DEAD OR BASEBALL!

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Vol.198 “古田の2000本”という価値
2005年05月03日(火)

 捕手として、自身が監督として師事した野村克也以来2人目の2000本安打を達成した古田敦也。大学と社会人を経由してプロ入りした選手では初の快挙ということで、先週達成した時には当然の如く大きく取り上げられた。

 プレーヤーとしての古田の偉大さを挙げれば枚挙に暇ないが、私が1つだけ挙げるとするならば、捕手というポジションを現代野球の核に仕立て上げたということに尽きる。大袈裟に言えば、それは「古田ブランド」の確立と言ってもいい。

 もし古田が、プロ入りして球界を代表するような捕手になっていなかったら、捕手というポジションのイメージというものは今と随分変わっていたかもしれない。

 野村は言うに及ばず、捕手として球史に名を刻んだ名選手は大勢存在する。だが、捕手というポジションを華やかなポジションとして、同時にチーム力のかなり大きなファクターを占めるポジションであるということを知らしめた捕手は、古田以上の名前がちょっと出てこない。

 90年代の球界を席巻したID野球の喧伝者は言うまでもなく野村だが、古田がいなければID野球というイノベーションがこれほど浸透することはなかった。これは今から振り返ってみれば断言できることで、グラウンドレベルでのヤクルトを仕切っていたのは、間違いなく野村ではなく古田であった。

 それだけの存在感を示した捕手が、過去にいただろうか。そう思わせる佇まいこそ、プレーヤーとして最も大きな古田の力であったように思う。

 ヤクルト投手陣、特に移籍組や実績のない若手がヒーローインタビューで例外なく口にする言葉が、「古田さんのミットだけ目掛けて投げました」という類のもの。捕手のリードが投手の好投を引き出すことは多々あるが、“その捕手がマスクをかぶっている”という事実が投手全体の力を120%引き出すということは、そう滅多にあることではない。

 2000本安打は、専守防衛という捕手のイメージを覆す勲章でもある。2年目には打率.340で首位打者を獲得した打棒は、その後もコンスタントにクリーンアップ、その少なくない中で4番を務め、ヤクルト打線の中で変わらぬ中核であり続けた。そんな捕手は、日本球界で知る限りはやはり野村と古田しかいない。

 これが何を意味するか。タイプこそ違うが、野村と古田の打撃技術が素晴らしいことは言うに及ばない。肝心なのは、捕手というポジションにありながら、これだけ優れた打棒を維持し続けたという点にあるように思う。

 城島健司は、確かに古田とは違う面で新たな捕手像を確立した破天荒なトータルキャッチャーだが、実働年数という面ではまだ野村と古田には及ばない。

 もちろん城島にその資質は十二分にあるし、このまま日本球界に留まり続けるならば、古田以上の成績を残す可能性も十二分だろう。ただ、あくまでも現段階の話であるならば、“現実”と“極めて現実的な可能性”は全くの別物。

 古田が城島より上であるとか、そういう話をしているつもりは全くない。が、黄金期のヤクルトが「古田のいたヤクルト」と形容できる点に対し、現状黄金期を迎えているソフトバンク(ダイエー)が「城島のいたソフトバンク」と形容できるかは意見の分かれるところだと思う。

 チーム事情による印象の違いはあるだろう。90年代以降のヤクルトも充実期のダイエーも、投打のバランスが取れた好チームだった故に覇権を握ったチーム。だが、城島がケガや五輪派遣で抜けても屋台骨が揺るがなかったダイエーと違い、ヤクルトは古田の成績が如実に順位に反映するという状況があった。

 平たく言えば、レギュラー捕手に対するチームの依存度の違い。個々人のレベルが高い打線と先発投手陣を擁したダイエーと違い、ヤクルトは主力選手の相次ぐ退団や故障者の多さに泣きながら、その都度不思議な反発力で上位に食い込んできたミラクルチームだった。そのミラクルと古田は、切っても切れない関係にある。

 その状況の中心には常に古田がいて、且つ古田の代わりが存在しなかったヤクルト。城島の代わりこそいないものの、“チームの中核”という代役なら工藤公康、小久保裕紀、松中信彦という選手がいたダイエー。

