おひさまの日記
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2009年10月31日(土) 負けないぞ

大切な子供に笑顔を見せられるママになるためにも、
まず自分がハッピーになりたい。
今は心が疲れちゃってアンナになかなか笑顔を見せられない。
きっと彼女も心もとないだろう。

今日も彼女に言った。

「ごめんね、ママ全然笑わないし、黙ってるけど、
 怒ってるとか、機嫌悪いとかじゃないんだ。
 郵便局で疲れちゃってぐったりしちゃって、こうなの。
 自分のせいかな、とか気にしないでね」

って。

「わかってるよ」

そう言って笑ったアンナのためにも、
心から笑って過ごせる日、迎えたい、早く。

天使さん、こんな状態から抜け出す糸口、ください。
導いてください。
今の状態、私が本当に身を置きたい状態じゃないよ。

でも、それが目の前にあるってことは、
私の深い部分の何かがそうしてるってこと。
それを溶かして本当に進みたい方に進んでいくにはどうしたらいい?
そもそも、進んでいきたい方向を見つけるにはどうしたらいい?

あしたのジョー風に聞いてみたい気分。

「明日はどっちだ」

でもね、

「落ち込むこともあるけれど、私は元気です」

魔女の宅急便調で(笑)

まだまだいけるはず。
だって、ごはんがおいしいもん。

負けないぞ。


2009年10月29日(木) いさぎよさ

今日から年賀状の販売も始まり、
郵便局もいよいよ繁忙期に突入、という感じだろうか。

ある社員さんにわからない仕事を教わろうと声をかけた時のこと。
その人はこう言った。

「これから忙しくなると、
 俺おかしくなる(イライラしてイヤな態度を取る)と思うんで、
 その時はごめんなさい」

その人は、忙しくなると、ピリピリして、機嫌が悪くなって、
声をかけても返事しなかったり、すごくイヤそうな顔をしたり、
あからさまに不機嫌な態度を取るので、
その辺、どうしても気を使ってしまう人。

けれど、そう言われた時、
この人自分のことがよくわかってるんだ、と思った。
そして、それがいけないということも。
けれど、忙しいとどうしてもそうなってしまうので、
それを、ごめんなさい、って。
色々な自分を受け入れているからこそ言えるんだなぁ、と。

そう言われて、なんか、すごくスッキリした。
これからその人がピリピリして不機嫌でイヤな態度を取っても、
今までのようには気にならないだろうと思った。
いい意味で、ああ、ハイハイ、って流せるだろうと思った。

気持ちいいなぁ。
私も自分のことそういうふうに言えたらいいと思った。
そして、そういうふうに言えることによって、
私も人に与える不快感を減らしていけたらいいな、って。

こんな自分だけど、ごめん、許してね!
みたいな、いさぎよさ、持ちたいな。


2009年10月27日(火) お母さん11歳

私はお母さん11歳だ。

アンナが生まれてから11年とちょっと、
アンナと過ごした時間と同じだけお母さんだ。

11歳って言えば、小学5年生。
私はお母さん年齢で言えばそんなもんだ。

5年生だった自分を思い出すと、
笑えるくらい未熟で、でも、一生懸命だった。

きっと今のお母さん11歳の私も、そうに違いない。
笑えるくらい未熟で、でも、一生懸命。

ちょっとばかり感情的になってしまい、
色々イヤないい方しちゃった今日の夜、
ベッドに入ったアンナに言った。

「ママね、まだ上手にお母さんできないの。
 だからアンナをつらくさせちゃうこともあるんだ。
 ごめんね。
 でも、上手にお母さんできるように頑張るよ」

って。
アンナは笑っていた。

「ママはアンナが大好きだよ」

「アンナもママが大好きだよ」

「こんな怒ってばかりのこわいお母さんが好きなんてへんだね」

「うん、アンナへんだから」

「さすがへんなママの子だけあるね」

そんな会話をしてお互いくすっと笑った。
そして、手を振って彼女の部屋のドアをパタンと閉めた。

いつでも一緒、どんな時も私の後を追って、
トイレにまでついてきていた小さな女の子はもういない。
眠る時もひとり別の部屋。
自分の意志で自分のしたいことをするおねえちゃんになった。
親とも距離ができた。
もう友達といる方が楽しいらしい。

立派になったね。
成長したね。
さびしいけど素敵だと認めるよ。

ねぇ、アンナ、
ママは少しでもあなたの心に何かあったかいものを残せているかしら?
あなたが大人になった時、思い出して心の支えになるようなものを。
傷つけるだけでなく、時にはうまく愛せているかしら?

お母さん11歳のママは、
これからもアンナと一緒に成長していくよ。


2009年10月26日(月) 贈り物

これは、私が受け取った贈り物の話。

ゆう窓での出来事。

ドガン!!!と鈍い音を立ててカウンターを叩いた人がいた。
そして、まるで映画みたいに巻き舌で叫んだ。

「オンドリャァァァッ!!!
 何度も同じこと言わせんじゃねぇ!!!
 ふざけんな、ゴルァァァッ!!!
 出せっちゅーとんじゃぁぁぁっ!!!」

ものすごい形相でこちらを睨みつける。

こわくて膝がガクガクして足に力が入らなくなり、
立っているのがやっとだった。

さんざん怒鳴って暴れて、ようやく最後に思い通りになると、

「最初からこうすりゃぁ(言うことを聞けば)いいんだよ」

鼻で笑いながらそう言って去っていった。

付け足すと、そこで起こった出来事は、
詳しくは書かないけれど、
本来であれば、怒鳴られるようなことではなかった。
決して。
その人の言い分が理不尽だった。

招かれざる客が帰った後、パタン、と窓口を閉めて、
私はへなへなと崩れ落ちるように椅子に座った。

足は震え、心臓の鼓動はずっと早いまま。
体の奥の方から異常で不快な感覚がこみ上げてくる。
泣いていないのに涙がにじんできて、目の端にたまるのがわかった。
体中がガクガクぶわぶわして頭が真っ白、地に足がついていない。
錯乱している自分がわかる。

