股・戯れ言


BBS

激しい嘔吐が俺を変える2008

いやー高校サッカーっていいね!
一条高校(奈良)VS鹿島学園(茨城)がやってたので見ていたのだけど、PK戦になったとたんに「ああー絶対泣かされるわ」と思ってたら、案の定泣きました。むろん一条高校に感情移入して。
まあ、今年はもう高校サッカー賭けなどもしていないんですけどね。

というわけで年の瀬到来。早いなあ、一年が過ぎるのは。
わたくしはこの肝心な時期に激しい嘔吐に襲われて、ちょいダウンしてしまいました。激しい嘔吐が俺を洗う、ってな具合に吐き気がするほどダウンチックだぜ。ノロウイルスが流行っているらしいので皆さん気をつけてくださいね。
わしは吐きまくったらなんとか立ち直ったけど、また排卵痛到来ですよ!一ヶ月の半分以上これがやってくるからなーそれが12ヶ月分だからなー。
つらい。来年は排卵痛が中和されますように。


さて、毎年これくらいの季節は一年を振り返る日記などを書いておりましたが、今年は割愛。今年は結構日記書いたからいいかなーと思いまして。
今年はなんつっても会社辞めたからな!それ以外のトピックスは無に等しいですよ。なーんも書くことねえ。
もう会社勤めていた時と全然違う生活だしなー。
いろんなことが変化した一年だったわい。
あと今年は自信獲得に努めた年でした。これはまだ達成できたのかどうかわからん。昨日も友人に「やっさんは、遠慮なんかすんじゃねえ」諭されたので、まだ気弱になったり自信がないような素振りをしておるのだろう。
でも、今年はだいぶ自分分析や、過去の過ち検証をしたので大丈夫ですよ。
悪い自分てのも自分でようわかっておる。
客観的に見て、今は自分が何も選択できないということもわかった。
(選択したとしたら、それは無責任な選択になってしまうのだとわかった)
というわけで、目標というか、目安というか、それに向かっていろいろ準備/修行をするのが来年だね。
自分で課した時期は1年間。そんで2ヶ月が経過したわけですよ。あと10ヶ月間かー。無駄な時間は一秒たりともないなー。ゲロゲロ吐いている場合じゃないわい。


というわけで、皆様、今年も一年間お世話になりました。
仲良くして下さった方、また来年も仲良くしましょうね。
疎遠になってしまった方も、来年はまたご縁があるといいですな。
まだお会いしたことのない方(奇特にもこの日記読んで下さってる方)も、来年も宜しくお願い致します。
とりあえず年越しはカウンター業務切り盛りですわー。
そんでは、また来年!

2008年12月31日(水)

実写版29歳のクリスマス

クリスマスでしたね!
何回か前の日記にドラマ「29歳のクリスマス」について書きましたが、実写版29歳のクリスマスはカウンターバー切り盛り2連チャンしておりました。
結局仕事か!なわけですが、まあ、わしの夢である「50までにスナック経営」のために、日々修行なんでいいのです。気がつきゃ50まであと20年弱だからなあ。時間がないわい。


で、まあ、そんなクリスマスに友人のにゃにゃこちゃんが来店してくれました。
「パパと行きます」というメールを貰っていたので、はて、どんなパパかしら?(よくない考え方)と思っていたら、実のお父さんだそうで。
しかも18年ぶりに再会したというお父さん。
クリスマスイブにそんな素敵なことがあるなんて!すばらしい!
それでわしの店に来てくれるなんて!
で、このお父さんが写真家・中居裕恭さんでした。
写真集を何冊か見せていただく。最近出たという「1978・新宿ゲイ」という写真集が素晴らしくかっこよい。80年代に入る前の新宿二丁目そして歌舞伎町の空気や熱気が詰まった写真の数々。華やかに着飾ったゲイの方々がピースサインしたり、剃り込みにパンチパーマの不良たちがポーズ決めてメンチ切ったり。
芸術やアートの匂いが全然しないのがいい。その人達の生活が、生きているということが生々しく伝わってくるのがいい。
前に宮崎の観光地(30年以上前に流行ったところの跡地。今も観光地ではあるけど廃れておった)に行った時に思ったことだけど、何千年も残っているところや、最近出来てきた綺麗な観光地より、2,30年前の場所のほうに惹かれるのは、そういう場所のほうが「自分に直に繋がっている場所」だと思うからだと思う。行ったことがなくても、そこに人間が生活していたんだ、という臭いを感じるからだろうな。

で、この「1978・新宿ゲイ」にも同じように自分に繋がっている何かを感じるのだよね。私はゲイでもヤンキーでもないけれど、自分とおんなじ。生活の臭いなのか生命の臭いなのか、それはよくわからないけれど、カメラを向けられて自然に、やや照れながらも、ポーズ決めたりおどけたりする、あの感じ。それにシンパシーを感じるし、「毎日がお祭りみたいだった」というのが、すべての被写体の表情から感じ取れるのが、なんというか愛おしいんだよね。
よく赤ちゃんの写真を見ると幸せな気分になるというけれど、私はこの写真集に収められている写真を見て、それに近い気分になりました。
とにかく皆、楽しそうで幸せそうなんだもの。
実際には、楽しくないことも沢山あっただろう。トータルで見れば不幸だったりもするのかもしれない。むしろそっちのほうが多いことだろう。
でも、この写真に写っている瞬間の、いきいきとした幸福感。酒に酔っている間だけの幸福感の、さらに一瞬の、刹那的な生命力に溢れた表情に私は心底魅力を感じる。こんな風に笑えたりカメラを見据えられる瞬間があった彼等に、憧れすら抱いてしまう。
ここに写っていた方々は「みんな死んじゃったよ!」ということらしいですけどね。でも、そんなのは結果だ。過程にこうやって輝いた瞬間があったから、きっといいのだ。


