七転八倒 〜彩音の日常&育児日記〜
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2003年09月30日(火) 疲労。

息子の熱は一晩で下がり、咳も止まったようで、朝から元気は元気だったのだけれど、
いちおう学校は休ませた。
昨日のうちに学童の方にも連絡しておいたので、学童もお休み。
が、問題の、例の通級の見学。
学校は休んだものの、かなり元気なので、たーぼーも連れて見学に行くことにした。

着くと、ちょうど体操の授業中。(少人数制で)
その中には顔なじみの子が。たーぼーと学童が一緒で、その子も病気を抱えている子だ。
最後の方、たーぼーもちょこっとだけ体操に参加した。というよりも、たーぼーのレベルが
どんな程度か先生に試されたというのが、正解だろう。

その後、たーぼーは遊ばせてもらいながら、私は、面談と他の子の個別授業の見学。
面談でまたもやんわりと、「特殊学級の方が合っていると思う」と言われる。
この一言で私の精神状態も下がり始め、からだの方もつらくなってきてしまった。
立って見学していたら、だんだんとつらさが増し、11時半を過ぎる頃から、立っているのが
やっとという状態に・・・。
そのうちに、たーぼーも言うことを聞かなくなり、私も涙が溢れ出す始末。
先生の一人に、自分が鬱であることも伝え、今回の見学はこれまでということに。

自分自身が情けないが、こういう子供を持つと、親はけっこうつらい。
いや、療育病院に行けば、たくさんの重度のお子さんたちがいるから、そんな弱っちょろいこと
言っててどーすんの?!って感じなのだけれど。
でも、今の私にとってはめいっぱいつらい。

これからまた、たーぼーの進路のことを相談して決めていかなければ。
子供が最大限の力を発揮できる場所を見つけなくちゃ。
そうすることで、結果的に親も気持ちがラクになるのだ。

今はヘトヘトに疲れてしまっているので、ゆっくり考えよう。
焦ってもからだは動かない。頭も働かない。泣くだけになってしまう。

たーぼーが力を発揮できるのにベストな場所、試してみなければ何事もわからない。
今私が言えることは、そんな感じだろうか。


2003年09月29日(月) ううっ・・・苦しい

たーぼーが風邪を引いた。
たーぼーはもともとゼンソクっぽいため、風邪を引くと、咳だけが長引く。
今回も鼻声だなと思っていたら、あれよあれよという間に発熱。
咳き込むのもひどくなってきている。
発熱するとやっかいなのが、ひきつけ。
たーぼーは以前、熱性ケイレンで2回救急車で運ばれ、入院を経験している。
そのため、ケイレンを予防するための座薬を入れなければならない。
解熱剤の座薬は使えないのだ。
なぜかというと、解熱剤で熱を下げてしまうと、また熱がぶり返した時、ケイレンを起こしやすくなるからだ。
(ということで合ってるよね?←頼りない母・・・苦笑)

実は、明日、他校への通級のクラスを見学することになっていた。
それも中止して、予約を取り直さなければ。
学校も学童も公文も休み。

私も子供と一緒に休もうかな。
そういうわけにもいかないか・・・。(苦笑)


2003年09月24日(水) 療育と学習について

毎回この日記を書き出すと、細部にわたってしまい、なかなかはしょって書けない。
と、この前も書いた気がするが、また思いのままに書きたいと思います。

たーぼーの療育は、診察の定期検診と言語療法の2つに分かれる。
ふだんは言語を月1〜2ペースで。
定期検診は、先日行った時、先生に「半年に1度程度の頻度で受けてください」と言われた。
言語と言っても、時間が40分と短いため、ふだんの勉強のサポート的なことを
やっていただいている。
発音等、気になっていたので先生に言ったところ、たーぼーの発音はさほど問題ないとのこと。
さ行がしゃししゅしぇしょになってしまうあたりは、年月と共に少しずつ直して行く方が
効率がいいのだそうだ。

最近はそれほどでもなくなってきたが、最初の頃は先生に反抗的だったたーぼー。
いやだと言ってうろつくのは当然のごとくに。(泣)
それがふだんの学校生活にも出ているので、どうにか直す方向でいけないだろうかと、
日々頭を悩ませているところだ。

