月の輪通信 日々の想い
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2004年03月30日(火) 知らなかったのも罪

国際派女優の島田楊子が無免許運転の疑いというニュース。
外国で取得した国際免許の手続き上の無知から、結果的に「無免許」状態だったのだろうとワイドショーで解説していた。
その番組の中で、ある弁護士さんが「法律を知らなかったからといってそれにより責任を免れる事はできない」とおっしゃっていた。
刑法の中にそういう条文があるのだそうだ。
当たり前といえば当たり前のことだが、そのことが法律に明記されていることなのだということを始めて知った。

ところで、江角マキ子。
自分が国民年金に加入していない状態であることを知らなかったのだそうだ。
ささやかな家計の中から確実に引き落とされ、何らかの理由で少しでも遅れると「督促状」が送られてくることを知っている者からすると、「何、のんきなこと、言ってるの」という無知だけれど、TVで見る限り、「知らなかったんなら仕方がないわねぇ。」と江角マキ子に同情的な意見を述べる人たちが意外に多かったのに驚いた。
「年金未加入」が罪になるのかどうかは知らないけれど、自分の年金の状態を確認もせずに偉そうに未加入者をたしなめるCMに出演した彼女を「かわいそう」とは思えない。
「知らなかった」のも罪である。

再び、先日のメール事件。
「子供達がパソコンを使ってそんな高度ないたずらが出来るとは知らなかった。」
「私はパソコンがよくわからないから、子供達が何をしているか把握できなかった。」
ネットの世界に踏み込むと、子供達は親の知らない知識や技術を良いことも悪いことも文字通り手当たり次第に身に付けてくる。
自分の得た知識を悪いことに使わない。
人を傷つけるようなことは絶対しない。
そんな基本的なことを身に付けないうちに、パソコンという道具を野放しの状態で子供に与えることは、やはり親としては罪である。
「知らなかった」では言い訳できない。そう思う。

回転ドアで死亡した男の子。
たかが建物への出入りに「命がけ」の危険を伴う大掛かりな装置を取り付けて、小さな命の重さをないがしろにしたビル会社やメーカーの責任は重い。
そして本当は、そんな危険の可能性もあるドアへの進入に幼い子の手を離してしまった母親にも責任の一端はある。
子供を不慮の事故で亡くし、悲嘆にくれている母親に面と向かって「あなたにも責任はある」と詰るつもりはない。
けれども、「回転ドアがそんなに危険なものであるとは知らなかった」とはいえ、人の往来の激しい出入り口で、はしゃぐ子供の手をふっと離したその油断が取り返しのつかない事故の発端になったことも確かだ。

確かに子供達はとっさに思いがけないことをする。
エスカレーターで転んだり、転がったボールを追って車道へ飛び出したり・・・。
わが子に思いがけなく降り注ぐ危険にヒヤッとする経験は誰にもあるはずだ。
「四六時中、子供の動きを見張っていることなんて出来ないわ。」
確かにそう。いつも手をつないで歩く道のりも、いつかは手を離して一人で
歩かせなければならないときがくる。
実際、「一人で行かせて大丈夫かな。」と思いつつ「気をつけて行っておいで」と子供を送り出す日もいつかは来るものだ。
それでもやっぱり「危険なところで走っては駄目。」「知らないところでは手をつなごう」と子供に言い聞かせることが出来なかったのは、結果として母親の責任とも言えるだろう。

「大丈夫かな」とわずかな不安を覚えつつ、少しづつ引き綱の距離を伸ばし、子供達が自由に行動する範囲を広げていく。
それは子育ての中でとても難しい「子離れ」の過程ではあるけれど、親から離れた子供達の行動や言動にはまだまだ親の責任が伴う。
「子供達が成長して、外で何をしているか把握するのが難しいわ。」
親の把握できないところで、子供が思いがけない非行に走ったり、人を傷つけるような言動を取ったりしたら、それはやっぱり親の責任。

何をしでかすか知れない子供達を「大丈夫かな」と思いつつ世に放つ。
それまでに子供達に与えたしつけや知識が、子供達を守ってくれると信じつつ。それは子供達の行動や言動にすべて親が責任を持つということ。
「そんな危険は予測できなかった」
「そんな悪事をしでかすとは思いもつかなかった」
ことが起こってしまったとき、そんな言い訳は通らない。
「知らなかったのも罪」
育児とは厳しく、重たい事業である。


2004年03月28日(日) 南京町へ行く

父さんが午後から神戸方面で、友達の個展を見に出かけるという。
お天気のいい日曜日。
おうちでうだうだもいいけれど、せっかくのお休みだし、「行こう行こう」とおにぎり弁当を作ってぞろぞろと車に乗り込む。
朝から剣道の稽古の男の子達を道場でひろって、びゅんびゅんと高速を目指す。
わぁい、久しぶりの遠出だ。
神戸へ行くのも久しぶり。

幼い頃、「街へ行く」というと、たいてい神戸だった。
震災前のバリバリ元気のよかった三宮。
母とよく行った老舗のサンドイッチパーラー。
いく度にワクワクした大きな手芸屋さん。
いつも豚まんをお土産に買った中華料理店。
英語がぺらぺらの矍鑠とした老婦人が切り盛りする服地やさん。
甘栗の大袋を買って、オーバーのポケットの中で殻を剥いて食べながら歩いた元町商店街。
父と、母と、弟達と楽しく歩いた神戸の町。
震災後はずいぶん雰囲気は変わったけれど、やはり何か楽しいことに出会えそうなワクワクがいっぱい残る街。

以前と大きく変わった場所といえば、南京町。
テイクアウトの屋台が所狭しと立ち並び、観光客がひしめきう現在のこの街は、子供達をつれてあちこち少しずつつまみ食いして歩くのには楽しい街になった。
即席おにぎり弁当で物足りない分をさっそく小さなカップのラーメンで補う。
お行儀が悪いのを承知で、広場の地べたに座り込み、子供達がそれぞれに厚いラーメンをすする。早く食べ終わった子を連れて、揚げシューマイだの胡麻ダンゴだの新たなおいしいものを買い出しにいく。
人ごみの苦手なおのぼりさんツアーには、ちょっと過酷な混雑ではあったけれど、それぞれに好きな物を食べ、珍しい食材や中国の雑貨に触れ、ちょっとだけ「異文化交流」を経験して、楽しく過ごした。

帰りに夕食用にと冷凍の水餃子や細麺の生ラーメン、父さんの好物の焼豚などを買う。
そして、子供達が興味深々だったピータンを二つ。
これまでにもどこかで食べさせたことがあるとは思っていたのだけれど、殻つきの土をかぶったままのピータンを見るのはどの子も初めて。
「何事も経験」とさっそく購入。
帰宅後、遅い夕食の準備をする傍らで、父さんが子供達と一緒にピータンの殻を剥いた。
土に中から現れる卵に唖然。
殻を剥くと現れる真っ黒な白身に呆然。
なかなか面白いお土産だった。
「まあまあ、食べられるな。」
普段好き嫌いの多いオニイが珍しく一口。
「何だか気持ち悪いけど・・・」
食材に対する探究心旺盛なアユコも一口。
はじめから食べ物と認知しないアプコは当然パス。
「大しておいしいものでもないんだけどね」
と、突っつく父母の影で、一人しり込みしているゲン。
珍しい食べ物はたいがい一番に食べたがるゲンなのに、ピータンに関しては食わず嫌いを貫くようだ。
「こういうの、苦手かも・・・」
珍しく弱気の発言。意外だった。

わが子には、知らない食材にも果敢に挑戦できる大胆さを育てたいと予ねてより考えている母としては、今後の課題が一つ増えた。


2004年03月26日(金) 土練り3年

春休みに入って、朝から晩まで子供達が家にいる。
朝ごはんが済んだばっかりというのに、「お母さん、お昼何食べるの?」
そんなことは昼になってから考えてくれ。
「それよりさっさと宿題済ませちゃいなさい!」
といえないのが辛い。

「お昼ご飯が済んだら、オニイにちょっと手伝ってもらおうかな」
仕事場でなにやら新しい仕事に取り掛かる気配の父さんが言った。
「暇そうにしているからちょうどいいわ。」
さっそくオニイにその旨を告げる。
なんだろうなぁ、写真のことかな、パソコンのことかな。
最近ではめったに仕事場に出入りすることがなくなったオニイが、いぶかりながらもいそいそと父さんの所へ行く。

しばらくして仕事場へ行くと、がらんとした教室で仕事をする父さんの傍らで、オニイが熱心に土練をしていた。
制作に取り掛かる前に、材料となる土をしっかりと練り直し、中に含まれる空気を抜いて準備をする。
その一番基礎となる作業を父さんはオニイに教えているようだった。

腰を落とし、リズミカルに力を込めて土を練る父さんの手つきは鮮やかで、何度みてもふっと吸い込まれるように見入ってしまう。
何度も練り上げるうちに、生地に規則正しい練りこみのあとが重なり、くっきりと菊の花弁の文様となって浮かび上がる。
この作業を「菊練り」というゆえんだ。
父さんの手元は、少しも留まることなく、土くれを滑らかな砲弾型にまとめ上げる。
この間数分。
プロの技だなぁと思う。

