月の輪通信 日々の想い
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2004年01月30日(金) 嫌な感じ

学級閉鎖でへらへらしているオニイが、レトルトスパゲッティをこしらえてくれて、父さんと3人の昼ご飯。
一緒に昼のワイドショーをぼーっと見る。
久々に平和なのんびりランチタイム。
ああ、ほっこり。

「月10万円の快適暮らし」
ワイドショーの特集のタイトル。
雑誌編集者と銀座のOLが結婚。
釣り好きの夫は趣味が高じて、「漁師になりたい」とどこやらの島に移住。
月8000円の家を借り、地元で取れる魚やご近所で分けていただく野菜で食費は最小限。
かわいい子どもも二人も生まれた。
島の人たちは、いい人ばかり。
こんなにお金を使わず豊かな暮らし。
どうです、あなたも田舎暮らししてみませんか。

自然豊かな環境のなかで自給自足、野山を駆け回る子ども達。
そういう、田舎暮らしの番組って、嫌いじゃない。
物にあふれた現代。
本当に必要な物だけを自然から頂き、本来あるべき人の暮らしに立ち戻る。
心豊かな暮らしだなぁ。
子ども達を育てるのにもきっと素敵な所だろうなぁとため息をつく。

でも、今日のワイドショーのご夫婦の生活。
なんかちょっと違う。
おとうさんは釣り好きだから、一日釣果がなくてもへこまない。
漁師の親方に、「もらっていきます」と魚を一籠、分けていただく。
子ども達を連れて、近所の畑へ・・・
「お言葉に甘えて頂きに来ました。」と立派な大根を抜かせていただく。
家族の食料のかなりの部分を、ご近所からの頂き物でまかなう。
家計簿を見ると、お父さんの酒代が家賃よりも高い。
「ほら、田舎暮らしはこんなに経済的。暖かい島の人たちに囲まれて、子どもも大らかに育っています。」

ううん、いい話だけど、なんか後味悪いのは何故?
「この人達、何で収入を得てるんだろ?」
「なんか、もらうばっかりで、ちっとも還元してない人たちだねぇ・・・」
父さんやオニイとTVにつっこむ。
都会から「田舎暮らしがしたい」と飛び込んできた家族を「ま、ようきたね。」と魚や野菜を分け与え、子ども達の成長を一緒に見守る。
そんな度量が、確かに島の人たちにはあるのだろう。
でも、この「テイクアンドテイク」の関係、なんだか気持ち悪い。
都会からやって生きた若い夫婦が、新鮮な魚やお野菜の対価として、島の人たちに還元できる物はないのだろうか。
島の人たちの大らかな生活力にパラサイトしている都会人。
そんな気がして気持ち悪いのは、「対価交換」の物質文明に毒された私の心持ちの狭量さのせいなのだろうか。

番組の取り上げ方にも問題があるのだろう。
「田舎暮らしはこんなにお金がかからないよ。」
田舎暮らしの快適さをいちいち貨幣の価値ではかる。
その上で、「自然のなかで育つ子どもって、たくましくっていいですよね。」とお決まりのコメント。
見慣れたコメンテーター達の物欲しげなため息も鬱陶しくて、
なんだかいやぁな感じが残った。

自然のふところは深い。
もしかしたらそんな細かいことにこだわらなくても、人はやすやすと豊かに生かせていただけるのかもしれない。
けれども、その自然の恵みをありがたく頂く感謝の気持ち。
それは、都会の当たり前の日常の中にもきっとあるもの。
薄っぺらな田舎暮らしに憧れるのはもうやめよう。
田舎でもない、都会でもない、中途半端な町に住む主婦のつぶやき。
これが今の私の暮らし。


2004年01月29日(木) お茶わんの宇宙

本日、娘の通う小学校の陶芸教室本焼きの日。
小学校のすぐ近くにある市の施設の陶芸窯に、窯番で行ったり来たり。
夕方、6時頃最後の窯の火を落とす。
後はじっくり冷めるのを待ち、月曜の朝、子ども達と一緒に窯出しの予定。


  私小5年生の皆さんへ

夕方の6時頃、本焼きの窯の火を落としました。
たくさんのお父さんお母さん達が、寒いなか、窯の番に来て下さり、
大事に見守って下さるなかで、皆さんの作品は最後の仕上げの工程を終えることが出来ました。
11月末の工房の見学から始まって、成形2日、素焼き1日、釉薬かけ1日、そして今日の本焼きが1日。
冬休みをはさんで、一月あまり。
お抹茶茶碗を作るというのは、本当に長い時間のかかる作業だということが、
きっと実感してもらえたことと思います。

一個の茶わんの中には、宇宙がある。
あるお茶人さんがおっしゃるのを聞いたことがあります。
手の中に収まる小さなお茶わんの中に広大な宇宙。
皆さんの作ったお茶わんの中にはどんな宇宙が存在するのでしょうか。
皆さんが苦心して作った形。
手を真っ赤にして掛けた釉薬の色。
そして、1200度の高温の炎が生み出す飴色の輝き。
一個の茶わんに込められた皆さんの想い。
それがきっと広大な「宇宙」の入り口ですね。

でも、皆さんの茶わんに込められているのは、それだけではないですよ。
授業の予定を組み、ご準備下さった先生方。
寒いなか窯の番をして下さったお父さんお母さん。
窯の調子を気にしてしょっちゅう覗いてくださったレクレーション施設の職員さん。
「できあがった作品を手にして、喜ぶ子ども達の顔が見たい。」
と、暖かく見守って下さったたくさんの人達。
きっと窯の中の作品には、そんな人たちの思いも伝わっているに違いありません。

それから、もっともっと。
皆さんが使った粘土、釉薬。
ろくろやカンナ、カッキリ等の道具類。
1200度の高温に耐える大きな陶芸窯。
みんなみんなどこかの誰かが作って下さった物。
長い歴史のなかで改良されてきた釉薬。
古くから伝えられ、受け継がれてきた陶芸の技法。
いろいろな人の研究の成果や、地道な作業の繰り返しから生まれた技術もまた、皆さんのお茶わんには確かに注がれています。

できあがったお茶わんで、お抹茶を点てる。
美味しいお茶を飲んでいただきたい。
そんな心を込めてお客様の前に出される一碗のお茶には、
「この人のために」という暖かいもてなしの気持ちが込められます。
この気持ちもまた、一個のお茶わんがもつ「宇宙」のひとかけらです。

「壊さないように注意して!しっかり持って!落とさないようにね。」
作業の間中、先生方が何度もみんなにおっしゃいましたね。
皆さんが作った一個のお茶わん。
それは確かに皆さん自身の物ですが、本当はその中には皆さん以外のたくさん人の技や想いが一杯詰まっているのです。
だから一個のお茶わんを大事に扱う。
それが「伝統を学ぶ」と言うことの第一歩なのだと思います。

月曜日の窯だし、楽しみですね。
世界でたった一つのあなただけの宇宙。
大事に大事に、使って下さい。


2004年01月28日(水) 買い物の癖

アプコの幼稚園の参観。
今日は幼稚園全体で大がかりな買い物ごっこ。
各クラス一店ずつお店を作り、画用紙や色紙で作った商品を紙のお金で商う。
この園では古くから毎年恒例の行事で、当日は保護者の自由参観。

今年のアプコのクラスは「屋台やさん」
アプコの大好きなたこ焼きやお好み焼き、焼きそば、たこせんを売る。
色画用紙で子ども達がこしらえた商品はなかなかリアルな造りで、ユーモラス。
ポリ袋でこしらえたドレスや、卵パックやプリンパックで作ったお菓子やアイスクリーム、紙製のおもちゃやゲームセンターまであって、とても楽しい。
何日も前から、この日を楽しみに準備に参加してきたアプコ、
「おかあさん、絶対見に来てよ。」
と大興奮で園バスに乗った。

