おひさまの日記
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2003年05月29日(木) 色即是空 空即是色

昨日は久しぶりに夜中までねねと電話で話した。

彼女との電話での会話は、私にいつも示唆を与え、
自分の中にあるものにはっきりとした輪郭を与えてくれる。
(会ってる時はろくなこと喋らない!)
昨日も、改めて本当に大切なものを確認したような気がする。
昨日のねねの日記、同じくこのエンピツの「おつきさんの日記」に、
電話で話してたことが書いてあるよ。
ぜひ読んでいただきたいなぁ、と思います。

とてもよく切れるハサミがあるとする。
そのハサミは素晴らしい道具だよね。
でも、それを使う人間がうまく使えなければ、そのハサミに価値はない。
逆に、人も自分も傷つける凶器にだってなってしまう。
ハサミに依存し、その切れ味を自分の力だと思い込んでいるうちは、
その切れ味で自分の価値を削り取ったり、
人の力を奪い取ったり、その心を切り刻んだりしてしまう。

人は自分が無力だと心の底から知った時、
初めて、自分以外の全ての力を自分のものにできる。
自分が無力であると認めるのはとても恐ろしい作業であり、
自分の存在価値がなくなってしまうようにも思えるかもしれない。
けれど、私達は、自分の無力を認めた時、初めて輝き出す。

私達は常に媒体でしかないんだもん。

媒体である私達は常に空(くう)であり、
ねねの日記で言う想念が目の前の全てを作り出す。
人の想念は万物を生み出す。
生み出したものは、どんな歪んだ想念から生まれたものであれ、
その想念が存在する限り「事実」であり、その想念の元には「真実」となる。
つまり、ある意味、真実はとてもフレキシブルなものであり、変幻自在だとも言える。
その変幻自在な真実に捕われてしまうことは、とても苦しいこと。

自分達が空(くう)であると知ることで、
私達は初めてすべてが幻想であるということも知る。

それを知った上で、あえて、
その幻想世界で踊ってしまう自分と付き合うことを味わいたいと思うな。
つーか、日々、踊りっぱなしだよねー。
要は、踊るのがいけないんじゃなく、
踊っている自分を知っているかどうか、なんだと思うよ。

よくクライアントさんには話す「第三の自分を持つ」こと、
シンプルにそれに尽きると思うのです。
それは、バランスを保つということでもあり。

ああああ、なんか話がカタイけど、
書いてるうちに、はんなりと般若心経ワールドっ。


2003年05月24日(土) 時空を越えた心の叫び

セッションを行う上で、私はどちらかと言うと、
好んで前世に誘導することは多くはなく、
幼児期に重点を置いたセッションを展開する。
けれど、ここ最近は「必要な体験」という意味で、前世退行が多かった。

前世退行のナビゲーターをさせていただいて、
私は、改めて、ものすごい衝撃を受けている。
そこには、何百年、あるいは何千年もの時空を越えた、
その魂、そして、その魂をまとっていた肉体の記憶が生々しくある。

ある人は武家の息子で、戦いたくないのに刀を持ち、
戦に出て人を殺し、自分も刀で切られ死んでゆく。
「人を殺めてはいけない!この手で、この手で殺してしまった!」
そう叫んで命を落としていく。

ある人は科学者、結果の出ない研究を続け生涯を終えようとしている。
窓の外から差し込む陽の光を見て、
「外にはあんなに美しい世界があるのに、そんなものも見ず、
 今まで私は一体何をしてきたんだ」
愕然とする。
非難とさげすみの視線の中、自分の無価値さ、無力さ、自責の念に苦しむ。

ある人は母親に絞殺され、赤ちゃんのうちに命を落とした。
「でもね、僕これでいいの。お母さんが喜ぶから」
泣きながら笑顔で言う。
「……本当はこわかったんだよ」
消え入りそうな声でつぶやく。

