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2009年12月27日(日) バルセロナ建築の旅(その1)

 12月15日(火)〜12月20日(日)まで飛行機代とホテル代込みでわずか9万円のチケットが入手できたので夫と私の二人旅を決行。
 (名古屋)中部国際空港を11時55分発ヘルシンキ経由でスペインはバルセロナ着20時20分着までの長旅。

 今回の旅の目的はスペインカタルニア地方の偉大な建築家アントニオ・ガウディの建築物を見てまわるのが目的。その間、ガウディのライバルと称されていたリュイス・ドメネク・イ・モンタネールの設計したカタルーニャ音楽堂、サン・パウ病院、そして近代建築の三大巨匠と呼ばれるミースが1929年のバルセロナ万国博覧会で建設されたドイツ館、バルセロナ・パヴィリオンを見に行くのが主な目的だ。

スペインに来てピカソ美術館へいかないてはないのでピカソ美術館も見るという見るものいっぱいのバルセロナの旅。

先ずは乗り継ぎのフィンランド上空を写す。





フィンランドの作家トーベ・ヤンソンのムーミン・シリーズでおなじみのムーミンが飛行場内にいた。


飛行場内にいた子供たちが急に走り出した方向をみたら何とサンタクロースがいるではないか!今のサンタクロースはトナカイともども飛行機に乗るのかな?



そしてしばらくするとフィンランドから乗り継いでいよいよバルセロナ行きの飛行機に乗り換え着席したとたん、機長から「不幸なお知らせがあります。メカニックの故障がみつかり修理しますので1時間お待ちください」とのこと。
メカの修理が1時間で済むような飛行機じゃあ落ちてしまいそうで怖い。
と思っていたら案の定、飛行機を乗りかえてくださいという。
マイナス19度の外気に触れながら送迎用のバスに乗り込んでかえの飛行機に乗り込む。
バルセロナに着くと1時間も到着が遅れて夜の9時半になっていた。それから予約しておいたホテルを探すのは大変だが、運が良いことに9万円の飛行機代の中には行きだけホテルへの送迎がついていた。
飛行場で名前を書いたカードを持った運転手にあってホテルまで送ってもらえて本当に良かった。帰りは地下鉄とバスを乗り継いで飛行場まで行く予定。

これでひとまず一日目は終了。

(続く)


2009年12月26日(土) バルセロナ建築の旅(その2)

 今回の旅はガウディの建築物を見て回るのが主な目的である。
 夫は大学時代よりガウディが好きだった。大学時代から付き合っていた私も彼の影響を受けていて一度はバルセロナに行きたいと思っていた。夫は好きなガウディの作品を見るためにバルセロナに行ったことがあったが、私はバルセロナは今回が始めて。今回はわずか9万円という格安のチケットを入手できたので夫を案内人にしてあちこち詳しい解説を聞きながら旅ができると楽しみにしていた。
 
さて、そのガウディについて概要を説明しよう。
 アントニオ・ガウディ(1852〜1926)はカタルーニャ南部のレウス郊外で銅版機具職人の家庭に生まれた。幼少の頃よりリウマチに悩まされ、内気で病弱な少年だった。自然を相手に一人で遊ぶ「ことが多かったが、自然を観察する力を養うことができた。ガウディ家は裕福ではなかったため、建築家を目指してバルセロナに移り住み、生活費を稼ぐためアルバイトに明け暮れた。建築現場でのアルバイトはガウディの血となり肉となった。サグラダ・ファミリアの2代目建築家に推挙されたのは1883年。31歳のとき。それから1926年路面電車にひかれて亡くなるまで43年間この教会に生涯を捧げたのだった。サグラダ・ファミリアはまさにガウディそのものであるといってよいだろう。
(『world guide』(jtb publishingから)

