おひさまの日記
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2005年01月31日(月) ずっと誰かに言いたかったこと

ずっと誰かに言いたいと思いながらも、
言わずにきたことがある。
いつもそのことを考えているわけじゃないんだけど、
どこかには引っかかっていて、ふとした瞬間に思い出すのだ。
でも、くだらないことなので、わざわざ、
「ところでさ〜」
と、話を振るほどのことでもなく、とりあえず黙っていた。

それは、「王子」に点を入れると「玉子」になるということ。

これが、私的にたまんないツボなのだ。

世界の名作も大変身。

「しあわせの王子」 → 「しあわせの玉子」
「星の王子さま」 → 「星の玉子さま」

今は使っちゃダメよの言葉になってしまったので、
その名作のタイトルを目にすることはないけど、

「王子と乞食」 → 「玉子と乞食」

点を取ることもできる。

「温泉玉子」 → 「温泉王子」

どよ。

「温泉王子」だよ。
温泉宿のひとり息子かね。
温泉マニアの変わり者かね。
湯治場の人気者の美少年かね。

すべての言葉をビジュアライズして遊ぶと、なおいい。
考えると、楽しくて、楽しくて、でも、誰にも言えなかった。
きっと、しらけるだろうと思ってたし、
でも、自分の中ではすごいツボで。

で、今日、たくさんの人がこの日記を読んでくださっていることをいいことに、
とうとう書いてしまった。
はぁ〜、スッキリした。

お付き合いありがとうございます(ペコリ)。


2005年01月27日(木) 私のプロセス

先週末のワークショップのことを書こうと思っていたけれど、
H・E・A・R・T のHPの方に感じたことを書いたので、
同じことを書くのもなんだかな〜って感じで、
すーっと流れて今日になりました。
H・E・A・R・T の「スタッフのつぶやき」に感想を載せてあるので、
気が向いた方は訪れてやってくださいね。

しかし、いつまで経っても、出てくる、出てくる。
深い部分にある痛み。
今回のワークショップでは、参加者の方もそうだけど、
私もかなり感情が出てきて泣きました。
ワーックショップの前日のあのどよよ〜んとした感覚は、
やはり前触れだったーっ!(笑)

初日から無感覚な感じがして、2日目なんて眠くて眠くて、
実は後ろでこっそりうとうとしてしまっていたり。
無意識が激しく抵抗して、
あの場所で起こっていることを受け入れまいとしていたな。
眠くなる、気持ち悪くなる、お腹が痛くなる、お腹が下る、
頭痛、腰痛もそう、私も含めて実際にそういう人が何人かいて、
意識が抵抗する時、何も感じないようにするために、体が反応するのね。
そうなるとその場にいなくて済んだり、その場での情報を受け取らなくて済むから。
本当にうまくできているもんだと、改めて感心したりして。
私の場合も、まさに、
深い部分の癒されていない痛みが「触れないでくれ〜」と抵抗していたわけです。

今回の「癒されたくない」自分との出会い、
それは、多分私の人生のとても大きなテーマで、
恐らく一筋縄ではいかないと思うのね。
それは、ことある度に顔を出す感情で、凄まじいほど辛いものだけど、
焦らず、少しずつ、少しずつ、それと向かい合って、
必要なプロセスを経て癒されていく日を待ちたいと思うのでした。

そう思えるのは、過去に多くの癒しと、それに伴う変化を体験し、
それは、そこに多くのプロセスがあってこそのものだと確信しているから。
そして、必ず癒しが訪れることを信じられるから。

中島先生もおっしゃっていたけど、
パッと癒されてどんどん変わってく部分と、
とても時間のかかる部分があることは、とても強く感じてます。
自分を振り返ってもそうだから。
そして、それでいいんだな、って。

だから、これからも、湧いて出てくる痛い感情はうんと感じて、
そこから何かをつかみたいと思ったのでした。
ワークショップから戻ってね、自分の内側に、
「癒されたくないよね、癒されるわけがないよね、
 こんな辛いんだもんね、誰もわかってくれるわけないよね」
そう話しかけてみました。
そうすると、とっても落ち着いてきたんですね。
きっとそんなことを感じて絶望しているもうひとりの自分が、
無意識の中で膝を抱えてうずくまっているんだと思います。
そんな小さな子供の自分、インナーチャイルドに共感することができて、
小さな一歩を踏み出せたと感じてます。

