DEAD OR BASEBALL!

oz【MAIL

Vol.181 「東京ドームでMLB開幕戦」、その本音
2004年03月30日(火)

 昨日行われた阪神×ヤンキースの観客動員数は、主催者発表で52000人とのことである。春休み期間中とは言え、平日月曜日の、それも昼日向から行われたプレシーズンゲームでこれだけの観客を集めたこのカードの話題性は、改めて阪神とヤンキースの人気度を示した格好になったと言っていいだろう。

 マスコミの注目は松井秀喜の日本凱旋に注目されすぎている格好だが、ヤンキースの錚々たる顔ぶれは流石に世界最高額軍団だということを示していたように見える。4番のバーニー・ウィリアムスこそ虫垂炎の影響で来日しなかったものの、アレックス・ロドリゲスとデレク・ジーターの夢の三遊間など、そこにいるだけで空気を支配する存在感は、共に来日したデビルレイズとは一線を画すものだった。

 そのヤンキースに11−7と打ち勝った阪神の戦いぶりも見事だった。大技小技織り交ぜたリズミカルな攻撃は、昨シーズン同様に2回に7点というビッグイニングを生み、実戦でのたくましさを存分に発揮した形になった。4回で4失点したものの先発した前川勝彦の出来も素晴らしく、低めストレートの伸びと、落差の大きいカーブを軸にした変化球は、ヤンキース打線の腰を度々砕いた。

 前日の試合も含めて大いに盛り上がったプレシーズンゲーム。その勢いを駆って今日、東京ドームでヤンキース×デビルレイズの開幕戦が行われる。

 しかし、なぜヤンキース×デビルレイズなのだろうか。ニューヨークやタンパベイで開幕するなら、このカードでも別に不自然さは感じない。ただ、わざわざこと日本で開幕するとなると、このカードであることに本当に旨味があるかどうか疑問がある。

 確かに今年のヤンキースは直に見ておきたいチームだろう。バーニーを欠いたところで一切ネームバリューの下落を感じさせないこのメンバーは、松井の存在を差し引いても東京ドームを満員にできるものと見ていい。

 問題はデビルレイズである。昨日は巨人に圧勝し、一昨日は阪神に土壇場で5点差を追い付くという見せ場を作ったが、MLBの中で見ればメジャー30球団でも1、2を争う弱小球団。“タンパの英雄”と称される元ヤンキース4番のティノ・マルティネスも峠を越した感が強く、全体的には育成途上の若手主体でチームにスター不在の状況。創設から6年間でプレーオフ出場どころか、地区最下位を免れたこともないという、言葉は悪いがヤンキースにしてみれば筋金入りのカモなのである。

 前マリナーズ監督として日本でもお馴染みのルー・ピネラ監督が指揮を執るが、日本では知名度的にピネラ監督が選手以上にクローズアップされてしまっているという現実もある。それを踏まえて、正直な気持ちを言うなら、こと日本で開幕戦を迎えるという現時点では特別な状況下、ヤンキースと対するには役者が2枚も3枚も落ちるというのが実際だ。

 2000年に初めて日本でMLB開幕戦が行われたとき、カードはメッツ×カブスだった。この開幕シリーズは大変な盛り上がりを見せたが、これはMLB側が用意したカードの勝利であると言ってもいいだろう。

 何しろ両チームに役者が揃っていた。メッツには監督としてロッテ時代にお馴染みのボビー・バレンタインがいて、ドジャース時代に野茂の女房役として日本でも知名度の上がったマイク・ピアッツァがいた。カブスにはマーク・マグワイアとホームランキングを熾烈に争ったサミー・ソーサがいる。両チームに大スターが揃ったことで、目に見える対戦図式が浮かび、それがカードの注目度を否応なく上げたという事実には注目しておく必要がある。

 もう一つこのカードの強みだったのは、両チームに日本人選手が在籍していなかったということである。「松井、凱旋」にばかり注目が集まる今年とは対極にあるのだが、そのおかげでファンやマスコミの目線が一方のチームに偏ることなく、純粋にメッツ×カブスの試合に注目することができた。そのことが単純にゲームの密度を上げ、試合そのもののクオリティを余すところなく伝えることができた。

