おひさまの日記
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2004年04月24日(土) 親しき仲にも礼儀あり

先日、久しぶりにある友達に会った。

居酒屋に入り、
ガンガンオーダーして落ち着いた時、友達が言った。
「あ、今日、持ち合わせないんだよね」

私は一瞬固まった。
えっ?

最初からおごってもらうつもりだったんか?

でも、小心者の私は「えっ!?」と言えずに、
「いいよ、いいよ〜、今日はおごるよ〜」と笑顔で言った。

お会計では予想以上の金額、
帰りの電車賃や駅からのタクシー代、
次の日からの生活費を考え、
カードで支払った。

うーん…

なんかショックだった。
そして、悲しかった。
今までそのコはそういうやり方で生きてきたのだろうか?
少なくとも、私が親に教えてもらったり、
社会で学んできたこととは、違っていた。

町金でつまんで、借金抱えてしまった話聞いてたから、
金銭的に苦しいのはわかってた。
だから、それならおごるよ〜って、確かに私も言った。
でも、それはその場での話。

それなら後日約束した時に改めて、
「会いたいけど、お金がないんだ」って言ってほしかったな。
それなら気持ちよくごちそうできたのにな。

ま、確かに言いづらいことかもしれない。
申し訳ないと思ってるんじゃないかな?って、察してみたりもした。
でも、そのコが大好きなだけに、なんかショックで悲しかった。
コミュニケーションって大事だよね。
そのコは「言わなくてもわかるでしょ」タイプ(だと私は思う)。
言わなくてもわかるけど、
親しき仲にも礼儀ありじゃん、って思う私は、
ただのアタマガチガチ女?
ごちそうさまでしたって、ひとことも欲しかったよ。

うーん…
私って勝手だろうか…

今度、感じたこと、伝えてみようと思う。
責めるんじゃなく、もっと気持ちよく付き合いたいから、って。
やっぱり、私にとっては大切な友達だからさ。
そして、今度はいいコミュニケーションして、
気持ちよく会えたらいいな、って思う。


2004年04月23日(金) 自分の中の「いけない私」

みんな自分の中に、自分なりの「いけない私」が存在してるみたいだ。
あんなこと、こんなこと、感じる私、考える私、する私。

それぞれが自分で罰する「いけない私」は、
特に「ネガティブなことを感じ、考え、する私」みたいだ。

例えば、
人を嫌う、憎む、妬む、蔑む、
人の不幸を願う、
人を蹴落したくなる、
人にやさしくできない、
などなど。

しかし。

それらのものは、自然に心の中に湧いてくる感情であり、衝動だ。
朝になれば太陽が昇るのと同じくらい自然なことなのだ。
誰も昇る太陽を止めることはできないように、
湧いてくる感情や衝動を止めることはできないのだ。

つまり。

それらのものはあっていいのだ。
だって、とっても自然なものだから。
それらが自分にあるということは、いけないことではない。
それらは、ただ、そこにあるのだ。
ただそれだけだ。

それは「いけない私」なんかじゃなく、「ありのままの私」だ。
そして、その「ありのままの私」は、もうそれで仕方ないのだ。

人間なんだもの、それが自然じゃない?
それでいいんだと思うんだ。
そう思って自分を認めることで、他の人のことも認められるようになる。

そして、不思議なんだけど、
それでいいじゃん!って思ってると、
あまりそこにはハマらなくなるんだよね。
そこに来たとしても、スーッと通り過ぎてしまう。

すべてに陰陽両極がある。
どちらか片方なんてあり得ない。
両方あって、はじめてバランスが取れるのだ。
天使と悪魔はいつもペアで私達の中に存在し、シーソーゲームをしている。
時と場合によって、どちらかがひょこっと上に来るだけだ。

自分の中の「いけない私」という定義を、
「ありのままの私」という定義に変えてみよう。
そして、それに意味を与えるのではなく、
ただそこにあるものとして見てみよう。
「ありのままの私」でいることで辛くなることもあるだろう。
けれど、そんな辛い感情に翻弄されても、
それごとみんな味わいながら、見てみよう。
見てあげよう、自分のために。
罰せず、ただ見てあげよう、そんな自分を。


2004年04月20日(火) 親子なんだから

母と接する機会が増え、なにかにつけて母にイライラする自分に気付く。
昔しなかった親子ゲンカを今になってしているみたいになる。
私が一方的に、怒ったり、怒鳴ったり、してしまう。
単なる子供のわがままみたいに。

