DEAD OR BASEBALL!

oz【MAIL

Vol.200 データの表層
2006年05月07日(日)

 先日、所用で書店のスポーツコーナーを歩いていて、少し「おや?」と思ったことがある。野球関連の書籍で、データを扱ったものが結構な種類並んでいたことだ。

 少し立ち止まって、何冊かパラパラと眺めてみた。選手名鑑に少し毛の生えたようなものから、プロも使っているような各選手の詳細なデータが掲載されているものまで、その種類は様々。中には、打者の打球比率やカウント別打率、投手の球種比率や状況別被打率等、非常に細かいデータを網羅しているものまであった。

 一般の野球ファンの間にも、野球に関するデータへの欲求が浸透し、馴染んできているということなのだろう。その裏には、避けては通れないある集団がいる。データスタジアム、旧アソボウズだ。

 アソボウズが日本球界に起こした、一種の革命であることは間違いないと思う。アソボウズ発足当時は、あくまでもプロの球団の武器になるデータを、プロの球団に提供する立場だったアソボウズ。だが、次第にその詳細なデータの魅力を、野球メディアが取り上げるようになった。現在出回っている野球データ本の多くは、そのデータ提供をデータスタジアムから受けている。野球中継でもそのデータが登場することが多くなってきた。

 私も野球に関わるデータが好きで、絶版になる前には江川卓スカウティングレポートというプロ野球データ本を毎年買っていた(今年別会社から別名で復刊した)。得意選手・苦手選手だけではなく、様々な比率やデータが掲載されていて、「マニアックだな」と思いつつ、「こういうデータがあればより野球が面白く観戦できるな」とも思って読んでいた。

 データとは何か。こと野球に関する限り、私は選手の実像を炙り出すツールだと思っている。

 例えば、得点圏被打率が低ければ強心臓なピッチャーなんだなと思うし、ライト方向への打球比率が多い右打者ならばランナー一塁では厄介な打者だなと思う。プレースタイルによって、ある程度こういう選手だという把握はできるが、その裏付けとして数字化し、その選手がどんな選手かということをより深く実感し、対戦するならば攻略法の根拠にする。それがデータの力だというのが、個人的な意見である。

 これは、ある意味で非常に簡単な認識だろう。打率、本塁打数、防御率といった、一番基本的な選手情報ですら、それは立派なデータだ。本塁打数が多ければパワーヒッターだと思うし、盗塁数が多ければ俊足の選手なんだと思う。それを突き詰めて細分化し、実用に足るまでに発展させたのが、現在データスタジアムが提供しているデータだろう。

 「データがあれば選手に迷いがなくなる」とは、野村克也の言葉である。ピッチャーが追い込んだ。この打者は追い込まれても外のストレートには強いが、そこからスライダーで曲げれば打率はガクンと落ちる。こういった根拠がデータとして頭にあれば、バッテリーが勝負球を選択する際に迷いがなくなり、結果失投が少なくなる。データという無機質な数字が人間の精神にも介在するという、極めて人間的なアイロニーが、野球というゲームを面白くする。

 一般のファンの間に、そういった専門的なデータが馴染んできているということは、この国の野球民度が深くなったという言い方もできるだろう。だが、そうばかりでもないと思ったのは、先日のWBCだった。

 言うまでもなく、WBCは一発勝負の色が濃い大会で、大会期間中にデータを収集し、それを実戦的なレベルにまで洗練することは非常に難しいと思われる。事前のデータ収集が小さくないファクターを占めるのだろうが、その多くは実戦に伴ったものではなく、ビデオやメジャーリーグのスカウティングレポートによるものだろう。

 Number650号に掲載されていた、長谷川滋利氏のWBC検証が非常に興味深い。2次リーグのアメリカ戦、日本は藤川球児がアレックス・ロドリゲスにサヨナラタイムリーを打たれて敗れたが、その時の検証がデータ主義の落とし穴を示唆しているように思える。

 長谷川氏曰く、ロドリゲスの弱点はインコースだが、単純にインコースが脆いのではなく、アウトコースの後のインコースに弱いというのが正確ということだ。長谷川氏が現役時代ロドリゲスと対戦した際には、外と内2球をワンセットとし、必ず伏線を張ってからのインサイド勝負という発想を徹底していたという。

