おひさまの日記
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2004年02月28日(土) 静かな土曜日

セッションのキャンセルが入り、今日は珍しく土曜のオフとなった。

11時まで寝て、ゆっくり掃除と洗濯をし、布団も干した。
ネットをちょこちょこやって、2時過ぎてから買い物、
その後実家に帰り、晩ごはんをごちそうになり、ゆっくり夜帰宅。
なーんにもない1日だった。
静かな土曜日だった。

こんな1日を終えようとしながら、思った。

よくよく考えると、私は、
こういう仕事をしてるけど、
精神的なことや、スピリチュアルなこと、そんなことを考えているのは、
仕事以外、1日のうちのほんの少しの時間なんだなぁ、って思った。
割合にしたら、ほんの2割、いや、1割程度かもしれない。
今日みたいに仕事がなかったら、全然考えないかもしれない。

それ以外は、家事や育児のこと、買い物のこと、食事の献立のこと、
着る服やメイクのこと、髪型のこと、どこぞの店が安いなんてこと、
そんなことばっかり考えてる。
そして、自分の悩みにくよくよイライラしたり、楽しいことに浮かれたり、
色々なことに一喜一憂、そんな日々を過ごしている。

だからなんだってんじゃないけど、
みんなおんなじなんだよなぁ、って思った。

以前、こんなことを言われたことがある。
「こういうお仕事をなさっていると、
 いつもそういうこと(スピリチュアルなこと)を考えてるんでしょうね」
って。
そういうイメージってあるのだろうか?

でも、そんなこと全然ないんだなー。
いたって煩悩だらけで、こてこて目の前のことばっかり考えてるんだなー。
私は決してストイックな方ではなく、どちらかと言うと、本能のまんまだなー。
不摂生するし、偏食多いし、タバコがんがん吸うし、片付けないし、
無駄遣いするし、イケメン好きだし、刺激大好きだし、
浮かれてへらへらするし、くよくよイライラするし、
このまま一生行くんだろうなー。

んでもって、今日みたいにヒマだから、こんなことも考えるんだろうなー。


2004年02月26日(木) おつかれ、アタシ!

少し前に、ある店で、
とても気に入ったパンツがあって、迷わずその場で買った。
私にしては、ちょっとふんぱつした買い物だった。

その時、黒とベージュがあって、色をかなり迷った。
これから春だし、たまには明るい色を…という気持ちと、
私のワードローブの基本、やっぱり黒…という気持ち。

ふたつの色をとっかえひっかえ鏡の前で悩み、
結局買ったのは黒だった。

これがまたカッコイイのよ、私的には。

昨日、父の施設への入所の正式な手続きを済ませ、
今日、母の再検査で病院に行き、心配ないと先生に言われ、
長い長い1か月がようやく終わった気がした。

車を走らせる帰り道、私の心はとても軽かった。
自分に「おつかれ!」って言いたい気持ちだった。

そして、思った。
そうだ、自分にご褒美だ!って。

私は、黒のパンツを買った店に行き、
あの時、断念したベージュのパンツを買った。
同じ形で色違い、憧れてたわ〜、こういう買い物。
いつもシ○ムラとかサ○キで安物を物色している私には、
それってかなりの贅沢だ。
それをキャッシュでスパッと買った時の気持ちイイこと!
ふんぱつついでに、ベルトまで買ってしまった。

たまにはいいよね、と、自分に言い聞かせる。
おつかれ、アタシ!

道は続き、幾度となく山は来る。
これからも、日々、生きていこう、そんなことを考えながら、
パンツとベルトが入った袋を助手席に載せ、
もうすぐお別れするカプチーノのアクセルを踏み込んだ。
窓から差し込んでくる太陽の光は、
もう春がそこまで来ていることを教えてくれていた。


2004年02月24日(火) 流れていく

父の施設入所が確定した。
明日、契約に行く。
ちょっと恐い。
父にも面接するからだ。

1か月、母の調子が悪いからと病院に行ってから1か月、
長かったのか、あっと言う間だったのか、
今となってはよくわからない。

ハマサイさんのセッションで、その件に着いて相談した。
彼はリーディングしてこう答えた。
「とてもいい選択でした」
父も施設に馴染み、楽しくやるようになるという。
これでよかったんだ。
母にはうんとわがままをさせてやろうと思う。
もう一度、別の形で家族になろう。