そんな自分を見て思った。
私は父と同じじゃないか、あんなに批判してきた父と。

私はそんな自分がイヤだった。
私と母を苦しめてきた父と同じような自分が本当にイヤだった。
まるで父のコピーみたいな自分が。
ああいうふうにだけはなるまい、そう心に誓ってきたのに。
やっと父から解放された母が、今度は私にぐちゃぐちゃ言われている。
意味ないじゃないか。

泣けてきた。
泣きながら母に電話した。
お母さん、ごめんね、いつもひどいこと言っちゃってごめんね、って。
やさしくしてあげられなくてごめんね、って。

母は言った。

「いいじゃないか、親子なんだから。
 親子だからがまんしないで言いたいこと言えるんだ。
 他人だったら我慢するけど、そうしなくていいのが親子じゃないか。
 そんなに自分を責めるんじゃないよ。
 私だって恵美のおかげでここまで頑張ってこられたんだ。
 さあ、もう泣かないで。
 親子なんだからそれでいいんだよ。
 お互いの足りないとこ補い合っていけばいいんだよ」

私はそれを聞いて、なんだかやっと許されたような気持ちになった。
悪い子の私をやっと許してもらえたような、そんな気持ちに。
悲しみの涙が、安堵の涙になって、またいっぱい流れた。

そして、母がどれほど私を大切にしようとしてくれているのかを、
今更ながらに感じずにはいられなかった。

「恵美が小さい頃、きつく怒ったり、冷たい言い方したりして、
 なんであんなこと言っちゃったんだろ、
 なんでやさしくしてやれなかったんだろ、って思って苦しかったねぇ」

母はそう語った。

今私が娘アンナに感じていることと同じことを、
母も遠い昔の幼い私に感じていたのだと改めて知った。
自分が人の親になることで、
そうであろとう察することはしていたけれど、
改めて本人の口から聞くことで、
なんだかそれが私の中にスーッと入って来た。

うまく言えないけど、母にとても近付いたような気がした。

どうにもならないことを、仕方のないことだと思えるようになると、
ひとつの大きな癒しが起こる。
そこには許しが訪れるから。
それは自分のせいじゃない、仕方のないこと、
そう思えるだけで、人はどれだけ救われることだろう。

小さい子供は責任を背負い込む。
私が悪い子だから、パパやママが怒るんだ、と。
私のせいだ、と。
やがて、大人になって思う。
私がこうだからいけないんだ、と。
その罪悪感や自己評価の低さは、
私達人間にとって、すごく苦しい感情だと思う。

「親子なんだからそれでいいんだよ」

母のその言葉で、私は母に許され、そして自分を許せたような気がした。
そして、自分が過去に体験してきた辛い数々の出来事が、
その言葉を聞いたからこそ、それでいいんだ、って、思えた。
親子なんだから、と。

これからも私の葛藤は続くだろう。
けれど、その母の言葉はいつまでも私の中に残り、
メビウスの輪のようにうねりながら永遠に訪れる葛藤を、
癒しながら生き続けるのだろう。

私もいつかアンナに伝えよう。
彼女が何かで今の私のように苦しむことがあったら、
親子なんだから、と。

私は母に何度もありがとうを言って電話を切った。


2004年04月09日(金) ゆっくり歩く

最近あたたかくなってきたので、
歩いてアンナを保育園に連れて行っている。
年長さんになったこともあり、
ギリギリ駆け込んでいた今までを反省し、けじめのためにも、
以前より30分早い登園をすることにして、時間的にも余裕ができたのだ。

ぽかぽかあたたかい中をふたりで歩く。
ゆっくり歩く。
時には一緒に歌を歌ったり、スキップしたり。
アンナは道ばたの花をつんで髪やバッグに飾ったり、
木の枝を拾って振り回したり。
なんだかとても楽しく、嬉しい。

遅刻ギリギリで車を飛ばして保育園まで行っていた頃、
私は本当にたくさんのものを見落とし、
また、失っていたんだな…って思った。

おしゃべり好きな管理人のおじさん、
近所のきれいに手入れされた庭、それをいつもいじっているおじさん、
道ばたに咲いている小さなホトケノザやペンペン草、たんぽぽ、
いつも寝ている犬、
青い空やふわふわの雲、
洋品店の前のプランターに植えられた季節の花々、
近くのお寺のたくさんの桜の木、
アンナは歩きながらそれらみんなにあいさつする。
おはよう、いい天気だね、キレイに咲いてるね、保育園に行ってくるよ、
それぞれに声をかける。
そんな様子を見ながら、私も真似してあいさつしてみたり。
そして、なんだか嬉しくなったり。