さて、初めて土練りに挑戦するオニイ。
リズムだけは父さんを真似て調子がよいが、まだまだ非力でずっしり重い土塊を十分に転がすことが出来ない。
力を込める場所が定まらないので、作業台の上で土塊があちこちに移動する。
そして何より、スタミナ不足で何度も続けて練り続けることが出来ない。
父さんの見せた鮮やかな菊の文様を出したくて、あれこれ練り方を変えてみるが、うまくいかない。
「しっかり空気を抜くのが目的だよ、菊の花じゃなくて・・・。」
ようやくオニイが練り上げた土塊を、父さんがスパッと切り糸で半分に切る。
その断面には小さな空気の層がいくつも残っていて、オニイの土練りがまだまだ使い物にならないのがよくわかる。
父さんが短時間にこねた土塊の断面は均一で、しっかり空気も抜けている。

「うまいこといかんわぁ」
首をかしげるオニイは、なんだかちょっと悔しそう。
「昔は『土練り3年』といって、職人さんたちはこの作業だけを習得するために長い修行をしたものなんだ。」
父さんが胸を張って答える。
父さんは高校時代から陶芸の基礎を学び、もう何年も当たり前の作業として土練りをする。
手が覚えた技は、毎日毎日使われることによって、軽快でリズミカルな美しい所作になる。

将来の進路に父の歩んだ道を意識しつつあるオニイの目に、父さんの手の凄さは強烈な印象を残したようだ。
「母さん、なんつーか、陶芸って・・・。陶芸って、あのな・・・」
夕餉の支度をする私のそばへきて、オニイが何か言いたそうにして、言葉を選ぶ。
「なんつーかな、あのな。陶芸ってな、・・・」
あとの言葉は聴かなくっても判るよ。
ちょっと興奮したオニイの笑顔がまぶしい。
「『しんどいから、やってられへん』でしょ?」
意地悪く聞き返す母に、オニイがぶんぶんと首を横に振った。

父さんって凄いな。
陶芸って、奥が深いな。
その言葉は自分で見つけなさい。



2004年03月25日(木) 優先順位

(昨日分より続き)
「○○ちゃんのお母さん」で一生を終えるのはいや。
一人の人間として評価される仕事がしたい。
主婦が仕事を始める理由の一つに、こんな言い草がある。
資格を身に付け、仕事のスキルをアップして、自分のやりたかった仕事を再開する。
エプロンをはずし、家事を手早くかたづけて、カツカツ踵の鳴る靴で、仕事場へ向かう。
ちょっとかっこいいじゃん。私もそう思う。

最近、最終回を迎えた人気のドラマ。
仕事一筋の夫に愛想をつかして、娘を置いて自分のやりたかったことを実現するために旅立っていく。夫は娘と二人っきりになってはじめて、子供と向き合う毎日の大変さと喜びを知る。
心温まるとてもよいドラマだったと思うけど、唯一つ不満に思うことがある。
自分のやりたいことを見つけて、子供とともに新しい土地で新生活を始める妻。新しい仕事に面白さを見つけ、新しい彼女さえ見つけて、穏やかな生活を取り戻そうとしている夫。
前向きに新しい人生を切り開いていこうとする親達の心は明るい。
それに比べて、母親に一度は放置され、ようやくこっちを向いてくれた父親とは引き離され、転校や改名のストレスを背負わされた娘はどこまでもけなげで痛々しい。
みんなが自分の生きる道を見つけてよかったね。
でもそこに、自分を犠牲にしても子供の気持ちを優先するという選択がほとんどなされていなかった気がする。

「自分が自分らしく生きられる生き方」
それが今ある家族や仕事で満たされないと思ったとき、どんな犠牲を払ってもそこに手を伸ばして求めていく姿はかっこいい。
「自分に正直に」「ありのままの気持ちで・・・」
自分の欲しいものを追い求めるとき、自分の気持ちをなりふりかまわず発信するのが素敵な女の条件のように言われる。
少し前なら「夫と別れたいけど、子供たちのことを考えると・・・」と躊躇した人も、「子供達のためにも別れた方がいい。」と決断する。
少し前なら「小さい子を置いて母親が働きに出るのはかわいそう」といわれた人たちも「いきいきと働く母親の姿を子供達にみせてやりたい」と働きに出る。
「子供達のことを考えると・・・」とウジウジ新生活への切り替えをためらうのは、愚かな女のお手本のように言われる。
だけどなぁ。
本当にわが子のために何かを犠牲にする生き方は愚かなんだろうか。
「自分らしく」を振りかざして生きる女だけが偉いのだろうか。

昨日の日記に書いた5人目の子の母親。
私と顔をあわせると二言目には「仕事が忙しくて」と口にする。
夜にも不在のことが多く、子供達は母親のいない家で勝手に生息している。
学校や子ども会の役も「仕事」を理由にたびたび穴を開け、迷惑をかける。
会うたびに言外に「専業主婦は暇でいいわね」のにおいがするので、アタマにくる。
それでもそれは「価値観の違いね。」と聞き流そうと思う。
ただ、彼女が自分の子の前でたびたび「子供のことより仕事が優先」という言動を繰り返すのはどうかと思う。

「俺は仕事が忙しいんだ。子供のことはお前に任せてある。しっかり子育てしなきゃ駄目じゃないか。」
よくドラマで出てくる企業戦士はこんな暴言を吐いたものだ。
「あたしだって、子育てなんかより仕事がしたい。」
そういって働きに出る母親も少なくない。
残った子供は誰に育てられるのだろう。
学校や塾で知識はたくさん得てきても、自分を最優先にはしてくれない親のもとで、子供は何を学ぶのだろう。

仕事をする母親が悪いというわけではない。
専業主婦が偉いというつもりもない。
ただ、親となった以上、「子供が最優先」「子供の気持ちを大事にする」というタイミングを見失ってはいけない。
子供達は自分たちの優先順位がどこにあるか、
大人以上に敏感に感じているに違いない。


2004年03月24日(水) 「ごめん!」のタイミング

誤って誰かの足を踏む。
「あ痛っ!」と言われる前に「ごめん!」といえること、大事だなぁと思う。

先日のアユコのメール事件。
問題発覚からすでに2週間。
校長教頭、担任の先生、5人の子供の親たちまで巻き込んで、すったもんだの末、一応の解決をみた。クラスでも話し合いが持たれ、修了式前の数日はクラスの気分を切り替えるためにたくさんの楽しい行事がもたれた。
「とりあえず、これでおしまいにしようね。」
アユコも心の整理をつけ、すっきりと言い放った。
そのほうがよいと私も思う。

ところが、なかなか終わりにしてくれない人たちがいる。
先週、話し合いが終わってから5人の子供達の両親がぱらぱらと謝罪にみえる。
最初に飛んでこられた数組はいい。
今日、最後の一組が親子3人でやってきた。
話し合いからすでに10日。
何をいまさらという思いしか残らない。

今日、謝罪に来た子供の母親は、私と顔を合わすと二言目には「仕事が忙しくて」という。
表向き専業主婦である私への優越からか、ことさらに「気の抜けない仕事だから・・・」と繰り返す。
今回子供達の非行に気づかなかったのも、謝罪がぐんと遅くなったのも、「私が仕事で不在だったから」「主人の仕事が大変な時期だから」と、いちいち同じ言い訳をする。
仕事を持つ主婦は忙しい。
子供とともに過ごせる時間の多くを仕事のために費やしている。
だからといって、自分の子供の非行を見抜けなかったことや、その後の対応が遅くなったことの言い訳にいちいち「仕事」を持ち出すのは、どこか勘違いしていないか。

日々だらだらと続く子育ての日々にも、ここははずせないというタイミングがある。
仕事の片手間の育児にも、ここだけは子供優先にしなくてはならないときもある。
子供が「しまった!」と思っているときにガツンと叱る。
「悪いことをした」と気づいたときに謝罪をさせる。
両親が本気で息子の非行を恥じる姿を見せる。
そんな基本的な作業が出来ないまま「仕事優先」に逃げる親の姿勢を、子供達はきっと見ている。きっと学んでいる。

足を踏まれた者は痛い。
相手が故意に踏んだとしても、押されてふらついてやむなく踏んだとしても。
「ごめん!」
のあとの言い訳はいらない。
それより即座に「ごめん!」と声に出して言ってくれ。
欠陥自動車と知りながら販売を止めなかった社長さんが、事故死した方の墓前で謝罪していた。
「2年も経ってからですよ。」
被害者の家族の方が悔し涙にくれていた。
「ごめん!」のタイミングは難しい。
でもその人の価値観や心の有り様をつぶさに表す試験紙でもある。


2004年03月22日(月) 春の便り

実家の母からの小包が届いた。
大きな菓子箱にいっぱいのいかなごの釘煮。
箱のまま、食卓の上に置いておくと、誰彼ともなく指でつまんで味見していく。
そばに白飯も一緒に置いてやろうかしらん。

