Opportunity knocks
DiaryINDEXpastwill


2004年03月21日(日) 無題

夜、連れ合いと「砂の器」をみる。
クライマックスということでそれまでの経緯が場面にでてくるのだけど、やはりそれはちょっと無理があるのでは、とおもう部分がけっこうあった。
原作の中から取り入れたい部分があるのはわかるのだけど、ようはバランスの問題で、その取り入れたい部分を入れることによってほかの部分に歪がおきたら(リアリティが消えたら)全部がだいなしじゃないかとおもう。松本清張の「砂の器」はあの話、あの設定だから素晴らしいのであって、都合良く切り貼りしたものが原作以上になるとはとても思えない。ということでドラマ「砂の器」はわたし的にはいまいちだった。

しかしスマップの人達って器用なんだなあ、と画面にでてくる彼らをみてつくづく思う。演技がどうこうというのは横においとくにしても、お笑いOK、シリアスな演技OK、歌OK、踊りOK。ほんとにすごいなあと。でもファンというわけではないです。ただ感心してるだけ。ねんのため。


2004年03月20日(土) 無題

最近、せんたくものをたたんでいるとそれが連れ合いのものかコドモのものか区別がつかなくなるときがある。で、ちょっとまよった挙句適当にしまうのだけど、あとでコドモor連れ合いに文句を言われる。「これさおれのじゃないんだけど・・・」
文句があるなら自分でたたんで仕舞いなさいよ、とそれぞれにいうのだけど、それでも「なんで間違うんだよ・・・」とさらに文句を言われる。

特に下着。微妙にサイズが大きいの(ただたんにのびてるだけなのだけど)が連れ合いのものなんだけど、柄も似たようなものだしほとんど同じ大きさだし、二人ともかってに自分で買ってくるしでどっちがどっちなのかほんとうによくわからない。名前を書こうとしたらはずかしいからやめてくれって言われるし。ほんとうに洗濯物くらい自分で仕舞ってほしいとおもう。それとも区別がつかないわたしがやはり至らないのだろうか?うーむ。
ほんとにシュフって大変なんだから。


2004年03月19日(金) かつてあったものが今はもうないということ

帰り際ポストの中を覗くとRさんからの葉書がきていた。
裏にはワイエスの「冬の水車小屋」の絵が描かれてある。
旅行先で立ち寄った美術館にワイエスの絵があったとのこと、偶然ワイエスの絵に出会えてとても嬉しかった、と書かれてあってそれを読んでわたしもとてもうれしくなった。

Rさんの葉書の中のワイエスの絵をみていたら無性に本物をみたくなった。今まで2回、展覧会に足を運んでワイエスの絵をみにいったのだけど、ワイエスの絵ほど、魅入った絵は後にも先にもたぶんないとおもう。ほんとうにはじめてみたその瞬間からどうしようもなく吸引されてしまった。
不在の写実、という言葉がワイエスの絵に対してよく使われるのだけど、かつてそこにあったものが今はもう失われているというその事実を、ワイエスはとても忠実に表現する。主人のいなくなった家、使われなくなった桶、納屋などなど。そして失われたものを描くことによって、かつてそこに存在していたものをかえって強烈に喚起させる。ワイエスの絵をみているとほんとうにいろんなイメージがあとからあとからわいてくる。余計なものを一切排除することによってその対象の本質が静かに静かに浮かび上がってくる。
ワイエスの絵をみたときのそういう感覚がたまらなくてわたしはワイエスの絵にひかれているのだとおもう。

久しぶりに画集をとりだして眺めてみる(画集なんてものをお金をだしてわざわざ買ったのもワイエスがはじめてだし)オルソンの家や白く輝く空を眺めながら、もう一度実物を目にしたいと思う、そしていつかこの絵が描かれた場所へいきたいとおもう。いつか、きっと。



2004年03月18日(木) 確かに残っていくもの

見たもの聴いたものは記録として形に残せるけれど、嗅覚、触覚で感じたものは残し様がないね、ということを友達と話す。
つまり映像や音は形として残すことができて、なおかつそれを見たり聴いたりしたとき感じたことを容易に再現することができるけれど、嗅覚や触覚で感じたものははっきりした形として残すことができない、という話。
でもだからこそ、そういうものって大切でいとおしいんじゃないかなとおもう。