やはり、カプチーノは手放すことになった。
悲しいけど仕方ない。
次の車はダイハツのMOVEになった。
わがまま言って、MOMOステや15インチアルミ装備のグレードにした。
2週間もすれば納車になるだろう。
悲しいけど、新車&ナビ付きは嬉しいという矛盾(笑)
いつか、またツーシーターのオープンカーに乗ると心に決めた。
絶対リベンジするんだ〜。
人生の中で、少しの間、ちょっぴりの我慢があるのも仕方ないと思える。

流れていく。
流れていく。
色々なことが流れていく。
私の人生と、父と母の人生が交差し、
私の人生と、私の家族や友達、知人の人生が交差し、
私の人生と、クライアントさんの人生が交差し、
流れていく。
その交わるところで、たくさんのものを生み出しながら。

ねねのライブを終えて、
また歌いたいという衝動が湧いてきている。
歌も歌おう。
仕事もして、さらに自分らしいスタイルを作り上げよう、成長しよう。
妻として、母として、感謝して毎日を生きよう。
女としての自分にも磨きをかけよう。
そして、何より、もっと私らしく、これからを生きよう。

今はまだよくわからないけれど、
何かが私に近付いてきている。
そして、それは、とっても素晴らしいものだ。
もっと、もっと、胸を焦がそう、ドキドキしよう。
生きるということに。
嬉しいこと、楽しいこと、悲しいこと、辛いこと、
全部ひっくるめて受けて立つ。

人は、自分に訪れた出来事の分だけ大きくなることを、
自分や出会った人達を通して知ったから。


2004年02月20日(金) ばあちゃん改造計画

22日のねねのライブを控え、また母をこちらに呼んだ。
彼女にもヴォイスヒーリングを体験してもらうのだ。

…が。
おわんかぶったような髪型、
オイオイ、それ一体いつのだよ!ってくらい古めかしい服、
ぶかぶかつんつるてんのジーンズ、
せっかく出かけるのだから、なんとかしたい。

手始めに、私の行きつけの美容院S.T.CLUBに連れて行き、カットしてもらった。
母は、鈴木さんはじめ、スタッフの対応にいたく感激していた。
そして、新しい髪型が気に入ったようで、子供のようにはしゃいでいた。

次に、アンナのニューバランスを買った店に行き、
靴ってすごい!という感動をくれたあのお兄さんをつかまえ、
色々見立ててもらい、母にもニューバランスを買った。
お兄さんが出したニューバランスを履いた瞬間、
母は「これ何!?」と声をあげた。
やはりあまりの履き心地のよさに驚いたらしい。
母曰く「素足で歩いているような感じ」だそうだ。

次に、某ショップに行き、ブーツカットのジーンズと春らしいシャツを買った。
平成のファッションに満足した母は、
帰ってきてからも着替えてファッションショーをしていた。

ふふふ。
仕上がりはなかなかいいじゃないか。
なんとか見られるようになったよ。
ちんまりして、にこにこしてる母は、
大体どこに連れて行っても「かわいい」と言われる。
そうか、よく言う「かわいいおばあちゃん」なのか、なんて思ったりした。

ねねは小さな穂葉を抱えながらライブの準備に追われている。
あの熱意と頑張りには頭が下がる。
私もMCの原稿を作ろう。
よいライブになりますように。


2004年02月17日(火) 季節は巡る

施設にいる父の要望で、母を面会に連れていった。
もちろん、私はいないことになっている。
父と母が話をしている小1時間の間、私はロビーのソファー座って待っていた。
その座り心地のよさに、いつの間にか眠りこけてしまった私が目を覚ますと、
ちょうど母が戻ってきたところだった。

母に会った瞬間、父は目を潤ませていたという。
家に戻っても生活が無理なことも、わかっているけれど、
でも、どうしても母と暮らしたいのだという。
夫婦だな、って、思った。
あんなに、死ね、って言ってたのにね。
もちろん、やけっぱちになって言ったのはわかってるけど、
本心じゃないからとは言え、聞き流せるほど私と母は大きな人間ではなかった。

きっと、タイミングだったのだ。
死ね、とか、殺す、なんて、今まで何度も言われてきた。
ハイハイ、って聞き流せるほど日常的な言葉になっていた。
だから、母が死ねと言われたこと、私がおまえのせいだと言われたこと、
別にそれが問題だったんじゃない。
ただ、大きなハザマにいる時に、私達に聞こえてしまったその言葉は、
今までの、死ね、や、おまえのせいだ、とは違って聞こえたのだ。
追い詰められていた私達母娘にとっては、
「ここで区切りを付けましょう」の合図になってしまったのだ。

