ふつうっぽい日記
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2013年05月31日(金) 肩こりから巡らせる

20代勤めていた職場には肩こり等で悩んでいる女性が多かった(気がする)
彼女らは週末、
「お姉さんたちは、今から(いつもの)マッサージに行くから今日はこれで帰ります。」なんて言って退出されていた。行きつけのマッサージ(整体?)に通っている風だった。

他人事だと思ってきた。


が、このところ、肩こりが気になるようになってきた。
心当たりがないわけではないので、気のせいだと収められなくはない。
そして、痛みを感じたとしても24時間ずっと気になり続けるということはひとまずのところ、ない。
しかし、肩こりと頭痛が重なり、軽い頭痛薬を飲んでみて、結果、頭痛も肩こりも落ち着いていったということもある。

「頭痛持ち」みたいな感じで「肩こり持ち」(?)というところまでには達していない。
これまで他人事だと思ってきたこと、さほど意識するほどではなかったことが、はっきりと意識できるようになったということ、それなりに動揺、ダメージを感じられるということは、感覚の機能としては正常な営みなのだろう。

日々の活動というのは、その活動がどれくらい自分に刺激、負荷、負担を与えているのかをいちいち仮説を立てて実践、実験しているわけではない。
活動の後に、痛みや苦痛、違和感、疲労感を感じて、意識されてから、活動の結果と結びつけた時になってから、あれこれ振り返ることになる。
難しいところは、同じ程度の負担が継続されると差を感じられなくなって、それは過去にとっての負担や刺激の程度とは異なるということ。

強くなりすぎると、少々の弱さの感覚が分からなくなるのかもしれない。
「これくらいのことで気にしないの!」なんて誰かに言えちゃうのかもしれない。

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昨日のボラ活動。
別の場所で、別の関係性の中で
「何度も同じことを注意されません」と、指導を受けていたパターンを目撃した。

注意された、つまり叱られた子は、何度も同じことを注意されたという自覚なんてなかったと思う。注意する立場、つまり指導者は、意識して選択して言葉を発しているから「同じことを言っている自分」に立ち返りやすい。自覚しやすい。
人は、行動を変容させるための声かけは何度も何度も言うが、褒める、認めることを伝える声かけは多分、何度も何度も言わない。
もしも、褒める、認めるといったポジティブな声かけも注意を喚起する声かけと同程度にされていたら「何度も同じことを注意されません」的な言葉はさほど使われないのかもしれない。
「何度も同じことを注意されません」は、「何度も同じことを注意させられている」活動が苦痛で疲れるからなのだろう。

人はある行動を正しく行えるようになるためには、他者からのフィードバックが必要だ。
フィードバックの質的条件や量的条件は、人によって違う。
そのところが多くの人を相手にしているとなかなかわかりにくい。
少数を相手にするとわかりにくかったものがわかりやすくなる。

多くの人を相手にしている場合の6回と少数を相手にしている場合の3回。
例えば12人中の6人と6人中の3人とでは割合が同じだけれど少数の方が目立つ。

血液型による偏見も同じだ。
日本人はざっくりA型40%、O型30%、B型20%、AB型10%の構成比だと言われている。AB型は偏見的に二重人格なんてことがなぜか言われている。ただ血液という次元でA型の抗体とB型の抗体の2種を備えているというだけで人格という次元になぜか繋げられる適当さ、いい加減さ。
もしも、それぞれの血液型の知人が100人ずついたら、そういったいい加減な偏見は係留点にはならないだろう。めったに目にしないという数だからこそ、ちょっとのいい加減な当てはめをしているにも関わらず、引っ張られてしまう。
血液型別でささやかれている特性みたいなものは、誰にだって大なり小なり持ち合わせているものだ。


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ある一つを自覚することから、繋げられていく道は、一本であっても、その太さ細さも様々。


血管を労ろう。
血管ってすごい。


2013年05月22日(水) 昨晩の寝付きの悪さについて巡らせる

昨晩、寝付きが悪かった。
すごい悪女的な思考が脳内を巡り、不発なひとときを過ごした。
毒舌的な言葉が放出するプロセスを認め、自分自身の課題を探ることを目的として文章化することにする。