私が買い物ごっこを参観するのは実に9回目。
幼いオニイの後について、4歳児の気ままなお買い物につきあったのは遙か10年前のこと。
毎年恒例の園行事にはいい加減飽き飽きしてきた古株保護者の私だけれど、この買い物参観にはちょっと楽しみな部分がある。
それは、この行事での買い物ぶりが、それから先の子ども達の買い物の癖というのかな、欲しい物の手に入れ方のパターンをかなり正確に予言してくれるから。

5枚の紙のお金を持ち、時間内に自分の好きなお店をまわり、欲しい物を買って帰ってくる。
それだけの事なんだけれど、その買い物の仕方は本当にバラエティ豊か。
迷いに迷って時間内にお金を使い切れない子。
最初のお店でお金を全部使ってしまって、あとで悔しがる子。
事前にリサーチして、目的の買い物をさっさと済ませ、涼しい顔の子。
おっとりしてる子が案外てきぱきと欲しい物を確実にゲットしていたり、「お金、落としたぁ!」とベソを掻く子がいたり・・・。
子ども達のその後をリサーチしてみると、そんなバラエティ豊かな買い物の癖は子ども達が小学校に上がる頃になっても、なんとなくその片鱗が残っている。

安全確実なアユコ。
どこか危なっかしく、目が離せないオニイ。
欲しい物はさっさと手に入れ、こだわりのないゲン。
そして、あれこれ迷いながらも確実に欲しい物だけを手に入れるアプコ。
日頃の生活そのものの買い物の癖。
もしかしたら、これって、一生ついて回る個性なのかもしれない。
おもしろいなぁ。
おんなじように育てて、おんなじ物をあたえて育ててきたつもりの4人の子ども達。
買い物一つをとっても、こんなに違う。
だからこそ、かわいい。
だからこそ、子育ては面白い。

今年、アプコが買った物はポリ袋のドレス、キティちゃんのお面、プリンカップのけん玉、ストローの腕輪、そして卵パックの三色だんご。
買い物の終わった教室の隅で、女の子達が集まってプリンやお煎餅でティータイムしてる。
ピンクのアイスをぺろぺろしているうっとりした笑顔。
5歳児にとっては紙製のアイスもきっと冷たくて甘いんだな。
なんだかとってもかわいくて、
心のシャッターを何度も何度も押した。


2004年01月27日(火) 家電の寿命

結婚十年を過ぎると、電化製品が次々壊れ始めると言う。
家電の耐用年数がそのくらいに設定されているのか、本当に十年目当たりから電化製品が次々に昇天していく。
数年前の洗濯機に始まり、掃除機、冷蔵庫、コーヒーメーカー・・・・と来て、遂に最終段階。
オーブンレンジの番が来たようだ。

まず、庫内のライトがつかなくなり、生もの解凍ボタンが効かなくなり、オーブン機能が使えなくなり、ついには軽いお皿だとレンジも使えなくなり、うやうやしく2重にお皿を重ねてチンするようになっていた。
冷やご飯の温め、アプコのお弁当の冷凍食品、夕食の下ごしらえ、夜中に飲むホットミルクと、朝から晩までかなりの頻度で利用する電子レンジ。
我が家最古参の家電として、ぎりぎりまで頑張ってくれたけれど、作動中に庫内の隅っこにちらちら火花らしい物が見え始めるようになり、涙の引退と言うことになった。

新しいレンジが届いて、さっそく扉を開ける。
何と、ターンテーブルがない。
長方形の大きなグラタン皿も温め直しに使えるわと選んで買った物だけど、
な〜んだか物足りない。
つるっとした庫内が素っ気なくて、「ここにお皿置いてもいいの?」とちょっととまどう。
スイッチを押しても、当然、お皿はでんと居座ったままで、回らない。
「レンジで、チンして・・・」と言うのもすでに死語になって久しいが、「レンジ、まわして・・・」とも言えなくなってしまったのだなぁ。

「新しいオーブンレンジ、御祝いに何、作る?」
アユコは数日前から新しいレンジの到着を楽しみに待っていた。
「うちはオーブンが壊れてるからね。」
とケーキやクッキー、パンなどのお菓子作りを敬遠してきた我が家。
お料理好きのアユコは、きっと新しいオーブンレンジの使い方に夢中になるだろう。
「とりあえず、大判のピザを買ってきたよ。」
これまでは小さなトースターで焼いていた市販のピザ。
今度は切らずにまるまる一枚焼ける筈。
ついでにピザカッターも買っちゃおうかな。

ところで、おニューのレンジのかわりに引き取っていただいた我が家のレンジ。
結婚前、父さんと二人、わざわざ遠くの家電店まで出かけて買いそろえてきた花嫁道具の最後の一点になる。
子ども達の離乳食やら、夜遅く帰ってくる父さんの夕食の温め直しとか、家族の歴史をいつも温めてきてくれた愛着の家電。
新しいレンジが入ってきた箱に無造作に入れられて、運ばれていくのを見送りながら、ほんの少し感傷的になった。

結婚十年目からの家電総入れ替え。
新婚家庭に子ども達が生まれ、家族の形が大きく変化する10年の年月。
炊飯器は一升炊きに変わり、冷蔵庫、洗濯機の容量はぐんと大型に買い換えた。
子ども達が夜食やおやつを自分で温めるようになり、母は家事の手抜きの技を極め始めた。
家電製品の更新に伴い、主婦の家事のやり方や家族の役割分担が大きく変化していく区切りの時期に重なっているのかもしれない。

そういえば「家族の関係が壊れ始めると、家電製品がつぎつぎダメになる。」という話も聞いたことがある。
我が家では幸い家族崩壊の危機はないとは思うけれど、それでも家中のあちこちで、立て続けに電球が切れる事がある。
トイレの電球、お風呂の電球、玄関の外灯、台所の蛍光灯。
ありゃりゃ、大変!と父さんが慌てて替えてくれるけれど、何故だか、一つ切れると数日後には別の場所で電球が切れる。
家族の誰かが体調を崩している時、重たい懸案事項がどよ〜んと心の隅に引っかかっている時、決まってどこかの電球が切れる。
なんでかなぁ。
家族の誰かから、強い強い負ののエネルギーが放出されているのかもしれないなぁといつも思う。
クルクルと新しい電球を装着し「あ、明るい。」と見上げるとき、「元気だそ・・・」と誰かがささやく。
家電の寿命には、そんな不思議なタイミングがある。

「さて、新しいレンジで何作ろう。」
久しぶりにお料理の本を眺めて、新しいメニューを探す。
いつもの家事にほんの少し新鮮な風が通る。
なんだか嬉しくて、あったかい。


2004年01月24日(土) 愛していると言ってくれ

朝、唐突にオニイが聞いた。
「おかあさん、何か宝物、持ってる?」
「子ども」って即答してから、意地悪くきいてみた。
「・・・って、答えたら、嬉しい?」
「うん、まあな。宝石とか言われたら虚しいモンな。」

「あほらし・・・」と一蹴されるかと思ったら、
オニイの答はあまりにも直球だったので、拍子抜けしてしまった。
母の「愛してる」を真正面で受け止めて「嬉しい」と言えるオニイはまだまだ幼い。
だから母はまだまだ幸せである。

そもそも、なんで
「おかあさんの宝物は?」
なんて聞いたのだろう。
ようやく母の視線を見下ろすようになった13才のオニイ。
まだまだ「愛してる」が要りますか。
子どもだねぇ。


2004年01月23日(金) 働くおじさん

寒い。
家の中にいても冷蔵庫の中みたい。
山の谷あいにある我が家は日照時間が短く、風が強い。
コタツから出られない、ストーブから離れられない、家のなかでもコートが脱げない。
いったい何、この寒さは?