父は、母とも一緒にいたい、私にも会いたいと言っていたそうだ。
アンナの話になると、涙を流して会いたがっていたそうだ。
嬉しかった。
99の闇と1の光、1の光は父のその想い、父のその真実だった。
私は、光を見た。
見たのだから、もういい、そう思った。
光はたった1だったけど、その光は大きな闇をも照らす輝きだった。
もういい、もういいよ、って思った。
父の全てを許せた気がした。
お父さん、大好きだよ、って、思った。

昔の形に戻っては、もう私達家族の関係は成り立たない。
これからは、新しい形で、愛を育んでいこうと思った。
この形だからこそ見い出せる愛を大切にしようと思った。

ロビーのソファーで眠ってしまった私が目を覚ました時、
私にはやわらかくてあたたかい毛布がかけてあった。
施設のどなたかがしてくれたのだ。
とても嬉しかった。
そんな心配りをしてくれるのだなぁ、ここは、って。

それで、わかった気がした。

父はここでとても大切にされているのだ。
以前の病院では暴れて手におえないほどだったのに、
ここに来てからは暴れずに過ごしているのだという。
きっと、父は、施設の方々のあたたかい介護で、癒されているのだと思う。
親身になって話を聞いてもらい、世話をしてもらい、
父の心は以前よりも満たされているのだと思う。
だから、まっすぐに、母や私への想いや、会えない寂しさを感じられるのだと思う。

ここを選んでよかったと心から思った。
ここなら父を大切にしてくれる、
ここなら父も心穏やかに過ごせる、
ここでなら新しい形で家族になれる、みんなが幸せになれる、って。
人の力を借りて、ようやく。

母も私と同じ想いだった。

季節は巡る。
もうすぐ2月も終わり、春が近付く。
人生にも、きっと、季節が巡るのだ。


2004年02月16日(月) 一通の手紙

今日、一通の手紙が届いた。
以前通ってきてくださったクライアントさんからだった。

引きこもっていた彼女は、父親に連れられて私を訪れた。
その後、ひとりで通うようになった彼女だったが、
両親からセッションをやめるように言われた。
「本当は続けたいんですが、金銭的に両親に世話になっているので…」
と、後ろ髪引かれつつ来なくなった。

やっと彼女が心を開き始めた矢先、とても残念だった。

それから1年と少し経って、その彼女から手紙が届いたのだ。
近況と今感じていることを綴ったその手紙から、
私は彼女が確実に変化し、前に進んでいるのを感じた。

あの後、色々な経過があり、家にいることに無理を感じ、入院したそうだ。
そこで、同じ痛みを持つ人達との交流があり、
それがとてもいい体験になった書いてある。
退院後、独り暮らしを始め、去年の暮れから仕事も始めたという。

結局、私は、彼女の人生にあれ以上かかわることはなかったけれど、
今、彼女は、自分の人生の流れの中で、自力で道を切り開いている。
その時、その時、苦しいことが訪れ続けただろう。
けれど、彼女がセッションの時に言った「変わりたい」という言葉、
その言葉に込められた想い、それが彼女を今ここに運んできたのだろう。

嬉しかった。
本当に嬉しかった。
人の力の偉大さ、セラピストなんぞいなくても人は変われるという喜びを感じた。
でも、それじゃあおまんま食い上げだな〜、なんて思いつつ(笑)

彼女は、バイトをしているという店の場所も書き添えてくれた。
私は、今日、早速その店に行ってみた。
ガラス越しに彼女らしき姿を見つけた。
でも、なんか違うような…
近付いてよくよく見てみると、やっぱり彼女。
私はガラスをコンコンした。
彼女はびっくりしてこちらを向いた。
ガラスを挟んで、私達は口をぱくぱくさせて話した。
店の中に入って、改めて見た彼女は、別人のようだった。
骸骨のようだった顔がふっくらとして、あの頃の面影はなく、
笑顔がとってもキラキラしていた。

少し話し、買い物をすると、私はまた来ると伝えそこを去った。

帰り道、足取りが軽かった。
嬉しかった。
本当に嬉しかった。
いや、私が何をしたわけでもない。
でも、ほんの少しでもかかわった人が、
こんなにも変わっていることが、本当に嬉しかった。