今、ここで、こうして生きている事自体が私のプロセス。
慈しんであげたい、強くそう思うのです。
何が起こるか、何が出るか、それはわからないけれど、
いつか訪れる癒しを信頼して、ゆっくり歩きたい。
私は私のプロセスが愛おしい。
とっても愛おしいのです。

そして、無力な部分の自分には、それを補う何かが必ず訪れるから、
それをしっかり受け取って、頼って、それでいいと思っています。

絶望している私のインナーチャイルドは孤独だけど、
でも、私は独りじゃない。
支えてくれる人がいて、応援してくれる人がいて、サポートしてくれる人がいる。
そんな大切で愛おしい人達がいるから、私は歩いていこうと思います。
私のプロセスを、私のスピードで。
今の自分に出来る限りのことを一生懸命にやりながら。




最近、岡ひろみの気持ちがすっごーくよくわかる(笑)




ああ、なんか今日は「ですます調」になっちゃったな、ぷぷぷ。


2005年01月25日(火) 変化する常識

昨日母と子供の歯磨きについての話になった。

アンナは朝、昼、夜と歯磨きをしている。
私が仕上げ磨きをするのは夜だけだけど、食後にはまず自分で必ず磨く。
おかげで虫歯はない。

母は、私が子供の頃は、
歯を磨いてやることも、磨かせることもしなかったと言う。
小学生になって、かろうじて朝だけ磨くことを教えたそうだ。
私は驚いた。
信じられない。
そう言えば、夜寝る前に歯を磨きなさいって教わったのは、
中学校に入る前くらいの頃だったかもしれない。
こわい、こわい!
おかげで、いや、そのせいで、私は虫歯だらけの子供だった。
永久歯もいっぱい虫歯になって、口の中は治療した歯がいっぱい。
でも、昔はそれが常識だったそうだ。
どうせ永久歯が生えるんだから、乳歯はボロボロになってもいい、
永久歯も虫歯になったら歯医者に行く、銀歯をかぶせる、
どこの家もそんな感じだったのだそうだ。

そう言えば、昔は、虫歯の子がが多かったように思う。
友達でも前歯が虫歯で真っ黒だったりする子がいっぱいいた。

まあ、私がそんな小さい子供の頃ってのは、もう30数年前の昔の話だが。

今は、保健所でも子供の歯磨き指導が行われ、
子供用の教育ビデオでも、可愛いキャラクターが歯磨きをして見せる。
歯磨きをしっかり、乳歯から歯を守ろう、それが常識だ。
私が子供の頃の常識とは大違い。
常識は変化するんだな。

歯磨きだけじゃない、
女性が閉鎖的、従属的であることが常識だったけれど、
今はそれもだいぶなくなってきたのではないだろうか。
少なくとも、知らない男と無理矢理結婚させられることはなくなっただろう。

常識は時代の流れの中で変化するんだな。
よいもの、進化したものへと変化するんだな。
今私達が常識だと思っていることも、
時代の流れの中で変化していくんだろうな。
もっと、もっと、よいものに。

心のケアが重要視されるようになったのもここ最近だ。
10年前なら今の私のような仕事はこんなにニーズがなかっただろうし、
世間も認知しなかっただろう。
非難さえあったかもしれない。
これから、もっともっと、心を大切にできる集合意識が育つといいな。
学校の勉強も大切だけど、
心を学んでいくことが常識になっていくといいな。

どんどん、よい方へ、よい方へと、すべてが変わっていくといいな。
私達のマインドの集合体ともいえる常識、
それが、どんどん、よいものへと、軽やかなものへと、
変化していくといいな。

凶悪事件や青少年犯罪が増加していることは事実であり、
とても悲しいことだ。
でも、その傍らで、素敵なことが起こっていることも覚えておきたい。
心の大切さを誰もが感じていい時代。
心のケアをすることが素敵なことだという価値観が広がりつつある時代。
なにもかもが悪い時代だなんて思うのは悲し過ぎる。
今私達はこの時代に生きているのだから。


2005年01月24日(月) 小さな先生

本当は週末の中島先生のワークショップのことを書きたかったんだけど、
3時過ぎちまってねむねむなので、さくっと別ネタ。
(それでも書くんかいっ!?)

