
そこには、

「喉がかわいた」

と書いてあった。

「お父さん、喉が渇いたんだね、水飲もうね」

それを見た母が父に吸い飲みで水を飲ませた。
すると、父は、また表を指した。
そこには、

「ありがとう」

と書いてあった。

私は父に言った。

「お父さん、一文字一文字を指差すのが大変なんだね。
 じゃあ、今度は、色々な言葉をたくさん書いた表を作ってくるよ。
 それなら、一カ所指差すだけで伝えられるから使えるかな」

すると、父はかすかにうなずいた。

「わかった。
 じゃあ、作ってまた持ってくるね」

アンナのお迎えのために病院を出なければならない時間が迫っていた。
帰る前に父に尋ねた。

「お父さん、アンナのお迎えがあるから今日は帰るね。
 何か言いたいことはある?」

すると、父はまたよろよろと表を指差した。
そこにはこう書いてあった。

「ありがとう」

泣きそうだった。

「来るなって言われてもまた来るよ」

そう言った私に、父がかすかに笑った。
私は父にピースした。
父は、よろよろと腕を上げると、私にピースした。

子供の頃を思い出した。
いつもお父さんとこうしてじゃれていたよね。
ふたりだけのサインを作って交わし合ったりしたよね。
その時お父さんはこう言っていたよね。

「だじゅらー、なかまー」

だじゅらーの意味は今となってはわからないけれど、
昔、私達はそれを合い言葉に、
ふたりだけのサイン、仲良しの合図、
人差し指と親指をくっつけてオッケーをした。

「だじゅらー、なかまー」

私はそう言うと、あの頃と同じオッケーをした。
すると、父も私にオッケーをした。

お父さん、仲良しの合図だよ。
あの頃のように、仲良しだよ。

父が日に日に弱ってゆくのを見て、
私の中に湧いてくる切なくて悲しい気持ちは、
過去にされた一切のひどいことをみんな消してしまった。
そこから生まれた憎しみも、嫌悪も、何もかも。
そこには愛だけが残った。
お父さん、大好き。

どうか、どうか、少しでも長く生きてください。


2010年01月19日(火) イタキモ

私は筋肉痛が大好きだ。

今はトレーニングしてないけど、
以前ジムに通っていた時、
鍛えた箇所の筋肉が痛くなると妙に心地よいのだった。

痛いんだけど、なんか、

「ああ、ここ(痛いところ)が鍛えられて
 筋肉がついてくんだな、カッチョよくなるんだな。
 ひゃっほー♪♪♪」

ってな感じで、ウキウキワクワクするのだった。
まさにイタキモ(痛いけど気持ちいい)だった。

指圧なんか受けてもそう、強くもまれるのが好きだから、
そうしてもらうと次の日もみ返しがあることも多いけど、
痛くてダルいのに、なんかイイのよね。
ああ、これこれ、この感じ、これで体が楽になってくんだな、
なんて思うと、体だけで言えばイイ調子じゃないのに、
ああ、効いてるのね、なんて、ウキウキしちゃうんだ。

私の場合、この「イタキモ」精神が常に基本にあるらしく、
身体的なもののみならず、精神的なものにもあてはまる。

ひとつ前の日記に書いたオープンポートフォリオレビューもそう。
プロフェッショナルの世界のレベルの高さと厳しさを目の当たりにし、
自分が木っ端みじんに吹っ飛んじゃって痛いんだけど、でも、気持ちいい。
打ちのめされてるのに、でも、心地いい。
へこんでるのに、でも、前を見てる。
(もちろん、そうなる前に、
 一度落ちて、色々な感情を味わって。
 その結果の今、ということね)

例えて言うなら、心の筋肉痛なんだろうな。
痛いってことは、確実に心が鍛えられて、
その鍛えられてもっと強くいい状態になった心が、
自分の行動を変えていって、未来を変えていくのだろう。

痛いことの裏には、必ず贈り物がある。
イタキモばんざーい。


2010年01月18日(月) ヨコハマフォトフェスティバル <ヨコハマオープンポートフォリオレビュー>

16日、17日の2日間、ヨコハマフォトフェスティバルのキックオフイベント、
ヨコハマオープンポートフォリオレビューに、abuとふたりで参加してきました。

私にとっては、公の場に自分のプリントした作品を出す初めての体験。
しかも、写真家、アートディレクター、ギャラリスト、雑誌編集者等、
各界のプロフェッショナルに自分の写真を評価してもらう場。
逃げ続けてきたことのひとつへの挑戦でもありました。

本当にいい体験だった…

先着順でのエントリーだったので、どんなもんだろうと思っていたけれど、
会場に入って他の写真家さんの作品を見て愕然としたの、レベルが高くて。
みんな経歴もすご過ぎ、そんな人だらけでまずビビりました(笑)

あとはずっと、しっぽを後ろ足の内側にくるんと丸めた犬みたいにそこにいて、

「私がここにいるのって場違いだ…」

でも、思えば、私は勇気を出して現実を見に行ったはず。
今、自分が写真の世界においてどんな立ち位置にいるのか、それを知りたくて。
だもの、これでいいじゃん、って思って。

そんな中、絶叫するほどうれしいことがあった。

大好きな写真家、細江英公先生が、レビュアーとして来てくださったのです。
まさか自分のリクエストが通るとは…(((( ;゚Д゚))) アワアワアワ…
私の写真のルーツになる作品の数々を世に出してきた細江先生、
その作品の数々は私にとってまさに衝撃、
それなくして今の私なし、と言っても過言じゃなくて。
なぜ来てくれたのかよくわからんが、いい、理由はどうでもいいっ!
来ていただけたってことがとにかくうれしくてぶっ倒れそうだった(笑)
緊張し過ぎて言いたいことがほどんど言えなかったけれど…(涙)

写真・映像制作をなさる水谷充さんが、
たまたまその光景を写真に撮ってブログにアップしていらしたのをabuが発見、
モニターを見てびっくり!!!
細江英公先生と私のツーショット(2枚目)、嘘みたい…
偶然とは言え、こんなラッキーないよ、ううう…(涙)
あの瞬間が画像で残っていたとは…水谷さん、ありがとうございます!

