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2007年09月24日(月) 文化フォーラム「なごや歴史漫歩」(大須周辺散策)

今日は文化フォーラム 第二回なごや歴史漫歩(大須散策)の会が開催され曇り空の下参加してきた。

総勢27名の参加。

名古屋は日本の三英傑(信長、秀吉、家康)を輩出した土地であり、日本の歴史を飾った様々な建造物、史跡がある歴史の街である。

今回の大須の地は名古屋のど真ん中。
今名古屋で最も活気に満ちた土地でも或る。

先ず散策開始の場所は「大須観音」


大須観音はもともとは長岡庄大須郷(現岐阜県羽島市)にあった。

しかし、戦乱や木曽川の氾濫などのため1612年に家康は成瀬正成(なるせまさなり)に命じて洪水の恐れのない現在地に移した。
以後、尾張藩の保護のもと、城下町の繁栄で境内には芝居、物まね、相撲などが盛んになり客足をよびにぎわったのである。




これは真福寺(真言宗)で、創建の地名を取って『大須観音』と俗称で呼ばれ親しまれている。



この大須文庫にはすごい宝物があり仰天!

開山の能信上人によって収集されたもので、蔵書は仏書、史籍など一万五千点に及び京都の醍醐寺、和歌山の根来寺とともに古くから天下の三教蔵の一つに数えられているという。

その蔵書の内訳を聞いてびっくり!
『古事記』(賢諭筆)をはじめとして国宝、4点と40点近くの国の重要文化財がある。
前もって予約しておいたので特別にそれらを見せていただいた。
もっとも、本物はただいま名古屋博物館で公開中。写本をみせてもらった。


次にやってきたのが大須観音から南東に100mのところにある『七寺(ななつでら)』


735年行基により開創。787年、河内権守紀是広(きのこれひろ)がわがこの菩提のため、七区の仏閣と12の僧坊を建てたことから「七寺」とよばれるようになったもの。
繊細により焼けてしまったが、木造観音菩薩坐像、勢至菩薩坐像(国重文)の2像は戦災をまぬがれた。
玉眼が入っているめずらしい菩薩様。他に平安時代末期の唐櫃入一切経(国重文)もあった。

日本でも貴重な重要文化財がここにはあって驚いた。
こんな名古屋のど真ん中にある小さな寺に世界でも珍しい経文が残っている重文があるなんてと驚いた。


次に来たのが那古野山古墳。




那古野山古墳は前方後円墳と推定されるもの。
現在は高さ6m、径17mの後円墳のみが残されている

こんなににぎやかな場所に古墳がのこっているなんて珍しいなあと驚いた。



冨士浅間神社






仏足跡




最後にやってきたのが『万松寺』(ばんしょうじ)
『万松寺』(ばんしょうじ)(曹洞宗)は天文9年(1540年)開基は織田信秀信長のお父さんである。


織田信秀のお墓である。


織田信秀の墓。

織田信秀は織田信長の父である。
信長の陰に隠れてしまっているが優れた武将であった。
信長が生まれたとたんに名古屋城を信長に譲り城主とした。
戦国武将のように子どもに教義を押し付けることはせず、信長が興味を持った好きなことだけをさせるようなことをしたのだった。それで信長が「おおうつけ」など呼ばれるようになっても一貫して信長を支持しつづけたのであるから、父信秀の器量は大きく、先見の明があったともいえよう。

さて信秀が死に葬儀はこの万松寺で行われたのである。
弟信行をはじめとして、近親、重臣が居並ぶ中、700名の家臣が参列。喪主の信長の姿はない。

焼香のとき、信長が現れ腰にあら縄を巻き、太刀と脇差をさし、袴もつけずの姿。
信長はつかつかと前に出たかとおもうと、いきなり抹香をわしずかみにし、位牌に向かって投げつけた。
これは小説の中のお話。

その信秀のお墓がこれである。

こんな繁華街のど真ん中、若者でにぎわう大須の真ん中にありながら、万松寺の裏手に回ると信長塀に囲まれたひっそり静かなところにこの廟所があった。
不思議な空間であった。
こんな歴史の逸話が残っている廟所は静かにひっそりと眠っているようであった。

今日の文化フォーラムは歴史的なお寺をめぐった。世界でも貴重な経典が収められていたり、あの「古事記」があったり、信長が位牌めがけて灰をかけたといわれた父信秀のお墓があったりと今一番名古屋でにぎわっている場所にそれらが存在するという史蹟の妙を見る思いであった。

日本の歴史の中でも欠かすことができない三英傑(信長、秀吉、家康)を輩出した名古屋の地は今、日本でもっと熱いばしょと言われている。
ファッション、文化が今熱い。

そんな熱い「現代」のど真ん中にひっそりと佇む「歴史の場所」を巡った文化フォーラムであった。

みなさんも、名古屋へお越しの節は、ひつまぶしや、みそかつに舌鼓を打つ一方、こうした「歴史」の宝庫でも或る場所をめぐってみては如何でしょうか?


