おひさまの日記
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2005年10月29日(土) お知らせ <掲示板の閉鎖>

11月5日(土)0時をもちまして、
SunGoddessのふたつの掲示板を閉鎖することにしました。

ずいぶん迷ったのですが…
私自身、今も変化の途中であり、様々な流れが訪れています。
そして、自分の中に湧いてきた感覚を信頼して、
掲示板閉鎖の決断に至りました。

5年以上続いてきた掲示板を閉鎖するのは、とても寂しい気持ちでもあります。

みなさんに可愛がっていただき、ここまでやってこられた掲示板。
毎日書き込みチェックをするのが楽しみでした。
たくさんの方の言葉で埋まっていく掲示板を、
いつもありがたく、嬉しく、拝見していました。

ネチケットを心得た気持ちのよい方に恵まれ、荒れることもあまりなかったように思います。
ここまで楽しく、そして深く、やってこられたのは、
サイトに立ち寄り、掲示板を読んでくださり、また書き込んでくださる、
そんなみなさんのおかげにほかなりません。

本当に、本当に、ありがとうございました。
どんなにお礼を言っても足りないくらいです。

ここでひと区切り。
私はこれから新しい私に会いに行くことになると感じています。
そして、そんな私が感じたことを日記で発信していきたいと思います。
掲示板はなくなりますが、
これからもこれまで通り、SunGoddessをよろしくお願いします。

心からの愛と感謝を込めて。

みなさん、本当にありがとう!
これからもよろしくだよ!


2005年10月27日(木) お財布事情から思うこと

親族のお祝い事やその他の出費が重なりに重なって、
お給料日早々なのに家計はきちきち。

なもんだから、何か換金できるものはないかと家の中を探してみた。
私が売れるものは服やCDくらい。
そこで、いらないものをピックアップしてみた。

そうしたら、意外にいらないものってあるもんで、
びっくりするくらいの量の洋服が袋一杯になった。
そして、CD。

それをみんな抱えて、私は朝イチでリサイクルショップを回った。
結果、トータルで5000円くらいのお金になった。
助かるーっ!

普段、事足りて暮らしていると、ただいつも通りにするだけだけど、
こうして金策を迫られることによって、いつもはしないことをすることになる。
やってみると、自分がいらないのにただ所有しているものをいっぱいみつけたり、
普段なら気にせずに買ってしまうものも本当に必要かよく考えて買ったりする。
衝動的に何かが欲しくてもガマンしたりもする。
そして、ガマンして数日経つと、やっぱりあれ買わなくてよかった、なんてことが何度かあった。
そうしてみると、自分は結構いらないものを買ってるし、持ってるってことに気づいた。

なんだかすごいことに気づいた気がした。
今まで通りの生活をしてたら気づかなかったな。

身の回りのいらないものを整理したり、
新たに何かを手に入れることを熟考して控えたりすることで、
贅肉を削ぎ落としているような感じ。

こういう流れの中に身を置いてみると、
「自分の生活を見直しなさい」というメッセージを受け取っているような気がしてくる。

豊かなのがいけないのではなく、
豊かな中でも、その豊かさに甘んじてなんとなく過ごすのではなく、
本当に必要なものを自分のものとしていくというレッスンを、
今しているような気がする。
自分の意志によってそれらを見極めることを。

そして、それは物だけではなく、私達の生き方にも言えるのかもしれない。


2005年10月26日(水) 祈り

誰かに歩み寄ることが難しい時、
それは自分に歩み寄ることが難しいのだ。

誰かに怒りを感じる時、
それは自分に怒りを感じているのだ。

誰かを責めずにはいられない時、
それは自分を責めずにはいられないのだ。

誰かの何かに心痛む時、
それはその人の痛みを自分が持っているのだ。

神は世界をうまく創りたもうた。

私達が幻想の世界を抜けて、
やがて自分の元へと戻れるようにと、
その道しるべに目の前にたくさんの鏡を置いてくださった。
魂のレッスンに必要なテキストでもあるかのように。