単純な私は、念願の細江先生にレビューしていただけたことで、
もういいや、細江先生に見ていただけて、アドバイスしていただけて、
思い残すことはない(死ぬんぢゃないんだから)、
とリラックスできたのでした(笑)
あとは、今のありのままの自分としてこの場にいよう、そう思って、
静かに静かに目の前の現実を体験していくことができました。

この2日間で、写真というものにおける私自身の個が崩れ去り、
その瓦礫の中から違うものが生まれたような、そんな気持ち。
今までの私と何ら変わりはないんだけど、
ひょっとしたら写真も変わらないんだけど、
でも、何かが確実にシフトしたと感じてます。
痛く心地よい刺激が起爆装置になったかのように。

プロフェッショナルの世界はレベルが高く、厳しい、
でも、這い上がっていきたい、そんな強い願いを持ち始めたのです。
もっともっと、変わっていきたい、伸びていきたい、もっともっと、って。
どうすればいいか、どう撮ればいいか、さっぱりわからないけれど、
とにかく、前へ、先へ、って。

レビュアーさんやその他写真を見てくださった方から
いただいたご意見やアドバイスも、
心の真ん中に入ってくるものばかりでした。
そう、それを聞きにきたんだ、そう思えるものばかりで。
ありがたい、本当にありがたい。

今は今、このままでいい、
自分にしか撮れない写真を撮るようになりたい、
そう思えた自分がうれしかったよ。

会場でご一緒してくださった写真家のみなさん、
スタッフの方々、レビュアーの方々、
本当に、本当に、ありがとうございました。
この2日間がなかったら、きっと未来の私はありませんでした。
心からの感謝を込めて。

行ってよかった、本当によかった。
素晴らしいイベントでした。




この日記は「emiyismPHOTO」と同じ記事をアップしています。


2010年01月15日(金) はじめの一歩

明日から2日間、ヨコハマフォトフェスティバルのイベント、
ヨコハマ・オープンポートフォリオレビューに、
abuと一緒に参加する。

今まで、個人で写真を撮ってウェブにアップするだけで、
写真展もしたことないし、公の場に自分の写真を出すのは初めて。

正直、時間がなくてできなかったこともあるし、
色々な情報をリサーチしたり、それに基づき熟考して、
自分のポートフォリオを作成する心構えも欠けていたように思う。
それゆえ、万全な準備はできていないと感じた。

でも、だから今回は出来が良くないんだ、
という考え方はしないようにしようと思った。

時間がないのも、心構えが欠けていたことも、
それゆえに万全な準備ができなかったことも、
全部ひっくるめてそれが今の私の実力だと思う。
言い訳は一切なしだ。
足りないなら足りないままでいい。

そんな今のままの私で行ってこようと思う。

そして、もうひとつ思うのは、
参加するすべての写真家の作品をリスペクトしようということ。
たとえ自分の興味のないジャンルの写真であっても、
好きではない写真であっても、
それぞれがそれぞれの思いを抱いて出展する作品なのだから、
その心を尊重し尊敬し感じてこようと思う。

写真をやっていきたいんだと感じて、
そうしようと決めて、動いたはじめの一歩。
いってきます。


2010年01月14日(木) うれしいメガネ

来るのよね、やっぱり年齢と共に、着実に。
老眼。

最近、近くが見えにくいなーと思ってた。
携帯メール読む時、前よりちょっと遠くに持ってかないと、
どうも文字がかすんで読みづらい。
離すとよく見える。
立派な老眼じゃん(笑)

そんな昨日、美容室に行くと、
そこの奥さんが私とひとつ違いで、老眼の話になった。
彼女もやっぱり最近近くが見えにくいんだって。

そして、彼女が言った。

「えみやちゃん、100円ショップの老眼鏡、いいよ」

「えーっ、100円ショップの!?」

驚いている私にダイソーで買ったという老眼鏡を持ってきて見せてくれた。
これがまた見てびっくり。
グリーンのフレームに今時流行の形でオシャレなのだ。
100円ショップのメガネに見えない。

「試しにかけてごらんよ」

お言葉に甘えてかけさせてもらった。
そして、携帯を開いてメールを読んでみた。

おーっ、見えるーっ!
近くでもくっきりはっきりよく見えるーっ!
感激.。゚+.

徐々に老眼が入ってきて少しずつ見えにくくなっていたので、
目がどれだけ見えづらくなったのか認識してなかったんだけど、
結構見えづらいまま毎日やってたんだと気づく。
人は不便に慣れようとしちゃうんだよねぇ。

「軽い老眼だし、
 いちばん度数の低いものでじゅうぶんよ」

なるほどー、こりゃいい。

私は帰るとすぐに近所のダイソーに行った。
あった、あった、老眼鏡コーナー。

彼女が持っていたオシャレな形はピンクしか残ってなくて、NG。
あとは、アラレちゃんみたいなまんまるメガネとか、
なんだかなーなデザインのものばかりだった。
在庫少なっ。

でも、欲しいっ、どうしてもすぐ欲しいっ。
あれこれ物色して、端の方に結構カッコイイのを見つけた。
210円だったけどケースもついてるし、即買い。

帰ってウキウキしてさっそくかけてみた。
度数がいちばん低いのが売り切れで、そのひとつ上のを買ったので、
ホント間近を見る時にすごくいい感じで、
普段使いするようなものじゃないけど、重宝しそうな予感。

最近、偏頭痛が多かったのは、
見えづらいまま色々なものを見てたからかも…なんて思った。

もちろん、老眼が進んできたら、
ちゃんとしたメガネを作ろうとは思ってるけど、
そんなにちょくちょく使うわけじゃないし、
ちょっと必要って時に、軽い気持ちで使いたいな。