そして、何より、手紙をくれたのが本当に嬉しかった。
覚えていてくれたんだなぁ…
ありがとう。
やっぱりこの仕事しててよかった!って思う瞬間。


2004年02月13日(金) タフな一日

今日は、某病院のショートステイ期間が終わり、
父が老人介護施設へ移る日だった。

完全入所が決まったわけではない。
素行があまりに粗暴なので、契約させてもらえなかったのだ。
テスト期間としての2週間前後のショートステイの様子によって、
受け入れ可能か否かの結論を言い渡されることになっている。

母は今も別の病院に入院していることにしてあるので、
仮入所には私とアンナが付き添った。

父は老人介護施設への入所を拒否。
誰も喜んで入る人はいないだろうから、それは当然だと思った。
現実問題、母も私も介護が不可能な状態、
それを伝えたが、やはり普通に伝えて通じる父ではなかった。
私の話では納得しなかったために、
改めてやさしく事情を説明してくれたケアマネージャーに、
父は「あんたはうるさい!」と大声で怒鳴って殴りかかった。

それでもなんとか送迎車に乗った父、車中、ホームでも、怒鳴り続けた。
父は、母のせいでこうなった、死ね、死ね、と言い続ける。
私には、お前が俺をこんな目に遭せた、すべてお前のせいだ、と言い続ける。

父は傷付き、愛に飢えている。
痛みゆえにそうなってしまった。
だからと言って、できることはもうなかった。
私と母はできる限りのことをやり尽くした。
老人介護施設は最後の選択だった。

私は頭が真っ白になっていくの感じた。

確かに、施設への入所は父の意思に反していた。
けれど、じゃあ、どうすればよかったのだ?
一家で身も心もぼろぼろになって死ねばよかったのか?
そんなことを、感情の波も通り過ぎてしまった私は、ただボーッと考えていた。

大荒れの父をなんとかかんとかひとまず施設に預けて帰宅し、
私は母に今日のことをありのまま報告した。

母は、40年頑張ってきた自分に対して、
死ねという言葉を受け取った事実に愕然としていた。
そして、しばらくボーッとした後、言った。
「施設にお願いしてよかったんだ。
 私はずっとここで何をしてたんだろうねぇ…」
私は母に、ふんぎりついたでしょ、と言った。
そのふんぎりのためにも、あえて過酷なことを伝えたのだ。
母は、うん、とうなずいた。
そして、話し始めた。

「今までねぇ、言わなかったんだけど、
 恵美の所に行きたいから連れていってほしいってお父さんが言ってね、
 一緒にタクシーに乗ったことがあったんだ。
 しばらく走って、お父さんの方を見たら上着が変にふくらんでたから、
 何持ってるのかと思ったら、包丁だったんだよ。
 何に使うのか聞いたら『今日こそ恵美を殺す』と言ってたんだよ。
 私はそこでタクシーを飛び下りたんだ。
 実の娘をだよ、殺すって言ってきかなかった。
 恵美を殺すと言って包丁持って飛び出したのは一度じゃないんだよ」

それを聞いて、体が震えるような悲しみと共に、私の中で何かが終わった。
母はそれを私に伝えることで、私を助けれくれた。
私も母に言った。
「ふんぎりついたよ」って。

その後、お世話になった病院のケアマネージャーと会った。
彼女は言った。
「介護は我慢した者負けです。
 介護する方が相手に殺意を持ってしまうくらい追い込まれていくんです。
 お母さんと娘さんの選択は正しかったんですよ」

タフな一日だった。
疲れた。
父が受け入れてもらえるのかが一番心配だ。
これで入所できなかったら、一体どうすればいいのか?
気が狂いそうな不安がよぎる。
でも、今はもう何も考えず、とりあえず寝ようと思う。
「なんとかなる」と自分に言い聞かせながら。


2004年02月09日(月) はは〜ん、と思ったこと

最近、母と話す機会が増えて、気付いたことがある。

それは、私が母に対して抱く感情が、
アンナに向けているものと同じだということ。

昨日の日記にも書いたように、母の忘れっぽさは天下一品、
それで社会で生きていけるのか!?ってくらいひどい。
人の話聞いてない。
逆に天然の部類に入るかもしれない。
父の施設に申し込みに行く日まで、きれいさっぱり忘れてしまう。
そんな母を見ると、私は必ず文句を言っていた。
「しっかりしろ〜!ちゃんとやれ〜!」って。

