月の輪通信 日々の想い
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2006年12月31日(日) 円を描く

最終日まで工房でお仕事三昧。
大掃除もお正月準備もずれ込んだ年賀状印刷も子どもらに委ねた。
我が家の年明けは君らの働きにかかっている。
頼んだぞ。

正月早々の百貨店での即売会の荷造りと釉薬掛け。
ぎりぎりいっぱいの攻防が続く。
数物の銘々皿の裏の白絵掛け。
布目を刻んだ素焼きの栗茶の生地に白絵土をさっとかけ、濡れタオルでゴシゴシかけたばかりの白絵土をぬぐう。乾燥にかけてから透明の釉薬を重ねて掛ける。
焼きあがると、栗茶に白の布目模様がくっきりと浮かび上がる。
釉薬掛け見習い中の私に任される数少ない職人仕事の一つだ。

私が白絵掛けの作業をするのはこれまで長いあいだひいばあちゃんの作業場だった乾燥室前の小さなスペース。
来年の誕生日で100歳をむかえるひいばあちゃん。ほんの少し前までひいばあちゃんはこの席で釉薬掛けや作品の下地作りの作業をばりばりこなす現役の戦力だった。さすがに最近は工房へ下りてこられることはぐっと減って、代りに見習いパートタイマーの私がひいばあちゃんの作業台に間借りすることが増えた。
それでも何ヶ月かに一度、ひいばあちゃんが思い出したようにふらりと工房に下りてきて、まるでつい昨日やりかけた仕事の続きをするかのようにこの場所にお座りになることがある。
そんなときのために、ひいばあちゃんの長年愛用の煤けた前掛けはいつも畳んで作業台の前に置いてある。
長年ひいばあちゃんが一人でコツコツ行ってきた白絵掛けの仕事を、私が代りに任されるようになって一年余り。少しは要領も良くなって、調子のいい釉薬の粘り加減も、透明釉の下塗りの刷毛さばきもいくらか覚えた。
それでも、ひいばあちゃんの前掛けがここにおいてある限り、まだまだ私はこの場所の間借り人。
少女のころから職人仕事にうもれてきたひいばあちゃんの偉業をまえに、落ち着かない見習い職人の私は、半分前のめりに腰を浮かせつつ釉薬掛けを行う。

丸い銘々皿の裏面と表側のふち数ミリの部分に透明釉を刷毛で塗る。
真っ白で練乳のようにぽってりした釉薬をたっぷりと刷毛に含ませて、素焼きの生地の上に塗る。
「塗るのではなく、置くように。手早く、むらなく。」
父さんから何度も教えられて、少しづつ覚えた釉薬掛け。
最近になってようやく、左手の指先でくるくる生地を回しながら、同時に刷毛を手早く走らせるコツがなんとなく判りかけてきた。
お皿のふち塗りは、息を詰めて出来るだけ長いストロークで。
ギコギコ躊躇しながら塗ると一箇所に釉薬が溜まったりはみ出したりして仕上がりの見栄えが悪い。
刷毛に十分な釉薬を含ませて、出来るだけ手早く円を描く。
ずいぶん上達したとは思うのだけれどやっぱり途中で息継ぎが2回。つまり全円を3回のストロークでようよう描く。
ひいばあちゃんは現役時代、これよりもっと大きなお皿のふちでも、さっと一息のストロークで鮮やかにほぼ全円を描くことが出来たのだという。