 バルセロナについて二日目は先ずホテルの近くにあるグエル公園へ歩いていくことにした。
 ここでグエルについて説明しよう。
 ガウディの作品には「グエル」という名前がついたものが多い。 
 それはエウセビオ・グエル(1846〜1918)がガウディ建築のよき理解者であり、多くの作品を依頼したからである。かれは繊維工場やタイル工場を経営し、当時のバルセロナを代表とするブルジョアだった。彼は1878年パリ万博に出品された皮手袋店のショーケースのデザインに魅了された。その設計者を探し見つけたのがガウディだったのである。当時のガウディは才能はあってもスポンサーに恵まれなかった。しかし、グエルという最高の理解者を得たことで次々に世間の注目を集める大きな仕事を手がけるようになった。ガウディの才能を引き出したのはグエルだといってよいだろう。

さて、説明はこのへんにしてそのグエル公園へ行くことにする。



 朝日がさすグエル公園内
粉砕タイルで装飾された波打つベンチが美しい。
画家ミロがこのベンチのタイル装飾に創作のヒントを得たという話は有名だ。









自然を友としてきたガウデイはこのような爬虫類を模したものが多く見られる。


門扉のデザインもすばらしい。このへんシュロの木が多いのでシュロのデザインだろうか。さすが銅版機具職人の息子だった片鱗がみられる。

グエル公園を後にして次はバルセロ市内をツアーするブス・ツリステイックの二日券を買い、バスに乗り込み街をみてまわり、途中でおり、カサ・ミラと呼ばれる集合住宅へと急ぐ。



カサ・ミラは独特の形状からラ・ペドレラ(石切り場)とも呼ばれる。
中に入るとこのようにまるで海中に迷い込んだかのような幻想的な光景に魅せられる。




このやわらかい曲線の椅子もガウデイの設計。


カサ・ミラの模型。


屋根裏の放物線のアーチが美しい。


屋上に上がってみたらびっくり!!!!突如中世の騎士が面をかぶったような奇妙な煙突が出現。
右はるか遠方にあこがれのサグラダ・ファミリアが見える。
ああ!何と印象的な光景だろうか!




アーチの中に見えるサグラダ・ファミリア!!!!!!


1階部分

(続く)


2009年12月25日(金) バルセロナ建築の旅(その3)

 ガウデイの建築を見ると驚きの連続だ。想像を超える造形美と発想。
 この曲線や複雑な構造を図面に表すだけでも大変なことであり、またそれを作る大工の腕にも驚く。そしてこれら今まで誰も見たことも想像もしたこともないような建築造形を受け入れた建築主にも感動する。
 さてカサ・ミラの次はカサ・バトリョと呼ばれる建物を見に行くことにする。
カサ・バトリョとは建築主の名前である。グエル同様、バトリョは大きな繊維会社を営むブルジョアだった。隣の美しい建物が建つとバトリョは今まであった建物をもっと美しくしたいとガウデイに依頼した。しかし、ガウデイは改築を選び1フロア追加し隣の建物よりも高いものを作った。
ガウデイ円熟期を代表する最高に美しい建物だ。





粉砕ガラスと壁面タイルの屋根が美しい。ライトアップされる夜の顔は妖しいばかりとなる。
波打つような壁面には緑、青、茶の色ガラスがちりばめられている。うろこのような屋根。人骨のような柱や仮面のようなバルコニーが妖しいばかりだ。この誰も今まで見たことがないような独創的なデザインは当時も今もこれを越えることはできないほど幻想的で美しい。


ため息が出る。




開口部のドアが波打つように開かれたかと思うと目の前には幻想の海の只中にはいったかのよう。






暖炉。暖炉の中にチェアが両脇にある。



天井のこの柔らかな造形はどうだろうか!水がしたたっている様にも、女性の胸のふくらみにもにている。


屋上に出てみるとカサ・ミラで見たような奇妙な煙突が。





もうこのカサ・バトリョをみただけでも、バルセロナに来た甲斐があったと思った。幻想的で独創的な美しさ、曲線の美、匠のわざの極地を見る思いで感動で涙が出そうになった。夫が長年ガウディを愛し続けてきたわけが分かったように思う。
夫は置かれてあったノートに記念に名前とコメントを書いてきた。


ライト・アップされたカサ・バトリョ
(続く)


2009年12月24日(木) バルセロナ建築の旅(その4)