鏡、それは私達の周りのすべての人。

かつて何枚もの鏡に向かって声高に叫んだり、鏡自体を割ったりして、
そこに映る嫌悪の対象になるものをなんとかしようとしたけれど、
それは消えはしなかった。

なぜなら、鏡は自分を映しているだけで、
鏡自体は無のようなものであり、
私が憎んだのは鏡ではなくその中に映った自分そのものだったから。

鏡を割る度に、割った手が傷ついて血を流すように、心が痛む。
なぜなら、鏡を割ることは、自分の存在を否定することだからだ。

私達は常に自分の内側の世界を外に見ている。
外に向かう感情は、内側に向かう感情そのものだ。
外に向かって許しを放てば、内側に許しが満ちる。
外に向かって愛を放てば、内側に愛が満ちる。
その時初めて私達は自分を愛し始める。

そうして自分を許し愛せる時、初めて世界を許し愛せるようになる。

私は祈ろう。
どうか、どうか、そうあれますようにと。
不器用にでもいい、とつとつとでもいい、そうなっていけますようにと。


2005年10月25日(火) 慣れることの恐ろしさ

最近、久しぶりに会う人や電話で話す人に、よく言われることがある。

「鼻声だねー」

そう、私は9月の半ば頃からずっと鼻声らしい。

らしい、と言うのも、
かれこれ1ヶ月くらいずっと鼻声なので、
自分ではこれが地声なような気がしてしまい、
もうわからなくなっている。

慣れだね。

慣れとは恐ろしい。
まぁ、鼻声に慣れるくらいならそんなに支障はないと思うけれど、
事と次第によっては問題もある。




私のある知り合いが消費者金融で借金してたんだけど、
返済できずに、新しく借り入れたお金で返済し、
またその返済と生活費のために、
翌月さらに借り入れるようなことを長い間していた。
確実に借入金額はふくらみ、
でも当の本人は特に手だてを考える風でもなく、
ただ仕方ないからと毎月借り入れを続け、
その状態にも慣れてしまい、
自分が借金をしているという感覚がなくなっていたようにも見えた。
いや、なくなっていたと言うか、
現実を直視したくなくて、考えないようにしていたのかもしれない。
慣れ、と言うか、麻痺、と言うか。

たまたま彼女とカラオケいに行くことになった時、彼女が言った。

「ちょっと待って」

そして、私を助手席に乗せて彼女が向かったのは、某消費者金融の無人借り入れ機。
そして、中に入って出てくると、諭吉を1枚ひらひらさせながら、

「マイバンクでお金おろしてきた」

と言った。

私はびっくらこいた。

「マイバンク!?
 町金で借りたんじゃん」

「え?でも、借りてもちゃんと返してるから平気」

彼女はそのしばらく後、借金が原因で離婚し、自己破産した。




よくない状態の中にい続けると、
最初は、それにすごく苦しんで悩んだり、どうにかしようとあがいたりするけれど、
それが長く続いていくと、その状態が自分の当たり前の状態になり、危機感が薄れてゆく。
よくないのはわかるけど、なんとなく、ま、これでいっかな、今は、って気持ちになる。
そのうちなんとかなるかな、みたいな。

私の風邪もそうだ。
引き始めの頃は、タバコを控えたり、加湿器を使ったり、
食べ物に気を配ったり、睡眠を取るようにしたり、
治るための努力をしていた。

でも、いい加減、風邪が長引くと、
いつの間にかそれが当たり前の状態になり、
風邪をひいているという状態に慣れてしまった。
そして、風邪に対する危機感やケアをしようという気持ちがなくなった。
普段の生活に戻り、不摂生もする。
なもんで、風邪も余計に長引く。
そんな悪循環の中にいる。

慣れとは本当に恐ろしい。
感じるべきことが感じられなくなる。
そして、感じられなくなることによって、今すべきことを見失う。
時にはそれが重大な問題へと発展していく。

そんなことを考えながら、
今私が慣れの中で見失っている大切なことはどんなことだろうと、
想いを馳せてみることにした。
当たり前に思っているけれど、実は本当にありがたいものに感謝する気持ちとか、
自分の問題に対して麻痺してしまっている部分とか、
麻痺することによって何かから逃げようとしている部分とか、
色々、色々、そんなものに。


2005年10月20日(木) 流れ始める

陣痛が来てるな…と感じた少し前、
10月のワークショップを終えてから、
流れは怒濤のように押し寄せていたのだろう。

ゆうべ、私がハマっていた痛みから、ふっ…と抜けた瞬間があった。

昨日の日記に載せた、
OSHOトランスフォーメーションタロットの「価値」と、
OSHO禅タロットの「ヒーリング」を引いたことで、
私は自分がハマっている痛みの罠に気づいた。