朝、子ども達が起きてくる時間が確実に遅くなる。
うううっ、寒いよ、やだな、外へ出るの・・・。
風の強い日陰の道を毎日駆け下って登校する子ども達。
「アユコ、重ね履きのパンツ、履いていきな。オニイ、手袋持ったか?ゲン、今日こそは上着着ていってな。アプコ、今日はタイツ履く?」
いつも薄着の子ども達に一枚でも余分に着せようとする母。
「やだな、今日、運動場での体育だ。」
「僕だって、体育館の体育!日が当たらないから体育館の方が寒いんだよ。」
「アタシ、毎日マラソンがあるよ。寒いんだよ。」
それぞれが今日の寒さ自慢。
はいはい、判った。みんな頑張ってるね。

「うわっ!お湯が出ない。」
外付けの給湯器の配管が凍ったらしい。
おろおろ騒いでいたら、父さんがやかんにお湯を沸かし、外の給湯器の管を温めてお湯が出るようにしてくれた。
ありがとね。
寒いから外へ出るの、いやだなと思ってたら、父さんがさっさとやってくれて、なんかとっても嬉しかった。

「うわっ!ロッキーさんの水ががちがちに凍ってる。」
外の犬小屋で冬を越す我が家の愛犬ロッキーくん、さぞかし夜は寒かろう。
「犬って、えらいモンだなぁ。人間だったら凍死しちゃうよな。」
しっぽを振って散歩をねだるロッキーさんにドッグフード大盛りのおまけ。
せいぜい腹一杯にしてこの寒さを乗り切ってくれ。

数日前から我が家の周辺の水道管の工事をやっている。
うちの前の道は細い一本道で迂回路もないので、大きな工事をするたび、車両通行止めになる。
それでも近所の人たちにとって、この道は一本きりの生命線。
車を止められると、たちまち陸の孤島になってしまう。
だから「車が通れない」と言われると過剰なほどに権利を主張する。
「緊急車両が入れなかったらどうする。」「年寄りの送り迎えはどうする。」「宅急便は?生協は?デイサービスの車は?」
それで、今回の工事では、民家と離れたところでは、車の往来の少ない夜間に大部分の工事を行うそうだ。
冷たい川風の吹く真っ暗な山道での夜間工事。
山火事が怖いので安易にたき火をするわけにもいかない工事現場で、どんなお人がどんな顔をして、工事に取り組んでおられるのだろう。
夜、耳を澄ますと遠くで聞こえる工事の音。
きっと寒いだろうなぁ、手も足も冷え切ってしまうんだろうなぁ。
熱いお茶の一杯でも入れて上げたくなってしまう。

「寒いから幼稚園お休みしたい。」
むくむくとおさぼり心がのぞきき始めたアプコに、工事のおじさんの話をする。
「あ、ゴミのおじさんもきたよ。寒いのに今日も元気にゴミ持っていってくれて良かった。ゴミのおじさんも頑張ってるねぇ。」
私が今コタツのなかでめくっている朝刊も、真っ暗な山道をバイクで配達してくれる人がいる。
みんな偉いなぁ。
「さぁ、アプコ、暖かくなるお薬あげる。」
アプコの口に昨日買ったばかりのいちご味ミルキーの一粒を入れる。
「今日も頑張って歩こうかね、それとも車にする?」
「・・・歩いていく。」
アプコも偉いなぁ。
寒さのなか、働くおじさん達の頑張りをちゃんと感じることが出来るようになったんだな。
いちごミルキーの甘さに勇気百倍。
北風の中を走り出すアプコの背中は、ほんのちょっとだけ大きくなった。

偉い、偉い。
みんなも偉い。
オカアチャンも頑張るぞ!
山盛りの洗濯物を抱えて、ベランダへ上がる。
谷筋にある我が家のベランダは、吹きっさらしで格別寒いんだ。
凍える指で全部の洗濯物を干し終わって、最初に干したタオルを見たら、
凍ってるじゃん!
この寒さって、どうよ?


2004年01月21日(水) 母に似る

寒い朝。
アプコと二人、転がるように園バスへの道を駆け下りる。
「オカアサン、なんで走るの?」
「ごめん、ごめん。寒いからついつい早足になっちゃって・・・」
と、速度を落とすが、しばらくすると今度はアプコが駆け足。
「アプコ、なんで、はしるの?」
「だって、寒いんだモン!」

日溜まりで立ち止まって膝をつき、ずり落ちたアプコのハイソックスを引っ張り上げ、上着の前ファスナーをぐっと上げてやり、手袋の手を両手で包んで温める。
「寒いね、アプコ。もうちょっと頑張ろうね。」
と赤いほっぺのアプコの顔を見上げたとき、あっと、思った。
今の私、おかあさんに似てる。

鮮やかによみがえった子どもの頃の記憶。
デジャヴって言うのともちょっと違う。
私の頭に浮かんだのは幼い頃の私の想い出ではなくて、今の私があの日の母とおんなじ目線、おんなじ手つき、おんなじ表情をしてるんだなって言うこと。

私がアプコと同じ年の頃、母は、五つ違いの弟を出産。
長い一人っ子生活からいきなりお姉さんになった私に、赤ちゃんを抱く母は少し遠く見えた。
うちには同居のおばあちゃんもいて、寂しい想いをしたという記憶もないのだけれど、幼い日の思い出の中の私はいつも「お姉ちゃんになった私」
一人っ子時代の甘えんぼしている私の記憶は何故だかほとんど残っていないのだ。
家族のなかでは、名前を呼ばれるより「お姉ちゃん」と呼ばれることが多かった子供時代。
それでもあの頃、こんな冷たい北風の中、立ち止まった母が私の手を両手で包み、こんなふうに温めてくれた事がきっとあったのだなと突然、思い至り、うれしくなる。

おみそ汁を碗につぐとき、洗濯物をパタパタ取り込むとき、
「あ、今の私、おかあさんに似てる。」
たびたび感じるようになった。
どちらかというと、性格も外見も私は父親似。
体型だって母は今の私よりずっとスリムで、毎日ちゃんとお化粧してた。
編み物やお料理が上手でにこやかで、密かに「自慢の母」だった。
「アタシはおかあさんには似ていない」とずーっと思ってきたけれど、
気がついてみれば、母とおんなじ専業主婦。
子ども達を叱る時に使う言葉。
傷ついた子どものなぐさめ方。
挫折を乗り越えるときの気持ちの切り替え方。
「ああ、今の私はおかあさんに似ている。」
そう思うたび湧いてくる暖かな勇気。
良き母に育てて頂いた。
感謝の想いを愛する4人の子ども達に等しく分ける。

「もしもし、別に用事はないんだけどね。」
母の声が聞きたくて、時折実家に電話する。
子ども達の近況を報告し、庭の花の様子を聞き、時には「晩ご飯何にするの?」と夕餉の献立の相談をする。
たわいもない会話で終わる電話。
それで、いい。
あの家にいつも変わらぬ母が居る。
それだけのことで、元気になる。

アプコを叱るアユコの声。
洗濯物を畳んでくれるアユコの手。
この子もいつか母になり、
「あ、今の私、母さんに似てる」
とふっと気付く日が来るのだろうか。
そのとき思い浮かぶ私の姿が、
あの日の母のように優しく暖かい母でありますように・・・。
遠い未来の子ども達を思いながら、
今日は暖かいミルクを沸かした。


2004年01月20日(火) かかりのしごと

ゲンのクラスの担任の先生は、教師一年生のお姉さん先生。
だいじょぶかなぁ・・・なんて、思っていたら、これがなかなか「当たり」の先生。
毎日、せっせと学級通信を出し、子ども達とのボール遊びに子ども以上にヒートアップし、独特のユーモアでギャングエイジの子供らをぐっと引きつける。
若い先生って、ベテラン先生とは違う面白さがあるよな、と思う。

このクラスの係り活動。
子供らがみんなのために必要と思う係を作って、全員が一人一役受け持つことになっている。
「かさ係」「黒板係」「体育係」っていう例のあれだけど、なんかユニークなのが混じっている。
2学期。
「ケンカとめ係」
よっぽどしょっちゅうケンカがあるのかな。
確かに、争いごとが始まると必ず出てくる仲裁係がいると便利かもしれないけど、それより、見かけたアンタが止めたらどうよ。
・・・とつっこんでいたら、やっぱり子ども達もそう思っていたらしく、3学期には廃止になった。

ちなみに、2学期の「ケンカとめ係」は別に筋骨隆々でもないふつーの子がやってたそうだ。

で、かわって登場したのが「折り紙拾い係」
去年の秋から、どうやらうちのゲンが流行らせたらしい紙飛行機ブーム。
徳用折り紙の大束をガンガン消費して作り出す紙飛行機、当然、飛ばしたらとばしっぱなし。
たちまち、教室は紙屑の山。
「なんとかせんかい」の声が挙がっていたらしい。
それこそ、「飛行機作った本人が拾えばどうよ。」とツッコミを入れたいところだけれど、その辺の学習能力は3年生にはまだまだ期待できないらしい。

「当然、ゲンは折り紙拾い係よね。」
ときいたら、
「違う、ぼくは落とし物係!」
え?それって、いっぱい落とし物をする係ですか?

