おひさまの日記
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2002年11月24日(日) ちーさなヨロコビ

今日、買い物に行った。
レジに並んでいると、そのそばに置いてある使い捨てライターが目に入った。
なんとなく「ふぅん、買っておこうかな」と思って、カゴに入れた。

帰ってタバコを吸おうと思い、ライターをカチカチすると、
なんと!壊れてる・・・
しかも、ウチにある使い捨てライターが全滅し、それが最後のひとつだった。
ぴゃあ〜、さっき買っておいてよかった〜〜!

なんとなく目に付いてカゴに放り込んだあのライターが、
実は、すっごく必要なものだったんだ!
すげー、すげー!
ちーさなヨロコビ。

人って、その時々、ちょっとしたヒラメキや思い付きで、
実は必要な情報を得てるんだねぇ。
やっぱ直感って大切なんだわな〜〜。


2002年11月22日(金) 「現実」と「事実」

今日、お風呂に入ろうと思ってパンツ脱いでたら、
いきなり私の中にダダダダ〜〜ッ!と浮かんで来たことがあった。
あまりに「!」ということで、おしっ、日記に書くじょ!意気込んだ。
今までにも私の中にあったものが、はっきりと輪郭を持った瞬間。

それは「現実」と「事実」について。

「現実」と「事実」はまったく別のものではないかと思った。
「現実」とは、私達が認識しているものであり、
「事実」とは、私達が認識しているいないにかかわらず、そこに存在するもの。
もちろん、その「事実」を含めたすべてを「現実」と呼ぶこともできるけれど、
ここでは、あえて、私達が「今こんなだよねぇ」と思っているものを「現実」と呼ぶことにする。

こんな表現もできる。

こんな人がいる、こんなことを言った、した、こんな出来事があった、
そんなふうに、そこにあるすべてをただそのままに、
ただ起こっている出来事としてありのまま見ると「事実」になる。
そして、ただそこに存在する「事実」に、
私達が意味付けした時に初めて「現実」になる。
つまり、私達が感情や反応を伴いながら見て体験する世界が「現実」。
辛い、苦しい、嬉しい、幸せ、そう思うすべてが「現実」。
時には「真実」さえも、その「現実」の中に存在することがあるような気がする。

そう考えた時、私達はイリュージョンの世界に住んでいるのだと感じたりする。
そして、思った。
それなら、そのイリュージョンを、自分でデザインしていけるのではないか?と。
よく言われる言葉に「現実は私達が自分で作り出している」ってのがある。
まさにその言葉通りに。
ここがポイント、ここなんだ。
今、私が、ぼんやりと、でも、なんかコレだ!と思うのは、
ここなんだ、私達は自分のイリュージョンをデザインできるということ。
今ね、すごく、すごく、あああ、こう、なんてーの!?愛おしいの、それが。
陣痛があってこその「希望」を見い出したい。
自分でそれを体験して、そして、それをシェアしたい。

私達は、ひょっとしたら、その鍛練のために生まれて来てるのかもしれないと、
なんだか思ったんだよね、突然にさ。

そして、こんな言葉も本当によく聞くし、目にする。
「すべては中立であり、そこに意味付けをしているのは私達人間である」
この意味がよーくわかった時、私は目からウロコだった。
それは、頭で理解したのではなく、
積み重ねた体験から魂が震えながらそれ自身に刻み込んだ知恵なのだと思う。
すべて私達の「反応」で成り立つのがこの世界だ。
その「反応」を引き起こすものが、常に私達をコントロールしている。
「事実」の存在知った時、
私達はいかに多くのものにコントロールされているのかがわかる。

けれど、私達人間は「現実」に生きていていいのだと思う。
反応することは悪いこととは限らない。
反応がなければ、そこには何も存在しないのだから。
感情があり、それを体験することで魂は学んでいくこともある。
だから、「事実」と「現実」は別のことだと知るだけでいい。
そうすると生きるのが楽になる。

こ難しいこと書いたけど、ウン、ホント、そう思うんだ。


2002年11月19日(火) 年女、つぶやく

11月も末、私が年女だった今年も終わろうとしている。
来年は37か・・・はえ〜〜!