先日も、あるこがとあり、母にぶちぶち文句を言って「あ…」と気付いた。
この気持ちって、この怒りって、私がアンナに怒る時と同じだ〜、って。

私は、はは〜ん、と思った。
それは、まぁ、よくはわからないけど、こんな感じ。

昔、母が何かすると、父がキレて暴れるのがお約束だった。
例えば、部屋が汚いとか、電気つけっぱなしとか、
言われたこと忘れてやってないとか。
そんなんだから、私はいつも「またお母さんがやってくれた」と思っていた。
この母ちゃんのせいで親父がキレてこんな目に遭うんだ、って。
今思えば、単に父の性格が最悪だっただけで、
そうでないことも多々あったけど、子供だった私にはそう見えていたのだろう。
つまり「お母さんのせいでこんなに苦しい」って。
しかも、離婚してと頼んでもしてくれない、私がシバかれてても助けてくれない、
母ちゃんひどいよ!って思ってたのかもしれない。

だから、忘れたり、失敗したり、間違ったり、だらしなかったり、
とにかく、父が暴力で私や母をボコボコにした原因になったものすべてを見ると、
私はどうしても許せなくなる。
それが母であり、アンナなのだ。
母は当時の姿そのまま。
アンナはそんな母を投影する。
「それをするからあんなにひどい目に遭ったんだ!」と、
意識の奥で小さな私がわめいているのかもしれない。
やめろー!やめろー!そんなこと絶対に許せない!って。
いつの間にか、そういうものすべてが許せなくなっていた。
本当は彼女達はただありのままそこにいるだけで、全然悪くないのに。
もう、正しいとか、正しくないとかじゃなく、
とにかくそういうものはダメだと、私の中のもうひとりの私が猛り狂ってる。

そして、母やアンナ、はたまたそういうものすべては、
まぎれもなく私自身の投影だ。
私も、また、母と同じことをして、父に罵倒され続けてきたから、
そんな自分も執拗に罰し続けてきた。
「私は悪い子だからお父さんに怒られるの」って思いながら。
だから、すっとぼけたり、忘れたり、失敗したり、間違ったり、
そんな自分をも絶対に許せないと憎み続け、
それを母やアンナに投影してきたのだ。

あははは〜、母ちゃん、アンナ、当たってごみん。

あああ〜、私ってばおつかれ〜。
そんなことしてたんだねぇ。
それだけ恐かったんだねぇ。

なんか自分に言いたくなった。
辛いのわかったよ、もう父ちゃんも施設に入るんだから大丈夫よ、って。
もう誰もあなたのこと怒らないよ、って。
忘れっぽくて、だらしなくて、失敗してもいいし、間違ってもいいよ、って。

なんだか私は大笑いしたくなった。

そして、私は「身内にすぐにキれる人」であり、「こういう人」なんだと思った。
ゆっくり、ゆっくりと、そんな自分を見ていこうかな。

なんでだろう。
私は変わらず反応大魔王だ。
でも、どうしてこんなにワクワクするのだろう。
よくわからないけれど、こういうワクワク感がある時は、とってもいい時なんだ。

何かに「ありがとう」って言いたい気持ちでいっぱい。


2004年02月08日(日) それぞれ足して丸くなる

先日、母と会話をしていて、
大切なことや話したことを忘れているので、
痴呆が始まってしまった…と、ショックを受けていた。
でも、よくよく考えると、そう、実は母はすっとぼけなのだ。
あまりに忘れっぽいのだ。
私はそれを忘れていた。

今日も電話で母と話したら、
2,3日前に話したことや、約束したことを忘れている。

ああ、そうだ。
母は昔からそんなふうで、いつもそれを父にものすごく怒られていた。
私は母がそんなふうだから、家の中がいつも荒れるのだと思ったこともあった。

でも、今日「母はこういう人!」って思ったら、
なんだかすっごくスッキリして、何かがはがれていったような感じがした。

そして、彼女に伝えた。
「もう、お母さんは何も覚えてなくていい。
 すぐに忘れちゃうんだから。
 大切なことは私が覚えてるようにする。
 その代わり、うんとおいしいもの作って食わせてくれ」
母は受話器の向こうで「うひゃひゃ〜」と奇妙な笑い声を立てた。
私も大笑いした。

一気に楽になった。
どうしようもない母の忘れっぽさは、どうしようもないのだ。
だから、どうしようもないことを前提にしたら、
ものすごく楽になった。

私にできることを私がして、
母にしかできないことを母がして、
それでも足りなければ,誰かの力を借りて、
それぞれ足して丸くなればいいじゃないか。
人生すべてにおいて言えることだ。