学級通信に載せられた「3学期のかかりのしごと」を読んで、ひとしきり笑ってしまった。
いいなぁ、この先生のにじみ出るようなユーモア感覚。
「仲良し係」とか、「ゴミ係」とか、見慣れた係の名前を子供らに提案することもなく、子供らの言葉通りに「ケンカとめ係」「折り紙拾い係」を採用する鷹揚さ。
「気がついた人がやったほうがいいんじゃないの?」とオトナの論理で誘導してしまわないで、にこにこわらって子供らの活動を見守る余裕。
これってきっと、この先生自身が、こういうゆったりした先生や両親の暖かい見守りのなかで育っていらしたんだろうなぁ、と思う。
「子どもの目線に立って・・・」と言われるけれど、オトナになってしまった教師や親が、子どもの心を共感するためには、豊かな想像力と結果を急がない心の余裕が必要。
こどもって、こんなに面白いんだなぁ。
こんな事を考えてるんだなぁ。
「母」の目線で子供らを見ることに何の疑問も待たない私に、子どもの心を持った若いお姉さん先生から発信される「子どものこころ」通信。
くすくす笑ったり、ふむふむと感心したり、随分楽しく読ませてもらった。
若いっていいなぁ・・・。


2004年01月19日(月) Xファイル

朝から父さんがまた何か捜し物をしているらしい。
あちこちの引き出しをひっくり返したり、ファイルやノートをパラパラめくったり・・・。
また探してるなとは思いつつ、あわただしい朝のこと。
とりあえず、先に出ていく子ども達ができあがるまでは見ない振り。

父さんが探しているのは、何枚かの書類。
うちの食品庫にマグネットでとめておいたのを、コピーしようと工房まで持っていき、ちょっと仕事している間にその書類が行方不明。
「確かに持って出たんだけど・・・。」
何度も何度も、家と工房の間を行き来したりして、行方不明の書類を探している。
しゃあないなぁ・・・と一緒に探す。
玄関まわり、工房の荷造り場、窯場、事務所のコピーまわり。
父さんのたどった道筋を一緒に一つ一つ確認して回る。
「ひょっとして、窯詰めの時に窯のなかにおとしたかも・・・」
そんな馬鹿なと思いつつ、窯の奥までのぞき込んでもやっぱり無い。
「いいよ、諦めた。格好悪いけど、もう一回もらってくれば済むことだから・・・」といいながら、
やっぱり目と手はあたりを見回して書類を探している。

実を言うと、父さんは忘れ物、落とし物の名人。
手帖、鍵、書類、カメラのパーツ。
身の回りのちょっとしたものが見あたらなくて、あちこち家捜しするのはしょっちゅうの事。
最近では携帯電話も行方不明になって、遂に出てこないまま新しくした。
「絶対、ここに入れた筈なんだ。ちょっと○○してる間に見あたらなくなって・・・」
いつも困惑した父さんのセリフは同じ。
ホントはよく判ってるんだ。
父さんがなくしものをするのは大概、頭のなかが当面の重要課題でいっぱいになっているとき。
やらなければならない仕事のこと、新しい作品のこと、家族の事。
何かにとっても心を砕いているとき、父さんの頭から身の回りの些細な事がすっかり抜け落ちて、失敗をする。

「ま、ま、おちついて・・・。頭を切り換えよう。でないともっと大きな失敗するよ。」
「それにしてもおかしいよ。なくなるはずはないんだよ。」
いつまでも首を傾げる父さん。
「きっと、第三者の何らかの力が加わっているにちがいない。誰かが持っていったとか・・・。でなきゃ、考えられない。」
お、第三者の陰謀ですか。
「Xファイルみたいにさ、きっと誰かが闇に葬っててさ・・・」
あはは、そこまでいいますか。

若かりし頃、「お嬢さんを下さい」をやるために初めて私の実家を訪れたとき、
父さんは最寄り駅の電話ボックスに手帖を忘れた。
仕事のスケジュールや、あちこちの連絡先、作品のアイディアなどをこまごまと書き込んだ大事な手帖。
慌てて探しに行ったけど、すでに見あたらなくて、なんだかショボンとしてしまった。
あの時の父さんもきっと頭のなかは、一世一代の「お嬢さんを下さい」でいっぱいだったんだな。
父さんのなくしもの癖を初めて知ったあの日から十数年。
二人で捜し物した回数も数え切れないほど。
そのたんびに二人でおろおろし、ため息をつき、諦める。
確かにね、いつも手元にあるはずのものが見つからなくて、探し疲れてイライラするとき、「誰かの陰謀かも・・・」って思っちゃう事がある。
「なんで、ちゃんとしまっておかなかったんだろ。」って、ほんの数分前の自分に腹が立っちゃう事もある。
でもね、なくした物を探す時間は、何かに一生懸命でまわりが見えなくなりそうな父さんの大事な小休止。
だから一緒に探してあげる。
「しゃあないなぁ・・・」と愚痴りながら、父さんと二人、一つの物を探す。
きっと、年をとってもね。

忘れた頃になって、
「あった、あった!」と父さんが帰ってきた。
仕事場の桟板(作品などを並べて運ぶための細い板)の上にぽんとおいて、さらにその上に別の桟板を重ねて移動させてしまっていたらしい。
ははぁ、Xファイルは父さん自身だったって訳ね。
所詮、捜し物なんてそんな物。
「みつかってよかったね。」
なんだかすっきりして、トクした気分。
馬鹿だなぁ。


2004年01月17日(土) こんにちは赤ちゃん

2月に初めての赤ちゃんを迎える弟夫婦が、お下がりベビーカーを引き取りにきてくれた。
病院で立ち会い出産の講習を夫婦で受けた帰りだという。
「一緒にひーひーふーってやるの?」
と聞いたら、「かもね。」と弟はお茶を濁す。
初々しいねぇ、パパの恥じらい。

ベビーカーに、赤ちゃんを寝かす籠、アプコのお古の子供服。
しばらく屋根裏にしまい込んであったベビー用品。
嫌と言うほど使い込んだものを引き取ってもらうのは気が引けるのだけれど、
元気で大きく育った子供らのエネルギーを、ピカピカの赤ちゃんにも分けて上げたい、そんな気持ちで送り出す。
「使う期間は短いのに、買うと結構高いからね。」
小姑のお節介にいちいちうなずいて笑ってくれるTちゃん。
悪いね、怖いお義姉さんの居ないところで、愚痴いいながら処分してくれてもいいからね。

「で、布おむつはいる?紙おむつがラクチンだけど、経済的には布も助かるよ。」
まだまだ、赤ちゃんとの生活に実感がわかないTちゃん。
布おむつも少しは用意したけど、どうなるか判らない。
「あかちゃんって、一日の何回くらい、おむつを替えるんでしょう?」
あはは、そうだね、そこんとこからわかんないんだよね。
初めて母になると言うことは、海図も持たずに大海原に旅立つ小舟のようなもの。
怒濤の海を10年も漂い続けた老水夫は、処女航海の新米ママのとまどいをようやく少し思い出した。

一日にバケツいっぱいの布おむつ。
ががっと洗濯機であらって、しっかり脱水し、パタパタ拡げて干し上げる。
どうだ、うちにはこんなに手の掛かる赤ん坊がいるんだぞっと胸を張って日なたに干す。
お日様をいっぱい吸った布おむつは、ぱりっと乾いて、畳んで積み上げるとふんわりと嵩高い。
ぴぴっと端っこを揃えてたたんだ布おむつをたっぷりおむつ入れに補充すると、「さあ、明日もしっかり『ママ』するぞ」
と妙な闘志が湧いてくる。
ただただ眠い、しんどい、忙しいの毎日だったけど、充実していたなぁ、あの時代。