でも、実は私、自分の年齢が案外好きだったりする。
ひょっとしたら、もう人生の半分は生きてしまったかもしれない。
でも、そんな自分の人生を振り返った時、結構、イケてんぢゃん、って思う。
色々なことがいっぱいあって、その中には辛いこともあった。
でも、今ここで振り返ってみると、出来事すべてが、今の私を作ってくれた。
人生のどの瞬間が欠けても、今の私は存在していない。
この年齢になって、改めてひとまとめに人生を振り返るってことができる。
そんな時「なにか仕組まれてるな」ってのは絶対的に感じるね。
魂の気の長い計画。
何十年もかけて、成長しようとしている魂のプロセス。
お母さんのお腹に入った時から、もう、その計画はスタートしてて、
長い長い時間をかけて、この地球って星で魂は遊ぶんだな。
ホント、そう思う。

今だからそう思えるのであって、
20代の頃なんかはそんなこと思えず、目の前に展開する出来事に翻弄されてた。
そして、スピリチュアルな世界の存在を肌で感じ始め、
30近くなって、いわゆる「自分探しの旅」をスタートしたんだよね、私の場合。

今でこそ、こんな「私にはコレだわ!」ってお仕事に出会えたけど、
これに出会うまでは、もう、自分が何をしたいのか、何をしたらいいのか、
まったくわからなくて、どっか満たされなくて、もがいて、
あれこれ手を出しては違うと放り投げ、焦っていた、ひたすら焦っていた。
でも、そうやって苦しみながら探し続けた時期さえも、
今思えば必要だったみたい。

人生は積み重ねだ。
だから、年齢を重ねると面白い。
普段は何を積み重ねているのかわからない。
でも、ある時、あああ、これね、これのために積み重ねて来たのね!
そう思える瞬間が、きっと誰にでもあると思う。
そうやって大きなスパンで人生を眺められるようになると、
生きてるって捨てたもんぢゃないな、って思えるのだと思う。

年齢を重ねるのは面白いけれど、面白くないのは肉体の老化!
今の私は、それさえも愛せる境地には達していない。
若くいることにはとても固執し、執着してしまうんだよねー。
嬉しいことに、実年齢よりは結構若く見てもらえてるらしいけれど、
アンナには「ママ、シワを取るお医者さんに行って取っておいでよ」と言われ…
子供って正直だなぁ(笑)
いい感じで40代に突入したいもんだ。


2002年11月15日(金) 生きる「知恵」を持つ

世の中に言い尽くされたこと、言い古されたことはいっぱいある。
それを目にしたり、耳にしたりする度に、
ああ、それね、ウン、ウン、わかってる、そう思う。

たとえば、この世界ではもう耳タコの言葉に「起こることは必然」ってのがある。
それだって、はい、はい、そうね、必然なのね、そんな感じ。
わかってまーす、って。

言い尽くされたこと、言い古されたこと、それを頭で理解することは簡単だ。
でも、「腑に落ちる」ことは、意外になかなか難しい。
そして、腑に落ちないと、実は自分のものにならないのだと、最近強く思う。
頭で理解しているのは「知識」であって、「知恵」ではないのだ。
エラそーにサッカーの技術の上達法を事細かに詳しく説明する人が、
実は自分ではへたっぴーで全然モノにならない、そんな感じだ。
机上の空論、まさにそれが「知識」なんだと思う。
「知識」を「知恵」にして、初めてそれは私達の人生で意味を持ち始める。

私はよくこういうことがあった。
いいことがいっぱい書いてある本を読み、素敵な人のいい話を聞き、
目からウロコ、なんだか自分が変わったような気がする。
でも、しばらくしたら、なんだか違和感を感じ始める。
なんか何も変わってないな、あれ〜?って。
それは知識として自分の中に入っただけで、実は自分の実になっていないことを知る。
頭でわかっていたけれど、実はそれを全然自分のものにしていなかったわけだ。

もちろん、知識を得ることはとっても大切だ。
知識があるから、体験に基づいて、それを知恵にすることができるのだから。
だから、知識は必ず必要なものだ。
けれど、知識を持っただけで満足してしまうのはとても危険だ。
もっと危険なのは、知識を知恵だと勘違いしてしまうことかもしれない。
危険だなんて、あんまりいい表現じゃないけど。

気付いて、それを体験に昇華させることが、私達の人生のワークかもしれない。
それには行動が必要になってくる。
人生の中のあらゆる出来事で実験してみる必要がある。
気付きの裏づけを取るために。
裏づけとなる体験をした時、それは初めて腑に落ちて知恵になる。