彼等はみな、数百年、数千年の時空を越えてセッションルームの中に現われ、
その記憶、記憶と共によみがえる感情に震える。

彼等と時間を共有する度に、私は、時間という概念を失いそうになる。
宇宙には時間と言う概念がないそうだ。
それを今感じているのだろうかと、セッションで思うことがある。
彼等は「今」まさに「ここ」で甦る。
私は彼等の時空を越えた心の叫びを聞く。
遠い昔から、私達人間は、
今の私達と何ら変わりなく悩み、苦しみ、愛し、慈しみ、
まさに「生きて」いた。
私は、今、この時代に生きながら、
時の流れの中で闇に置き去りにされてきたその心の叫びを聞く。
ものすごく不思議で、何とも言えない感覚。

魂の営みを感じずにはいられない。

よくわからないけど、でも、この仕事をしてよかったと、
本当に思うんだ。


2003年05月23日(金) 自分の中の相反するふたりの自分

今日のある出来事で、自分の中に相反するふたりの自分が同時に存在し、
仲良く共存していることに気付いた。

保育園が終わった後、アンナや他の子供達が園庭で遊んでいた。
ひとりの男の子が、女の子達を追いかけて、砂を投げ付けていた。
アンナも髪や口の中まで砂だらけになり、逃げ回っていた。
最初はやさしく「やめようね〜、みんなイヤがってるよぉ(^^)」と声をかけた。
でも、男の子はやめない。
むむむ、と思いつつ「やめようね〜(;^^)」と、一応やさしく言う。
それでも、男の子はやめないどころか、一層激しさを増す。

………。

「やめろっつってんだろが!
 みんなイヤがってんだよっ!(メーー)」
怒鳴った。
男の子はやめた。
で、走り去っていった。

少しして、その男の子と一緒に女の子を追いかけ回していた男の子が来て、
「オイ、どうすんだよ、○○○泣きそうだぞ。
 お前が怒ったからだかんな!
 どーすんだよ!?」
私は答えた。
「みんなやめてって言ってたよね。
 いけないことをしたからやめるように言ったんだよ。
 怒られることをしたんだから、仕方ないよね」
それでも、私に抗議したもうひとりの男の子はものすごく不満なようで、
しばらく私に悪態をついて去っていった。
一瞬、刺そうかと思ったよ(爆)

私はふかーくため息をついた。

私の中では、
『いいんだよ、あの時止めなかったら女の子みんな泣いちゃったよ』
という声と、
『黙って見てれば他のママ達に誤解を受けることも嫌われることもないのに、バカ』
という声が、ステレオタイプでわんわん鳴っていた。
どっちも私の本心だった。

いいんだ、いいんだ。
人のウチの子でも、必要な時は叱っていいんだ。
見て見ぬふりをする人が多い中、よくやったじゃないか。
そう思う自分もいる。

なにやってんだよ。
そんなことしたら、あの人よそのウチの子怒鳴って、
感じ悪いわねー、とか言われちゃうぜ。
そう思う自分もいる。

砂をかけていた男の子のママは顔見知りで、決して悪い関係じゃなかった。
でも、これで嫌われちゃうのかなぁ、と考えると、ものすごく怖くなった。
アンナちゃんのママってさぁ、と、噂広めたりするのかな、と考えると怖さ倍増だ。
ま、その辺は、完全に私の憶測による不安の世界なんだけど。
やっぱり怖い、人に嫌われるのは。
そして、人の噂の怖さもある。
人は反応の生き物で、常に本能での反応を真実と受け止めてしまう。
そのニセの真実が噂に乗って暴走するのが、人の世では常だからな。

んふふふふふ…

自分でよしと思って何かをする自分と、それを禁める自分、
そのふたりが同時に存在し、わぁわぁやってるのが、なんか、面白かった。
いつでもそうだ。
私の中には相反するふたりの自分が存在する。
今日、改めてそれを見た気がした。
そして、そのどちらの自分も可愛がっている自分も発見した。

