Opportunity knocks
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2005年04月30日(土) Yankee

オランダ人移民が英国人移民に対して「あいつら」といった意味でつけたあだ名(jan kees)が語源らしい。
この英国人移民というのは、17世紀前半にイギリスからニュー・イングランドに移住してきた人々のことを指す。(ニュー・イングランドは英国人清教徒によって最初の植民地としてアメリカに作られた都市)

で、yankeeといえば日本語の(というか和製英語の)ヤンキー。
まあ見た目のイメージやなんかでいつのまにか定着した言葉だと思うのだけど、いろいろ考えると言葉って本当に面白いなとおもう。
オランダ語として生れたものが英語になり、そこからまた日本語に派生していくわけだから。
1,2世紀後にはまた違う国の違う言葉ができているかもしれない。


2005年04月29日(金) The tragedy of X

はじめて読んだのは確か中1くらいだったと思う。
小学校の高学年から中1くらいまでミステリーばかり読んでいた。
アガサ・クリスティや、エラリー・クイーンやコナン・ドイルや江戸川乱歩などなど。
ミステリーは時間やその他いろいろなことを忘れられるのが良い。
そのころのわたしはそういう時間が必要だったのだとおもう。




2005年04月27日(水) water

夏に向けてそこそこ減量中なのだけど、じつはダイエット中の3大原則というものがわたしにはある。
1つは炭水化物抜き。というかお米抜き。たぶんわたしのカロリー消費の70%は炭水化物で行っているだろうと思うくらいの米好きなので、これを抜くあるいは抑えるとかなり効果がでる。いちばん好きなものだけに禁止するとかなりのストレスがかかるのがたまに傷なのだけど。
2つ目は、週に2回ずつの有酸素運動と筋トレ、その合間合間に休養日を取ること。例えば、月曜筋トレ、火曜プール、水曜休養、木曜プール、金曜休養、土曜筋トレ、日曜休養、こんな感じで予定を組んで1ヶ月くらい続けると確実に効果が現れる。まあこのとおりに必ずやっているわけではないけれど、本気をだしてダイエットするぞ、というときはだいたいこんなメニューを組んでやっている。
そして3つ目は、大量に水を飲むこと。お茶でもなく○カリスエットでもなくジュースでもなく、水。
できれば硬水のミネラルウォーターを一日に2,3本くらい。とにかく水をいっぱい飲むこと。

わたしが育ったところは綺麗で美味しい水が豊富にあるところだったので、良い水というもの対して、体がかなり素直に反応する。動きが良くなるし頭がすっきりする。なので良い水はわたしの体にとってかなり有効なのだと思う。というかこれはすべての人に対して有効じゃないかと思う。水というものは思っている以上に体にとって大切なものなんじゃないかな。




2005年04月26日(火) voice

人の顔についてはあまりはっきりとした好き嫌いはないけれど、声については確固とした好みがあるような気がする。
で、どんな声が好みか、ときかれると文章に表すのはちょっと難しい。
ちょと湿った空気を持った声というか(ほらわけわかんないでしょう)・・・例えばボーカリストだったら、小野リサさん、水野まりさん、エゴラッピンの中野さん、奥田民生さん、松本幸四郎さん、あたり。なんだか統一性がないような気もするが。

今スピッツの「スーベニア」を聴きながらキーを叩いているのだけど、相変わらずイイです。というか草野さんの声って訳の分からない吸引力があるなあ。


2005年04月25日(月) undertow

関西方面で大規模な鉄道事故が起こった。
仕事が終わっていつものように家でお昼ご飯を作りながらテレビを見ようとしたら、いきなりその画像が目に入った。
凄まじい破壊の跡。負傷した乗客の人達、懸命に救助している消防や警察の人達。
事故現場の緊迫した雰囲気。
死者、負傷者の数が時間が経つごとに雪だるま式に増えていく。

なにげない日常のほんの少し先にあるあまりにも酷い非日常。それを誰が予想できるだろう。
被害にあった方たちのそれぞれの日常、人生がほんの数秒の間に大きく捻じ曲げられてしまった、その暴力性に唖然とするとともに心の底から怖いと思った。

何事もなく進んでいる日常の裏で、わたしたちが目にすることのできない裏側で、恐ろしい非日常が同時進行している。それをほとんどの人がキャッチできない。
というか、どこかでかすかにキャッチしながら、そういう不安感を抱えながら淡々と日常を送っているのかもしれない。
そしてある日突然足元をすくわれて、それが現実のものになったことを知らされるのだろう。