この季節、実家のあたりではどの家も競うようにいかなごを煮る。
体長3センチばかりの小魚を近所の魚屋でキロ単位で買ってきて、大きななべで、生姜とともに甘辛く煮る。
各家庭で炊き方や使用する調味料が微妙に違っていて、どこのおかあちゃんも、密かに「うちのが一番」と思っているに違いない。
シーズン中何度も炊いて、あちこちへ配る。
あちらの郵便局では「いかなごパック」といって、密封容器と郵送料をセットにした発送サービスもあるそうだ。
ごたぶんにもれず、我が家にも毎年、母からのどっしりと重い釘煮の宅急便が届く。
我が家からまた、義父母のところへおすそ分けし、父さんの恩師やらお世話になった方やらへ定例どおりにお送りする。
「毎度同じ品で恐縮ですが、春の便りでございます。ご賞味ください。」
包みに添える手紙の文章も定例どおり。
「いま、届いた。さっそく一杯やっとるぞ、ありがとう。」
到着と同時にご機嫌よくお電話を下さるM先生。
毎年変わらぬ習慣が、今年もつつがなくおさめていける今日の幸せ。

近頃では我が家の近所の魚屋でも、生のいかなごが店頭に並ぶようになった。
水揚げされたその日のうちに、さっさと煮上げてしまわないと質が落ちる地域限定の郷土料理であったはずだが、ここ数年、流通の範囲が広がったのか、明石から100キロ離れたわが町にも昼網の時間に合わせて袋詰めされ、商われるようになった。
郷里のスーパーと同じように、いかなごのそばにはしょうゆやザラメ、密封容器まで同じコーナーに集めて、レシピを添えて売られている。
「そろそろ私も一人で炊いてみようかしらん」
ここ数年、出始めのいかなごを目にするたびに思い立つのだけれど、ぐずぐずと引き伸ばしているうちに、実家からどっしりと宅急便が届き、ついつい機を逸する羽目になる。
「いかなごをちゃんと炊けて一人前」という播州の花嫁の条件を今年も満たさぬまま、母の釘煮をまたつまむ。
母が今年もたくさんのいかなごを煮て、あちこちへ発送することが出来るのは、母の身の回りが穏やかで健やかに動いているという証。
だから、今年も母の釘煮に甘えて過ごす。
ありがたく甘い母の味。
感謝、感謝。

「いかなご、ついたよ。ありがとう。」
母に電話したら、珍しく父が受話器を替わった。
何かしらと思ったら、いつも聞きなれない改まった言葉で、父が私をほめてくれた。
実家の両親は、この日記も欠かさず読んでくれており、子供達の成長や父さんの仕事のことなどをしょっちゅう気に掛けてくれている。
父母の手元を離れ、4児の母、窯元の奥さんをばたばたつとめる娘の日常を「よしよし」とうなづいて見守ってくださったか。
一人で猛然と髪振り乱して走り回っているつもりでいたここ数日の私の後ろに、暖かい父母の見守りがあったということ。
春の便りとともに、気づいた父母のありがたさ。

「まだまだ、いかなごは一人では炊けない。」
「母」であると同時に、自分がまだ誰かさんの「娘」であることの嬉しさを十分に味わって春を迎える。


2004年03月18日(木) 一人で戦わない

先週から大騒ぎしていたアユコの「いたずらメール事件」が一段落した。
友達のメールのパスワードを盗み出し、その子の名をかたって偽のラブレターを書き、そのやり取りの内容を公開して嫌がらせをするという、犯罪まがいの要素を含んだいやな事件だった。
担任の先生から校長、教頭、相手の5人の男の子達の親たちまで交えての抗議、話し合い、謝罪・・・。
クラスでのほかのいじめ問題から、家庭での子供のパソコンの使い方の管理まで、色々な要素を含んだ今回の問題は、だんだん判らなくなってくる子供達の日常を親や教師がどこまで把握していかなくてはならないのかという基本的な問いに戻って、ため息を生む。
結局のところ、「自分ちの子は自分で守らなければ」という結論に達せざるを得ないことがむなしく悔しい。
5人のうちの主謀者格の男の子は10人の大人に囲まれて数時間に渡って問い詰められても、ついに涙の一粒も見せず、どこか冷え切った目でしぶしぶ謝罪の言葉を述べた。多分、彼の心には大人たちの危機感は伝わっていない。
彼の父親にも、息子の心の闇は感じられていない。
それでも、「二度とするなよ、ちゃんと見てるぞ」と念を押すよりほかにすべはない。

弱いものいじめを許せない、自分の理屈を絶対に曲げたくない。
生真面目なアユコのまっすぐな正義感が5人の卑劣ないたずらの標的になった。アユコは傷つき、怒り、泣き叫んで、一人で戦いを続けた。
「男の子達にはっきりものをいえるのは私だけだから。」と、心無いいじめの盾になって踏ん張っていたらしい。
繊細で、傷つきやすい女の子と思っていたアユコが、そんな激しい、強い使命感を持っていたということが母である私にも驚きだった。
「お母さん、本気で怒ってきた。けんかしてきてやる。」
激しい怒りをあらわにして、学校へたびたび出かけていく母の姿を見て、とりあえずアユコは自分のために怒り狂ってくれる親や先生達がいるということで、心の傷をすこしずつ癒してくれているように思う。
強い子に育ってくれたと思う。
アユコの賢さに親も先生達も救われたと思う。
不甲斐ないことだけれど。

卒業式に出席した午後、アユコは久しぶりに仲良しのAちゃんをうちに呼んで、クラスのお楽しみ会の賞品を作る作業をしていた。
本来アユコが、「私が用意するわ。」と引き受けてきて、一人で作業を進めていた賞品作り。
「アユコ一人でやらないで、友達に『手伝って』と声を掛けて、一緒にやったほうが楽しいんじゃないの。」
と私が提案して、アユコはAちゃんを呼んでくることに決めた。
「アユコは何でもできるから、賞品作りも一人でささっと片付けちゃえばいいと思うけど、『一緒にやろうよ』と誰かに声をかけることで、仲間ができるよ。
『一人でこんなに用意してくれて、ありがとう』といわれるのも嬉しいけれど、二人でやって『Aちゃんが一緒にやってくれたよ』といえば、Aちゃんも嬉しくなれるよ。
一人で戦えるアユコは強いけれど、強いアユコだからこそ誰かを仲間にして戦うことを学ぼうよ。」

クラスの子達がいじめの現場を目撃しても何もいえないと悔しがっていたアユコ。
一人で盾になってがんばっていたようだけれど、たった一人の抗戦ではきっとまた今度のような無理がでる。
「今度からね、『いじめちゃ駄目!』というときには、近くにいる友達に『ねえ、そう思うでしょ、○○ちゃん』と声を掛けてごらん。
自分では『いじめちゃ駄目』と言えない子でも『そうだそうだ』とはいえるかもしれないよ。
そうしたら、アユコの味方が一人増える。一緒に戦う仲間が増えるということだよ。」
一人で折れそうになるまで頑張ってしまう生真面目に、母は新たに厳しい課題を与える。
「あ、そうか。わかったよ。」
明るい笑顔で、母の提案の意味を一度で呑み込むアユコは賢い。
わが子が優しく強く、そして賢く育ってくれたことに、改めて頭を下げる。
子供の思いがけない成長に親のほうが勇気付けられる。
「子育ては宝」と改めて思う。


2004年03月17日(水) もじもじ

アプコは朝ごはんを食べるのがとても遅い。
席に着くのも皆より遅くなることが多いので、あわただしい朝はアプコが最初の一口を食べる頃にはオニイ達は「ごちそーさん!」と席を立つ。
それでもアプコは慌てない。
鼻歌を歌い、念入りにふりかけを選び、おもむろに自分でお茶をいれてから、静々とお姫様のように朝食を召し上がる。

「おかあさん、おかあさん。あれ、見て!」
「なぁに。早く食べなさいよ。」
「あのね、お外のあの大きい木、見えるでしょ。」
アプコが窓の向こうの山の雑木を指差す。
珍しい鳥でもいるのかな。
「どれよ。」
「あの三角みたいな大きな木。あそこにびゅ〜んと伸びた枝があるでしょ。
「うんうん」
「あの枝の先の、今、小鳥が飛んでいったあのはっぱの下の地面にね。」
「どこどこ。」
「あの、ちょっと白くなってるところよ。」
「ふむふむ」
「あのね、あそこにね、『の』の形の枝が落ちてる。」
「はぁー・・・・。早くご飯食べてね。」

「あ、お母さんみてみて!」
こんどアプコが指差したのは自分の取り皿の中。
変なものでも入っていたかと覗き込むと、いかなごの釘煮が2本。
「ほら、『り』の形。」
「はいはい。」
「この形なんかの形に似てるよね。あ。羽だ。鳥の羽の形だよ。何の鳥か判る?」
「わかんないよ!(そろそろ怒りモード)」
「ほら、鶴だよ、鶴。くちばしが細くて、足が長くて・・・」
「鶴なら知ってるから説明しなくて良いよ。早くご飯食べて。」
「あ、お母さん、さけぱっぱ(ふりかけのなまえ)の反対って何か知ってる?」
「知ってるから、ももういいよ。ふりかけご飯食べちゃいな。」
「でも面白いよ。
『ぱっぱけさ』だよ。
ぱっ・ぱ・け・さ。うわぁ、おかしい!(本人バカ受け)」
「こらぁ!さっさと食べなさい!!」