2007年09月21日(金) 奈良県橿原市(かしはらし)今井町への旅

今日はかねてから行って見たいと思っていた奈良県橿原市今井町へ小さな旅をしてきた。

朝はやく電車に飛び乗り、名古屋からは近鉄特急で大和八木で降車。

奈良県橿原市(かしはらし)今井町は天文年間(1532〜1554)に今井兵部が称年寺を開いたのが始まりで各地から商人を集め行政機能を整備し商業地として隆盛を極めた地である。

この今井町をご存知の方はどれぐらいいるだろうか?
大方の人は今井を通り過ぎ、飛鳥へ行ってしまう。
ところがどっこい!
この今井町は穴場中の穴場。
町全体が江戸時代のままそっくり残っている貴重な土地なのである。

城壁都市ならぬ掘割都市として繁栄した地であり、「大和の金は今井に七分」といわれるぐらい大和の冨はほとんどこの今井に集まったのである。
400年もの期間、火災にあわなかったっため、室町時代からの町割りや江戸時代の豪商による贅の限りの建物がそっくり残っている貴重な町。

行ってみてびっくり!
本当に江戸時代がそのままの街並みで、その規模も広くて驚いた。

ではその様子を写真で紹介しよう。


町の広さは東西に600m。南北に310m。





内部にある台所では「まがたまかまど」と呼ばれるまがたまの形をした「おくどさん」があった。
たった一人でこれら多くのかまどを全部管理できるというすぐれもの。


電柱も電線もないので町人姿の番頭さんでも出てきたら江戸時代にタイムスリップしたような風情である。

さて、次に揚げる写真を見て「あれ?どこかで見たことがある」と思う人が多いのでは?




そう大和ハウスのコマーシャルにでてくる御宅である。

江戸時代の豪商の御宅で、お醤油屋さん。

土間を通しておくまで吹き通しがきく素晴らしい設計とその風情。
コマーシャルに使われたのもうなずける。

江戸時代には年貢を納める蔵もあったというからここら一帯を治める豪商であったのだろう。
この辺一帯の土地を多く所有していた当主も時代の風は厳しく全てとられてしまったとか。
しかし、この建物は江戸時代のまま。
瓦は江戸時代のままで「まる瓦」。屋根には「屋根神様」が鎮座していた。
ご当主がでてこられてお話を聞くことができた。





この辺の家の間取りは
だいたいが似ているそうで、細かい格子や「六間取り」の座敷が特徴。
つまりたたみの部屋が三間、二列になっている間取り。
ふすまをはずすと四部屋が一つの大部屋になる。


当主の部屋は敷居が一段高くなっている。
つまり当主がいるへやは格式高くなって段差がつけられているのである。
後に「敷居が高い」という言葉はここから来たのだろう。

さて、次に揚げる写真はいったい何だろうか?分かる人?

これは何と保育園。

表に回ってみるとさらにびっくり!


こ〜んなに立派な門まであった。



豪商の家には駕籠まであった。



今井まちなみセンター

この近くでお昼を食べた。
お昼はこのブログにいつもコメントを書いてくださっている酒徒善人さんのお奨めの「横田すし」へ。

おいしゅうございました。

お昼を食べて満腹のお腹をかかえながら、次は飛鳥へ。

飛鳥ではレンタルサイクルをかりて飛鳥古墳などをみてまわったけれど、時間切れとなって途中で引き返して帰途につくことにした。
また別の機会に飛鳥へ行くことにする。

今日は残暑が厳しくて汗をかきかき、歩いて歩いての旅。

ずっと行きたいと思っていた今井町。
江戸時代がそくりそのまま残っている貴重な街並みを見て感激した旅だった。

観光客があまりたちよらない穴場中の穴場の土地。

400年もの間、火災にもあわず、営々と町の人たちがここ今井町を大切にしてきたのはすごい心意気である。

さらに驚くのはその江戸時代のままの家屋が空き家でなく今現在もその子孫の方々が住んでいることである。

何でもかんでも欧米化して日本家屋がすたれている昨今、不便なことものあるだろうけれど、こうして大切に「日本」を残している町の人全体に敬意を表したい。

奈良は日本人の心の、歴史のふるさとである。

街並み保存というスローガンをかかげるというそんな大仰なことでなく、心底先祖の心をその風情のまま遺すその心意気が「町全体からただよってくるのを感じて感動した旅だった。

皆様も一度この江戸時代がそっくりそのまま残っている今井町へ旅してみませんか?