 バルセロナの街の中はクリスマス前で活気にあふれている。



 いつも海外旅行をするとその国の市場へ行くのが常だ。そこででかけたのが大きな市場。










 乳製品を売っていたので覗いていると隣で買っていたおばさんがここの店「ムイ・ビエンよ」というので私もチーズをハーフキロ買うことにした。この店の人は気が利いていて真空パックにしてあげようかというのでしてもらった。飛行機の気圧や温度でせっかくのチーズが溶けてしまう事があるので助かる。やっぱり「ムイ・ビエン」な店だった。


ランブラス通り
ここを「世界で最も美しい通り」と言ったのはイギリスのサマーセット・モームだ。中央の遊歩道にはプラタナスがあり、一年中観光客や市民で賑わう通りだ。
 ランブラス通りから少し行くと今度はレイアール広場へとでた。
 1878年ガウデイが建築家の資格を得た年に請け負ったバルセロナの公共施設、外灯がある。


レイアール広場の街灯
ガウデイ初めての作品。天辺に鉄兜がある。この鉄兜はガウデイが学生時代に興味を持った鉄細工の一つだったという。
 夜この外灯に明かりがともる所を見たいと持ったが、ここは治安が悪いところなので近づいてはいけないところ。昼間も危険。

次はグエル邸へと行くがあいにく改修工事のため中に入れずまったく残念無念。



グエル邸

ガウデイが活躍した時代はバルセロナ発展期にあたり、ガウデイ以外にも優れた作品を残す建築家たちがあらわれた。19世紀末から20世紀初頭にかけてバルセロナで流行したモデルニスモ建築と呼ばれる華麗な建築・芸術様式の建物である。
その中でもガウデイのライバルと呼ばれたリュイス・ドメネク・イ・モンタネールもすばらしい作品を残している。

カタルーニャ音楽堂






中を撮影できなかったは残念であるが、優美で繊細な美しさは天才ガウデイとはまったくことなるものである。ためいきがでるぐらい美しかった。この美しい音楽堂は今でも365日音楽会がジャズからヒップホップ、クラッシックまで開かれているという。
冷たい雨の中、次は1962年に完成した建築士会会館の壁にピカソのデッサン画が描かれているのを見に。


建築士会会館のピカソのデッサン画

ピカソは民族舞踊のサルダナや、巨人人形ギガンデスなど、少年時代にみたカタルーニャ地方の祭事を躍動感あふれるタッチで表現。
 ピカソの壁画を見たからにはピカソ美術館へ行くべし!


ピカソ美術館
(続く)


2009年12月23日(水) バルセロナ建築の旅(その5)

今回の旅は奇才ガウデイとモデルニスモ建築を見るだけでなく20世紀モダニズム建築の三大巨匠のひとり、ミース・ファン・デル・ローエが1929年のバルセロナ万国博覧会で建設されたドイツ館、バルセロナ・パヴィリオンを見に行くのが主な目的だ。


バルセロナ・パビリオン
(ミース・ファン・デル・ローエ記念館/Fundacion Mies Van der Rohe)




有名なバルセロナチェアがあった。
このシンプルで美しい佇まいはどうだろう!

ここを訪れる人はきっと建築家かそれを目指す人、あるいはミースの作品が好きな人だけだろう。
 
この美しい佇まいを眼の裏に焼き付けて次へと移動。

次はグエル別邸


グエル別邸はグエルが週末だけ過ごす別邸だったところ。かつては広大な庭園に囲まれていたが、その邸は現存しない。
タイルとレンガを組み合わせた外壁はガウデイ初期の作品にしばしばみられるムデハル様式と呼ばれるものだ。


幅約5メートルの正面の「ドラゴンの門」は錬鉄製。ギリシア神話に登場するドラゴン「黄金の林檎の番人」をモチーフにしたもの。この仕事でグエルの信頼を勝ち得たガウデイは次々と重要な仕事を任されるようになった。曲がった面に細かく砕いたタイルを利用したのはこの作品が最初。


ものすごい迫力でドラゴンが迫って大きく開いた口に飲み込まれそうだ。
すごい!