自分の「価値」。
私は、ひたすら自分が何かを成すことによって、
そして、その結果によって、
相手や周囲からの評価を得ようとしていた。
得られないと感じると苦しくて、
自分がすべき何かを探し、
それをすることの重圧と義務の果てしなさに激しく疲労していた。

また、自分自身の価値も、成すこととその結果によってのみ判断していた。

ゆえに、私の価値は外からのものによるものでしかなく、
内側にあるものは一切無視されていた。
本来の価値はもっと別なところにあったものを、
傷の痛みによって私はすっかり忘れ去っていたのだ。

少しずつよどみが流れ始めた気がする。

気づくと、私にしばらくつきまとっていたあの重苦しさは消えていた。
私が陣痛を経て出会おうとしていた自分に出会えたのかもしれない。

私は見失っていた。
自分がどうあるべきかという道を。

そして、それを見失わせた痛みと出会うことができた。
その痛みはこれから癒えようとしている痛み。

光が差したようなこの感覚、これを待っていた。
陣痛の中にいる時からずっと待っていた。
そして、やってくると確信していた。
だから、陣痛の中でも待っていられた。
この日を迎えるために、私は必要なプロセスを通過して来たのだろう。

そして、こんなことを、私はいつまでも繰り返していくのだろう。

生きる醍醐味を感じる瞬間。


2005年10月19日(水) 「価値」

ウェブでOshoトランスフォーメーション・タロットを引いた。
出たカードは「価値」。
そこにあった言葉は深く深く私の心にしみてきた。

今日はそれをここに転載しようと思う。



**********



価値<On the virtues of uselessness>

自分の価値を証明しようとして、自分自身を商品におとしめてはいけません。
生の最も偉大な体験は、あなたがすることを通してやって来るのではなく、
愛を通して、瞑想を通してやって来ることを覚えておきましょう。

----------

老子が弟子とともに旅をしていた。
彼らは、何百人もの樵(きこり)たちが木を切っている森にやってきた。
森全体が、無数の枝をつけた一本の大木を残して、ほとんど切り倒されていた。
その木は一万人が木陰に坐れるほど大きかった。

老子は弟子たちに、なぜその木は切られていないのかをたずねてくるように言った。
彼らは樵のところに行ってたずねた。
すると、彼らは言った。

「この木はまるで役に立たない。
 枝という枝に節があり、これからはなにも作れない。
 まっすぐな枝がひとつもない。
 燃料にすることもできない。
 煙が目の毒だからね。
 この木はまったくの役立たずだ。
 だから切らないんだよ」

弟子たちは戻って老子に伝えた。
老子は笑って言った。

「この木のようになるがいい。
 お前たちが役に立ったら、切られてどこかの家の家具になってしまうだろう。
 お前たちが美しかったら、市場で売られて商品になってしまうだろう。
 この木のようになるがいい。
 まったくの役立たずに……。
 そうなったらお前たちは大きく、大きく成長して、
 何千もの人びとがその下に木陰を見いだすだろう」

老子はあなたとはまったくちがった理論をもっている。
彼は最後の者でいなさいと言う。
世間をまるで自分がいないかのように動くことだ。
競争してはいけない、自分の価値を証明しようとしてはいけない。
その必要はない。
役立たずのままで楽しむがいい。

----------

私たちは、利用価値によって人びとを計ろうとする。
私は、なにも役に立つことをするなと言っているのではない。
役に立つことをするがいい。
だが、生とエクスタシーの大いなる体験は、
役に立たないことをすることから生じるということを覚えておきなさい。
それは詩を通して、絵を描くことを通して、愛を通して、瞑想を通してやってくる。
商品におとしめることのできないなにかをする能力があって、
初めて最も偉大な喜びがあなたを押し流す。
報酬は内側にある。
もともと備わっている。
それは行為そのものから湧き起こる……。

だから、自分は役立たずだと感じても心配することはない。
私はあなたの役立たずも使う。
私はあなたを大きな葉むれのある巨木にするつもりだ。
それに、役に立つ活動にたずさわっている人びと……
彼らは、たまには木陰で休む必要がある。