わたしは小売りの仕事を小規模ながらやっている。
商品の受注、納品、集金、仕入れ金支払いというのがざっくりとした流れだ。

最近の受注方法としてはメールが主流だ。
少し前までは、電話も珍しくなかった。
経営方針上、いわゆるネット通販という方式は採用していない。
本来は、直接必要としているであろうお宅に訪問して、商品について説明をして、その時に必要に応じて欲しい商品を聞き出して、次の商品についての説明時に納品と集金をしてその時に欲しい商品があれば聞き出し……という流れである。
が、生活スタイル、生活拠点というのは移っていくものである。
定住する可能性がある気持ちが豊富な土地での販売活動と、移動の可能性を抱きつつのそれとではモチベーションも変わってくる。
いくら情報伝達手段が進化しても、それが人間的ではないというか直接的とはかけ離れた方法だと意識されてくると、初めはその新しい方法そのものを機能させること、作動させることそれ自体に楽しさとか意味を持たせることに満足していてもなんだか硬直化してくるというかパフォーマンスが落ちてくるというか、立ち止まってしまう。

わたしは時間をお金で買うことがある。
納品を配達業者に委託するのだ。
分かりやすくいえば、郵送で納品物を送る。
そこには当然、コストがかかる。
支出が発生する。
しかし、その支出には手間も含まれているわけで、たとえば自分以外の人材を雇用することを考えれば送料390円とか500円はお得なのである。手間といっても5分程度。
納品先が不在であっても再配達をしてもらえる。
配送業者から「あのお宅は行ったのに不在だった!どうしてくれるんだ!時間を返せ!」と文句を言われるなんてことはない。
そう考えると、390円とか500円で配送業者の時間を束縛してしまうのは申し訳ない気もしてくる。

ある顧客から、
「郵送してもらうのが申し訳ないので直接受け取りに行きたい」とあった。
顧客の希望としては、直接取引なのだ。
顧客の自宅へ直接納品してもらい直接支払いたいと。
不在の場合の想定もあり自宅郵便ポストに商品を入れてもらい、支払い金額はポストに入れておくとのこと。それを客観的に見ると、状況によっては不審者に映らなくもない。
実際に起こった別の状況としては、家族が在宅しており、商品を渡すことができたが、後日、その家族から注文者に対して感想のコメントがそのまま注文者からわたしに伝えられ複雑な思いを抱いたのだ。
その思いは今も持続している。

具体的には、その日は陽差しが強かった。
留守番していたのは中学生女子。
わたしは買い物「ついで」にそのお宅に自動車で寄った。
正確にはその自動車を運転していたのは夫である。
夫はサングラスをかけていた。
わたしもサングラスをかけていたかもしれない。
娘さんが母親に
「変な人が来たかと思って、怖かった。居留守使おうかと思った。」と伝えたらしい。
母親としてはその現場に居合わせていなかったので想像される状況としては面白かったのだと思われる。そして、怖い気持ちを抱かせた対象に対して、憤りの気持ちも持っただろう。
呪いのこもった言葉になるのも今となれば分かる。
呪いのこもった言葉とは、例えば、
「まだ結婚しないの?」とか
「子どもはまだ?」といった、返答に困る言葉である。
話を戻す。
その母親から
「娘が変な人が来たかと思って、怖かった。居留守使おうかと思った。と言っていた」と伝えられた時の不愉快な気持ちを今も抱えている。
「ついで」というのは気楽なようで、予想外のリスクがあるものなのだ。
リスクといっても「心が傷ついた」というメンタルな領域であったりもする。
そこにコストがかかっていない分、タダでマイナス的なリスクを受け取った感は大きい。

「近所の人が見ていて、ポストをいじっていたと言われた」と再び彼女から伝えられるのではないかという予期不安もある。
この不安は、「娘が変な人が来たかと思って、怖かった。居留守使おうかと思った。と言っていた」という経験がなければ抱かずにすんだものだ。


また、「ついで」の功罪、罪過として、納品対象が女性であり、「ついで」に、たまたまいた夫とのコミュニケーションが発生し、女性としては「嫉妬」が引き出されることもあるのだ。
ここには「申し訳ない」という思いがある。
「ご主人にまで手数をかけてしまって」という常識的な、「ふつう」に置き換え可能な。
それが重なると、
「これ、ご主人とよかったら食べて」
といって、手作りのお菓子などを受け取ってしまうことももありうるのだ。
実際にある。
「手作り」というところが、嫌らしいところなのだ。
悪女的発想では、それが甘ければ甘いほど、カロリーが高ければ高いほど、太らせることにも成功する。また、似たような状況としては、ランチバイキングに誘い、相手に大量に食べるように仕向け自分は控えめを貫くのである。相手が食べる姿を糧に希望にするのである。

