ふつうっぽい日記
もくじ過去未来


2011年04月28日(木) 「きっかけは何だったのですか」

昨日、事務手続きのため連休明けから勤務する施設に出向いた。
ひとまずの任期は6月中旬まで。
6月中旬からもう一人の採用者と交替。

交替する職員も一緒に手続き。
試験日に少し話す機会があったがもう少し話したいと思っていたところへ、このチャンス。
前年度のだいたいの状況についても冷静に話を聴くことができた。


この職種への応募の「きっかけは何だったのですか」と、問われた。

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まずはボランティアから入ったこと。
そのボランティアに参加するきっかけは、友人が情緒障害児学級で講師をしている話を聞いたことと気ままに訪問した小学校時代の恩師から「学校に関わってもらえるボランティアが不足している」現状を聞いたことであること。

ボランティア制度の翌年に支援員制度がスタートしたことについて、私はボランティアが進化して支援員体制に移っていたと思い込んでいたことも語った。

そして支援員制度になって申し込みをしてから、「求められている支援員像」について知りたいという気持ちからネットを通して、障がい児を育てる親の会のようなグループの掲示板を見つけて、削除を承知の上で書き込みをしたこと。
そのグループの事務局を通して、実際に一人の母親と会って話をしたこと。
その母親は、前年度支援員として勤務したこと。

「第一期」から関わった者として、その「個」を支える「仕組み」「制度」に関して熱い気持ちを持っていること。応募者にはいろいろな方がいること。
採用する側に適切に試験をしてほしいと強く願っていること。

ーーーー


まず、対象児童と支援員がコミュニケーションを取れるように信頼関係を築きたいと考える。
その子にとって、「この大人は安心できる存在」でありたい。

子どもとの信頼関係が構築されることによって、「指示」が伝わりやすくなり、少しずつ出来るようになることが増えていくのではないかと思う。
そのためには、少しでもプラスの行動に気づく感性が求められると思う。

その関わりから、周りの大人とそのことを共有して、さらに周りの子ども達にもその子の「良さ」を伝えることも大切にしたい。
気がかりな行動には必ず理由があると見据えて、見守りながら理解していきたい。


ーーー
勤務開始は連休明け。

連休中の祭りは支援会員であるNPOのグループの一員として参加する。


2011年04月26日(火) 一つの教室に2人の大人

昨日、特別支援教育支援員の採用試験を受験。

採用担当としては2名で3月までの任期を回したいとの考えであり、試験受験者は2名。
よって、試験を受けることができた私は任用の確定者といえそうだった。
手続き上、試験の回答ぶりと任用計画を教育委員会に提出して、辞令を発行してからの採用。

2名で回していくにあたり、同時に任用はできない仕組みの中で、どちらがまず現場入りするかについて問いかけられた。
やや間を作ってから、私は勢いよくアピールした。

私以外の任用者は、前年度現場入りを経験しており、採用担当者でありかつ体制の「ボス」である職員との信頼関係も築けている。それを見据えた上で、私はより早い段階で基盤を整えたいと考えて積極的に出た。

前年度についてはその任用者以外にも人材がいたようだが、今回は応募してこなかった気配である。


ーーー

さて、話の現場を移す。

「支援員」という制度は全国規模で自治体の状況を受け止めながら多様に展開されている。
ネット上の関連コミュニティでのエピソードを参考までに取り上げておく。

ある児童の支援を進めるにあたり、その保護者の願いというのは配慮される重要な事項である。
「世間体ではなく、全体を見守りながらわが子に配慮してほしい」という希望を伝えてこられた保護者。対象児童の所属は通常学級。
担任教師と支援員の立ち位置に四苦八苦している支援員。
何度か「あなたは教員免許を持っているのか」と尋ねられるそうなのだ。
そのうち、他で任用されている支援員は教員免許を持っているのか?というのが気になってきたという。

支援員の採用条件は一律ではなく、教員免許を求めているところもあればそうでないところもあるし、免許を持っている者には時給のベースアップが実施されていたりする様である。
私の属する自治体では、教員免許は問われていない。一律賃金制である。


さて。
支援員は原則としてある固定された児童生徒を見守ることになっている。
固定された対象児童に対しての距離は、ピタリと張り付くと考えられがちである。
どこへ行くのも一緒、のような。
全体を見守りながらある「個」に配慮をする、というのはどういうことか。

私はこういう情景を想像した。
「わが子でありながらそれを告げることは許されない。
かげながら愛情を注ぎ続ける親のような存在。」

私の経験をふり返ると、週2日であったが対象児童が指定されていた。
授業時間はほぼその子の近くに椅子を置いていて対象児童にとって「助手」のような役を担っていた。実際に「関わる」のは対象児童の周囲の児童も包括。
周囲の環境が落ち着けば対象児童の集中力も促される傾向が見られた。
授業時間外は、意識して他の児童との関わることを優先した。
対象児童が男子であれば女子と関わるといったように。

賢い子は、どうしてその子にこの大人(支援員)は必要なのかについて考える力を持っている。
それをうまく言葉にすることは出来なくても「なんとなく分かる気がする」感覚に気づけている。
そして、対象児童も「この人がいるおかげで運がいい」「都合がいい」というメリットをなんとなくつかめてくるのだと思われる。
そう「周り」に思わせるように、働きかけるように、支援員である自分をコントロール、プロデュースしながら日々試行錯誤することが求められる。

「周り」には、子ども以外にも大人が含まれる。
多様な職員との人間関係。
だからといって、一個人との関係構築に一喜一憂しながら日々過ごすのは本来の目的からずれることになる。

私はこう考えて支援の現場に関わっていた。
「つねに子どものために行動する」
担任の動線を妨害しない配慮をしつつ、対象児童の周りの子達への理解啓発。
その小さな試行錯誤の支援員の後ろ姿は多くの大人たちから知らず知らずのうちに関心を持って見つめられていることがある。

目的に対してひたむきに努力するその姿を通して、信頼関係が結果として築かれていくことがある。担任教師にしてみれば「私の学級の子ども達をこんなにも愛してくださってありがとうございます」という気持ちが持てると、自然に関わった人間に対して信頼の気持ちを持つことにも繋がる。

誰しも「虫が好かない人」という人間がいる。
しかし、当人同士が深く人間関係を築けなくとも、共通する「何か」を通して培われる信頼関係というのは存在する。
だから、無理して頑張って理解しようとしなくても私はいいのだ、と考えるのだ。


ーーーー
【参考文献】
中野民夫・堀公俊 『対話する力』日本経済新聞出版社(2009年)

(30頁)
…私たちは、相手を傷つけたり、自分が傷つけられるのを恐れるあまり、どうしても曖昧な言葉で分かり合ったフリをしがちです。

(41頁)
…人は他者と関わって対話を繰り返しながら「協働」を成し遂げます。

(45頁)
…集まった人々が、安心してお互いに遠慮なく自分の思いや考えを話せる場ができれば、一緒にいることが楽しくなります。

(57頁)
…少しずつ「しなやかに」そして「したたかに」、さまざまな形で続けていくことが大切だと思います。

(67頁)
…まずは自分が信頼できる人間であることを見せることです。自分の気持ちや考えを素直に出す、相手を尊重する、公平に接する、みんなが期待することを率先してやる、といった態度が欠かせません。