短い旅ゆえ、先を急ぐことにしよう。
次はカサ・ビセンスという建物。



カサ・ビセンスはガウデイが手がけた住宅建築の処女作といわれる。ムデハル様式(優雅な曲線を多用した装飾的な様式であることから、しばしばスペイン版アール・ヌーヴォーなどといわれているもの)の影響が顕著。

建築主のビセンスがタイル業者だったため、化粧タイルが多用されている。建築費がかさんで倒産の危機に陥ったが、建物が出来上がるとその宣伝効果で再び財を成したという。現在は個人住宅なので中に入ることはできない。



敷地内には大きなシュロの木が茂っていたことからガウデイは鉄柵にシュロの葉のパターンを用いている。
 中は個人住宅ゆえ見ることはできないので外から残念そうに写真を写していると中からオートバイに乗って門扉をあけて外出しようとしている男性が見えた。私は思わず、「すごい歴史的建造物にお住まいでうらやましいです」と声をかけると、何とこの男性は門を開けて、「私はもし、仕事に行かないなら中へ案内してあげるんだけど今から出かけるんでごめんなさい」と丁寧な美しい英語で答えてくれた。
「いやいや、結構ですよ、ガウデイが大好きで日本からはるばるとこの建物を見にきたんです」というと、ヘルメットをとって、じゃあ、中庭だけ見せてあげよう。こっちへいらっしゃいといってくれた。誰も今まで入ったことがない中庭へ入れると聞いて夫と私は体が震えてしまった。中庭の門扉を開けると赤い車で出かけようとしている金髪の若い美女がいた。男性は「これは私の妻です」と紹介してくださった。「若くてチャーミングな方ね」と言うとにっこり。私たちは夢中でいまだかつて誰も中に入れなかった中庭の写真を写すので忙しかった。金髪の美女が車で出かけたので私たちも門を出ることにして門扉を閉めようとすると男性が「いやいや、それは自分がするから」と言って閉めてくださった。
丁寧にお礼を言って私たちはそこを去ることにしたが、こんな思いもよらない親切に胸がいっぱいになってしまった。

たくさんとったが本来なら見るのも写すのもいけない建築世界遺産であり、個人宅の庭ゆえ、ここでは一枚だけ載せることにしよう。


この中庭にある大きなシュロの木を見たガウデイが門扉をデザインしたのかと思うと時空を越えてガウデイのそばにいるような気がして涙ぐんでしまった。

私と夫はこんなに外国人の私たちに親切にしてくれたことを思うと日本に来た外国人にも親切にしなければねと心から思うのだった。
 それにしてもヘルメットをわざわざ脱いで丁寧な美しく正しい英語をお話になった中年の男性はいかにもインテリのジェントルマンと言う感じの人だった。スペイン人は意外と英語をしゃべれる人が少ないので驚いた。それも大学生がしゃべれない。そう思うとこの男性はかなりのインテリ階級のひとなのだろう。もっとも世界建築遺産に住んでいるのだから相当の人であることは想像できる。
バルセロナの世界建築遺産に住む心優しき紳士に感謝。

建築をめぐる旅はまだ続く。
 次はバルセロナ郊外にカタルーニャ鉄道に乗って出かけることにした。
 ガウデイの強力なスポンサーで理解者であるグエルが工場をバルセロナ郊外に移転させ、田園工業都市を作り上げるために計画したのがコロニアル・グエル。ガウデイはここに教会を作った。
 電車を降りるとそこは何もない田舎の風景が広がっていた。そこにいまだにグエルの工場が稼動していて村の人が働いている。のどかな田園地帯だ。
そこにあらわれたのがこの田舎の風景に何の違和感もなくひっそりとたたずんでいたのがコロニアル・グエル教会だった。
これを見たくて日本からはるばる来ました!