ワークショップの後はものすごく疲れてぐったりするので、
いつもオフにしていて、今日も実家でだら〜んと過ごしていた。

ボーッとしていたらアンナに遊ぼうとせがまれて、
実家の廊下(メッチャ広い)で一緒にかけっこをした。

ただ、ぎゃーっ!と叫びながら、
廊下の端から端までを走って最後はスライドするだけなんだけど、
アンナはげらげら笑いながらすっごく楽しそうにやるんだよね。
最初は「何が面白いんだ???」と思いながらやってたけど、
ま、せっかくだからと、
私も真似してぎゃーっ!と叫びながら走っていたら、
だんだん面白くなってきて、
最後は子供レベルで叫んで笑いながら走っていた。
しかもかなり楽しい。
奇声をあげて、一体廊下を何往復したことか。

息が切れてギブアップして、はぁはぁしながら、
自分がものすごくハッピーなことに気付いた。
不思議だった。
ついさっきまでは、別に辛くもなかったけど楽しくもなく普通だったけど、
アンナと廊下レースをし終わった後、ものすごくハッピーなのだ。
ただ走っただけなのに。

子供ってすごいな。
何にもなくても何かをして人生を楽しむ天才だ。
子供はとにかく楽しみたい。
だから、楽しもうとする。
なんでも楽しくしようとする。

アンナはなんでも楽しいらしい。
窓ガラスの水滴を見ているだけでも楽しいらしい。
葉っぱのぎざぎざを見ているだけでも楽しいらしい。
空を見ているだけでも楽しいらしい。
立って左右に揺れているだけでも楽しいらしい。
ベッドにもぐり込むだけでも楽しいらしい。
スーパーのカートを押しているだけでも楽しいらしい。
私やダンナと目が合っただけでも楽しいらしい。

そんなアンナと一緒にいると、私も楽しい。
楽しいということを教えてもらっている。
楽しむということを教えてもらっている。
どこにでも楽しみを見出せるのだということを教えてもらっている。
忘れてしまっていた楽しみ方を思い出させてもらえる。

アンナを見ていると、
私は沢山の楽しいことをどこか置いてきてしまっているのだと感じる。
それは、実は、いつも自分のそばにあって、
楽しもうと思う時にいつでも楽しめるのだと、アンナは教えてくれる。
バカみたいに意味もなく何かをすることだって、
とっても楽しいってことを、今日も教えてもらった。

私達も昔はそんな子供だったんだよね。
ただ、忘れてしまっているだけなんだよね。
時々バカになって意味なく何かをするってこともいいなぁ…って思った。
大人は意味や理由や生産性のあることしかしないけど、
何かをするのにそんなものなくたっていいんだって感じた。
そんなものがないところにでも、
とても大切なことがあることだってあるんだって。

また時々一緒になってバカみたいに遊んでみたいな。
あんなに無意味に無条件に楽しかったのは久しぶりだ。
そして、それが本当に心地よかった。
悩みがあったって、辛いことがあったって、
そういう時間を作ったら、そこから何か始まりそうだよ。

ありがとう、いつも素敵なことを教えてくれる私の小さな先生。


2005年01月17日(月) タバコ屋のお母さんと

今日は朝からアンナをああだこうだと叱りつけ、
心穏やかでない一日がスタートした。
大人が子供を叱る時、その8割以上がエゴだという話を聞いたことがある。
まさにその通りだな…そんなことを考えながら、
保育園までの道をすたすた歩いていた。
後ろからしょんぼりしたアンナがついてくる。

いつも通るタバコ屋の前に来ると、
お店のおばさんが朝の掃除をしていた。
私は彼女をお母さんと呼んでいる。
まだお母さんの歳じゃないわよ〜、とおばさんは言う。
おばさんと言えども、とてもキレイで素敵な方で、大好きなの。
いつも元気な私は、よく挨拶をしたり、ちょっとした立ち話をする。

けれど、今日は気持がよどんでいて、それどころではない。
おばさんがいつも通り「いってらっしゃい」と声をかけてくれたけれど、
いっぱいいっぱいな私とアンナは無反応に通り過ぎてしまった。
普段は手を振って「いってきま〜す!」と返事するんだけど。