言葉にならない恐ろしい感覚に飲み込まれそうだった。

その時だった。
娘の顔がふっと浮かんだ。

あ…

この感覚はあの子の感覚、ふと、そう思った。
私もあの子をこんな目にあわせることがあるんだ、と。

すると、今度はさっきとは違う涙がこみ上げてきた。

こわかったね、アンナ、
体中がすくんで、頭が真っ白になって、
こわくてねじれそうだったね、
ママ、今わかったよ、ごめんね、ごめんね、
こんなつらい思いさせてたんだね、
どれほど恐ろしかっただろう、どれほど苦しかっただろう、
本当にごめんね…

小さな心と体で一生懸命に生きる我が子が、
こんな思いをしていたことを改めて深く知った時、
私は自分がかつてしていたことがどんなことであるかを思い知った。

仕事中なのに、泣けて泣けて仕方なかった。
ごめんね、ごめんね、アンナ…
そばにいたら今すぐ抱きしめたかった。

そして気づいた。
あのお客様は私に大切なことを知らせに来た天の使いだったと。
彼は、私が娘にしたことを、そのまま見せてくれたのだ。

あのお客様の怒りは私の怒り。
それは大切な気づき、大きな贈り物だった。

ホ・オポノポノでも言うように、自分の体験は自分の責任。
自分の心の奥深くにある痛みの記憶が引き寄せる出来事。
私は、人に理不尽な怒りをぶつけられる体験を引き寄せるような
痛みの記憶を持っている。
そして、そんな心の傷を大切な娘に投影し、
自分の姿を彼女に見て、今度は彼女を責める。
自分を責めるように、娘を責める。
裁いて罰する。

アンナは私のインナーチャイルドそのもの。
アンナは私、私そのもの。
彼女に怒りをぶつける時、私は自分を裁いて罰して責めている。
許せない自分の姿をアンナに投影し、
私を映した彼女を果てしなく否定しねじ伏せようとする。

それは、私が自分を否定し続けることに他ならない。

心から思った。
自分を受け入れたい。
自分を許したい。
自分を愛したい。
そして、それによって自分の大切な人達を心から大切にしたい、と。
家族を、友達を、周りにいる人達を。

ゆう窓の出来事は、
あのお客様もまた、幼い日、つらく恐ろしい体験をして、
心に深い痛手を負っていることを示している。

すべての人の心はひとつ。
同じ痛みを持ったもの同士が、
それぞれの姿を映し合い、見せ合う。
それに気づく時、終わりなき理不尽な世界に見えたこの世が、
別のものに変わる。

仕事を終えた帰り道、私はあのお客様に心の中で伝えた。

「今日はありがとうございました。
 怒鳴られたのはすごくイヤだったけれど、
 おかげで大切なことに気づくことができました。
 あなたの心の痛みも癒されますように」

もう二度とあんな思いはしたくないけれど、
それほどイヤな、ううん、イヤなんてもんじゃない、
舌筆に尽くし難いほどの苦痛を伴った体験だったけど、
それでも、今回体験したあの出来事は、
私にとって必要で大切な出来事だった。

お客様に心の中でそう伝えられた時、
彼への恐怖も怒りもやわらいでいった。
心地よかった。

人生には、頭でわかっていること、つまり「知識」が、
体験を伴って「知恵」へと昇華する瞬間が幾度となくある。

その瞬間、テコでも動かなかった人生の何かが、
突然、スーッと動き出すことがある。
魂の部分で理屈抜きに何かを感じ受け止め、何かが変わった瞬間なのだろう。

お客様の怒りは私の怒り。
私の自分自身への怒り。

私は自分をまだ許せていないみたい。
私は自分をまだ責めているみたい。
自分を罰し続けて追い詰めているみたい。

もう、そんなことから卒業したい。
本当に卒業したい。

私が郵便局にいるのは、
郵便局であまりに理不尽な体験ばかりするのは、
自分の中にあってそんなものを引き寄せてゆく痛みを、
手放すためのものなのかもしれない。
自分の中にあってまだ気づいていない自分への怒りや嫌悪を。

郵便局での色々な体験から、
それに気づいて、やさしくやわらかく包んで、神様の元へ返す時、
私は本当の意味で郵便局を卒業できるのかもしれない。

そして、そこからまた新しい道が伸びていくような、そんな気がした。

すべては贈り物。
その贈り物に目を向ける時、突然目の前が開けて、
世界が違って見えることが、
そして、世界が別のものになってゆくことが、わかってきたんだ。

贈り物は、時に、贈り物に見えない。
贈り物どころか、罰だの不運だの、そんなものに見えることがある。
でも、よぉく感じてみると、贈り物でないものなんて、
この世界にないのかもしれない。

受け取ろう、贈り物。
どんなに心が痛んでも、痛みを感じたその後、
差し出されたもののすべての中にあるそれを、
見つけようとする心があれば、必ず受け取れる。


2009年10月24日(土) きらきらしいたけ

abuのお父さんからしいたけが送られてきた。

段ボール箱ふたつに入っていたしいたけは、
ダイニングテーブルに出してみると、
テーブル一面がしいたけになってしまうほど、
たくさん、たくさん、あった。

そんなたくさんのしいたけ、見たことがなくて、
きゃっきゃとはしゃぎたくなるほどだった。

みずみずしくて、傘も開き切っておらず、新鮮なのがわかる。
スーパーで見るくたびれたしいたけだって結構するのに、
こんなの買ったら一体いくらくらいするんだよ!?
って思うほど、立派なしいたけだった。

そのしいたけは、お父さんが山で作ったしいたけ。
朝早く起きて、山で穫ってきたしいたけを、
段ボール箱に詰めて送ってくれたそうだ。

abuのお父さんが、仕事前に早起きしてしいたけを穫って、
ひとりもくもくと段ボール箱に詰めている姿が浮かんだ。
遠くに移り住んだ息子と、1度しか会ってない嫁と孫のために、
しいたけに込めたその気持ちを思う時、
切なくてあったかいものが胸にこみあげる。

少なからず、親子って色々ある。
私と親もある。
abuと親もあるだろう。
でも、やっぱり親子。

私達は、新鮮なしいたけを網で塩焼きにして食べた。
新鮮だからこそできるシンプルな食べ方、生焼き、なんて贅沢。
腕を振るったのはabu。
アンナにはツナマヨを乗せて焼いたスペシャルバージョン。
3人でたくさんのしいたけをあっと言う間にたいらげた。
おいしかった!
本当に、本当に、おいしかった!