**********



静かな涙が流れた。


2005年10月12日(水) ワークを通して自分を見つめてみる

ワークショップも終わり自分を見つめてみる。
そのの最中私の中から溢れてきた言葉は、

「生きていてごめんなさい。
 息をしていてごめんなさい。
 許してください」

だった。

ゆっくりゆっくり抱きしめよう。
その想い。
私が私に許してあげよう、生きていることを。
その悲痛な叫びを静かに受け止め、それがあることを知っていよう。

痛みは止めどなく、後から後から溢れてくる。
でも、それは苦しみではなく、救いなのだと感じる。
溢れて、そして、愛に帰ろうとしている。
だから、感じていこうと思う。

日常でいつもそんなことを感じてるわけじゃないけど、
何かあった時、その痛みがソースとなって、
色々な心理反応を引き起こしているのだろう。
そんなことを思いながら、
自分の誰かの言葉や態度や出来事への反応を思い返してみる。

私達は、生きていると、
日常のあらゆる出来事や状況で痛みの感情をあぶり出される。
怒り、憎しみ、悲しみ、蔑み、焦り、不安、不快感、拒絶感、時に無感覚。
そんな感情は媒体となって私達を本来の姿へと導いてゆく。
だから、そういう感情が自分にあると知ることがすごく大切で。

私達が感じる痛みは、
私達が無意識のうちに罰して、
無意識の中に置き去りにしたありのままの自分の嘆き。

痛みの感情はそれがそこにあることを知らせるサイン。
それを辿っていく時、私達は必ず本当の自分に辿り着く。

だから、私は、痛みの感情が出てきた時、
とてもつらいけれど、でも、うれしい。
そして、なにかを訴えようとしている無意識の中の自分の存在を知る。

でも、そこから先をひとりでやるにはちょっと大変で、どうしていいかもわからなくて。
そのために私達はナビゲーターを必要とするのだろう。
そして、学び、私は誰かのナビゲーターになりたくて。



うーん。



何度も癒しの体験を繰り返すうちに、
痛みは悪さをしてるんじゃなく、救われたいと願って訪れているのだと確信し、
いつの間にか、痛みさえも愛おしくなった。

もちろん苦しい時はすごーく苦しいけどね。
でも、何て言うんだろう、安心して苦しめるようになったよ。
痛みを感じれば感じるほど、そこから抜けてゆく、癒される準備が進んでいく、
そんなことを感じてる。

セラピストの自分が、悲しくて歪んでる自分を、じっと眺めているような、
そんな感覚になることが幾度もある。

でも、叫ぶよー、つらい時は。
悲しくて歪んでる自分の方が強い時は。

そして、また、どこかへ辿り着くのだろう。


2005年10月07日(金) 今月もワークショップに行ってくるよ〜

明日から3日間、ワークショップに参加するために留守にします。
そのため、いただいたメールへのお返事は、火曜日以降になります。

8日朝から10日までの間、
私が戻るまで、
掲示板を一時閉鎖させていただきますが、
火曜からまた再開しますので、よろしくお願いします。

少しずつ肌寒い日が増えて、着る服に悩むな。
私は結構ぐずぐずしてるので、
外泊する時準備にものすごく時間がかかるんです。
今日もこれから準備。

今月はワークショップでどんな自分に会うんだろう?
珍しく猛烈にこわい気持ち。
うー、なにかが激しく抵抗しているー。
でも、こういう時こそいい時間になるんだろうな。





思うのだ。
どんな時も自分の味方でいようと。

自分の未熟な部分から逃げるのでもなく、
またそれを正当化するのでもなく、
そういうへたれな自分の味方でいようと。

これでいいんだとか、
これじゃだめなんだとかじゃなく、
今自分はこうなんだと受け止め、
前を向いて歩いていこうと。

  私は味方だからね。
  なにがあってもあなたの味方だからね。
  私はあなたを責めはしないよ。

自分の胸をとんとんしながら自分にそう伝えたら、涙が出てきた。
私の中の私がきっと答えてくれたんだな、って、思った。


2005年10月03日(月) 夢 2

最近、ことある度に、同じ感覚が訪れる。
そんな時、心を閉ざしたくなり、誰も信じたくなくなる。
私は無表情になり、無気力になり、ただ丸太みたいにベッドに転がる。
頑に誰も受け入れられなくなる。