話はそれるのだけれど、ポール・オースターの「トゥルー・ストーリーズ」(今読み勧めている途中)に関する記事が雑誌に書かれていて、そこに興味深いことが書いてあった。オースターの奥さんのシリ・ハストヴェットがオースターに言った言葉なのだけど、「小説を書くということは、今まで起こらなかった出来事を思い出すということではないだろうか」たぶん正確な文章じゃないと思うけど、このような内容だったと思う。
今まで起こらなかった出来事を思い出すってどういうことなんだろうね、と友達と話したのだけどたぶんそれは形に残らない記憶の中から何かを紡ぎ出すということなんじゃないかと、なんとなく思った。今までその人が生きてきた中で積み重ねられてきた様々なもの、それは今までは何の形にもならなかったことだけど、それを拾いだして一つの形として表出させたものが小説というものなのではないかと。
あくまでわたしの捉え方なのだけど。

人生における様々なものの中で、見たり聴いたり感じたりしたことはしっかり記憶の辺土に積み重ねていこうとおもっている。それがいつかひとつの形として現れるものなのかどうかはわからないけれど、それでも大切にしていこうと思っている。


2004年03月07日(日) きょうおもったこと、あれこれ

朝、(なぜか)将棋のTV中継をみながらおもう。

羽生さんの手の動きのなめらかさ、美しさに感心する。そういうのってやっぱり、才能や技力に裏打ちされたものなんだろうな。ほんと綺麗だった。


お茶のみながら、某雑誌に掲載された某小説の書評についておもう。

「愛を知らない人間でいるより愛を知る蛇になりたいという渾身の跳躍だ」
・・・蛇に愛なんてあるのか?というか愛を知る蛇ってどんな蛇なんだ?
純粋なギモンがふつふつと。読んでみればわかるのかしらん。とうぶん読まないけれど。


昼。掃除機をかけながらふとおもう。
もし人間の寿命があらかじめ決められてたらどうなのか。たとえば蝉のように、三日間力の限り鳴いて生きて、ふとした瞬間、唐突に切れる電球みたいに死んでしまう。そんな人生だったらもっと毎日を丁寧に生きる気になるんじゃないかと。
蝉のように生きてみたいと、時々思う。へんかな。


夕方。
お義母さんのうちにいったら沈丁花が咲いていた。椿や小手毬も。
外は冷蔵庫のように冷えきっているのに、花たちには季節がかわるのがちゃんとわかるらしい。不思議。植物って動物と同じくらいすごい、そんなことをおもった。


夜。とめどない食欲についておもう。

あーどうしたらおなかがすかなくなるんだろう。出かけていた連れ合いが帰ってきて、おみやげと言ってチョコレートをテーブルにおいてくれる。新撰組!をみながら残らずたべてしまった。自己嫌悪。あまいものに対する依存心が日増しに強くなって最近自分でもこわい。
こんなもの買ってくるから!と連れ合いを理不尽に非難しつつ。明日は歩いて仕事にいこうと固く誓う。


とまあこんなしょうもないことをちまちまと考えた1日だったのでした。おしまい。


2004年03月06日(土) boxing

連れ合いと一緒に夜、ボクシング観る。
ボクシング観戦が好きなのは実は連れ合い。
連れ合いと結婚してなかったらたぶん、わたしはボクシングなんか見なかっただろうと思うけど、結婚してしまったからこうやってボクシング観戦に毎回付き合わされている。(結婚とはそういうものですたぶん)

それでもさすがに毎回付き合わされて観ていると、それなりに観戦の楽しみみたいなものを見出す事ができるようになってくる。
たとえば喚声とか掛け声。リングサイドにいる人の声が結構画面からきこえてきて、それをいちいちチェックするというのも楽しみのひとつ。
「まだまだやれるー」「やっちまえ!」「そこだそこをつけぇぇ」などなど。ああいうときって結構我を忘れてるんだよね。そういう我を忘れた時の人の発する言葉って、かなり興味深い。

あと、選手のくせ。すぐクリンチで逃げるやつ、やたらと手を出してパンチをもらってしまうやつ、パフォーマンスでモチベーションを上げようとするやつ、攻撃的なやつ、防御優先のやつ、などなどいろいろいて観ててあきない。

