インコがなにやらぐちぐちいっておる

2004年08月05日(木) 吾輩は猫である。

名前は一応あるが同名の輩と始終でくわすほど
在り来たりの名前であるし、あえて名乗らずともよかろうと思う。

最近吾輩の近辺の環境が喧しい。
とは言うても、そもそも穏やかな生活とは生来無縁であるのが
人間と共存する我等猫の生き方でもある。
糧を恵んで戴く上でのやむを得ない代償なのだ。契約ともいえよう。
そもそも吾輩の住まう団地、とやらは動物飼育禁止である。
かなり昔には動物を飼っていても寛容されていたらしいが、
最近では飼育動物が他人の家へ及ぼす影響が見すごせないほどになり、
そのような経緯に至ったらしい。

吾輩達からしてみればそれも畢竟飼育者の身勝手からでたもので
迷惑きわまりないのだが、綱に縛られる哀れな犬共と違い
ひとえに吾輩達の生活習慣が禍いしている事実は認めざるを得ない処
ではあろう。

人間達の決めた境界、つまり家と言うものは我等には有効ではない。
縄張りは勿論あるけれどもそれが人間のそれと必ずしもシンクロするとは
限らないのである。生物が生物の特徴をもって分たれる以上当然では
あるのだがともかく、我等は気の向くままどこにでも入って歩く。
よく手入れされた庭の土などまさに吾輩達の排泄の為に用意された
ようなお誂え向きではないか。
吾輩は猫である故、野山に勝手に生え育つ花木をわざわざ手数を割いて
育てる人間の酔狂を生憎理解しないが、肥料をやる手間を考えれば
吾輩の致す行為はさほど悪いことと意識してはいなかった。
無論自然の欲求の前に人間の言い分を考慮する余地や義務など
猫にはないのであるが、まあ、多少の肥やしにもなるからいいだろう、
喜ばずとも黙認しうる範囲だろうと思っていたのである。

しかし世間は猫にとってもそう都合よくはできていない。

飼い主の元に届いた苦情によると、枯れてしまうらしいのである。
吾輩の糞尿は食習慣の故か、草木にとってはあまり有益なものでは
ないらしい。これは吾輩にとっても意想外の事実であった。
さすがの吾輩も大いに恐縮して、以来他所の庭での粗相は控えるように
なったものだが、行儀のなっていない同輩達の中にはあろうことか
他所の家に入り込んで床だの布団だのに粗相している者もいるようだ。
これでは人間達が怒るのも無理はない。
猫とて糞尿まみれの場所で寝起きする習慣などないのだから
考えあわせてみればもっともな話であろう。
ただ困ったことに、その手の同輩がいる故に我等は十把一からげに
激しく弾劾されるはめとなった。

猛暑の昼下がり、軒下で暑さを凌いでは水をかけられ、
春の朧の月明かり、ランデブーの最中に石を投げ付けられ

そのような軋轢は今にはじまったことではない。
猫と人間とが飼い主とペットという親和関係を築きうるとすれば、
その逆もありうる事になる。
しかし近年その親和と軋轢のバランスが大きく軋轢へと傾きつつあるのだ。
人間が増えその縄張りが吾輩達の入り込む余地のないほど拡大し、
それは今だ止むことはない。しかしもとより住まう我等にも所有権は
あってしかるべきだから、そこで争いが起きてくるのは当然なのだ。
そもそも、生き物すべてに平等に与えられた土地、空間であるはずなのに、
それを人間達だけで分配しているというのはまったくもっておかしな
話だ。自分勝手にも程があると憤慨する生物も多かろう。

ただ、縄張り争いは同種のあいだでもあることであるし、
(人間とて、戦争をするではないか)
そうした争いの我々からの妥協点として「ペット」というものが
存在するのであれば
総体として不平等でも避けられぬなりわいなのだと理解するしかない。

そこで吾輩は思うのである。
この「ペット」という人間との関係の中にこそ、
我等猫(犬や他種も含まれるかも知れぬ)の数々の災難、
その中には我等自身が招いたものも含まれるが、その災難の原因が
あるのではないか。