誰でも、いつでも、そうだ。
自分の中には大体いつも相反するふたりの自分が存在する。
どっちも本当の自分だ。
そして、それがフツーなんだよな。
どっちか無視すると、意味不明で片寄った行動しちゃうんだよな。
だから、相反するふたりと、
それを離れた所で眺めてるさらにもうひとりの自分がいるのがちょうどいい。

ま、今日の件は、なるようになるかぁ。
とりあえずそう考えておくようにした。
まだ心の片隅で、不安でちぢこまってる私もだっこしながら。

見えないって言われるんだけど、
私、ケッコー小心者なのよね、やることは無謀だったりするんだけど。
それも、相反するふたりの自分、
つまり、そのふたりが組合わさってこの私なのかと、改めて思ったりしたのだった。
ちょっと嬉しかった。
どっちの自分も好きになれた。

じゃあ、あのガキんちょに感謝だな(笑)

この、相反するふたりの自分が、真っ向から対立してると、
自己否定や自己嫌悪になるのかもな。


2003年05月22日(木) 次のステージへ

最近、私の人生に、新しい人達がどんどん登場している。
新しく知り合う人、昔から知っていたけど急に親しくなる人、
そのめまぐるしさと言ったらないくらいだ。

誰もがこんな体験はないだろうか?
今まで親しかった人と急にしっくりいかなくなった、疎遠になる、
嫌いとかそういうんじゃないのに今までの友達と会う機会が減った、
新しい友達ができる、普段つるむ人が変わる、などなど。

こういう時、私達は、新しい流れの中にいたりする。
自分の周りの人が入れ代わる、新しい人が現れるというのは、
今の自分の何らかの変化をそのまま映している。

私達には波動があり、その波動には波長がある。
よく、波動が高いとか、低いとか、読んだり聞いたりするけど、
周波数みたいなもんだと考えるとわかりやすい。
ラジオで例を挙げると、特定の周波数に合わせることでその局の放送が聞けるわけで、
簡単に言っちゃうと共振共鳴の世界だよね。
それと同じで、私達がラジオだとしたら、
自分のチューニングしたチャンネルの音を拾うことになる。
それを人間関係に置き換えて考えると、
同じ周波数を持つもの同士が引き合い出会い、共に在ることになる。
誰かが隣にいても、それぞれの周波数自体が違うなら交わらないのだ。
くだいて言うと、近付かない、交流を持たない、親しくならない、そんな感じ。

そう思うと、なぜ自分が変化する時、自分の人間関係に動きがあるか納得だよね。
人が変化すること、それはつまり波動が変わること。
ってことは周波数が変わるんだから、共鳴する人達が変わるのだ。
だから、人間関係に動きがある。

親しい人と距離ができたりすると、寂しく思ったりもする。
でも、彼等とは永遠のお別れじゃないんだし。
これから自分が変化して学ぶために必要な人達が集まって来ているのであり、
今まで親しかった人達が自分と縁がなくなるのとは違う。
それぞれが違う場所で、それぞれに必要な体験をして、
またいつか人生のステージで交わることもあるのだ。

私に訪れている新しい数々の人間関係、
そこで私はどのようなことを体験し、学び、身に付けていくだろう。
辛いこともあるのかもな、とか考えると怖いとも思うけど、
でも、ワクワクする気持ちもいっぱいある。
すべては最終的に素敵な場所へ行くための体験だもんね。




毎日、すんごく眠いのに、日記に書きたいことがいっぱいあって、
半ばうつらうつらしながら書いてたりする日もある。

インターネットが普及し、こうしてフツーの私が、
自己表現をする場所があることが本当にありがたい。
また、それを受け止める多くの方がいてくださることが何よりありがたい。

よく思う。
私は何ができるだろう、今していることの他に、何ができるだろう、って。
もっと何かしたい、何ができる?って。

今の私がすぐに行動に移せることがあるとしたら、
ひとまず寝ることだな。


2003年05月21日(水) 自己防衛本能

私達はなんかイヤなことされると怒ったりする。
例えば、声をかけた誰かに不機嫌な顔でシカトされたとしよう。
すると「なに!?あの人、感じ悪ぅ〜!」とか思う。
でもって「聞いて〜、あいさつしたのに、あの人にイヤな顔でシカトされちゃった」
って、人に言いたくなってくる。
あの人ってばすんごぉくイヤな人なのよっ!って、みんなに知らせたくなる。
(私だけ?)