わずか6、7分の道のりなのに、
なんだか、そこには、言葉にならない魂を揺さぶるものがいっぱいある。
私は嬉しくて泣きそうになる。

空はこんなに青くてキレイなのか、
雲はこんなに白くてやわらかなのか、
風はこんなに気持ちいいのか、
花の香りってこんな感じだったっけ、
おはよう、ってあいさつするだけでこんなに嬉しいのか、
ひとつひとつが感動であることに気付く。

そして、それらはすべていつも変わらずそこにあるものなのに、
自分が走り去っていたから見えなかっただけなのか、そんなことに気付く。

そして、私は今ここで生きているんだ、そんな想いが胸をよぎっていく。

ゆっくり歩くっていいな。
先を急ぐことは悪いことじゃないけど、それで見落とすこともいっぱいある。
見落としたものは、ごく普通のありきたりのことなんだけど、
きっと人にとってすごく大切なものなんじゃないかな…なんて思った。

そして、それは、私達の人生にも言えることだと思う。
生き急ぎ、ピリピリすることも必要な時があるけれど、
立ち止まり、歩みを遅くし、ゆっくり生きてみることが必要な時もある。
時には、ゆっくり歩くどころか、
立ち止まったままそこにただいることだって必要な時があるだろう。
私達は、そんな時に、真実を見たりするものだ。
だからこそ、次に全力ダッシュもできるのかも、なんて思った。

いつも、私達にとっての大切なことって、
とてもシンプルで、ごくごく普通で、ありきたりのものだったりする。
だからこそ、生き急ぐ時、あまりにあたりまえ過ぎて見落としてしまう。

だから、ゆっくりと歩くように、人生もゆっくり歩いてみたいと思った。
急ぐ時は全力で走りながらも、それだけでない人生を送りたいな、って。
春の朝、小さな手を握りながら思うこと。

春は私に魔法をかける。


2004年04月07日(水) なしげ

いつだったか、スーパーで買い物をしていたら、
アンナが聞いてきた。

「ママー、『なしげ』ってなあに?」

なしげ!?

「ほら、あそこにあるんだよ」

指差した先を見ると、そこはお惣菜売り場。
どれどれ、と、アンナに付いていってみると、
そこには鳥の唐揚げが並んでいる。

そして、よくよく見ると、
唐揚げが入っているパッケージのラベルに、
『骨なし唐揚げ』と書いてある。
はは〜ん、こやつ、読めるようになったひらがなだけ読んだのか!
骨『なし』唐揚『げ』。
『なしげ』
妙に納得。

私は「アンナの大好きな鳥の唐揚げだよ」と答えた。

彼女は、
「なんで『なしげ』なの?」
と、不思議そう。
漢字を抜かして読んでるのにね〜。
なんだか妙に愛おしかった。

子供っておもしろ〜い!
しばらく思い出し笑い。
それからウチでは鳥の唐揚げのことを『なしげ』と言うようになった。


2004年04月05日(月) 私の中のもうひとりの私

私の中にもうひとりの私がいるのだと、はっきりと認識したのは、
ヒプノセラピーで初めて幼児期退行をした時だった。

7歳。
父が母を殴っている光景の中、私は絶叫して泣いた。
「恐いよ!恐いよー!」
のけぞり、手の平に爪を食い込ませ、声が枯れるほど叫んだ。
どこからか湧き出てくる感情は、解き放たれた獣のように猛り狂った。

それは、紛れもない事実だった。

その傍らで、それを冷静に見ている自分もいた。
「嘘〜、こんなに泣いちゃって。
 マスカラが取れてパンダになってるだろうな。
 カッコ悪くてヤだな。
 しかし、私、何こんなに泣いてるんだ?」
そんなことを考えている自分。

呼吸も荒く泣き叫びわななく自分、
冷静にそれを淡々と見ていて半信半疑な自分、
そして、思った。
「あ…私がふたりいる。
 私の中に違うふたりが同時にいるんだ」
冷静な私はいつもの私。
泣き叫ぶ私は深い意識の奥に息をひそめている私。
どちらも私なのだと思った。
ふたつのパーソナリティ。
別々の人格が私の中に存在した。

