DOTFAMILYの平和な日々
DiaryINDEXpastwill


2005年01月21日(金) いじめ?

去年の話はまだまだ続く・・・はずだったのだが、ちょっと飽きた。続きはおいおい書いていくことにしよう。(って、忘れるんだよね、これが)

愚息を学校へ迎えに行く時、ちょっと早めについて愚息が学校から出てくる様子を眺めることにしている。学校の友人はどんな子なのか、ちょっと興味があるからだ。いつも誰かと一緒なのだが、車に近づく前に別れてしまうので(わざとだな、これは)、近くで見たことや話したことはない。でもまぁ・・・高校生だよなぁ。

今日、いつもの通り校門(?)辺りを眺めていると、愚息が一人で出てきた。校門から車までの距離、約20m。愚息はいつも通りちんたらちんたら歩いて来る。と、近くにいた男の子が突然愚息を殴り始めた。愚息はにやにやしながら殴られっぱなし。結構しつこく殴られている。しかも結構強く。愚息は倒れこそしないが、足を踏ん張って耐えている。その後愚息を殴った子は去って行き・・・次の子がやって来て、また愚息を殴り始めた。殴られている箇所は首から下、腰から上である。で、また別の子が・・・で、また次の子が・・・何だ何だ、一体これは何なんだ!新種のいじめか?しかし・・・愚息が黙って殴られるなんていうことがあるはずがない!彼は自分から喧嘩を売ったりは決してしない子なのだが、売られた喧嘩はきっちりと買う。(んで、叱られるのはいつも愚息なんだよなぁ)

結局愚息が車まで辿り着くのに、10分以上かかってしまった。

愚母「お帰りなさい。」
愚息「ただいま〜」
愚母「君、どうして黙ってみんなに殴られてたの?」
愚息「ああ、誕生日のヤツは年の数だけ殴っていいことになってるの。誕生日のお祝い。」
愚母「・・・そういえば、今日、君の誕生日だったね。」
愚息「うん・・・朝から殴られっぱなしで、痣になっちまったぜ!」

友人が多きことを喜ぶべきなのだろうか?

愚母「ねぇねぇ、君も友達の誕生日に殴ってお祝いしてあげるの?」
愚息「あっ、俺?俺が殴ったら怪我するからってあんましやらせて貰えない。」

愚息17歳・・・お誕生日、おめでとう!
母さんも殴って良い?


2005年01月11日(火) 去年の話10:ダンナ自宅療養中(2)

ダンナの話最終回・・・になると思う。が去年の話はまだまだ続く。

ダンナは機械を使って透析をやっている。が、この機械、実にセンシティブなんですな。ちょっとでもいつもと様子が違うとすぐに大きな音でアラームを鳴らしだす。

ダンナのお腹の中に住み着いたバクテリアは、しつこく生き延び続け、お腹から出す透析液の中には未だバクテリアが作り出すファイバーが混じっている。(現在でもまだファイバーが混じっている・・・かなり少なくなったけど。)で、このファイバーが詰まって、透析機械が正常に機能しない。ということがわかったのがダンナが退院してから1週間が過ぎた頃のこと。それまでは夜中1、2時間置きにアラームが鳴り出していた。その度にダンナは透析センタに電話をし(24時間開いとります。ご苦労様です。)指示を仰ぐ。おかげでゆっくり眠ることが出来ない。で、翌日昼間に睡眠を取ることになる。病人ですからね、睡眠は大切です。朝食後8時頃から熟睡に入り、お昼に一度起きてから昼ごはんを食べ再び熟睡。夕方1度透析をして夕食を食べ、お昼寝(お夜寝?)をして11時頃から透析を初め、1、2時間毎にアラームで起こされる。

なんでもダンナが使っている機械は最新型だそうで、ダンナが行っている透析センタでこの機械を使っているのはダンナだけなんだそうだ。担当の人もあまり良くわかっていない。そのために原因がわかるのに時間がかかった。で、結局ファイバーが出ている間はマニュアルでやるように、という指示が出た。これって全然解決になってないのと違う?