(73頁)
…一人ひとりがこの場に必要であり、誰もが貢献できるなにかがあるということを、言葉だけでなく、態度や場のつくり方などで伝えられたら素敵ではないでしょうか。

(109頁)
…「湧き上がってくる感情や思考」はありがたいサイン、傾聴に値する情報だと思って、巻き込まれも抑圧もしないように、そのまま自覚することが大切ではないでしょうか。

(134頁)
他者からの評価に寄りかかりすぎず、「やれることを精一杯やる。以上」という気持ちで、淡々と次へと向かうのが長続きする秘訣でしょう。

(138頁)
優しくて熱い存在感が多くの人の心を開かせていくのだと想像します。

(180頁)
…「見守る」は、問題や危険がないか「見張る」のではなく、その場の状況をじっと「見つめる」という意味。

(242頁)
…本人の人間性がカギとなります。



2011年04月25日(月) 「精神的に強くなったと思います」

今朝のテレビに中島美嘉さんが映っていた。

彼女が歌手としてデビューするきっかけになったドラマを観た時から気になる対象だった。
CDも何枚か持っている。
といっても、熱中して情報をチェックする、というほどではない。

久々の中島さん姿。
耳の病気と闘っていたことも知らなかった。
その病気とは一生付き合っていくことになる存在だと報じていた。

医者から歌うことを止められ、苦悩を乗り越え、再び活動を開始。

「dear」という歌が歌詞と共に少し映された。
映画の主題歌にもなっているらしい。


「どうして私がこんな思いをするの?」という出だしである。

「知りたくも無い真実でさえ
時に知ってしまうけど
心の中にあなたがいれば
歩き続けていける」

という歌詞が中盤過ぎにある。


「命がめぐってまた会う日まで
あなたがくれた愛を
永遠に抱き続ける」

という歌詞がラストである。


「死」を受容するかのような描写。
作詞作曲は彼女ではない。

テレビでは「気持ちが自分に合っていた」といった言葉を言ってあった。

歌を歌うときは裸足。
そして舞台の上にはマリア像を置いている。

「愛」という言葉が歌詞の中に5つある。


「愛」には様々な奥行きがある。

男と女の恋愛の「愛」や家族愛。

私は「母と子」の愛をその背景に感じた。


中島さんは「精神的に強くなったと思います」と言っていた。
共感できるなと思った。

クリエイティブなトラブル、アクシデントを乗り越える中で彼女の才能はさらに輝きを増していくだろうと思った。


2011年04月24日(日) それは薄暗い部屋から

「KAZUさん、私ね、元気出して欲しいなって思う人がいるの。
私は一緒に行けないけど、フォローしてやっていただけないかしら。」

あたしが「美容アドバイザー」としてちょっぴり活動的だった頃。
同じ住宅に住んでいたMさんがこうあたしに伝えてきた。

Mさんが元気づけたい人Yさん。

あたしはYさんの存在を知らなかった。
Yさんの周りで起きていることなんてまったく知らなかった。
Mさんはそんなあたしの反応に驚いていた。

「たくさん、花輪が出ていたんだけど。本当に、KAZUさん知らなかったの?」

そう言われたのも、あたしがYさんと本格的に関わって数ヶ月が経った頃だった、

Yさんは子どもを病気で亡くされてあったのだ。
Yさんのお宅に行くと幼稚園に通う女の子が一人いた。
あたしはYさんのお宅にはこの子一人だけだとずっと思い込んでいた。

初めてYさんのお宅に訪問したとき、たしかにYさんの表情はどこか重いようなところがあった。
話ながら笑顔も出てはいたがすぐにその笑顔は真顔に変わっていた。
Yさんと関わる部屋も、薄暗く、彼女の内面を映しているかのようだったことを覚えている。
YさんのMさんとの関係もいわゆる「ママ友」ゆえに断ることができなかったからなのか?とも勝手に想像したものだった。

あたしは手始めに「お試しエステ」をさせていただいた。
Mさんからの紹介ということで良心的な価格でのサービス。
Yさんの自宅でYさんの希望する時間に機材を持ち込んで進める。

あたしはどちらかというと、話し下手である。(「聞く」ことが、「聞き続ける」その時間が長いという理由で)
よって、訪問販売だとかいう類の仕事は不向きだと決めつけていた。
幸い、あたしが関わっていた仕事は「ノルマ」というものが一切無く、自分のペースで活動することを優先できた。
美容関連の講習を受けて、知らないことが分かったことや、自分自身のケアの意味を知った機会に恵まれたことだけでもあたしは満足だった。
そう、「教養のため」美容領域に足を突っこんでみたのである。
それまでほとんど美容には無関心で、化粧も適当、眉も気づいたら繋がっていた、ということもよくあることだった。

今、ふり返るにあたしは「学ぶ病」なのかもしれない。
その「病」を受容し、共生していく覚悟が出来たのが、ここ1,2年といえそうだ。

先輩アドバイザーのトークは守備範囲が広く、人生の味ともいえるものがふんだんに盛り込まれ、「あたしには無理かも知れない…」とため息をつきそうになった事もあった。
顧客のほとんどが子持ちの主婦であり、子育て経験、出産経験が全くないあたしには、厳しい道を選んでしまったかも知れない、という後悔のような気持ちを持ったものだ。

しかし、思い切って扉を開くと、思いがけない縁が待っていた。
その扉を開くことは、イコール、「固定観念からの解放」だった。

子持ちの主婦である女性は、あたしが「子ども待ち」であった時に共感してくれたり、声援を送ってくれたり、温かい歩み寄りをしてくださった。
そういう人たちとの関わりもありながらの、Yさんとの出逢い。

あたしの課題は「いかに子持ちの主婦との関係を構築するか」という枠を越えて、「この人(女性)との関わりの時間を大切にしたい」と思うようになった。

商品が売れるかとかエステの予約が入るかなどは、どうでもよくなっていた、というのが素直なところだった。

約5年、あたしはYさんのお宅を訪問し続けた。
その3年目の時あたりだろうか。
あたしはYさんに「Yさん、美容の勉強してみない?」と軽い気持ちで言った。
何度かタイミングがあれば同じ言葉を言った。
そのうち、「私にも本当にできるでしょうか?」とYさんが歩み寄ってきた。
「何事も勉強ですよ。教養です。」とあたしが抱いてきた気持ちを伝え、Yさんも美容を学んだ。