ぢゃあ、一体どうすればいいのよっ!と思う人もいるだろう。
それは自分で見つけるしかないらしい、私の体験からだと。
でも、それを助けてくれる人はいっぱいいるはずだ。
私は、中島先生や、ねね、出会ったセラピストやヒーラーの方々に助けてもらってきた。
人の力は積極的に借りたい私だから(笑)
私は幸い、私を依存させずに上手に突き放し、
けれど、いつも温かい目で見守ってくれる人達に出会ってきた。
必要な時にだけ、必要なことをほんのりと、でも強烈に、示唆してくれる人達に。

言い尽くされたこと、言い古されたことが、しみじみ自分のものになる時、
きっと現実が動き出す。
生きるのが楽になる。

ちなみに「生きるのが楽」なのは、「辛いことがない」のとは違う。
辛いことがあっても、その背後にある恩恵を信頼できるということなのだ。

あれ〜、一気に書いたけど、支離滅裂〜?
まいっか。
送信。


2002年11月08日(金) あ・・・

今日「あ・・・」と気付いた。
私ってば、また自分に正直じゃなくなってる。
いつの間にか目の前にあるものを固守しようとして、自分に不正直になってる。
目先の欲望を満たそうと、刹那の痛い感情を埋めようと、
自分の本当の声を無視してる。
胸の中、どよよよよ〜〜〜ん、とした感覚、
思ったように事が運んだのに、なぜか煮え切らない気持ち、
これは、自分に不正直な証拠だな。

幸い、自分に不正直に動いたことを釈明する機会がある。
ちょっと恐いけど、本当に自分が感じていることを話そう、伝えよう。

はっはっはっは、またやってる。
繰り返しだなぁ。
自分に素直になれてスッキリ!なんて思うのもつかの間、
またすぐに何かを恐れ、何かに怯え、何かを固守したいがために、
私はいつも大切な場所、つまり「自分」から離れてしまう。
でも、いいよね。
また戻ればいいんだもん。
道が逸れたら軌道修正すればいい。
いつも「あ・・・」と思えた瞬間に、また選び直せばいいね。

そう、今回も、あることを選び直そうと決めた時、私の中はとてもスッキリしたよ。
心地よい。
現実としてはシブイ状況が待受けているけれど、でも、なんだか穏やかだよ。
これでいいんだなぁ、って、心から思える。


2002年11月07日(木) 私がセラピストでなかったら・・・

私がセラピストでなかったら・・・そんなことを考えることがある。

もしも、私がセラピストでなかったら、きっと私は生きていけないと思う。
無味乾燥な時間をただただ過ごす、人生の迷子になってしまうだろう。
それほどセラピーは私にとって大きなものになった。
きっと、私は、セラピーを通して魂の呼吸をしているのだと思う。

もちろん、今までには辛いこともあった、悔しいこともあった。
ひとりで泣いたこともあった。
自分にはもうできないんじゃないか、そう思ったこともあった。
どうしていいかわからずに、途方に暮れることもあった。
それなのに、やめられなかった。

一見、セラピーを提供しているようで、
実は、クライアントさんからの贈り物を受け取っているのだと、本当に思う。
どう表現したらいいのだろう、よくわからないけど、
セッションを重ねる度に、人間が生きていくということの意味を知る。
命のからくりを見せつけられるような喜びに満ちた衝撃が走る。

少なくとも私の場合、セッションにおいて、
自分の体験と、そこから得てきたことをシェアしているに過ぎないのだと思う。
それがお会いする方の人生に符合し、なにかがほどけていく時、
私は私の人生さえも肯定することができるようになる。
そして、輪郭がぼやけていた自分の中のものが、
突然ハッキリと姿を現わすことがある。

セッション中、しばしば、私は考えることを放棄し、
ただただ自分の中に降って湧いてくることだけを、口にしている。
それは、時に奇跡的でもある。
なぜ今自分はこう感じてこう言ったのだろう、そう不思議に思うことがある。
そんな時感じるのだ。
私はただの「媒体」なのだと。
神様なり、宇宙なり、私達を守る存在なり、そんなものがただ私を通して、
クライアントさんに何かを注いでいるのだと。
だから、クライアントさんにそれらの存在から注がれる叡智は、
私への贈り物でもあるのだ。
私は、自分を癒し、自分の真実を見つめ発見し、自分のプロセスを歩むために、
セラピーをしているのだと強く確信せずにはいられない。
お会いする方と一緒に。

セッションが終わった後、私はものすごくいい状態になる。
よく言うところの「中心に戻る」状態になる。
それは、私を通過していった高い存在達の叡智のおかげなのだと思う。