幼稚園のお友達とのお手紙交換で急速にひらがなの読み書きを覚えたアプコ。
文字を読むのがとりあえず楽しい。
看板の文字、車のナンバーの文字、先生の連絡帳の文字。
知ってる字をとにかく片端から声に出して読んで見る。
粒チョコを文字の形に並べる。
おうどんで「の」の字を作って、一人で受けまくる。
お絵かき帳にもたくさんの鏡文字交じりの説明文が書いてある。
アプコの頭の中には、たくさんのひらがなが渦巻いている。
「文字」というものの意味を始めて発見した幼児の感性のみずみずしさ。
人が文字を学ぶということのはじめの一歩は、本来こんなにも嬉しさに満ちた楽しい遊びから始まるのだな。

小中学生になって、漢字テストのまえにいやいや漢字ドリルを埋めるようになる前に、どの子にもこんな嬉しい文字との出会いがあったのだろうか。
新しいことを知る。
初めて得た知識を自分で活用する。
「見てみて!」と誰かに自分の発見を披露する。
そんな基本的な「学ぶ喜び」をたっぷり味わってから、大きくなってもらいたい。

・・・といいつつ、アプコの朝食は半時間たっても、まだほとんど手がつけられていない。
「さっさと、食べてくれ!」
アプコの取り皿の上に、新しいいかなごの文字。
「へ」
・・・へ、じゃないよ、まったく。


2004年03月16日(火) ぽっかり卵の教訓

朝、お寝坊して大慌てご飯だったので、朝ごはんのメニューは「ぽっかり卵」とお味噌汁。
ゲンは、甘辛いしょうゆ味のおだしでぽっかりと煮た「ぽっかり卵」がちょっと苦手。
朝の忙しい時間には卵のお鉢を気乗りしない様子でつんつんつつき、時間切れになるとこれ幸いと黄身だけぽつんと残して逃げる。
今日もまた、あわただしさにまぎれて、ごまかして席を立とうとしているので、すんでのところで呼び戻した。
「ちょっと待て。黄身まで、しっかり食べていきなさい。」
ばれたかと、しぶしぶ戻ってくるゲン。

「誰かに喰われて、誰かの血や肉になろうと思って生まれてきた命じゃないんだから、こんな残し方をしたら卵に申し訳ない。」
私が、忙しついでに説教をしたら、横からオニイが、
「その言い方、うまいな。
僕も大きくなったら子供にそういって叱ろう。」
と茶々を入れた。
「真似させてやっても良いけど、そのときまでちゃんと覚えておきなよ。
まだまだ先の話だよ。」
といったら、
「そやな。もし、忘れてたら、そのときはお母さん、思い出させてな。」
「え〜っ、あんたがこどもの親になっても、まだお母さんがあんたの忘れ物を思い出させてあげるの?とんでもない、まっぴらよ。」
「ありゃりゃ、そうでした。」
分が悪くなったオニイもこそこそと逃げ出す。
食卓の上には、空っぽになった卵のお鉢。
しっかり食べたら、行ってらっしゃい。

こんな日常の何気ない会話の中から、子供達は親の価値観や生き方のかけらを学ぶ。
そして、いつか自分が親になったとき、思わず知らず同じ言葉で子供を叱る。
私の親としての毎日の言動が、未来の子供達の言葉になる。
しっかり考えて、ちゃんと「おかあさん」しなくちゃなぁ。
まだまだ大変だなぁ。


2004年03月15日(月) おほめの言葉

アプコといつものように園バスへの道を下っていた。
春めいた日差しが気持ちよくて、足元にくっきりとまとわりつく影をお互いに踏みあいっこしながら駆け下りる。
小さいアプコともつれるように絡み合って走るのは楽しくて、年甲斐もなくきゃあきゃあ言いながらアプコの影を追った。
後ろから車の近づく気配がしたので、アプコの手を引き寄せ、道の端による。
後ろから来たのはご近所のNさんのご主人の車。
すれ違うときにゆっくりとスピードを落とし、窓を開けてNさんがにこにこ顔を出した。
「楽しそうやねぇ。」
しまった。
誰も見ていないと思っていたのに、珍しくはじけた私のふざけっぷりをNさんに目撃されてしまった。
ひゃっ、恥ずかし・・・と思ったけれど、バイバイと手を振って再びスピードを上げていったNさんの表情はとても優しくて、アプコと私が遊ぶ様を微笑ましく見守ってくださっていたことがよくわかる。
自分ではそのとき気づいていない、母であることを喜んでいる私をNさんはほんの通りすがりの一こまの中で感じ取って、私にほめてくださったのではないかと思われた。

昨日、私の実家へひいばあちゃんの法事に出かけて、日ごろお会いすることのない親戚の人たちと久しぶりにお会いした。
どの人も、私が4人の子供達を何とかここまで育ててきて、倦む事もなく子育てを続けていることをそれぞれにほめてくださった。
アユコがお客様へのお茶出しを進んで自信を持ってつとめたこと。
アプコが自分より小さい従姉妹のAちゃんと仲良くおとなしく遊べること。子供達の小さな行為の一つ一つを「よく、ここまで育てたね。」と人生の先輩達にほめていただくということは、これからまだまだ続く長い子育ての日常に嬉しい花の冠をいただくことだ。
大事に育てた子供達のことを、誰かにほめていただく、これまでの労をねぎらっていただくのは嬉しい。
もうひとがんばりしなければと思う。
「ええカッコさせてくれてありがとね。」
子供達にも感謝、感謝。
誰かが私の子育てをどこかで見守ってくださっている。
それを知ることは明日の育児の力となる。

私の子育ては果たして周りからよく評価されているだろうか。
そんな気持ちを常に持ちつつ子供と接することは、とてもしんどいことだろう。
でも、思いがけない場面で思いがけない人から、「楽しそうだね。」「よくがんばって育てているね。」と声を掛けてもらうということはとてもとても嬉しいことだ。
そんな場面を見つけたときには、私も声に出してその人をほめよう。
「がんばってるね。」
「いい子に育ったね。」
それはきっと誰かの明日の力になるはずだ。
誰かからいただいた嬉しいお褒めの一言を、今度は私が誰かにお返ししたい。
自分のことでめいっぱいの私にできるささやかな子育て支援。
このくらいならできるかもしれない。


2004年03月14日(日) 家族の距離

女の子2人を連れて実家のひいばあちゃんの一周忌に出かけた。
大きな荷物を抱えて帰宅の電車を降りると、迎えに来てくれた父さんの車の中にほのかなカレーの匂い。
「帰りが遅くなるかもしれないから、夜は男の子軍団でカレーを作ってね。ご飯も忘れず炊いておいてよ。」と材料を買い揃えて言い残しておいた。
奮闘の様がうかがわれますな。
よしよしと、期待十分でうちに入る。

男の子カレーは絶品だった。
頼んでおいた洗濯物も、とりあえず物干しにはぶら下げて、夕方には取り込んでおいてくれた模様。
汚れ放題で投げ出されたざるやおなべ、丸めてしわくちゃのまま生乾きで取り込まれたトランクスを考慮しても、男達の家事能力はそこそこ及第点といえるだろう。
外から帰って、暖かい夕餉の香りがするということだけでも、主婦の日常には嬉しい楽しい出来事なのだということを、父さんと子供達に伝えておきたいと思う。

「あれ?コタツ、どうしたの?」
居間においてあるいつもの長方形のコタツが壁際に立てかけられ、新婚時代に父さんと使っていた小さな正方形のコタツが置いてある。
「こわれたみたいやねん。ちっとも暖かくならないねん」
以前からコードの接触が悪かったりサーモスタットが不調だったりして、あやしかったコタツではある。
冷蔵庫、洗濯機、電子レンジと来て我が家の家電買い替えラッシュも終盤かと思われてきた今、この春も間近というこの時期にコタツが昇天されるとは予想外だった。
「ま、しょうがないね、」と90センチ角の小さなコタツに6人がごそごそと足を入れる。
法事のお下がりのお菓子でもいただこうと、机の上に広げると子供らがわっと顔を寄せる。
「うわぁ、人口密度めちゃくちゃ高いわぁ!」
いつもと違う家族の距離感が驚きだった。
コタツが小さくなったというだけで、誰かと誰かの息遣いの触れ合う距離感が違う。
なんだかちょっと嬉しくて、いつもより余計に暖かかった。

家が狭くて、子供達に自分だけの空間を与えることができない。
小学生(中学生)になったら、子供がひとりになれる空間を確保してやりたい。
家の空間を考えるとき、必ず話題となるこの言葉。
確かに、子供達は大きくなると誰かに邪魔されない自分のスペース、一人で閉じこもってしまえる個室のドアを欲しがる。
それはそれで当たり前のこと。
大人だって、ひとりになれる書斎が欲しい、趣味を楽しめる個室が欲しい。
家族の中で自分が個になれるスペースはいつも家族の憧れだ。
けれども今日の小さなコタツのように、いやおうなく家族が寄り添える空間、いやでも誰かのため息や空腹のおなかの音を捉えることのできる空間を求めることはめったにない。
でも、特に子育て中のうちには時にはこんなおしくら饅頭のような窮屈な憩いって必要だったのだなと気がつく。