この例だけではない。
誰かを不愉快だと感じると、その人をすんごい悪者にしたくなる。
(わ、私だけ?)

そんなことについて、今日考えていた。

最初に挙げた例で、不機嫌な顔でシカトした人が、
もしかしたら、こっちの声が聞こえてなくて、
しかも、その人がダンナと離婚することになったから悲痛な面持ちだったとしたら?

ここで事実との食い違いがすでに発生している。
相手はシカトしたのでもなく、悪意があって不機嫌な顔をしていたのでもなく、
ただ聞こえない上に辛かっただけなのに、
こちらは相手がまるで悪意を持ってそうしたかのように思っている。

ほんの一例だけど、実はこれって誰にでも日常茶飯事で起こることだ。

私達は動物の本能で、自分に危害を与えるものを察知し、排除しようとする。
私達なら、相手はライオンじゃないんだし噛み付かれないけど、
精神的に危害を加えられることを恐れる。
さらなる危害を加えられないために、私達は心が痛むと攻撃的になる。
上の例で言えば、相手の理由などどうでもよくて、
要は「私が不愉快なのよ!」が立派な攻撃理由になる。
相手を敵とみなし、自分を有利にするために必死の努力をするのだ。
でもさ、その「不愉快」ってのも、ただの自分の反応なんだよね。

そう考えると、人間様より動物の方がよっぽどマシのように思える。
だって、動物は食う分しか攻撃しない。
同種の中でなら、テリトリーを守るためとか、嫁争奪とか、そういう理由がある。
でも、人間は自分の望み通りの反応をしない人を、片っ端から攻撃しちゃうんだ。
怖いから先にどんどん攻撃してブチのめしたくなるんだ。
「ほぉら私はこんなにひどいことされてるのよ、
 みんな、あいつは悪者だから一緒に攻撃して〜!」
なんて人を巻き込むワザも持ってる。
つまりはだね、被害者になることにより、胸張って攻撃できるのだ。
しかも、「可哀相!大丈夫?」ってこっち向いてもらえる、構ってもらえる特典付。

攻撃してる時って怒ってる時でもあるけど、その怒ってる気持ちの下には、
どうして私を受け入れてくれないの?ってな寂しさが存在してるんだけどね。
弱くて怖がりな人間ほど、この自己防衛本能は活発に働く。
だから、弱くて怖がりなのに、ものすっごく凶暴なのだ。

人は自分が正当に扱われなかったと感じると、相手にものすごい敵意を持つよね。
でも、自分が正当に扱われなかったかどうかは、本当は謎だよね。
上の例でも言えるんだけど。
私達は相手の言動に反応しているだけなんだから。
そして、こちらの目に見える相手の様子や態度、
もしくは、相手の言動から察することができる相手の考え方、
そこから判断した相手については、実は全くあてにならない。
だって、おっかなくてしょうがない自分の反応なんだもの。
人は犠牲者になるのが大好きなのだ。
可哀相な自分になることでのメリットをよく知っている生き物、それが人間様。

今日、ある人の悪口を言っている人がいた。
でも、それ端で聞いてると、明らかに「それ、思い込みでないの?」って内容。
でも、当人は、私はこんなにひどいことされて、
あの人はあんなこと考えててずるくて、人として疑問!とか言ってる。
オイオイ、相手がどんなこと考えてるかなんてわかるんか!?エスパーか!?
と、まったくその話の輪の外にいる風を装い、背中で突っ込みとか入れてみた。
そんな会話に必ず見えるのが「犠牲者」なのだ。