切り出したばかりの柱が支える半地下の教会堂の空間にステンドグラスから差すあかりが床に緑や赤や青の光を映して神秘的であった。




このステンドグラスのシンプルで温かみのあるデザインはどうだろう!愛らしく美しく素朴で心を温めてくれる。
このステンドグラスに見ほれていたら、この教会を守る人だろうか男性が突如ステンドグラスの下の鎖を引き出した。
すると何と!ステンドグラスの下の部分が蝶々の羽のようにあいて外の空気と明かりが入ってくるしかけになっていた。鎖で開け閉めするとまるで蝶々が羽をばたばたと言わせているようだ。そのたびに教会堂の中の明かりが変化していった。
これを私たちたった二人だけの見学者のために開け閉めしてくれた男性に「グラシャス!」と感謝の言葉が自然に出た。ガウデイは本当に天才である。
閉め切りのステンドグラスでなく、蝶々がはばたくようにステンドグラスの羽が開いたり閉じたりする。教会は呼吸している。自然と共にある。


ただただ美しくひっそりと素朴で温かい空気が流れていった。






木々に囲まれた田園地帯にひっそりとたたずむコロニアル・グエル教会は自然の中で育ったガウデイの心がぎゅっと詰まっているようでいつまでも心に残るものであった。
(続く) 


2009年12月22日(火) バルセロナ建築の旅(その6)最終偏

 いよいよ旅の最後はハイライト、サグラダ・ファミリアを見にいくことになった。

サグラダ・ファミリアは貧しい宗教団体サン・ホセ協会のための教会として1882年に着工された。初代建築家ビリャールは翌年辞任。その後を引き継いだのがまだ無名だったガウデイだった。ビリャールの案はどこにでもあるありふれたものだったが、キリスト教に対する理解を深めるにしたがって、プランが練り直され独創的な教会堂になったのだった。ガウデイの構想によればラテン十字形のバシリカ式の教会で「生誕の門」「受難の門」「栄光の門」という3つの正面を持ち、そこには聖書のシーンを描いた彫刻が施される。教会そのものが石に刻んだ聖書なのだとするものだった。
しかし、ガウデイの生前に誕生したのはわずかに「生誕の門」の塔だけ。ガウデイの死後もスペイン内戦時を除き、工事が続けられている。完成は200年後とも言われている。


新しく作られているものはガウデイの時代のものとはどこか違うようで古いものと新しいものを無理やりくっつけているようでなじめない。味わいがまるで異なる。




とうもろこしの部分をエレベーターに乗って上がっていった。そして帰りは歩いて降りるのだが狭いなかをくろうして降りただけで何の感想も感動もなかった。
がっかり。

汗をたっぷりかいてサグラダ・ファミリアを降りて、次に向かったのはガウデイのライバルといわれたモンタネールが設計したサン・パウ病院へと急ぐ。
モンタネールは前のところで写真を載せたカタルーニャ音楽堂を設計した人である。
さて、サン・パウ病院は銀行家パウ・ジルの遺言によりその遺産をもとに建てられた。


美しく繊細なデザインはガウデイとはまったく異なる趣である。中に入って写真をとろうとしたら病院だけに時間が決められていて入ることができなかった。もう明日には帰国しなければならないと残念がっていると一人の女性が声をかけてきた。「ねえ、あなたたち、中に入りたいの?」「はい。でも時間が決められていて今日はもう入れないのです」というと女性は「こっちへいらっしゃい。教会ならいつでもあいているわよ」と手を引いて案内してくれた。教会のほうへいきがてら、女性はバルセロナの主だった建築物について説明してくれて、その詳しさに驚いた。それも流暢な英語を話すなかなかのインテリ。年は60歳は越えていそうだが美しい人。夫とその女性が建築について話している間に教会についたが、閉まっていた。その横にはまだモンタネールの設計した建物があるのでそちらのほうへ回ることにして女性にお礼を言うと彼女はイタリア人でマリアと言う名だと自己紹介してくれた。
旅で出会った二人目の親切な人だった。
見ず知らずの日本人の手を引いて案内してくれようとするその心意気が嬉しい。


マリアさん、ご親切をありがとう!グラツイエ、タント!アリヴェデルチ!