その頃の戦友、段ボール箱いっぱいの布おむつ。
なかなか処分することが出来なくて、今でも半分はリビングの端っこに置いておいて、
「ぎゃー、こぼした!」とか、「げ、こんなトコ汚したのはだれ?!」の時の応急処置用に愛用している。
何度も何度も洗濯を重ねて柔らかく、洗いやすく乾きやすい。
最後のおむつ生活者が卒業しても、まだまだ我が家で活躍している布おむつ。
こんなに親しく手になじみ、暖かい想いのこもった布の存在をなんだかちょっと嬉しく思う。
長い育児生活の果てに、母の手元に残ったのはこんな宝物。

「育児」という知らないことだらけの海にこぎ出そうとしているTちゃん。
大丈夫。
きっと赤ちゃんとの生活は楽しいよ。
たくさんのおむつも夜中の授乳も、過ぎてしまえば輝く勲章。
なにより、毎日確実に成長していく、頼もしい子供らがいる。

先日からのオニイの喉の変調。
もしかしたら声変わり?
おっさん声の息子に「かあさん」と呼ばれる日も近い。
うう、あんなにかわいい産声だったのに・・・


2004年01月15日(木) 昼デート

今週になって子ども達の給食やお弁当が始まり、また、父さんと二人のランチタイム。
歩いて1分の工房で働く父さんは、昼時になるとパタパタと土まみれのエプロンをはたいて帰ってくる。
うどん、焼きそば、丼もの。
あまりかわりばえのしない昼ご飯を父さんと二人で食べる。
父さんと私はほぼ毎日、三食一緒。

アプコのお友達のKちゃんのお父さんは、最近単身赴任先から帰ってこられた。
年の離れた末っ子Kちゃんは、毎日お父さんがおうちに帰ってくるのがとっても嬉しい。
そして、Kちゃんのお母さんは、「旦那が帰ってくると、早寝ができん、たばこ臭い、朝から作る弁当が4個になった!」とちょっと愚痴モード。
「うちなんか、毎日昼ご飯食べに帰ってくるよ。」
「うわ、きっちり三食つくるのか・・・。それもかなわんなぁ。」

確かになぁ。
仕事と家庭が密着していて、なかなか外へ出る機会の少ない父さんも、「おうちの日々」が続くとだんだん煮詰まってくる。
・・・と言うわけで、父さんと私は時々、外でランチする。
銀行や郵便局の用事を済ませ、夕食の買い物につきあってもらい、ファミレスとかファーストフード店とかでお手軽ランチ。
月の何度かの昼デート。
「そろそろいくか」
同じ家庭の空気を毎日一緒に吸って過ごす夫婦は、煮詰まって深呼吸したくなるタイミングも妙に一致してくる。

本日は、お仕事の都合でおうちご飯。
それでもなんだかモヤモヤするので、割引クーポン券を持って、ドーナッツ屋へ。
テイクアウトでおみやげも買って、店内で父さんとコーヒーを飲む。
「こういうときに限って、大概誰かに会っちゃうんだよな。」
小さな田舎の町の事。
夫婦で昼間っからブラブラしていると、子どものお友達のお母さんだとか父さんの教室の生徒さんとか、なんだか必ず人に会う。
「あらら、今日は夫婦お揃いで・・・」
と言われるけれど、しょうがないんだよ。
うちは夫婦で仕事仲間も茶飲み友達も師弟関係もかねている。

ドーナツ屋のカウンターで、誰かが入れてくれたコーヒーを飲む。
これ、重要。
自分でお湯を沸かさなくて、カップも洗わずに飲めるコーヒー。
食卓につく夫と給仕する妻ではなく、友達のように一緒にコーヒーを飲み、たわいないおしゃべりをする時間。
ともすれば、だらだらと「いつも一緒」に倦んでしまいそうな日常を、父さんは安いファーストフード店のコーヒーで上手にリフレッシュしてくれる。
ありがたい。

あ、ポイントカード、あと400円分で、お皿がもらえる。
ねえねえとうさん、月末までにもう一回、お茶しようよ。
たちまちけちん坊主婦に舞い戻る私。
アプコのお迎えの時間を気にして、昼デートを終わる。
さあ、もうひとガンバリ。
子ども達がかえってくるぞ。


2004年01月14日(水) 神様の気分

父さんの陶芸教室の新年会。
いつもお年玉がわりに生徒さん達にお菓子などの小さな包みをお配りする。
今年は何にする?と二人で考えた末、趣向を変えて、うちの窯で焼いた陶製のストラップを差し上げようと言うことになった。
去年の春から細々と作り始めた陶器のアクセサリー。
私も少し型抜きや施釉の要領も覚えてきたし、欲しいと言って下さるお客様もぼちぼちあって、ようやくお仕事になりつつある感じ。
新製品開発の欲もあって、正月明けから50個のトップを焼き上げ、ストラップ用の金具をつけて、準備した。

お正月だからと面白がって、お年玉のポチ袋に一個ずつ入れて包装完了。
面白ついでに、アユコの千代紙を拝借して、にわかおみくじをこしらえ、一緒にポチ袋に入れる。
大吉、中吉、吉、末吉。
お祝い事だから、悪いくじは入れないのだけれど、なんだか見知らぬ人に今年の運気を配るようで、ちょっとドキドキ。
おみくじって勝手にこしらえても、バチなんかあたらないよねぇ?
そんな冗談をいいながらの袋詰め作業はなんか楽しい。
横で手伝ってくれるアユコもうふふと笑って大吉の数を何度も数えている。
良いくじが一カ所に集まらないようにとぐるぐる混ぜる。
どうせ、外から見えないんだから、どう並べても公平にお配り出来る筈なんだけど、ついつい混ぜちゃうこの心境って、何?
もしかして神様の気分?

世の中に降り注ぐ幸運、悪運。
「なんて幸せな私!」
「なんで俺ばっかり不幸なんだ!」
そんな気持ちの後にふっと湧いてくる「神様」という言葉。
私には深い信仰は無いけれど、どこかの誰かが時折配って下さる運、不運。
誰かの手から間違いなく私の上に配られた贈り物を、どれも大事に受け取ることの出来る私でありたい。
思わぬ不幸は、奮起の糧に。
思い掛けない幸運は、自省の為に。
良いことも悪いことも全て私自身のことと、まっすぐに受け止める豊かさが欲しい。

「今年一年、良いことがありますように」
想いを込めてお配りした、悪いくじを一つも入れないお年玉。
教室の皆さんにはそこそこ好評だったようで、ありがたい。
「あ、大吉!」
くじを開いて、ほっとこぼれる微笑み。
御利益と言ったらほんの一瞬のその笑みだけのインチキおみくじだけど、お配りする当方としては、たくさんの「うふふ」を頂いた。
神様の気分で、福を配る。
ちょっと楽しいいたずらかもしれない。


2004年01月13日(火) 2番目に欲しいもの

先日、お仕事で急に必要になったものがあって、久しぶりに車で町へ出た。
ついでだから、父さんの作業用の靴だとか、アユコのビーズのパーツとか、あれこれ買って超特急で帰ってきた。
買ってきたものをそれぞれ渡して、ふっと気がついた。
「アタシの物がなんにもない。」
年末、年始にかけて、あんなにあちこち走り回り、「誰かの為のもの」をいっぱいいっぱい買ったというのに、そういえば「わたしのためのもの」は靴下一枚買っていない。
なぁんだかな。
ちょっと悲しくなって、ためいきをついていたら、
「電子レンジ、買うんでしょ。」
とアユコが慰めてくれる。
たしかに結婚と同時に買った電子レンジ、そろそろ買い換えの予定。
それはそれで嬉しいんだけど、それってね、なんかわたしだけのものじゃない。
わたしが欲しいのはそんなものじゃないんだよ。