私達は自己防衛本能で相手を攻撃する。
犠牲者になれば相手を攻撃する理由ができるのだ。
自分を正当化することだってできる。
人間は殴ったりとかはそうそうしないけど、言動の中で相手を攻撃する。

私にだってそんな要素がある。
今日思ったんだ。
そうか、みんな、醜いくらい人をそうやって悪者にしたくなっちゃうのは、
自分を守るためなんだなぁ、と。

でも、もっと別のやり方で自分を守ることだってできるよなぁ、そんなことも考えていた。
私も瞬間的な反応で犠牲者魂を熱く燃やしてしまうけれど、
感情の高ぶりが消えた時は、いつも振り返り、
真実を見る目を持つようにしたいと思った。

だってさ、人を攻撃している時って、気分悪いよね。
今度、誰かが憎くなったりしたら感じみて。
すっごく気分悪いから。
それは、相手に何かされたからという理由からではなく、
自分が真実からかけ離れたものを目の前の現象にこじつけ、
それで相手を攻撃しているから感じる気分の悪さに他ならないのだ。



あああ、なんか、まとまってないかも…


2003年05月20日(火) アンナからの素敵な贈り物@風呂場(成人向け)

バスタイム、アンナがいきなり脱衣所で
「おち○ち○、おま○ま○、機関車、ぽっぽー!」
と言い出した。
「おしり、おっぱい、機関車、ぽっぽー!
 おち○ち○、おま○ま○、おしり、ぽっぽー!ぽっぽー!
 おっぱい、おち○ち○ん、機関車、ぽっぽー!ぽっぽー!ぽっぽー!」

連呼!
連呼!
連呼!
ひたすら連呼!
しばらく連呼!

下ネタ・ワードと機関車、ぽっぽー、関係なさ過ぎ!
意味なさ過ぎ!
なさ過ぎ!

先に風呂でシャワー浴びてた私に、それは不意打ちだった。
アンナのかん高い声で連呼されるそれらがずっぽりとツボに入り、
腹筋に激痛が走るほど笑った。
最後にはもう声も出ない。
開いた口からしたたるよだれもノンストップ。
体は笑い過ぎて完全にナナメによじれている。
復活に相当な時間がかかった。

笑う角には福来る。
確かにその後、言い様のない幸福感に満たされた。
子供の意味不明な言動って癒しの原点だ!




これ、現場にいないと笑えないよね…


2003年05月17日(土) 人生の見えないマニュアルを取り戻すために

「なんでこうなっちゃうワケ?」

私達の日常の中には、そんな風にボヤきたくなる出来事がよく起こる。
それを「ツイてないわ」「運が悪いのね」と思ったりする。

今日も、高校からの親友から電話があり、第一声こう言った。
「ダンナが脳内出血で倒れて、2か月の入院なの。
 どうして私達がこんなひどい目に遭うように選ばれちゃったのかな」
私はそれを聞いて、ニヤリ、と笑った。
「しかも、その後、私が交差点で事故して、さんざんだったんだから」
彼女は続ける。
私は、さらに、ニヤニヤ、と笑った。
そして、彼女に言った。
「Yちゃん、ダンナさんもYちゃんも、もういい加減疲れてたんじゃないの?」

彼女の家は大きな米屋で、その忙しさったらハンパじゃない。
特に彼女のダンナは起業家精神が熱く燃える男で、寝ないででも苦労を買って出る人。
ダンナはフェラーリ、彼女はBMWに乗ってて、金はあるんだけど、
端から見て、しっちゃかめっちゃかな生活を送っていた。