写真集はアマゾンでも買えるみたいなんで、是非。
http://www.amazon.co.jp/1978-%E6%96%B0%E5%AE%BF%E3%82%B2%E3%82%A4-%E3%83%A1%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%82%A2-%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AB-no-4/dp/4903141071


28日まで写真展もやってるそうですよ。わしも明日行ってきます!
http://www.placem.com/schedule/2008/20081222/081222.html


このほか、八戸の街や人々を被写体とした写真集も見せて頂いたが、これも八戸の荒涼とした空気、特にあの海風の強さと冷気が伝わってきて素晴らしいです。風景もさることながら、八戸の市場で働くおばあさんたちの顔に刻まれたシワに人生を感じる。
新宿ゲイもそうだけど、生きる/生きているということは、外面/表面に沢山出てくるんだな。「内面と外面は違う」のかもしれないけれど、生き様は表面に必ずにじみ出るものだと思う。
だからこそ、内面で「どのように生きるのか」指標を持つことが大事なのね。
どこで生きていくのか。そして、生きていくことに自分で責任を負っていくことを。
さて、私の表面にはどんなものが滲み出ているのかね。


まあ、そんな素敵な写真集見せていただいて、感動再会に立ち会わせていただいて、その後は仕事で知り合った方の店飲み行ってニューハーフの方とも話させて頂いて、おもしろいクリスマスでした。
今日のクリスマスのほうも音楽おもしろ話いろいろきいたしな。


で、家帰る間に沖縄の心の(カウンターバーの)師匠からメール貰って、わあ!と喜んでいたら
帰ったら石垣の友人からクリスマスカードが届いていてさらに感激。
ありがたいことですよ、ホント。
29歳のクリスマス実写版はそんな感じ。
パーティーもデートもねえけれど、
わしの人生は充実しておりますよ!(負け惜しみじゃねえど!)

2008年12月25日(木)

YES!WE CAN CHANGE 好みのタイプ

今年もあと一週間あまりとなってまいりました。
でも全然寒くないのな。こないだまではあまりの寒さに腰回りが冷えてたまらんわーと思っていたのだけど、昨日のぬるさといったら!3月後半くらいかと思いましたよ。まだ早いよ!冬は比較的好きなので(重ね着好きだから)、寒くないとちょい残念だ。


さて、昨日は久々外出もせずM-1を見ていたのですけど(しかもスカパーでやってた敗者復活戦から見ていたからな)、敗者復活戦から見られるというのはここ数年では考えられなかったことであった。おととし、去年と仕事で見られなかったからなー。
何が面白かったかとかそういうのは、別に批評家ではないのでいいとして。
で、常々、私が思う「完璧な顔」だという笑い飯の西田氏を見て、ああやっぱりカンペキな顔だなあ、わしは本当にこういう顔が好きで好きでたまらんなーと思っていたのですが、今年はちょっと違った。
前々から気になっていたのだけど、モンスターエンジンの鉄工所ネタやるほうの人に思いもよらぬほど動揺しました。前に鉄工所ネタやってるの見て、その鉄工所工員スタイル見ても心が動揺したのだけど、あれ?作業着萌えだったのか俺。自分が作業着着てたけど、と自分ではそこで落ち着けていたのですよ。
でも違ったな。作業着云々ではなかったわい。
「顔が好き」とかそーいうもんでもなかった。全然想像していないところでの動揺。なんだろうなあ。少なくとも自分でわかっているのは、
「口にするのがチョット恥ずかしい」という類の動揺なのだということです。
って、だったらこんなところに書くな!という話ですが、
これは口にしているわけじゃないからいいのよね。


先日、カウンターバー切り盛り時に、まあいつもいろんな音楽かけておりまして、その時はソウルだのダブだのをかけておったのですが、お客さんに
「ヤツザキさんて一番好きな音楽はなんなんですか」
と聞かれたことがあった。
まあ、なんでも聴くのだけど、一番好きなのはアメリカのインディーズなギターバンドなのだよ。最近は「ギターバンドに興味なくなってきたわ」などとほざいておりましたが、やっぱりどうしても抗えない。今年出たポータスタティックの二枚組もちゃんと買って愛聴しておりますよ。
だけど、店ではかけられないのねん。のねんのねん。
そしたら、その場に居合わせた友人が
「ヤッサンは、自分が本当に好きなものを人に紹介するのが恥ずかしいんだよな〜」
と言っておりまして、ああ!そうですよ!その通りなんですよ!よくわかってらっしゃる!と友人にひれ伏しました。そうなんだよなー、スーパーチャンクやガイデッド・バイ・ボイシズを人前でかけられない。こんなに日記で書いているというのに!家でもひたすら聴いているというのに!
あまりに好きすぎて、自分の一部をさらすような気分になってしまうのよね。
自分の一部さらすって、スーパーチャンクは私だけのものではないのだけどさ。みんなのスーパーチャンクだからね。
ああ、そうか。その錯覚というか勘違いを「錯覚です」と認めるのが恥ずかしいのか。いや、それがジャストな答えではないのだけど。