・・・・で、さて、わたしの欲しいものって何?
若い頃には欲しいもの、いっぱいあったよな。
きれいなヒールの靴、コートの色に合わせたスカーフ、お気に入りの作家の本。
かわいいイヤリング、ガラス細工のモビール。計り売りのオーデコロン。
今のわたしの欲しいもの。
普段履きの靴、エプロン兼用のトレーナー、
庭作業用のよく切れるカマ、PC用の足温器。
う〜ん、なんだか違う。
「わたしの欲しいもの」を数え上げるときのあの、ときめくような嬉しい気持ちが湧いてこない。
そもそも、絶対絶対欲しい!って気持ちがいまいち足りない。
だから、自分のものが買えないんだな。

アプコの好きそうなピンクのトレーナー、アユコの喜びそうなかわいい文房具。
ゲンの欲しがりそうな飛行機のおもちゃ、オニイの好きなパン、
「きっと喜ぶだろうな」ってお買い物をするのは楽しい。
別に「自分のものを我慢して・・・」って感覚もない。
これって、とっても幸せな事なんだけど、でも、それでいいのかな。

近頃気になるCM
彼が彼女に「ね、君の2番目に欲しいものはなに?」
彼女のツッコミ(一番だろ、普通)
結局、今の私の欲しいものって、所詮「2番目に欲しいもの」なんだな。
毎日の生活に必要に迫られてて、いつでも買えばいいんだけど、買ってもあんまりときめきそうにないもの。
それはそれで、買えばいいんだけど、なんだかつまらない。

「欲しいもの、買っちゃえば?」
父さんに背中を押されて、へそくり片手に買い物に出た。
田舎のスーパーをぐるぐる回って、結局買ったのはお買い得品のスニーカー一足。
あかん、小心者だなぁ。
しかも悲しいことに、普段履きのオンボロスニーカーを真新しい白いスニーカーに履き替えたら、それだけで結構、ときめいちゃうんだな。
「ちょっと山でも歩いてみるか」って気持ちになってしまうお買い得な私。
だめだめ。ちゃんとまじめに目を開けて、「一番欲しいもの」をさがさなくっちゃ。
まだまだ、「欲しいものはなぁんにも無い」なんて悟りの境地に入ってられない。

「あ、オカアサンの靴、ピッカピカ!」
アプコが新品の靴を見つけてピョンピョン跳ねる。
登園の道をいつもより軽い足取りで下っていく。
「オカアサン、新しい靴は速く歩けるの?」
ううん、気のせい、気のせい。
オカアサンはオトナだもん。
おニューの靴ぐらいで、ピョンピョン飛び跳ねたりしないもん。
・・・今日、オカアサンが歩くの、そんなに速い?


2004年01月11日(日) 小さな靴下

2月に初めての赤ちゃんが生まれる弟夫婦が、我が家の子ども達が歴代使ったベビーカーを使ってくれると言う。
オニイが生まれたときに張り切って買ったA型ベビーカー。
かさが高いのですぐにB型に進級してしまったので、どの子もいくらも使用しないまま物置にしまってあった物。
初めての待望の赤ちゃんに、我が家のお古を快く引き取ってくれる弟夫婦の堅実なパパママ振りが嬉しい。
それではと、他にも使ってもらえそうなベビー用品やら赤ちゃん服やら、ごそごそと探す。

小さな肌着。おむつカバー。布おむつ。
久しく触れていなかった赤ちゃんのための小さな衣装。
その小ささに思わず笑ってしまう。
我が家で一番小さいアプコのトレーナーでさえ、比べてみると数倍の差。
あかちゃんってこんなに小さかったんだなぁと、改めて成長した我が家の子ども達の年月を想う。

はたと、こぼれ落ちる小さな靴下。
手のひらにすっぽり収まるその小ささ。
うっと息のつまる思いで握りしめる。
これはたった3ヶ月で逝ってしまった次女の唯一の衣装。
生まれてすぐに心臓の障害が見つかってずっと病院で育ったなるみは、生涯のほとんどをお仕着せの病院着で過ごし、私たちがこの子のためにと購入したのは小さな手足を包む靴下やミトンばかり。
点滴の管や計器のコードをたくさんつけたなるちゃんに、親としてしてやれることはそんなことしかなくて、せめて家庭の暖かさをと小さく名前を刺繍した靴下やミトンをせっせと運ぶ。
切ない切ない毎日だった。

主治医の先生方やICUの皆さんの奮闘も空しく、なるちゃんの容態はずるずると悪くなった。感染症が全身にまわり、ついには頼みの肝臓が悪くなった。
交換輸血も透析も効果はなく、小さいなるちゃんの身体はどんどん壊れていく。
もはや決められた面会時間の制限なしに、娘のそばに居ることを許された私は毎日毎日小さなクベースの横で小さなベビードレスを縫った。
純白のサテン地にたくさんのレースをあしらい、パールのボタンを縫いつける。
背中には天使の翼のような大きなリボン。
新生児用のドレスはとてもとても小さくて、ちくちく手縫いで仕上げても3日もあれば仕上がった。
ドレスの仕上がりを待っていたかのように、なるちゃんの鼓動はどんどん弱くなった。

なるちゃんの旅立ちを見送った朝、父さんと私は町に出た。
凛と冷えた爽やかな朝だった。
二人で朝食を取り、あちこちに連絡を取る。
子ども達の喪服がわりになる黒い服を買いにいく。
小さな娘を失ったばかりだというのに、当たり前に過ぎていく日常の時間。
不思議だね、悲しくならないね。
昨夜たくさん泣いたのに、何事もなかったようにご飯を食べている私たち。
生きていると言うことは、本当に残酷にも強い事だと初めて知った。

棺におさまったなるちゃんは、白いドレスを着せてもらって本当に天使のようだった。
たった数ヶ月、我が家の娘として神様が送って下さった小さな天使。
「短期留学」を終えて天にもどったなるちゃんは、「いつまでも赤ちゃんの小さい兄弟」として、今も我が家にいる。
なるちゃんの小さな靴下をお守りがわりに握りしめて産んだアプコは、5才になった。
「なるちゃんって、ちいちゃかった?」
小首を傾げて聞くアプコに小さな靴下を握らせてみる。
お人形の靴下のような小ささに、アプコがけらけらと笑う。
「赤ちゃんって、こんなに小さいんだねぇ、かわいいねぇ。」
身近に赤ちゃんを見ることのなかった末っ子アプコに、その小ささは驚き、不思議。
「Tちゃんの所に赤ちゃんが生まれたら、きっときっと会いに行こうね。小さい赤ちゃん、見せてもらおうね。」
新しく生まれてくる赤ちゃんの未来が、健やかで幸福なものとなりますように。

今日、1月11日
私の次女、なるみの天国での誕生日。


2004年01月10日(土) おばさんの水晶玉

30才になると、女の人はおばさんになるんだそうだ。
昨年、40代の大台に乗った私などは10年前からおばさんだったのだ。
おまけに、今の私には「大阪の」というありがたい冠がついている。
スーパーで細かい小銭をじゃらじゃら出す。
いつも持ってるバッグの中には、小さく畳んだスーパーの袋、タオル地のハンカチ、口寂しい時のための飴袋。
立ち上がるときには、どっこいしょ。
体型を隠す総ゴムのパンツに長めのトップス。
そうです、私は立派なおばさんです。

人からおばさんと言われると、たしかに「なにくそ!」と思うこともあるけれど、
ホントの所、おばさんというのは、やってみると結構居心地がいい。
おばさんは自分が居心地のいいと言うことに正直だ。
外目にカッコイイとか体裁がいいと言うことよりも、「便利」「ラクチン」「気持ちいい」が優先する。
確かに、人目を気にせず傍若無人に振る舞う中年女性に対して、悔し紛れの捨てゼリフとして「オバサン」と言う言葉が使われる。
しかし、その中には「あんな風に自分の好きなように生きてるのって、なんか楽そうだよな。」という羨望のかけらが混じっているような気がすることも多い。