アンナを送った帰り道、またタバコ屋の前を通った。
またおばさんがいた。
人と話せる心境ではなかったので、軽く会釈して素通りしようと思ったら、
おばさんが声をかけてきた。
「今日機嫌悪いの?」
私はぎくっとした。
「え?私?そうですかねぇ?」と、意味不明な言葉を残して、
目も合わせず足早にその場を去ってしまった。

涙が溢れてきた。
なんでそんなこと言うの?ひどいよ!
そんな気持でいっぱいになった。

朝から一発アンナにかました自分を責めていたところに、
おばさんから「機嫌が悪いの?」と言われ、
まるで「そんなんじゃダメ」と責められているように感じ、
私は途端に反応した。

もう二度とおばさんに挨拶するもんか!
心の中で、今思えばそんな子供じみたことを考えていた。
私の気持ちや状況なんて何も知らないくせに!って。
おばさんに悪いことしたなって気持は、ほんのかすかにしかなかった。

家に帰ると怒りと悲しみが襲ってきた。
自分への怒り、おばさんへの怒り、そして悲しみ。

でも、事実を受け入れようと思った。

アンナを必要以上に叱った事実、
いっぱいいっぱいになって挨拶してくれたおばさんを素通りした事実、
感情でおばさんが自分を責めていると決めつけたという事実、
みんなみんな、ただそこにある事実として受け入れようと思った。
自分や誰かが自分を責める責めないの問題ではなく、
ただそこにある事実として。

ゆっくりだけど、認めていく。
こういう気持だったから、こういう理由だったから、
トラウマで子供にそういう反応をしてしまうからとか、
そんな理由は一切抜きで、
ただただ自分が朝してきたことを自分がしたことして認めていった。

そんな作業をしていて気付く。
いつも私は事実を、出来事を、そのまま受け入れたくないことを。
自分がしたこと、されたこと、自分に起こったことを認めたくなくて、
そこから溢れ出す感情ですべてを判断したいことを。

私の内側が観念し始める。
そう、そうだよ、私は今日、こういうことをしたよ、
したね、したよ、それは子供を傷付けたということだね、
したね、したよ、自分の反応で相手のことを決めつけたということだね、
それがそこにある事実だね、って。

おばさんにあの言葉を言われなかったら、
私はまた被害者ぶって、反省し抜け出せない自分を変える努力ではなく、
嘆くことにだけ時間を割いていたに違いない。
長い時間をかけて、
私はようやくおばさんに心の中で「ありがとう」を言えた。

だから、アンナを保育園に迎えに行く途中に、私はそのタバコ屋に寄った。
そして、おばさんに言った。

「今朝はすみませんでした。
 朝とってもイヤなことがあって、
 落ち込んでたと言うか、イライラしてたんです。
 だからすごく感じ悪い態度をとってしまって。
 子供にもキツく当たっちゃってたんです、悪くないのに。
 だからふたりであんなふうだったんです。
 謝りたかったので来ました」

説教のひとつもされるかもしれない、そんな覚悟さえしながら。

すると「まぁ…!なんて素直なの!?」と言ったおばさんの目は、
たちまち潤んで涙でいっぱいになった。

私はハッとした。
おばさん、泣いてくれるの?私のために?
素直って?こんな私が?
あんなことをした私をほめてくれているの?
衝撃にも似た感覚だった。

おばさんは続けて言った。
「いいママよ」

その言葉を聞いて、私の目にも涙がにじんできた。
今日のすべてがほどけていった。
涙が目頭にたまって、今にもこぼれ落ちそうになる。

謝ってよかった。
自分の過ちを認めてよかった。

私を責めていたのは他の誰でもない、私だった。
それを誰かに責められていると反応して相手を責めて、
事実から遠ざかろうとすることが、私には幾度となくあった。
事ある度、嘆いて、抜け出したいと願いながら、
その場に居続けるための思考回路ばかり働かせていた。

今日、私は、改めて、その思考回路を破壊し、
意図的に新しい思考回路を組み立てることにより、新しい現実を体験した。
そう、こういうふうに生きたいんだ、私は強く感じた。