モンスターエンジンの鉄工所の人(名前知ってるんだけど、なんか書くのもちょっと恥ずかしい)に動揺したのも、これと同様の恥ずかしさのような気がする。
いや、それだけじゃないな。20%くらいしか合ってねえ。
そうではなくて、「自分の好みのタイプが変わってきたのか」という衝撃もあるのだよな。私の好みのタイプといえば、ヒゲだ、濃い顔だ、というのだったのだけど、モンスターエンジンの方は全っ然違うからな。どちらかというと薄い顔だ。ヒゲだって全然生えてねえ。
なのに揺さぶられた。何故だ。何故なんだ。
男の好みというのは、年齢とともに変わってくるものなんでしょうか。
まあ、そんな衝撃もありますけれど、一番心奪われた事実は
たぶんだね、「普段無口っぽい」というところだと思うのですよ。
わしは自分はガハハ笑ってベラベラ喋ってという女ですが、なぜか無口っぽい男性のほうに心揺さぶられるのであった。何考えてるんだかわからないような人な。自分がわかりやすいが故にそういう人に興味を引かれるのだろうな。人って自分にないものを求めるからね。
でもそれだけじゃないんだよなー。ああ、説明できない。
いや、がんばれば説明できるんだけど、説明したくないのですよ。なんか恥ずかしくて。って、テレビ出ている人に心奪われたということについて、こんなに勿体つけたところでなんにもならんのだけどさ。
しかもM-1グランプリという漫才やる場で気付く事実じゃないんだけどさ、「普段無口っぽい」て。喋る場だからね。


と、ここまで勢いで書いたのだけど、この日記アップしないで消しちゃおうかと3回くらい思ってしまった。
それくらい恥ずかしい!
でも勇気を持ってあげてやる!
なんかこういう風に恥ずかしいと思ったのは何年か前にこの日記で「わしがポワーンとなる男性について次々に書いていくシリーズ」やった時に、中川家礼二の名前を挙げた以来だな。
その時の日記を読み返してみたのだけど、「(礼二にときめいてしまうのは)デートをしたいと、リアルに思ってしまうから」と書いておったよ。
あー、それだ。それそれ。
わざわざ書くのももう恥ずかしいので書かないけど、それとおんなじような感情に襲われたんだよな・・・。いや、それともやっぱり正確には違うんだけど。
・・・。
・・・・・。
・・・・・・・・。
ああ、もうこれ以上は何も書けない。もう勘弁して!(自分で書き始めたくせにな!)


あ、いちおう言っておきますが、「抱かれたい」と思ったわけではありません。
昨日のM-1の中で一番抱かれたかったのは彼でも笑い飯西田氏でもなく、中田カウス師匠ですから。カウス、恐喝してても全然気にならない。NO問題。
って、あんまり男の好み(おじさん好き)変わってなかったわい。
いや、でも変わりつつもあるんだよなー。うーん。守備範囲が広がったという解釈でいいのかな。それとも好みのタイプに新部門ができたということなのか。うーん、うーん。(悩んでるフリ)

2008年12月22日(月)

幸せだったら返事はいらない

今日の新聞にこのような記事が載っておりました。

>女性は排卵期に入ると、女性らしさをアピールするために無意識に声が高くなる――。
>
> カリフォルニア大学ロサンゼルス校の2人の科学者は、女性69人に、
>排卵周期の高温期と低温期に声を録音してもらった。
>すると、女性は排卵期に近づくにつれて声が高くなり、
>排卵日直前の2日間で最も高くなることがわかった。
>また、月経期に入ると逆に声は低くなることが判明した。
>
> 研究を行った科学者は、こうした声の高さの変化について、
>男性は女性の「女性らしい」声に惹かれる傾向があり、
>女性は本能的にそれに応えているためだと推測する。
>性的なシグナルと生殖可能な身体状況は、声と密接な関係を持っており、
>力強さを示すハスキーボイスに女性が惹かれる傾向があることもこれで説明できるという


先日、銀座駅で友人に「切符買うからちょっと待っててー」と声かけて切符を買っていたら、浮浪者らしきオッサンに背後から
「声きいて男だと思ったら、女だったのか!」
と話しかけられるという、大変ショッキングな出来事があった私でございます。
今まで、協力会社の人や、某会社の警備員や、実の父親に「声だけ聞いて男と間違えられた」という経験をしてきたわけですが、
ルンペンにまで間違えられたか!ついに!
私の声はどこまで低くなっていくんだ!?

そんな矢先の冒頭の記事。
排卵痛で毎日ウンウン唸っていて、私の排卵は人よりも大変だわーつらいわーと思っておりましたが、そんな風に排卵期ちゃんとあるというのに、
なんで!
声は高くならないんだよー!!!
私の本能は男を求めていないのかよ!
生物のメスとして敗北しておるわい。
まあ、これで私がモテない理由がわかったけどね。でも理由わかったところでなんの慰めにもならん。もう、ホント、声帯手術するしか道はないんだろうか。(一般には性転換した男性が女性声になるためにやるものらしいけど)


いや、でもほんと、「本能的に男を求めていない」ような気がして怖くなってまいりました。
そんなことないよ。私は男性を求めておりますよ。
と、心から思っておるのだけど、普段から「男を信じちゃだめだ」「男なんて頼りにしちゃだめだ」と言い過ぎたからな。
2008年の年の瀬、こういうことを言い過ぎたのを本当に心から恥じ入る毎日だ。素直に言うのが恥ずかしいばかりに、素直に言って、あとでもし自分が傷ついたり落ち込んだりしてしまった時が怖いばかりに、こういうことをつい簡単に口走りすぎた。過剰防衛しすぎた。何を守ろうとしていたのかよくわからんけど。(←それくらい取るに足らないものを守るために言ってたんだということだ!愚か者め私!)
その罰ですか、この声の低下は。
ううむ。
なんかエンドレス排卵痛も同様のバチな気がしてきた。
神様、もうごまかしたりはしないんで、声高くして下さいまし。排卵痛も止めて下さい。あと銀行残高もうちっと増やして下さい。(スパゴー的願い)