「老眼鏡を使ったからと言って、老眼が進むことはありません。
 それよりも、見えづらいのをがまんして
 体調を崩さないことが大切です」

と、あるところで読んで、安心。

実は、私メガネ好きなのよね。
でも、メッチャ視力いいから(2.0)必要なくて、
それは、とてもありがたいことなんだけど、
でも、メガネは好きで、だてメガネも持っていた。

だから、老眼はうれしいことじゃないけど、メガネはうれしい(笑)
メガネかけてなんかおされな雰囲気の
2回目の成人式+ちょっとだけおねーさんを目指そうっと。

ああ、メガネ、うれしい。
用もないのにかけて鏡見たりして。
でもね、老眼鏡だから近く以外は何もかもがボケて見えるワケよ。
鏡の中のメガネかけてる自分の姿も(笑)


2010年01月11日(月) イルカの気持ち

お風呂に入りながらアンナとおしゃべりをした。

明日の学校でのマラソンの練習が、
校庭のトラックをぐるぐる回るだけで景色が変わらなくてつまらない、
外を走るなら色々な景色が見られて楽しいのに、という話から、
突如イルカの話になり、こんな会話をした。

「アンナね、イルカが見たいな。
 海で泳いでいるところ」

「そうだね、アンナは昔行った鴨川シーワールドの
 プールのイルカしか見たことないもんね」

「うぅん、小さかったからあんまり覚えてないけど…
 プールのイルカは元気ないんだ」

「本来は広い海を自由に泳ぎ回る生き物だから、
 人間の都合で狭いプールに入れられちゃうのはかわいそうだよね」

「うん。
 冬休みのアンナみたいだから、
 きっとすごくつまらなくて悲しいと思う」

「冬休みのアンナ?」

「そう。
 アンナは冬休みの間どこにも出かけないでずっと家にいたから、
 すごくつまらなくて悲しかったの。
 もっと外で遊びたかったのに。
 だから、イルカも同じ気持ちだと思う」

そうだよな…

実家に引っ越して来て、アンナは学区外通学。
お友達は子供がひとりで遊びに行くには遠いところに住んでいるので、
遊ぶ時は私かabuが送り迎えをしている。

けれど、冬休みは、年末年始、お遊びを控えさせた。
慌ただしい年末や、行事の多いお正月に、
人の家に突撃するもの考えものだし。
お正月のほとぼりが冷めても、私とabuは仕事で忙しく、
アンナを送り迎えできなかったし、
ばあちゃんはじいちゃんの病院通い、
アンナはひとりで家で遊んでいることが多かった。

冬休みの最後の日、そんなアンナに申し訳なくて、
私が子供の頃、長い休みに友達とも遊べず家にひとりいて、
すごくつまらなくて虚しくて悲しかった話をした。
アンナもそんな気持ちだったんじゃないかな、ごめんね、って。

すると、

「うん、そんな気持ちだった」

そう答えたっけ。

そうか、その時の自分の気持ちと、
水族館のような場所にいるイルカの気持ちを重ねたのか。
どこにも行けなくて、閉じこもって、
つまらないだろうな、悲しいだろうな、って。

素敵な心だなぁ、と思った。

人は自分が体験して感じたことを自分のものにしていく。
そして、それが自分のものになって初めて、
人が同じような状況の中にいるのを見て、
相手の気持ちを察することができるようになる。

アンナもそれをしたんだなぁ。
自分以外の誰かや何かを思いやることができるんだなぁ。
母、感動。

私はこうアンナに言った。

「今度そういうイルカや生き物を見たら話しかけてあげてね。
 つまらないね、悲しいね、って。
 言葉は通じなくても、その心は必ず伝わるから。
 きっとイルカもわかってもらえてうれしいと思うよ」

アンナは小さく、うん、と言った。

イルカの話をしながら、
きっと、自分がつまらなくて悲しかったことも、
伝えたかったんじゃないかな。

人はまっすぐに物事を伝えるとは限らない。
遠回りに、遠回りに、そぉっと伝えることがある。
言えないけれど、でも、伝えたい、知ってほしい、
そして、そぉっと、遠回りに。

冬休み、アンナにかわいそうなことをしたなぁ、
そう思い胸が痛んだ。
郵便局を辞めたら、もう少し楽しい毎日にしてあげられるかなぁ。

子供は親が思っている以上に多くを感じ、
そして、多くを学んでいる。
私はそんなキミから多くを学ぶんだよ。

いつか一緒にイルカに伝えに行こう。
つまらないね、悲しいね、海に帰りたいんじゃない?って。
そのキミのやさしい心を。


2010年01月10日(日) 内側へ向かう

私の好きなOSHO禅タロットのカードがある。
それは以下のカードだ。

すべては自分の中にあるとよく言われるけれど、
本当にそうだと思うんだ。

うまく言えないけど、このカードみたいな状態でいられると、
つらいのに、そのつらさに絡めとられてボロボロなのに、
なぜか、それでも、なんだろう、「これだ!」みたいな感じがする。
意味不明だな(笑)


**********


51. 内側へ向かう

内側に向きを変えることは、向きを変えることではまったくない。
内側に入って行くことは、行くことではまったくない。
内側に向きを変えるということは、
あなたがあれこれと欲望を追いかけてきて、
追いかけるたびに何度も何度も欲求不満に
みまわれつづけてきたことを意味しているだけだ。
どの欲望も惨めさをもたらすということ、
欲望を通しては満たされることはないということだ。
あなたはけっしてどこにも行き着かないということ、
満足することはありえないということだ。
この、欲望を追いかけてもどこにも行き着かないという真理を見て、あなたは止まる。
止まろうと努力するのではない。
止まろうと努力したら、またしてもそれは追いかけることだ。
微妙な意味で。
あなたはいまだに欲しがっている。
あなたが欲しがっているのは、今度は無欲かもしれない。
内に入るために努力しているのであれば、
あなたは依然として外に向かっている。
努力はすべて、あなたを外に、外側に連れ出すことしかできない。
旅はすべて外に向かう旅だ。
内に向かう旅はない。
どうやって内側に向かって旅ができるかね?
あなたはすでにそこにいるのだ。
行こうとすることなど問題外だ。
行こうとすることが止まったら、旅をすることも消える。
欲しがることであなたの心がもはや曇っていないとき、あなたは内にある。
「内側に向かう」と言われているのはこのことだ。