今では、YさんはYさんのペースで顧客との対話を楽しみ美容アドバイザーとして活動している。
そして、Yさんの娘さんはこの春、中学校に進学した。

あたしが転勤族であり拠点が移ろっても、実年齢は年下ながら、先輩として慕ってくださっていることに感謝。

教養として関わった「美容」という領域であるが、Yさん以外にも顧客である個人と繋がり続けていることで、思いがけない縁が深まることが起こる。

「うちの子、発達障がいなんです」

美容部員とその顧客関係から、共に発達について、子どもの支援について学ぶ関係に発展。

ただこうやって繋がり続けること、ただこうやって存在し続けること。
それだけで人間関係は奥行きが出てくる。

あたしの人生、あたしらしく紡いでいけているな、と今日思えたことが幸せである。


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明日は、小学校で特別支援教育支援員の「試験」を受けることになった。
書類選考は通過したのだ。

大胆に応募の動機や自己アピールを書いたのだが、それを理解してもらえたのかは今後の私の行動にかかっている。

適度な緊張感を持って、しなやかにしたたかにおおらかに「試験」に挑む。
あたしの武器(?)「笑顔」を忘れないようにしなくては。


2011年04月22日(金) 大学入試から想起されたこと

約20年前の大学入試のことを昨日思いがけず思い出した。

それは一冊の本を再び手にしたことがきっかけである。
灰谷健次郎氏の『兎の眼』である。
この本は、高校卒業記念として友人Mからもらったものだ。

「小学校の先生を目指すKAZUちゃんに是非読んで欲しい」等のメッセージもたしか添えられていた。
Mは、県内の教育大の障害児教育コースに進学した。
あたしも同じ大学を狙っていた仲間だった。

ところが転機が訪れる。
センター試験当日、私は体調を崩し、朦朧とした頭で受験した。
さらに蕁麻疹が身体中に出て最悪なコンディションだった。
本調子が発揮できる状況とは言えなかった。

自己採点は過去最低の得点。
Mは二次試験に挑むことになった。
二次試験用の願書をMが汚してしまい困っていた。
あたしはMに「私は私大を受験するので使わないから是非使って。私の分まで頑張ってね」とあたしの白紙の願書をMに差し出したのだった。

私は高校では「国立文系」クラスに所属しており、私立への変更には正直抵抗があった。
しかし、やるしかない。
小学校教員免許が取得できる、一つの私立大に狙いを定め、過去10年分の問題を集め、傾向をつかもうと努力した。1つの大学で、第一希望として小学校教員免許が取得できる専攻、第二希望として保育士受験資格、幼稚園教員免許が取得できる専攻、第三希望として、その短期大学部で保育士受験資格が取得できる科と目標を持った。

結果、3つとも合格した。

教育大に進学したMとは時々連絡を取っていて、あたしのサークルの発表会(演劇部の公演)にも一度観に来てくれた。
Mと教育について語り合った、という記憶はほとんどない。
ただ、お互いに教育実習の後に何だかの感想を言い合ったような気がする。
当時、あたしは「障害児教育」領域には全くといっていいくらい関心がなかった。
「こっちはこっち、あっちはあっち」みたいな感覚だった。

Mとあたしの教育実習プログラムの大きな違いは実習先が附属小学校か出身校か、であった。

あたしは出身校に教育実習に行きたいという強い希望があった。
そう考えれば、教育大を選べなかったという状況は必然だったのかもしれない。

Mは、教育実習を受けてみて適性がないことが分かった、ということをたしか伝えてきた。
あたしは、念願の出身校での教育実習を叶えることができたことである程度満たされていた。
惰性のような感覚で2回採用試験を受験した。
それは、出身校を管轄する教育委員会とは違うエリア。
そのエリアを選んだのはあたしの「弱さ」だった。
今のあたしだったら、違う選択ができたと思う。

当時は採用枠もさることながら、「講師」になれる確率も厳しかった。
それでもなお、強い意志があれば扉は開かれたはずである。

あたしは強い意志がなかった。
単発のアルバイトで小遣いを得る生活。
「自立」とはほど遠い生活。
社会人になった同級生は実家で通勤しながらであっても家にお金を入れている。
実家を出て一人暮らしをしている、なんていう友人にはただただ尊敬だった。

そして、多少なりとも安定が見込める「企業」へ就職を決めた。
「本当に教員になりたい自分がいれば再び閉めた蓋を開けるだろう」と自分自身に期待しながら。

「企業」勤め時代、あたしは簿記学校へ内発的に通っていた。
そこでの講師との出逢いは、今の私の人生に励みを与え続けている。
たかだか資格取得目的の学校ではあるが、講師の人間性を観察するあたしがちゃっかり存在していた。そこでは、あたしは必ず前方の席に座り、必ず何か質問をして退出するようにしていた。
そのうち、あたしが質問をしようとする前に講師の方から質問がないかと配慮してくださるようになった。「会計士を目指してみませんか」と言われた時には、少々悩んだ。
あたしはその道を選ばなかった。

その時、お世話になった講師が何気なく言った。
「一生懸命頑張っていると必ず見ている人がいるものです」

今思えば、その講師、一個人からのあたし一個人に向けてのメッセージだったのかもしれない。
と言うのも「でも、校内でのプライベートな付き合いは禁止されているんですよね」とその講師が言ってきたからである。そう言われてもその時のあたしは、意味が分からなかった。
もし、その時、あたしの中で恋愛モード的な勢いがなんだかで暴走していれば、もしかすると情熱的に迫っていたかもしれない。

やはり、あたしは「愛されている」とか「愛される」という感覚が著しく発達が遅れていたのかも知れない。

そのあたしのアンバランスさが、何度か交際にいたった男性の中で理解しがたさを発生させ、距離を置かずにおれなかったのではないか、と考察した。

そう考えると、夫としてあたしと一緒に暮らしている人というのは、まるごとあたしを包み込んで理解してくれている貴重な存在だと思う。


今日、こうして大学入試から想起された内容を繋いだ点や線の存在。
いや、一冊の本『兎の眼』から広げられ繋げられ表現された、あたしの脳髄で文章化された「物語」。

日々新芽。
この文章の置き場の名前を「日々新芽」と改変しようと思う。


2011年04月21日(木) 「あたし」の誕生

今日の朝刊の人生相談のコーナーを読んでいて、相談に答える女性が「あたし」と称していることに目が向いた。
この人生相談コーナーは、時々今までも見てきたが、「あたし」という表現に気づいたのは今日。

そうか。
憧れの「僕」と対等になれそうなのは「あたし」なのかもしれない。
「俺」なのかもしれないけど。

「あたし」と「私」
仲良くなれそうな気がする。

ーーーー

あたしが、ピュアな時期を過ごしたあの頃の季節が間もなくやってくる。
街路樹ハナミズキ。
あの町の花だったか木はハナミズキだった。
そして、5月に近かった。
5月だったかも知れない。

心が揺れていたあの時。
ハナミズキの歌詞を贈ってくださった方がいた。
あたしの心をその歌詞は貫通した。
巡った。
ハナミズキの歌がラジオで流れる度にあたしは泣いていた。
そして、同名の映画も上映され、あたしを愛する2人と一緒にその映画を観た。