 実力的にも好カードだった上、純粋な意味でMLBのゲームを日本に持ってくることに成功したのが、2000年のメッツ×カブスが日本で盛り上がった要因だった。ゲームとしての密度が濃かった為に、ピアッツァやソーサを観に来て新たな選手やMLB自体の魅力に触れたファンも多かった筈である。

 昨年はイラク戦争の余波で日本での開催が中止されたが、予定されていたマリナーズ×アスレティックスの開幕戦も注目度は文句なく高かった。このカードは、最初からシアトルやオークランドで開催される予定であっても、MLBの中で屈指の注目度を集めた筈。文字通りMLBイチ押しの好カードだった。

 マリナーズにはイチロー、佐々木主浩、長谷川滋利と3人の日本人選手が在籍していた。この注目度にベクトルを傾けたのは今年の「松井、凱旋」と同じ構図だったが、相手が同地区最大のライバルのアスレティックスだったところに価値がある。メジャー最強の先発3本柱であるバリー・ジト、マーク・マルダー、ティム・ハドソンがいて、野手では前年MVPのミゲイル・テハーダ、エリック・チャベスの三遊間コンビがいた。

 試合という観点で観ても、イチローがこの超強力先発陣を崩せるか、佐々木や長谷川がテハーダとチャベスを封じるか、という見所があった。日本人選手という枠組みを外しても、カードとして超一級品のものを用意してきたMLB。それを日本で観られる、しかも開幕戦という事実はファン垂涎のものだったが、結果的にそれが実現されることはなかった。

 今年は過去2回に比べると、カード自体の争点、或いは旨味が見出しにくい。だからヤンキース、そして松井にだけ注目が注がれている状況を脱せていない。注目点が過去2回に比べると明らかにクロスオーバーしないのである。

 日本でMLBのプレシーズンゲーム及び開幕シリーズを開催することの意味が、今回は正直なところよくわからないというのが本音である。単純に考えればMLBの日本進出計画の一環なのだろうが、肝心の争点がクローズアップされず、ヤンキースと松井の名前だけが表に出る前評判は、MLBにとっても本来は好ましくない構図である筈だ。

 松井の東京ドーム凱旋、世界最高額軍団の来日、なるほど確かに話題性はそれだけで十二分だ。ヤンキースの存在自体に松井の日本凱旋とくれば、それだけでメッツ+カブス、或いはマリナーズ+アスレティックスという2チーム分の価値があるとMLBは判断したのかもしれない。

 だが、そこで行われるのは品評会でも博覧会でもない。ゲームとしての見所という意味では、過去2つのマッチアップに比べればはっきりと劣っている。ゲームとしての旨味の期待値は、現時点でもいまだ前回、前々回に比べれば不明瞭なままだ。それを煽る為に巨人、阪神とプレシーズンゲームを組んだのだろうが、マスコミの扱い方もあり、話題先行の流れを覆すには至らなかった。相変わらず今日からの試合自体の争点はボヤけたままというのが正直なところである。

 メッツ×カブスのときには、ピアッツァがキャッチャーとしてソーサをどう抑えるか、或いはピアッツァとソーサのアーチ合戦という争点があった。マリナーズ×アスレティックスのときには、イチロー×先発3本柱という観点、佐々木、長谷川×テハーダ、チャベスという対決図式があった。それは日本のファンに向けたマッチアップではなく、MLBが誇るトップスター同士の満を持した魅力的なマッチアップだった。

 MLBが日本進出する際、これまでは明確な方針があった。それは、日本で名の売れているトップスターに新たなトップスターをぶつけ、その対決で生じた火花を日本のファンに植え付け、同時に新たに魅力的な選手をファンに認識させるという方針である。ネームバリューを取っ掛かりにし、MLB自体の魅力を日本に浸透させることが、これまでのMLB日本進出の基本的方針だったように思う。