しいたけもおいしかったけど、
お父さんの気持ちがなによりのごちそうだった。

たくさんの葛藤の中で、時には傷つけ合ったこともあるだろう、親子だから。
けれど、届いたしいたけには、
お父さんのabuへの精一杯の思いが詰まっていた。
遠く離れて息子を思う父親の言葉にならないあったかい気持ちが。

受け取ったのはただのしいたけじゃない。
愛がいっぱい、
言葉にならない愛がいっぱい、
大切な、大切な、きらきらしいたけだった。


2009年10月22日(木) 仕方ないよなぁ

人って自分がいい状態じゃないと、
人にもやさしく親切にできないもんだ。

イライラしてたり、ストレスがたまってたり、つらいことばっかりだと、
笑顔にもなれないし、心のゆとりもないし、やる気も失せる。
それどころか、当たり散らしたくなる。

今、私、まさにその状態。

郵便局に入ったばっかりの頃、
お客様にていねいに接しよう、気持ちよく帰ってもらおうって、
本気で思ってた。

でも、今は、ゆうゆう窓口のピンポンが鳴ると、
チッ、うるせーな、来るんじゃねーよ、と思う。
仕事してても、態度が昔よりも機械的になってる。

そして、そんなふうでいながらも、そんな自分をどこかで責めていた。
こんなんじゃいけない、もっとちゃんとやらなきゃ、って。

だから、すごく苦しかった。

もうイヤだ、逃げ出したい、苦しい、限界、
そう感じて壊れそうな自分と、
ちゃんとやろう、お客様を大切にしよう、
そう感じて頑張ろうとする自分が、
常に葛藤していた。

だって、今月に入ってから、ひどいのさ。

私は早番担当で、今まで同じ早番担当の人とふたりでこなしていた仕事を、
ひとりでやらなければならない日がメッチャ増えたのだ。
ま、理由はもうひとりの人が扶養範囲内の収入を希望しているので、
それを越えないようにするために労働時間の調整で休んでるから。
仕方ないっちゃ仕方ない。

いつもは窓口なら窓口だけをやる。
でも、そうなった今、窓口をやりながら、
もうひとりの人がしている代金引き換え払いの伝票作成の事務と、
後納郵便物の入力のチェックのふたつを、同時進行でやるのだ。

もう、ムリ。
体ひとつしかないから。

もちろん、サポートしてくれる人はいる。

窓口の隣の特殊郵便物を扱う特殊って呼ばれるところの人達は、
私が事務仕事やってる間、可能な限り代わりに窓口に出てくれるし、
郵便課の社員さんも事務を手伝ってくれたり、
特殊の人が休憩に行ってしまった時は、窓口に出てくれる。
彼等にも相当な負担がかかっているだろう。

午後に入る同じ窓口の人が、
窓口の終わらない仕事を後からカバーしてくれているし、
ひとりじゃ終わるわけないんだから午後に回していいんだよって言ってくれる。
彼女達も普段以上の仕事を抱え込むことになってしまっている。

本当にありがたいし、本当に申し訳ない。
大変なのは私だけじゃない。

そんな人達がいて助けてくれることが救いなんだけど、
それでも、午前中のバタバタしたあの状態は、精神的にかなり来る。
私がへなちょこだからかもしれないけど、耐え難いものがある。

仮に、他の人ができて、他の人が耐えられたとしても、
私にとってムリで苦痛なら、それはそれでいいじゃないかと、
最近思うようになった、と言うか、思うようにした。
でないと、自分を責めてしまう。

そんな中で自分の精神状態が日々おかしくなっているのがわかる。
追い詰められる感じ。

そして、ふと、思ったのだ。
仕方ないよなぁ、って。
こんな状態じゃ、ぎすぎすしても、とげとげしても、仕方ないよなぁ、って。
だって、もう、壊れそうだもん。
毎日ブチッとキレそうだもん。
危険な精神状態だ。
仕方ないよなぁ、私、つらいんだもん。
そう思ったのだ。

そしたら、なんか、すごく楽になった。
自分の「苦しいよーっ」っていう叫びを受け入れてあげたら、
気持ちが楽になったのだ。
苦しいのに苦しいからこそおかしくなっていく自分を否定していたので、
どこかで苦しい気持ごと否定してしまっていたのだろう。

もちろん、状況は変わらないので、ストレスフルでキツいのは前と一緒。
でも、今すっごくつらいんじゃん、限界じゃん、って認めたら、
つらい中にいるんだけど、なんかほっとした。

自分で自分を受け入れた瞬間だった。
私は自分というたったひとりの味方にさえ見放されていたのだった。

自分のつらさを受け入れたら、面白いことが心の中で起こった。

今まで、すっごい態度されたり、イヤミ言われたり、怒鳴られたりして、
あぁんだコノヤロー!!!って思ってた色々なお客様をふと思い出し、
ああ、みんな色々つらいこといっぱいなんだな、
だから、あんなふうにイヤな人になっちゃうんだな、って思えた。
思い出すだけではらわたが煮えくり返って、
それまで絶対に許せねぇ!!!と思っていた出来事も、
仕方ないよなぁ、苦しいんだもん、ああなっちゃうんだよね、って、思えた。

自分を受け入れると人を受け入れられるってよく言うけど、
こういうことなんだよね。

人は自分のある部分を否定すると、人の中に同じ部分を見た時、許せなくなる。
なぜなら、自分が自分にそれを許していないから。
そうあることを自分に許していないと、人がそうあることも許せない。
絶対に許せない。