あたしの2つ下のあたしによく似たあの子は、「愛が生まれた日」をあの子を愛する1人と何度も歌っていたっけ。


親子の愛。
どうなのだろう。
親が子に持つ愛情はいつから育まれるのだろう。
意識化されるのだろう。

子が親に対して「あたし(ぼく)は愛されているのだ」と実感するのはいつなのだろう。
あたしは、こう考える。
それは「ものごころ」ついた頃ではない。
親の存在に気づいた頃ではない。

もしかすると、子である「あたし」や「ぼく」が「親」という立場になると強く意識化できるのかもしれない。きっかけに繋がりやすいのかも知れない。

であれば、「親」という立場になる機会に恵まれていない時。
どうやって実感していくのか。


ーーーーー

こういうことなのかもしれない。
例えば宗教性の獲得。
1冊の「バイブル」の存在または多数の自分で選ぶ「バイブル的」な存在の違い。
1つの宗派に属するか無宗教として自分でなんだかの神性を取り込んでいくかの違い。
例えばある理論を学ぶ時。
1冊の難解な書籍を時間をかけて理解するか、何冊もの簡単な書籍を読んで理解していくか。

1つの学びを獲得するのに、1つの大きな経験から学ぶか100個の小さな経験から感じ取るか。

1つを大胆な行動でもって学び深めて行くか、こつこつ時間をかけて学び深めて行くか。

人生は一度きりだとか人生は短いとか時は金なりとか。

あたしは焦りたくない。
追い込みたくない。
だからといって、苦労したくないという甘い気持ちは持ちたくない。

「ゆっくり自分のペースでいいんだよ」
「あなたのやり方でいいんだよ」

そうだ。
そうだったのか。
こういう声かけを私は「特別支援教育」の現場で伝えてきた。
あたしも「ゆっくり自分のペースで」「あたしのやり方で」人生を楽しめばいいんだ。

「しなければいけない」「したほうがいい」「すべきだ」
しっかり自分で考えたい。
こう指導者から言われた場合。
「指導者から言われたからやるしかない」というのは依存だ。


しかし、こうも考えてみてもいい気がする。
「やってみたいとやってみた」とでは全く次元が違う。
そう、「やるしかない」と追い詰めるのではなく、「やってみたくなった」と想像の余地が膨らんでくれば「やってみたらいい」。
「やってみて」その後、どうだったのかが次なるモチベーションや新たな扉の模索に繋がる。

考える道の壁が少し優しくなれるような気がしてきた。
指導者のかける言葉には一つの「賭け」のような願いが込められているのだろう。


ーーーー

ハナミズキの歌詞の贈り物に対するあたしの返歌は「プライド」だった。

今、心新たにその歌詞と歌を見つめてみた。
案外、あたしはまともだったのかもしれない。

「愛する」ことに気を取られて、「愛される」というメッセージに鈍感になっていたんだろう。
いや、「愛される」感覚、とらえ方、感性が生まれたのかもしれない。
「学習」「発達」したのかもしれない。37年の長い年月をかけて。

来月は「母の日」がある。
「愛される」ことがはっきり理解できた、あたしからの初めての感謝の気持ちを贈りたい。


2011年04月20日(水) 不思議な縁が試してくる

このところ、眠気覚ましにこの場所へ収める言葉を書いている。
そう、今、とても眠い。
しかし、心はいたって健康。

就職活動中。
書類選考の返事待ち継続中。
希望校の本年度の行事予定はまだネットに公開されていないが、傾向として歓迎遠足あたりが実施されようとしている時期だと思われる。
5月〜6月には運動会が予定されてあることも多い。
とにかく、小学校に関しては年中通して行事が目白押し。
そこへもって、緊急事態などがぽつぽつ起こってくると現場は緊張の連続である。

募集要項によれば来週末から勤務開始となっているので、来週火曜日まで応募受付にはなっているが選考試験が勤務開始日の前日なんてことはないだろうから、今週末あたりには何だかの返答があると見込んでいる。書類が先方に届いたのか確認をしようかとも思ったが、ここは冷静に「待ち」の体勢を貫こうと思う。

ーーー

こういう私の状況を試すようなことが起こった。
思いがけず、幼稚園に勤める先輩から幼稚園でパート補助教員をしてもらえないかという誘いがあった。

「待ち」の体勢時ではあるが、直感として「これだ!」と思えば書類を送った小学校に潔く辞退を申し出るということも出来るのだ。

私はどうしたいのか。
決まっている。
「特別支援教育」の現場で、それも出来るなら小学校という「しくみ」の中で自分の存在を置きたい。

広い視点に置けば、「幼稚園」という「しくみ」の中においても、「特別支援教育」をテーマに関わることは可能なのだ。
人間の発達は、連続しているのだから、小学校の前の段階の幼稚園という段階での関わりの経験は意義があるのだ。
しかし、同時に関わることはできない。

「補助」というからには、「補助」なのであるから「主」である立場が作成する指導計画に基づき、指示されたことを忠実に従えば適度にこなせるのだと思われる。
自分に試練を与えるとすれば、自動車での通勤になるため、ペーパードライバーから脱するという課題。


なぜ、「特別支援教育」の現場にこだわるのか。
なぜ、これなのか。
そこでの試練は、課題は何なのか。

「特別支援教育支援員」という立場は微妙な状況にあることを私はこれまで経験して思ってきた。この体制の価値は何なのか。
この体制を「学校」を運営している人たちはどれくらい理解しているのか。
子どもとの関わりが主たる目的だが、子どもを包む社会としての「学校」のしくみ、支援するしくみそのものをじっくり考えてみたい、という思いが私の中で盛り上がっている。

その思いはどこから、何のきっかけがあってそうなのか。

これまでの学校現場での支援する者としての経験そのものからの反省もさることながら、その枠をこえた子どもを支えるしくみの重要性を考察したくなったのだ。
考察という言葉は違うような気もするが、とにかく理解したいと思っている。
それは私自身を知ることにも繋がる。

「これまでの学校現場での支援する者としての経験」
価値ある反省に結びついたか、というと微妙である。
おそらくこの微妙さ加減が「特別支援教育支援員」の位置づけの微妙さに繋がっているのだ。


本当に必要な存在なのか。
なぜ必要なのか。

そこには自分の経験が認められるべき内容だったのか、という評価されたい気持ちがあるから、というのが全くないかという嘘になるが、役割としてのその機能の今後はどうなることが期待されているのか?という謎が疑問の大部分を占めている。

学校の先生は大変だという。
大変さを知ってもらうための存在なのか。
「教師」という資格を前提に関わる現場ではないが、「先生」と呼ばれる。
素直に新鮮な気持ちで、そして何やら嬉しさがこみ上げる。

それは目的ではない。

誰がどうなってほしいのか。

担任教師が大変さから解放されるため?
人間関係が増える、ということになるが、大変にならないか?
TT(ティームティーチング)担当の教師がその役割を担うという訳にはいかないのだろうか?