若かりし頃、「おばさん」になりたいと思っていた時期がある。
大学を出て、なんとか講師の仕事が決まって、それでもこれから自分がどんな風に人生を歩んでいくのか、一生の伴侶となる人は現れるのか、どんな仕事をしていくのか・・・、人生はまだまだ不確定事項でいっぱいだった。
1年先、3年先の自分が見える水晶玉が欲しいと、よく思った。
身の回りの、夫や子どものいる女性達には、そんな水晶玉があると信じていた。
「来年、長女が七五三。」
「退職したら、姑さんと同居よ。」
仕事を終えて家に帰ると、自分の家族がいる。
子ども達は否応なしに家族の時を刻む。
そんな確実な水晶玉が、「おばさん」達にはあるものだと思っていた。

早く、決まった鞘に収まりたい。
「独身を通し仕事に生きる女」でもいい。
「お休みの日には子ども達とケーキを焼く元気なママ」でもいい。
とりあえず、「ここが私の一生を過ごす場所」と言える場所が欲しかった。
若い私には、人生の選択肢がいっぱいあって、まだまだ自分の可能性を探し求めることの出来る贅沢が少しもわかっていなかった。

40才、主婦。
4児の母。
家事の合間に家業を手伝う。
今の私が収まっている「鞘」
確かに不確定事項は減り、1年先、3年先にも今と同じように、台所に立つ自分の姿が容易に目に浮かぶ。
その揺るぎない安定感は、若き日の私が欲しいと思っていた「水晶玉」と言えるかもしれない。
「おばさん」たちは水晶玉を持っている。
だから、自分の本能に正直に、「居心地のいい」状態を身の回りに置くことに少しも躊躇しないのだ。

おばさんも夢を見る。
思春期のように、「アイドルになって、スポットライトを浴びてる私」とか、「白馬に乗った王子さまと幸せな暮らしを・・・」というような突拍子もない幻想は湧かないけれど、それでもおばさんにも夢はある。
「娘が成長したら、一緒に街でショッピングを」とか、「趣味を生かしてささやかな副業を」とか、おばさんの夢は「今の私」に足場を置いた堅実な将来だ。
おばさんになっても、まだ自分の人生の残されているささやかな選択肢。
台所でお大根を刻み、洗濯物の山をやっつけ、井戸端会議に時間を費やす主婦の日常にも、いつもいつも小さな夢はある。
変わりない日常の雑事と、心に秘めた小さな夢を、いつでも合わせ持つことの出来る懐の広さ。
それが本当の「おばさん」の強さの秘密ではないかと、おばさんは思うのである。


2004年01月09日(金) アプコの手品

お台所仕事をしていると、アプコがお気に入りのトランプを持ってきて、手品を披露してくれた。
「オカアサン、一枚取って。」
その一枚を、再びカードの束に戻して、カードを繰る。
アプコの小さな手に、大判のトランプは大きすぎて手に余る。
「こうやってね・・・こうやってね・・・シャックリするとね、」
え?シャックリ?
・・・・・それって「シャッフル」じゃない?
「あ、間違えちゃった」

新しく覚えた「シャッフル」って言葉が使ってみたくて、
一生懸命手品を考えて披露してくれたみたいなんだけど、
しまいには「シャックリ」だか「シャッフル」だか、自分でもわからなくなっちゃって、マジックショーはすぐにおしまい。

「・・・シャックリ?・・・シャッフル?」
小首を傾げてつぶやきながら戻っていくアプコの後ろ姿が何ともかわいくて、
うふふと笑ってしまった。
アプコ。
元気に育っていく君自身が、母にとっては偉大なマジック。
今日も笑わせてくれて、ありがとね。


2004年01月07日(水) ある2枚の年賀状

結婚して十数年。
お正月に受け取る年賀状の数もだいたい決まってきた。
結婚とか、子供が産まれたとか、そういうイベントが落ち着いてくる年代になると、やはり通り一遍の友達関係の賀状は絞られてくる。
その替わり、年に一度送られてくる懐かしい友人の筆跡や、優しい一言を書き添えられた恩師からの便りが心から嬉しく、暖かい気持ちになる。

今年受け取った恩師からの年賀状。
その中に、二人の国語の先生からのものがある。

一人は中学1年の時のN先生。
緊張感のある、とても優れた授業の出来る女の先生で、大変な読書家だった。
生意気盛りの私は、この先生の「個人指導」で中学の三年間、近現代の文学作品を怒濤のごとく読み尽くした。本来中学生に読みこなせたかどうかすら危うい名作の数々をN先生は根気強く勧めて下さり、私も「負けるものか」とばかり、週に10冊近いのペースで文庫本をやっつけた。そして、中学を卒業する頃、私は「N先生のような国語の先生になりたい」と思うようになった。

もう一人は高校1年の時のM先生。
さっぱりした物言いの穏やかな先生で、当時幼い子どものお母さんだった。
入学の時に父が提出した家庭環境の調査書で、専業主婦だった母の職業欄に「家事」と記されていたことを、とても褒めて下さったのを覚えている。
「働く女性」がとてもとてもかっこよく思え、いつも家にいる母のことをどこか恥じるような所のあった当時の私に、先生の言葉は新鮮だった。職場で給料をもらって働く「職業」と同じ重さで、「家事」という仕事が存在していると言うことを私は初めて悟ったような気がする。
教室でのM先生は、厳しい職業人としての教師の顔とともに、妻であり母である女としての大らかな暖かさを持ちあわせていらした。
尼僧のようにストイックでまっすぐなN先生の厳しさに惹かれて国語教師を目指していた私にとって、M先生の柔和な「生活人」振りがどこかじれったく思われることもあった。

大学を卒業して、私は教員採用試験に失敗し、常勤講師として赴任したのは知的障害のある子達が学ぶ養護学校だった。
大学時代に学んだ教育理論や国語の授業研究は何の役にも立たない。
障害を持った生徒達とともに畑を耕す。ゲームをする。歌を歌う。
排泄や食事の世話をし、手足の障害を緩和するための訓練を行う。
体力だけが勝負の教師生活で、私はこども達とともに圧倒的な「生活の力」を学んでいった。
「どんな本を読んでますか。国語教師になるための勉強もわすれちゃだめよ。」
どんどん養護学校での仕事にのめり込んでいく私に、N先生は釘を差した。
しかし、そのときすでに、私はN先生の背中を追いかけたいという気持ちをなくしつつあった。

同じ頃、近くの県立高校で勤めておられたM先生が「養護学校に転任希望を出したいと思って」と私の職場を見学に来られた。
長年高校生に現国や古文を教えてこられたM先生が何故あの時、養護学校への転任を望まれたのだろうか。
詳しくはお聞きすることもないまま、次年度、M先生は本当に私の職場に転任してこられ、恩師は同時に同僚となった。

数年の講師生活の後、私は主人と出会い、遂に「国語の先生」にはならずに、専業主婦となった。
「結婚します、教師にはなりません」と告げたとき、N先生はさすがに「残念」とはおっしゃらなかった。
「あなたの夫になる人はどんな人?やっぱり本をたくさん読む方なんでしょう?芸術家との生活ってどんな風なの?」
まだ、独身を通しておられたN先生の女学生のようなはしゃぎ振りが異様な感じがした。
「私は、読んだ本の感想を語り合ったり、お互いに知的な刺激を交換できる人と結婚したいわ。」
当時すでに「適齢期」はとうに過ぎておられたN先生の語る夢はあまりにも清らかで、「この人は一生一人で生きて行かれる方だなぁ。」と感じたのだった。

陶芸家の妻となり、次々と子ども達を産み、育ててきたこの十数年。
本屋へ行っても、小難しい文芸作品は敬遠して、軽い読み物に走りがちになった。
私が選んだ伴侶も、文庫本と言えば、「睡眠薬がわり」
「知的な刺激を交換できる」関係とはほど遠い。
どっぷりと生活に浸りきった今の生活、二人の先生方の目にはどんな風に映るのだろう。
その後、M先生はご家族の介護のために養護学校を辞され、家庭人になられた。
N先生はいまだ独身で、有能な先生としての道を全うしておられる。