 恐らく日本代表にも、ロドリゲスのメジャーでのスカウティングレポートは届いていた筈だろう。しかし、一般的なスカウティングレポートの場合、その打者がアウトまたはヒットした際の球、いわゆる結果球に対するデータが大半を占めているという。そこだけを見れば、恐らく“ロドリゲスはアウトコースよりもインサイドに弱点がある”というデータを読み取るだろう。

 藤川は、ロドリゲスにインサイドのストレートを3球続け、その3球目を詰まりながらもセンター前に運ばれた。「いくら球に力があっても、A・ロッドほどの打者ならば目が慣れて、打ち返してきます。(中略)あくまでデータはデータであって、その裏にある伏線を読み解かないことには宝の持ち腐れになる」とは長谷川氏の弁。この発言は、実に示唆に富んでいるように思えて仕方ない。

 「A・ロッドはアウトコースの後のインコースに弱い」というのは、データで示すよりも、恐らく実際に対戦したピッチャーの感覚的に染み付いている部分が大きいのではないか、と思うのだ。

 数字を示せば、そういったデータは確かに出てくるだろう。しかし、コンピュータは条件さえ提示すれば完璧な解析結果を出してくれるが、「大体こんな条件で」というアバウトな判断を与えられると非常に弱い。そう考えると、「アウトコースを見せた後のインコース」というアバウトな条件は、実際に対戦した人間の感覚でないと発見しにくい条件なのではないか、と思う。ましてやWBCは短期決戦、恒常的に対戦する相手ではないからこそ、そういった感覚的なデータを示すのは非常に難しかったに違いない。

 長谷川氏の話を読んでいて、将棋の羽生善治氏が話していたことを思い出した。将棋のコンピュータソフトの話で、コンピュータは最後の詰め将棋の部分では既に人間を超えているが、いくら何億手、何十億手と読めても一番最後にどっちの場面がよくなるかまでは判断できない、ということだった。大体こんな感じだろうなという判断は人間は非常に得意なんです、とも。

 もしかしたら、「大体こんな感じだろうな」という感覚に鋭くなることこそ、本当の意味での野球民度なのではないだろうか、ということを感じた。データは引っ張り出せば誰でも使える。しかし、使い方を誤るとWBCの時のように思わぬ落とし穴に足元をすくわれることもある。そういう場面で最後にものを言うのは、「大体こんな感じだろうな」という直感、それらしく言えば洞察力や相手の匂いを感じられる嗅覚、という極めて職人的な部分にあるのではないか、と。

 データとは根拠だと前述したが、一歩間違えばエクスキューズになる可能性も秘めている。インコースの打率が.300でアウトコースの打率が.100ならば、確かにアウトコースに投げるのが道理だろうが、その.100のアウトコースに投げて打たれたら、それは結果打たれたということになる。長谷川氏の話とは少し矛盾があるかもしれないが、投げる方に別の根拠があれば、そこで敢えてインコースに投げた方がいいという局面もあるかもしれない。打たれた後に「データ通りに投げました」と言っても、打たれた結果がチャラになる訳ではない。

 以前、日本テレビの野球中継で、解説をしていた江川卓氏がこんな話をしていた。

 「いま画面ではこの投手との対戦打率が.200と出ていますが、打者と投手の調子や流れを考えれば、ここでヒットが出る確率が.200ということはありませんね。かなりの確率でここはヒットが出ると思いますよ」

 その場面の結果がどうなったか、それは覚えていない。しかし、野球はギャンブルではない。確率があっても、それを操作するのは人間で、それに踊らされるのも人間。だからこそ、データはツールであって、それ以上でもそれ以下でもない。データは実像を映すツールだが、そのものを示してはくれない。自分で炙り出さなければならない。そういった意味を、この江川氏の解説は説明していたようにいまは思える。ゲームの流れというのも極めて感覚的なものだが、人間の精神状態という言葉に置き換えれば、それは数字化できないゲームの構成要素だ。

 データが増えたということは、それだけ判断する材料、楽しむ為の材料が増えたということでもある。だが、それを集めるのも、扱うのも人間だ。だからこそ野球というゲームは成立している。データの表層に溺れ、それだけを強調材料にする野球が展開されたら、それはコンピュータゲームと何も変わらない、極めて味気ないものになってしまうような気がする。

 巷にあふれる野球データ本を見て、いまはこう思う。これもまた、この国の野球民度を試す認定試験なのだ、と。



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