けれど、目からは涙がぽろぽろと流れ落ちている。
心を閉ざし、でも、痛みだけはそこにある、そんな感覚。

今日もほんのちょっとしたことがスイッチになり、
私のそんな感覚が疼き始めた。
重く鈍く胸が痛い。
私は約束の時間の前に目覚ましをセットすると、
お決まりでベッドにもぐり込んだ。

天井をぼーっと見ているうちに、自然に言葉がこぼれた。

「うさんくせぇ」

そう、誰も彼もうさんくさい。
信じられない。

「誰も私をわかる人なんていない。
 もう近づかない。
 心を見せない。
 誰もいらない」

私の中でその言葉がぐるぐる回る。
その言葉が繰り返される度、涙がいっそう激しく流れ落ちる。

そんな中、そんな自分を遠くから冷静に見ている自分が思った。
人に傷ついて、心を開くことがそんなにもこわくなってしまったのか、と。
それほどまでのことがあったのか、と。

今日もそうやっているうちに、私はいつの間にか眠ってしまった。

夢を見た。

ある人と話した。
その人が言った。

「つらそうだね…」

「はい、つらいです」

「古い傷が出てきてるからねぇ…」

その人は静かにしみじみと言った。
私は、その人の言葉と、私をいたわるようなその表情に、
心癒されていった。

「そうですね」

そう、そうだよね、古い傷が出てきてるんだ。
今、癒されようと、古い傷が出てきてるんだ。
だからこんなにつらいんだ。

私はひどく咳き込み始めた。
もちろん現実の私が、だ。
夢を見ているんだけど、咳き込むことでうっすら目が覚め現実に帰る自分もいて、
その夢を、夢と現実の狭間で見ていた。

どこかではわかっていたことを、その人の言葉で再確認し、
そして、その人の慈愛に満ちた口調と表情、その存在によって、
ひとりではなく見守られているのだという感覚を覚え、
深い安堵の中にいた。

私はそこで目が覚めた。

まだ咳は激しく出ていた。
抵抗してるんだね。

目覚めた私は、眠る前の私とはまったく違って、
救われたような、はればれとした気持ちだった。
もう誰もいらないなんて思わなかった。
幸せな気持ちだった。

また夢で救われた。
なんだか不思議な体験だった。

自分で言うのもヘンだけど、
私、本当に見えない存在にサポートされてるんだと思った。
そして、それは私だけじゃなく、すべての人がそうなんだと思った。

私はまたひとつ大きな心の傷に出会おうとしているのだろう。
あの9月のセッションで「思い出さないで」と私に懇願した自分なのだろうか。
恐らく難産になるんじゃないかな。
陣痛がもうずいぶん長い。
でも、それでもいい、待ってるよ。


2005年10月02日(日) セラピーの効果

ゆうべつらくてどん底まで落ちて、
目が腫れて頭痛がガンガンするほど泣いて、思った。
私は、6年前に心理療法の世界に足を踏み入れてから、
確実に変化しているのだな、と。
これは明らかなセラピーの効果だ。

じゃあ、セラピーの効果とは何か。

昔、私は、セラピーを受けるとつらいことがなくなるのだと思っていた。
イヤな思いをしなくなるのだと。
でも、それは違っていた。

セラピーを受け始めて、受け続けて、
自分でも提供する側としてたずさわり続けて、
それでもつらいことはてんこ盛りだ。
変わりたいと思っている部分が、
変わってたりしつつ変わってなかったりもする。

でも生きるのがすごく楽。
なんか楽。
恵まれてる、幸せ、ありがたい、そう感じることがとても増えた。

それがセラピーの効果。

では何が変わったのかと言うと、
つらくなった時、自分で抜けていけるようになったこと。
誰かになんとかしてもらうのではなく、
自分の力で切り抜けられるようになったこと。
それが大きな変化。
つらいこととの付き合い方が上手くなるということでもある。
苦しい状況と向き合う処方箋を手に入れたと言うか。

たとえば、人間関係でつらくなることは誰でも多いと思うけれど、
そういう場合、セラピーを受ける前は、
私の場合、まず相手を責めることから始めていた。
なんでそういうこと言うの?
なんでそういうことするの?
なんでこうしてくれないの?
なんでわかってくれないの?
なんであなたはそうなの?
って。
あなたのそういうところがイヤなんだ!と、
相手に変わることを強く望んでいた。
結果、それがうまくいくことはなかった。