例えば去勢である。
縄張り問題同様、子孫の繁栄を人間側で勝手に操作するのは
なんと傲慢な、と憤慨する向きは同輩の大多数にある。
まったくもって同意出来かねる話であることは異論の余地がない。
が、人間側でも経済的な事情等で子孫繁栄の抑制を行っているらしい。
これと同じことと考えれば、納得までは行かなくとも妥協点は
みいだすことができるのではないかと思うのだ。
吾輩も恥ずかしながら何世代かの子を生ませた過去があるわけだが、
それらの子供は1〜2匹(残念ながら生存さえ現在はっきりしない)を
のこしてすべて保健所につれていかれてしまった。遺憾である。
遺憾ではあるが、生き残るチャンスをほとんど与えられていないのなら、
はじめから産めないようにしておく、というのは残酷だが
一面では正しい考えであろう。

残酷である、という理由で去勢に反対する人間も多いと聞く。
うちの飼い主の場合は金がかかるからというどうしようもない理由で
去勢はしていないのだが(金おしむなら飼うなよ)、
ならば、際限なく増えた我等の子孫達を養うことはできるのか、と
問いたい。吾輩達猫は一度に5〜6匹を出産するし、
交尾時期は毎年のようにやってくるから
大抵の去勢しない飼い主は子孫の飼育は放棄する事が多いのである。

その増え過ぎた子孫達が膨大な数の野良になり、人間達の間で問題に
なりはじめた。そろそろ保健所がやってくるなと危惧していた時に
起こるべくして事件は起きた。
多くの同輩がどこかの人間に撒かれた毒餌で頓死したのである。
幸い吾輩は野外で食した食物に酷く当たったことがあり、
拾い食いの習慣がなかったために助かったが、
猫嫌いの住人でさえも顔をしかめる惨状であった。
しかし通報はついにされ得なかった。
なぜならこの団地は動物飼育禁止、なのだ。

むしろ逆に我々猫が人間を飼うと考えたらどうだろう。
おそらく同じ経過を辿るのではなかろうか、と吾輩は考えるのだ。
現実問題我々は我々自身を養うので精一杯で、愛玩動物など
飼う余裕など到底ないわけだが。

我々動物を飼い、人間のエリアに住まわせる、というのは
特に我々のように行動範囲の広い種においては
周囲との軋轢をいかにクリアしていくかにかかっていると思う。
すべての人間が動物を愛玩的に飼うことに同意しているわけではあるまい。
それらの愛玩動物がなんらかの影響を近隣者に及ぼすようであれば
寛容的な同意が容易に翻されるのは想像できよう。
その重要性に気づいている動物愛玩者ははたしてどのぐらいいるのか。

確かに軋轢を軋轢たらしめているのは飼われている吾輩達の責かも
知れない。

だが、生まれたばかりの子供を段ボール箱に詰め野に捨てにいったり、
餌を与えてはたまに撫でるだけで、その他には無頓着であったり、
我々と同じような境遇を生み出している飼育者を目の当たりにするたび、
吾輩は疑問に沈思するのである。

悪いのははたして吾輩達だけなのだろうか?と。

我々自身ではどうにもできない事柄、それによって引き起こされる
トラブルをすべて引責できてこそ、飼育者としての資格があるのでは
なかろうか。

吾輩はそのようなトラブルに嫌気がさした身勝手ない飼い主に
捨てられて野良になってしまった同輩を幾匹も知っている。
逆に、きちんと躾をされ身綺麗にされている同輩がいることも
確かである。中には家の中どころか籠に閉じ込められている
信じがたい境遇の飼い猫もいるらしい。

何が一体幸せなのか、吾輩にはわからない。
だが、餌をくれたりかわいいかわいいだけでは吾輩達が必ずしも
幸せになれないことだけは知っていてほしい。
互いが幸せであるための方策を探るのもまた、
飼い主とペットの関係を維持する上での楽しみではなかろうか。
そんなことを思う今日この頃である。



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