だが、それは向きを変えることではまったくない。
たんに外に出て行かないことだ。

Osho This Very Body The Buddha Chapter 9


解説:

このイメージの女性は、かすかな笑みを浮かべています。
じつは、彼女は心(マインド)のたわむれをただ見守っているのです。
それらを判断せずに、止めようとせずに、同化せずに、
まるで通りの往来か池の水面のさざ波でもあるかのようにただ見守っています。
それに、心のたわむれはあなたの気を引き、
ゲームへ誘い込もうとして、跳んだりはねたり、あちこちに捻れたりして、
ちょっと可笑(おか)しくもあります。
心(マイド)から離れているコツをつかむのは、最大の祝福のひとつです。
瞑想とは、ほんとうはそういうことなのです。
真言(マントラ)を唱えたり、誓いの言葉を繰り返したりするのではなく、
まるで心は誰かほかの人のものであるかのように、ただそれを見守ることです。

今、あなたには、この距離をとって、
ドラマに巻き込まれることなくショーを見守る準備が整っています。
そうできるときはいつでも
「内側に向かう」というこの簡素な自由をじっくりと味わえば、
あなたの内側で瞑想のコツが育ち、深まっていきます。


2010年01月09日(土) 形から入る

久しぶりにマニキュアを。

郵便局ではほぼすっぴんで仕事してるし、
パートに制服はないから、
汚れてもいい(すごく汚れるのだ)くたびれた私服に、
ナイロンの紺のエプロン、
走り回れるようにスニーカー。
おしゃれなんてしばらく無縁だった。
髪もひっつめてるし。

最近はお出かけもしてなくて、
お休みの日もラフな恰好、思い切り部屋着同然の普段着。

でも、指先がキレイになるだけでなんか気分が違う。
自分が女であることを思い出したりして。

髪振り乱してる毎日だけど、
ちょっとした形から入るっていい作戦だ。

どこかほんのちょっとでもキレイにすることで、
意識が高まって背筋が伸びる。
完璧にって思うと苦しいけど、ほんのちょっとなら簡単にできる。
どんなこともそうだなぁ。

郵便局を辞めたら化粧もしようっと(笑)

形から入るということで、新しく名刺も作ったし、
今日はゴキゲンで眠りにつくのであった。


2010年01月08日(金) いくらでもダメダメになろう

今日はお休み。

あれもこれもしなくちゃ、そう思っていることがいっぱいあった。
特に、来週末のオープンポートフォリオレビューの準備は、
こういう休みの日にしかできないし。

作品の準備以外に、レビュアーについて、
(レビュアー:写真を見て評価してくれる人達のこと
       今回は写真関係や出版関係、ギャラリストなど総勢26名)
情報を集めて頭に入れておこうとも思っていた。
対面した時、○○さん、ネットで活動を拝見しました、
そう言われれば相手だって気持ちがいいだろう。
それが陰の努力ってもんだろう。
そういう努力をする人はいっぱいいるだろうし、
それによって相手に与える印象がよくなって、
レビュアーからも作品以外の部分で評価してもらえるだろう。

だが、しかーし。
手につかない。
気が乗らない。
抵抗がある。

わかっている。
そういう水面下の努力ってすごく大切だってことは。
これみよがしにそれをアピールして媚びるのは絶対イヤだけど、
マナーとして相手を少しは知っておきたいものだ。

が、やろうとするのに、心ここにあらずで、
取りかかったはいいものの、まったく進まず。
まるでやる気なし。

パソコンを立ち上げても、
どうでもいいサイトをうろうろ徘徊するだけで作業に取りかからない。
ネットをうろついている間もなんだか気持ちが重い。
無意味に時間をつぶしている気がした。

私の中にあるのは、

「やらねばならない」

という思いだけだった。
それをするのはとても苦しいことだった。
しまいには悲しくなってきた。

こういう時は、きっとこういう時なんだ、
そう感じて、思い切って今日はなぁんにもしないという選択をした。
勇気がいったけどね。
頭で理解している正しさを裏切るのはとてつもない勇気がいる。

そして、家の中のことをちょっとだけすると、
日当りのいい廊下に置いてある椅子でひなたぼっこして、
ぐうたらな時間を過ごした。

ぼーっとしてカーテン越しの太陽を眺めるのは、
本当に素敵なことだった。
冬の太陽はぽかぽかあたたかい光をいっぱい投げかけてくれて、
張り詰めて自分を追い詰めて苦しくなっていた気持ちが、
少しずつ溶けていった。

いいや、これで。
少なくとも今日は。
そう思った。
だって、こんなにもおひさまが気持ちよくて、
私は幸せなんだもの。
だから、いいや。

なぁんにもしない休日は、心地よい休日。
正しく立派であると理解している行動より、
心地よいと感じる行動が、
私をこんなにハッピーにした。

だらしなく過ごしたけれど、今日は本当にいいお休みだった。
なぁんにもしないことで生まれたものは、
私にとって何よりも大切なものだった。

すっかりリフレッシュした私は、
夜になってポートフォリオレビューの準備を始めたのだった。
面白いよね、あんなにやりたくなかったのに。
やろうという気持ちが出てきて自然に始めたのだ。