人によっては、自分を責めることから入る人もいるだろう。
なんでこういうこと言っちゃうんだろう?
なんでこういうことしちゃうんだろう?
なんでこうできないの?
なんで私はこうなの?
って。
私もそちらが先の場合もよくある。
アンナをこちらの反応できつく叱ってしまうような時がそう。
また、相手に不機嫌な顔をされてしまったような時、
私なにかした?
私のこんなとこがいけない?
と、自分に原因をひたすら探したりもする。
またやってしまった、私ってこれだからダメなんだ、と。

そして、相手を責めること、自分を責めることを、同時にしている場合もあるだろう。
私もそうだ。
それが入り交じってひとつになっている。

どうして私がこんな目にあうの?とかね。

セラピーを受ける前は、こうしたことがあっても、
ただ気持ちがおさまるのを待ったり、
つらさを別のものでまぎらわしたり、埋めようとしたり、していた。
時に、生活のために、なにもなかったかのように、
それを感じないようにして過ごしていたこともあった。

でも、セラピーを受けていくことで、
だんだんそれらから自力で抜けれられるようになったのだ。

少なくとも、私の体験してきたセラピーは、
過去のトラウマに出会っておいおい泣くだけのものではなかった。
そこには、どういうことがあると心にどういうことが起こって、
そこで傷ついた人はどういうふうになるのかという学びがあったし、
その学びを深めることによって、自分を知ってゆくこともできた。
それすなわち自分の周りの人を知ってゆくことでもあり、
自分だけでなく、他者への理解も生まれた。
たくさんの気付きがあった。

それらがあるおかげで、私は自分が置かれた状況を、
つらい気持ちを抱えたままでも、眺める目を持てるようになった。

かつては相手を責めて、
なんとか相手を変えようと、自分の思う通りにしてもらおうと必死になり、
また、かつては自分を責めて、
誰かに許してもらったり助けてもらったり、また理解してもらうことを望み、
問題の解決のすべてを他者にゆだねてしまっていた。
それが叶わないと、心を閉ざしたりもしていた。

今は、自分のつらい感情のすべてが、
相手のせいではなく、例外なく自分の心理反応だとわかっているので、
相手や自分を責める場所から抜け出しやすい。
そして、相手の心の痛み、自分の心の痛みをいたわるポジションになんとか入れる。
もちろん、感情の生き物人間だから、かなり葛藤しながらだけどねぇ。

そして、つらい状況から抜け出すためにすることは、相手に与えていくことだ。
相手はつまり自分であり、相手にそれをする時、自分自身にも与えていることになる。
相手は自分のシャドー(ネガティブな投影)、自分が許せない、受け入れていない自分そのものだからだ。
その部分を許し、受け入れることで、自分の中の葛藤がなくなってゆく。
それにより、自分の内側を投影していた外の世界にはそれがなくなるのだ。
すべては自分を許すことにある。

葛藤がありながらでもいい。
相手を理解する、自分を理解する。
相手を許す、自分を許す。
相手を受け入れる、自分を受け入れる。
いきなり相手に向かってにっこりする必要などはない。
まずは心の中でその作業ができていればいい。
自分に対してもそうだ。
葛藤しながらでも自分に対してそうできればいい。
それをしていく時、自然に私達はつらい場所から抜け出してゆく。
嘘のように楽になってゆく。
そこには癒しが起こっている。
それの繰り返し。

セラピーを受け続けて、心理療法にたずさわり続けて、
私はそういうことを体験できるようになった。
それがセラピーの効果の最たるものだ。

が。

ここにつらつら書いてきたことは、ただの文字の羅列であり、机上の空論。
だから読んだだけでは「???」となるかもしれない。
意味がさっぱりわからないと思う人もいるかもしれない。

私達は体験しないとわからない生き物だ。

砂糖は甘いんです、と言われても、
実際に口にしてみないと、甘いということ自体がわからない。
口にしてその味を自分の味覚という感覚で体験することで、
初めて言語での説明と味が一致し、理解に至る。