あんなに憎く腹立たしく思った数々のお客様を、

「ま、いっか、あの人達も仕方ないよなぁ、
 いいことなくて、イヤなことばかりで、思い通りにいかなくて、
 苦しくてああなっちゃうんだよねぇ」

そう思えた時、私は自分にも同じ言葉をかけることができていた。

「ま、いっか、私も仕方ないよなぁ、
 いいことなくて、イヤなことばかりで、思い通りにいかなくて、
 苦しくてこうなっちゃうんだよねぇ」

って。

あったかい気持ちになった。

現状としては何ひとつ変わりない中にいるけれど、
何かの鎖がひとつ、カチャ、っと外れた気がした。

また、ひとつ、大切なこと、思い出した。
言葉で学んで知識にしてきたものを、
体験によって知恵にすることができた。
繰り返し、繰り返し、この作業をするのが人生なのかもしれない。

やっぱり捨てたもんじゃないわ、人生、そう思った。

でも。

イヤです、今の郵便局での仕事の状況。
しんどい、キツい、つらい、精神的におかしくなる。
それが正直なところ。

そんな自分の本当の気持ち大切にしながら、
毎日を精一杯、今の自分のままで過ごしていこう。
そこで感じることが私を未来に連れていってくれるはず。

郵便局をいつ去ろう、そんなことを考えていた。
私は自分の中でその時を決めた。
1年。
1年勤めたらもう自分を解放しよう、って。
春にはその時が来る。
年末年始の郵便局は死ぬほど忙しいから、
かけずり回って気づけばもう私はその時を迎えることだろう。

もし、世界がひっくり返って、気が変わって、
その時もまだ郵便局にいたければ、いることにすればいいし。

逆に、突然限界が来たら、明日辞めるかもしれないし。

それでいいや。

「仕方ない」、時にそれは、
自分を受け入れるための素敵な言葉なのかもしれない。
人は誰にでも仕方ない時や仕方ないことがある。
あるんだ。
そんな自分もひっくるめて、全部大切な自分。
でこぼこでも仕方ないよなぁ、生きてるんだもの。
いいじゃない、それで。

自分にやさしくしよう。
自分の味方でいよう。
それがたとえどんな自分でも。

そして、それこそが、
人にもやさしくできて、人のことも受け入れられる、
そんな素敵なことが自然にできるようになるための、
大切な一歩でもあるのだから。


2009年10月20日(火) おやつ事情

体重を気にする私。
でも、食べるの大好き。
そんな私の体重が危険な時のおやつ。

 ・0キロカロリーゼリー(開発した人はダイエッターの神様だね)。
  
 ・めかぶ(一味唐辛子をかける)。

 ・しらたきそうめん風(めんつゆで食べる、一味唐辛子はやはり不可欠、キムチの素でもおいしい)。

 ・ところてん梅風味(刻んだ梅干しを乗せてぽんずをかける)。

 ・刺身こんにゃく(柚味噌で食べるのが好きだけど、わさび醤油の方が低カロリー)。

 ・黒キクラゲのチリソースがけ(地味なキクラゲがチリソースで新境地)

 ・時々、ポテトチップスとかチョコ、スナック菓子、その辺にあるもの手当たり次第(壊れた時に多い)。

私にとっては辛くするのがポイントかも。
食べたーっ!て気になる。

何食べても満足できない時のとっておきは、
ミルクにインスタントコーヒーを濃い目に入れて砂糖もたっぷりの、
あまあまカフェオレ。
濃厚なのでちょっとで満足感がある。

お菓子、ケンタのチキン、カップラーメンやカップ焼きそば(なぜかカップ麺・笑)、
本当はそんなものをいっつもごいごい食べてみたいと思うのだった。



ちなみに、我が家の人気おやつは、abuが作るカルピスホットケーキ。
生地にカルピス混ぜるの。
個人的には多めに入れるのがかなり好き。

たまたま牛乳が足りなかった時、
abuがカルピスを足したことで偶然生まれたメニューだけど、すごくおいしい!
ぜひやってみて。
最近ではおやつから朝食に昇格(笑)

今朝はカルピスホットケーキに、
スライスしたバナナがたくさんはさまってて、
さらに豪華になっていた。

夜には、さらに中身のバナナにオリゴ糖までかけてくれて、
豪華版がバージョンアップしておやつとなって登場した。



食べる時は食べて、調整する時は調整して、
おいしく、楽しく、美しく、毎日を過ごしたいものだなー。


2009年10月19日(月) そうさ、ジムに行こう!

郵便局にカッコイイ人がいる。
あ、女の人だよ(笑)

部署は違うんだけど、以前から彼女が気になっていた。
立ち姿が凛としてて、ただ細いだけじゃなく、バランスの取れたないすばでー。

おしゃべりしていた時、彼女が聞いてきた。

「ねぇ、何かで体鍛えてる?」

「2年くらい前までウエイトトレーニングやってました」

って答えると、

「やっぱりね」

と彼女は言う。
体を鍛えている人は、鍛えていた人、鍛えている人を見ると、
なんかわかるらしい。

それが彼女とまともに話をした最初だったんだけど、
彼女の年齢を知ってびっくり!
その年齢でそのないすばでー!?
ホント驚いた。
もちろん私よりいくつか年上。

郵便局に来て初めて筋トレの話で盛り上がれた。
うっ、うれしい…!!!
そういう話できる人いなかったもん;
それがすごくさびしかったんだよー。
もうあきらめてた、ここにはそういう人いないんだ、って(笑)

努力を惜しまない人はいくつになっても美しい。
私も何年か経って彼女の年齢になった時、
あんなふうでいたいなぁ、って思った。

彼女はジムに通って体を鍛えている。
隣町のジムなんだけど、おいでよ、始めようよ、って誘ってくれる。

隣町のジムでは最近レスミルズプログラムを取り入れて、
私の大好きなボディパンプのレッスンができる。
それをチラシで読んだ時、妙に興奮っ!!!
忘れてたよー、この感じ、むずむずするなー。