タバコ屋のおばさんと今日そんな体験をした。
ありふれた毎日の中の、ありふれた出来事。
でも、私の中には深く刻まれた出来事。

私の日々。
楽しい日もある。
今日みたいに心が痛くなる日もある。
いつも、特に辛い日は、私はこうやって自分の心をいじってみる。
そして改めて思う。
辛い日ほど大きな贈り物があるなぁ…って。
きっと神様は私に大なり小なりの困難が含まれるテキストを与え、
どう学習するかにこにこしながら眺めているに違いない。
チクショーと笑いながら思えるようにまでなった。

今日という日がまるごとワークだった。
とても素敵なワークだった。

タバコ屋のお母さん、ありがとう。




アンナのケアもしたかったので、
私は保育園から帰った彼女をお茶に誘い、
朝のことをママが悪かったと謝った。
アンナが保育園である子にイヤなこと言われているらしく、
辛かった話を聞いて、一緒に今後の対策会議をして作戦を練り、
ふたりで「エイエイオー!」をした。
それぞれ自分のこと頑張ろうね、って。


2005年01月13日(木) 心のゆとり

以前、何気ない会話から、ある人と洗剤の話になった。

私は、本当に小さいんだけど、地球にやさしいくしたいなぁ、と思って、
界面活性剤を使っていない純石けんを、洗濯用と食器洗い用に使っている。

純石けんは、CMで宣伝してるような洗剤よりは少し高いんだけど、
自分が流す廃水を少しでもキレイにして流したいなぁ、って。
純石けんの成分は、流して24時間以内に分解され、自然に帰るのだ。
それに意外に汚れ落ちがよく、使いやすい。

でも、界面活性剤等を成分としているものはそうは行かず、
いつまでも不純物として残り、それが川、やがては海に流れてゆく。
海が汚染され、地球がだんだん汚れてしまうのだ。
きれいになることなく汚染だけが積もり積もってゆく。
だから、自分にできる範囲で小さなことから…と思って。

そんな話をその人にしたら、
「そんなこと考えてんの?
 地球のことまでいちいち考えてらんない。
 それに高いんじゃさぁ」
と言った。

その時、私は、ずいぶんひどい言いっぷりだな、と思った。
私が絶対的にいいことをしているわけじゃないし、
強制する気もないけど、
自分の住む、自分の子供も住む環境を、
大切にする気持ちが少しもないんだな、って、腹立たしくなった。

今日、トイレに座ってる時に(なぜトイレ!?)、
ふと、そんなことを思い出した。

けれど、実際その出来事があった時は、
その人にものすごくムカムカしてたはずが、
今日は違った。
ああ、彼女は心のゆとりがなかったんだな…って思った。
心のゆとりがなくていっぱいいっぱいだったんだな…って。

今思えば、彼女はちょうどダンナさんと離婚するかしないかで、
大もめにもめている時だった。
心身共に疲労がピークに達していたに違いない。
しかも離婚話の原因はダンナさんのお金のだらしなさと多額の借金。
ダンナさんの借金でものすごい苦労していたので、
1円だって惜しかっただろう。

そして、20代前半の自分のことも思い出した。

私は結構マナーにはうるさく、
道ばたに唾や痰を吐いたり、
タバコやゴミのポイ捨てなんぞはとんでもないと思っているクチ。

だけど、父との確執でものすごく精神が荒れていた頃、
私は車を運転しながらタバコを吸っていて、
急に窓からタバコを捨てたくなったことがある。
そして、走る車の窓からタバコの吸い殻をポイッと捨てた。
私はニヤッと笑った。
ざまぁみろ!と思った。
何かに復讐したような気持だった。

ああ、そうだった。
あの頃は一般的に言う「よくないこと」をすごくしたかった。
タバコのポイ捨てもした。
人とぶつかっても謝らずに睨んだ。
人を妬み悪口を言った。
トゲトゲして人にいちいちキツいことを言った。
車で走っていてやたらのろのろした車がいると、
クラクションをむやみに鳴らして威嚇したりした。
すごーーーくイヤな人だった(笑)
そう、イヤな人になりたかった。
そうしたかったのだ。
そうせざるを得ない精神状態だった。
心のゆとりなんてこれっぽっちもなかった。
だから、私は、今よりもずっとずっと心の狭い人だった。

そうだ、彼女もそうだったんだ。
苦しかったんだ。
苦しくていっぱいいっぱいな時、
自分以外のことを考えるゆとりなんてない。
ましてや、地球環境のことなんてどうでもいい。