引きでみると、見えてくることがある。
配送業者との対応の時間、受け取るための拘束時間、支払いを送金するための時間が「申し訳ない」という言葉で置き換えてまでも「もったいない」を伝えたいのだろうと。


5月から協力している家計調査のやりとりにも少し繋がる。
家計簿を月2回回収に訪問されるが、ポストを通してやっている。
ポストといっても自宅のだ。
ペラッと手を少し入れられる窓から封筒に入った家計簿を、封筒ごと回収し、受領のメモが入れられる。
やはり、わたしは経験により想像するのだ。
調査員がポストを物色している不審者に映るのではないかという想定を。
それは「申し訳ない」のである。

経験を活かすために考えたこと。
大きめのビニールケースの内側に調査員の名刺を見えるように貼った。
そのビニールケースの中に回収書類を入れておくのである。
ビニールケースをごそごそとポストから引き出す動作はその時点では不審であるが、もっとその動作を見届けるとそのビニールケースには受け取る相手の名前が書いてあるのだから正しい行動の証明にもなる。書類回収後は、そのビニールケースの中に受領のメモを入れることができるのだ。


彼女に提案してみよう。
不在取引時は、ポストに鍵を付けること。
その鍵はプライベートとは分けることが望ましいこと。
「○○さんへ この中に商品を入れてください」と明示してもらうこと。
お金を渡す&受け取る方法、リスクの相互理解。
ご家族にこのことをちゃんと理解していただくこと。




「あなたのメールが来てから立て続けに悪い事が起こった」と伝えられたこともあったっけ。

呪いのこもった言葉、呪いのセンスが絶妙に配合されているメッセージからの自分自身への課題。


動じない精神?
弱い精神の持ち主の自覚?
変わりゆく人間の心?
そうでも表現しないとやり過ごせない心情?



「今となれば、笑いが出る想い出の不審者云々エピソード」


苦痛な時間を埋める手段。
その時間は、誰かにとっては楽しい時間。
楽しい時間であることの「ふつう」を押しつけていないだろうか。


まったく同じ一日なんてありえない。
今日起こった出来事とまったく同じことが明日起こることはない。


2013年05月09日(木) 二人前のパスタソース

5月1日より総務省統計局の家計調査に協力している。

昨日、夫の実家から梅干しと食材数点が送られてきた。
連休中(厳密には平日であったが)自動車で実家に寄った時に渡しそびれたので配送にかけたというメッセージが携帯メールと品物に添付されていた紙切れに書かれてあった。

今となって、訪問した時のことを思い出す。
主として、わたしからすると後ろ姿が印象的だった。

「いつも」と違うのは、テレビがついていなかったことと、義父が同室していなかったこと。
スマートな義母のシルエット。

「デイに出かけてはる」的なセリフを義母は言った。
その日が平日だったからなのかもしれない。

ただ、平日だったからという、ただそれだけ。

義父がいてもいなくても、義母が言うセリフは同じなのだということを今となっては繋げられる。

自立して家を出ること。
出かけること。
介助無しには一人で出かけることも排泄することもできない状況になっても、そう願うということ。
それを言葉にするということ。

しばらくは違和感があった。

病に倒れなかったとしたら、一人で出かける様な趣味のようなことをやっただろうか。
家族以外の誰かとのコミュニケーションのひとときを楽しんだだろうか、と。
「囲碁とか将棋とかじいさんたちが集まってやってはる」的なそういった場にいてほしいことを願っているのかしらと想像したことがあった。
たとえば定年で在宅するようになって、それから一から囲碁とか将棋とかやってみようかと外へ出るということをやるものなのだろうか。なんてこともいろいろと勝手に想像した。
一人でいろいろと外に出て活動する人は、ずっと前からそうしているものなのじゃないか。
「家にじっとしていてもヒマだし、つまんない」というのが信念みたいなものになっている人もいるだろうし、「やっと、ゆっくりできる」と解放感に浸ることを楽しめる人もいる。
でも、「ヒマ」とか「ゆっくりできる」時間というのは、忙しさの度合いに関係なく流れていけるものではないだろうか。