養護学校に勤めていた頃、美術の時間に絵を描かせていて、先輩の先生から聞いたこと。
幼児のなぐり描きは最初は点や短い直線。それに肘の動きが加わると長い弓形やぐるぐる描きができるようになり、手首を上手に使えるようになるときれいな丸が描けるようになっていくのだという。
手首を使って上手に閉じた丸を描けるようになるのが、通常の発達段階で言えばちょうど3歳児の頃。
そのころ教えていた子どもたちは、年齢的には中学生だけれど、知的な発達は1,2歳児からせいぜい小学校低学年程度。「絵を描く」といっても、教師が手をそえてぐるぐる描きするのがやっとの子どももたくさんいた。
そんな子どもたちにクレヨンを持たせて、毎日毎日「お絵かき」を楽しんでいたが、ある日、いつもぐるぐる描きに終始していた男の子が偶然きれいに閉じた丸を描いた。
「やったね、M君、ようやく3歳児の壁を越えた。」
と先輩先生は手を叩いて喜んだ。
知的な障害があり、傍目には体ばかりが大きくなって知的にはあかちゃんのまま成長が止まっているように見えていた障害児のM君。
そんなMくんにも、ゆっくりながらも確かな成長の瞬間がある。
その発達の証が、Mくんが初めて描いた、きれいな閉じた丸。
先輩先生はM君が描いた大きな丸の画用紙を、きちんと畳んで連絡帳にはさんでおうちの方に届けられた。Mくんの成長を喜ぶお手紙をつけて。

閑話休題
今回注文のあった銘々皿は合計100枚。
同じ円を100枚分描いても、なかなか新米見習い職人の円は閉じない。
100歳の熟練職人の見事なふち塗りのテクニックを、ちゃんと習っておけなかったことを心から残念に思う。
ひいばあちゃんの席に居心地悪く居候しながら、いったい何枚のお皿を塗れば及第点の釉薬掛けができるようになるのだろう。。
そんなことを思いながら、一年の終わりに繰り返し繰り返し、円を描いた。


2006年12月26日(火) こわれもの

クリスマスも終わって、しばし脱力。
早朝暗いうちから工房にこもっている父さん。
部活に出かけるオニイ。
ついつい朝寝坊で、呼んでもなかなか起きてこない子どもたち。
朝ごはんが3交替、4交替制になって、いつまでも片付かないとイライラする私。

「年の瀬で忙しいんだから、いつまでもダラダラしない。
お母さんは仕事に行くから洗濯干しといてね。
朝ごはんもさっさと食べて、後片付けしておくこと。
それからクリスマスの飾りもいいかげんに片付けておいてね。」
工房の手伝いに加えて、年末の買い物、年賀状書き、大掃除。
さっさと片付けてしまいたいこと、子どもたちに手伝ってもらいたいことが山積みだ。それだけにいつまでも朝寝のお布団のぬくもりを貪る子どもたちが癇に障る。
「さっさと起きて働けーっ!」
だんだん声が荒くなる。

ガチャン!という乾いた音と、あ!というアユコの悲鳴が同時だった。
ぷっとふくれたまま、クリスマス飾りの片づけをしていたアユコ。
思いがけず手にしていたものを取り落としたらしい。
それは、よりによって小さなガラス細工がたくさん入った箱。
たくさん割れた音がした。

「ごめんなさい」といったきり、立ち尽くして泣き出すアユコ。
「たくさん割れたの?」
背後で音は聞いたものの、それを自分の目では確かめたくなくて、とがった声でアユコに訊いた。
「うん。」
と小さなアユコの声
胸がどきどきして、悲しくなって、ついつい、言いたくない言葉、言ってはいけない言葉が口から漏れた。
「大事なものなのに・・・。嫌々やってたんじゃないの?」

クリスマスのガラス細工は、私が毎年少しづつ買い集めてきたもの。
サンタクロースが子どもたちに運んでくるプレゼントに混じって、亡くなった次女へのプレゼントとして増やしてきた。
サンタクロースやクリスマスツリー、天使や雪だるま。
キラキラカラフルで、脆くて儚くて美しくて。
この世に縁薄く旅立っていった次女にふさわしいような気がして、毎年どの子よりも先に次女のためのプレゼントを選んだ。
一年にたった一度、あの子のために買うプレゼント。
一年にたった一度、カードに記すあの子の名前。
「今年も、なる姉ちゃんには、ガラスのサンタだ」とアプコが包みを開けて遺影の前に飾るのが毎年のお決まりだ。
高価なものではないけれど、一つ二つと増えてくるのを楽しみに結構大事にしていたものだった。
「壊れてしまったものはしょうがない。
それより早く片付けないと危ないから。
ちゃんと掃除機かけときなさいよ。」
それ以上その場に一緒にいたら、もっと鋭い言葉を吐いてしまいそうな気がして、台所仕事もそこそこに、洗い物で濡れた手を拭きながら家をでた。