便座ウォーマーのおかげでぽかぽかなトイレに座ったまま、
私はそんなことを考えていた。

心のゆとりって大切なんだなぁ…

私は、今でも、私個人の主観でイヤな人を見かけると、
眉をしかめてしまう。
なんだコノヤロー!って思う。
そして、それは私の自然な反応だから、よしとしつつ、
それだけで終わらず、
その人の背景にもほんの少しだけ想いを馳せられる人であれたら、
なんだかとってもいいなぁって思った。
そして、そんな心のゆとりを持っていたいと思った。

夫婦でなんだかんだとても忙しい私達は、
いつも心のゆとりを失いがち。
そんな時、アンナがいつも我に返らせてくれる。

「ママ、見て、お花がきれいだよ」
「ママ、折り紙で鶴作ったよ」
「ママ、大好きだよ」

そうやって純真な言葉を投げて、
大切なものを思い出させてくれる。

今日もこなさなきゃならないことの多さに、
とってもイライラしながら晩ごはんの支度をしていたら、
パソコンの前にアンナが手紙を置いたと言う。
読みに行くと、そこにはこう書いてあった。

「ママ、おりょうりたのしいですか?
 いつもおいしいごはんありがとう」

「楽しいよ!心込めて作るからいっぱい食べて!」
私は振り返ってそうアンナに言った。
さっきまでのイライラが消えて、私はあたたかい気持で料理をした。

今日もアンナに心のゆとりを与えてもらった。
時には、あまりの慌ただしさに、
与えてもらっていることすら受け入れられなくて、
突っぱねてしまうこともあるのに、
それでも与え続けてくれる。
私は受け取り続けよう。
受け取り続ける努力をしよう。
たとえ、いつもは無理であったとしても、
そういう気持を忘れないようにしよう、
そう思った。

心のゆとり、そのことを覚えておこう。
大切な家族のために。
大切な友達のために。
そして、なにより、自分のために。


2005年01月09日(日) 形から入ってなりたい自分になる

今年の私の抱負は、自分をランクアップさせるということだ。
あらゆる面でもっと成長し、豊かになろうと決めた。

そんなことを考えていたら、ふと昔を思い出した。



私はロレックスの時計を使っている。
23歳で車の営業を始めたけれど、お客様から度々キツいことを言われた。
「若いから信頼できない」「女はダメだな」って。
それは避けられない事実でもあったし、時にナメられてもいたと思う。
悔しくて、悔しくて、自分をランクアップさせるために、
30回払いでムリムリ買ったのがそのロレックスだった。

不思議なもので、高価なものを頑張って買って身につけると、
背筋が伸びて、すごく気分がシャンとした感じになる。
そして、もっと不思議なのは、
ロレックスをするようになって、ナメられることがほとんどなくなった。
お客様が自分に一目置くのを感じることが増えた。
それまで横柄にしていた人が、
私の時計を見て「いいのしてるね」と言って、
急に態度を変えたことが、営業時代に何度かあった。

嘘臭いけど、これ、事実。
そして、人は見かけで人を判断することを否めないのも事実だった。

私は自分に足りないものを「価値ある物」の力を借りて補った。
同じ私なのに、ロレックスをしているのといないのとでは、
お客様の反応は明らかに違った。

持ち物で判断するなんて!という気持にもなったけれど、
今自分に足りないものを「価値ある物」で補って、
形だけでもナンチャッテな自分を作ることで、
その「価値ある物」を含めた、相手にとっての自分の価値が上がったし、
価値ある自分として扱われることにより、
私は多くを体験し、多くを学び、多くを得た。

人は「そういう人間」として扱われた人間になってゆく。

また、「持ち物で判断するなんて!人間中身よ!」と吠えていた私自身が、
まだまだその中身(体験を通した成長)のないおこちゃま人間だったから、
ロレックスの力を借りて、形からセルフイメージを形成したと言える。
そして、そのセルフイメージのような人になろうと努力できたことを、
今でもしっかりと覚えている。