なんて、簡単で、素晴らしいことだろう。

私は嬉しくなった。


2004年02月05日(木) どうにもならない現実に直面し、私が選択したこと

どうにもならない現実に直面し、私が選択したこと、
それは、父を老人介護施設に入所させることだった。

母が体調不良を訴え、大きな病院で検査を受けたところ、
医師から、これ以上在宅介護を続けたら母が危険だという宣告を受けた。
それによって、ショートステイで父を病院に預け、
そのショートステイ明けに父の施設への入所を余儀なくされ、
この結論に至った。

母が父を看ていることがどれだけ苦しいことかは、
母に代わって父を2日間介護をしただけで十分にわかった。
痴呆症が進んでおり、今した会話も忘れてしまう父は、
もう、ただのわがままな子供だった。
その瞬間の自我と本能だけで生きている。
それを、現実問題として看られない母と、
すでに嫁に出て自分の生活を持っている私、
ふたりには他になす術がなかった。

そして、出した結論。
実の父親を、本人の意思に背いて施設に入れること。

頭では理解していても、つきまとう悲しみや罪悪感。
そして、直面したどうにもならない現実。

父は父であり、その考えも、感情も、
暴言暴力を含めたエゴイスティックな振る舞いも、
周りの人間がどうすることもできないこと、
そして、それが多くの人間を巻き込んで不幸にしていくこと、
それに直面した時、私は悲しみや罪悪感を越えて、
ひとつの選択をしなければならなかった。

現実問題として、私の選択は間違っていないと思っている。
けれど、心は揺れる。
どんなにひどい父親であれ、父は父、私を愛した父、
その父を施設に入れる複雑な気持ち、悲しみ、罪悪感がある。
あれだけ母と自分を苦しめてきた父なのに、やはり家族なのだ。
100のうちの99がひどい仕打ちだったとしても、
たった1の美しい思い出や体験が、私の胸を痛くする。

私は思った。

これは、どうにもならない現実なのだ。
こうしなければ、母も、私も、ダメになってしまう。
だから、父への想い、その悲しみ、罪悪感を抱えたまま、
私は母と幸せになろうと思った。
もう、十分に耐えてきた。
これからは、新しい形だからこそできる愛し方で、父を見守っていこうと。

どうにもならない現実だからこそ、私はそこから逃げずに、
真正面から向かい合おうと思った。
逃げたくない。
逃げずに向かい合うことが、父へのせめてもの愛かもしれないと、
勝手に思った。

私に今できることは、これだけだ。

明日は、施設への入所に手続きをしてくる。

頑張る、その言葉がこんなに骨身にしみるなんて。
明日は頑張ろうと思う。







こんな短い文章で語れることではない。
でも、なんか、ここで、シェアしたかったんだ。


2004年02月02日(月) たったひとつだけわかったこと

今日母を実家に送って来た。
そして、一緒に、父が今後お世話になる施設を探したりと、
あちこち動き回った。

先月の終わりから今日までの私は、
ここしばらくの間なかったくらいに心身共にしんどい日々だった。
母と一緒に楽しく過ごしても、
父のことを思う時、私の心は重苦しくなるのだった。

ここ数日、日記には母のことだけをクローズアップして書いてきた。
けれど、その背後に、実は父の問題があった。
そして、その父のことを日記に書くとデータがアップロードできない。
日記が上がらないというわけだ。
一度だけでなく、何度も。
不思議だね。
だから、今日まで父のことをここに書くのを控えてきた。
今も詳しくは書かないでおこうと思う。

きっと、これから、それもシェアできる時が来るのだと思う。
すべてを越えて、私の中が落ち着き、感情的ではなく、
自分の中心にいて出来事全体を見据えられるようになったら。
その時は、きっと、父のことを日記に書いても、
すんなり日記もアップロードできるのだろう。






ただ、こんな中でも、たったひとつだけわかったことがある。

それは、この世には「どうしようもない」ことがあるということだ。
私達はそれの前ではどうすることもできず、
ただ、それを、それのまま、受け入れなければならない時がある。
たとえ、それが、どんなに理不尽で、苦痛に満ちたものであっても。
そして、それを受け入れた時、見えてくる真実がある。

私は、今、静かにその真実を見つめている。
それは、父と母からの贈り物。
私が向かい合うことをずっと恐れて来た現実。
きっと私の人生の大きなテーマ。

負けないよ。


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