学校の勉強がまったくついていけないのは事実なので、この夏から公文をやらせている。
公文の勉強は、本人のレベルに合わせて始めるので、たーぼーは割合すんなりと勉強できているみたいだ、
公文に関してだけは。←声・大(爆)

それと、私の療養目的で、保育園時代と同様に、現在放課後は学童保育所に行かせてもらっている。
学校が終わり次第、学童に向かい、一時期は友達と降所していたけれど、今はいろいろと
問題もあって、私が迎えに行っている。
これがけっこうキツイのだ。学童が遠いせいもあるのだけれど、私のからだがなかなか
ついていかない。
鬱の薬を飲んでいると、眠気にかなり襲われ、自分のからだの動きもままならないことも
たまにある。
今日もキツかったー!
でも、子供のことを考えると、やっぱり早めに迎えに行った方が疲れも少なくてすむ
かもしれない、と思うので。

火曜日と金曜日は公文の日。
だからお迎えを早めにして、学童からそのまま公文へ向かう。
そして公文で勉強する姿を横目に、終わるのを待つ。
そして帰宅。
この一連の流れも、けっこう私のからだを疲労させる。
が、私が頑張らなくてどーする?って言い聞かせて、からだにムチ打つ私なのだ。

時々、学校のスクールカウンセラーにも相談をしている。
この前もしたのだが、どうもこのままだと授業についていけないたーぼーの態度が
大問題なので、他の小学校の特別学級に通級することを考え中。
今度、他校のその学級を見学する予定になっている。
そうなると、他校と自分の学校を行き来するため、送り迎えが必要になってくるので、
私の体力に問題が・・・。
シルバーセンターの方に、送り迎えをお願いすることになるかもしれない。
確実にムリをせずに続けるためには致し方ない。

そんなこんなに問題を抱えて、ただいま育児中の私なのです。

今までの簡単ないきさつはこんなところでしょうか。

これからは、この日記でふだんのグチでも語りましょう。
グチじゃ申し訳ないですけど、私も吐くところが必要なので・・・。(苦笑)

それでは、また。


2003年09月22日(月) 誕生してからの道のり

この日記、ふつうに育児日記にたどり着くまでに、すごく時間を要するような
気が・・・。(笑)
やっぱりはしょって書こうかな。
でも書き出すと長くなってしまうのよねー。
やっぱり心の赴くままに書くことにします・・・。


出産直後から、私の不安との戦いは始まっていた。
病室(大部屋)に行ってからも、私は不安でノイローゼに近い状態。
さすがに産んだ晩は、疲れてるから何も考えずに眠れた。

たーぼーは、先生方の処置のかいあって、蘇生した。
が、自分で上手に呼吸できないため、保育器の中に入れられていた。
夜の授乳がフラフラになりそうなくらい辛かった。
不安が強かったためなのか、お乳が出ない。
妊娠中のマッサージもロクにしていなかったツケだったのかもしれない。
出ないお乳、吸うのがヘタなたーぼー。悪循環。

私の不安状態は、たーぼーが退院するまで、ひどく続いた。
というのも、たーぼーは私の退院よりも一週間、退院が遅くなったのだ。
経過観察のため。自発呼吸がちゃんとできるかどうか、観察の必要があったのだ。
たーぼーが入院中は、私は毎日病院に通って、出ないお乳をしぼり、冷蔵庫に
保管して帰った。
家で搾乳して持っていったこともあったっけ。
どちらにしても微々たるもんだったけど・・・。

なんとか退院できることになったたーぼー。
でも、呼吸ができなくなったらどうしよう?私の心配は消えたわけではなかった。
怖い・・・めちゃくちゃ怖かった。


仮死で産まれたこともあって、退院してからも定期的に病院で経過観察をすることになり、
病院にはよく通ったものだった。

そうそう、夜泣きの期間はものすごくつらかったなー。
夜中起きるのにフラフラで、早く夜の授乳が終わればいいなと思っていた。

1歳になるまでは風邪で熱を出したり吐いたりした程度で、たいした病気にもならずに
済んでいた。
予防注射やら病院通いやらで忙しかったけれど。

1歳児検診なるものを病院で受け、そして医師に言われる。
首すわりも遅く、ハイハイもせず、寝返りすらまともにできないたーぼー。
先生から衝撃的なことを伝えられたのはこの頃だったと思う。
右半身に軽いマヒがある、と。
確かに握力は左の方が強かった。右はうまく動かせなかったのだ。
(そして、たーぼーは今左利きになっている)