パンプはやればやるだけ効果出たし、何よりホント楽しかった。
いい曲ガンガンかかる中で筋トレして、汗流して、ストレスもぶっ飛ぶ。
それに、体が変わっていく快感は一度味わったらクセになる。

またやりたいなぁ。
すっごくやりたいなぁ。
日々のことで髪振り乱し、半ばあきらめてたし、忘れてもいたけど、
彼女と接点を持つことで、大好きなこと思い出せた。

そして、私は近い未来の目標に、ジムに通うという項目も追加した。
金銭的問題で通えないのが現状。
でも、だからってこれからもムリって決めず、
これから通うんだ!と決めた。

そんなワクワクすること、ひとつずつ人生の中に取り戻していこう。
毎日の中に、楽しいこと、うれしいこと、増やしていこう。

裸同然の今だけど、そんなこと考えられるのは、
私の精神状態が以前よりいい感じだということ。

心が疲れ果てて落ちてる時は、ただ嘆くことしかできなくて、
夢とか目標とか、そんなこと考える気にもなれないし、
考えると余計につらくなって、
自分からそういうものを排除してしまう。
ただ痛い場所にうずくまっていることしかできない。
希望すら見失ってる時って、人はそうなってしまうのだと思う。

またバーベル上げるんだ、近い未来。
再び目指そう、永遠の憧れマドンナ先生。
そうさ、ジムに行こう!





余談だけど。

もう長いこときちんと筋トレしてないけど、
以前しっかり鍛えていたおかげだろう、
その頃よりは衰えたものの、まだ筋力はそこそこあるらしく、
ゆうパックで持ち込まれた30キロのお米の袋を楽に持ち上げられる。
そんな時幸せを感じるのですた(*´∀`).。゚+.
お客さんは驚いてるよ(笑)


2009年10月18日(日) 天使に背中を押された日 <エンジェル・ナンバー>

私はここ数年、エンジェル・ナンバーを日々の指針にしている。
エンジェル・ナンバーとは、
数字のコンビネーションにより天使からのメッセージを受け取るもの。

自分が目にした数字が、ぞろ目、あるいは、
ふたつの数字の組み合わせの場合(2525、8118、6000等)、
それらに意味がある。
天使がそれを見た者にメッセージを送っているのだそうだ。

信じるも信じないも人それぞれ、でも、なんか楽しげでいいじゃないか。

さっきこんなメッセージを受け取った。

『一つの扉が開き始め、もうひとつの扉が閉じようとしています。
 今は自分の直感によく耳を傾けてください。
 なぜなら、この移行の時期にはあなたの直感がゆるぎない豊かさを
 確実にするためのステップへと導いてくれるのです』

おおおーっ!
なんかタイムリーなメッセージ。
ちょっと目頭熱くなっちゃったじゃないか。

自分の直感に従ったら、ただの無謀なヤツになってしまうよ;
と、困惑していたんだけど「それでえーよ」と言われたようで、
なんか、なんか、お母さんにほめられた子供みたいな気持ちになった。

今日、買い物の道すがら、車の中でぼそっとabuに言った。

「郵便局辞めても次の仕事探さないで、
 emaの仕事だけで食べていけるようになるように頑張ろうかな」

そしたらabuが、

「そうだよ、一緒に頑張ろうよ」

そう言ってくれた。

すると、左折して目の前に入って来た車がいた。
そのナンバーが「2525」だった。
その意味は、

『あなたの祈りと意図が明確で強くなり、躊躇しなくなったことを表しています。
 ですから、あなたが思ったよりも変化が早くやってくると思ってください。
 望みが叶った時に当惑してしまわないこと。
 それらは予期しなかった方法でやってくるかもしれません。
 ですから、信じる心を持ち続けてください。
 神によく話しをし、安心させてもらってください』

もう2と5のコンビネーションの意味を知っていたので、
私とabuは車の中でふたりそろって「おおおーっ!」と叫んだ。

それでもまだ弱気な私がぼそっと言った。

「でも…それですぐに生活できるようになるかやっぱり心配…
 どうしたらいいかもわからない…」

すると、その直後。
右折待ちをしていた私達の目の前を直進していった車のナンバーが「555」だった。
その意味は、

『シートベルトをしっかり締めてください。
 大きな人生の変化がやってくるからです。
 この変化は「肯定的」「否定的」というふうに見るべきではありません。
 なぜならすべての変化は人生の流れの自然の一部にすぎないのです。
 この変化はあなたへの祈りへの応えかもしれません。
 ですから心を静かにして自分自身を見つめ、感じ続けてください』

この「555」の意味も知っていた私達は、
またふたりそろって「おおおーっ!」と叫んだ。

特に2と5のコンビネーションは、
私がabuと一緒になるという願いが叶う直前に、
頻繁に目にしていた数字なのだ。
そして、まさに、予期しない方法で願いが叶った。

エンジェル・ナンバーを日頃から指針にしていると思うことは、
自分の状況が変わると、目にする数字のコンビネーションが変わるということ。
つまり、自分の状況に合わせて、与えられるメッセージが変わる。
ドンピシャな感じで。

昔から、信じる者は救われる、って言葉があるけど、
これがいい、って思う人はそれでいいし、
嘘くさい、って思う人はそれでいいんだと思う。
私はエンジェル・ナンバーにすごく救われているひとり。

気になる人は、ぜひ体験してみて。



よっくわかんないけど、未来へ向かって動き出した気がする。
今までと違う感じで。

そして、それは、私だけでなく、abuもリンクしているのだった。
私達は、頭で考えれば愚かなことをしようとしている。
でも、止められないのだ。
心の真ん中が求めること以外のことをすると、
苦しくて、ただ時間だけが過ぎるような日々になってしまうから。
なにもかもがうまくいっているように見えても、
そんな日々の中に魂が喜んで踊り出すような感覚はないから。