子育てが一段落したので働きに出て、妻でも母でもない自分を生きられる場所を確保したい。
父さん母さんに干渉されない、プライベートな空間に閉じこもりたい。
大人不在の時間の長い友達のうちがうらやましい。
大人も子供も自分が「個」「孤」になれる時間を切望する。

でも、家族というのはそれだけではないのだ。
プライベートな部分にずかずか踏み込んで、間違いを正す言葉。
互いのプライドをかなぐり捨てて、自分の激しい想いや訴えを吐き出す時間。
誰かの息遣いに自分の呼吸を合わせてみられる密着した距離感。
一見うっとおしく感じるような密着感が、まだまだ家族には必要なのだ。
子供が身の回りにいることの幸せの一つは、このうっとおしくも暖かい異常な密着感にもあるのだということを、改めてもう一度考えてみたいと思う。


2004年03月12日(金) 「子供が好き」という幻想

先日、話題にした大家族のドラマ。
「なんで子供をいっぱい産んだの」
の答えは思ったとおり「子どもが好きだから」だった。
「自分の子だもだけでなく、よその子でも、一生懸命な子供の姿を見ていると嬉しくなっちゃう、とにかく子供が好きだから・・・」
子沢山の肝っ玉母さんは、うるうると輝く瞳で高らかに宣言する。
「やっぱり子供が好きだから・・・」

「私は4児の母」というと、「きっと子供がすきなのね。」と帰ってくる。
確かにわが子はいとしい。
大事に大事に育ててやりたいと思う。
どの子にも等しくいっぱいの愛情を注いでやりたいと思う。
でも、それはあくまでもわが子への愛。
よその子までがわが子同様大好きだとはとても言えない。
少なくとも最近の私には、そんなことは言えない。
子沢山の母は子供好きというのは、大きな誤解だと思う。
私に関しては、そんな幻想は抱いてもらいたくない。
そう思う。

アユコのクラスでとてもとてもいやな事件があった。
メールを使って、大人顔負けの卑劣な手段で特定の子をだまして、辱める。
そのテクニックも巧妙で、立派な犯罪のレベルだと思う。
その被害者の立場に、正義感のアユコが立たされた。
担任の先生や同じく被害にあった子のお母さんとともに、ここ数日その事実確認に追われていた。
子供のいたずらといいながら、私は相手の子供達やわが子の卑劣な行為に気づくことのできなかった親達を許すことができそうにない。
「子供のやったことですから、しょうがないですね。もう二度とやらないでね。」と丸く収めることは多分できないと思う。
私は相手の子供達を激しく憎む。
思春期の繊細な少女の心を踏みにじった子供達を前に「やっぱり私は子供が好き」とは、とてもとてもいえないのだ。

何があってもわが子を守ってやりたいと思う。
心も体も全部大事に守ってやりたいと思う。
だからアユコのガラスのハートを傷つける子供をかわいいとは思えない。
いくら子沢山だからといって、今日のドラマのようによその子のいたずらをわが子同様に親身に叱ってやったり、「一人くらい増えても平気よ。」とよその子を簡単に預かってやるようなことは私はしない。
子沢山の母なら誰でも寛大な心を持つ肝っ玉母さんに違いないという幻想は、持たないでもらいたい。

「子供が好き」というだけで、あんなふうに明るい子育てができるというのは幻想だと思う。
いつも明るく、子供達に優しく、気持ちにムラがなく、いつも最大限の愛で子供達を包む。自分の子も他人の子もみんな等しく健やかに成長することを祈る。
そんな理想的な母の姿を、自分にも他人にも期待したくない。

いつになく激しい気持ちが次々にあふれて留まることがない。
その心のままに、わが子を守るために戦いたいと思う。
傷ついてしまったアユコの心を癒すためには、母が自分のために捨て身で戦っている姿を見せるよりないと思う。

私の日記を見て、「子供が好き」と胸を張っていえる母親になりたいと感じてくださった方がある。
申し訳ない。
今の私は「そうね、そうなるといいね。」とは言えない。
まとわりつく子供をまどろっこしいと思うことも、わが子に危害を加える子供に憎しみを抱く気持ちも、どちらも厳しくもおろかな母の激情の一つなのだ。
そんな激しい想いなしに、母は本当に心からわが子を大事に守り抜くことはできないような気がする。

「やっぱり子供が好きだから・・・」
予想していた答えではあるけれど、しらけきった思いでドラマを見た。
私はおろかな母親かもしれない。


2004年03月11日(木) アニキだなぁ

朝、小学生組が一番に玄関を飛び出して行った。
少し遅れて、家を出る自転車通学のオニイ、
「母さん、傘、いるかなぁ。」
「小学生組には、『いらないんじゃない』といっちゃったけど、なんか曇ってるね。」
「どれどれ。」とオニイがそばにあった朝刊の天気予報をささっと読んだ。
「あ、母さん、あかんわ。昼からずーっと雨マークや。」

しょうがないなぁ、傘もって追いかけるか。
傘がいらないと言った手前、傘なしってのもかわいそうで、こんなときは車でびゅ〜んと追いかけるのがいつもパターン。
と、思っていたら、
「じゃ、僕がもっていくわ。」
思いがけず、オニイが申し出てくれた。
「自転車だから、すぐ、追いつくと思うよ。」
「なんで?」
小学生時代のオニイに、何度も慌てて忘れ物を届けに車を走らせた記憶も新しい。そのオニイにゲンやアユコの傘を持って追いかけてもらうことは、ちょっと思いつかなかったので、ちょっと間の抜けた返事をしてしまった。
「いやぁ、別に、わざわざ車出すこともないし・・・」
当然のように答えるオニイが妙に頼もしくてとてもとても嬉しくなった。

「3本も傘もって、大丈夫?」
「大丈夫。大丈夫。」
自転車の乗り方がへたくそで、中学入学当初はずいぶんはらはらした自転車通学。
一年たって、足腰もずいぶん頑丈になり、おんぼろママチャリを飛ばす姿もさまになってきた。
自分の分の傘をサドルの後ろにぐいと差し込み、弟妹二人分の傘を手に軽快に坂道を下っていく。

アニキだなぁ。
かっこいいなぁ。
急に背丈が伸び、少しづつ声変わりが始まり、鼻の下のうぶ毛が急に濃くなり始めた。
少年らしく、自分の周囲のことをあまり母には語りたがらなくなったオニイは、私の知らないところで優しく強く成長している。
こうして男になっていくんだなぁ。
びゅうんと自転車を飛ばして、若い小鳥のように飛び立っていく中学生の背中がまぶしくて嬉しい朝だった。


2004年03月09日(火) 靴を買う

「おかあさん、歩いてたら靴ン中にでっかい石が入ってきたよ。」
ゲンが帰ってくるなり、報告してきた。
なに言ってるの、この子は・・・と、ゲンの運動靴を見たら、靴底に十円玉大の大穴が開いている。
「ありゃぁ、見事に穴あいたねぇ。」
靴の中にはもともと厚めの中敷が入っているので、本人も穴が開くまで靴が磨り減っていることに気づかなかったらしい。
確かに毎日山道を元気に登下校する腕白盛りのゲン、靴の減りも早かろう。
でも、いまどき一足のくつを穴があくまで履きつぶす子供ってなぁ。
早めに気づいてやれなかった母のうっかりぶりにも反省。
なんだかちょっとかわいそうになっちゃって、「よっしゃ、さらっぴんの靴を買おう!」とゲンをつれて買い物に出た。

スーパーの靴売り場で最初に物色するのは「1000円均一」のワゴンの靴。
これが我が家の(特に男の子達)の定番になっている。
サイズやデザインが合えばお買い得。
なければ少しづつ値段のランクを上げる。
母が何も言わずとも、お安い方から気に入った靴を探すゲンは賢い。
2件の靴屋を行ったりきたりして、そこそこ気に入った靴を選んで、お支払い。
そんな安物の運動靴でも、おニューの靴のワクワクできるゲンは「子沢山」の子の資格十分。「かわいそう」なんて言わないで。
いっぱい歩いたね、いっぱい走ったね。
穴があくまで一足の靴を大事にはけて、よかったね。
そういってほめてやれるのが、今の幸せ。

ところで、同じ靴売り場でローラーつきシューズというのが安売りになっていた。田舎のスーパーでもワゴンセールになっているところを見ると、流行もそろそろ下火なのか。
スーパーとかで時々妙な動き方をする小学生を見かけて、「あ、あれね。」と思っていたけれど、それにしても、セールになっているとはいえ、結構お高いのね。
田舎の小さな町のゆえ、あのシューズで滑らかに滑れる場所といえば数件ある小さなスーパーのフロアか公共施設のささやかな廊下くらい。
そのスーパーでさえ、「危険防止のため、ローラーシューズでの滑走はご遠慮ください。」と書いてある。
いったいどこで遊ぶためのあのお値段なのだろう。
別にスーパーでぶつかられたとか、事故の現場に行き会ったというわけでもないので、私が怒ることでもないんだけど、「ご遠慮ください」という場所でしか使えない高価なおもちゃを買い与える親の心境ってどういうものなんだろう。

