TOI,TOI,TOI!


2004年02月28日(土) 卒試〜リサイタル

1月30日。一次試験当日。

午前中、緊張感はあったが怖さはなく、同時に大ホールで弾くのが楽しみでワクワクしていた。

正午頃、ザビーネがチェンバロの調律の為に1時間ホールを予約できたというので、ついでに一度合わせることにした。
ある部分の、それまで封印してた装飾を披露したら、ザビーネはイスから転げ落ちそうになって絶賛してくれた。やっぱり広いとこで、ちょっと舞台に上がったりするだけでお客さんがいなくてもテンションがいい感じに上がって、楽しい。広いとこで弾くのって大事だ。
ザビーネに盛り上げられ、なんだか、イケル!みたいな気がしてきていた。

すでにこのとき、ドレス、靴、カイロ、バナナ、チョコ、温かいお茶、水、ジュース、と、必要なものはほとんど持ってきたので、レッスン室に全て置いて(吊って)一度家に帰った。これで、あとで来るときは楽器だけでいいのさ。

衣装は夏のカルテットのコンサートの為に買った。赤。暗いところで見ると黒っぽい色で、光が当たった部分が赤くなる、多少光沢もある生地。デザインは非常にシンプルで、長さは床まで。座って弾く分にはちょうどよかったけど、立つと私には少し長いので、2日前ぐらいに自分でお直しした。一度すそを上げたらあまりきれいにならなかったので、肩のところをつまんで縫った。

とにかく試験ということを忘れて、コンサートと思って弾け!とフォーヒャルトに言われていたし、自分でもそのつもりだったので、衣装も宣伝もコンサート並みに気合いが入っていたのでした。
でもこういう衣装のお直ししたり、ポスターやプログラム作ったりしてた時間、実はすごい楽しかったんだよね〜。

前の人が延びて、30分押しになったということで、ホール前の廊下は私のために来てくれた客でいっぱいだった。そこを通るのはなんだか恥ずかしいような気持ち。
ありがたいなと思ったのは、その中にホフマンの姿を見つけたとき。しかも奥さんを連れて。最後のレッスンの日に一応聞いてみたのだけど、本当に来てくれるとは!審査員でもないのに!毎日ピアノの試験の審査でくたびれてるはずなのに!

本番は、たくさん入ってくれたお客さんのおかげで、私も非常に盛り上がって、すごく楽しく本番を終えることが出来た。
プログラムも本当にいいプログラムだったし、お客さんからたくさん拍手をもらってうれしかった。
全て今の自分に出せるものは出せたという、気持ちよさがあった。

楽屋にもたくさんの人が祝福に来てくれた。お花もたくさんもらった。
あるおじさんからは名刺を渡され(彼自身ピアニストで自らあちこちに出向いて若い才能を発掘している、という人だった)、
「キミの為にコンサートを開くよ。秋に」
と言われ、ブッフベルガ−は
「二人(私とピアニスト)のためにコンサートを用意する!」
と言ってくれた。


2004年02月24日(火) 卒試〜シューベルト

ライナー・ホフマンという先生は、この学校のピアノによる室内楽とリート伴奏の教授。
この先生のレッスンは本当に素晴らしい。彼なくして今回のディプロムはありえなかった。
彼はもう60を過ぎていて、今教えている生徒が皆卒業したら退職する予定だ。

Mに誘われ、私は去年の春からホフマンのレッスンに通いはじめた。Mはホフマン弟子ではないのだが、その割にはかなりたくさんレッスンをいれていただいた。
曲はまずシューマンのa-moll、モーツァルトをホフマンに習いたかった私の希望でモーツァルトの1番kv301、そして15番kv526、そしてMの試験の為にブラームスのソナタd-mollをやった。

フォーヒャルトとはまったく違う角度からのレッスンなので、ホフマンのレッスンは私にとって必要不可欠であった。すごくたくさんのことを学んだ。

年末から、Yの希望で私の試験の為にもレッスンをしてもらえることになった。
モーツァルト454とシューベルトのロンド。
特にシューベルトのレッスンを”リートのホフマン”から習えたことは、非常に価値のあることだ。

シューベルトという人は人生一度も幸福を味わうことなく、恋愛にも成功せず、家庭を持つこともなく(実は同性愛者だった?)、ちっとも儲からず、暖房すらない寒い部屋でひっそりと暮らしていて、病気になり、31歳で亡くなった。