ひどい目に遭うように選ばれた、そう言った彼女に、私は言った。
「ダンナが倒れたのは、彼がそれを望んだからだよ。
 もちろん、表面の意識ではそんなこと思ってないけど、
 意識のずっと奥の方でそれを望んだから起こったんだよ」
彼女は怪訝そう。
「彼が病気になりたかったってワケ?」
「ウン、そう。病気になれば、休めるじゃん。
 今までやめたかったのにやめられなかったこと、やめられるじゃん。
 Yちゃんのダンナさんは、胃に穴が開いたくらいじゃ休まないでしょ。
 腎臓悪くしたって休まないでしょ。
 だから、脳内出血なワケよ、どう見ても休まなきゃならない病気なワケよ」
それを聞いて、彼女はハッとした様子だった。
「確かにそうかもしれない…。
 彼はね、忙殺されてて、でも親や周囲の期待とかあって、
 止まるに止まれなかったんだよね。
 それに応えることに必死みたいなところがあってさ。
 方向転換したかったんだとは思ってるんだ。
 そうか、こんな大きな病気したら『もうやめる、もうやらない』って言えるよね」
私は、うふふ〜、と笑った。
彼女は続ける。
「私もね、彼が倒れたことで、実は得たものがいっぱいあるんだ。
 自分達の望むやり方を義父母に伝えられたし、
 私も米屋を手伝わないことを自分の中で明確にできた。
 それにね、事故をしてから、周りが
 『疲れてるから事故したんだよ、休みな』って言ってくれるようになったの。
 そっかぁ、そうなのかぁ…」

彼女は、電話してきた時には、被害者モードだったんだけど、
会話していくうちに、すっかりそこから抜け出し、
現実に起こる出来事を自分が引き起こし、
そこで得るメリットをつかもうとしていることに気付いた。
「なんだか楽しいね」
そんなことを話し、電話を切った。

もちろん、彼女と私の会話は、
彼女の出来事の中のことについてであり、あくまで一例だ。
病気や事故がすべてここに書いたことと同じ要素で起こるとは言い切れない。

それにしたって私達の現実に起こる出来事は、私達が意識するしないにかかわらず、
すべて、私達が潜在意識で深く強く望んだことなのだ。
それを望み、実現させることにより、自分が何かを得ようとしているのだ。
そこには必ずメッセージがある。
そのカラクリを知っていると、人生は面白い。
こんなことを望んで引き起こした私は、
一体これを通して何を得たいの?
一体これを通して何をしたいの?
一体これを通して何を訴えたいの?
そう考えると、一歩踏み込んだ自分への道が開ける。

面白いよ〜、生きるって。
見えないカラクリが必ずそこに存在する。
それは、家電品の取り扱い説明書のようなもんだ。
でも、人生の取り扱い説明書は、あるけど見えない。
見えないから、こうして、色々な出来事や人を通してそれを知っていく。
生きるのが楽になるよね。
私達は、生まれる時に向こう側に置いてきたマニュアルを取り戻すために、
数十年という長い時間をかけて人の一生を生きるのだ。
それが、魂の成長なんだろうと思うよ。

ああ、ちょうと米切らしてたんだ。
米、くれ、って言えばよかったかな。
つーか、それは図々し過ぎ!(笑)
米が切れた日に、米屋の友達から電話ってのも笑ったよ。


2003年05月11日(日) 扉の向こう

私達にはそれぞれの扉がある。
その扉を開けると、自分の世界が内奥に広がっている。
そして、私達は心許せる人にその扉を開き「さあ、中へどうぞ」といざなう。
私の世界を、あなたには見せたい、見せてもいい、どうか見てください、
そんな想いで人を招き入れるに違いない。

ある人が私に向かって「さあ、中へどうぞ」と扉を開いた。
私がその扉から中に入ろうとすると、扉の向こうは空間ではなく、壁だった。
私は顔面をその壁にしたたか打ち付けたような気持ちになった。
入れないのだ。
その人は「さあ、どうぞ、どうぞ」といざなう。
私はその中に入ったフリして「素敵な場所ですね」と言うしかない、そんな感じ。
「開けたら壁でしたよ」とは言えなかった。
私にとっては壁までの1ミクロンの隙間が、
その人にとってはとてつもない大きな自分の世界なのだから。