という訳で、退院してから一週間後、ダンナは再びマニュアルで透析を始め、夜中のアラーム事件は一着した。

しかし・・・夜11時半に寝て1、2時毎に起こされ、朝5時半に起きて普通の生活をしていた私は、もうぶったおれる一歩手前であった。

こんな時位、夫婦が別々に寝ても罰は当たらんと思うがなぁ。


2005年01月10日(月) 去年の話9:ダンナ自宅療養中(1)

最初の2日ほどはベッドでおとなしくしておった。特に退院した翌日はテレビもつけずに1日中寝ておった。「痛い、苦しい」と本人は切々を訴えておったが、わたしゃ聞く耳持たんもんね!

どの程度痛いのか?どの程度苦しいのか?

おとなしく病人をやっていたのは最初の2日だけ。ベッドの上にいるのは透析をする時だけ。テレビを見たり、長電話をしたり。うんうん唸って苦しがるのは私が近づいた時だけである。

愚息はダンナ退院の翌日、既に大声で怒鳴られておった。「ほうほう、あなたはもうそんな大声で怒鳴る元気があるのだね。」

病院からの帰りに寄った薬局でどっさりともらって来た痛み止めの薬をダンナが飲んだのは、退院した日の夜1度きりだった。もちろん、モルヒネなんて自宅じゃ打てない。もっと弱い痛み止めである。

そして極めつけ!

ダンナが入院中、我が家の居間にあるテレビが壊れた。まだ15年ほどしか使ってない。突然ぷつんと音がして、画面が真っ暗になり・・・その後うんともすんとも言わない。テレビだけじゃないけど、ここ10年ほどの電気製品の進歩は凄まじい。機能だけでなく何しろ軽くなった。しかも安くなった。15年前のテレビはず〜んと重い。修理に持っていくのが大変な上に、修理代で新しいテレビが買えてしまう。という訳で、贅沢だとは思うけど、修理をせずに新しいテレビを買うことにした。と言っても、ダンナが入院中は1日に2度病院へ行っていたので落ち着いてテレビを買いに行く時間がない。テレビが壊れたと言っても、家にあるテレビの1台が壊れたというだけであって、確かにサイズは小さいけど2階にもテレビはある。愚息は2階のテレビを見れば良い。ダンナは寝室のテレビを見れば良い。それにダンナが入院中だというのに、テレビ買ってる場合じゃないでしょう。ダンナが退院してからも、我が家の居間にはテレビはなかった。(壊れたテレビがど〜んと居座っていた。)

話は変わるが、12月である。クリスマスである。ダンナの親戚一同はクリスマスイブの日に我が家で集まってクリスマスパーティをやるのが恒例になっている。今年はダンナの入院騒ぎがあったので、義妹の家でやろうか、という話もあったのだが、ダンナの透析の関係上、我が家でやるのが一番ダンナに都合が良いということで、例年通り我が家でやることになった。

ダンナが入院中の家事手抜きついでに掃除も思いっきり手を抜いていた私は、もうすぐ「今週末がクリスマス」という時になってやっと掃除を始めた。家中(でもないけど、まぁ、人に見られると思われる所だけ)の埃をはらい、掃除機をかけ終わってほっと一息ついたある日のこと。ここで一休みしたいところだが、一気にダンナの薬まで取りに行ってこよう!と私が出かけている隙に・・・ダンナは愚息を連れてテレビを買いに行っていた。しかも、私が掃除機をかけ終わった居間のど真ん中に壊れたテレビをど〜んと置いて、買ってきたテレビをせっせと設置していたのである。もう、家の中、埃まみれですわ。

・・・こんな病人に同情する気になれますかい?