 今年はそれが崩れたように見える。今回はヤンキースのネームバリューがあまりにも強すぎる上、よりにもよってネームバリューでは最も対抗できない部類のチームを対戦相手に据えた。地区的にもネームバリュー的にも、開幕戦のクオリティとして最も注目度が高いのはレッドソックスになるが、ヤンキース×レッドソックスはMLB最大の因縁対決。MLBとしても日本相手にそうそう安売りはできないというメンツもある。

 今回の開幕シリーズは、要するにヤンキースと松井の大キャンペーン興行なのではないだろうか。状況的に今回の開催が、日本でさらなるヤンキース偏重、松井偏重の報道を喚起することは誰の目にも明らかである筈だ。つまり、それこそが狙いであるというのが個人的な結論。

 MLBで屈指の人気と戦力を誇るヤンキースの人気を、松井の存在を武器にしてさらに日本で拡大する。日本でMLBを浸透させるよりも、日本には日本人メジャーリーガーとその在籍するチームを売り込む方が遥かに労力が少なくて済む。アピール手法としてのコストもかからない。が、その手法は日本球界と同じように、人気の一極集中を招く懸念が強い。

 バレンタイン監督は今年の開幕前、パ・リーグ開幕とMLB開幕シリーズがバッティングすることについて、「パ・リーグ軽視だ」と明らかな不満を述べたという。巨人や阪神は、たとえ“噛ませ犬”だとしても宣伝効果という旨味はある。

 穿った見方をすれば、今回のヤンキース偏重を誘導することで、相対的にパ・リーグの注目度を落とすことができれば、セ・リーグ主導、特定球団主導を目論んでいる一部の球界関係者にとっては旨味がある、ということである。実際はパ・リーグも開幕から好調に観客動員を数え、心配は杞憂になりつつあるが、ヤンキース偏重と日本の特定球団偏重が今回密接にリンクしているというのはあながち冗談ではない。

 最も悲惨なのは、前提として旨味すら与えられていない形のデビルレイズである。今回の開幕シリーズ、デビルレイズは“噛ませ犬”以上の役割を与えられていない。

 ヤンキースのスター軍団が華々しく活躍すれば、懸念は全て吹き飛んでしまうだろう。松井が本塁打でも打てば、その色合いは一層濃くなる。だが、およそ健全とは言えないMLBの思惑、そしてそれに乗っかって不健康な偏重傾向をさらに強めたがる日本の特定球団の思惑を覆すことが、本来の意味での懸念を吹き飛ばすことに繋がる筈だ。

 だから、根がひねくれている私としては、今日からの開幕シリーズでデビルレイズに連勝してほしいと思っている。ヤンキースが負ければいいと言っている訳ではない。ベースボールを利用してベースボールの外でよからぬことを企んでいる人間が落胆すればいい、とは思っている。


Vol.180 「長嶋茂雄」という命題
2004年03月19日(金)

 いきなりであるが、これは重い命題である。恐らく、この程度のスペースでその結論を出すこと自体が無謀なことであるとも言える。だが、こういう状況になっている以上、そろそろ私のような個人レベルでもこのことを考えてもいいのではないか、とも思うのだ。

 予め断っておくなら、私は年代的に長嶋茂雄氏の現役時代を知らない人間であるが故に、「長嶋茂雄」という名のノスタルジーとは全く無縁であると思う。大袈裟に言うならば、私の頭の中にある「長嶋茂雄」とは一介の名選手に過ぎず、時代の象徴でもなければ希望の星でもない。

 だからこそ私には長嶋氏に対する特別な感情はない。巨人ファンであるとかそうでないとか、そういうこととは一切関係なく、少なくとも私の中の「長嶋茂雄」は、それ以上でもそれ以下でもないということである。それ故に、生まれてこの方「長嶋茂雄」という名で感傷的になることは一度もなかった。

 なかった、のである。なぜ「長嶋茂雄、倒れる」という一報で自分がこんなに揺れているのか、実際のところいまでもそれはわからない。わからないが、恐らくそれが「長嶋茂雄」という命題に対する自分の答えなのではないか、とも思う。