工房での仕事を終えて、お昼に帰ってきたときには、割れたガラス細工は小箱に収められ、ふわりとハンカチがかけてあった。
うつむいて涙をぬぐっていたアユコも、今はけろりとしてアプコやゲンと笑っている。
お互いに壊れたガラス細工のことがとてもとても心の中にわだかまっているのに、そのことに触れない。
「ごめんなさい」がいえない。
「もう、いいよ」がいえない。
なんだかなぁ。

深夜、一人になってやっとガラス細工の小箱を開けた。
折れたツリー、欠けた星飾り、竪琴をなくした天使。
接着剤とグルーガンを駆使して、壊れたガラスをつなぎ合わせる。
パズルを組むように砕けたガラス片を組み合わせているうちに、アユコが見落としてしまうそうな小さな小さな破片まで丁寧に拾い集めておいたことが知れた。
涙が出そうになった。
亡くなった次女とは、ほんの数分しか触れ合ったことのないアユコ。
それでもアユコにとって、あの子は大事な妹だったのだなぁ。

長い時間かかって継ぎ合わせたガラス細工は、野暮ったくて不細工で。
それでも、ひとかけらも棄てることが出来なくて、もう一度小箱に収めてアユコがしたのと同じようにハンカチをふわりとかけておいた。
アユコは今日、つぎはぎだらけのガラス細工を見ただろうか。


2006年12月21日(木) 留年

ふと気づくと明日は終業式。
年末業務のバタバタと、朝から晩まで家の中に子どもがゴロゴロの日々が、また始まるのだなぁ。
家の窓拭き、毎日の落ち葉掻き、洗濯物干しに、昼食の準備。
せいぜい子どもらに仕事を与えよう。
サンタとの約束にかこつけて。

ひさびさに部活をサボって、明るいうちに帰宅してきたオニイ。
「いいニュースと悪いニュース、どっちから聞きたい?」という。
「悪いほう」と答えたら、化学の答案を見せてくれた。
「からっきし判らなかった」2学期中間。
「頑張ったけどちょっと足りなかった」2学期期末。
つまり欠点だってさ。
冬休みに特別課題を出して、3学期もうチョイ頑張れば何とかなりそうな、ぎりぎりラインらしい。
で、いいほうのニュースは数学。
これも苦手なんだけど、今回は得意分野だったので、とんでもなくいい成績だったんだって。ま、足して2で割ってトントンということだね。

で、もちろん欠点一個で留年って訳じゃなくて、留年は他校へ進学した中学時代のお友達の話。

「かあさん、友達がほぼ留年決定らしいんだ。
僕としてはヤツにしてやれることはなんだろう。」とオニイが真顔で聞く。
その友達、ほとんど学校に行ってなくて、出席日数も足りないし、テストもまともな点は取ってない。
昼間はなじみのゲームショップに入りびたりで、家ではネットのゲームにはまっているらしい。そのくせバイクの免許を取りたいとか、女の子と付き合いたいとか、結構それなりに楽しそうなんだけど・・・と言う。

中学のときにも、オニイの友達の中に不登校の子がいて、そのときには「せめてテスト前にノートでも貸してあげたら?」とか、「『お前が来ないとつまらないよ』って、学校へ来易い様に言ってあげたら」とかアドバイスした。
ちょうどオニイ自身も不登校から立ち直ったばかりの時期だったから、その子のことを放っておけなかったのだろう。
友達はまもなく学校へ来るようになり、高校に進学した。
オニイは今度も、私にそんな風な具体的なアドバイスを求めていたのだろうけれど・・・。