相手からのプラスのストロークと、自分の意識の高まりが、
それまでになかった自己像を形成していく。
なりたい自分、よりよい自分への道のりだ。

私の体験の場合で言えば、
その発端は、私の中身ではなくフェイクな自分を作るための「飾り物」、
いわゆる形だった。



そんなことがあった。
そして、それは確実に私の糧になった。

今の自分を振り返った。

いかに安物ばかり買っているかというネタを、
ママ達の会話の中でやたら連発している自分がいる。
お金ないしぃ〜、とか。

それはママ達の横のつながり中での、
「みんな大変よねぇ」みたいなシンパシーでもあるし、
必要なコミュニケーションの一環でもあるけれど、
そこにずっぽりハマっている自分に気付いた。

グチをシェアして人とつながることも時には必要だけど、
そこにずっぽりハマっていると、そこだけの人になってしまう。
そして、言霊通りになってしまう。
「大変よねぇ、お金ないしぃ〜」
苦労だらけの人生、うまくいかない人生、グチだらけの人生。
そこそこ、まあなんとかやってるような人生。

そういう場所にいることはあってもいいけど、
そこだけになってしまうのはイヤだ。

私はなりたい自分になるのだ。

暮れに読んだ本に書いてあった。

リッチになりたかったらリッチに振る舞うこと。
クレジットカードをゴールドにする、
財布に万単位のお金を入れて持ち歩く、
例えば、そんな形から入ることがとても大切で、
その形が未来のリッチな自分につながっていく、って。
まずなりたい自分に形から先になってしまうこと、って。

なくてもあるように振る舞う、まさにこれだ。
私が若い頃ロレックスの力を借りて虚勢を張ってたように。
そして、それが、いつしか私をちゃんとランクアップさせてくれたように。

その本にもとても共感したし、ロレックスのことも思い出したし、
自分をランクアップさせるという目標のために、
私は、頑張って貯めたへそくりに手をつけ、
ずっと欲しかったヴィトンのバッグをキャッシュで買った。
気持よかったでぇ。

メチャクチャ安いのしか使ってなかったもんなぁ〜。
ま、安いからいいか、ってノリだったもんなぁ〜。
それでいいんだと思い込んでいた。
こんな高揚感なかった。
忘れてたな、この感覚。
私は安い物が好きで、安い物が似合って、
安い物でいいものを見つけることこそ真実よ、
高いブランド品なんて興味ない!くだらない!みたいなことを、
半ば信じ切ってしまうところだった。

ロレックスを買ったときの気持がまた思い出された。
ああ、そうそう、こんな感覚だった、って。
私はバッグがない時と何も変わらない。
でも、いい物を手にした時のこの気持の高まりが、
私を前向きな場所に連れて行ってくれそうだ。

キレイな下着を着けると、外からは見えないけれど、
なんだか気分が良くなって、嬉しくなるのに似てる。
そういう時ってなんだか背筋が伸びて、歩き方まで変わる。
そういうことだと思う。

少し前に調子が悪くなって、
お金がもったいないからと修理しないで放置していたロレックスも、
ちゃんと直してまた身につけようと思った。

もちろん、今まで通り、安くていい物も物色するよ。
それも好きだから。
そして、それをしながら、
安い物を持ったり着たりしているのに、なんか素敵だねって、
そういうふうな人になりたいな。
両方を楽しみたい。

人は「そういう人間」として扱われた人間になってゆく。
それならどう見られるか、どう扱われるかを自分で決めて、
そう扱われるようになってみるのも、
なりたい自分になるひとつのステップじゃないかと改めて思うこの頃。



あ、誤解を招く表現も含まれているので補足を。

高価なブランド品を買った方がいいとか、
それを持つことが一番素晴らしいとか、
そういう意味ではない。

形から入るという今日の内容の中で、
私の体験談はたまたまそうであっただけで、
その人なりの「形」を見つければいいのだということだ。


2005年01月06日(木) 人間万事、塞翁が馬

今日車のタイヤがパンクした。
ツイてない。
外は冷たい雨。
一気にブルーになった。
機嫌も悪くなった。

年末年始の大出費で家計が火の車の時に、
タイヤ交換で1万円以上の出費。

なんだかよくわからないけれど、泣けてきた。
涙が出てきてしまうのだ。
そう言えば、昔からこうだ。
何かよくないことがあると、無性に泣けてくる。
たったそのひとつの出来事が、
私の人生をめちゃくちゃにしてしまうような感覚に襲われるのだ。