これからしようとしている選択は、こわいんだけど、不安なんだけど、
でも、その中に、ワクワクする不思議な感覚がある。
行ってみようか、そっちへ。
間違ってたら、それを認めて、また違う道を選べばいいよね。
行ってみようか、そっちへ。
天使が背中を押してくれたんだから。

明日も郵便局に行く。
でも、昨日までの私とはもう違うんだ。


2009年10月17日(土) 決断

なんのいわれもなく理不尽に怒鳴られるのって本当にイヤだ、
そう心から思った今日だった。

ゆうゆう窓口の仕事では、そういうのが時々あって、
怒鳴られるまではいかないにしても、
ひどいことを言われたりされたりすると感じることはよくある。

こちらのミスや失礼でそうされるならまだいい。
お詫びしようと思える。
過剰に怒鳴られたにしても、仕方ないと思える部分がある。

でも、今日みたいに、突然なんの前触れもなく、
そこに立ってただけで怒鳴られるなんて、もう耐えられない。

今日思った。
イヤだ、って。
本当にイヤだ、って。

それまでは、仕事だし割り切って耐えることも大切、って思ってたけど、
今日はガマンの限界を感じた。

先月から肌荒れで顔がすごいことになってる。
こんなに肌荒れしたのって何十年ぶり?ってほど。
これってストレスじゃん、と勝手に思ってる。

繁忙日の週末の今日、身も心もぼろぼろになって疲れ果てて、
帰ってabuに話しながらわんわん泣いた。

身の振り方、考えよう、マジで。

辞めてしまったら生活できないという現実。
これから繁忙期に突入する郵便局、
よくしてくれている同じゆう窓の人達への申し訳なさ。
次の仕事を探すことの大変さ。
新しい仕事が見つかったとして、続けられるような職場かという不安。

それが、私の頭で考えていること。

そして、これまで何度も体験してきた、
考えも想像も及ばないところからやってくるよきことへの期待、
それも、ある。

それは、心が感じるままに進んでいくことで、
要は、魂センサーの示す方向にただ進んでいくことで、
思考で選択したり、予測したり、想像したりする範囲を超えて、
必ず自分の真ん中で欲したものが与えられるという希望だ。
寄り道が必要なら、寄り道さえ与えられる。

abuと一緒になった時もそうだったじゃないか、自分に言い聞かせる。

今、私は、恐れと不安に絡めとられた思考ではない部分から未来を選択したい。

そのために、今私にできることは、ひとまずは現状を維持しながらも、
その中で、自分の思考と選択を変えていくこと。
できない理由やムリな理由を探すのではなく、
生活のためなんだからガマンしなきゃダメなんてあきらめるのではなく、
ああなりたい、こうなりたい、こんなことがしたい、
そうした想いを描きながら、それに準じる思考を持つようにして、
それを宇宙に放り投げること。
そして、その方向に行くための選択を続けていくこと。

今ここにいるのは、そうした生き方をしてきた私。
その生き方が、わがままじゃなく、夢見がちじゃなく、
これからの世界そのものだという確信がある。
人は幸せになっていいのだ。
こわいけれど、不安だけれど、もうそれ以外の生き方はできない。
これからもそうした生き方をしていきたいと心から願う私。

シャワーを浴びながら、どこへともなく質問を投げた。

「郵便局を辞めて、生活を立てながら、
 自分の楽しめる仕事をするなら、
 どんな仕事がいいだろう?」

答えはきっとやってくるだろう。
大きな力、信じよう。

私がいつゆう窓を去るかは、まだわからない。
すぐかもしれないし、まだずっと先かもしれない。
でも、去るという決断はした。
ベストなタイミングでそうなることだろう。
ひょっとしたら気が変わることもあるかもしれないし。

「決断した瞬間に現実は動く」

大好きな言葉。

決断したら気持ちが楽になった。
その楽な感じは、自分が何かにとらわれなくなった感じの自由。
私は郵便局にとらわれていたのではない。
郵便局にい続けるんだという自分の選択とその結果の現実にとらわれていたのだ。
そして、今また新しい選択とその結果の現実の中に入っていく。

来月には引っ越しもある。
色々な現実が動く。

生きてりゃなんとかなる。


2009年10月15日(木) 素敵な4人

ふと思い立ち、
いらないものをリサイクルショップに売ろうと思って、
押し入れの中をガサゴソしていた。

そしたら、昔使っていたお財布がごろっと出てきて、
なつかしーっ、なんて思いながら開けてみると、
な、なんと、中に、諭吉様4人が!!!
よ、よ、よんまんえんっ!?
「よんせんえん」ぢゃないんだ、「よんまんえん」なんだ!?

私は裏返った声でabuに叫んだ。

「これ見てーっ!!!
 お金っ、お金ーっ!!!」

なんでこんな大金(私にとっては大金・笑)財布に突っ込んでたんだろう、
しかもそれを放置しといたんだろう、
と言うか、いつ突っ込んだんだろう、
私の頭の中にはクエスチョンマークがいっぱいだったんだけど、
そんなのどうでもいい、目の前に諭吉様が4人も登場したのだ。
大興奮。

何を隠そう、金銭的にピンチな今なので、
そりゃー興奮するわな、予測もしない諭吉様が突然登場したら。
なんて素敵な4人。

そして、その諭吉様達を引っ越し資金に充てることになった。

そうです。
私達引っ越すんです(と言っても、引っ越し先は市内の実家)。
これで引っ越せるわぁ。

なんて、なんて、絶妙なタイミングで現れたの、諭吉様。
今日不動産屋に行って退去の申請して、帰って来てすぐの出来事。
おもしろ過ぎ、ホントおもしろ過ぎ。

引っ越しについては、またそのうち書こうかな。

自分がずいぶん前にしまい忘れたお金なんだろう。
でも、今、このタイミングで出てきたことが本当にありがたくて、
やっぱりおっきい存在にサポートされてるんだ♪って確信できたことが、
なによりうれしい今日なのだった。
まるで今日のために過去に無意識に貯金していたみたいな、そんな気分だった。