仮に「ローラーシューズを買って」といわれても、
「高いから駄目!」と、即答できる我が家はしあわせである。
子供がどうしても欲しいとねだるとき、買える余裕があるのに「我慢しなさい。」と納得させるのは、心情的にも難しい。
子供に大人顔負けの高価な衣類を買い与える。
子供が辟易するほどたくさんのお稽古事にお金をかける。
子供が少なければできてしまうかもしれない親の自己満足を、「そんなもの4人分も買えないわよ」と言い訳してきっぱりと避けることができるのは、
子沢山の幸せの一つだと私は思う。

一足1000円の靴でいい。
たくさん歩いて、たくさん走って、たくさんの人やたくさんのものに出会って欲しい。
元気のゲンちゃんの靴は22センチ。
母さんの靴のサイズを越すのもあと、ひとサイズかふたサイズ。
母さんが出会わなかったもの、経験しなかったことをたくさん見つけてくるといい。


2004年03月08日(月) なんで生んだの

昼間のドラマで、また子沢山の家族のドラマが始まっている。
どたばたとにぎやかで、ほのぼのおかしくて、決して嫌いではないのだけれど、毎回気になることがある。
それは歴代のシリーズでは必ずのように、子供達が子沢山であることを友達からからかわれたり、「何でこんなにいっぱい生んだのよ。」と親に絡んだりするエピソードが出てくることだ。

うちは子沢山といってもたった4人の子供達。
「ちょっと多目」の範疇だと自認しているが、それでもやっぱり世間的には子沢山といわれているらしい。
「兄弟がおおくて、にぎやかで良いですね。」
「たくさん育てて偉いわね。」
とほめてくださる方もあれば、「頑張ったな。」とか「百発百中」とか性的な意味を含んで冗談のネタにする人もいる。
よそンちのことはほっといてよと薄ら笑いで切り抜ける。
うちには4人の子供が必要だったの。
「うっかりできちゃった」子は一人もいないの。
それがなにか?と胸を張る。
お父ちゃんお母ちゃんは強くなった。

最近気になるのは、子育て世代の大人ではなく、結婚前の若い子や子供達から「何でそんなにいっぱい生んだん?」と問われるようになったこと。
先日アプコのお友達のKちゃんのお母さんが教えてくれた。
Kちゃんのお姉ちゃん達は高校生。何年もの年齢差で「出来ちゃった」Kちゃんの存在が最初は受け入れがたかったそうだ。
ちょうど性的な知識も増え、多感な盛りにお母さんが出産。
久しぶりの育児に翻弄されるお母さんの姿を見て、「子育てってなんだか大変そう」という印象が強かったのだろう。
「アプコちゃんのお母さんはなんであんなにいっぱい生んだんだろう。」
言外に「物好きな・・・」というニュアンスを含んだ正直なつぶやき。
「結婚も子育ても興味な〜い」と言い切ってしまえる若さが痛いけれど、「で、なんて答えたの?」と問われて、口ごもるKちゃんママもどこかで「物好きな・・・」って思っているのかもしれないなぁとちょっとへこむ。

友達から、「おまえんちのかあさん、何でいっぱい生んだんだよ。」と問われたとき、オニイやアユコはなんて答えているのだろう。
若い世代の子供達に「子育てはしんどい」「たくさん生むのは物好き。」がこんなに浸透している現代。
「子供なんか要らない。」「子沢山はかっこわるい」が主流になっても無理はないと思う。
確かに経済的にはしんどい。
物質的にも、精神的にも子供達に我慢させること、あきらめさせることは多いかもしれない。
「子育て支援」といいながら、ただ子供の数が多いというだけでは大して公の手助けがあるとは言いがたい。
何でわざわざそんな損の多い選択をするのか。
子供達の問いはそのまま世間の大人たちの問いでもある。

一昔前なら子沢山は「甲斐性」だった。
子供が生まれるということは一族が長く豊かに栄えるということの象徴だった。
子供をたくさん生める女はそれだけでできた母ちゃんとして胸を張れた。
子供達が未来の労働力として当たり前に期待され、幼いうちから家事を手伝い家業を学んだ。
家族の単位が小さくなり、仕事と家庭が別のものとして扱われるようになってから、子沢山はどんどん「物好き」として追いやられていくようになったのかも知れない。

妻として母としての私より、女として人間としての私を大切にするのが、正しい生き方として奉り上げるようになって、子育てにすべてをささげる女はおろかな罪悪のように言われることも多い。
でも、それで女は、妻は、母は本当に人間として豊かにあつかわれるようになったのだろうか。
「なんで子供うむの?」
そんな若い人たちの素朴な問いに、面と向かって即答できない現代は、本当に恵まれた時代なのだろうか。

なぜ、私が4児の母を選んだのか。
そのお話はまた今度。


2004年03月07日(日) 鼻歌歌って

玄関を出たら、ちょうどお隣のお風呂場の窓のところから、若い男の人の鼻歌が聞こえた。
お隣のお兄ちゃん、お風呂場のお掃除でもしてるのかな。
いまどきの若者らしく、道で出会ってもひょいと形だけアタマを下げて行き過ぎる無愛想なおにいちゃんだけれど、今朝はご機嫌なんだな。
なんだかこっちまでご機嫌よくなっちゃって、くすっと笑ってしまった。

幼い子供達とすごしていると、日々の生活の中で歌を歌うことが多くなる。
カラオケは大の苦手。
決して麗しい美声でもなく、音程もどこか怪しい歌だけれど、子供達は母の歌を楽しいおしゃべりのように愛してくれる。
子供達自身も、気分よく落書きをしているとき、
初めてのお手伝いでワクワクしているとき、
そしてお天気のよいあぜ道をピョコピョコとスキップするとき、
いつとも知れずでたらめな鼻歌がこぼれ出て、聴いているものを笑わせてくれる。
小さい子供達の生活は歌に満ちている。

結婚前、私は養護学校で数年間、講師の仕事をしたことがある。
「中等部」といいながら、新米講師の主なお仕事は幼児レベルの子供達の食事や排泄の世話、肢体不自由の子達の介助、激しいパニックを起こす自閉症
の子達との戦いだった。
見るもの聴くこと初めてのことばかり。
発語のない赤ちゃんのような中学生を相手に何を話していいのかすら見当もつかない。
とりあえず先輩の先生方を真似、機械のように押し寄せる雑用を一つ一つ片付ける。実際、それだけで精一杯。
うちに帰ると即座にバタンキューの日々だった。

少し仕事になれて、日常の介助や授業の手伝いがようやく板についてきたころ、私はぽっかり穴に落ちた。
今思えば「育児ノイローゼ」のようなものだったのだろうか。
子供達の成長は気が遠くなるほどゆっくりだ。
昨日「できたね!」と喜んだことが、今日はもう元に戻っている。
同じ失敗を何度も何度も繰り返して屈託がない。
靴を履かせる、ぬれたパンツを替える、こぼしたミルクを片付ける。
初めて担当したSちゃんは言葉を話すことができない。
毎日一緒にすごしているのに、彼女の言いたいことや喜怒哀楽がいまいち理解できない。
イライラに任せて子供達を気まぐれに叱ってしまう。
「何やってるんだろう、私・・・」
ちょうど5月病の季節だった。

「そんなときはとりあえず歌を歌いなさい。」
いつも同じチームで子供達と接していた年配の先生が教えてくださった。
自分のイライラを子供達にぶつけてしまいそうなとき、
何を話して良いかわからなくなってしまったとき、
自分の心が子供達から離れたがっているとき、
とりあえず手当たり次第に歌を歌う。
子供の好きな童謡でもいい。うろ覚えの英語の歌でもいい。
耳について離れないコマーシャルソングでもいいから歌って御覧なさい。
「歌いながら怒っている人はいないでしょ。」
当時、もう定年間近だった穏やかなO先生はニコニコ笑いながら、私の肩をたたいた。。

不思議なことに、私がイライラしたりモヤモヤしたりしていると、その気持ちは必ず子供達に伝染する。
心も体も疲れ果てて、ついつい毒のある言葉を子供達に吐いてしまいそうになったとき、私は試しに「ぞうさん」の歌を歌ってみた。
馬鹿馬鹿しいほどのんびりした単純な歌。
でも効果はてきめんだった。
そばにいた子供達がいつの間にか一緒になって歌ってくれた。
「何を思っているのいるのか理解できない」と感じていたSちゃんが、私に体を摺り寄せてひゃあひゃあと声を上げた。
そして、きんきんと苛立っていた私の気持ちもいつか穏やかにほぐれていった。
歌の力はすごい。
O先生の下さったアドバイスは、その後の教師生活や私自身の子育ての日々に欠くことのできない金の言葉となった。

今でも幼いアプコと歩くとき、二人で一緒にたくさんの歌を歌う。
園で習ったうろ覚えの歌をアプコは楽しそうに私に教えてくれる。
お日様のもとで人目も気にせず声を出して歌を歌うことができるのは、
幼い子供と手をつないで歩く今だけのこと。
調子はずれはご愛嬌。
歌詞のわからないところは適当に作詞して歌ってしまう。
歌にあわせて自然にスキップになってしまうアプコは、まだまだ歌の魔力の術のうち。
外目には、「歌の好きな陽気なお母さん」
でもその内面には、とどめようのないイライラやグダグダが封印されているかもしれない。
ご注意を。

