ふつうっぽい日記
もくじ過去未来


2019年05月16日(木) ワクワクしてきた

この日記サービスよりかは、新しかったかもしれない、ある掲示板のサービスをやめようと思う。
それは、学生時代の友人との交流が目的だった。
仕様の向上だかで、ガラケーからは、アクセスできなかったり、別のSNSを愛用しているなどの理由でアクセスする人数も減り、書き込みも減り。

一応、最後の書き込みとして、「一時停止手続きをしようと思います」と投稿した。
返事はないかもしれない。
ないならないで、静かにそれを実行して、関係者に後日「感謝」のお便りを書こうと思う。(郵送で)
気軽な万年筆も添えようか。なんて、ちょっぴりトキメキながらも考えたりする。
そうだ、そうしよう。
私らしいなぁ。(らしさって何だろう)

「らしさって何ですかね?!」と、また別のネット的空間で論議のようなことをしたことを思い出す。
ただ、内容はすっかり忘れてしまったけれど。

「らしさ」とは。
やはり、そこには「過去」との執着があるような気がする。
最低でも2つの現象がないと、「らしい」と括れないような。
でも、現象なんかたくさんあるんだ。
それを適当に結んで「らしさ」で括ったにすぎない。

「あなたらしく」とは。
どこかに「らしくない」という危機があるのか。
でも、「らしくない」何かが2つ集まって、くくれば「らしさ」になるんじゃ?!
「らしさ」の向上、成長。
その途上には、括られる途上には、何かの崩壊だったり歪みだったりがあるのではないか。

ああ。
今。
万年筆のことが巡る。
Tちゃんには何色にしようか。
Mちゃんには何色にしようか。
Fちゃんには何色にしようか。
MFちゃんには何色にしようか。

ワクワクしてきた。
「お揃い」企画いいなぁ。
でも、マニアックかもしれない。
でも、「らしい」のだ。
この際、「らしくない」でも上等だ!

すべては、途上。
それも良しなのだ。

ーーーー

今日は、なんだか星占いの結果も悪いし、目覚めもイマイチだったので、どんより気分だった。
その気持ちの様子をつぶやこうと思っていたが、どうしたことだ。
「ワクワク」してくるなんて!
明日が楽しみだ。


2019年05月15日(水) 濃くなったり、薄まったりしながら……

同じ現象は、そう簡単に数時間も続くものではない。

よく言われる。
怒りの波は、6秒で収まる、と。
しかし、また、いつかはその6秒が戻って来るということもあるかもしれない。
でも、まったく同じそれはおそらくないだろう。
濃くなったり、薄まったりしながら、最終的に「どうってことない」「それもまた良し」的な状況に移りゆくものなのだろう。

昨日は、濃かったなぁと思う。
ホルモンの動きの結果の「液体」もそうだった。
赤い液体である。
体内から送られてくるそれは、自然のメッセージだ。
そのメッセージを受け取り始めたのは、中学生の頃か。
ただ、メッセージは、赤い「それ」だけではなくなってくるのだ。
そのことを忘れてはならない。


ーーーーー

今晩は「ぶり大根」の予定である。
予定というか、決定か。
「ぶり」は自然解凍中。
レシピでは、200g〜300gとあったが、700gを超えていた。
大根の量は、レシピ通り。
肉の量が倍以上あるからといって、調味料をそのまま倍にしてみるのは、どうだろう。
ここは、びびりながら増やしていったほうがよさそうだ。

「ぶり大根」は、「ぶり」と「大根」を別に下ゆでするのがいいらしい。
「ぶり」は、丁寧に「血」をあらって、うろこ的なものを取って。
これを霜降りというだったっけ(ここで、ネットの辞書で調べてみた)
「 魚肉や鶏肉をさっと熱湯に通したり焼いたりしたあとすぐ冷水につけ、表面を霜の降りたように白くしたもの。」うむ、当たっていたらしい。
でも、もとの情報源は母からのレシピである。
たしかに、「ぶり」と「大根」を別に茹でていて、最後に合わせるという方法だった。
今回は別のレシピを見て作ろうとしているのだ。
ざっくり見れば、同じではある。
でも、少しずつ違う。
大根を茹でる時に、米粒を入れるとかね。
米のとぎ汁を使うという方法もあるらしいが、そう簡単に偶然にとぎ汁は存在しない。
とくに、我が家はだいたい米は朝しか炊かない。(仕込みは前夜であるが)
「米」は準備できるので、「あ、できそう」と思ったのだ。