心が悲鳴あげてたんだなぁ。
いやだよ、追い詰めないでよ、もっと感じたいことがあるんだよ、って。
それを聞いてあげて、それが求めるものに従って、そしていい感じ。

助けてー、って、心は時々訴える。
そんな時、そんな自分の味方をしてあげられるのは、
他の誰でもない、自分なんだよね。

正しいとか、立派だとか、きちんとしているとか、効率的だとか、
そんな一般的な概念や人の意見だけを生きる指針にしてしまうと、
見落としてしまう大切なものがある。
それは、自分の心。

それを守って大切にして、元気にするためなら、
私はいくらでもダメダメになろう。
あなたは間違ってるって言われても、堂々と間違ってやろう。

今日は本当にいい日だ。

あ、だらだらして何もしなかったけど、
ひなたぼっこのためにしっかりUVカットだけはしたんだった(笑)
SPF50の強力なやつでね。

また、ひなたぼっこしたいな。


2010年01月07日(木) 途方に暮れた時

何か問題や困ったことがあって、途方に暮れた時、
その状況の中で一体どうしたらいいのかわからなくて、
仮に、方法論のひとつとして何かがわかったとしても、
それが自分が求めるものではなくて、
それが自分がしたいことではなくて、
その気持ちが怠惰なのか、
それとも従っていいものなのか、
それさえもわからず、
じゃあ、どうしたらいんだろうと、さらに途方に暮れる時、
人は一体どこに行くのだろう。

私は、今、そんな場所にいる。
膝を抱えて。

そんな私がこれからどうなるのか、見物だ。

私は、今、人生のアートを体験しているのだろう。
これから先、この目先の問題を越えて明るい場所にいるようになった時、
笑っているのだろう。
そして、またひとつ、生き方、生きる上での在り方、
そんなものをつかんでいるのだろう。

だから、今は膝を抱えていようかな。
そんな自分を怠惰だと責めずに、
動くことができない自分と一緒にいようかな。

本当に自分がどうありたいのか、何を望むのか、それはわかっている。
ただ、そう願うことがあまりにわがままじゃないのか、
そんなことがまかり通るのか、そんな思いにさいなまれる。

それでも願おう。
そうなれることを。
そうなった上ですべてがうまくいくことを。

途方に暮れた時の自分を忘れない。
それは、未来の自分に大きな贈り物を届けているに違いないから。

今までもそうだった。
もうどうにもならないと思うようなこともどうにかなったし、
終わりのないように思えた問題にも終わりが来た。
それを越えてきたように、また越えていける。
深い沼の底に沈むような不安の中、
そんな信頼が小さく、でも、確実に、私の中で輝いている。

その輝きは生きて体験してつかんだものから生まれたもの。
ゆるぎないもの。
それと共に、ただここにいよう。
そんな自分をただ静かに眺める自分を持って、
あらゆる感情を味わいながらも、
人ごとのようにそれを眺めながら、
ただここにいよう。
それこそが難しいことだから、そうあろう。

そうしたら、次が必ず、来る。
それだけはわかる。

気持ちは重く沈み、苦しいのに、
なぜか光を感じる。


2010年01月06日(水) 日記のお着替え

日記の色を変えた。

うーん、見慣れない。

でも、あのオレンジ、そろそろ卒業したかった。
あの色は、SunGoddessでヒプノセラピーをしていた頃のイメージカラー。
あれはあれで好きだったけど、なんか、変えたかった。
少し前から違和感を感じ始めていた。

しかし、変えたはいいが、なんか違う、落ち着かない;
読んでる人も落ち着かないんじゃないだろうか…
あああ、自分がいちばん落ち着かない!(笑)

あれこれやってみて、これってのになるまでは、
コロコロ変わったりするだろな。
明日とあさってはお休み。
時間見てまたいじろうっと。

落ち着かず人の家から立ち去るように、
今日の日記をクローズ(笑)



追 記:クローズした後も結局納得いかずずっといじっている。
    背景も作って入れてみたりして。
    フォントも色をあれこれ変えてみたりして。
    うーん、悩む、悩むー。


追記2:まだいじっている。
    背景画像の色を変えてみた。
    それに合わせてまたフォントの色も変更。
    なんかこれに決定かも♪


2010年01月05日(火) これ以上でも、これ以下でもない

「これ以上でも、これ以下でもない」

よくabuが口にする言葉。
特に最近、その言葉が自分にとって意味深いものになっている。

私はいつも特別な存在になりたいと思っていた。
人とは違う何かを持った存在に。

人とは違う特別な存在になりたいという欲求は、
つまり、そうなることにより、
自分が抜きん出た素晴らしい存在であるということを実感したい、
そんな思いのあらわれなのかもしれない。

それは、よりよい自分になりたい、成長したい、
そんな気持ちとはちょっと質が違って、
今の自分じゃダメ、今の自分じゃ価値がない、
そんな痛みが根源にあり、
そのヒリヒリした痛みを埋めようと、
別の何かにならなければならないという強迫観念のような、
気持ちなんじゃないかと思う。

私は常にそんな思いを持っていたように思う。

今も持ってないと言うと嘘になる。
昔よりは減ってきたけど、
自分で自分が受け入れられていない部分では、
そういう気持ちが顔を出す。

たとえば、写真やってて、誰かのすごい作品を見ると、
自分はダメなんだ、こんな才能ないんだ、
この人みたいな作品を生み出せなきゃダメなんだ、
そんなふうに思うことがある。

そして、落ち込む(笑)

先日日記に書いたけれど、
オープンポートフォリオレビューに写真を出展し、
人から自分の作品を評価される場に出ることになった今、
特にそういう反応をしてしまう。
やっぱり私が出る幕じゃない、
会場の中で私がいちばんダメなんだ、
こきおろされて泣いて帰ってくるんだ、
なんて考えて、悲しい気持ちになることがある。