2005年04月22日(金) talk

話すこと。話すことって難しい。
なんでもないようなことはフツーに話せるけれど、
何かを伝えたい、わかってもらいたいと思うときなんか、
途端に口が重くなる。
そういうときこそ話さなきゃいけないのに。

何も言わなくても気持が通じ合うなんてことはあるはずがないから、
だから話すことが大切なのだ。
と、わかっては、いるのだけど。


2005年04月21日(木) smile、sadistic

いつも笑顔を浮かべていられる人はすごい、とおもう。
雑誌などで、第一小臼歯まで見せながら笑顔を見せている人もすごい、とおもう。
わたしはあんなふうに笑顔になれない。

笑顔はたしかに人を優しくさせるし和ませもするとおもう。
でも時折見かける、理由のない笑顔とか心と裏腹の笑顔、エゴイズムに満ちた笑顔などを見るとなんだか心が冷えてしまう。
かといって仏頂面をモットーとしているような人がいいわけではけしてないのだけど。

理由なくいつも浮かべている笑顔より、普段はあまり見せないけれど心からその人が見せる笑顔の方がずっとすき。




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書評をみていたら気になる本があったのでメモした。

「サディスティックな人格」
以下書評より抜粋

サディスティック人格と受動攻撃性人格という二つの人格類型について概説する。前者は常に他者を敵とみなし、勝者になることだけを考えているために、過度の攻撃性と狭い視野に陥る。後者は受身でありたいが主体性を感じたいという矛盾を抱え、サボタージュや非建設的批判に走る。彼らに対する確実な対処法はないが、こうした人格類型を理解しておくことが対人関係の助けになるだろう。


2005年04月20日(水) remorse

オリーヴが泣いている間抱きかかえてやっているうちに、ホーマーを新たなうしろめたさが夕暮れのように包み込んだ。
ミスタ・ロチェスターがジェイン・エアに恐るべきものと言った
あの永遠に古くて新しい悔恨というやつ、あの「人生を毒するもの」が。

「サイダーハウス・ルール」 ジョン・アーヴィング


2005年04月19日(火) quiet

時々、車の騒音やエアコンの室外機の音や隣の家から聞えてくる大きな話し声や訳の分からない機械的な音やそういう何やかやがたまらなく嫌になることがある。
静かな場所で育ったせいでそういう音に対して親密な気持を持てないせいなのか、ただたんに神経が疲れているからなのか。

人工的な音がきこえてこない場所にいきたい。一週間くらいでいいから。


2005年04月18日(月) picture

時々簡単なものをスケッチしてみることがある。
檸檬とか、キャベツとか、酒瓶とか、本とか、窓の外の風景とか。
そのたびになんて自分には画才がないんだろうとためいきがでるのだけど、それでも(すんごく下手にもかかわらず)ああこれを描いてみたいなあという衝動が時々起こる。
綺麗だな、とか素敵な形だな、とかその対象に対してそういう気持が起こったとき、これをこんなふうに描いて形にして何回も繰り返し眺めたいという気持ちになる。考えてみると、絵を描くことの原点ってそれなのかもしれないなんておもう。頭に浮かんだ印象を目に見える形にすること。いまさら、なんて言われるかもしれないけれど。

絵が描けないかわりに、時々写真を撮ったりする。写真を撮ることだってそんなに得意なわけじゃないけれど、一応写真はカメラが自動的に写真という形にしてくれるわけだから、わたしはその対象にカメラを向けてシャッターを切るだけでいいので、絵を描くよりもはるかに簡単である。
まあ簡単だとはいっても、そこは自分なりの表現を写しこむわけだから、それなりの難しさみたいなものはあるのだけど。

なんて書いてたら無性に写真を撮りたくなってきた。あしたはカメラ持って外にでかけようかな。


2005年04月17日(日) oblivion

忘れ去ること。人間の脳には適度な忘却機能が備わっているらしい。
思い出すのも辛い記憶やとてもうれしかった記憶、全部。
鮮明だった記憶は次第に退色し輪郭がなくなって、最後には残像のようなものになる。
あんなこともあったしこんなこともあった、なんて思い出すことはあっても、
そのとき感じた気持ちの揺れや痛みみたいなものをリアルに思い返す事はほとんどの場合ない。
たぶんそれは摂理にかなったことなのだろうと思う。
いつまでも覚えていたい記憶、一刻も忘れ去ってしまいたい記憶、どんな記憶もいつかはぼんやりした形のないものになってしまう。
人はそうやって生きていくものなのかもしれない。