「特別支援教育支援員」は学校に1名の配置。
「補助」よりも動きの見通しは持ちにくい立場である。
担任と連携が重要、という「特別支援教育支援員」。


「しくみ」のリーダーシップを担う人材は教職員である。
計画に基づいて、試行錯誤していく一つの「駒」のような存在が支援員だろうか。
担任が書いた脚本に沿って、担任をサポートする「黒子」のような存在が支援員だろうか。
同じ学校であっても、管理職が1名替わるだけで「しくみ」の雰囲気は変わる。
せっかく築いた「共通理解」もそのまま引き継がれることはほとんど無い。
引き継がれることを期待していた時期もある。
しかし、考えを改めた。
「前例」として固まって「因習」となっては向上していかないし、成長していかない。


「しくみ」そのものの意義や価値を問いながら、その役割がその部分に機能しているのか、どうやれば機能していくのかについて考えながら実践していきたい、というのが私が支援員をやり続けていきたいと思っている動機である。

そのような動機で、志願する人がいようがいまいが、私はそのように考えてみたいのである。
その思いが関わる大人に伝わるか伝わらないかは私のこれからに繋がっていく。
その繋がり具合を、論文のようなものとして形にしてみたいと思っている(※「論文」とは言い切らない)
その目的は、あくまでも「自分自身を知るため」なのである。

この動機が通じるか通じないかの答えが、書類選考結果以降の流れで一つ分かるともいえる。


よく言われることがある。
「教員免許を持っているのに、教師をしないのか。もったいない。」

これに対しては、時々揺れる。
私は教師を本当はやってみたいのだろうか?と。
でも、何かがひっかかる。
想像の余地はあるが、何かひっかかる。

教師もやり甲斐はあるだろう。
しかし、私にとって支援員というまだ未知の部分があるこの行く末不透明な立場も、そういう状況だからこそ魅力なのだ。
教師の動線が分かるからこそ、「黒子」になれる。

「支援員と教師の給料の違いを考えよ」とか「せっかくならお金をもらって関わる道を考えてはどうか」という声も聞いた。

多くの人たちが歩いてきた「教師」という道。
まだまだ分からない「支援員」という道。

それぞれの道には有意義な「苦労」もあるが、「しくみ」そのものを近くで意識しながら関われる「支援員」という道を私はあえて選びたい。たとえ、その立場が消えゆく職種だとしても。
その「始まり」といえる、「第一期」から関わってきた者として。


2011年04月19日(火) 書類の整理

書類選考の結果待ち継続中。

かといって、不安に支配されているということはまったくない心の状態。
本当、私、強くなったと実感。

もう別に結果が来なくてもいいかなぁ〜くらいまで落ち着き払っている。

支援会員として参加している特定非営利活動法人のブログで、「どんたく隊」参加を呼びかけていた。

「どんたく」とは何か。
正式名称は「博多どんたく港まつり」
戦争で荒廃した博多の町の復興を祈る祭りとして、戦後から始まったもの。
博多育ちの私だが、このように説明することはできなかった。
また一つ学んだ。

内側から湧き上がった「自助」的な祭りといえるだろうか。

大震災に配慮して、中止も検討されたそうだが、震災復興支援の柱として、福岡全体の支援運動の連携事業として実施されることが決まった。


ーーーー

書類選考の結果待ち。
このひととき。
どうせなら、関連するようなことをしながらバランスを取りたいと考えて、「特別支援教育」関連の書類整理に着手した。

県の教育委員会のHPから取り出した統計データは21年度の分でこれは処分。
発達障がい理解のために取り出した資料は、障がい別に綴り直し。
資料類は、隅々まで目を通してきた訳ではない。
とにかく関連していそうだとその時判断したものが蓄積されたもの。
今、それらを見ると別の切り口から関心が向く。

文字と言葉。
その存在の価値。
時間が経って深みを与えてくれるそれらの存在。
文字や言葉自体は何も変化しないのに。

人間は刻々と変容する。
文字や言葉のようにただそこにいるだけでも、存在の価値はあるのだ。
これを無条件の愛というのだろうか。

何かを整理する、という流れは自分の中の「何か」も整理されていく。

うむ。
女性の「生理」も、毎月、からだを「整理」する役目なのだ。
産む。
有無。
機能があっても充分に発揮できないこともあれば機能しないこともあれば機能の可能性が低いにも関わらず発揮できることもあれば機能として発揮できたことを消し去る人もいる…。

虐待のニュースは残酷だ。


育てられないと悲観する人は是非相談に行って下さい。
なんとかなりますから。
子どもを支えるしくみは存在するのです。
誰も今のあなたを責める人はいません。
よりよい方向に支援の手が差し伸べられますから。


子どもは暖かい家庭で育まれる権利があります。

だからといって、暖かい家庭を作るために子どもは不可欠な存在ということではありません。
「環境としての大人」という広い視野で子どもを支えていきましょう。

子どもの笑顔は宝。
見知らぬ人にも降り注がれる笑顔。
そこには他者に対する先入観は皆無。
切羽詰まった通行人の人間の心を癒すことにもなってる。

ーーーー

書類の整理再開だ。


2011年04月18日(月) 激しく揺れている木の葉の動きが落ち着くまで

週末、土日スクーリング科目「心理学実験」に参加。
2日間で4つの実験をこなし、2つのレポートを提出。
このうち、1つの実験は学生時代にしたことがあったが、学生時代の学びの記憶は写真のような残像のみ。つまり、「有意差がある」ことを導きだす関数電卓を使った計算の知識の類はまるで私の脳には残っていなかった。当時のレポートが手元に残っているが、見ても分からなかった。
しかし、そこに書かれている文字は確かに私のものだった。
といっても、この2日間の講座は初学者でも分かるような内容で、統計計算の類はしなくてもよかった。

土日の疲れが出ているのか、貧血状態にあるからなのか、朝から定期的に睡魔に襲われている。
潔く昼寝をしてみるか?とも思ったが、朝から装用しているコンタクトレンズを外すのがめんどうでうつらうつらする程度に留まっている。

一度目の睡魔は、ピアノの鍵盤を叩いてみることで通過させた。
二度目の睡魔は、尊敬している師匠の文章を読んで興奮状態に自分を持って行くことで眠たい脳から距離を置くことができた。

で、今、三度目。
ベランダに面するサッシ戸を開けて周りの景色を見る。
「私の木」と呼んでいる「木」をぼんやり見つめていると、その木は激しく木の葉を揺らしていた。

広縁にディレクターズチェアを置いて哲学的文章を読んでみた。
ダメだ。眠い。

だいたい、今日は本来は緊張して過ごすはずの1日なのである。
何かというと、書類選考の結果が今週分かるのである。
その結果はケータイに「担当」から連絡が入ることになっている。

主観的に最近、自分自身の性格を問う時にキーワードとして挙げたくなる、「おおらかさ」を本当に獲得できてしまったのかもしれない。
こんだけ「のんき」でよいのか。
よいも悪いもないのですよ。

性格について。
土日の「心理学実験」では「性格検査」というのもあった。
120問からなる質問紙に「はい」「いいえ」「?」で答える形式。
「?」や「はい」じゃなくて「いいえ」または「いいえ」じゃなくて「はい」というどっちつかずな回答は全くしなかった。