先生の紹介で、療育施設に通うことになる。
ここでたーぼーはハイハイやらつかまり立ちやら、一連の運動のリハビリ的なことを
やってもらった。
1年半後の、1998年7月、2歳1ヶ月で、たーぼーはようやく一人で立って歩いた。
今でもしっかりと目に焼き付いている。うれしそうに歩いたたーぼーを。
その日のことは、出産の日の次によく覚えている。
今度こそ感動して泣いたことも・・・。


療育が1年半ほど続き、我が家が引っ越すことになった。
お世話になった先生方とのお別れの日、不安と感謝でまた泣いた。

最後に診察担当の先生が言ってくださった言葉をまた覚えている。
「いちおう卒業という形ですね。大丈夫、この子は追いつきますよ」
現にまだまだ追いついてないけどね。
でも大丈夫、一生追いつかなくても、息子は息子の個性で生きられる。
生きられるはずだ。

引っ越すまでは実家にいたのだが、いろいろとあって・・・。
見知らぬ土地で一から始めることになった。
が、それと共に、私は不安で鬱状態へと突入していくのである。


1998年9月、東京都某市に引っ越す。
知り合いも誰ひとりいない土地で、子育てが始まる。
引っ越す前から不安だった気持ちが爆発したように、引っ越して1ヶ月経った頃から
鬱状態・・・ノイローゼのようだった気がする。
不安、号泣、恐怖など、ありとあらゆる感情が私を支配していた。

たーぼーの療育は、こちらの市に越してからも、こちらの療育施設で続いていた。
同時に問題を抱えたお子さんとそのママたちのグループ活動にも参加した。
その中で仲良くなった友達とは、今でも連絡し合って、時々会ったりしている。

今でこそそういうことができているが、当時はそれもできないほど、私はひどい精神状態だった。
1999年1月、ついに医師の診断を受けることになる。
いわゆる精神科というものだろうか。
(その某クリニックには2001年3月まで通った。
 が・・・どうもなんだか違う・・・と思い、のちに別の心療内科に通うことになる)

先生のすすめもあり、たーぼーをその年の春から保育園に入園させることになった。
私の療養目的とたーぼーの療育を兼ねて、である。
その目的であれば、働いていなくても入園は可能だったのだ。

そしてたーぼーの保育園生活は4年に及んだ。
できなかったことができるようになっていくその姿に、私は他のお母さんよりも
涙を流すことが多かったと思う、
正直言って。
でも、他の人が体験できないような小さなことに感動できたのは、幸せなことだったと
思っている。
たーぼーが私にもたらしてくれた幸せなのだ。

保育園に通いながら、定期的に療育に通っていた。
その頻度は、以前のそれよりも少なかった。
それで大丈夫なようなことを先生に言われていたからだ。
私にも安心感があった、のだ。
が、小学校入学の前の年、先生に言われた言葉は・・・
「軽度の知的障害です。特殊学級に入ることをすすめます」。
そんな・・・!?
いきなりそんなことを言われても、私には納得できなかった。

そして・・・友達に紹介された療育病院に通うことを決心したのだ。
2003年2月、こちらの土地でのたーぼーの本格的な療育が始まった。


2003年09月17日(水) オォ、ノーッ!