2005年04月16日(土) news

「いいですか、岡田様、岡田様もご存知のように、ここは血なまぐさく暴力的な世界です。
強くならなくては生き残ってはいけません。でもそれと同時に、どんな小さな音をも聞き逃さないように
静かに耳をすませていることもとても大事なのです。おわかりになりますか?
良いニュースというのは、多くの場合小さな声で語られるのです。どうかそのことを覚えていてください」
僕は頷いた。
「うまくあなたのねじがみつかるといいですね、ねじまき鳥さん」
とかつて加納クレタであった女は僕に言った。「さようなら」


「ねじまき鳥クロニクル」 村上春樹


2005年04月15日(金) melon

Hーゲンダッツのメロン味がかなりマイブーム。
2日間に1回は食べたくなっていてもたってもいられなくなるのでこれは中毒といっていいとおもう。

思うに(幼少時に)なかなかたべさせてもらえなかった果物というのは、大人になっても何か特別な存在のまましつこく頭の片隅に居残り続けるような気がする。
さくらんぼ(缶に入った赤いやつじゃなくて佐藤錦の方ね)、枇杷、桃、マスカット、メロンなどはその部類に入るとおもう。
反対にいつも身近にあった果物、たとえば温州蜜柑、伊予柑、はっさく、苺、バナナ、林檎、いちじく、柿、すいか、甲州ぶどう、梨、なんかに対しては当然特別な思い入れなんてものはない。といっても好きは好きなのだけど。

大人になってお金が自由に使えるようになって、買おうと思えば桃だろうがメロンだろうが佐藤錦だろうがおなかいっぱいになるくらい買えるのだけど、でもなんだかいざ買おうとすると気がひけてしまう。なのでせめてアイスクリームくらいはとちまちま買ってしまうのである。
でもほんとにおいしーので一度たべてみてください。ほんとにおいしいです(べつにH−ゲンダッツのまわしものじゃありませんが)



2005年04月14日(木) library

好きな空間のひとつ。
わたしの住んでいる市には大きなものがひとつと、家から歩いていける場所に分館がひとつある。
大きな方は天気が良いと壁一面の窓と扉を開放してくれる。広い空間に光りと空気が行き渡りとても良い気分になる。
そよそよした風を受けながら本棚を見て歩くのが好き。
分館の方は小さいけれど、英米文学がすごく充実している。読みたいと思った本が見つからなかったことはほとんどない。
小さな子供が絵本を眺めていたり、お年寄りがのんびり新聞を読んでいたり、思春期の子たちがちょっと背伸びして大人の本を選んでたり、そういう雰囲気を感じながら本を読むのが好き。

県の図書館にも時々行く。さすがに郊外の図書館とは違っていつもしーんとしている。
本のページをめくる音、本棚のまわりをめぐる足音、誰かが思考しているときの耳にはきこえない物音。
そして膨大な知識の数々。手に取られるのを待っている本たち。これから先、手を触れずに終わるだろう本たち。
大きな図書館にくるとつい余計なことをいろいろ考えてしまう。
でもそうやって余計なことを考えるのも好き。


2005年04月13日(水) kindness

人に親切にしたり、ちょっとした思いやりを持つことは何気ないようでいて案外難しいことだと、そうおもう今日この頃。
無意識にそういうものを差し出せるようなひとになりたい。


2005年04月12日(火) Japanese

中国の反日デモのことが連日ニュースで流れている。
国旗を燃やされたり、大使館に投石があったり、邦人留学生が襲われたり。
そこまで中国人を感情的にさせるのはいったい何なんだろうと少し考えてみた。
今までの戦争の歴史や戦後の補償問題、日本の常任理事国入りの可能性が高まっていること、首相の靖国神社参拝、某政治家の確信的な失言、といろいろなことが蓄積されたあげくエスカレートしてしまったんだろうなあとは思う。それに中国人が戦争についての歴史を今も脈々と語り継いでいるのと反対に、日本は教科書問題にも指摘されるように歴史的事実に対して真摯に取り組もうとはしていないからというのもある。中国人に対して日本人はそういうことに対し問題意識が希薄であると言わざるを得ず、それが中国人にとってはまた怒れる部分なのだろうと思う。
日本が戦争でどういう加害を中国に対して行ってきたか、それを知らない(理解できないあるいは認めようとしない)人は今回のようなデモをたぶん不快に思うだろうし、それは間違いなく両国の溝をますます深くしてしまうだろう。星野智幸氏が日記の文章の中で逆切れのナショナリズムと形容していたけど、そういうものを感じている人は案外多く存在するんじゃないかとおもう。
デモを(奨励とまでは言わないけど)沈静化する姿勢が感じられない中国政府もどうかと思うけど、中国人の国民感情を見て見ぬ振りをする日本政府もおかしい。何らかの行動を起こす時期(たぶんもう瀬戸際)にきているんじゃないかなとおもうのだけど。