と、まあ、嘆いてばかりいてもしゃあない。
この声の低さをどうにか活かすことはできないものかと。ゴスペル習うという話は出ているが、とりあえず今は歌謡曲マスター(マスターというかマダムだけど)から課題を出された歌謡曲習得でレベルを上げている段階でございます。
この歌謡曲マダムからの課題が多すぎて、全然ついていけてないんだけど、最近出た課題である和田アキ子の「コーラスガール」はイイ曲だなあ。
なんかもうすべてが心にぐっとくる曲だわ。「旅」で「あらかじめ去っていく」で「続けていく」ってところが心になんか訴えてくるんでしょうね。
ここ2日くらい、シャワー浴びてても風呂入っててもトイレ入ってても「幸せだったら返事はいらない」を口ずさんでいるような気がする。
和田アキ子の曲はこれに限らず上手く歌えそうです。
あとグルーブ感をもっと獲得しないといかんけど。私、歌えるうちは続けていくつもり。(天龍源一郎レベルのしゃがれ声になったらアウト)



ちなみに、冒頭の記事で「女性は男性のハスキーで力強い声を好む」とも書いてありますが、でも哀川翔なんかはどうなのですかね。ベッカムの声の高さに違和感感じるメカニズムはわかったけどさ。


2008年12月20日(土)

ユー・スピン・ミー・他人の「軽い女」価値観

深夜番組「美しき青木ドナウ」ん中でやってる「女のデッド・オア・アライブ」というコーナーが好きで、それを見ては「私だったらA選ぶわ」「B選んだほうがいい女じゃねえか」とあれこれ言っているのですが、
(今日、このコーナーのテーマ曲がデッド・オア・アライブであることに初めて気付いた)
今日のお題の中に
「あなたは好意を寄せている男性に『家にDVD見に来ない?』と誘われました。あなたならどうする?
A.行く
B.断る」
というものがありました。

パネラーである女性達の意見は真っ二つに分かれて、「なぜ行くのか?」「なぜ断るのか?」というディスカッションが繰り広げられたのだけど、
B選んだ森口博子が
「着いて行くことによって、軽い女だと思われるのはダメなのよ」
「男の中には『大事にしたい女』『すぐやれる女』『簡単に捨てられる女』という引き出しがあるが、すぐ家に行く女は大事にされない。ここは断るべき」
と言っておりました。

わしもこの日記では「女は自分を大事にしろ」と書いておりますが、わしの答えはAです。
自分が好きな男だったら、行ってもいいんじゃねーの。むしろチャンスだと思う。ただし、好きじゃない男には絶対ついて行くな!自分がいいと思った男だけだぞ!と言いたい。
着いていくと軽い女に思われる、とは言うが、「自分は軽い女ではない」という自覚があればいいんじゃないかと思うんですけどね。自覚というか自信か。
行ってもやらなきゃいいんだしさ。自分がやりたければやればいいし。
そこは自由だ。個人の裁量だと思います。
女はどうしても客体である(選ばれる/やられる/捨てられる、というような感じね)という意識が強いですが、選ぶのもやるのも捨てるのも女だっていいじゃないか、自分が主体なんだから。とは言っても、なかなか難しいことですけどね。そう言ってる私もそれが実践できているかといえば、そうではない部分も多いですから。


まあ、そんな私の考え方はこの際どうでもよい。
「A.行く」を選んだ森下千里が、「行ってもカラダの関係にならなければいいんですよ」「軽いとかそういうことが問題なんじゃなくて、行くことで自分が好きであるという意志が伝えられればいい」というようなことを言ってまして、それに対して森口が「軽く見られることがどういうことだかわかってるの」「甘いわよ」と言っておったんです。
そしたら森下千里が
「森口さんは、今まで『軽い女に見られたくない』というので断ってきて、よかったんですか。幸せになれたんですか」
とかなり突っ込んだ疑問を突きつけておったのですよ。
で、森口が
「私は、全部自分で選んできたの!仕事をしている自分が幸せだったから、それ以外はプロポーズも含めて断ってきたのよ!」
と答えてて、それでも森下千里が納得いかねえという顔してたのですが、
それは「森口博子ごときにいい女発言されたくねえ」と思っていたからだと思う。
悪いが、私も「それを森口が言っても全然説得力ないなー(仕事って夢がモリモリやポップジャムだろ)」と思ってしまった。いい女発言って人を選ぶね。気をつけましょう。



で、ここまで長々と引用したのは、この、
「軽い女に見られたくないから断る」
という部分について、ちょっと言及したくなったもんで。
最近MTVをよく見ておるというのは何度かここにも書いておりますが、わたくしは派手な肌露出しまくりのクリスティーナ・アギレラさんが好きでたまりません。ブリさんも好きです。下品なくらいの露出。腰のふりっぷりも素晴らしい。なんというのかなー、いわゆるビッチみたいな格好しているねーちゃんって、「軽い」というイメージのものを沢山身にまとっているのに(逆に裸に近いから身にまとっていないか)、ものすごく「強い」と思うのですよ。
自分の肉体を誇ることは、軽いように見えて全然軽くない。むしろ自分の肉体は「武器」だからね。かつ、魂の鎧だからね。
若い女の子、いや、若いに限らなくて全然構わないが、女性が自分の体をガンガン露出し(エロスアピールという意味合いだけではない。って女性であるならわかることだけど、男はそれがわかんなかったりするんだよな〜)、髪の毛ガンガン盛っている姿って、とっても攻撃的でかっこいいなあと思う今日この頃。あれは男に媚びる格好ではないのだ、自分がしたい格好をしている結果なのだ。つーか、「男を自分の手で掴む」ために、あの格好をしているのだとしても、それはそれで能動的行為であって、媚びているとしても自覚があるからいいのでありまして。
こういう攻撃的アピールはものすごくポジティブなので、いいと思います。
むしろ全面支持。女なんだもの、女であることをとことん楽しまんと。武器にしないと!