似たような「心理テスト」の類をこれまで何度か受けたことがあるが、明らかに「以前ならここで、【はい】を選んでいたな、【いいえ】を選んでいたな。でも、今の私は違う」という自覚を持って回答を進めることができた。


例えば「小さなことでくよくよ悩んでしまう」とか「うわさが気になる」とか「劣等感を持っている」とか。
お遊び的な「占い」「診断系」の結果のコメントに「小さなことでくよくよ悩んでしまいがち」というような言葉があると、「そうそう。そうなのよね。」とネガティブな表現をあっさりと自分に取り込んでいた。そういう結果じゃないものは、間違っているんじゃないか、くらいに「折りグセ」が定着していたといえる。

明らかに以前は内向的で活動性は低めだった。

今は違う。

「性格検査」の結果では主導権因子に特徴があって、「支配性大」「社会的外向」のパーセンテージが高かった。「適応者型」という枠組みに入る。しかし、この型は、自分を良く見せようとして故意に望ましい結果に自己評価として導いた場合、この型に流れることも多いそうだ。
そして、それが故意であるのかについての判定は難しいとのこと。
あくまでも「自己評価」であるので、「思い込み」ということもありうる。
今回は実験体験としての検査であったので、結果は回収されることはなく、自己採点で自分の主観的な性格と比較してどうなのかについて考えることが考察課題だった。


「心理学実験」の担当講師は県内の大学の准教授。
アシスタントを1名同伴していた。

「実験」というスタイルを取るため、講師と双方向なコミュニケーションを楽しむ、という時間はなかったのだが、講師の語る「個人的な体験」は有意義な想起に繋がった。
それは二日目の昼食後の時間。

「私ごとですが…」と、「去年原因不明の内科的疾患で入院した」というエピソードを語られた。
「ほどほどに休憩をして、学びを続けていってほしい」という言葉を受講生に伝えたかった様子だった。

提出はレポート2枚と授業についての感想1枚。
私はその感想に講師が語った「個人的な体験」から想起した事柄を書いた。

「クリエイティブ・アクシデント」
この表現は、「師匠」のブログに書かれてあった。

事件や騒動、ハプニングに対峙して乗り越えたからこそ獲得できた「何か」。
きっと、この講師にも繋がっていると私は確信した。
闘病中はいくら頑張ろうと思っても頑張れない。

この講師は今、行政から依頼されているという子ども達を犯罪から守る防犯プロジェクトの1つとして心理テストを開発中と言っていた。試作段階でのデータ提供として「心理学実験」受講者は協力をさせていただいた。
「個人的な体験」前と後では、アカデミックな脳の動きはおそらく後の方が要領よくなっているのではないかと想像した。

講座の最後に講師は、「今日、無事にこうやって授業をすべて予定通りに進めることができたのは皆様のおかげです。本当にありがとうございました。」と言ってあり、自然に拍手が起こった。 


「私の木」は、今、穏やかに木の葉を揺らしている。



2011年04月15日(金) 自動思考に気づく一つの方法

おそらく、誰にも自分の考えるクセがあるはずだ。
そして、出来るならそのクセに気づきたいと思うのではないだろうか。
「それも私の個性」という受け取り方も一つにはあるとは思うが「広いところへ出てこられる」ために私は考えてみようと思う。

自分の考えるクセという意味で「自動思考」とここでは使っている。
他の表現にするなら、「考え方」の「形」の流れ方。
「考え方」の「形」というのは、考えるということをしていきながら展開されていく言葉の固まりの傾向の法則とでもいおうか。

認知療法領域での「自動思考」についてはここでは触れない。

さて、方法であるが自分にとって尊敬している人、経験豊富な知性の高いと思っている人、信頼できる人に手紙を書いてみる。「メール」でもいい。

たとえば学校という組織であれば、校長だとか教育長だとか立場も責任も確実に上の人。
「信頼できない」という気持ちがある場合は、その人は今自分にとって選ぶべき対象ではない、というただそれだけである。

慎重に考えながら書いていく。
何を書くのか。

「内容が浮かんでこない」
これは素直な状態とも取れる。
信頼できない訳ではないけれど、やはり選ぶべき対象ではないのかもしれない。

私は、尊敬している方ということで「忙しいと分かっていながらこのようにメールを書いています」と書きだしていた。

読んでもらえない場合はそれは忙しいからに過ぎないのだ、という理由づけの準備ができていますよーというこんな自分を分かって欲しいと伝えている。
受け取った方は、忙しいと分かっていると考えるならばメールなど書くなと言いたくなるだろう。
メールの返信をしようものなら、忙しくないということを認めてしまうことになる。
忙しい状態にない、ということにもなる。

だからといって、信念を持ち前進している人(尊敬に値する人)は、次世代育成に関心がないという訳ではないはずである。
大いに関心があるはずである。そうでなければたんなる自己満足に陶酔している近寄りがたい人のような存在かもしれない。

「信念を持ち前進している人」という言葉を使った。
私にとって、「尊敬に値する人」はそういう人である、ということだ。

では、その人たちはどうやって続く者を導いていくのだろう。
続く者が明らかに倒れている時、どん底、絶望感にうちひしがれている時、「その人たち」は決して放置しない。
放置されている感、つまり「私に何もしてくれない」というような気持ちを持つとしたら、「その人たち」は「尊敬に値する人」ではないことがある。

「その人たち」は、放置せず、どうするのか。
どう関わってくるのか。
これは、「その人たち」それぞれの「個人」の感性、直感が作用してくるのだと考えたい。
ちょっとした行動かもしれないし、言葉かもしれないし、それらから「私は、放置されていない!愛されている!」というメッセージを読み解くのは、倒れている、どん底、絶望感にうちひしがれているその人本人の仕事だ。

「その人たち」は、続く者が「前を向いて歩ける」ということをすでに見通している。
無条件の信頼、愛情。(理性の信、学問の愛)


倒れている、どん底、絶望感にうちひしがれている人が、たしかなメッセージを受け取れた時、少しずつ前進しようとし始める。その過程では自分を責めたり、尊敬に値すべき人のメッセージを素直に受け入れた自分に対する不信感から「尊敬に値すべき人」への反抗心などさまざまな気持ちが掻き出される。
その消化過程で、前を向くきっかけになった「たしかなメッセージ」の存在は極めて重要になる。

私の経験では、ある一つの絶望から確実に前を向くことに繋がった「形」は応用が効く存在になる。どういう意味かというと、その「形」に影響を与えた「信念を持ち前進している人」(一個人)は、1年後であれ、部署が変わって上司が替わったという場合であれ、自分の考えるクセを知りたいという時、その「信念を持ち前進している人」(一個人)を想定して手紙を書いてみる。「メール」でもいい。

定期的にその文章の変化が確認できるのなら、自分の自己成長のようなもの、自分の「考える」「形」のようなものが分かるのではないだろうか。


「自分自身を知ること」は、「考える」「形」を知ることなのかもしれない。
日々変容する、いや、刻々と変化していく流れの中で、焦らず「自分自身を知ること」を惜しまない粘り強い努力。
その延長におそらく「他者を知る」ということも絡んでいく気がする。