 極めて個人的なことを言えば、私は長嶋茂雄氏に対してあまりいい感情を抱いていなかった。それは、私が巨人監督としての長嶋茂雄氏しか知らないからだと思う。

 私はこの項で何度も、巨人監督としての長嶋氏の大艦巨砲野球に苦言を呈してきた。彼の“欲しい欲しい病”は、野球界全体の発展を阻害するものだったとも思っている。基本的にその考えはいまも変わらない。一国繁栄主義が球界全体の首を絞めるという持論に則るならば、3年前までの「長嶋茂雄」は、例えは悪いが球界という荒海を暴走する海賊船の船長のようなものだったとすら思っている。

 その方法論の是非や監督としての手腕については、今回述べるべきことではないので棚上げしておく。肝心なのは、彼は恐らく敵も多かったであろうが、それ以上に味方も多かったという事実であると思う。

 いくら私が「長嶋茂雄」にノスタルジアを感じないと言っても、彼が超ド級のスーパースターで在り続けていることぐらいは理解しているし、認めることに何の抵抗もない。「長嶋茂雄」には「長嶋茂雄」にしか出せない世界がある。確かに、ある。それに惹かれた人が老若男女問わず多くいるという事実は、好き嫌いを通り越した次元で認める必要がある。

 選手としての彼を知らない私は、選手としての彼を語れる立場にはない。だから、本来は野球人としての「長嶋茂雄」を語る立場にもないのかもしれないが、彼がこの国にもたらした数々の影響の重みを素通りする訳にはいかない。

 「長嶋茂雄」はひとつの時代だった、という人がいる。「長嶋茂雄」は青春そのものだった、という人もいる。「長嶋茂雄」こそ我が人生だ、という人もいるかもしれない。その全てが正解であると思う。だからこそ私は、ノーを突き付ける立場として「長嶋茂雄」と対峙しようとした。意識していた訳ではないが、結果的にはそうなっていたと思う。そのスタンスの中でも、自分なりの正解は出せていたような気がしていた。

 正直に白状するなら、監督としての長嶋氏の力量に疑問符を抱いていた私は、彼がアテネ五輪野球日本代表チームの監督に就任すると聞いたとき、目の前がクラクラした。確かに彼には他の誰も持てないカリスマ性があり、プロ中心の選手を束ねる人選としては申し分ないが、巨人で投手陣の崩壊を招いた投手起用など、カンピューターと呼ばれた用兵手腕は一発勝負の短期決戦では命取りになりかねない、と思ったからだ。

 だからこそ私にしてみれば、不謹慎を承知で言えば、長嶋氏が倒れたという一報はプラスに転換でき得る材料だと判断してもおかしくなかった。昨年11月のアジア予選メンバー選出では内野に遊撃手ばかりを揃え、個人的には是非とも選ぶべきだと考えている古田敦也を選ばなかった長嶋氏には、正直なところ失望しかける思いすら抱いた。

 いまでは、そんなネガティブな感情はない。全面的に肯定する気もないが、少なくともいたずらに彼を批判する気持ちは、一切ない。

 アジア予選が始まると、なぜか長嶋氏に対する不信感やモヤモヤした感情はきれいに消えていた。日本のユニフォームを着てベンチに毅然とした態度で立つ長嶋氏を見た途端、「ま、いいか」という気持ちが逆に沸き起こってきた。

 「言いたいことはゼロじゃないけど、これはこれとして別にいいか」という感情が、現時点での「長嶋茂雄」という命題に対する個人的な結論である。もちろん、彼が巨人に残した“欲しい欲しい病”を肯定する気はいまだない。しかし彼という命題に対する答えとしてそういったものを持ち出しても、それはあまりにも断片的過ぎて答えになり得ないような気がする。

 象徴としての太陽神か、地盤を叩き壊す破壊の暴君か。彼をそういう二元論にかけても、それ自体に意味があるとは思えなくなってきた。ユニフォームを着てベンチに立つ彼を見たとき、彼はそういうフィールドの存在ではないと思ったからである。

 その長嶋氏が、倒れた。心配は心配だが、これを機にじっくり体を休めるべきだと思えば、無理はしてほしくない。無情かもしれないが、「これはこれとして別にいいか」である故に、この世の終わりが来た程に嘆くことでもない。元よりノスタルジーもないし、モヤモヤした感覚も既にないからだ。