「小学校や中学校の時は、みんな向かっている方向は一緒。
元気に登校して、みんなと仲良く遊び、ちゃんと勉強して卒業することが『いいこと』だったけど、これから大人になっていくと『いいこと』の基準はみんな違ってくる。
一日一日が楽しければいいって子もいれば、真面目にコツコツ頑張って夢を掴むのがいいって子もいる。
お金さえ儲かれば何でもやるって大人もいれば、愛のためにはお金も何も要らないって大人もいる。

『ちゃんと学校へ通って、いい成績をとって、卒業する』のは、一般的に言って『いいこと』には違いないけれど、その子にとって一番いいことなのかどうかはわからない。
「頑張って学校へ行けよ」と励ますのもいいけれど、彼が何故学校へ行かないのか、学校へ行かずに何がしたいと思っているのか、留年が決まってどうしようと思っているのか、多分今の君にはわからないだろう。

中学で一緒に机を並べていた友達が、もしかしたらそのままドロップアウトしていくかもしれない。何とかしてやりたいと思う君の気持ちは良くわかる。
でも冷たいようだけど、それも彼の価値観だ。
君がこうあって欲しいと思う彼と、彼自身がこうありたいと思う彼とは、おんなじじゃないかもしれないんだよ。

そんな話をした。
オニイはちょっと意外そうな顔で私の話を聞いていた。
多分、私の答えがオニイの求めていた答えとは違っていたからだろう。

ほんとうなら、「学校に行くように励ましてあげたら」と促すのがいいんだろう。「友達なら、彼の話をよく聞いて手を貸してあげようよ」といってやるのが良識ある大人のアドバイスってもんだろう。
でも、私はあえてオニイにそう言わない。
いわないけどオニイは、「学校行けよ」とその子に言うだろう。
で、それからどうなるのかなぁ。
その子が更生して、学校へ戻ったら青春ドラマの美談だなぁ。

でも、多分、今のオニイの、幼くて狭い価値観で「学校へ行けよ」といっても、その友達には親や教師の説教と同じにしか響かないだろう。
学校行かずに面白おかしく遊んで過ごしている友達の気持ちは今のオニイには共感できないし、学校という枠から外れて自分の前のレールを失いつつある友達の不安もオニイにはわからない。
そこのところがちゃんとわからないまま、いい子ぶって友達にお説教してもお互いに傷つけあって帰ってくるだけなんじゃないかなぁ。
それに、オニイ自身、変に生真面目でドロップアウトしていくヤツのことが許せない質だから、その友達が自分の忠告にも関わらず崩れていってしまったらきっととても傷つくだろう。

実際のところ、かく言う私自身にもよく理解できないのだ。
「だるいから」という理由で学校へも行かず、留年決定してもへらへら笑って舌を出していられる子どもの気持ち。
子どもが学校へも行かず、日がな一日だらだら遊んで崩れていくのを「しゃあないな」と見捨てておける親の気持ち。
焦らないのかなぁ。心配しないのかなぁ。叱らないのかなぁ。
実際には、その子にもその子の親にも、複雑な葛藤や不安や焦りがいっぱいあるのだろうけれど、オニイからの又聞きで思い描く少年のおぼろげな輪郭の中からは、その胸のうちにあるものの正体を見留めることは出来ない。

結局そこのところがよく理解できてないものだから、私はオニイにも「人それぞれの価値観があるよ」ともっともらしい逃げ道を示しているだけなのかもしれない。
若くまっすぐなオニイには、母の腑抜けなアドバイスはずるい逃げ口上に聞こえていたことだろう。


2006年12月19日(火) 九九の表

アプコが一人で密かに作っていた九九の表。
苦手の九九の練習をして、誰かに丸をつけてもらうつもりらしい。
裏面に
「がんばれじぶんあとひとがんばりだよ」と書いて、消しゴムでゴシゴシ消した跡がある。