私の大切なその人は、
壁の向こうにある世界を見たくないようで、
また、それを見るものだとも思っていないようで、
壁で入り口を塗り込めていた。
私はとても悲しくなった。

でも、私にはどうすることもできない。
それに、たとえそこが壁だったとしても、
それは、その人にとっては、今この時点で完璧な世界なのだ。
唯一できることがあるとしたら、ただ、その人を見ているだけ。
その人の壁で塗り込めた入り口の奥にある世界を感じながら、
それをまったく認知していないその人を、ただ見ているしかない。
その壁が崩れて、その先に広がる空間を、その人が感じ始めるまで。
その壁が崩れ、奥にある世界をその人が感じ始めた時、私は初めて口を開くだろう。

壁で顔面を打ち付け痛かったのなら、もうごめんだと去ればいい。
でも、それができない。
中に入れない痛みを感じながら、
いつか壁が崩れますようにと祈りながら、
その人を見ている。
私には聞こえるんだもの、聞こえてしまうんだもの。
壁の奥にある世界で、その人が叫んでいる声が。

とても抽象的な話だ。
心の扉。
今の私にはそう表現するしかない。

ちゃんと話しているし、会話も成立している。
でも、私の言葉を跳ね返すその壁。
浅い場所で、打ち返される私の言葉。

壁のかすかな亀裂から洩れる泣きそうな切なそうな声が、
いつまでも私を引き止める。
痛いのに、ものすごく痛いのに、私をその場所に引き止める。
人は愚かだな。
でも、愚かだからできることもあるのかもしれない。


2003年05月09日(金) 痛いの

すね毛剃ってたら、肉まで剃った。
ちょこっとなんだけどね、なんだけどね、
でも、痛いの、すんごく痛いの。
さすが深剃り三枚刃。


2003年05月05日(月) アンナ、泣く、母、気付く

今日、家族で家の片付けをしていた。
ダンナがリビングの片付けを終わらせたのを見て、アンナが泣き出した。
なぜ悲しいのか聞くと、
みんなは早く片付けられるのに、
アンナは早くできない(自分の部屋がまだまだ片付いていなかった)、
だから自分がキライ、自分はダメな子、そう思ったのだと言う。
だから、ものすごく悲しくなったのだと言う。

彼女の中には「私はダメな子」「私はできない」というキーワードがあるらしい。

だから、片付けの間、私にせっつかれていたこともあるし、
たまたま片付けのことで悲しくなったけれど、
本当はその引き金となるものはなんでもよかったのだ。

しばし、だっこして泣かせた。
彼女の悲しみに同調し、うんと吐き出させた。
そして、大人は早くできて当然、子供は遅くて当たり前、
だから、アンナは全然悪くない、遅いのはおかしくないと話して聞かせた。

私のその言葉を聞いて、アンナの口から出てきたのは、片付けのことではなかった。
保育園での友達との関係のことだった。

まず、ひとり目の子について。
ものすごく意地悪な子がいて、アンナが仲良くしたい子に近付くと、
怒ったり、たたいたりして、引き離されてしまうそうだ。
で、好きな子と遊ばせてもらえないらしい。
親同士の中でも、その子は性格がきついという噂の子。

もうひとりの子について。
その子はアンナのことが大好きらしく、ものすごくしつこくついて回るらしい。
でも、性格もきつい子で、アンナがその子がイヤで逃げると、追いかけてきて、
食事もおやつも隣の席に座られてしまい、他の子と仲良くさせてもらえないらしい。
アンナはその子が嫌いなのだそうだ。
なのに、怒ったり、叩いたりしながらでもアンナにつきまとい、
その子から逃げられないと言う。

アンナが悩むふたりの友達との関係の背後には共通のパターンがあり、
それは「好きな友達に近付けない」ということだ。
それを暴言や暴力で阻止されている。
つまり、自分の心地よい状態になれない、
無理のある、我慢のある辛い状態にならざるを得ないのだ。