最近、「日々の子育てが辛い、子供にイライラをぶつけてしまう」というメッセージをいただいた。
「わかる、わかる」とうなづいて差し上げるのは簡単なことだ。
でも「こんな風になさい」と具体的なアドバイスを差し上げるのは難しい。
私自身がまだまだイライラ、ウジウジの真っ最中だから。
「とりあえず歌を歌って御覧なさい」
私がO先生からいただいた金の言葉をあなたにもお伝えする。
だまされたと思って、大きな声で歌って御覧なさい。
あなたが吐きそうになった毒の言葉は、穏やかなメロディーに変わるかもしれない。
育児は長い長い登山のようなもの。
しんどいときもあっていいよ。
鼻歌歌って、切り抜けようよ。
きっと明日はいいことあるから。


2004年03月06日(土) 神隠し

オニイがお父さんと出かけて、アプコもおばあちゃんちへ遊びに行ってしまった。ぽっかりとあいた土曜日の午後。
朝から風が強くて、日差しが暖かかったり急に大粒の雪がふってきたりして、変なお天気。
テレビを見てグダグダするのにも飽きて、ゲンとアユコが「山へ行ってきてもいい?」と立ち上がった。
「う〜ん、でも変なお天気だよ。」
PCの画面をにらみつつ、頼りない返事をしていたら、「アスレティックのところまで言ったらすぐに帰ってくるからいいよね。」と二人はぴゅーっと出かけていってしまった。

我が家はハイキングコースの入り口にあり、子供達の好きなアスレティックまでは往復しても子供の足なら小一時間。
幼い時から何度も通ったことのある一本道。やんちゃなゲンにとっては我が家の庭のようななじみの道だ。
ま、すぐ帰ってくるだろうからいいかと思っていたら、しばらくして俄かに空が暗くなり、また大粒の雪が舞い始めた。
「わ!吹雪じゃん!」
見ると子供達は明るい日差しに誘われて上着も持たずに出かけていったらしい。
空の暗さに不安になってばたばたと迎えに出る。
大粒の雪の中、急な階段を上り人気のない雑木の間の道を急いで上った。
ほんの数百メートルの山道だというのに急いで上るとすぐに息が上がる。
これほどの天候だから子供達もすぐに引き返してきているはずと思いながら、なかなかその姿も見えないので、ついつい足取りも速くなる。

「遭難」とか「転落」とか「誘拐」とか
不吉な言葉がアタマに浮かんだとき、行く手に二人の子供の姿が見えた。
「あれれ?」という顔のアユとゲン。
ほっとするのと、自分の取り越し苦労が馬鹿らしいのとで、二人にそれぞれ上着をぽいと投げ渡し、くるりとUターンしてもと来た道を下りはじめた。
「ごめんなさい。」
心配を掛けたと気づいたアユコがぺこりとアタマを下げる。
「えらい山登りをする羽目になったわ。」と冗談めかして言ったら、
「いい運動になったでしょ。」とアユコ。
そういいながら、やっぱり「しまった、言い過ぎた」と気づいたアユコはもう一度「ごめんなさい。」

「暗くなってきて怖くなかったの?ほかにあまり人もいなかったでしょう。」
しばらく歩いてから子供達に聞く。
「あのな、途中で、天狗が出てきそうなところがあってな・・・」
ゲンが帰り道の不安な気持ちをそっと教えてくれた。
「神隠しみたいな感じでな、ホントいうとちょっと怖かった。」
そうだねぇ。
うちからほんの少し離れただけのなじみの山道。
そんなことある訳ないけど、なんだか怖かったよね。
二人分の上着を抱えて、必死で山道を登った数分間、お母さんもちょっと怖かった。

下りの道を数分歩くと、急に雪の雲が切れ、うそのように明るい日差しが戻ってきた。結局、私達親子を不安にさせた吹雪のような悪天候はほんの数十分の気まぐれな嵐だったようだ。
「な〜んだ、馬鹿みたい。うちの鍵も開けっ放しで出てきちゃたよ。」
と玄関のドアを開けたら、ぽつんと一人ぼっちのアプコがいた。
私が迎えに出ている間に一人でおばあちゃんちから帰ってきていたようだ。
ほんの数分のことだけれど、誰もいないうちに一人でぽつんと帰ってきて、
「おかしいなぁ」と心細くなっていたらしい。
「誰もいなくなっちゃったかと思ったよぉ」
「あらら、ごめんごめん。」
突っ立っているアプコの前にひざを突いたら、それまで泣いていなかったアプコがわぁーっと泣き出した。

「誰もいなくなっちゃったかと思ったよ。」
私達のうちの近くの3つの場所で、私やアプコやアユコとゲンがそれぞれ感じた不安はみんな一緒。
いつも当たり前にそばにいるはずの大事な人が、ふっといなくなっちゃったらどうしようという漠然とした不安。
「神隠し」とゲンがいったあの不思議な怖さを4人が同じ時間に別々の場所で感じていたということがなぜか嬉しく暖かい。
わぁわぁ泣いているアプコを抱き上げてなだめながら、
「大丈夫、どこへも行かないよ。」
と慰める言葉は私とアユコとゲン、そしてアプコがお互いに確認する安心の言葉。
大事な家族が暖かい家の中で、一緒に外の風の音を聞く。
悪くないなぁ。
今日は格別子供達がかわいい。


2004年03月05日(金) 子ども会の仕事

一年間つとめてきた子ども会の役員の引継ぎの集まりに出てきた。
4月のお楽しみ会に始まり、夏祭り、秋祭り、クリスマス会やら各種のスポーツ大会。
その企画や運営に奔走してきた15年度の役員もようやく大任を終えて次年度の役員さんたちにバトンを渡す。
去年「えらい役が回ってきたらどうしよう」と不安な面持ちで役職きめのくじを引いた16人が、一年の活動を終え仲のよい、スポーツチームのように互いの労をねぎらい、握手をして解散する。
とてもとても大変なお役目ではあったけれど、地域のこと、学校のこと、子供達のことなど本当にいろんな経験をさせてもらった。

わが地区では「ここの子ども会の役を経験したら、学校のPTAだろうが自治会の役だろうが、なんだって平気になる。」といわれるほど、子ども会役員の負担は大きい。
しかも子供の人数が減ってきている現在では、一家庭に一度は必ず子ども会の役が回ってくることになっている。
仕事を持つお母さんや幼児や年配者を抱えたおうちなど、役員を出すことがむずかしい家も多くて、役員選びにはどの地区も苦労する。
それでも「子ども会なんていらない」という声が上がらずに存続しているのは、学校や地域ぐるみで子供達に楽しい経験をさせてやろう助けてくださる空気があるからだろうと思う。

昔からの古いおうちの年配の方達が、子供達に伝統の祭囃子を教え、消防団のおっちゃんたちがお祭りの夜店で格安の焼きそばを子供達に振舞ってくださる。学校の授業でも地域の方々が教室を訪れ、農業の技や昔の遊び、専門の技術や地域の昔話を子供達に語る。
そんな風にして子供達は地域の大人達に見守られて大きくなっていく。
「社会全体で子育てをささえる。」
というような大仰なものではない。
ムラのこどもたちをたのしませてやりたいという長老達の素朴な手助けがあることを、私はこの一年の経験から改めて感じることができた。

「稽古事で忙しいから、子ども会には入りません。」
「ムラのしがらみに絡まっちゃうのがいやなのよ。」
と、子ども会入会を嫌がる人もたまにいる。
「お祭りには参加したいけど、役員はねぇ・・・。」
と、退会を申し出る人もいる。
子育てをめぐって周囲の人の協力が得られない、学校や家庭に次代を育てる責務が偏りすぎているといわれることも多いけれど、
社会からさしのべられる支援の手に対して、家庭の方からその戸口を閉ざして孤立した育児に追い込まれていくことも多いのではないかと思う。
「お祭りも、クリスマス会も、うちで別に経験させるからいいのよ。」
「仕事が忙しいし、よその子達のために役員をする余裕はないわ。」
子供が社会と関わっていく経験を、地域や学校と離れたところで「個人単位」でまかなってしまうほうが楽だという風潮。
これは子育て現役世代が少なからず抱えている悪しき「個人主義」の産物だなぁと思う。

「めちゃくちゃ、しんどかったけど楽しかったねぇ。」
一年間の活動を終えて、自分達の住む地域に15人の友達ができた。
うちの子のため、うちの家族のためではない奉仕の一年が与えてくれたもの。
おそらくはずっとこの町で生きていく私に、与えられた褒美は大きいと思う。


2004年03月02日(火) プロの厳しさ

この間の日曜日のこと。
子供達を父さんのワゴンに詰め込んで、
本屋やらディスカウントスーパーやらを気まぐれにめぐる怠惰な休日をすごす。
スタートが中途半端な時間にずれ込んだので、久しぶりにチープなファミレスでお昼ご飯。それぞれに好みのメニューを選んで、満足げにモリモリ食べる子供達。
子供の数が多くなって、「外食でもするか」というとファミレスやファーストフード店での食事がメインとなった我が家だが、それでもそこそこ興奮して「おいしいね。」と充足して楽しめるのは「みんなで一緒」の効用だろうか。
ちゃんとしたお店での特別の一皿を味わう経験もそろそろ必要な年齢にさしかかる子もいるとは思うが、我が家の経済状態を考慮すると「一緒がご馳走」で満ち足りてくれる今の幸せ。