中国人の言い分の中でこれは違うんじゃないかと思うことがひとつあった。
国を愛するためという理由(大義)があれば多少のことは当然許される、それが愛国心というものだ、云々。
そんなことを言ったら、すべての戦争や紛争を認めることになりはしないだろうか。誰もが自分の国の為にやるべきことをやっているのだ、と言ってしまえば終わりじゃないか?そういう大義のもとに中国は侵略を受けたのではないのか?
わたしはそういうものを愛国心とは決して思わない。国を愛する心というのはもっと気高くて個人的なものだと思っているし、人と人との争いをそんな形で肯定したくない。

日本人として、今回の問題はきちんと考えないといけないことだとおもう。
日本にも中国にもそれぞれ言い分はあるだろうし、譲れない部分もあるだろうけど、でも、それでもお互いを知った上で認め合っていかない限りまた過去の過ちを繰り返すことになりかねない。それは絶対にしてはならないことだと、お互いにそこのところをもっと強く思う必要があるんじゃないかな。




2005年04月11日(月) impression

印象というものをけっこう大事にしている。
といっても見かけだけで安易にいろいろなものを判断するということではなくて、
あくまで自分がその対象に対して思うこと、感じることを大事にしているという意味。
物に対しても、人に対してもかなりよく見る方だと思う。
何も考えずにじっと見つめる。そしてその物(人)に対してどんな気持ちを抱いたか、何が残ったかを考える。
そしてその中に自分のためのものを見つけたら、その対象は自分にとって特別なものになる。

よく考えてみると、そうやっていろんなものを自分のもの(という言い方もおかしいけど)にしてきた気がする。
連れ合いとか友人とかその他の物いろいろ。
なんでこんな物(あるいは人)を?とおもったことはあまりない、というかほとんどなかった気がする。

自分にとって何らかの意味のあるもの、そういうものをいつも感じ取れる人でありたいと、そうおもう。


2005年04月10日(日) hope

「たぶん私たちは、何かを希望することをあっさりあきらめちゃった方がいいのかもね」と彼女は言った。
「あるいはそれがこつなのかもしれない。決して希望しないこと」
「ほんとにそう思う?」とエイミーが言った。
「まあね」とジャンが言った。
ひとしきり考えを巡らせたあとで、エイミー・ロビンソンは肩をすくめて言った。「ねえ、そうじゃないことを希望しようよ」
そして二人は笑いあった。

「世界のすべての七月」 T・オブライエン


2005年04月09日(土) God

小さい頃何故かキリスト教系の幼稚園に通っていた。
宗教系の教育をすれば行儀の良い子供に育つと思ったのか、ただ評判の良い(有名な)幼稚園だから通わせたのかはわからないけど、とにかく3年間その幼稚園に通った。

結構きびしい幼稚園で、毎朝必ず教会(園舎の横に本当の教会が建っていた)でお祈りの時間があったり、年にかなりの数で発表会があったり(生誕劇とかやった)といろいろなことをやらされた憶えがある。その結果、行儀の良い子供になったかは疑問符だけど、ある種の影響を受けたことはたぶん間違いない気がする。
たとえば、小さい頃から、「天にいらっしゃるお父様がいつもあなたたちのことを見ています、悪いことをすれば天罰が下りますよ」とか「毎朝毎夕、天に向かって日々の感謝をささげましょう、そういうあなたの姿を神様はいつも見ていらっしゃいます」とか言われ続けていたので、誰かに自分の行動を見られているいう感覚がつねにあるような気がする。「天網恢恢、疎にしてこれを逃さず(ちょっとうろおぼえ)」という言葉があるけどそれに近いものがある。
だからあまり悪いことができない。どんなに自分がうまくやっても、誰かが自分のことを見ていて、その行動に応じた報いをうけることになるという、そういう根拠のないおそれみたいなものを感じてしまう。