そして「私はダメな子」「私はできない」というキーワード。

アンナはこうも言っていた。
「アンナはね、我慢してやさしくしてるのに、
 怒ったり、叩いたり、フン!ってされるんだよ」

これは、まんま私とアンナの関係なのだ。

ああ、やっちゃった…って思った。
私との関係にあるパターンを、
アンナは自分の人間関係にすでに反映させている。
「私は何もできないの、自分の思い通りにはいかないの」
「私はダメな子、我慢して、望みを叶えないことが、
 人間関係をうまくおさめる方法なの」
そんな観念を、彼女はすでに4歳にして持っているらしい。

でも、嬉しかった。
今日、片付けがきっかけだったけど、
いつものように怒らずに、彼女の感情を受け止め、
「今まで辛くて、でも言えなかったんだよ」
彼女がそう言っていたことを吐き出してもらえたことが。

過ぎたことは悔やんでも仕方ない。
4年半のプロセスがあって、今日のこの出来事があったから、私も気付けたのだ。

今、この時点から私にできることは、アンナへの癒しだ。
私はそれに死ぬ気で取り組めばいい。
今だからそれが見えたのだから。

私は泣いているアンナに言った。
今度そういうことがあったら、その友達をボコボコにしてこい!と。
ママがいくらでも謝ってやる、
イヤなら保育園変えたっていい、暴れてこい!と。
だから、自分の気持ち伝えていいんだ、
イヤなことはイヤと言え、人のために苦しくなるな、と。

小さな手で涙をすくいながら、目を腫らし泣いていたアンナは、
立ち上がって、エイッ!暴れ始るゼスチャーを始めた。
そして「アンナがケンカしてケガしたら、すぐ迎えに来てね」と言った。
私が「うん、飛んで行くよ」と言うと、アンナは「どうやって飛ぶの?」と聞く。
「厳密に言うと、車を速く走らせて行くんだけどね」と私は笑った。
そして、こう付け加えた。
「強くなれ!強くなっていいんだ!怒っていいんだ!
 ママを叩いたっていいんだ。
 うんとケンカしよう。
 ケンカして仲良くなろう」

友達をボコボコにしろだの、
こんなひどいこと言うママは恐らくいないだろう。
そういう意味で、私はきっと落第点のママなんだと思う。
でも、私は落第点でもいい。
私が一番大切なのは、アンナの心なのだ。
友達をボコボコにしろ、と言った私の言葉の先に、
きっと、アンナは別のものを見い出すはずだ。
だって、とても賢い子だから。
私はアンナを信頼している。
学ぶ力を持った素晴らしい子供だと、心から信頼している。
私が信頼しなくて、一体世界中の誰が彼女を信頼するのだろう。

ベッドに行ってからも、今日はママにいっぱいお話ししたいと、
珍しく、今までの辛かったことをいっぱい私に話してくれた。
そして、「これで安心して眠れるよ」
そう言うと、アンナはすやすやと眠りについた。

今日は、私にとって、とても意味深い日となった。
今日から、私とアンナの新しい関係をスタートさせようと、心から思えた。
まさに、癒そう、そう思えた。
その決意は、私にはトラウマがあるからとか、そんなものを越えた、
ものすごい底力のようにも思えた。
これが、純粋に、きっと母の想いなのだとも思えた。

子供は常にSOSを送っている。
今日だってそうだ。
片付けのことでアンナは泣いたけれど、本当は片付けはどうでもよかったのだ。
そこで引き金を引かれる潜在的な想いの部分を、実は、訴えている。

それを拾えた私自身も、今日はほめてあげたい。
一緒にいる時間のほとんどが、エゴで振り回す日々だった。
だからこそ、ここから、私はやり直せると思った。
「できない」ではなく、「やる」のだ。

アンナ、泣く。
母、気付く。

生きるとは、まこと、面白く、奥深い作業だ。

まだ間に合う、まだ間に合う、
私は祈るように自分に言って聞かせた。


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