ガウデイのライヴァルといわれたモンタネールのサン・パウ病院を背にくるりと振り返ると反対側にライバルのガウデイのサグラダ・ファミリアが見えた。

旅の最後の日も、とうとう日が暮れてきた。
街はクリスマス前の週末と言うことで賑わっていた。





蚤の市


旅の最後の夜は思いっきり楽しもうとタブラオへフラメンコを見にでかけた。









こうして短くも楽しいバルセロナ建築の旅はフィナーレである。

この旅の間アクシデントが二度あった。

一つは地下鉄の中で若い女性グループのスリにあったことだ。
地下鉄に飛び乗ろうとして夫が先に乗り、後ろを私が乗ろうとすると若い女性が夫と私の間に入ってきて地下鉄に乗ったが前になかなか行こうとしない。ドアはもう閉まる寸前。私の後ろにもう一人の若い女性がぴたりとくっついてきた。右わき腹がもぞもぞするので「きゃーなにするの」と声をあげると夫が「どうしたんだ!」とふりかえり、車内の男性もみんな私のほうを見た瞬間前の女性と後ろの女性が閉まる寸前の地下鉄から飛び降りた。
乗ったと思ったら降りるのはおかしい。
ハンドバッグをたしかめるが盗られた物はない。
「スリだった」と思った。
大声を上げたので飛び降りたのだろう。危ういところだった。
そしてもう一つのアクシデントは帰る日の三日前にレストランで肉料理をたらふく食べ、食後に濃いエスプレッソを飲んだら胃をやられてしまったらしく、胃痛に七転八倒。帰りの飛行機の機内食はとうとう一回も食べずに帰ってきた。
帰宅してしばらくしたら治ってしまったが、医者に行って薬をもらったというしだいだ。食べすぎは禁物ということらしい。

今回の旅は見るものがいっぱいあってまだまだ足りないぐらいだった。
今までシンプルなコルビエジェの建築物がが好きだったが、この旅ですっかりガウディの信奉者になってしまった。
当時も現代になってもガウデイのあの独創的なデザインを越えることはできない。ガウデイは奇抜でいてコロニアル・グエル教会堂の建設では10年もの歳月をかけて構造的実験を重ねている所を見ると念入りに構造計算を積み重ね、実験をし模型を作って研究する建築家であることがうかがえる。。この実験はサグラダ・ファミリアの設計に生かされている。銅版機具職人の息子に生まれただけに鋳鉄のデザインや扱いは卓越したものがありグエル別邸でみたあの「ドラゴンの門」の大きな口をあけたドラゴンの迫力は強烈な印象として残っている。コロニアル・グエル教会堂のひなびた味わいとステンドグラスのあたたかみは心にしみる。
カサ・バトリョの一階部分は海中深く沈んでそこに住んだらこんな風だろうとかおもうほど幻想的なものであり、二階部分の広間の曲線の美しさ、家具、暖炉、取っ手にいたるまでガウデイが設計した最高傑作。涙があふれてきそうで困ったほど感動した。

ガウデイの素晴らしさを堪能した旅だった。そして世界建築遺産にお住まいの男性からはおもいがけなく親切にしてもらい、中には住人以外は誰も入れないのに、ご好意でいれてもらい、感動。イタリア人女性は手を引いて案内してもらったりと見知らぬ旅人への親切とやさしさに本当に深く感謝する。
 夫が好きなガウデイの作品群を見て周り、また、ライバルといわれたモンタネールの優美な作品もみることができ、一方、近代建築の巨匠といわれるミースのバルセロナ・パヴィリオンも見ることができて目が拓かれた。
 写真は700枚ぐらい撮っただろうか。ブログにはどれを載せようか迷いながらの作業だった。

というわけで、バルセロナの旅はこれにて完。

※参考資料からの引用は『world guide』(JTB パブリッシング)より)

主たる建築作品:

グエル公園(世界遺産)、カサ・ミラ(世界遺産)、カサ・バトリョ(世界遺産)、レイアール広場の外灯、グエル邸(世界遺産)、カタルーニャ音楽堂(世界遺産)(モンタネール作、)、建築士会会館(ピカソのデザイン画壁画)、ピカソ美術館、ミース・ファン・デル・ローエ記念館(バルセロナ・パヴィリオン)、グエル別邸(「ドラゴンの門」)、カサ・ビセンス(世界遺産)、コロニアル・グエル教会堂(世界遺産)、サグラダ・ファミリア(世界遺産)、サン・パウ病院(世界遺産)

利用した交通機関:
地下鉄、カタルーニャ鉄道、ブス・ツリステイック

(完)


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