そして、当日のために用意した名刺には、
とうとう「写真家」という肩書きを入れることができなかった。
そんな肩書き入れたら、
こいつ、こんな写真で写真家だなんて、と嘲笑される、
そんなことを考えて、こわくなったのだった。

けれど、ベランダでタバコを吸っていて、ふと、思った。

「私は自分が何様だと思ってたんだろう」

と。
おかしくなった。

仮に、ひどく批判されて、こきおろされたとして、
それが何だっていうんだろう。
だって、私は、今の私にできることを精一杯やって、
それを持って行くんだもの、
その写真は、今の私が生み出した作品で、今の時点で最高のもの。

それなのに、いい評価をもらおうなんて、
自分が何様だと思ってたんだろう、そう思った。
写真歴も短いまだまだの人なのに。

今の自分がどういう立ち位置にいるのか、
写真の世界ではどう評価されるのか、
それを知るために出展するはずだったのに、
いつの間にか、認められ賛辞を受け取ることばかり求めるようになり、
結果、いいものを出さなきゃ、すごいのを出さなきゃ、
そんなことばかり考えるようになった。

でも、違うよなぁ。
今の私を試しに行くんだもの。
何ビビってたんだろう。
自分をでかく見せようとしてたからこわかったんだ、私。

そして、abuの言葉を思い出したのだった。

「これ以上でも、これ以下でもない」

そう、そうなのだ。
私は、私以上でも、私以下でもない。
私はただの私、今の私。
それでいいんだ、そう思った。
そんな私に与えられるものが、すべてなのだ、と。
そして、それをただ受け取って帰ってくればいいのだ。
今の自分ができる精一杯のことを心を込めてすればそれでよくて、
たとえ自分の作品が未熟でダメ出しを喰らっても、
それが、今の自分なんだ、そこからまた前に進めばいいや、そう思った。

そうしたら、スーッと楽になった。

堂々と行ってこよう、今の私で。
すごい人が来るだろう。
でも、その横で、自分でいよう。

このことは、今回のポートフォリオレビューだけじゃなく、
人生のすべてに言える。

特別な何かになる必要はないんだ。
足りないかもしれない、未熟かもしれない、
けれど、そんな自分が今の自分、
でこぼこでも一生懸命生きてきた自分、
それでいい。

それでいいという、その場所に辿り着いて初めて、
特別な何かになろうとしなくても、
その先のもっと素晴らしい自分になれるに違いない。
さらに高みを目指し、成長していけるに違いない。

それは、これまでも、本や誰かの話で知っていたこと。
でも、体験を通して、今、それを強く感じている。

郵便局に通いつつ、空いた時間で、精一杯のことをしよう。
あさってにはプリントも仕上がってくる。
数日後には作ったブックも届くだろう。
作品が手元に来るのだ。
へなちょこ集大成だ。
それでも私にとっては宝物。
それを持って行こう。

そして、引いたOSHO禅タロット
こんなカードが。
それでいいんだよ、天使にそんな後押しをしてもらった気がした。


*****


75. 普通であること

解説:

自然のなかを歩くこの人物は、
生の単純な普通のものごとのなかに
美を見いだすことができることを私たちに示しています。
私たちは、自分たちが生きているこの美しい世界を
あまりにも簡単に当然のことと受けとめてしまいます。
家を掃除する、庭仕事をする、食事をつくる、
もっとも世俗的な作業であっても、
自分が全面的にかかわり、愛をもって、
認められたり報酬を得たりすることなど考えずに、
ただそのためにだけ行なうと、それは神聖な質を帯びてきます。
出会う状況に対する、この簡潔で自然でごく普通のアプローチのほうが、
立派で賢くあろう、さもなければ特別であろうとする自分の側での
どんな試みよりもはるかによい結果をもたらす、
そういう時にあなたはいま臨んでいます。
新奇なものを発明して評判を取ったり、
ユニークなスター性で友人や仲間を感嘆させるといったことは、
すべて忘れましょう。
あなたがいま差し出さなければならない特別な贈りものは、
ものごとを簡単に、単純に、一度に一歩ずつ受けとめることで、
もっともよい形で贈られます。


*****


しかしだなぁ、いつも思うんだけど、
OSHO禅タロットひくと、ドンピシャなのが出るんだよなぁ。
笑っちゃうほど。
偶然はありませぬなぁ。

そして、

「これ以上でも、これ以下でもない」

それが口グセのabuはすごいなーと思うのだった。

ちなみに、abuが私のことをすごいと思うのは、
朝、携帯のアラームで一発で起きることなんだそうだ。
どんなに夜更かししても寝坊せずに起きることが、
すごいと思うんだとか。

そかー、すごいのかー(笑)


2010年01月04日(月) いつも順当なプロセスの中に

私達に起こる出来事は、
すべてが「結果」ではなく「経過(プロセス)」だ。

万事塞翁が馬の言葉通り、
その瞬間の出来事は、
その瞬間自分が感じる通りの意味を持つとは限らない。
その瞬間を通して、どこかへとつながる「経過」に過ぎない。

人生を長いスパンで眺めてみると、それがよくわかると思う。
あの時いいと思ったのにこんな結果になってしまった、
あの時あんなつらいことがあったから今の自分がいる、
そんな体験はよくあることだと思う。

何がいいとか悪いとか、そういう定義はなく、
ただ体験が存在しているという事実がそこにあるのだと思う。
そして、その中に魂の成長があるのだろう。

そういう意味で、
この年末年始に一気に吹き出した私の痛い感情は、
どこかからどこかへ行くための「経過」だったのだと感じる。

今までもあったよなぁ。
変化の前って、いらないもの出しちゃいましょうキャンペーンが。
新しい局面に向かう前に、不必要になった古いものが、
自分からはがれ落ちていく体験が。
今回の私の体験もそういうものだったんじゃないかと思う。
これまで幾度となくあったもん、そういうの。
その度に痛いのよ〜〜〜(笑)
まるで陣痛だね、何かが生まれる兆しみたいで。