自分自身の「考えるしくみ」日々更新していきたい。


2011年04月14日(木) 詩集『純愛』より

須永博士『純愛』七賢出版 1993年

この本は学生時代に買った。
須永さんの本は他にもいくつか持っている。



ーーーーー

この本に出逢って間もない頃、須永氏の詩の展示即売会のような催しに足を運んだ。
夏だった。体育科の水泳の単位を落としたのでスイミングに通っていた頃。

私はそこで一つの詩を買ったのだが、今その所在が分からない。
幾度かの引っ越しをしてきた中で、分からなくなった。
挿絵も描かれてあり、「教壇」という文字が入っていた。
そう、教師になる夢が盛り上がっていたのだ。
私の名前も描いていただいた。
「あなた、先生になりたいの?」とかいう言葉を須永氏がかけてくださったか私が「先生になりたいのです」と言ったのかは忘れたがそういう言葉を発したような記憶だ。

去年、名古屋のスーパーで、須永氏の作品を目にしたことを思い出した。
五月こどもの日のためのお菓子コーナー。
綿菓子の袋に見覚えのある素朴なイラストと文字が踊っていた。

ーーーー

【参考文献】須永博士『純愛』七賢出版 1993年


(82頁より)

どんなに
むちゃをしても
口ごたえをしても
いうことをきかなくても
先生はかかわってくれた
見ていてくれた
そして叱りほめてくれた
どんなに先生に迷惑をかけても
先生はいつも声をかけてくれた
だから先生を信じていた
先生ありがとう
先生とかかわらなかったら
どうなっていたかわかりません



2011年04月13日(水) 「悩むことと考えること」

「悩む」と「考える」は別物。
しかし、時間は共通に流れる。

同じような結果として「悩んだ末」「考えぬいた結果」どちらが自分にfitするか。

「悩み多き私の人生」「考え巡らせてきた私の人生」
「悩」と「脳」。心と臓器。

心は心で。
心を悩ませて堕ちるところまでいくか。
臓器の揺らぎのみつめあい。
察すること、腑に落ちるところまで受け入れる。

そこには、共通して「考えている」自分がいる。
「悩む」ときの「情」に揺らぐことが私には厳しい。
「情」に支配されるというのか、縛られるというのか。
しかし、「情」と対峙することを諦めたいとは考えない。
そこから脱したいという気持ちの存在は認めている。
とはいっても、「悩む」ことから、「情」の揺らぎから学ぶことはあった。

この「情」が「私」のものと受け入れることに時間がかかることを知ったからだ。
共通に流れる時間の意味づけが私にfitするのは「考える」ことをしている自分を受け入れること。
そこでの「情」の基盤は「理性の信」「学問の愛」。

ありのままの個人的な「情」ではあるが、その「情」は「私」という外側に、容れ物に入れられたゆえにアレンジされたものに過ぎないと考える。いや、「情」は一部分、一要素に過ぎないのかもしれない。

純粋なる「情」のようなもの、「情」を発生させる源のようなものは、おそらく自然や宇宙、そう桜が春に咲くように桜自身が決められないようなしくみ、リズム、そのものか一部かのようなもので、それを包んでいるかのような容れ物としての「私」にはとうてい改変することなどできるものではないのだろう。


「情」で桜は咲かない。
「情」のために「情」の願いを叶えるために咲いているのではない。
「情」は引き出される一つの「形」、「流れ」

「悩み」の「形」
その「形」のしくみそのものが「考える」そのもの。
「悩み」は「考える」ことに含まれると考えれば、「今、悩んでいる」であれ「今、考えている」であれ間違いということにはならない。

「悩んでいる」というのを「考えている」と解釈すればいいだけのことだ。
虫の好かない人が「悩んでいる」と言うときは、ただたんに「考えている」と置き換えると、「私」のfitする「こちら側」に存在させることができそうである。

「ありのまま」とは言葉として表現として使うが、「私」を支える「こちら側」で、それ(「ありのまま」)はどういうことを意味するのかという置き換えの努力は必要そうである。
その置き換えの努力が「楽」であるとか「簡単」であるという場合に「共感」を呼ぶのかも知れない。
置き換えの努力は意識されるものではないという前提において、前提そのものを意識しない次元において、「ありのままで」とか「ありのままを」なんて言葉として使われるのかもしれない。

私がいいなぁと思う人たちの「悩み」の「形」はきっと素晴らしいのだろう。
つまりは「考える」「形」が。



ーーーー

来週、就職活動。
詳細情報は今週末分かることになっている。

自分を表現する練習として、夫の保険担当者との面談を受け入れた。
私は代理である。
何かの保険の契約をするのではなくて、現状の説明と今後の提案というやつである。
見ず知らずの人である存在とどう自分は対応していくのか、心を弛めていくのかの実地トレーニング。さすがに、仮説を書く、なんていうことはしなかった。
感性を、直感を試す。
さすが営業だが、2名の方、それぞれ個性があった。
よく喋る人、控えめな人。

控えめな人の歯が気になった。
ああ。
私も歯医者に行かなきゃならないと思い出した。

たかだか夫の保険担当の方ではあるが、その出逢いそのものを関わりの時間そのものを、対人理解の学習の場、と据える私という存在。
なかなか、学べそうな気がしてくる。

「あなた、保険の営業できそうですよ」などと言われる。
笑いながらでも、私は自分がこれからやっていくことについて、やり続けたいことについて、今日会ったばかりの人、それもただ事務的な人に語る「私」。

「通常の学校に入るんですか。障害っていうから養護学校みたいな特別な学校なのかなって思ったけど。そういう仕事があるんですね。知りませんでした。」

これは一つの啓発活動とも言えそうだ。
いい感じで、私の信念は私を巡っている。


ーー
どうもこの「日記」は「日記」的な構造を持つが、そこは重要ではない気がしてきた。
今日は本当は4月12日。
時間は午後1時過ぎ。


2011年04月12日(火) 「心からの愛と感謝をこめて」

河合氏の本の中で引用されている和歌と詩(『田辺元・野上弥生子往復書簡』)が、心を打った。


我を励まし力づくる君は同年の
われより十も若く見えさす

君と我を結ぶ心のなかだちは
理性の信と学問の愛


あなたをなにと呼びませう
師よ
友よ
親しいひとよ。
いつそ一度に呼びませう
わたしの
あたらしい
三つの星と。



ーーーー



私は理解が得られにくいとか障害を抱えている子達と関わるということをやってきた。
もっと遡れば、精神障害で入院しているイトコを理解しようとしてきた時期がある。
ふと、小さな衝撃から「燃え尽き」そうになっていたのだと思う。
「燃え尽き」、消えるか消えないかの境。生と死の狭間。