で、「軽い女に見られたくないから断る」っていうのは、それとは対照的な方法論だと思うのですよ。引き算方式というか。ガード戦法というか。
ものすごく消極的な「自分の価値引き上げ法」だと思うのですよね。
さっきも書いたけど、自分は軽い女じゃないという自信さえあれば、何があってもやられないで乗り切れると思うのですよ。裏を返すと、自信がないから先にそういう状況にならないように予防線張っている、とも取れる。
誰だって「軽い女」なんて思われたくないものですよ。
それはビッチだって、ヤリマンだって、尼さんだって一緒だ。そんな風に誰からも思われたかないよ。
だからこそ、自分だけはそうじゃないと自分を信じるということが大事なわけだが、そうやって自分を信じられない人のほうが、あらかじめガードポジション取ってたりするんじゃなかろうかと思いました。
まあ、そもそも「軽い女に見られたくない」って動機が、すでに自分が主体じゃないわな。周りや男がどう思うかなんて、自分が自分をどう思うかに比べたらちっとも重要じゃねえっつうの。
(まあ、「自分を軽い女だと思いたくないから断る」というのなら、まだいいのかもしれんがな。でも、これもそうじゃないという自信さえあれば乗り切れることだと思うのだけど。そんなに人間強くないかね?)
そんな他人との比較の世界で生きていたら、いつまでたっても自分「だけ」を見殺しにしたまんまだ。それで自分は幸せになれんのか。この世で絶対なのは、自分たったひとりだけなんだから!



なんか書きたいことがちょい違ってしまったが、まあ、いいや。
しかし、森口博子を外見はブスだとは思わないが、「自分を大事にする」「自分には価値がある」ということを間違って解釈してしまう女性(周りにそういうアピールをすることで安泰だと思ってしまう女性)ってのは、何でか知らないが二流以下の女性ばかりになっているよねこの世の中。ブスにも多いよな〜。いや、そう思っているからその女性はブスになってしまうのだよな。ブスってやっぱり外見の問題ではなく、内面の問題なのだ。


私は、傷だらけだったり、バカみたいだったりしても、自分だけは自分を見捨てねえ!と闘いに挑んで、敗れたらその傷口をバカバカ見せていく女性のほうがずっといい女だと思います。傷つくのなんかみんな怖いんだよ。それでも戦いに挑んでいく女、負け戦だとわかっていても戦場に身を投じる女。
そういう女がやっぱ好きだ。愛おしい。
負けても負けても、わしが抱きしめてやる!(その代わりわしが負け戦から帰還したら、抱きしめて!)

2008年12月15日(月)

対てるね、ノッてるね

寒い季節になってきたからか、排卵痛がズッキズキしてたまらん日々が続いております。
「女はおなかを冷やしちゃダメよ!」なーんてのをよく聞きますが、あれってほんとだったんですね。妊娠してる人だけが冷やしちゃいけないんだとばかり思ってました。
湯船に入るのは大事であるなー。湯船入っている間だけは絶対痛まないからね。出たとたんに待ってました!とばかりに痛みがきたりするけど。
今日はもう痛みがマックスに達していたので、こりゃーかなわんわとサウナに行ってきました。20分×3くらい湯船に入っておりましたよ。サウナも5分×3やったけど、途中でビール飲んでしまったからそれ以上できんかった。
サウナいいわー。極楽であるわー。
前に「マン喫に住みたい」という友人がいたけれど、私はマン喫より断然サウナだな。サウナに住んでしまいたいわ。3ヶ月ロッカー借りたくなったですよ。
まあ、とは言っても、そんなにしょっちゅうサウナ行けるわけでもないので、誕生日に友人からもらったはらまきを毎日するようにしよう。
しかし、いつになったらこの痛みから解放されるんでしょう。薬で痛みを予防するのはダメ(特異体質だったから)になってしまったしな〜。環境が変わるとストレスが減って、体質が変わるときいていたが、会社辞めたけど全然おさまらね。じゃあ私のストレスは一体何なのだ!?


話は前の日記の「女神記」に戻るのだが、女はみんなイザナミだー割食ってでもそこからのし上がっていくものじゃーと書いた。みんなイザナミって書いたけど、別にみんなじゃないですね。女の一部がそうだと言うだけの話でした。
堕落したまんまという女もたくさんいると思います。でも、堕落しても、どこまでも落ちてもそういう人でも生きていくから、やっぱりそれは「何があっても生き延びる」って意味でイザナミな気がするな。死んでも死なないって意味で。
それが言いたかったんではなくて、この「女神記」、すべてのことは対である、というのもテーマになっておるのですよ。この世は陽と陰、天と地、昼と夜、生と死、男と女、とすべてが対になっていると。イザナギ・イザナミの話でも「私には一部分足りない部分があるのです」「私には一部分余分な部分があるのです。では、それくっつけて国作ってみましょうか」というくだりがありますから、対であるということは足してひとつになるということなのだよな。
ひとつでは不完全。ふたつで完全。というか完全以上。
で、これ聞いて思い出したのが「日出処の天子」でした。
久々にとこてんの話書くな!最近、ザ・フーの話書いたりもしたので、なんだか往年の「股・戯れ言」に戻った気がするよ!
そのとこてんで、厩戸皇子が毛人(言うまでもないことだが、両方男。そして厩戸は毛人が好きで好きでたまらない)に
「私たちは、2人でひとつなのだ!生まれる前にそうだったのだ!
 2人だったら、なんでもできるのだよ!」
というシーンがあるのだけど(厩戸は超能力者で、日本に雨降らさなきゃいけないときにひとりで頑張ったんだけど結局ひとりでは降らすことができず、毛人に助けて貰って雨降らせたりしておった)、
それ聞いて毛人が
「私と貴方が結ばれないのは、2人だと神以上になってしまうからです。
 それは、起こってはいけないことなのですよ」
みたいなこと返すんだよな〜〜〜。
まあ、このシーンは他いろいろあって(厩戸がものすごくみっともなくなっていくあたりに、激しく感情移入してしまう)、号泣しまくりシーンなんですけども。
完全以上になってはいけないのだよな。対ってのは正反対という意味もあるから、絶対にくっつかないという意味でもある。
でも、どっちかが欠けたら、片方の存在意義はないのだ。
夜がなかったら昼はありがたく思われない、みたいなもん。男がいなかったら、自分が女であることを自覚しないということ。
はー難しいねえ。