わたし個人としては殴り合いのスポーツなんかやる気もないし、やってる選手に対しても親しみみたいなものはそんなにない。最初に書いたみたいに積極的に観戦するスポーツでもない。それでも純粋に真剣に貪欲に相手を倒すことのみを考えて打ち合っている姿というのはなかなか別の意味で引き寄せられるものがあると思う。
パンチを受けたあとのわずかな動揺とか、自分の体制(身体的にも精神的にも)立て直そうとする一瞬とか、相手の隙をさぐる間合いとか。

今日みた試合は技巧的にも精神的にも優れたなかなか良い試合だったとおもう。
たぶん選手は、目の前にいる選手じゃなくて何か違うものを追ってそして倒そうとしてるのだよね。
ボクシングはそんなに野蛮なスポーツでもないです。たぶん。


2004年03月04日(木) 「美しい夏、キリシマ」 (かなりねたばれです)

「美しい夏、キリシマ」を観る。
終戦真際、空襲で友人を見捨ててしまったというトラウマを持つ少年を主軸にして、戦争というものがその当時、いかに人々の生活に影をおとしていたかをありありとえがいてみせた映画。
思ったより芸術性の高い映画だったとおもう。
戦争の悲惨さと表題にもあるような霧島の自然の美しさを対比させ、
美しさの中の悲惨さ、悲惨さの中の美しさという同時性みたいなものを
うまく表現していた気がする。
そういう正と負が同時に存在しているのがこの世の中なんだろうな、と。
石田えりと香川照之が池に入っていくシーンなんかとても良かった。
これも静と動(鏡のような穏やかな水面や静けさと、二人が入水しようとする激しい動き)がうまく対比されていて上手いなぁとおもったし、
香川照之が石田えりを見捨てて逃げていくところなんか妙に納得したり。
ほかにも印象深いシーンがいっぱいあった。家を焼いてしまうシーン(それはすべてを新しくするのだという再生の象徴なのだけど)や、主人公の少年が、戦争の不条理さをただただ従属的に受け入れている人達へ怒りをぶちまけるシーン(結局反対にひどくなぐられて少年の無力さをみせつけられるシーンになっているのだけど)などなど。

思うのだけど、その当時の人々の生活というのはわたしたちは史実や過去の人達の話をもとにただただ想像するしかなくて、実際にその生活を体験するのって不可能なことなんだよね。あたりまえのことなんだけど。
でもこの映画をみて、その当時人々が持っていた苛立ちとかじりじりとした焦燥感とか、諦観、不安、希望、喜び、絶望、みたいなものがすごく身近に感じられたような気がすごくした。
そういう意味ですごく正直にというか公平に(という言い方もへんなのだけど)
作られた映画なんじゃないかな。

でもこの映画はたぶん、そういうものを感じる人と感じない人に分かれるんだろうなあ、と思わなくもない。
実際、映画の感想みたいなものをいくつか読んだのだけれど、監督の感傷のみで作られた映画だとか、表現が露骨で陳腐だとか、かなり好意的じゃない感想が多かったし。
感じられる人間が感覚的に優れた人間で、感じられない人間が愚鈍な人間だなんていうつもりはないし、それはひとそれぞれの感じ方なんだろうなと思う。
逆に、少年のトラウマや石田えりや香川照之が表現していた人間の業とか歪みみたいなものを感じ取れる人間の方が実は悲しい人生を歩んでいるのかもしれない。
それでもそういうのが人間なんだって思う。そういうものを受け入れられない人が負の人間を牽引したりもし作り出しもするんじゃないかな。

と、訳の分からない感想になってしまったけど、とにかく、わたしにとってはかなり見ごたえのある映画だった。今のところ今年みたなかではかなり上位、かな。


2004年03月02日(火) 無題

Mさんの文章(日記)を読んで、今日の夜はためいきの連続。
でもなぜためいきがでるんだろう。



わたしもたぶん何かを確かめたいのだとおもう。

確かにここにあるんだってこと。
そのひとつひとつを手に取ってなぞって
すべてを自分の内にいれてしまいたいって。
そうおもっているのだとおもう。










n |MAIL