2005年01月09日(日) 去年の話8:ダンナ退院

毎日毎日「明日退院です。」と医者に言わるわりには全然退院しなかった。バクテリアが死なないのだそうだ。が、痛みはかなり治まり、ダンナが「もう家に帰る!」と言い出したので、家で抗生物質を打ち続ける(といっても体に直接注入するのではなく、透析液の袋に注入するのだが)ということで医者の許可が下りたのが12月14日のことであった。結局9日間も病院にいたのね。

この退院というのがまた曲者である。午前11時に主治医がやって来て退院の許可を出す。その後、病院の担当医がやって来て退院の許可を出す。そしてやっと看護婦さんが退院の手続きを取る。その後、病院の誰か(あれは一体誰なんだ?)が車椅子を持ってきて、「私がこの人を責任持って連れて帰ります。」という書類に迎えに来た人(=私)がサインした後やっと退院ができるのだ。

ま、そんなこともあるだろう、と思って「11時に退院だよ」という声を無視して午後2時半にダンナを迎えに行ったのだが、退院できたのは午後6時を過ぎていた・・・やれやれ。

しかも、病院から真っ直ぐ帰れるわけではなく、透析センタへ寄って抗生物質を受け取って、薬局へ行って痛み止め等の薬をもらってから・・・家に辿り着いたら9時を過ぎていた。

さて、これから3週間、自宅療養である・・・やれやれ。


2005年01月08日(土) 去年の話6:ダンナ入院中(2)

今月一杯は、去年の話で行くかな?

ダンナが入院中の私の生活。

ダンナが入院しているからと言って、飯を食わなくてもよいわけでもなく、掃除や洗濯をしなくてもよいわけではない。愚息を学校へ送っていかなくてはいけないから、朝もちゃんと起きなくてはいけない。つまり、起床就寝時間に変化はない。が、確かに家事は随分楽である。

我が家は朝食と昼食は家族3人がそれぞれ違うものを食べる。(どうしてこんなことになってしまったんだろう?)ダンナがいなければ、ダンナの分の朝食と昼食を作らなくても済む。この違いはかなり大きい、ということがダンナが入院して判明した。後、洗濯物の量が減りますな。シャワーの掃除も簡単になるし・・・

さて、朝やることが一段落したら、お見舞いに行く。4日目辺りからは病院へ行くとダンナは眠っていることが多くなった。起きていてもモルヒネが効いているので寝ているのと変わりない。同じ頃、医者もやって来るので、話を聞いて、本日退院は無理、ということを確認してから家に帰る。そして、愚息を学校からつれて帰ってから夕方再び着替えを持って病院へ行く。ダンナは入院中色んなチューブに繋がれているのでシャワーを浴びることができない。繋がれてなくてもシャワーを浴びる元気はなさそうである。が、何があっても最低1日1度はシャワーを浴びなければ気がすまない人なので、夕方のお見舞いの時、体を拭いて下着を着替えさせる。で、夕食が配られた後、一口ずつ味見をしてから(だって、どんなもの食べてるか興味あるじゃないですか!わりとおいしかった。)家に帰る。とまぁ、こんな毎日だった。

しかし・・・家事は楽だし、ダンナが不調を訴える話を長々と聞かされることもないというのに(体調が悪い本人は辛い思いをしているというのは重々承知の上で・・・毎日毎日「いかに自分は苦しんでいるのか」を聞かされて暮らすのはかなりディプレッシブですぜ。)、この落ち着かない気分は何なのだろう?


2005年01月07日(金) 去年の話6:ダンナ入院中(1)

翌日7日の朝、病院へ行くと、ダンナはちゃんと入院していた。いやぁ、まだERにいたらどうしようと思っていましたが、流石に1夜明けると病室に移してもらえるんですな。

どのように痛むのかはわからないが、とにかく痛いらしい。叫んだり唸ったりはしていなかったが・・・病室のテレビがオフになっていることでその痛みの激しさがわかる。(ダンナとテレビが同室していれば、テレビが常にオンになっているはずなのだ。)抗生物質を注入したし、痛み止めを打っているのですぐに痛みは止まるでしょう、とのことだったが、全然止まりそうにない。痛み止めはモルヒネだそうだ。モルヒネ打っても止まらない痛みって・・・ちょっと凄い気がする。