こないだ人と話していたら、「夫婦や恋人に対等はない」「対等になったら、それは夫婦や恋人ではない」という話をされてました。
その人の理論は「女は男を立てろ」ということだったので、いや、それは100%納得することはできかねます、と言ったのだけど、
上の理論からすると、対等な異性というのは、必要だけど結ばれてはいけない/結ばれることはないということだから、対等ではない異性と恋愛や結婚をすることってのは、まあ理にかなっているのかもしれませんね。
でも、やだな。
やっぱり相手には「尊敬」を抱きたいんだよなー。
見下されるのもいやだし、劣ってるなあと思うのもいやだもんなあ。
でも実際、片方が片方をものすごくバカにしている夫婦や恋人って多いからな。「相手をけなさないと気が済まない」ってのも実際きいたことあるけど、それは愛情の裏返しだと思いたい。
だったら、100%対等な、恋愛関係肉体関係一切ナシの人と結婚「のみ」をしたい。対外的な意味(親の手前とかね)や、老後楽しく生きるため「だけ」のための結婚でいいや私は。

でもそれだと一生、「私は一部分足りない部分があるから不完全」という思いに駆られたりすんのかなー。わからんけど。

まあ、自分で「足りないけどこれで完全」と思ってればいいだけの話なのだよね。「足りない部分を埋めたい」という思いに固執しなけりゃ楽なんだろうけど。あと「足りない部分があるけど、それを埋めたら、もれなくほかの必要ないモノもついてくる」ってのをものすごーいデメリットだと思うとかね。
実際、そういう考え方でひとりの道を選ぶ人っていると思う。
まあ、何を選んでもいいんですよ。ただ、選んだ以上は文句言っちゃいけないってだけの話だよな。誰かのせいでこうなった、とか、こんなはずじゃなかった、ってのは絶対禁止ってだけの話。
はー難しいねえ。(二回目)
2008年12月12日(金)

女はみんなイザナミである

桐野夏生の新作「女神記」が出ていたので読みました。
新作は日本神話!しかも、イザナギ・イザナミの話だったですよ。イザナミを取り上げるのが桐野夏生らしいなーと思いました。どんなに逆境でも、ものすごく悪い扱いであろうと、転んでもただじゃ起きない女の話を書くのがうまいからなあ。悪女と呼ばれようと、みっともない女になろうと、決して誇りを捨てない女というか。
いや、違うな。女というのがもともと、何があろうと誇りを胸に、どんなところからでも這い上がっていく生き物なのか。どんな場所でも、どんな状況であっても、ものすごい負の感情すらも、生きる力に変換できる生き物というのが、女なんでしょうね。「自分」が生き抜くために、どこまでも貪欲になれるのだよな。

って書くと、なんかこれは「女神記」よりも「東京島」の感想のようですね。東京島の主人公の女はすごかった。どんな手を使ってでも「自分」が生きることだけを模索していた。女は何度も他人(おもに男。まあ、同性もあるけど)に心を殺されるから、せめて自分だけは自分を殺してはならんのだ。わしも、そういう風に生きている。


しかし、桐野夏生は「メタボラ」以降、沖縄のことばかり書いてるね。
「東京島」も尖閣諸島(かと思われるが、実際のところはわからない)の島が舞台だったけど、「女神記」は久高島の話であった。「女性」が「生き延びていく」、あるいは「生命を燃やし尽くす」ということがテーマの作家さんだから、その舞台にはあの、生命力溢れる南国の島があっているんだろうなあ。

そういや、またペルー人の幼女殺した人のことがニュースになっておるが、
どっかで読んだけど、あのペルー人見るとやっぱり「OUT」のカズオを思い出すな。車会社の契約社員が一気にリストラにあったというやつも、ものすごく「メタボラ」を想起させられます。

2008年12月10日(水)

音楽とは

自分が何か苦境に遭った時や、このうえない幸福を得た時、音楽は聴くものを励ましてくれたり、その幸福な気持ちを上手く言い表してくれたりするけれど、
ほんとは、音楽は何もしていない。何もしてくれない。
音楽は、ただそこに在っただけだ。ただずっと、そこに居るのだ。
大事なのは、音楽が好きだという気持ちと、音楽を信じるほうの気持ち。
つまり聴く側の信念だ。
音楽は私を裏切らない。音楽は私を見捨てない。
そうじゃなくて、私は音楽を裏切らないということ、私は音楽を見捨てないということなのだと思う。
私は音楽が好きだ。
だから、聴くという行為を、レコードに針を落とすという行為を、CDをセットするという行為を、ライブに行くという行為を、決して断念しない。めんどくさいとか、他にもっと楽しいことあるよとか、思わないでずっと続けて行こうと思います。何があっても。どんなことになっても。


音楽について考えていたら、音楽を聴くと言うことはものすごく能動的なことなんだよなーという当たり前のことに改めて気付いたので、ちょっと書いてみました。思いついたままに書いたので、何が何だかという感じもありますが。
まあ、この考え方は音楽以外にも通用することで、本/読書や映画に置き換えてもいいんだけどね。対人関係でも構わない。
ちなみに私は、人を好きになる/好きであるということも、これと同じ考え方であるよ。音楽が私のものの考え方の基本なんだな。