「中学生の頃のあなたの凄い読書力を思い出します。お子さんもやはり読書家ですか?」
今年のN先生の賀状に添えられた言葉はやはり、厳しくストイックなものだった。
「今年が平和な良いとしになりますように。こんな事を祈る年が来るなんて思いも寄りませんでした。」
M先生の賀状には、母であり、妻である生活の中にある祈りが込められている。
女としての行き方を決めるいろいろな場面で、お手本となり導いて下さった二人の女性。
年に一度のお年賀状で、再び青春の日の志や、今の私の生活のあり方を問い直す機会を下さる恩師の存在を心からありがたいと思う。
「あのお下げ髪の女学生が、今はこんなになりました。」
いつまでも胸を張って、先生方に報告出来る私でありたい。
心に誓う七草の朝であった。



2004年01月06日(火) 夜中の書き初め

工房の仕事始め。
父さんが「出勤」していき、休みの間、滞っていた家事をやっつける。
子ども達もそろそろ3学期の準備。
大根を煮たり、いつもの大鍋でスープを作ったり、
自分の台所で、当たり前の夕食を料理する。
ようやく、家事も通常モード。
穏やかで暖かいお正月明け。
ちょっと幸せ。

夜中ごそごそと起き出して、活動開始。
気配に起き出してきた父さんも、なんとなく動き始めた。
「ちょっと待って、机、私も使うんだから。」
ごそごそと道具を拡げ始めた父さんに先制攻撃。
狭いコタツのスペースを無理に半分空けてもらう。

な〜んだかな、似たもの夫婦と言うのかな。
このごろ妙に父さんと生活のペースが合ってしまって、
打ち合わせたわけでもないのに、「さて」と何かを始めようとするのが二人同時だったりする。
今日の場合、私は年末からさぼっていた書道の宿題。
そして父さんは、今週末の水墨画の宿題。
どちらもタイムリミットぎりぎりまでさぼっていたので、
二人とも8月31日の小学生状態。
互いの動きを横目で牽制しながら、真新しい紙に墨跡を残す。
子ども達も寝静まった静かな茶の間で、筆を走らせる夫婦。
はた目にはなんだか、とってもアーティスティックな素敵な夫婦像だけれど、
その実、二人とも締め切りに迫られて、かなり必死の状態。
お茶を入れて、お互いの作品を鑑賞して批評し合う余裕なんてあるもんですか。

よく、「家族で音楽を楽しんでいます。」とかって、
ママのピアノで子ども達が歌い、パパがバイオリンを演奏するなんていう家族が紹介される事があるけれど、アレが苦手。
家族が共通の趣味を楽しんでいるとか、家族みんなで一つのスポーツに打ち込んでいるとか、そういうのが何ともこそばゆくって、どうもいけない。
父さんも同じ考えのようで、我が家では「家族みんなで」はなかなか定着しない。
たまに、父さんが戸外にスケッチに出かけるときに、子ども達にそれぞれスケッチブックを持たせて同行したこともあったけれど、何回もやらないうちに立ち消えになってしまった。
一人一人はそれぞれ、絵を描くのも戸外で過ごすのも大好きだけど、みんなと一緒となると子供達ですら「こっぱずかしく」てやってられないらしいのだ。

夜中に夫婦が一つの机でそれぞれに墨をする。
正月明けの静かな夜に、夫婦で過ごす穏やかな時間。
「うらやましいわ」と誰かに言われることもあるけれど、
なのに、二人のこの必死の形相は何?

父さんが描いているのはお正月に取材に出かけた一休寺の石庭。
冬の寒気に、凛と掃き清められた白砂の庭園。
余分な物を排し、ここと定められた場所に置かれた庭木や庭石。
それを微妙な筆遣いと墨の濃淡だけで描く父さんの水墨画。
忙しい仕事の合間に画題となるものを取材し、月に一度の稽古日に会わせて夜中に描き始める。
自らに課した課題に時にはあっぷあっぷしながら、父さんの絵の修行は結婚前から続いている。

「偉いなぁ、父さんは・・・」
のろのろと絵の道具を開く父さんに、時々「よしよし」する。
「お、やるか、偉いね。」
う〜んとこさっと気合いを入れて習字道具を拡げる私に、父さんが「よしよし」してくれる。
「家族みんなで」は苦手だけれど、互いに適度なプレッシャーを掛けあいながら学びの時間を持てる現在。
これも、今の私の幸せの一つ。
・・・明日の宿題もようやくできたしね。


2004年01月05日(月) 父の背広

お正月恒例、実家への里帰り。
いつもは離れて住んでいる弟たちの家族も集まり、にぎやかな数日間。
子供らは小さい従姉妹のあやちゃんとにぎやかに遊び、
出産間近の義妹の幸福そうな笑顔を皆で喜ぶ。
祖母の喪中とはいえ、穏やかで暖かいお正月。

実家の父は定年退職して数年目。
「第九」の練習に通ったり、地域に老人会を立ち上げたりと、
精力的にリタイア後の生活を楽しんでいるように見える。
「次はどんなことをはじめるかしらん?」
離れた場所から、父の新しい動向を耳にするたび、楽しい驚きをたくさんもらう。
長いサラリーマン生活の間、いつもスーツで出勤していた父が、会うたびに「日曜日の父」の姿で迎えてくれる。

「着なくなった背広がたくさんあるんだが、着られそうなら持って帰ってくれないか。」
父がうちの父さんに提案。
日頃は仕事着で過ごし、展示会の時くらいしか背広を着る機会がないうちの父さんは、数着のスーツを着回すだけで、それほどスーツという物を買ったことがない。
確かに在職中の父が着ていた上質の素材のスーツやコート、そのままお蔵入りには忍びない。
でも、それにしても、サイズがねぇ。

・・・と思っていたら、あら不思議。
試着してみた父のスーツは、中肉中背、首太、なで肩の父さんにぴったりフィット。
ズボンの丈まで、お直しなしでそのまま着られそう。
「ありゃりゃ、着られるじゃん!」
嬉しくなって、次々試着する父さん。
またまた嬉しくなって別のスーツを引っぱり出してくる父。
「本当に、いいんですか、まだ着られる事もあるんじゃないですか。」
ととまどいながら、父の勧めるコートに手を通し、それにまつわるうんちくに耳を傾ける。
見覚えのあるバーバリーのコート。
見慣れた父の背中を思い起こさせるベージュのコートを、我が夫の背中にかける。
なんだか不思議な違和感。
そして、懐かしいような親しい感じ。
少し混乱した思いで、男達のファッションショーから少し身を引く。

「あんなお下がりをあげて、気を悪くしないかしらん。」
母が父さんを気遣って私にささやく。
「ふん、でもうちの父さんも、喜んでるみたいよ。」
お台所でおせちの残りをつまみながら、母と笑う。
「それにしても悔しいくらい、ぴったりねぇ。」
厳しく、時には気詰まりなほど自信にあふれて見えていた父と、穏やかでひとあたりのいい私の夫。
父とは全く違ったタイプの男を伴侶として選んだ筈だったのに、50歳を過ぎて働き盛りの季節を迎えた父さんの背中は、企業戦士として走り回っていた父の背中にどこか似ている。
「ファザコンみたいで、なんか、複雑。」

そんな想いを知ってか知らずか、娘の伴侶が快く自分のお下がりを喜ぶのに気をよくして、父は上機嫌。
「男にとって、背広は鎧のような物だから・・・」
上質なコートや背広は、働き盛りの父の気概を保つ守りの糧であったのだろう。
今、工房で土まみれになって作品を作り上げる夫にとって、
守りの衣装とは何なのだろう。
歴戦の鎧を娘婿に譲る父の想い。
舅の背広に快く袖を通して、素直に喜ぶわが伴侶。
私を守り、愛してくれる二人の男達の友情に、複雑な想いを重ねつつ、
たくさんのお衣装荷物を車に積み込む事になった。


2004年01月04日(日) 引っ越ししました

我が家のPCの環境が悪くなってきましたので、
とりあえず日記ページのお引っ越しを試みています。
2003年までの過去ログは本家HPの方に残っています。


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