でもよく考えると宗教って根本的にはそれなのかなという気がしなくもない。何か、あるいは誰かに対して畏れる心を持つこと。畏れる心があるからこそ人は正しい道を歩かざるをえないのかもしれない。そのために宗教っていうものは存在するんじゃないかな。

基本的に無宗教の人間だけど、そういう意味で神みたいなものの存在は信じている。というか三つ子の魂百までというように、小さい頃の体験が今の自分に繋がっているのだとおもう。そういう気持、いつまでも持って生きていかなきゃと思っている。


2005年04月08日(金) Fez

世界遺産の特集がテレビでやっていた。
モロッコの旧市街がうつっていた。
こういう場所、好きかもしれない。
狭い路地とか、入りくんだ道とか、所々の光りの入り方とか。
無性に行ってみたくなった。


2005年04月07日(木) elegance

自分で言うのもなんだかだけど、どちらかというとがさつな人間だと思う。
実際連れ合いによく言われたりする。言われるとなにおう!とおもうけれど、たぶんそうなんだろうな、とおもう。
よく考えずにしゃべったりするし化粧もろくろくしないし髪の毛もブローしないしハンカチにアイロンかけないし電球が切れてても気付かないしボタンつけもろくにできないし落ちつきないし(きりがない)
だから、というのもなんだけど、たまに自分とは違って優雅で洗練されてて気配りが行き届いている人をみると強烈にあこがれてしまう。そしてちとばかし自己嫌悪になる。なんで自分はこうじゃないんだろうって。

もちろん優雅さというか上品さを身につけようとがんばってもいる。例えばゆっくり明解に余裕を漂わせながら話そうと努力したり、せめてみかけだけは(悲)と着るものに気を使ったり。でもそういうのはしょせん付け焼刃というか、必ずぼろがでる。そして最後にどうするかというと、開き直る。まあがさつな環境に育ってわたしという人格ができあがったのだから、それはある程度しかたないことじゃないかと。
でもそういうのって開き直れば開き直るほど心のうちはせつなかったりするのだ。
自分らしさというものを認めてはいるし、それでいいんだと思ってもいるのだけど・・・。ああ書きながらかなしくなってきた。人生ってそういうことの繰り返しかもしれない、ほんと。


2005年04月06日(水) differential

3、4日まえNHKで社会的格差についての討論番組がやっていた。
社会的格差を是認する派としない派に別れた形で、著名なゲストや一般市民からのゲストが意見を言い合っていたのだけど、言ってることがそれぞれ陳腐だったりわかりにくい専門用語を駆使しただけの中身の薄い発言だったりで、見ていてためいきが出そうだった。
格差を是認する派の中に何かと話題の堀江貴文氏がいてなぜ自分は格差というものを肯定するのかという持論(自分はただぼんやりといつくるともしれないチャンスを待っていたわけではなく人一倍努力してきた、努力したものが恩恵を与えられるのは当然なわけでよって格差というものが生じるのは当たり前、などなど)を展開していたのだけど、それに対して格差を否認する派の人は、みんながみんなあなた(堀江氏)のように才能に恵まれているわけではないだとか、あなたはたまたまチャンスに恵まれていただけだとか、すかさず突っ込みがきそうな反論しかできてなくて、見ていてかなり歯痒かった。もう少し広がりのある討論ができないものかなあ。これではただの勝ち組み負け組み論争でしかないとおもう。といってもじゃあ自分がもっとましなこと言えるかというと、そうでもないのであんまりえらそうなことは言えないのだけど。

わたしはというと、やっぱり格差否認派。でもそれを強く推すだけの確固としたものが自分でもまだよくつかめていないとはおもう。ただこのまま格差が広がれば、どんどん余裕のない社会になっていくと思うし、誰もが強者になりたがり、弱者を蹴落とす風潮に拍車がかかっていくような気がする。