ご機嫌よく食事を終えた父さんのお皿のすみに一片の食べ残し。
いつもきれいに食べ残しを作らない父さんが珍しいなと思ったら、食べ残しではなくて、小さなビニルのかけらだった。
「きっとレトルトかなんかの切れ端ねぇ。いやぁね。」
どうする?とちょっと顔を見合わせてから、やっぱりねとお店の人を呼ぶ。
「こんなものが入ってたんだけど。」
と店長らしき人に言ったら、「あ、何かの包材の一部ですね、申し訳ありません。」とあっさり言って、お皿を下げた。
「あらま、あっさりしたものね。」
と、首を傾げていたら再び店長さん登場。
「大変失礼しました。この商品の分はお代は結構ですから・・・。」
と、伝票になにかささっと書き加えてくれた。
「そうですね。」
数百円のことながら、「悪いな」と言うような、「ちょっと得をした」というような、「当然よ」というような。
とりあえず皆おなかいっぱいでご機嫌よく食事を終えたので、よしよしということで店を出る。

その一部始終を一言も口を挟まず見ていた子供達。
車に戻ってオニイが訊いた。
「なんかわるいみたいだなぁ。せっかく作った料理をタダにしちゃっていいのかなぁ。料理していた人はきっと叱られるんだろうね。」
「そうだろうねぇ。」
「このことでクビになったりしない?」
心優しいオニイはそんなことを気にしていたのだなぁ。
「こんなことで、クビにはならないよ。
でもね、他人様にお金をもらって食べ物を提供するということは厳しい仕事だからね、ああいう失敗はちゃんと注意してあげないといけないんだよ。」
「ふうん。」
いまいち納得のいかないらしいオニイにプロの仕事の厳しさを説く。
「もしお客さんに渡った商品に不具合があったら、そのお客さんにとってはその店の印象は『いやな思いをした店』のままいつまでも残る。『あそこは駄目よ』と何かの折に誰かに語る。そういう評判というのは仕事をする上ではとっても大事な事なのよ。」

「たとえば父さんの仕事にしても、不満足な作品を外へ出したらそれは直ちに『プロの仕事』を恥じることになる。それを梱包して発送する人にとっても、いい加減な荷造りをして事故があれば評判を落とす。仕事をするということは本来そんな厳しいものなのよ。」
たとえ、パートやアルバイトの調理人であったとしても、そういう失敗はしっかり叱られて二度と繰り返さないようにしなければならない。そういう当たり前の大事なことを、今のオニイにもしっかり伝えておきたいと思う。

そういえば、オニイはいまだに旧雪印ブランドの牛乳を飲まない。
特売大好きな私もなんとなくあの会社の牛乳はかたくなに避ける。
新しくなったあのブランドに「信用が置けない」というわけではなく、
プロにあるまじき背徳行為を人はそう簡単にチャラにしてくれはしないということを、いつか何がしかの「プロ」に成長していく子供達の心に刻み付けておくために・・・。

「でも、スパゲッティーはうまかった。」
確かにそこそこおいしいお子様ご飯に、子供達への職業教育、そして、私の貴重なHPネタを提供していただいて、全体としては大変リーズナブルなお食事をさせていただいた。
ところで、この日、オニイが学んだ「プロの条件」を、どこぞの養鶏業者のおじさんにもぜひとも学んでいただきたい。
食を支える仕事にこそ、自分に厳しいプロ意識をしっかり持ってもらいたいと心から願う。


2004年03月01日(月) 母の愛父の愛

実家の母と一緒に先日初めての赤ちゃんを出産した義妹のTちゃんのお見舞いに出かけた。
その実、お見舞いにかこつけて、午前中は二人で繁華街に出て買い物を楽しみ、のんびりお昼ごはん。
調子よく私の衣類などをねだって、久しぶりに母の娘として甘えさせてもらって、うれしい。

デパートの地下で、ささやかなお見舞いのお菓子を買って、病院に向かう。
つい数日前に母は父と一緒にこの病院を訪れていたので、道案内は母のお任せとのこのこついていくのだが、なんとなく母の方向感覚は頼りない。
遠くに目印の看板を見つけ見当をつけて歩いていくのだが、「こんな道、とおったかしらん。」と時々首をかしげる。
あはは、何度通っても道を覚えない私の方向音痴は、この人譲りだ。
適当な見当で大雑把に最短距離の道を選ぶ父。
遠くに目的地が見えていても途中の些細な目印に惑わされて、つい遠回りをする母。
私の方向音痴は明らかに母譲り。

病室の仕切りのカーテンの向こうで懐かしい新生児の元気な泣き声。
「元気に泣いてるね、Tちゃん。」
初お目見えの姪っ子はママの母乳を飲んだばかり。
まだ、お乳の張らないTちゃんのおっぱいだけでは足りなくて、自分の指をちゅうちゅう吸っては大きな声で泣く。
「いくら飲んでも足りなくて、病院中で一番飲みっぷりが良いんです。」
初々しい手つきで小さな赤ちゃんを抱き上げ、追加のミルクをオーダーするTちゃんもとてもとても元気そうで母になった喜びにあふれている。
「この子は飲んでるときにとっても幸せそうな顔をするんです。」
ちょこちょこ声をかけながら哺乳瓶のミルクを飲ませる手つきもすっかりお母さんらしくなって、頼もしい。
いいお母さんになりそうだな。
今の赤ちゃんの幸せそうな顔、しっかり頭の中に刻んでおいてね。
これからの長く続く育児という道のりに、乳を吸う赤ちゃんの満ち足りた表情はきっと戦うお母さんの杖になってくれる。

「退院したら、とりあえずしょっちゅうおっぱいをあげていれば良いよ。たくさん吸ってくれたらおっぱいもいっぱい出るようになるし、おなかがいっぱいになったら寝てくれるよ。」
4児の母はさっそく大雑把育児を指南して、新米ママをぐうたら母の道へといざなう。
「そういえば、あんたは赤ん坊が小さいとき一日中おっぱいをくわえさせていたねぇ。」
私の上の子たちの産褥のとき、実家で面倒を見てくれた母が笑う。
「あんたは娘時代から寝付くとなかなか起きない娘だったから、夜の赤ちゃんの世話ができるのかと心配したけれど、よく、赤ちゃんに添い寝しておっぱいをくわえさせていたっけね。」
「そうそう、『赤ちゃんを踏み潰さんように』とよく言われたけど、4人育てて一人も踏み潰した子はいないよ。」
当たり前じゃ、眠くても母だ。潰しゃしない。

「ひいおばあちゃんの法事の時には何とか赤ちゃんを連れて、加古川へ行きたいんですけど。」
弟夫婦は2週間後の法事に参加したいとお産の前から言っていて、今日もかなり本気で検討しているらしい。
「まだまだ生後一ヶ月もたっていない赤ちゃんを連れて、無理しないほうが良いよ。病院では赤ちゃんの面倒だけ見ていれば良いけど、おうちに帰ったら、きっと大変だよ。大荷物こしらえて、加古川までの小旅行する余裕なんてきっとなくなっちゃうよ。」
母と二人で、こちらもかなり本気で説得する。
新米パパママには、赤ちゃんと一緒の生活の大変さの実感はまだない。

おっぱいあげて、げっぷをさせて、オムツを替えて寝かせたら、すぐにまた次の授乳の時間。
「最初の一月はとにかく赤ちゃん中心。この人はお風呂も自分で用意していれていたから、なかなか大変だったと思うよ。」
上の3人の子供達の最初の一ヶ月の育児を助けてくれた母は、赤ちゃんとの生活の大変さを自分の出産の時の記憶ではなく、10年近く前の私の育児の姿を通して語る。
結婚して、父母のもとから巣立って、すっかりひとり立ちしたつもりで子供達を育ててきた私だけれど、本当はこんなに暖かい父母の見守りの中で子育ての急坂を何とか越えさせていただいて来たのだなぁと改めて思う。
父母にとってはいつまでも私は目の離せない子供の一人で、今もまだ暖かい見守りの中に私はいるのだと感じて幸福になった。

帰り道、乗り換え駅のコインロッカーで母がうんとこ運んでくれたお土産の包みを受け取る。
父が近くの王将のセールでわざわざ買ってきてくれたという餃子とラーメン。大量の餃子はいったん冷凍にして、どっしり紙袋に詰めて持たせてくれた。
久しぶりの外出から帰って、おなかをすかせた子供達を待たせての夕餉のしたくは大変だろうと思い図って下さったか。
果たして、子供達の旺盛な食欲はホットプレートで一度に焼いた大量の餃子をあっという間に次々平らげていく。
「お母さん、この餃子、うまいなぁ。」
感激したオニイがさっそく加古川のおじいちゃんにお礼の電話をかける。
「うまいはずだよ。愛だモン。」
Tちゃんの 赤ちゃんが改めて気づかせてくれた両親の暖かい心。
感謝。
感謝。


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