今日は算数プリントの間違いが少なくて、先生に「あとひとがんばりね。」と赤ペンで書いてもらってきたようだ。
それで嬉しくなって、こんな表を作っていたのらしい。
ま、意欲は買うんだけど、この表を作るのにかれこれ小一時間。
肝心の宿題プリントに取り掛かったのは、夕食後、眠くなってから。
はぁ、ぼちぼち頑張ろうね。

絵を書くのが得意な子。
漢字を覚えるのが得意な子。
卵を焼くのが得意な子。
友達を作るのが得意な子。
同じように育てていても、決しておんなじには育たない。
それでいいのだと思う心と、なぜ出来ないと焦れる気持ちと。
迷う母の気持ちを、元気で力強いエンピツ書きの線がふっとほころばせてくれる。
これがアプコの才能。


2006年12月17日(日) 16歳

12月17日、オニイの誕生日。
16歳。
おめでとう

「もう、『盗んだバイクでは〜しりだす♪』が出来ない年齢になったね。」
と昨日からゲンが何度も同じ歌を歌う。
そうか、あの孤独な目をしたロック歌手は、オニイの年齢の時にはもう、そういう主張を発信していたのだったか。
大きく曲がりもせず、かといって無理なジャンプをしたり破天荒な方向転換をしたりすることもなく、淡々と成長していくオニイ。
それでも母にとっては、何かと気にかかる第一子。
よくぞここまで大きくなったなぁという思いと、これからどんな青年に育っていくのだろうという思いと・・・。
気がつけば、今日、オニイは父の背丈をこっそりと追い抜いていた。

誕生日のご馳走のリクエストは、「石狩鍋」
TVの料理番組を見て急に食べたくなったという。
どんな鍋だかよく知らないけれど、いつもの寄せ鍋に切り身の鮭と冷凍の牡蠣を投入したら、うまいうまいとたくさん食べた。
「16歳になってもケーキは要るの?」と訊いたら、
「やっぱりケーキがなくちゃぁ・・・」とチョコレートのカットケーキが御所望。小さなケーキに自分で16本のキャンドルを立てて、兄弟たちの歌うハッピーバースディに歌に照れながら、ふーっ!

まだまだ、お子様だなぁと笑う母。
「『今年の誕生日は彼女と過ごすから』って、言えるようになるのはいつのことなの?」と毎年のように茶化すけれど、冗談ではなくもう数年すればオニイは家族と離れて暮らすようになっているかもしれないし、家族以外の大事な誰かと誕生日の夜を過ごしたいと思うようになるかもしれない。
あと何回、こうしてオニイのケーキふーっを家族一緒に祝うことが出来るのだろうと思うと、ふっと寂しくなるときもある。
もしかしたらオニイはそんな母の感傷を察して、わざわざ律儀に16本のキャンドルを林立させるのだろうか。

今日、父さんは午後から高校の同窓会で出かけていた。
ちょうど昨年の今頃、父さんの同級生が一人亡くなった。自殺だった。
その人の命日を兼ねて、開かれた同窓会だった。
ほろ酔いで帰ってきた父さんは、取っておいたマロンのケーキを食べながらオニイの身長を柱に刻み、「まぁ。しっかりやってくれ。」とオニイに言った。
「あいつらと一緒に過ごしたのは、ちょうどオニイと同じ年齢の頃やったんやなぁ。」
そのころの若い父さんたちは、40年後の自分をどんな風に思い描いていたのだろう。
家族や仕事、重い荷物を背中に一歩一歩唸るように進んでいく坂道がおそらくはオニイの未来にもある。
今はまだ好物のチョコレートケーキに頬緩むオニイにも。

子どもの誕生日の祝福に、ちょっぴり感傷が混じる歳になった。
父さんも私も。
ほんの一匙、淡い感傷ではあるけれど・・・。


2006年12月11日(月) 個人懇談

小学校の個人懇談。
修学旅行の時の「野球拳」事件が話題になるかなぁと半ば心配、半ば期待に胸を膨らませているゲン。
連日お持ち帰りのやり直しプリントのことで叱られるかなぁと小さな胸を痛めているアプコ。
母もドキドキワクワクで昼下がりの教室に向かう。