 「古田がいないとチーム像すら描けないヤクルト」と、「城島がいなくてもチーム像が揺るがないダイエー」という違いは、確実にあったと思う。ヤクルトのチーム力が最も強力だったのは、吉井理人、テリー・ブロス、田畑一也、伊藤智仁、石井一久、高津臣吾らを擁した90年代中盤〜後半だったと思うが、その安定した投手力は必ず古田とワンセットで評価された。

 言葉は悪いが、そういう「古田頼み」という状況のチームで、古田は2000本安打という打者としての偉業を達成したのである。無事是名馬の典型と言えば、あまりにも陳腐になってしまう。そして昨年はグラウンド外の姿の方が目立つという、プロスポーツ選手として圧倒的な逆風下、グラウンド内でも中心に立ち続けて快挙への歩を進めていったのである。これはもう、凄すぎると言うしかできない。

 城島、そして城島のいるソフトバンク(ダイエー)との対比で話を進めたが、これには両者の“宿命”の差をまざまざと思い知らされる感覚すらある。

 野村が入団当初の古田を見て「はっきり言って、バッティングは全然期待できなかった」と語るように、当時の古田に冠せられた即戦力の評価は、あくまでもディフェンス面に対してのもの。93年に脅威の盗塁阻止率.644を記録し、信頼感で右に出るものがいないインサイドワークに対する評価は額面通りだったが、打撃面に関しては、本人のたゆまぬ工夫と努力があったとは言え、言葉は悪いが「開けてビックリ」的な産物だったのだろう。

 城島は違う。はっきりと捕手の後継争いがチーム課題になっていた当時に、密約と囁かれた豪腕によってドラフト1位入団を果たしている。つまり、あらゆる面で期待されて入団して、苦労しながらもチームの描いた青写真通りに収まっているのが城島。

 「なんだ、城島の方が期待の度合いが大きかった分、プレッシャーも大きかったんじゃないのか」とは思わないでほしい。期待の度合いが大きかったということは、それだけ猶予期間もあったということである。何より、最も独り立ちに時間のかかる高校卒の捕手というポジションで、帝王学を叩き込まれたであろう城島には、球団もそうそう簡単に見切れないという思いがあった筈。高校卒3年でレギュラーを確固たるものにした城島も凄いが、チームの体制にとってもそれは規定路線にしなければならないものだった。

 大学→社会人を経た捕手なら、最低でもディフェンス面では即戦力を求められる。古田はドラフト2位入団だが、その高い評価は入団時の25歳という年齢を考えれば、「時間的な猶予はないから、すぐに戦力になって下さい。なれなければすぐに見切ります。代わりの選手ならいくらでも獲れます」という球団からのプレッシャーと同義。その差が、古田と城島の“宿命”の差に思えて、今は仕方ないのである。

 捕手というポジションを評価する場合、その評価は例外なくディフェンス面から入る。それは、入団までのキャリアが長ければ長いほど顕著な傾向で、古田の立場からすればまずディフェンス面で首脳陣の信頼を勝ち取ってからバッティングを磨く、ということを考えてもよさそうなものだった。それを覆して、2年目には即首位打者を獲得するほどの打棒を発揮したのは、まさに神懸りと言っても言い過ぎではない。

 秦真司や飯田哲也というレギュラー捕手候補を外野にコンバートしてまで、古田起用に踏み切った野村の覚悟も凄いが、その中で攻守両面でタイトルを獲得した古田の“大化け”は、やはり凄すぎると言うしかないのである。

 “史上初の大学・社会人経由でプロ入りした選手の2000本安打達成”という事実は、単に実働期間が短いから凄い、という類のものではない。大学・社会人経由の、それも捕手という、最もディフェンス面で期待され、そして猶予の与えられない特殊な立場の選手が達成した2000本安打だからこそ、価値があるのである。

 恐らくこの記録は、少なくとも捕手としては古田が最初で最後になるだろう。そこがこの記録の真の価値であると、私は思うのだ。



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