そんなことを考えながら、いつものOSHO禅タロットを引いてみた。
そうしたら、こんなカードが出た。

納得。
そっか、やっぱりこれでいいんだよな、って。
古い傷を癒して(1枚目)、
痛みや苦しみさえも人生の側面であり、
それらさえすべてそこにあってこそ完全であることを受け入れて(2枚目)、
そして、自分が怯えながらもした選択に沿って進めばいい、
たとえ、それが、何の保証もなく、感情も現実の生活も、
どうなるかさえわからない中に飛び込もうとしていることでも、
それが、どんなに恐ろしく思えて、怯えていようとも(3枚目)。

長くならないように解説の方だけ転載。



*****


27. ヒーリング

解説:

深く埋もれた過去の傷が表面に現われてきている時です。
癒される用意を整えて、その場にいましょう。
このカードの人物は裸で傷つきやすく、
<存在>の愛にあふれたタッチに開いています。
からだのまわりのオーラは光に満ち、まわりを包むくつろぎ、
心づかい、そして愛の質が、彼の闘いと苦しみを溶かしさっています。
肉体と微細なエネルギー体、私たちひとりひとりを取り巻いていると、
癒し手(ヒーラー)たちが言うその微細なエネルギー体のまわりには、
光の蓮(ロータス)が現われています。
この微細な層のそれぞれにヒーリング・クリスタルや
ヒーリング・パターンが現われています。

「水のキング」のヒーリングを受けていると、
私たちはもはや自分からも他人からも逃げ隠れしません。
開き、そして受け容れているというこの態度があれば、
私たちは癒されますし、
ほかの人たちも健康で全一であるように助けることができます。


*****


12. 新しいビジョン

解説:

このカードの人物は、新たに生まれようとしています。
地に閉ざされた自分の根から起き上がり、
閉ざされることのないものへと飛び立つ翼が生えています。
からだのまわりにある幾何学的形は、
彼の手に同時に入る生の多くの次元を示しています。
正方形は肉体的なもの、現われているもの、知られているものを表わします。
円は、現われていないもの、スピリット、純粋なスペースを表わします。
そして三角形は、三部からなる宇宙の本性、
現われているもの、現われていないもの、
そしてその両方を含んでいる人間を象徴しています。

今、あなたは、生をその深みから高みまで、
すべての次元にわたって見る機会を与えられています。
それらはともに存在し、
闇と困難なことは光と楽なことと同じくらい必要なのだ、
ということが体験からわかるようになったとき、
世界を見る私たちの視野はまったく違ってきます。
生のすべての色を私たち自身に浸透させることで、
私たちはさらに統合されます。


*****


16. 稲妻

解説:

このカードは、燃やされ、壊され、粉々に吹き飛ばされた塔を示しています。
塔から男性と女性が飛び降りていますが、
彼らはそうしたいから飛び降りているのではなく、
ほかにどうしようもないからです。
その背後の透明な、瞑想している人物は、
醒めて見ている意識を表わしています。

あなたはまさに今、まるで大地が足元で揺れ動いているかのように、
とても動揺しているに違いありません。
安全というあなたの感覚が挑戦を受け、
しがみつけるものならなんにでもしがみつこうという気になるのも無理はありません。
しかし、この内なる地震は必要で、また、とても重要です。
もしそれを許したら、あなたは残骸から立ち現われ、
もっと強くなり、もっと新しい体験をすることができるようになります。
大火の後、大地は再び豊かになり、嵐の後、空気は澄みわたります。
その破壊を、まるで誰か別の人に起こっていることでもあるかのように、
超然として見守ろうとしてみましょう。
それを途中まで出迎え、そのプロセスに「イエス」と言いましょう。


*****


いつもお世話になってますー、OSHO禅タロット
あー、腹座った(笑)

いつも順当なプロセスの中にいるんだなぁ。
苦しい時でさえも。
私だけじゃない。
誰もがみんな。


2010年01月03日(日) あなたへのお手紙

この年末年始は風邪でダウンしてさんざんだった。
29日に早退して30日まで寝込み、
無理して大晦日と元旦仕事したら、
帰ったその日にぶり返してまた高熱出して、
うんうんうなって寝てたら2連休が終わってしまった。
とほほ…

そして明日も郵便局 。゚(゚´Д`゚)゚。
もう少しでさ。
自分に言って聞かせる。

そして、風邪でうなりながら、
自分の奥の方にある感情や想念と向かい合う日々でもあった。

自己評価の低さ、いや、もう低さなんてレベルじゃなく、
自分の存在の全否定とか。

全否定してるクセに、
受け入れてもらえないと絶対にイヤだという、
狂ったような激しい怒りとか。

そんな矛盾した、でも奥底で痛みを介してつながっている自分の想いを、
イヤって言うほど味わったのだった。
あらゆる出来事を通して。
ほんの些細なことまでもが、私にそれを味わうことを強いた。

また、アンナへの怒りを通して罰し続ける自分を見た。

存在していることが苦痛だった。

私は奪った。
強要して奪って奪って奪った。
奪えないと激しく攻撃した。
やさしさとか、愛とか、それと感じられるものを。
家族を苦しめた数日だっただろう。

自分のダメなことばかりが浮かんできた。
いや、いい部分だってあるはずだ、そう思って考えても、
ひとつだって出てきやしない。
自分がこの世界で何の役にも立っていなくて、
なんの才能もなくて、
消えてしまったって別にどうってことない存在にしか思えなかった。

そんな想いに押しつぶされそうになりながら、
隅っこの方で、小さな小さな、静かで穏やかな自分が思っていた。
ああ、これは私がずっと小さい頃から持ち続けてきた想いなんだなって。
この想いに苦しみ続けてきたんだなって。
そして、こんな痛みのさなかにそれを理解していられて、
それに完全に乗っ取られることなくいられるだけ、
私は昔より成長したんだなって。