イライラしながら近所のカーショップに行ってタイヤ交換を頼んだ。

待合室でタバコを吸いながら、そこにあるテレビをボーッと見ていた。
「救命病等24時」の再放送をしていた。
ちょうど小さな女の子が意識不明になっているシーンだった。
両親が何もできずにただただ女の子を見ている。
その傍らで初老の女性が亡くなる。

それを見ていたら、またまた涙が出てきた。

そして、子供が元気だということは、それだけでありがたいんだ、
大切な人が生きているということは、それだけでありがたいんだ。
心からそう感じた。

そう言えば、最近、色々なことへの不平不満で頭がいっぱいだった。
なもんだから、イライラしていた。
感謝の気持なんて全然なくなってた。
そんなゆとりもない状態だから、
アンナにやさしくするゆとりもなく、遊んであげることもなく、
放っておいたことを思い出した。

ここしばらくそうだったな…

私は一体何をしてたんだろう?

人や物事の悪い部分ばかり見てイライラして、
すべてにあるよい側面を見ようとしていなかったんじゃないだろうか?
大切なものを放っておいて、何を忙しくしてたんだろう?
普通の日常がありがたいものだということを忘れてはいなかっただろうか?

急に我に帰ったような気分だった。
自動車保険に入ってるからタイヤ交換したお金も出るんだった。

損失なしか…

パンクという一見イヤな出来事だったけど、
私は見失っていた大切なものを思い出した。
しかも、待合室でたまたまついていたテレビの、
たまたま放送していたドラマの再放送で。

人間万事、最奥が馬。

目先の出来事がいいか悪いかなんて、後になってみなくちゃわからない。
今日がまさしくそうだ。
今日パンクしなかったら、ネガティブな感覚のままだっただろう。

宇宙に、厳しく、そして、やさしく、
見守られているなぁ…って、強く感じた。

とてもいい日だった。

タイヤ交換が終わり、車を運転しながら、
私は、ありがとう、ありがとう、と何度も繰り返した。
近くのドラッグストアで、アンナにトランプと手袋を買い、家路を急いだ。


2005年01月05日(水) 私的正月休み明け前夜

明日からはダンナも私も仕事、アンナも保育園、
頭切り替えてこー。

いまだボーッとしてるんだよな、正月気分で。

今年は正月太りしなかった私、エライ。
よく頑張ったっ。
よく美味しそうな料理を目の前に耐えたっ。

今年は二の腕締めるために、毎日筋トレしよーっと。
とここに書いておいて自分を戒めよーっと。

今年も素敵な年になりそうです。
すべてはうまくいっている。


2005年01月04日(火) あけましておめでとうございます(月並みですが…)

新年早々風邪をひき、声が森進一なエイミーです。
仕事なぐでよがっだーっ!!!
いやぁ、健康って本当にいいですねっ。
えほえほ…

あけましておめでとうございます。
みなさん、本年もよろしくお願いします。

昨日は、家族で地元成田山に初詣に行き、
参道では出店だの地元のお店だので、おいしいものを食べ歩きし、
楽しく過ごしました。
アンナに、お年玉でたこ焼きと鳥のからあげをおごってもらい、
素直に甘えて食らっていた母なのでした。

さて、今日は、
掲示板にあった素敵な書き込みをご紹介したいと思います。
掲示板にも来てくださっている方もいらっしゃるでしょうけれど、
改めてこうして日記に載せることで、
私をはじめ、色々な方に意識化していただければ…と思います。

以下、Buchiさんの書き込みをそのまま転載させていただきます。

*****


私たちの使っている日本語って、
言霊学でいうと発するすべての声音が母音を含んでいて、
そのため世界で唯一の聖音を話す言語でとてもパワーがあるんだそうです。

それでね、「すべてはうまくいっている」っていう言葉は、
「南無観世音菩薩」や「南無妙法蓮華経」などと同じ意味を持っていて、
「宇宙のしくみ」をシンプルに表現しているんですって。

なので、これを口癖にすると、長年の暗い思い込みを、
潜在意識からするすると押し出して
新しい輝かしい思い込みと入れ替える手助けになるそうです。


*****


年初にふさわしい素敵な書き込みでした。
少しでも多くの方にシェアしたかったので、
日記に転載させていただきました。

今年がみなさんにとって素晴らしい年になりますように。
ひとりでも多くの方がご自分の本来の姿に目覚め、
失った多くを取り戻してゆけますように。


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