2007年09月01日(土) 「青春18きっぷ」の夏バージョン京都篇

夏休み最後の土曜日。

「青春18きっぷ」の最後の一枚を使って京都へ行ってきました。

朝6時15分に家を出発し、電車に。
早朝なのにすごい混みようでびっくり!

みんなリュックを背負ったり、ザックをかついだり。
みんな「青春18きっぷ」を利用している様子。

名古屋から東海道線に乗り米原まで。
米原から東海道本線に乗り換えて「姫路行き」に乗る。
やはりすごい混みようでびっくり。
席をやっととって座った。
東海道本線の車窓はさながら日本の歴史をふりかえるような旅で楽しい。

米原へ行く途中、金華山の頂きには斉藤道三の城(岐阜城)が見えた。
岐阜(ぎふ)城は、斉藤道三、織田信長の居城として有名。

そして米原から姫路行きの東海道本線に乗り換えると関が原があり、安土城があったあたりの山が車窓からながめられる。

京都駅に着いたのが9時15分ぐらい。

そこからローカル線に乗りかえて嵯峨嵐山で下車。

嵯峨野の竹林を通ると涼しい風が通り抜けていった。


落柿舎(らくししゃ)


江戸期の俳人向井去来の閑居跡。[落柿舎(らくししゃ)]



嵯峨天皇皇女・有智子 (うちこ)内親王のお墓



向井去来のお墓

西行の井戸跡


さて、今日のお目当ての場所『祇王寺』へやってきた。


京都でも最も美しくわびしいまでに静寂な場所『祇王寺』
何度きても美しく心が落ち着いて日本の美を感じる場所。




こけむした庭。


紅葉のこだちごしに見える庵の詫びた風情は絶景。

このこけに秋になると真っ赤な紅葉がおちてじゅうたんをしきつけたようになる。


「控えの間の吉野窓」

祇王もこの円窓から庭をながめたであろうと思うと趣がいっそうます。


祇王、清盛、祇女の像

平家物語は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。おごれるもの久しからず、唯、春の夜の夢のごとし」とあるが、その続きに祇王祇女のことが出てくる。

これは平清盛と二人の女性の哀れな物語。
平清盛は白拍子の祇王を寵愛する。
そこに別の白拍子仏御前が現れ寵愛はそちらに変わってしまう。
昨日までの寵愛はどこへやら、館を追い出された祇王。

せめてもの形見にと

・萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草いずれか秋にあわではつべき

と障子に書き残して去っていく。
後に追い出した仏御前もあとをおってこの祇王寺にやってきて一緒に尼になる。

一人の横暴な権力者に翻弄された女3人。
この嵯峨野のわびしい庵で読経三昧の生涯を送ったかと思うと感慨深い。

喧騒の現実とはかけ離れたようなこの庵は訪れる人も少なく残暑が厳しい今日でも涼しい風が吹き、苔むした庭はほのぐらく心が落ち着く。

もうここへ来ただけで、他は見なくても良いぐらいの場所。

京都へ来たらここへ是非足をのばしてみることをお奨めしたい。

さて、この静寂の世界をすぎてみれば現実に戻って時はまさに正午。

またローカル線に揺られて東山へ。

ここ京都で洋食を?とびっくりされるかもしれないけれど、絶品の店があるというので来てみたのが「みしな」
こじんまりした店にシェフとママさん、お母さんの三人がやっている店。
ここはリピーター客が多い絶品の洋食屋さん。

エビフライとかにクリームコロッケ、ビーフシチューが美味。



これにお茶漬けがついている。



これがまたおいしい。
それから祇園へ。


四十七士の大石蔵之助がいつづけをした、あの「一力茶屋」




格子が美しい御茶屋さんが軒をつらねている。


お茶屋さんからでてきた日本髪のお姐さん。



べんがら格子などの格子が美しく粋なお茶屋さんが軒を連ねる京都の街並み。


一時週刊誌をにぎわせた佳つ乃さんのお店

こうして京都の町をあちこち歩いているうちにもう帰る時間がせまってきた。
日差しは暑いのに風が爽やかになってきた。
もう秋がそこまでやってきているのね。

帰りの電車も超満員。
夏休み最後の土曜日を小旅行に遊びにと繰り出した人が大勢。

「青春18きっぷ」の夏バージョンはもうこれでおしまい。

9月の半ばごろ、今度は近鉄で奈良の今井へ行く予定。

京都は何度行っても日本を再発見する場所。

みんな、いい旅しようね。


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