上下に分けて間に格差があるとして、わたしは必ずしも上にいる人が偉くて下にいる人が悪であるとは思えない。上にいるものはそれなりに努力をした人間ではあるけれども、それもすべての人間がいるなかでの成功であって、決して自分ひとりで成功したわけではないと思うし、逆に下にいる人間も、まあ落ち度や失敗はあるにせよ、それも自分ひとりでそうなったわけではなくいろんな人間が関わった結果、そういう状況になったともいえるわけで、必ずしもボーダーラインを引けることでないと思う。
すべてを包容できる社会というのが良い社会なんじゃないのかなあ。
格差を認めるということはボーダーラインをひくことを認めるということで、そうなると社会はどんどん二極化していくし、その二極の接点はいろいろな摩擦になって結局お互いに害を及ぼす事になると思う(何が書きたいのかだんだんよくわからなくなってきた)





2005年04月05日(火) clothes

このまえ(サイズがなくて)注文していた服が、入荷したと連絡があったので取りにいった。着てみるとやっぱりウェストのあたりがいまいちぶかぶかするのだけど、まあ致し方なく。

そうやって新しい服をさわっているうちに、なんとなくこのまえ観たトニー滝谷の、あのクローゼットいっぱいの高級な服たちのことを思い出す。
袖を通されることなく見捨てられた洋服たち。着られることのためにただ作られたのに、本来の目的(というか存在意義)から遠く離れてしまった洋服たち。静かで確かな不在感。

もしわたしがある日突然なんの前触れもなく事故か何かで死んでしまったら、わたしの洋服はどうなるんだろう、とそんなことを考えてみる。
誰かがそのまえで涙をながしたりするのだろうか。




2005年04月04日(月) bakery

四季の森・魔法のパン屋という名前のパン屋が近所にあって、そこがとても気に入っている。パンの味はもちろんだけど、木造りの山小屋みたいな建物で、ドアの両横に四角い小さな窓がついていてとても良い感じのお店。前を通るとついふらふら吸い寄せられるようにドアを開けてしまう。さすが魔法のパン屋というだけはある、とおもう。

無骨そうなライ麦パンや、つやつやしたフルーツがたくさんのっかっているデニッシュ、穴のあいたドーナツや思春期の男の子みたいなベーグルパンや無造作にたてかけてあるフランスパンなどなど、みているだけでシアワセなキモチになる。

ということで、お気に入りのパンを2、3個買って帰った。良い匂いの紙袋を抱えて帰るのってかなりの小確幸なのでは、とおもう今日この頃。


2005年04月03日(日) avocado

AtoZ、Kさんを真似て書いてみることにした。
Kさんほどうまく書けるかわからないけど、一日ひとつずつ。そうひとつずつ肩の力を抜いて。

KさんはNは本読みよくするから作家の名前とかで書いてもいいのではと提案されたのだけど、とてもそんな文章を書けるほど本を読んでいるわけではないので、ごくフツーにぱっと思い浮かんだことを書いてみます、ということで今日はアボカド。

実はアボカドのことを、わたしは今日の今までアボガドだとおもっていた(なぜアボカドであることを気付いたのかその理由がわかるあなたはかなり村上&水丸通です)ひとつの慣れ親しんだたべものの名前をずっと思い違いしていたということに素直にびっくりしてしまう。まだまだ世の中知らないこと、というか考え違いをしていることがいっぱいあるんだな、とあらためて思ったり。

アボカドは別名alligator pear。アリゲーターのような肌をした西洋ナシに似た果実、というところだろうか。好きな食材なのでわさび醤油につけてたべたりサラダにしたりディップにしてパンにつけたりとけっこう食べている(そういえば最近の日記にもたべたって書いたっけ)あらたに料理法を開拓中。天麩羅なんかどうだろう、なんて考えている。





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昨日買った苺をジャムにして、お八つにスコーンなんかを焼いてみた。
かなり好評。20個くらいあったものがあっというまになくなって、ジャムも2瓶分くらいできたのに半分以上なくなってしまった。

下の写真はそのジャムとスコーン。白いのはクリームチーズ。なかなかでした。
お皿の下の本は図書館から借りてきたこれから読む予定の本。
余分なことを考えてる時間があったら本を読もう、ということでしばらくは本読みにいそしむ予定。ただ読む順番は考えないとなあ。ダンテクラブと亡国のイージスはかなり時間がかかりそう。先にすべての7月を読むべきか。でも手はダンテクラブに伸びつつあり。





2005年04月02日(土) 無題

苺が異常に安かったのでジャムにしようと思って買ってきた。
アキヒメ。個人的には女峰とかトチオトメなんかの固めの品種が好きなのだけど、
甘味が強くて水気があるということで近年人気があるらしい。
ジャム、おいしくできるといいな。



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