そういえば、「得意料理は?」と友人に言われて、咄嗟に「ぶり大根」と答えた。
得意かどうかは非常に謎であるが、頻度は高いような気がする。

さて、味付けは濃くなるだろうか薄くなるだろうか。
びびりながら、びびりながら、それでも優しい味になりますように。

濃くなったり、薄まったりしながら、最終的に「どうってことない」「それもまた良し」的な状況に移りゆくものなのだろう。


2019年05月14日(火) そう、波にまかせてね

今日は、昼まで寝ていた。
にもかかわらず、今、眠い。
さすが、ホルモンの動きである。
14時くらいが最高に、不安定であった。
眠いというのは、不安定だからだ。
不安定になるもの、というのが「ふつう」の状態。
さすが、ホルモンの動きである。
それもまた、良しである。

寝溜めというのは、出来ないらしい。
14時くらいに何をしていたかというと、読書だ。
新書である。若干、専門書に近い。
脳が頑張ったのだと思う。

週末のスクーリングの科目にも関連しているから、読んでいるともいえる。
週末、いい感じで脳がリフレッシュされて、ホッとした頃、気になる本も売られているだろう。

すべては、タイミング良く、である。

ーーーー
来週、誕生日を迎える友人がいる。
ふと、『夜のチョコレート』の本の存在が思い出された。
それは、20代か10代の後半あたり、電車通学だか通勤だかをやっていて、斜め前に立ち読みしていた女性が読んでいた本だ。スタイリッシュな方で、かっこよく映った。
同じ本を読めば、自分もそうなるのではないか?と、うっすら想像され、本のタイトルを見ることに成功。
それが、『夜のチョコレート』だった。本の紹介では「素敵な大人の女性になるための28のマニュアル。」とあった。たしかに、その時の私にはその女性が「素敵な大人」に映ったのだった。
よく使う、本のサービスで検索をかけたら、いろいろと「夜」や「チョコレート」に関連しそうであろう本がヒットした。
その中で、たまたま目に入った本の紹介文に「誕生日の夜に〜」とあったものだから、速攻でメモをした。
この本を贈るのだ!とときめきながら。
レビューなどをいくつか見てみた。なかなか良さそうだった。

しかし、である。
今日の14時くらい。
ホルモンの動きが活発だったのであろう。
「その本は、私が読むのだ」という気持ちが盛り上がってきた。
友人には、また次なる波が来た時に、その波にまかせて贈り物なりをして行けばいいのだ。

そう、波にまかせてね。

ホルモンの動きも波のようなものである。
寄せては返す。
荒い波もあれば、穏やかな波もある。
穏やかな波ばかりがいいなぁとも思うが、荒い波によって、砂浜に打ち上がるキラキラした漂着物だってあるのだ。

「果てない波がちゃんと とまりますように」
やはり、適度に巡らせる意味があったんだな。

波はとまらないけれども、それに気づくことで、フレームから外すことはできる。
波の活動がとまってしまったら、えらいこっちゃである。
すべては、自然の営み。


2019年05月12日(日) でも、まぁ、ありうるのである

今日は、美容室へ行った。
5月の初旬にも、パーマネントをしに出向いたので「話の続き」のような世間話にもなった。
それもまた良しである。

美容室といえば、今のところへ通い始めて約半年くらいである。
それまでも、一応行き着けというのは存在したが、担当者が辞めたり、店舗が引っ越したり。
カルテもメンバーズカードも予約制も存在しない、安い美容室に「通って」いた期間もあることはある。

美容室といえば、「雑誌」である。週刊誌をよく読んでいた。まぁ、椅子の前に置かれたものは、片っ端から目を通していた。
しかし、最近の美容室は「進化」してきたらしい。
アイパッド的な端末が何冊かある雑誌の下に置かれているのだった。
ここ半年通っているお店。
視界には入ってはいた。
しかし、美容師さんのかなぁと思って触らなかったのだ。
けれども、今日は思い切ってそれを手にしてみた。
というのは、隣の客がやはりそれを触っていたからである。
椅子の数だけ、備えているらしかった。
そして、自分用らしきスマホも操作していた。
私は、荷物として預けてきている。
そっか。
手元に置いておくというのもありなのかぁ。
でも、約2時間くらいである。
バリバリと働いているわけでもなく、情報に敏感でいたいというわけでもないし、待っている連絡もないし、たかが2時間程度である。
話を戻して、ちょっとの勇気を動員して、アイパッド的なそれを美容室で手にした私。