 それでも世間は、それを許してはくれないようだ。「一刻も早く治してアテネで指揮を」という声が少なくないという事実。一刻も早く治ってくれるに越したことはないが、これ以上世の中は「長嶋茂雄」に何を求めようというのか。

 この国の野球界は、いや、この日本という国そのものが、「長嶋茂雄」にあらゆるものを背負わせてきた。彼は「長嶋茂雄」としてひたすらにその期待に応えてきた。それでも世間はスーパースターである「長嶋茂雄」を解放しない。

 二宮清純氏が以前こんなことを書いていた。

『メジャーリーグにおいて、「ベーブ・ルースといえどもベースボールより偉大ではない」という格言があるが、この国において長嶋茂雄という存在は、明らかにプロ野球よりも偉大であった。それが長嶋茂雄にとっては最大の悦びであり、と同時に最大の不幸だったのである』

 いまこそ個人レベルで「長嶋茂雄」という命題を考えてもいいのでは、と冒頭に書いたのは、つまるところその不幸を我々自身がしっかり認識し、検証し、同じ不幸を繰り返さない為である。

 「長嶋茂雄」には功罪相半ばという側面があると思うが、それを絞り尽くしてきた我々には同時に責任を持って消化する責務もある。その当たり前の事実と礼儀を「長嶋茂雄」を免罪符に変えて素通りするべきではない、と思うのだ。

 「長嶋茂雄」という命題は、「長嶋茂雄」という恩恵に浸かりきってきたこの国の野球民度に対する、大きな認定試験なのである。彼の時代を知らない一介の野球好きは、そんな風に思うのだ。


Vol.179 深化する浪人
2004年03月04日(木)

 小宮山悟のスローカーブが好きだった。松坂大輔のカーブのように特に落差がある訳でもなく、星野伸之のような極端なスローカーブという訳でもなく、堀内恒夫のように打者の腰を砕くようなキレがある訳でもない。それでも、小宮山のスローカーブは、彼にしか出せないアンサンブルを奏でつつ、小宮山悟という投手を語る上では欠かせない独特の球種だと思っている。

 “精密機械”と呼ばれるその針の穴を通すようなコントロール。百戦錬磨という言葉がピタリとはまる精緻な投球術。プロの選手をも唸らせる卓越した投球理論。それら全てが小宮山を語るキーワードであり、個人的な感覚だが、その全てのベクトルが彼のスローカーブという球種に集約されているような感すらある。

 その小宮山悟が、日本球界に帰ってきた。

 38歳。ベテランと呼ばれるその年齢は、小宮山にとって彼という人間の年輪そのもの以上の意味を為さないものなのかもしれない。

 横浜ベイスターズからFAでニューヨーク・メッツに移籍したのは01年オフ。当時メッツの監督を務めていたボビー・バレンタインは、95年にロッテの監督として小宮山と直に接している。恐らくはその筋の後押しもあったであろう小宮山のメッツ移籍は“36歳の挑戦”として注目を集めたが、成績は0勝3敗。メジャーに定着することも適わず、その年のオフに解雇を通告された。

 メジャーからのオファーはなかった。傍目から見れば挑戦失敗と受け取られた小宮山には、年齢的な面や2億円近いFA制度の保証金がネックになり、日本球団からのオファーもなかった。阪神フィーバーで過熱した03年のグラウンドに、小宮山の姿はどこにもなかった。

 引退以外に辿る道がないと思われた状況下、小宮山の姿を見たのはテレビの野球中継の実況席だった。解説者として座った小宮山の肩書きは「現役投手」。冷静に、しかし野球への想いを激しく燃え滾らせるような彼の解説から、彼はまだプロのマウンドに立つ意思を現役という立場で磨き続けているのだと感じた。