そう考えたら…
その時すでに私達はこの道を進むことが決まってたのかしら、
なぁんて、思った。
ものは受け取り様、いい方に受け取っておこう(笑)

素敵な4人に感謝。
今その4人を登場させてくれた神様に感謝。
本当に、本当に、ありがとう!
力もらって、むずむずとうれしくて、胸の奥の方がじんじんする。

決めた道、進む決意も新たに、とりあえず明日も郵便局に行こうっと(笑)


2009年10月13日(火) ワクワクしながら作りました

私事ですが、って、日記はすべて私事だよな(笑)

abuと私の写真の仕事のホームページをリニューアルしました。
ワクワクしながら作りました。

好きなんだよな、ホームページ作ったり、その素材作ったりするのが。
むっしょーに好きなんだよな。
心の奥の方ではじけるみたいなものがあって、
それがぴょんぴょん跳ねるようにはしゃいでるのがわかる。
寝るのも忘れちゃう。
止まらない。
たまらない。
PhotoshopとIllustratorを一生いじっていたくらい。
もっと勉強したいな、学校行きたいな、
そんなことを考えながら作ってました。

よかったら新しい「ema(エマ)」のホームページ、のぞいてやってくださいね。

最近、abuはモトクロスのレースの写真を撮り始めて新境地開拓中で、
これがまたバイクに興味のない私が見ても、おおお〜っ!という感じです。
サイト左側のギャラリーからふたりの写真も見られるので、
よかったらそちらもどうぞ。

私は、と言うと、郵便局の仕事に追われ、あんまり写真撮ってない;
時間がないんじゃなく、気持ちが忙しないんだろうね。
常にギリギリな感じがしてて、いっぱいいっぱいだし。

だいたい、メッチャどんくさくて、決して頭の回転速くない私が、
繁忙時には戦場と化すような場所で仕事してるということ自体不思議(笑)
なんとかついてってはいるものの、周りの足ひっぱりまくりじゃないだろーか。
うまく立ち回れず自己嫌悪になるでございます (´・ω・`)ショボーン

でも、そんなふうだからこそ撮りたいよなぁ、
撮って自分を忘れないようにしたいよないよなぁ。
好きなこと、ワクワクすること、持ってないと、
自分が自分でなくなって、
なぜ自分が今ここにいるのかわからなくなっちゃう。

そういう意味では、今回ホームページを作ったことは、
生活の手段の仕事に追われながらも、
楽しい時間を味わえたということで、すごく貴重な体験だった。
自分がそういうの好きって改めて認識できたし。

それが仕事であろうと趣味であろうと、
自分にとって楽しくてワクワクすることがあるということは本当に大切。
それは、地球上の草や花や木が雨の恵みを必要とするのに似ていて、
それがないと、きっと、心が死んでしまうんだと思う。
実際それがなくて死んでるときもあるし(爆)

話がどんどん発展してしまったけど(笑)
新しい「ema」をよろしくお願いします (*´∀`)


2009年10月11日(日) 人生万事塞翁が馬

最低最悪の状況ってあると思う。
そんなふうにだけはなりたくないって自分が思う状況。
その状況は、不安や恐れそのもの。
焦ったり、イライラしたり、自暴自棄になったり、
最後には絶望して「なぜ自分がこんな目に…」と嘆いたり。

私も最近そういうことがあった。
もうダメだ、終わり、って思う状況が目の前まで迫ってきたことが。
自分の人生でかつてこんなピンチがあっただろうか、
そんなことを考え、精神的に追い詰められていった。
毎日が針のムシロ、生きた心地がしない。

でも、ある時から、そんなに苦しくなくなった。
気が楽になり、毎日の中で楽しいと思えることが増えた。
もちろん、悩みの種ではあるんだけど、結果はもうどうでもよくなった。

最悪の状況は今もジリジリと私に迫りつつある。
タイムリミットも決まっている。
それでも、今は気楽に過ごしている。

なぜそうなったのか。

それは、最低最悪の状況になってもいいや、そう思ったからだ。

もちろん、そうならないに越したことはないけれど、
そうなってしまったら、それはそれ、

「そうなったらイヤ」
「そうならないためにはどうしたらいいか」

ではなく、

「そうなったらどうすればいいか」

と考えたのだ。
だって、さんざんやるだけやったんだもん。
もうどうしようもないじゃん。

「そうなったらどうしよう」

とは明らかにニュアンスが違うのね、その気持ちは。

そうしたら、ま、なんとかなるか、死ぬわけじゃないし、そう思えた。
迫り来る最低最悪の状況を目の前に、
まるで逃げ道がないと思っていたけれど、実は逃げ道があった。
逃げ道は、最低最悪の状況を避けるのではなく、それを選ぶという選択の中にあった。

そんな逃げ道を見えなくしていたのは、自分の執着だった。
今のまま変わるもんか、今のままでいるんだ、そんな「今」への執着。

たとえ、最低最悪の状況になっても、それをひとつの変化として捉えて、
その変化した中でどう生きるかを考えたら、案外道は見えてくるもので、
腹をくくることができたんだな。

仕方ない、やるだけやったんだし、どうしたらいいかもわからないし、
もうそうなってもいいや、生きてりゃなんとかなる、
そんな逆説的な考え方をしたらびっくりするほど楽になったんだよ。

それにね、面白いもので、そういうふうに腹くくったら、
自分では最低最悪だと思っている状況になった時に必要な情報が、
ぽろっ、ぽろっ、っと入ってくるんだな、これが。
そして、その情報が、

「最低最悪だと思ってた状況は実はそうひどくなさそう」

そんな感覚を与えてくれるのだ。

人は変化を恐れる。
変化とは恐ろしいものだ。
悪い方に変化することはもちろんのこと、
いい方に変化するのも恐ろしかったりするのだ。
いいとか悪いとかっていうのは、
目の前の状況で判断する主観的なものであり、
そうした主観的なものを排除すれば、変化とは単に違うものになること。
未体験ゾーンに入るのは誰でもこわいのだ。