セラピーもそれと同じ。

セラピーとは体験そのものだ。
生きて成長していくプロセスそのもの。

与えるとか、許すとか、受け入れるとか、
そんなもん言葉で読んだり聞いたりしても、
それが人生を変えてゆくものとわかってても、
できないから苦しいんだ、ってことになる。

すべてが必然だなんて、こんな苦しいこと、そう思えない、
そう思いたくもなる。

だから。
体験してそれがどんなもので、
それをするとはどういうことで、
それをするとどうなるかということを、
理屈じゃなく無意識のエリアにまで及んで体験して自分のものにしていく作業。
その一連の流れを体験することで、この世界の出来事のすべての必然性も感じてゆける。

私がたずさわっているワークショップHEARTなどはその体験そのものであり、
かなり速いスピードで気付きと学びと癒しを体験していくことになる。

私もまだ道の途中。
ネガティブな感情渦巻く人間。
学びも、体験も、癒しも、段階を追ってゆく。
死ぬまで道の途中。

私達の魂は、生きて、体験して、成長することを望んでいる。
生きていること自体が魂の冒険なら、やってやろうじゃないの、と思うのだ。


2005年10月01日(土) アンナ、ありがとう

ダンナとケンカして泣いた。
ぢくじょぉぉぉぉぉぉーっ!と思い、
最近物入りでガマンしていた秋物の洋服を物色、
楽天で1万円分お買い物をしたあたくし。
ふふふ。
1万円にセーブするとこが小市民だよな…





ダンナとのケンカの発端は、私のアンナへの言葉がきついと言われたこと。
自分で「言い過ぎちゃった…」と反省してすごく悲しくなっているところに、
ダンナの言葉が刺さった。

「家はアンナが心穏やかに過ごす場所にしてやるべきなのに、
 お前は居心地を悪くしてるんだよ!!!」

その通りだ。
ダンナの言う通りだ。
なにひとつ間違っちゃいない。

悲しくて動揺していた私は、素直に謝れなかった。

泣きそうになりながら、
自分が悪いのはわかってるって言ったじゃん、
そんな怒鳴らなくていいじゃない、と猛反撃した。
こわいよ!って。

してはいけないケンカだった。
アンナの前で。

でも私はすでに壊れていた。
わんわん泣いた。

私がひとりひとしきり泣いた後、
アンナがママとお話したいと言ってきた。

ソファーに隣り合って座ると、アンナが切り出した。

「あのね、アンナね、
 ママがパパとケンカして泣いてるのを見た時、アンナみたいだと思ったの。
 ママが、泣いているアンナに見えたんだよ。
 ママに怒られて泣いてるアンナなんだよ」

そう言うと、ふたつのつぶらな瞳から涙がすーっと流れた。

「ママがパパにいっぱい言ったでしょ?
 ママはアンナに、泣いてる時どうすればいいか見せてくれたんだと思ったよ。
 ママ悲しくて泣いてたけど、パパに自分の気持ち言ったでしょ?
 だから、アンナも泣いてる時、ママみたいに言えばいいと思ったの。
 ママは、こわくても自分の気持ち言えばいいんだって、見せてくれたよ」

私はドキン…とした。

「ママは自分の気持ちを言ったけど、中身は間違ってたんだよ。
 アンナにきついことを言ったのはママがいけないし、パパはそれをダメだと怒ったんだ。
 アンナはそういうふうに言ってくれたけど、やっぱりママは間違ってたと思う」

「うん、それはそうだけど、そうじゃないんだ。
 自分の気持ちを言うってことを…うーんと、形を見せてくれたんだ」

私はそれを聞いて言葉を失った。

この子は…

私の目からも、さっきとは違う涙がすーっと流れた。

私はなんと大きな愛に触れているのだろう。
毎日、毎分、毎秒。

傷ついてどんなに心を閉ざそうとしても、
アンナはやわらかな春の陽ざしのように、
凍てついた私の心をやさしく溶かしてゆく。

私を膝の上で抱いて髪をなでるアンナは、
もはや子供ではなく、聖母のようだった。

愛してくれてありがとう。
ありがとう、私のアンナ。
奪うことを知らない子。
ひたすら与える子。
あなたの魂に出会えたこと、神様に何億万回お礼を言ったらいいのだろう。
アンナ、私はその神々しさと愛に、いつもただひれ伏すことしかできないのです。


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