私は、泣き叫ぶ自分の存在を、その時まで全く知らなかった。
その自分が出てくるまでに、中島先生は誘導に30分近くを費やした。
それだけ強固な意志で感じることを拒んでいたのだと思う。
暴力を振るう父を見ながら「何も感じない」と、
ただ、淡々と、頑に、その光景を見ている7歳の私がいた。
恐怖や絶望や悲しみを感じまいとこらえている自分が。

そのセッションを終えて、私は思った。
「自分がこんなに辛かったなんて知らなかった」
不思議な気持ちだった。

私に「体験の記憶」はあった。
お父さんが恐くてイヤだったな、ひどいことされたな、
辛かったな、ムカつくな、
そんな、頭で覚えている体験の記憶。

けれど、私には「感情の記憶」がなかったのだ。
その時、どう感じたか、そんな「感情の記憶」が。
私はそれを感じ続けていたら、その場所で生きていくことができなくて、
感じるのをやめようと、頑丈に封印してしまったのだ。

初めての幼児期退行、そこで、私は初めて、
私の中のもうひとりの私に出会った。

そこが私の長い長い自分探しの旅の始まりだった。
そして、それは今も続いている。
死ぬまで終わることはないのだろう。

自分の中に存在するもうひとりの自分は、
間違いなく誰でも持っているのだと思う。
けれど、それを絶対に認識しなければならないのかと言うと、
そうではないと思う。
それが必要な人だけ、そうすればいいのだと思う。
そして、それが必要な人は、本人が望む望まないにかかわらず、
自然な流れの中で、完璧なタイミングでそういう時を迎えるのだと、
沢山の人を見てきて思っている。

今、私は、
状況、状況に応じて、様々な反応をし、
入れ代わり立ち代わり現れる色々なパーソナリティを味わっている。
その時々の感情を体験し、
時に、翻弄されながら苦しんだり恐れたり、
時に、はしゃいだり喜んだりしながら幸せを感じたりしている。
そして、その傍らで冷静にそれを見ている。
そう、まるで、あの幼児期退行のセッションの時のように。
別々のパーソナリティを同じ時に共存させながら、それを見ている。


2004年04月04日(日) ありがとう

「世の中、色んな人がいて、
 合わないやつの方がいっぱいいるんだよ。
 だから、その中で自分と合う数少ない人の事を
 好きになったりするんでしょ」

親友の花代ちゃんからのメールの中に、こんな一節があった。
これは、弟さんが、昔、彼女に言ったことなんだって。

なんだかこれを読んで、すっごく力が抜けて、ふわぁ…っとした。

ああ、いたい場所にいていいんだな、って。
好きな人達を好きでいていいんだな、って。
そして、そんな場所、そんな人達は、すごく少なくて、
それらに巡り会えたこと自体が幸せなんだな、って。

そう思ったら、私にはとても大切な宝物がいっぱいあるように思えた。
心を本当に許せる友達。
心や体が疲れた時に身を寄せたい場所、そこにいる人達。
家族、家。

イヤなことがいっぱいあっても、イヤな人に会ってイやな思いしても、
私には、折れた羽引きずって帰る場所がある。
辛かったよ、腹立ったよ、って、ボロボロな自分を見せる場所がある。

これ以上素晴らしいことがあるだろうか、
今日、そう思った。

ひとりでも、ボロボロな自分で会いにいける人がいたら、
それは、とても素晴らしいことだ。
ひとりじゃない。
孤独じゃない。
それだけでいいじゃないか。

嬉しくて涙が出そうな夜。

ありがとう、私の大好きな人達。
この世に生まれてくれて、私に出会ってくれて、本当にありがとう。


2004年04月03日(土) 実る稲ほど頭(こうべ)を垂れる

誰もが自分の世界を持っていて、
それはそれで素晴らしいものなのだと思う。
その人が、その人なりのプロセスの中で作り上げた世界、
それによってここまで来られた足跡もある。
だから、それはそれでいいのだと思う。

先日、やはり、そんな自分の世界を持った人と話す機会があった。
その人の言うことは正論だし、すっごくいいことを言うので、
感心しながらふむふむと聞いていた。

けれど、自分の世界とは違うもの、自分が正しいと思うもの、
それ以外のものを「ダメなもの」「信じられないもの」と話していた。
「みんな自分のようにしないとダメ、あなたもだ」と。