私には何ができるのだろうと、
昼も夜も続いているような眠りの中で考えた。
でも、自分を責め続ける気持ちばかりが後から後から湧いてきて、
何もできる気がしない。

そんな時、ふと、中島先生の言葉を思い出した。
セラピーやワークショップで、事ある度に教えられたことだった。

「自分が苦しい時ほど人に与えてください」

そして、私は、元気になったら、
おひさまの日記でメッセージを発信しようと思った。
同じ痛みを持った人に向けて。
何もできないけど、それだけはできる、そう思った。
思ったの。

今、もし苦しんでいる人がいたら、私は言いたい。

今、あなたのしていることが、
正しいとか正しくないとか、そういうことはどうでもいい。
正しさは人を救わない。
もしあなたの言葉や行為が醜いものであったとしても、
それがあなたの奥の方でじゅくじゅくと痛む心の叫びだと、
私は知っています。

こんな童話があります。

昔、美しい姫がいました。
魔法使いに魔法をかけられて、
昼間は姫の姿ですが、夜になるとガマガエルになってしまうのです。
そして、美しい姿でいる時は醜い心を与えられました。
醜い姿でいる時は美しい心を与えられました。

姫は、美しい姿でいる昼の間、
人を傷つけ、痛めつけ、苦しめることばかりしました。
夜、ガマガエルになると、昼間の自分を悔いて泣きました。
みんなを愛したいのに、大切にしたいのに、
それに反することばかりする自分を嘆いて苦しみました。

それでも、朝になるとまた意地悪な姫に戻り、人を傷つけ続けました。
そして、夜になると自らを悔いて責めて涙するガマガエルになるのです。
それをずっと繰り返していました。

私が覚えているのはここまで。
うんと小さい頃にテレビで見たお話なので、最後は覚えていません。

ただ、この童話を今になってよく思い出すのです。
思い出して感じるのです。
このお話は、私達の心の中そのものだと。
葛藤する私達の心そのものだと。

人によって違いこそあれ、心の中に必ず葛藤が存在します。
相反するふたつの想いがぶつかり合います。
時にはどちらかの方が強くて、もう片方がないように感じることもあります。
けれど、どちらも私達の中に存在しています。
どちらも同じ痛みから生まれた想いです。

私はこう思います。
痛みには色々あるけれど、
本当に生きているに値しないと感じるほど苦しいのは、
自分に価値を見出せない時だと。
自分で自分の存在をかき消してしまいたくなるのです。
少なくとも私はそうです。

夜になると涙を流したガマガエルの姿の姫のように、
私達は心を痛めるのです。

私達の根源は愛です。
私達の魂の本当の願いは愛することです。
それができない時、
存在していることに耐えられないほどの痛みを感じます。

自分に価値を見出せないのは、
それは、じゅうぶんな愛を受け取ってこられなかったひとつの傷跡です。
もしくは、与えられた愛がいびつで、愛とは受け取れなかった傷跡です。
愛を心の泉いっぱいに受け取れなかったので、
その泉はあふれることなく、いや、枯れ果てたような状態で、
人に泉の水を分け与えることなどできませんでした。
それは人を上手に愛せないという形にもなってしまいました。
大切な人を大切にできない、守りたい人を傷つけてしまう、
そんな望まない形になってしまいました。
だから、苦しいのです。

なぜなら、私達は愛そのものだから。
愛のままでいられなくて苦しいのです。
愛したいのに、愛せるだけの力を育ててこられなかったのです。
つらい、悲しいことが、いっぱい、いっぱいあったから。
その痛みを受け止めてくれる人がいなかったから。

自分に価値を見出せなくて自分を責めて、
自分を受け入れてくれないと感じる周りを責めて、
愛したい自分も、愛したいすべても、愛することができず、
私達は本当に苦しいのです。

なぜ苦しいのか。
それは、本当はわかっているからです。
愛したいのだと。
表面の意識では気づかないかもしれませんが、
本当はわかっているのです、無意識の大切な部分で。
愛したい、大切にしたい、と。
だから、苦しいのです。

あまりに苦し過ぎると、それさえもわからなくなってしまいます。
わからなくても仕方ないのです。
それほどあなたは苦しいのだから。
さびしくて、悲しくて、つらくて、痛くて、ちぎれそうなのだから。

でも、私は伝えたい。
あなたは素晴らしい。
痛みをたくさん持っているあなた、
つらかったでしょう、苦しかったでしょう、
自暴自棄になることもあったでしょうし、
人を傷つけることもあったでしょう、
それがかけがえのない存在であればあるほど、
自分自身をも深く傷つけたでしょう。
本当に本当に苦しかったでしょう。
それでも、あなたは素晴らしい。
あなたが愛だから、あなたは苦しむのです。

あの童話の姫のように。

あなたが存在していることで、救われる誰かが必ずいます。
あなたが存在していることで、成り立つ何かが必ずあります。
あなたにしかできないことがあります。
それがたとえどんな小さなことでも、
その小さなことがなければこの世界は成り立たないのです。
あなたはこの世界で唯一無二の存在です。

今は自分に何の輝きも見出せないかもしれません。
それでも私は言い続けます。
あなたは素晴らしい。
あなたは美しい。
あなたがいなくてはこの世界は成立しない。

生まれてきてくれてありがとう。
本当にありがとう。

これは、私からあなたへのお手紙です。

人によっては、
は?何ヘンなこと言ってんの?
と思う内容かもしれません。
けれど、もし、たったひとりでも、
このメッセージが必要な人がいて、
その人の心に届いたら、私はとてもうれしいです。

そして、私はこのメッセージを、
自分にも贈ろうと思います。

2010年があなたにとって素晴らしい年になりますように。
心から、心から、そう祈っています。


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今日も読んでくれてありがと♪すごくうれしい!
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