という状態が3日ほど続いた。何故でしょうねぇ。不思議ですねぇ。とは医者の言。

3日後に、ダンナが何に感染していたのかが判明。これまで使っていた抗生物質はダンナが感染していたバクテリアには効かないやつだったそうだ。って、そういうのもっと早くわからんものかな?・・・わからんもんらしい。とても珍しいバクテリアなのだそうだ。どこでどのようにして感染したのかは不明。ということは今後どこにどう気をつければよいのかも不明ということだな。しかし我が家に正体不明のバクテリアが住み着いていると考えるのは、あまり気持ちの良いものではないな。が、我が家で感染したのかどうかも不明なんだな、これが。そもそも、透析中にチューブから入ってきたのか、どこかで口や鼻
から入ってきたのかも不明なのだそうだ・・・困ったもんだ。

その後、新しい抗生物質が効いたらしく、痛みはずいぶんと和らぐ。そうなるとモルヒネが効いてきて・・・ダンナは完全にラリっている(死語?)状態であった。言ってることが支離滅裂で・・・結構面白い。(って笑ってる場合じゃないか。)

5日目にして、明日は退院できるでしょう、と言われた。


2005年01月06日(木) 去年の話5:ERでの透析

去年のネタでひっぱっております。もうしばらく年は明けません。

透析センタから看護婦さんが来てくれていたので、取りあえず愚息を家につれて帰ることにした。家に落として「宿題やっときなさいよ!」と言って病院へ引き返した。病院へ戻ると、ダンナはまだERにいた。が、透析はほぼ終わっていた。

灌流液を使った透析というのは、お腹に埋め込んだチューブを通してお腹の中に透析液を入れ、腎臓の変わりに体に悪い物を液に吸い込んでもらうというもの・・・だと思う。ダンナは家では機械を使っているので、午後に1回やって、眠っている間に4回機械に自動的にやってもらう。新しい液を入れる前に汚れた液をお腹から出す。入れる液は透明。汚れた液は・・・汚れたといってもちょっと黄色っぽいかな?という位の透明の液である。体調が悪いときには時々それに白いくらげの足みたいなものが混じっている。

ちなみに機械から出ているチューブはシャワーへ持って行って、そこに捨てている。で、白いくらげの足が排水溝に詰まるといけないので、シャワーの掃除はマメに丁寧にやらなければならない。くらげの足がなくてほとんど透明に見える液でも、捨ててみると白い(これが実に真っ白)ぐにゅぐにゅしたものが混じっている・・・らしい。捨ててみないとわからない。で、これも排水溝の周りに溜まってしまう。トイレに捨てるのが一番なのだが、トイレにチューブを繋げていると夜中にトイレに起きた私がチューブにつまずく可能性があるので(めったに起きませんけどね)できない。

話を戻して・・・ERのベッドでやった透析の液を見てみると、汚れた血のような色をしていた。赤茶色である。これを見た途端「こりゃいかん!」と思いましたね。いえ、「このまま死んじまうんじゃないだろうか?」とまでは思いませんでしたが、「うん、確かに何かに感染したのであろう。」と。いやぁ、こんなん見たの初めてですだ。

このまま何回か透析をやってから病室に移動する、という。私がやれることはもう何もないな、と勝手に判断した私は、そのまま家に帰ることにした。だって私がいたって何も出来ないじゃないか!というより・・・私が側にいるとダンナが滅茶苦茶大袈裟に叫ぶので、聞かされる看護婦さんも迷惑だろうと・・・私がいなけりゃ静かなんですな、あの人は。「んじゃ、また、明日来るから。」と、傍から見れば実に冷たい態度に見えるが・・・実はやっぱり冷たいのだ、私。

さて、家に帰ったら、愚息はちゃんと宿題を終えて寝ていた・・・なんてことはもちろんなく、予想通り、コンピュータで楽しく遊んでいた・・・やれやれ。


2005年01月05日(水) 去年の話4:ER内部にて(後半)