ゲン
教室へ入ると開口一番、
「いろいろ頑張ってもらってて、助かってます。
ゲン君を担任させていただけて、良かったです。
ありがとうございました。」
と担任のT先生が褒めてくださった。
最近はいい感じでクラスのムードメーカーの役割を務めているらしい。
そういえば、とてもとても楽しそうに学校へいってるもんなぁ。
クラスの中で自分の存在がちゃんと受け入れられている、居場所がちゃんとあるという安心感が、ニコニコ楽しい学校生活を支えてくれているのだろう。
来春は中学入学。
荒れる中学への進学には不安も多い。
けれども、小学校でしっかり自分の存在を受け止めて頂けた経験は、きっとしっかりした命綱になるだろう。
有難いなぁと思う。

アプコ
「アプコちゃんにはねぇ、いろいろ頑張ってもらわなきゃならないことがあるんですよ」
と、M先生。
もちろん、算数の足し算引き算、九九のこと。
「判ってないわけじゃぁない様なんですけどねぇ」と先生と二人、首をかしげる。
ま、練習不足と集中力、注意力の欠如でしょう。
冬休み、頑張ってもらいましょう。
「でもね、苦手の体育はずいぶん頑張りましたよ。音楽もとっても楽しそうにいきいき歌ってますね。
アプコちゃんは優しいところが一番いい所なんだから、それで十分!」
お小言の倍くらい、フォローを頂いて帰ってきた。

うちへ帰るとオニイやゲンが
「アプコの懇談、どうやった?」
と口々に訊く。
アプコが連日算数のやり直しプリントを持ち帰ってくるのを見ているものだから、アプコの懇談の結果をそれとなく心配してくれていたようだ。
もしかしたら。お母さんがM先生にたくさん叱られて、凹んで帰ってくるんじゃないかと思ってたらしい。

平気平気。
自分ちの子が「算数が出来ない」と叱られるくらい、なんでもないことなんだよ。
「誰かにいじわるした」とか、「ずるい嘘をついた」とか、そういう事で叱られたら、きっと悲しくなると思うけど。
先生たちは二人とも、「優しくていい子です。」といってくださったから、母はうれしい。

・・・と、アプコにも聞こえるように、説明しておいた。

昔、小学生の頃、私は母が自分の個人懇談から帰ってきたら
「先生になんて言われた?叱られた?」
と懇談の内容をしつこく訊いたものだった。
母はたいがい
「とてもいい子ですとほめてもらったよ。」
と答えた。
母はわが子のマイナス評価になることは、何一つ私に伝えなかった。「忘れ物が多いです」とか「給食食べるのが遅いです」とか、きっと小さなお小言もたくさん言われてきていたはずなのに・・・・。
おかげで私は自分自身の子ども時代を、「特にこまった問題点もないいい子」「先生にいつもプラス評価していただける優等生」だったと疑わずにイメージして大人になった。

いま、自分が母の立場になって自らの子ども時代を振り返ってみると、あの日の母は懇談での先生のお話から、お小言やマイナス評価の部分はすっぱりと棄てて、褒めていただけたことばかりをピックアップして伝えてくれていたんだろうなぁと思うようになった。
「先生がいい子だって言ってたよ。」と何度も何度も聞かされることで、私は「誰かに評価されている自分」「いい子だと思ってもらっている自分」のイメージを刷り込まれて行ったのだろう。
それは、もしかしたらはかない虚像だったのかもしれないけれど、成長の過程で確かな自分の立ち位置を確認していくためには、なくてはならない有難い虚像だったのかもしれない。
子どもの成長には、「誰かに無条件に愛されている自分」という確かなイメージの支えが必須なのではないかなぁと思ったりする。