 その小宮山悟が、日本球界に帰ってきた。

 彼にオファーを出したのは、古巣のロッテ。監督にバレンタインが再就任したばかりのロッテは、現役投手という形で宙に浮いていた小宮山と交渉し、小宮山も入団に合意する。

 年俸は4000万円(推定)と大幅に下がり、FAの保証金も消滅したことで、金銭的な縛りがなくなった小宮山に古巣が接触した。そういう見方が一般的のようだが、言うまでもなくバレンタインの影響力がそこには多分に働いているだろう。バレンタインは確実な戦力として小宮山に接触し、小宮山もその自信とバレンタインへの信頼感からロッテ側のオファーをすんなりと受け入れた筈だ。

 現役投手を名乗っていたからには、いつでもマウンドに上がれるだけのトレーニングを小宮山は続けてきたと想像できる。ただ、それでも1年間実戦から遠ざかっていた小宮山は、その不安面ばかり注視されたように思う。事実、私自身も小宮山がどこまで計算できるかという部分については半信半疑だった部分が大きかった。せめて先発の5〜6番手辺り、シーズン前の戦力診断でもそういう見方の域を出られなかった。

 2月28日のオープン戦開幕、黒木知宏の復帰登板として注目を集めた巨人×ロッテ戦。高橋由伸に満塁弾を浴びた黒木の後を受けてマウンドに上がった小宮山は、2回1/3を僅か1安打に封じる好投を演じた。

 三振を奪ったスローカーブはいまだ健在。錆び付くどころかさらに進化、いや深化したかのような小宮山の投球は、横浜で12勝した01年以上の斬れ味を感じさせるものだった。それはさながら、妖刀村正を手に一瞬の抜刀だけで相手を斬り伏せる居合い斬りの達人、そんな座頭市のような錯覚すらもたらせるものだった。

 1年のブランクは、小宮山の投球を錆びつかせるどころか、新たな凄みをもたらせる熟成期間だったのだろうか。彼は『色々なことを経験している。だから乗り越えられるということもある』と語ったそうだ。

 苦しみを味わったであろうメッツでの1年、そして現役投手という立場で外からプロ野球と接してきた1年は、日本での現役生活で身につけてきたものとは別の柔軟な筋肉を手にする為の時間だったのかもしれない。もちろんそれは想定外のことでもあっただろうが、マイナスをプラスに転換するというスポーツ選手に欠かせない力を、小宮山は絶望的な局面でも磨き発揮したのだろう。

 小宮山が芝浦工大柏高から早稲田大に進学するときに二浪しているのは有名なエピソードだが、その浪人というネガティブな響きをポジティブに動かす力はその頃から既に身につけていたものだろう。早稲田大からドラフト1位でロッテに入団した小宮山は、入団後もチーム事情で勝ち星に蹴られることが度々あったが、年を追う毎にその投球が深化していったことだけは疑い様がない。

 バレンタインと小宮山の再会を、運命的に扱う記事もあった。だが、恐らくバレンタインは、プロの選手にとって何が最も必要かということも、その最も必要な力を小宮山が持っているということも、さらにはこの2年でその力がさらに鋭く研ぎ澄まされていることも知っていたのだろう。金銭的な部分を云々する前に、バレンタインにとって小宮山はチームにとってこの上なく大きなファクターだった筈だ。彼がチームに入る影響は、勝ち星以外の様々な面でいい方向に出てくるだろう。

 肉体的には、確かに衰えがきていてもおかしくない年齢ではある。しかし刻まれた年輪の深さは、同時にその樹がどれだけの栄養を取り入れ、どれだけの強さをその中に蓄えてきたかということを最も端的に示しているものでもある。幾重にも年輪を重ねた小宮山悟という樹は、若さだけでは辿り着けない強さを幾重にも重ねて、若さとはまた違った強さを体現しているようにも見える。

 無駄なものはない。歩いてきたその道には、必ず手にするものがあった。小宮山の野球人生は、何よりも雄弁にそのことを物語る。あらゆる時を深化の材料にし、太く強く年輪を刻んできた男の哲学は、10の勝ち星よりも大きな財産をロッテに、そして日本球界にもたらすかもしれない。

 深化は止まらない。小宮山悟が、日本球界に帰ってきた。



BACK   NEXT
目次ページ