最近はザゼンボーイズの4番目のアルバムとモッズをよく聴いております。
モッズは店で流すように、昔買ったのに全然聴いてなかったアルバムを引っ張り出して聴いてるんだけど、いいね。ルースターズばかり聴いてないでモッズももっと聴いておけばよかった!と後悔しまくり。いや、これから沢山聴けばいいんだけどさ。「TWO PUNKS」がいい!ものすごくイイ!
今年は久々に石井さんとこの「おれ/わたしのベスト2009」に参加しようと思っております。ザゼン4は入るな。たぶん今年のベスト10にギタポ勢はほとんどいない気がします。さあ、そろそろ真面目に選ぶとしよう。

2008年12月08日(月)

ジャスト29歳のクリスマス

「29歳のクリスマス」が再放送していたので見てみた。
放映時は15歳だったわけだが、今や立派に29歳。そして12月ですから、正真正銘の「29歳のクリスマス」を迎える身でございます。
しかし、放映時は全然見ていなかったから、「29歳でクリスマスを独り身で迎えるなんて・・・」みたいなドラマだとばかり思っていたのですが、全然違うのな。クリスマスなんて全然関係ない話であった。
ドラマを見るにつけ、14年前のトレンディって全然トレンディじゃないよなー、とかギバちゃんがわしと同い年という設定ありえねえ!、とかももちろん思いましたが、「うわー。それよくわかるわー」「ああ、そういうどうしようもないものだよね、人生て」ということばかりでした。
わしも伊達に29年生きてきたわけではないのだなあ。ドラマで知らされる我が人生。

山口智子が結婚を選ばず、仕事を選んだ時に
「自分が好きでいられる人生を、私は選ぶ」
「私は自分ですべてを選んできた。傷だらけの人生だけど、私はその人生が大好きです」
と言うのだけど、その気持ちがもーのーすーごーくわかる。

去年くらいは「わしも結婚適齢期だわ。なのに話が全然ないわ。さあどうしよう」などと焦っておりましたが、それは周りが結婚していくからとか、周りに「あんたどうするの?」と言われたことに影響されただけであった。わたしの人生にまだ結婚は、ない。まだ、その時ではないのだ。周りに促されて、焦って結婚するなんて、わしのやるべきことじゃなかったぜ。
わしは、自分の人生は自分で選択したいのだった。
結婚も、自分で選ぶのである。自分が本当に、心から結婚したいと思った時に、したいのだ。今の私は、誰かの人生を背負うこともできないし、誰かに背負われることもできない、準備不足の状態であるし。
結婚したいほど好きな人を、いつか、立派な女になった時に、迎えに行きたいと思ってますよ。求婚するんだ。
それまでは修行だ修行。女上げるぞ。


でもまあ、山口智子以上に共感したのが、松下由樹なんだよな。
松下由樹は不倫している女の役なんだけど、結構弱い女性で、うまくいかないことがあるとなんでも山口智子に頼ったり、泣きついたり、あげくの果てにはギバちゃんに泣きついた勢いでやっちゃって、それを「どうしよう典子(山口智子の役名)〜」と泣きついて山口智子になんとかしてもらったり、もうどうしようもないくらい弱いしめんどくさいのだけど、
最後の最後でギバちゃんの子供宿して、シングルマザーで産むと決めたくだりが、ものすごくよかった。

(シングルマザーなんて世間的によくないよ、そんなことしちゃいけない、という山口智子に対して)
「自分が本当にしたいことに、できない、しちゃいけないなんてないのよ!」

「私は、浅沼(不倫相手の名前)のことが好きな自分が、ずっと嫌いだったの!でも、今、この子を産むと決めたことで、自分がやっと好きになれたのよ!」

なんかこれ聞いて、会社に勤めていた時の自分がものすごく何もなくて、ちっぽけで、なのに辞めた後どうなるのかが怖いから辞められなくてずっといじいじしていたのを思い出しました。私は、会社に勤めている自分がずっと嫌いだった。好きになろうとしても、全然なれなかった。
でも辞めてみたら、怖いことはなかった。収入は減ったし、周りから見れば全然ダメだな〜あいつ、という感じかもしれないが、私は今の自分が好きですよ。自分で選択してよかったと思っております。
というわけで、このセリフ聞いて、まあ、声上げて泣いてしまったんだけど。

ほかにもギバちゃんが通販会社かなんかのクレーム係やってるんだけど、いろいろ苦悩の末、田舎に帰るというところも、会社の元同僚などを思い出して、ああ、そういう選択もある歳だよなあ、などと思ったり。


でも、先述の松下由樹のセリフ聞いてちと思ったんだけど、
わしが好きだった(だったじゃない、今もだ!)人は、きっと、こういう気持ちだったのだろうなー。
私のことを好きになると、自分のことがどんどん嫌いになってしまうという感じだったのだろう。
不倫とか道ならぬ恋ではなかったけど、そう思っていたと思う。
自分が自分じゃなくなっていくのに、耐えられなかったのだろうな。
(もっとも、恋愛というものは、すればするほど自分が自分じゃなくなっていくものだが、もしかしたら恋愛そのものが彼には苦痛だったのかもしれない)
それは私が苦しめていたのか、相手が自分で作った自分の「枠」を頑なに守った結果なのかは、わからないけど。
まあ、いいんですよ。今、彼が自分のことを好きであるならば。
一番大事なことは、彼自身が自由で、幸せな状態であることだ。
私は、相手のことが好きであった自分が好きだったしね。いや、今も好きだしね。自分ですべてを選択していくという、荒野のよな厳しい道を進んでいく中で、相手のことが好きだ、心から好きだということが、私の心の支えなのよ。
それがある故に、ひとりでも、前に進んでいける。