さて、透析液は持ってきた。後は看護婦さんを待つだけである・・・が、待てど暮らせど(暮らしてないけど)彼女は来ない。代わりに病院側の透析専門看護士さんがやって来てダンナをちらっと見てから・・・去って行ってしまった。

で、また待つ・・・しばらくはおとなしく待っていたのだが、病院へ来てからすでに3時間が過ぎている。いくら気が長い(?)私といえどももう限界だ!(ってその間「早く透析してくれ!」って何度も文句言いに行ってますけど。)で、ナースステーションまで文句を言いにいった。

「一体どうなっているんですか?看護婦さんはいつ来てくれるんですか!?直接私が透析センタに電話して文句言って良いですか?」と一応聞くだけ親切でしょ、私。

ダンナは灌流液を使った透析をしている。病院の透析専門看護士(さっきちらっと顔を出した人)は血液透析しかできない。でもまぁ、透析は透析だし、と言うことで、透析センタの方には「来ないで良いよ。」と連絡を入れたそうなのである。が、血液透析と灌流液を使った透析とでは全く違うことがわかり、「僕、これ出来ない。」出来ないからやらなかったそうである。

「で、出来る人は来るの?」
「いや、透析センタの電話番号がわからないから・・・」

わからなかったら聞けよ!
ほっとくなよ!

透析センタに再び連絡を入れ、すぐ看護婦さんに来てもらうことにした。(夜遅いのにご苦労様です・・・彼女24時間待機の看護婦さんです。)時計を見るともう9時過ぎている。そう言えば、夕食を食べるのを忘れていた。

という訳で、近くのマクドナルドへハンバーガーを買いに行き、病院へ戻ったら看護婦さんが来てくれていた・・・やれやれ。


2005年01月04日(火) 去年の話3:ER内部にて(前半)

何に感染したのかはわからないが、ダンナは感染しているらしい。こういう時に最初にやることは透析である。透析をやって病原菌をできるだけ外に出さなければならない。

ということは素人の私にだってわかる。が、やっとERの診察室までこぎつけたというのに、病院側はのんびりと血圧を測ったり血液検査をしたり・・・ダンナはうんうん苦しみながら寒い寒いと訴えている。そりゃ寒いわな。服脱いで検査用の服(あの、後ろが開いているぺらぺらした寝巻の様なヤツ・・・テレビなんかでよく出てくるでしょ。)1枚しか着てないもん。することがなくてER内を勝手にうろうろしていた愚息が、どこかから毛布を持ってきた。まさか他の患者さんのベッドから持ってきたんじゃないだろうなぁ・・・聞かなかったけど。

さて、何故突然ここで愚息が登場するのか?

ダンナが病院へ行くと同時に、医者は透析センタへ連絡を入れている。透析をするために看護婦さんを病院へ送り込むためである。が、その時、透析センタにはダンナが使っている透析液がなかった。で、看護婦さんが家に電話を入れ、電話に出た愚息に透析液を持ってくるように支持したのである・・・って、何種類かある透析液のうちのどれを持ってくれば良いのか、愚息にわかるわけがないじゃないか!しかも、車は・・・車は病院の駐車場にあるのだぞ!(当たり前だけど)何にも知らなかった私の所へ愚息から電話があった。

愚息「今から病院に透析液を持って行きま〜す。」
愚母「持ってくるって・・・どうやって?」
愚息「父さんのトラックで。」
ダンナのトラックはデカイ。愚息はまだ1度も運転したことがない。しかもダンナのトラックの保険には愚息の名前は入れてない。外はもう暗い。ダンナが病院にいる上に、愚息が事故にでもあったら目も当てられない。そもそも・・・
愚母「これから来るって、病院どこにあるのか知ってるの?」
愚息「えっ、そういえば、知らない。」

場所も知らずにどうやって来るんだよ!

という訳で、私があわてて一度家に帰ることにした。で、帰ってから透析液を車に積み込む時点で、透析液の入った箱が実に重いことに気がついた。で、荷物もちとして愚息を連れてきたのである。

特に急いで行動したわけではないが、病院へ戻った時、ダンナはまだ待合室にいた。アメリカのERなんてこんなもんさ。(日本も同じ?)