そこにひっかかりを覚えた。
じゃあ、そうなれない人はどうなっちゃうんだろう?
別のキャラや個性を持った人はどうなっちゃうんだろう?
私はその人とのやり取りの中で、ぼんやりと考えていた。

誰かに色々な道もあることを伝えることと、
誰かを真っ向から否定することは、別のこと。
気が付かないうちに、慢心し、そうなってしまいがちなのが人間。
自然と言えば、とても自然なことだ。

私自身、きれいな言葉使って、にこにこして、
実は、その人と同じことを人にしていないだろうか、と振り返ってみた。
痛っ、と思うこともあった。
そして、そうならないように常に心を配りたいと思った。

私達が人に対して行うすべての行為は、自分自身に対して行っている行為。
すべては相手に自分の投影を見ているだけ。

傷つくこと、そして、その痛みを感じること、
それだけでなく、訪れるありのままを感じて受け止めていくことを、
自分に許している人は、人にもとてもやさしい。
自分が自分にしてあげられることが、私達が人にしてあげられること。
「実る稲ほど頭(こうべ)を垂れる」
私が好きな言葉。


2004年04月01日(木) 自分の世界を一旦捨てる

最近、自分とは正反対の人達とコミュニケーションを取る機会が増えた。
結構、目からウロコ。

自分が正しいと思っていたもの、自分がコレだと思っていたものが、
そこでは全く通用しない。
自分の世界が崩壊して、会話をしていても時々チクッと刺さる。
反感を覚える時もある。

でも、ものすごく新鮮なのだ。

そこにあるのは自分との視点の違いだ。
「あ〜、こういう考え方もあるんだ!」という驚き。
視点が違うと、ややこしく難しかったものが、
ものすごくシンプルになったり、
いとも簡単に解決したり、
問題が問題でなくなることを、
その人達とのやり取りの中で感じた。

そんな中で、今まで自分がどんな世界、
つまり、どんな考え方や見方でいたのか再確認もできる。
今思うのは、自分の世界とはあくまで自分の世界なのであって、
正義や正論なのではなく、ただ単に自分の大切なものだということだ。
それを貫くことも大事だけど、時には、一旦自分の世界を捨てて、
他の世界を知ることで、私達は元からあった自分の世界を、
もっと素敵に広げることができる。

私は、自分の世界を捨てる気などさらさらないが、
自分の世界を広げたいとは、ものすごく思う。
自分の世界を広げるということは、
色々な視点を持ち、色々な考え方をし、
片寄りなく色々なものにフレキシブルに対応できるようになることだと思う。
これは、私が仕事をする上でもすごく重要だ。

自分の世界を一旦捨てることで、自分の世界は広がる。
自分の世界を捨てると言っても、それをなくしてしまうのではない。
ちょっと脇に置いておいて、別の世界を否定せず眺めてみるのだ。
眺めてみて、盗めるものは盗んで、自分の世界に持ち帰る。
で、また自分の世界を新たにこねこねと作ってみる。
もちろん、自分にとっては、ハナからパス!って世界だってあるけど。

私にそんな想いを抱かせた人達は、
やはり、目標に向かって行動し、何かを成し遂げている人達だ。
だからできない、だから無理、そんな言い訳をしない。
いさぎよい。
現実世界をしっかりと生きている人達だ。
私達は人間、現実を生きてなんぼ。
その現実で成功している人は、やはり、素敵だと思う。

仮に、その人達とまったく同じことを言っている人が他にいたとして、
その人が、現実で全然なにも行動せず、できない理由をあれこれと並べ、
うまくいかないことや行動しない自分を正当化ばかりしていたら、
私は決して耳を貸さないだろう。
行動が伴っていないから、ただの遠吠えに聞こえてしまう。

私がその人達の世界から新しい視点を盗んで持ち帰ったからと言って、
その人達に感じた違和感を捨てたわけではない。
違和感は違和感、私が受け入れられないものも、そこにはある。
それは、それ。
そして、そこにある素敵なものは、素敵なもの。

それぞれ違う世界がぴったりと一致することはない。
けれど、どこかに接点はある。
その接点を見い出して、得るものは得たいな、って、思う。
今は私が「得るもの」を持っている人達だから。



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