ちら。
○○マガジンというアプリが開かれていた。

△△マガジンを我が家では使ってきていたので、多少操作は似ていたのでどんどん触っていく。
パラパラパラパラ。
しゃっしゃっしゃっしゃっ。
指でページを飛ばす。

やがて、サービスドリンクが運ばれてくる。
アイスティーだ。
片手で飲みながら、しゃっしゃっしゃっしゃっ。

そして、時間がやってきた。
開いていたページはそのままに、私はシャンプー台へと誘導された。
開いていたページは、「(女性の)鼻毛、むだ毛特集」的な。
ちょっぴり、恥ずかしい。

でも、まぁ、ありうるか。
しかし、まぁ、よりによって。
でも、まぁ、ありうるのである。

来週は、パート的仕事再開である。
今週は、各種学習を進めつつ、まったりと過ごすのである。


2019年05月08日(水) 日々のルーティンを見直す

今日も、今日が始まる。
当たり前っぽい気もしてくる。
しかし、ちゃんと「今日」が始められたことに感謝して「今日」を始める、そんな日もあっていい。

今朝は3時半くらいにトイレに二度起きてしまった。
夢見もあまりよくなかった。
しかし、今となって、その夢をふり返れば、ただ、途上のキーワードを強引に繋げただけに過ぎないなぁと思った。夢はへんてこりんである。でも、夢を夢として見ておかないと、夢と現実が混同してしまうので注意が必要だ。


この時期。
「ハナミズキ」の歌が過剰に脳内を巡っていたっけ。
そして、涙も流していたっけ。


ーーーー

今朝は、7時半頃起きて、「なめこの味噌汁」と、「おろしやまいも」を作成。
朝食のおかずである。おかずとしては他に「ささみと三つ葉のわさび醤油和え」を昨日、作った。
わさび醤油の部分を濃い口の醤油ではなくって、隠し味に「梅」が入っている調味料を使ってみた。
少々淡泊な味付けになったが、醤油黒いよりかはあっさりして私的には美味しくできたと思ったのだった。

昼ご飯は、もやしラーメンの予定だ。

夜は、セロリと大根とニンジンと鶏手羽元を使ったスープを作るつもりだ。
デトックスが期待できそうだ。

デトックスといえば、自室の机上の上を少し整理した。
机上に配置しているアイテムの順番を変えた、というのが正しいか。
右側にあったパソコンを左側に置いてみた。
新鮮である。
あと、ほこりまみれのトキメキの減った雑貨を思い切って処分。
処分といえば、愛用していたメークパレットを捨てた。
思い切って、バキッと折った。
アイカラーとチークがセットになったものだった。
どれくらい同じ色を重ねてきたのだろうか。
ここらでイメチェンも悪くないだろうと。
それと、化粧水のスキンケアシリーズをちょっと変えてみようと考え始めた。
角質ケアの化粧水と保護用化粧水。
それも上質なものを使ってみる。
一気に揃えるのは、若干勇気(?)が必要だ。
なので、2ヶ月かけて揃える。
メークパレットはその分、気軽なものをセレクト。
アイカラーとチークが別なタイプ。
アイカラーは、混ぜてもよし、単色でもよし、という3色入りである。
楽しみだ。
新しいアイテムが揃うのは、今月末。
スキンケアに関しては、来月末だけれど。

日々のルーティンを見直す。
これもまた楽しい。
見直してばかりは、疲れるけれど。

そろそろ、12時だ。
もやしを冷蔵庫から出す時間だ。


2019年05月07日(火) そうできるようになるまで、「変調」と向き合わねばならなかった

新しい元号となって、一週間である。
この空間も「日記」と言うには、間が空きすぎている。
それでも、「ま、いっか」と思える今日に感謝。

昨日、久しぶりに長文のメールを友人に送った。
5月というのは、何やら活性化しやすいなと自己分析している。
久しぶりといえば、会うのも久しぶりだったのだ。
それでも、長年の付き合いという状況にあるのだから、「腐れ縁」とでも言えるか。

メールを書くにあたって、実にいろんなことをノートにメモしていた。
一応、自分の中で風を通しておきたかったのだろう(たぶん)

今、また、そのノートのメモを見ながら、メール的なものを書こうとすると違った展開になるだろうと思う。

ーーーー
それは、本屋を歩きながら考えたり、思ったりしたことだ。
本屋の棚というのは、私にとっては、そういう「巡り」を潤滑してくれる力があるらしい。

Aは、自閉症関連の学びを学生時代行っていた。
卒業後は、畑違いの仕事に打ち込んだ。
Aは、自分が自閉症関連のことを学んだ過去を持ちながら、我が子のサインを見抜けなかったこと、いや、サインに気づくのが遅くなったことを嘆いていた。
職業として「分断」してやっていたら、見抜けていたであろう。
しかし、同時に「ありうる」こととして、差異のようなものを飲み込めたのではなかろうか。
もしも、途上でAが破綻していたら、子もきっとなんだかで破綻していたであろう。
ある意味「適応」しているといえる。
受容の素地みたいなのが、Aには備わっていたのだろう、と。