2005年01月03日(月) 去年の話2:緊急治療室待合室にて

去年の話ばかりで申し訳ない。何しろ書きたいこと(文句と愚痴)・・・日記書く時間もなかったし。

緊急治療室(Emergency Room・・・ERですな)は満員であった。何しろ病人一人に3〜5人付き添いがいるのだから仕方あるまい。心配なのはわかるし付き添いが必要なのもわかるけど、肝心の病人が座る場所くらい空けて欲しい。元気な子供3人も連れてきて、しかもしっかり自分とダンナと子供たちの椅子を確保して、連れてきた病人ほったらかしで大声でくっちゃべってたおばさん、患者が書類に記入するためのクリップボードとボールペンを子供の宿題用に持っていってしまったおばさん、あんたらここを何処だと思ってるのかね!

はい、私は元気な子供を追い払ってしっかりダンナが座る場所を確保しましたよ。私だって立派なおばさんだもん!


2005年01月02日(日) 去年の話:ダンナの入院

去年の日付に書き込んだ方が良いのだろうけれど、そこはほれ、もう過ぎ去った日々のことだし・・・

去年の12月6日のことである。ご存知の通り、ダンナの腎臓は全く機能していないので、透析で生きている状態である。が、透析やっていれば普通の人と同じように過ごせるというものでもなく、やはり体調がすぐれない日が多い。で、去年の後半から週2回ほどは仕事に行けず(行かず?)家で寝ているという日々が続いていた。で、その日も「気分が悪い」と言って寝ていた。普通は家で寝ているといってもテレビを見たり飯を食ったり家の中をうろうろ動き回ったり(主に私の後ろをついてまわり、私の仕事の邪魔をしている・・・赤ん坊か、お前は!)と「本当に病人かよ?」と言いたくなるようなヤツなのだが、その日はテレビもつけず食事もせず、じっとベッドに横になっていた。私が愚息を学校から連れて帰ってきてもベッドの中にいた。これは変だ!もしかしたら本当に病気?という訳で、医者に連れて行くことにした。医者に連れて行くと・・・「はい、このまま直接病院に行って、入院してください。とりあえず、緊急治療室へ行ってください。」

私「えっ、何故?どこが悪いの?」
医者「感染してますね。」
私「何に?」
医者「わかりません。」
私「・・・・・・」

という訳で、医者のオフィスの前にある病院の緊急治療室へ連れて行った。そして彼はそのまま10日間ほど入院することになる。

こっちの病院ってパジャマとかスリッパとかな〜んにもいらないんだよね。(日本は必要なんだっけ?)


2005年01月01日(土) 謹賀新年

新年明けましておめでとうございます。
昨年はサイトの更新もせず、日記も途中でプツッっと中断し、皆様に大変ご心配おかけしました。申し訳ないと反省しております。こんな日記でもマメに読んで心配してくださる方がいらっしゃるというのはとてもありがたいことです。
実は去年の後半から日記を書くのは止めてしまおうかと考えていました。愚息は不良化(?)するし、ダンナの体調は悪化するし・・・何があってもわっはっは!と笑い飛ばせる気分じゃなくなっておったんですな。PCに向かう時間を見つけるのが難しくなったという理由もありますが、なんといっても気分が暗かったのが一番の問題でしょう。
年が明け、気分が一新したわけでも心境の変化があったわけでも、環境の変化があったわけでもありませんが、怒りや落ち込みなどネガティブな気分が続かないのが私の根性のないところで、問題は何一つ解決しないまま、暗い気分に飽きてきたらしく、日記を再開しようかな?というところまで上がってまいりました。これからも急に間が開いたり、まったく書かない月があったりすると思いますが、きっぱり止めてしまう決意もできないもので、ぼちぼちと続けていくつもりですので、今後ともよろしくお願いします。


DOTMOTHER | 掲示板ホームお手紙

My追加