1996年5月19日、午前2時。
おお、これがウワサの陣痛か?最初はそんな感じだった。
妊婦が読む雑誌に出てる陣痛とは、どうも違っていたから。
私の場合、頭に血が上ったような、貧血で倒れそうな感じ、だったのだ。
陣痛の間隔が長い時は、比較的落ち着いていたし、間隔が縮まって
病院に行く時も、比較的余裕はあった。
明け方の病院の廊下を、ペタペタとペンギン歩きで歩いた。

陣痛がひどくなってきたのは、午前7時を回る頃からだったろうか。
おいおい、どーなっちゃうんだよ?!って感じの、腰から下どーにかしてくれ状態。(爆)
午前8時くらいにおしるし(出血)が。
いよいよだー。だんだん気分が悪くなってきて、吐いた。
また吐いた!ここでもまた吐くのかよー?!と思った。(笑)

子宮口が開いてくるまでしばらくかかると言われていたのだが、あれよあれよと
いう間に開いたようで、
私はこう看護婦さんに言ったのを覚えている。
「もう出そうなんですけど?!」
「ええ?まだですよ?」
そう言われながらも確認すると、
「本当だ、分娩室に行ってください」
でしょ?でしょ?言ったとおりでしょ?(笑)

その日は分娩ラッシュだったこともあったが、経産婦(出産経験者)を先に出産させるため、
こう言ってはなんだけど、私は後回しにされた。

「もう出ますー!」
「もう少しガマンしてください〜!力んじゃダメよー?」
そう言われても、出ようとする子供の力はけっこうすごい。
分娩台の上で、ひたすらガマンの私。

私は初産の割には、陣痛の時間が短かった。
たぶん出産するまでの時間も、かなり短かったと思う。
力んでから出るまでの時間、長いようには思えなかった。
あっという間に産まれた気がする。

しかし、子供が出てくる前から、取り上げてくれる先生が
「小児科の先生呼んで!」
と看護婦さんに大声で伝えていた様子から、子供に何か起こってることだけは
わかっていた。

そして出産。子供は泣かなかった。呼吸していなかったのだ。
仮死。
小児科の先生も駆けつけ、蘇生させようと必死。
私の出産第一声「あの、子供は?!」
「大丈夫、先生が処置してくださってますからね」と看護婦さん。

出産して感動のあまり涙が出る、なんてことは私にとってドラマの絵空事でしか
なかった。
「どうしよう・・・たいへんなことをしてしまった」
そんなことばかり考えながら、2時間もの間分娩台の上で寝ていた。
その時間の方が、出産の時間よりもずっとずっと長かった。

「ごめんね、ちゃんと産んであげられなくてごめんね」
そんな言葉しか頭に浮かばなかった。

だからいまだに、赤ちゃんの出産シーンを見ると苦しくなる。
人様の赤ちゃんが泣いているのを聞くのがつらくなるのだ。

虚無感を抱えたまま、私は出産を終えたのだった。


2003年09月15日(月) 息子が産まれるまで

この日記を書くにあたり、息子が産まれるまで及び産まれてからのことを、書いておく必要がありますよね。
ちょっと(かなり?)長くなると思いますが、どうぞお付き合いくださいませ。

1995年9月中旬、妊娠発覚。
それから一週間もしないうちにツワリが始まる。
妊娠発覚の前に、食道付近を傷つけてしまい喉から出血、
処方された薬を飲んでしまっていた。
大丈夫かな・・・そのことばかり気になっていた妊娠初期。

でもそんなことは忘れてしまいそうなほど、ひどいツワリに襲われる。
吐くものがないのに吐き続け、胃液、胆汁(お食事中の方はごめんなさい)まで吐き、挙句の果てに、
食道付近の傷もあったせいか、吐血のような状態に・・・。
つらい。

食事はおろか飲んでも吐く生活に、ついには入院することになる。
退院しては再度入院し、計2ヶ月半に及ぶ入院生活。点滴の針の打つところがないくらい、点滴し続けた。
今でもその痕は残っている。
安定期に入った12月初旬(妊娠5ヶ月)、やっと退院。
しかし、退院後も頻度は減ったものの、吐く生活は、妊娠9ヶ月ごろまで続いた。

苦しくてつらくて楽しいと思えない妊娠生活。
日々FMラジオを聴いて過ごした。
だから私の胎教音楽は、当時ラジオからよく流れていた
「ズルイ女」と「ガッツだぜ」。
このせいなんだろうか、今でもつんくだけはちゃんとわかっているたーぼー。
そして、イントロ当てがなぜか得意。
音楽好きなのは、私の影響らしい。(笑)

穏やかな妊娠生活は、ほんの1ヶ月ほどしか続かなかった。
そして・・・そろそろ陣痛を迎える日がやってくる。


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