その短い生涯のうちに書かれた600以上のリートを、のちにこれだけ皆に歌われるようになり、歌曲王シューベルトなんて呼ばれるぐらいになるなんて、生きているうちは考えもしなかったんだろうな。
だって当時は、ドイツのボンからやって来たベートーベン様が貴族のパトロンになって大活躍していたんだもの。たまたま運悪く同じ時代に同じ市内にシューベルトがこっそり生きてたなんて、切ない。

でももし仮にシューベルトが、皆に認められて不自由なく裕福に過ごしていたら、あの胸の痛くなるような歌や曲じゃなく、もっと違うタイプの曲を書いたかもしれないし、ベートーベンだって、耳がずっと普通に聞こえてたら、晩年あんなに内面的な曲をたくさん書かなかっただろう。

ホフマンは言った。
「この曲を書いたのは死ぬ2年前なんだよ。もう完全に死に向かう病気の中でこれを書いていたんだ。

悲劇的な現実。でもそれに対して彼は戦っている。病気に対して。悲劇に対して。
この甘い旋律ですら、フレーズの終りにはもう『哀れみ』に変わってしまっているよ。
戦って戦って、行く先に希望を持ってみるけど、でも結局その道はいつも間違い。
あきらめずに探すけど、出口は見つからないんだ。
ポジティブに挑戦した分、とことん失望するんだ。」

冬の旅を聴いてみようと思ったのは、この話にすっかり心を奪われてしまったため。冬の旅が書かれたのは、死ぬ1年前。ミュラーという詩人は当時無名だったのだ。その無名の詩人の書いた詩に曲をつけた。おかげでミュラーは今、冬の旅のおかげで名を知られてるではないか。これこそいかにもシューベルトだ、と思う。

二年前にバイオリン曲を書いたというのはいったいどういう心境だったのかなと思う。なんにせよ、普段は歌曲を書いているシューベルトが書いたバイオリンの曲には、やっぱりたくさんの『言葉』がつまっている。
悲劇、闘い、病気、哀れみ、希望、道、探す、そして失望。


このシューベルトのロンドhーmollだけど、実は残念ながらそこまで弾かれる機会は多くない。ホフマンも「難しいから誰も弾かない。コンクールの課題にはなるけど。」と言っていた。
ただ聴いたり弾いたりすると、本当にわけがわからない曲だ。妙に長いし理解しにくい。彼はいつか誰かに演奏されることを意識せずに書いて、書き出したら止まらなくなって、結果書きすぎたんではないか、と最初は私も思った。
でも違う。めちゃくちゃいい曲だ。もっと知られて欲しい。

もうこの曲は、去年すでにクラスで毎週連続3回弾いたし、そのときは「もういい・・・」と思っていたんだけど、去年の7月頃、フォーヒャルトと試験のプログラムを考えてたとき、「ロンドは弾かなくてはだめ」とこの曲が一番に決定した。私は正直、まだやるの?と思ったんだけど、ホフマンに見せてみて、この曲の良さを知ることが出来たのはすごくよかったと思う。で、弾いて本当に良かった。


2004年02月23日(月) 卒試〜一次3週間前→2日前

これは1月2週目(休み明けの週)の私の手帳。

JANUAR
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5 MONTAG

9:00 フォーヒャルト
15:00 合わせ+Y

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6 DIENSTAG

9:00 合わせ+M
10:00 ホフマン教授+M (ブラームスソナタ)
11:30 ホフマン教授+Y (シューベルト、モーツァルト)
17:30 チェンバロと合わせ
19:00 スヴァンティエ(ヘンデル)

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7 MITTWOCH

14:00 シュナイダー教授(ヘンデル)

このレッスン終了後、ダウン。
このスケジュールの過密さと、試験が10日延びたと聞いて、今までピンと張っていたものが切れたのが同時だったのが原因か?微熱+風邪の症状。
気が抜けて風引くなんてアホや、と思ったけど、できる限りのことを本気で全部やって、お金も使って(薬とか)、マライケも使いまくって(買い出しとか)、一晩でかなり回復。何事も全力をつぎ込めばなんとかなるもんだね。と思った。マライケに頼んでシューベルト『冬の旅』のCDを持ってきてもらい、とにかく何度も聴いた。


*ちなみにどの先生のレッスンもそれぞれ90分間。

*Yというのは私の伴奏をしてくれたピアニスト。彼女の妹と私が日本で友達だった。結婚披露宴にも出たり、一緒におでんで年越しもした。元ホフマン門下。今はここの学校のコレペティ(伴奏者)。