話がやや逸れましたが、いやあ、いいドラマであった。29歳ジャストタイミングで見られてよかった。
まあ、リアル29歳のクリスマスは、誰とも過す予定がないですけどね。
もうこの歳になると、別にクリスマスひとりでもなーんも怖かねえや、という感じであるよ。「あの人、ひとりだって。プ」と笑われても痛くもかゆくもねえぜ。

あと、長堀さん役で出ていた人がかっこよくて、ポワーンとなりましたが、
あとで調べたらトランペッターの近藤等則さんであった。
カッコイイ・・・と思ったら、一回、ビル・ラズウェルのダブでドラムンでアバンギャルドなバンド(名前忘れた)のステージで見たことある人だった。
同一人物には思えなかったなあ。まあ、14年経ってるしな。






2008年12月04日(木)

エイズデーわしも考えた

今日は世界エイズデーだそうです。

なんでMTV(最近ホント、こればっか見てるな)でエイズや性感染症の特番やってるのかなと思ったらそういうことでした。エイズ感染者の勇気ある方々が顔をさらしていろいろ話しているのだけど、

「コンドームをつけて欲しいと頼んだら、断られたわ」
「そもそもつけて欲しいと頼んで断られたらイヤだから、言えないのよ」

などと口々に言ってるのを見て(しかも彼女たちは、そこでコンドームをつけて貰えなかったからこそ、HIVや性感染症に感染してしまったのだ!)、
時代は21世紀なのに「処女である」と告白することと「コンドームをつけて欲しい」と頼むことは、未だに女性を苦しめる発言だよな〜、などと思ってしまいました。女性は皆、この2つ(まあ、処女のほうは最初だけだけど。いや、そうでもないか、男性経験が少ないことを告白するのも一緒か)を口にすることで「だっせえ女!」「めんどくせー女」と引かれることを本当に本当に怖がっているのですよ。そこんとこもっと肝に命じてくれよ男性諸君!


私も遅めの処女喪失でしたが、処女喪失の機会に自分が「処女である」ということを告白するのがとにかく怖かった。引かれるんじゃないか?バカにされるんじゃないか?ということで頭がいっぱいでしたよ。その時は引かれたりバカにされなかったので、まあよかったけど、
4年くらい経ってから当時付き合っていた男が「あいつは俺とヤった時、処女だった」と言いふらしていたことを知りましたがね。
サイテーな男だよねー。生きてる価値ない男だよねー。
まあ、今や何も感じない=私の中では死んでいる男なので、どうでもいいけどさ。事実だし。よかったねえ、私が4年(まあ今はその二倍以上の時間が経っているわけだが)の間に立派に図太い女になってて。おかげで恨まれずに済んだじゃないの。まあ、
そして今となっては、処女は大事にしたほうがいいよ!簡単にヤラせちゃダメだぜ!と若い女性に対して思う日々でございます。20〜25歳の間くらい(私の思う理想的喪失年齢は22歳)に喪失するのがいいと思います。25過ぎて処女だと、セックスに対する幻想が高まりすぎて現実と折り合いがつけられなくなっちゃったりする可能性があるので。
ちなみに、ここ最近20代前半くらいの女の子と話す機会があったのですが、その子がやたらと「私は性経験が豊富なんです」というようなことをアピールしていました。若くして性経験豊富なんて言わんでいいよ。おーい、自分で自分の価値を下げているぞーい。まあ、これも「性経験が乏しいと思われたらいやだ」というのの裏返しだろうな。いいじゃない、それでも。彼女もきっと、いつかそんな自分を受け入れられるようになることでしょう。


話が逸れた。
コンドーム装着問題のほうが話したかったのだ。
いやホント、コンドーム着けたがらない男は多いわな。「着けて欲しい」ということを言うと、なぜか皆さんたいてい、「大丈夫だから」と言いますが、
性感染症/エイズとはちと違うが、生理が来ない!という不安と闘うのはおなごなんだっつうの。実際、生理が来なくて妊娠してたとして、一番心身共に闘うのもおなごなんだっつうの。
何も「大丈夫」じゃねーよ、と言いたい。
その自信は何?どっから来てんの?やりたいだけっしょ!
こういう平静時はそう思えるし、言える自信もあるのに、いざ本番の時は言えないものだ。
性感染症に感染した女の子の話で、思わず泣いてしまったのだけど

「検査結果を知った時、『なんで私が?』と思ったわ。そしてパートナーに話さなきゃと思ったの。でも結果が怖くて・・・パートナーに話したところ、相手は告白後、私を避けるようになったわ・・・」

コンドーム装着を嫌がるのは男のほうが圧倒的に多いのに、
感染がわかったら女が悪者扱い。
ほんと、割に合わないよなあ。やりきれない気分になりますよ。
こっちのほうが、性病なんかよりずっと痛いんだ。ずっとずっと傷つくんだ。

まあ、悪者扱いされようと、避けられようと、女はひとりで荒野を闘って生きていかねばならんのだ。
傷つけられた心は治らないかもしれないが、性感染症は治る。
エイズだったら治りはしないが、一緒に生きていくことはできる。
一番大事なのは、自分に誇りを持つこと、なのかもしれませんね。すなわち妥協しないこと。妥協した男とは付き合わないこと、妥協したセックスはしないこと。
でも妥協しなさすぎてもダメだしなあ。全然誰ともしないってのも違うと思うし。さじ加減が難しいのー。
とにかく、自分がしたいセックス(コンドーム装着してもらうセックスな)をするべきだよ、女性諸君!

2008年12月01日(月)

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