そういう意味で、私は変化を恐れていた。
でも、それがどんな変化であれ、よし、変化しちゃおう、そう思った時、
目の前をおおっていた黒い雲は消えて、
澄み渡った青い空が目の前に広がったような、そんな気分になった。
なんだか大きな力のサポートも入り始めているような気がする。

私はその感覚を信頼している。
たとえ、恐らく訪れるであろう変化が、
現実的に見たら不運なように見えるものであっても、
その変化の中に入ることによって、
新しい未来への一歩を踏み出すことになる。

人生万事塞翁が馬。
何がどう転んで何につながるかなんて、その時になってみないとわからない。
判断せず、ただ、自分に起こることを体験していくスタンスが、
心に平安を呼び戻し、現実を強く生きる力を与えてくれるのだと実感した。

私がどんな状況になり、何を選択して、どんな変化を体験するのかは、
そのうちこの日記でも書くかもしれない。

ピンチが私に何をもたらすのか、しかと見届けてやろうじゃない、
今、そんな気持ちでいる。

あ、ちなみに。
私はすごく前向きな人間ってわけじゃない。

今回の件も、最低最悪の状況に怯え、
不安で不安でいても立ってもいられなくて、
心は荒れ果てて、もがいて泣いて、さんざん苦しんで、
その先にあったこの結果だ。
自分の感情にとことん付き合って味わった結果なのだ。
それを付け加えておく。

あたしゃー神様じゃなく、感情に翻弄されて生きる俗っぽい人間だから。


2009年10月07日(水) あなたもきっと誰かの世界を変えている

誰かが自分を気遣ってくれてると感じると、
すごくあったかい気持ちになる。

大変だったり、心細かったり、心配だったりする時、
誰かがそんな自分を察してくれていることを感じると、
なんだか力が湧いてくる。

それまで、しゅん…としていたり、テンパってたり、しても、
そんな気遣い、心遣いを感じると、元気になれる。

イヤだな、
大変なことばっかりだな、
結局ひとりなんだな、
誰もわかってくれないな、
なんで私がこんな目に、とか、
重いつらい気持ちでいても、
それが吹っ飛んでしまう。

まだまだ頑張れるぞ!
よし、やるぞ!
なんて思えて、
気持ちが軽くなって、楽しくなって、自然に笑顔になれる。
モチベーションが上がってくる。

自分のいる世界が一瞬にして違うものになるのだ。

自分を気遣って何かを言ったりしたりしてくれる人は、
そういうふうにしてやろう、なんて画策しながらしてるんじゃないと思う。
ただ、私を見て、ただ、状況を見て、
ふと、気遣ってくれるんだと思う、素で。
時には気遣ってるなんて自分でも気づかないうちに気遣ってくれてるんだと思う。
そして、私がそこまで救われてるなんて知らないんだろう。

ありがたいなぁ、と思う。
本当にありがたい。

不平も不満もいっぱいある。
心配も不安もいっぱいある。
イヤなことも。
でも、いつも思うんだよ。
世の中捨てたもんじゃない、って。

誰かが誰かを思う気持ち、気にかける気持ち、
ほんのちょっとしたものであっても、それは本当にあたたかい。
大きな力。

優秀だとか、有能だとか、
そんなふうである必要はなく、
ただそこにいて、ただ誰かを思う気持ち、
みんなが持ってる気持ち。

これを読んでるあなたもきっと誰かの世界を変えている。
無意識のうちに。
そんなあなたもとても素敵。


2009年10月06日(火) 答えはいつも自分の中に

私が子供の頃、庄司陽子さんの「生徒諸君!」というマンガがあった。
当時かなり人気があったので、同年代なら知ってる人も多いかも。
私も大好きで夢中になって読んだ。

その中で、主人公のナッキーが、
ごねる友達の舞ちゃんをビンタして本音をぶつけ合い、
結果、友情が深まった話があった。

それを読んでカッコいい!と思った。

そして、ある時私は、ごねる友達を見て、
ナッキーみたいにビンタして叱咤しようと思った。
マンガみたいにドラマチックな展開になりたかった。

早速ビンタを試みたはいいけど、こわごわやったので、
顔をペチっとするみたいなへなちょこビンタで、
友達はただ顔をペチペチされてるみたいに思ったらしく、
ぷいっとそっぽを向いて泣いてるし、
私が何を言っても黙ってるし、すごく気まずかった。
マンガみたいな展開にはならなかった。
とんだ計算違いだった。
友情を深めるどころか、それ以来、彼女は私から離れた。

人は自分が完成されていない時、何かを模倣したがる。
素晴らしいと思うものを真似てみたくなる。
飛び込んできた情報を判断する間もなく取り込んでしまう。

ナッキーを真似して失敗したその事件は、
痛い教訓となり、私はほんの少し成長した。

それからも、きっと私は色々な模倣を繰り返したに違いない。

そうやって人は学んでいくんだよな…なんて、
今日、トイレに入りながら、ふと、考えた。
痛い中学生の自分を思い出しながら。
今じゃ笑い話だけど。

外側の情報を取り入れて、色々な体験を重ねて、
いつしか人は判断すべき何らかのものを、
自分の内側に見出すようになるのだろう。

答えはいつも自分の中にある。

進む道、選ぶべきもの、それは私の中に。
もう模倣はいい。
自分で決めよう、自分で選ぼう。


2009年10月02日(金) 好きなこと

おせんべいやポテチの袋の中から割れた小さいかけらを選んで食べること。

ヨーグルトやアイスのふたの裏をぺろっとなめること。

リサイクルショップで安く服を買うこと。

車の中でデカい音で好きな音楽を聴くこと。

ソファにごろんすること。

寝る前にストレッチすること。

大切な人の笑顔を見ること。




日常の中の、小さな、小さな、好きなこと。


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今日も読んでくれてありがと♪すごくうれしい!
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