*Mもピアニストで、私がホフマンのレッスンを受けるきっかけになった人。半年以上ホフマンとこに通ったので、彼女の二次試験で一曲共演することになった。同じ学期に試験を受けることになるとは半年前は考えてなかった。彼女の二次試験は2月16日。私の二次は20日。

*スヴァンティエは以前フォーヒャルトの弟子だった。フォーヒャルトやブッフベルガーは仕事のときに未だによく彼女を呼ぶので、それで私も知り合った。彼女は数年前にリューベックに転校してコンツェルトイグザーメンを修了、現在はここの学校の古楽専攻生。そしてうちのクラスのアシスタントでもある。演奏家として古楽器とモダンの両方の世界で活躍中。
ちなみに彼女がリューベックでついた先生はなんとS女史。先生探しをしていた当時、手紙を書いて会いにいった5人のうちのひとり。

彼女にレッスンを受けることにしたのは、バロック素人の私が試験で恥ずかしい思いをしないため。バロック特有の指使いや弓付け、バロック弓の使い方、など初歩から教えてもらった。

*シュナイダー教授は、リコーダー奏者なんだけど、ほかの楽器の学生(しかも古学専攻じゃなくてもOK)に対してレッスンをしてくれる(公開)。
音程のとり方が平均律にならないように、ということや、装飾音の弾き方について等詳しく教えてくれた。作曲家が自分で最低限の装飾を書いているけど、それだけ弾いても足りないよ、とのことで今度もう一回こいと言われて、この年明けのレッスンが決まった。宿題としてたくさん装飾を考えなければならなかったんだけど、それはチェンバロで共演する(本当はリコーダー吹きで元シュナイダー門下、今は講師)ザビーネにレッスン前日に手伝ってもらった。


一次のリサイタル試験まであと9日となった、
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21 MITTWOCH

 18:30 Klassen-Vorspiel

シューベルト、モーツァルト、ラベルの3曲を休憩なしで通した。とにかく疲れた。ラベルの最後の方はほとんど無理やり弾いていた。こんなに疲れるもんなの〜?と思った。Y(妊婦)も息切れしていた。シューベルトはよかった。シューベルトで精魂尽きたあとのモーツァルトがやっぱり一番むずいと実感。
とりあえずラベルの暗譜(必須)は問題なかったのでよかった。


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26 MONTAG

 19:00 大ホールでゲネプロ

ぶっ通しで弾いて疲れた状態になっても、最後までちゃんと弾けるか試したかったのに、ヘンデルの1楽章を聞き終わった瞬間にフォに止められた。何を言うのかと思ったらいつもの彼特有の右手のテクニックをもっと使え、とのことだった。正直頭に血が上った。わざわざホールとってやってんだから、ピアノとのバランスとか曲の全体像として聴こうと思うのが普通じゃないの?私は音楽にだけ全神経を集中してたのに。その集中はそれっきりで切れてしまって、もう立てなおしは無理だった。そのあとも何度も止められて、もはやゲネプロではなくレッスンだった。いつも通りひとつのことにしか耳(むしろ目?)がいかない彼にはとことん失望した。彼はとにかくそれしか興味がないしそれしかレッスンできない人。他人の演奏を純粋に聴くことなんかできない。一言目にはそれ、二言目もそれ。ほとんど病気。失望感を表に出さないように普通に振舞うのに苦労した。この日の出来は覚えてない。



あさって試験、という日、
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28 MITTWOCH

18:30 Vortragsabend

客を集めてのクラスの発表会のトリでモーツァルトとラベルを弾いた。モーツァルトはとにかく楽しいとこは楽しく、感極まるとこは感極まって、というのを大げさ目にやってみた。弾いてる本人たちはとても楽しかった。ラベルは客もブラボー!と盛り上がってくれてうれしかった。ラベルは曲的にブラボーをもらえるタイプの曲なので楽しい。先生は満足げによかったと言ってくれた。その先は聞く気がしなかったので適当に話をそらせた。
Yが「あ〜楽しかった〜!」と言っていたのでうれしくなった。本番もこれでいこ!と思った。
マライケには今日の部屋ではモーツァルトのfがきつく聞こえた、と言われたのでそれは気をつけようと思った。でもきっと大ホールは響くのでたぶん問題ないだろう。


2004年02月21日(土) einskommanull!!

昨日でディプロム試験(卒業試験)が終わりまして、なんと

 1,0(満点)

をもらってしまいました!

わーい!わーい!すごーい!


  
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