「で、アプコ。今日の宿題は?」
「あるある!算数のやり直しプリント。今日は2枚!」
明るくピョンピョン跳びはねながら、赤ペンのいっぱい入ったプリントを振り回すアプコ。
懇談が無事に終わって嬉しいアプコは、昨日まであんなに気にしていた赤ペンプリントなのに、今日はちっとも凹んでいないようだ。
それにしても、ありゃりゃ、この点数って・・・。
やれやれ、ちょっとプラスイメージを抱かせ過ぎたかもしれない。
8の段の九九を唱えながら、母はそっとため息をつく。


2006年12月04日(月) 脆い卵

朝、あわただしく子どもたちを起こしながら、目玉焼きを作る。
熱したフライパンにパカン、パカンと卵を割っていたら、最後の一個をコンロのかどにカツンとやったところで、殻がぐしゃっとつぶれて中身が床に流れ落ちた。
ありゃ、やっちゃった。
ぶつぶついいながら、慌てて拭き掃除。
ああ、もったいない。

なんだかとても殻の脆い卵だった。
「500円以上お買い上げの方、お一人様1パック限り」の但し書きつきの大安売りの卵だったせいかしら。
いつも生協からくる卵はとても殻が固くて、黄身の色も濃い。
それを割るのと同じ力加減でカツンとやったものだから、脆い卵はフライパンに載る前に床に流れて自滅してしまったのだろう。

見た目はどれもおんなじ卵。
大きさの大小や形の違いはあるけれど、卵は卵だから、ついつい同じ力加減でカツンとやって、1年に1回か2回、今日のような失敗をする。
で、毎度毎度、同じようにびっくり仰天する。
見た目は同じ卵だけれど、乱暴にカツンとやってはいけない卵も、中にはあるという事だ。

アプコ、このところまた、算数プリントに四苦八苦してる。
繰り上がりくり下がりの足し算引き算。
掛け算の九九。
学校でやったプリントはすぐに採点され、間違った数が赤ペンで「−3」とか「−12」とか書かれて返されてくる。で、間違いの多い子は、新たに同じプリントがやり直しプリントとして宿題になる。
ここ最近、アプコはまたやり直しプリントの常連さん。

オニイやアユコやゲンの時にも、こんなに算数で苦労したことってあったっけかなぁ。
バタバタと忙しい時期だったから、しっかり宿題を見てやった記憶もないし、だからといって「今日もやり直しプリントもらっちゃったぁ。」なんてこともなかったはず。
放って置いても学校の授業の内容くらいはそこそこ出来ていたように思うんだけどなぁ。

アプコも決して授業の内容を理解していないわけではない。
50問の引き算の問題を5個ずつ10回に分けて、少しづつ丁寧にやらせてみると、10回全部満点が取れるのだ。
多分50問いっぺんに与えられると、問題の多さに舞い上がってしまって一つ一つを丁寧に見直すことが出来なくて、誤答が増えるのだろう。
大雑把でせっかちなのは母譲り。
許せ、アプコ。

アプコもだんだん、嫌気が差しちゃって、ふと気がつくとやり直しプリントを貰ってくるたびに、
「おかあさん、ごめんなさい」と申し訳なさそうに目を伏せて謝るようになっていた。
たかが算数が出来なかったくらいで、たった8歳の子が「ごめんなさい」なんていわなくていいのに。
九九の答えを間違えるたびに、しょげてうなだれるアプコはほんとに小さい。昨日はとうとう、ポロリと涙までこぼれた。
お調子者アプコの突然の涙に、ちょっとびっくりした。
まだまだこの子はお絵かきと鼻歌とお料理ごっこの好きなチビちゃんだったのだなぁと改めて思う。

4人の子どもたちは皆それぞれに違う個性を持った一人一人の人格。
納豆が大好きな子もいれば、あのネバネバを見るのもいやという子もいる。
朝、すこぶる寝起きのいい子もいれば、いつまでたっても布団から出られなくて泣きべそまで掻く子もいる。
片付け上手で几帳面な子もいれば、どんなに散らかっていても平気でその上に寝そべる子もいる。
同じ父さん母さんから生まれた4つの命。
見た目はそれぞれ似ているけれど、やっぱり違う命なのだ。
同じ力加減でカツンとやっても、平気な卵もあれば、フライパンの外で壊れてしまう脆い卵もある。
みんなおんなじ力加減ではダメなのだ。
そんなことを思う。