専業主婦でも、会社勤めでも、自営業でも、
フリーターでも、家事手伝いでも、プー太郎でも、それは同じだ。
その自分の選んだ仕事や状況の中で、自分なりの方法で人生を見つめていくのだ。
そして、私はたまたまセラピストになったのだ。
それが私の魂のプロセスの近道だったのではないだろうか。

名前は忘れたけど、南国にある鳥がいる。
その鳥は、眠る時以外、ずっと激しく羽ばたき続けているのだそうだ。
それは、花の蜜を吸うためだ。
羽ばたくのをやめると蜜が吸えなくなり、その鳥は死んでしまうのだそうだ。
蜜を吸い、その蜜のエネルギーでまた羽ばたき、また蜜を吸い、消耗し、また吸う。
死ぬまでそんな人生なのだそうだ(鳥に人生ってヘンだけど)。
蜜を吸うために羽ばたくのだけれど、その蜜は羽ばたくためだけに消耗される。
なんともおかしな話で、割に合わないような気さえしてしまう。
もっと効率的に生きればいいのに、そう思ってしまう。
けれど、私にはなんとなくその鳥の気持ちというか、
そんなさだめの元に生まれたことがとてもよく理解できてしまう。

私もその鳥みたいだ。
セラピーを通して得たものを人生のプロセスの糧として進み、
またセラピーをして人生のプロセスの糧を得て、次に進む。
その糧を補わなければ私は立ち止まるどころか、きっと倒れてしまうのだ。
自転車操業みたいだな(笑)
少なくとも今はね。

恵みの雨が降っても、それを喜ぶ人がいないと、それはもはや恵みの雨ではない。
喜ぶ人がいてこそ、神は恵みの雨を降らせるのだ。
受け取る人がいてこその恩恵なのだ。
人はひとりでは生きていけない。
私も。


2002年11月04日(月) 期待と裏切り

期待とは恐ろしいものだ。
それがあるゆえに裏切られると落胆する。
やっかいなのは、期待を裏切られると恨みがましくなってしまうことだ。
そもそも期待とは自分がするもので、相手や出来事はそんなことおかまいなし。
だから、平気で裏切る。
裏切るというと語弊があるな。
こちらからみて「ひどい!」と思うから裏切るという表現をしてしまうだけで、
実は、ひどくもなんともなかったりする。
場合によるけどね。

例えば、誰かに何か話す時「きっとこう言ってくれるだろう」と期待していると、
それと違った反応が帰ってきた時、
「ひどい」とか「わかってくれない」という受け取り方をしがちなのが人間。
勿論、私もだ。
でも、実は、自分が作り上げた型に相手がハマらなかっただけで、
相手はこちらに対し、何も意図はなかったりする。

以前、こんなことがあった。
あるお気に入りのアーティストのアルバムを買い続けていた。
ニューアルバムが出たので、早速買って聴いたらがっかりした。
なんだか今までと全然違っていて好きじゃない、って思った。
変わっちゃったな、次からは買うのやめようかな、失望したな、などと色々考えた。

今思えば、それは私の「期待」だった。
今までのそのアーティストが好きで、そのスタイルを望んでいたのだ。
ところが、ニューアルバムで彼は自分のスタイルを変え、新境地に挑戦した。
スゴイじゃないか。
自分を変えるのは勇気がいる。
受け入れてもらえるかなんてわかりゃしない。
でも、自分に正直に自分を変えていく。
これほどスゴイことはない。
ただ単に、私は彼に自分の期待したものを望んでいただけで、
それと違ったものが出てきたから「裏切られた」気持ちになっていただけだった。
彼は、過去のファンを失ったかもしれないけれど、
新しいファンを得たかもしれない。
ただそれだけのことだった。

私達の日常の中にも、こんなことうようよあるはずだ。
それに一喜一憂し、日々を憂鬱なものにしてしまうことだってあるはずだ。
そんな時、この「期待と裏切り」の関係性を知っていると、
その怒りや悲しみや落胆、失望から早く抜け出せる。
それらがあくまで自分の「反応」だと知る時、
人は自分に責任が持てるようになるからだ。

中立の出来事に意味を与えるのは、常に私達自身。
それを忘れてしまうと、事実がねじまがってしまう、真実を見失ってしまう。
感情が溢れてくる時に、冷静にそんなこと考えられないけれど、
少ししたらそれを思い出せるような人間でありたいって、なんか今日思った。


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今日も読んでくれてありがと♪すごくうれしい!
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