「仮に親が気づいていたとしても、他者から問題だけを指摘」されると、どうだろうか。
そう簡単に「受容」はできないだろう。
複雑な葛藤が出てくるはずである。

ーーーー
ある母親が異様な光景としてつぶやいてきた。
異様な光景とは、子どもが石を持って帰り玄関の入り口に重ねるというものである。
しかし、私は別の子が同じように「石積み」をしているのを見かけたことがあった。
その子同士は、まるで面識はない。
ただ、その2人の子は、たしかに「課題」を抱える子ではあったのだ。
私にとっては、「ありうること」であった。
つまり、「異様」には映らなかったのだ。
解釈はいろいろあるだろうし、その子なりに思いもあるだろう。
私はこう思った。
確かな自分、昨日から今日への理解。
分断しそうな自己をつなぐための、自分自身へのメッセージ。
リストカットにも似ているかもしれない。
他の人が、文章を書いたり日記を書いたりするように、「ふつう」に行われる。


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ある会で、Aはたまたま自分と同じ服を着ている人と同席することになった。
Aの第一声は、「嬉しい!」であった。
Bは、「それは、かぶったというのよ」と諭した。

ある食事会で、Aはたまたま近くのテーブルの客が同じメニューを頼んでいたことを観察して、「怖い」と思った。やがて、別の料理が運ばれてきて、「違い」に安堵したのだった。

共通点に喜びを感じることもあれば、その共通点に恐怖を感じることもある。


2人で定食なんかを注文するとき。
親しい間柄だとメインをシェアする、ということもありうる。
しかし、1人で一人前を食べたいということもある。
どちらも分かるが、たったそのことだけでも、「別れ」の原因になりうる。


家族のルールの内と外。
他人と関わることで、価値観が変わる。
グルッと変わるのは、たとえば結婚生活だ。
お互いの家の「ふつう」がミックスされていく。
また、実家のルール的なものが「異質」であることを思い知っていく過程でもある。
それが家庭だ。

ーーーー
「ふと思い出したこと」を語っているうちに関連したさまざまな「記憶」が、「芋づる式」に甦ってくる。

とくに、懐かしい友とも再会では、そのあたりが非常に活性化する。
いつもとは違う脳の部分が働いている、そんな気もしてくる。

ーーーー
特別支援学級。
私の小学校時代をふり返ると、この学級はあった。
当たり前だと思っていた。
この存在。
今でこそ、ほぼ当たり前のようになっているだろうと思われるが、そうではない時代もあったのだ。
別の校区から登校して、在籍するように。
言われてみれば、私の小学校時代のそれも、少し遠くから親に送迎されていた子もいた。
障害は複雑ではあるが、軽度の知的障害を持つというのは共通していた様子だった。
私は彼彼女等と遊ぶのが好きだった。
気づいたらその学級の近くにいて、「遊ぼう」と手を取られて、教室の中や外で一緒に遊んでいたのだ。
その時、自分の在籍する学級の友達もいただろうに、何をやっていたのだろうと思うが。
もしかしたら、複数で遊んでいたのかもしれないけれど、私の記憶では私1人でその学級に遊びに行っていた。
「どうして、自分はココにいないのだろうか」と疑問に思った記憶も覚えている。
少人数体制で、その規模が羨ましかった。


ーーーー

矛盾した環境の中で育つこと。
「ダブルバインド」的な指示の中で、育つということ。
指示をした者は、「ダブルバインド」という言葉も意味も知らないだろう。

指示をした者も。そうなってしまう環境に育ってきたのだ。
それをあえて、「カッコ」でくくり、洞察できたということ。
それは「連鎖」を食い止めることにも役だったかもしれない。

例えば「片付けなさい!」という指示は、指示する者が常に「片付ける」ということをやれていれば、自然とその姿から「片付ける」という現象を取り込むことに成功するものだ。
自分が出来てないことを指示する、「強要」するということ。

「片付けられない○○」という傾向は、ADHD的であろうと思われる。
指示する者もまた、自分自身の中で困り果てていたのだろう。
今なら、「察する」ことができる。
ただ、そうできるようになるまで、「変調」と向き合わねばならなかった。
波紋の様に。


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