2006年12月01日(金) イケメン先生

昨日今日と地元の小学校で5年生の陶芸教室。
36人2クラスの子どもたちと一緒に抹茶茶碗を作る。
1日目、陶芸の歴史や焼き物の種類について簡単なレクチャーと水引きロクロの実演の後、抹茶茶碗の成形。
2日目は、一日置いて少し硬く乾燥したお茶碗に高台つけ。
出来た作品は来年1月までじっくり乾燥をかけて、学校のすぐ近くのレクレーション施設で素焼き、釉薬がけ、本焼きを行う。

今年の5年生2クラスの担任は、ベテランの元気な女の先生と今年先生になりたての若い男の先生。
実はこの新人先生、赴任のご挨拶のときに「すごくかっこいい先生が来たよ!」とアプコがうれしそうに教えてくれたイケメン先生。サッカーがお上手だそうで子どもたちにもとっても人気のある先生らしい。学生のような若くて元気のいい先生なので、子どもたちにはお兄さんのように慕われているのだろう。
父さんがデモンストレーションとして水引きロクロの実演をやって見せたときにも、イケメン先生は子どもたちに混じって歓声を上げたりほほうと頷いたりして、子どもたち以上に身を乗り出して楽しんで下さっているようだった。こういう子どもたちと近い目線で授業を楽しむことのできる若い教師というのもなかなかいいものだなぁと思う。

昨日の成形では作業時間が押してしまって、イケメン先生のクラスの授業が給食の時間に食い込んでしまった。
まだ、仕上げ作業に熱中している子もいる中で、早く仕上げた子達は自分の席の道具や残り土をざっと片付けて、三々五々教室へ帰っていった。先に帰って、教室で給食の準備を始めておくつもりなのだろう。
ちょうど片付けの手伝いに来てくださったベテラン先生が、その様子を見て、「終わりのご挨拶もなしで子どもたちを帰してしまったのね。」というようなことをイケメン先生にささやいていたようだった。
「あ、予定外の授業延長のせいで、イケメン先生、叱られたな。」とちょっと気の毒になった。

で、今日の高台付けの作業も、マラソン大会の後の時間に無理やりねじ込んで作った短時間の授業だったので、昨日と同様、イケメン先生のクラスの授業が給食時間に食い込んだ。
「作品を前に出した人から帰ってもいいよ。」
と昨日と同じような指示を出した。
仕上がりの遅れた子の手直しをしたり、子どもたちの使った道具類を片付けたりしていると、片づけを終えて子どもたちが2人、3人と私や父さんのそばへやってきて、作業の手を止めさせないように気遣いながら「ありがとうございました」と頭を下げて、教室へ戻っていく。
そして最後まで後片付けに追われるイケメン先生の周りには、数人の男の子たちが残って、机を拭いたり道具を運んだりして、てきぱきと片づけを手伝って行ってくれた。

みんな揃って「ありがとうございました」の挨拶は出来なかったけれど、一人一人がさりげなく頭を下げて挨拶をして帰る。
きっとイケメン先生は、昨日ベテラン先生から指摘されたことをうけて、すぐに彼なりの言葉で子どもたちに帰りの挨拶のことを子どもたちに指導なさったのだろう。
子どもたちと同じ目線で、一緒に驚き、一緒に楽しむ。
失敗して学んだことは、すぐに次の子どもたちへの指導に生かす。
子どもたちとともに学んで成長していく、新米先生ならではの爽やかさだなぁと思う。

出来上がった作品は一ヶ月かけて自然乾燥させ、来月、近所のレクレーション施設の陶芸窯で素焼き、釉薬掛け、本焼きを行う。
いい作品になりますように。


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