そんなこんなと、時々巡らせていくと、「違和感」はどうでもよくなっていった。
わたしにとっては違和感であったけれど、当事者たちにしてみれば「ふつう」なのだ。
その「ふつう」に寄り添おうと苦悩しなくてもいいのだ。
ただ、考えること想像してみることは意味があるのだとわたしは思う。

さて。
送られてきた品物、
インスタントコーヒーの瓶が2つと500グラムのパスタ、そして二人前のパスタソースが2袋だった。配送伝票には「梅干しビン」と書かれてあっただけなので、それ以外はクッションの替わりのような感じで詰められたのかなと想像した。
ついでのようなモノでも、やはり意味が伝わってくる。
いや、深読みしていくと「梅干しビン」の方がついでの存在のようにも思えてくる。
荷物はわたしが受け取った。
一応、箱の中身を確認した。
未開封の状態に戻すことが容易な梱包状態だった。
しかし、わたしはじっくりとは見なかった。
新聞に包まれた梅干しのビンは2つあったが1つしか確認しなかったし、パスタソースは「一人前」だと思い込んでいた。
ただ、パスタの販売製造元は確認していた。

品物の宛先は夫の名前だったが、事前連絡携帯メールは夫には送信されていなかった。
簡単にわたしから携帯メールで荷物の件を夫に知らせた。

「誰から?!」と返信的連絡があって、すぐには繋がらなかった様子。

意外だったのだろうか。

昨晩は少々体調が悪くて、わたしは早めに就寝した。
その間に夫は荷物の中身を確認していたことを今日、尋ねてから知った。
彼もまた開封して、未開封状態に戻していたのだ。
だから、わたしは
「開けなかったの?」と聞かずにはおれなかった。

なぜ、夫は開封しなかったのか。
未開封状態に戻したのか。
ということにも少々留まってみた。
巡らせた。

重なる光景があった。
訪問した際に、陶器市で選んだ急須と湯飲みを箱に入れて義母に渡した。
お茶の葉を添えて。
義母は新聞の包みを開いて急須を確認したが、湯飲みは確認せず、再び急須を新聞でくるんで「箱」の中にしまったのだ。
そして、その「箱」が再利用されて梅干しビンが送られてきた。
もっと言うと、陶器市で選んだ陶器を入れるために選んだこの「箱」は、お歳暮で義母から送られてきたものだった。よって、再々利用されて「箱」が戻ってきたのだ。
「箱」を主体にすると1800キロくらいの旅をしたということになるか。

結局、わたしが今日の午後に内容物のみをしかるべき場所に収めた。
「箱」は解体され、リサイクル段ボールの仲間と同流した。

そして、あらためてまた巡らせる。

梅干しのビンはほんの少し液だれをしていた。
よって、収納されるタイミングとしては絶妙だった。
梅干しのビンは、大きめのビン(梅干し専用のような……)をいただいたまま所持している。
しかも、内容物は残っているのだ。
かなり芳醇な梅干しになっている。
この梅干しが手渡された時、義父はまだ病に倒れてはいなかった。
実家で鍋をつつきながら、義母と義父は厳しい会話をしていた。
義母だけのセリフは今となっても同じように聞こえる。

同じように聞こえるような言葉を発することで、「あの時」の病に倒れていなかった、どうでもない一日を繋ごうとしているのかもしれない。


そして、二人前のパスタソースの表記を見て。
わたしたち夫婦二人以前に、義母夫婦としての二人の存在が意識された。

毎年増える、デイサービスでの義父の誕生日祝いの写真付き寄せ書き。

「笑顔がいいですね」と言われるそうだ。
そのことを義母がいうとき、やっぱりちょっと違和感を含む。

だからこその人と人との出逢い。
それはこちら側から臨んだことではなかったりもする。

荷物を届いたむねを携帯メールで送った今日。
「出逢いに感謝する日々です」と括った。
思いがけず返信が来た。

「人生は死ぬまで勉強」
「日々感謝」というフレーズがあった。
「感謝して」に続く言葉が
「生きます」の誤植か「行きます」となっていた。

これもまたいろいろと巡る。

この日をいつかまた思い起こして、またいろいろとわたしは巡らせるのだろう。

品物同梱のメッセージは夫の本棚に紛れ込ませておいた。

そして、昨日の家計簿には「もらいもの」として梅干し2000グラムとスパゲティ500グラム、パスタソース260グラムが2つと記載。
見積価格も記載することになっている。
この欄は、夫と相談して今晩埋めよう。


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