考える「頭」の機能が明らかに低下していたことを思い出せる。
考えがまとまらず話せない、書くこともおかしな事ばかり。
処方薬を飲んでいるからそうなるのかとも思ったが、私に関しては「ちゃんと」指示通り飲み続けた。強迫的ともいえるくらいに。
薬を飲むことを忘れそうな不安のために夫に毎日電話するように頼んだ時期もある。


あの時代の楽園(日中、夢を見ているような状態)は極めて、濃厚な幸福のようなものに包まれていた感覚がある。
でも、だからといって、その楽園状態が続くことを私は望まなかった。
それを望めば「死」を受け入れることになると気づけたからだと思う。


ーーーー

尊敬する人、素晴らしい人。

その存在が、「あちら側」(楽園に近い世界)に倒れると、「教祖」的な存在になってしまう際どさ。

私が我ながら賢かったと思えるのは、それらの人(「その人」を含む、尊敬する人、素晴らしい人)が臨床や医学や心理学や教育に理解がある類の方であったということだ。

壊れゆく脳機能状態のなかでそのような人を選択していた私の力。
よく分からない宗教性を持っているような人に依存した可能性だってある。

心が折れそうな、現実から逃げたくなるような状況になったとき、どう倒れていくか。
何に救いを求めるか。
これは、これからの日々を「今、ここ」という確実な自覚の世界で実践して取り込んでいくしかない気がする。

私にとって、楽園時代は多数の固定観念を突破する創造的な世界への通過儀礼だったと思わずにはおれない。

私以上に苦悩と対峙しながら「私の」精神の治癒のための扉を一緒に開けてくれた夫に、心から感謝する気持ちが喚起された一つの「形」。
私は絶対に忘れないだろう。
夫がいつか楽園に旅立っても。



ーーーー




【参考文献】
・河合隼雄『大人の友情』朝日文庫 2008年



166頁〜167頁
『田辺元・野上弥生子往復書簡』岩波書店…


19頁
「人間の生き方は、何らかの意味でどこか一面的なところがある。そのとき、自分が無視してきた半面を生きてきた人を見ると、「虫が好かぬ」と思うときがあるようだ。

57頁
「途方もない「偶然」が「必然性」をもって生じてきたとさえ感じられるのだ。…心の深みが関連するとき、このような「不思議なこと」がよく生じるからである」

73頁
「友人関係によって、人間は美しい感情の体験をすることができる。だからと言って、そこにのみ留まっていると、一人立ちの障害が起こってきたりするところに、友人関係の微妙な味があると思われる。」

83頁
「死んだ友人たちが、自分を見ている、あるいは、見てくれている、と考えることは、生きてゆく上で大切なことと思う。」

104頁
「…大切なのは、その「関係」あるいは「つきあい」というときに、その相手にしろ、在り方にしろ、実に多様なものであることを知っておくことなのだ。特定の相手と特定の関係に固執してしまうと、動きがとれなくなってしまう。」

105頁
「…お互いの距離についての調節や操作にそれほど気をつかうことなく、相手と共にいる、あるいは「あの人がいる」と想うだけで、ほっとできるような関係がひとつでもあれば、その他のつきあいは楽になるだろう。そして、そのような関係こそ友情と言えるものの根本ではなかろうか。」

128頁
「自分自身の怖さ、弱さをよく知っていなくてはならない。さもなければすぐに他人を責めたくなる。」

135頁
「友情が強くなると、同一視や理想化が強まる。「あんな素晴らしい人と同じようになりたい」だけでは危険である。人間は決して完全ではない。…友情の強さよりも深さの方に注目することで、裏切りの悲劇は回避されるだろう。」

146頁
「…類似性の高さは関係の維持に役立ち、相反性の高さは、関係の発展のために役立つ、ということになるだろう」

198頁
「ぎすぎすした人間関係に潤いを与えてくれる友情ということが、現在において極めて重要になってくるのも当然である。」
「友と友を結ぶ存在としての「たましい」…」


2011年04月11日(月) ある日常

最寄りの駅は私鉄とJRが隣接している。
ICカードは共用可能。

夫はJRで通勤している。

週末、私鉄に乗って図書館に行こうということになった。
私鉄はJRよりも位置的に奥になる(JRより離れている、少し歩く)

夫が言った。
「いつもの習慣でJRのほうに行こうとしていた」

私は言った。
「まったくそんな風には見えなかったよ。
考えていただけで動作は伴っていなかったということだ。」

まぁ、時にこう理論的に人の行動を観察してみるというのは面白い。
人の行動に台詞(吹き出しみたいなもの)を勝手に付けるとか。
車に乗っていて(助手席)、目に入ってくる歩行者がその対象になることが多い気がします。


ーーーー

図書館に行ったときの話。
貸し出しカウンターにて。

「ワシはカトウさんに頼まれて来た!
何度も言っているじゃないか!これはカトウさんのカードだ!
…どうして、これができないんだ!こういうのは困るなぁ。
ワシ?ワシはカードは持ってない!
3人も人間がいてこんなことにも対応できないのか!」


「ワシ」の推定年齢60代。
こう考えてみた。(勝手に)
・「ワシ」は図書館のしくみ(マナー含む)について知らない(分からない)
・カトウさんは「ワシ」を信頼している。(利用している)
・「困るなぁ」職員も困っていると察する。
・「ワシ」をなんとか理解したいために3人集まってきたに過ぎない。
3人がかりで「ワシ」を支援しようとしていたのだ。


【シナリオ】(勝手に続きを展開してみる)

ワシ「3人も人間がいてこんなことにも対応できないのか!」

3人の内一人Aさん「本当よ!この方のおっしゃる通りよ!
誰があなたたちに私が助けを求めたっていうのよ!
あなたたちは私が仕事ができないって思っているんじゃないの!
そういうお節介、やめてもらえないかしら!
お願いだから、あなたたち、あっちへ行ってよ!
失礼しました。お見苦しい場面をお見せしてしまって、失礼しました。
対応の悪さを指摘してくださったのにも関わらず、不愉快な思いをさせてしまって、本当に申し訳ありません。
もう一度、手続きを確認させていただきたいので、よろしいでしょうか。」

ワシ「…ああ。だから、この本をカトウさんから、あ、カトウさんは今日息子さんの病院に行かないといけないことがあって、あ、息子さんっていうのは30歳になるんだけど可哀想に結婚したところなのにガンが見つかってね…。カトウさんは毎週図書館で本を借りているそうなんだけど、本を返すのを忘れていたことを思い出して、自分で行きたいけど行けないからワシに代わりに行ってもらえないかって頼まれて、まぁ、今日だったら行けるってことで、ワシは行ったことがないからどうしたらいいのか分からなかったけど行けば分かるかなって思ってな。カトウさんから借りたい本の名前も聞いていたから、この本を返した後でこの本を借りればいいんやろうなって。」

Aさん「なるほど、状況は分かりました。
延滞手続きをされてない状態で借り続けておられたんですね。
そして、今日また借りてきて欲しい本がそれで、返して欲しいと頼まれた本がこれなのですね。」

ワシ「さっきは、大きな声を出してしまって堪忍な。ありがとう。」






ーーー
貸し出しカウンターにて。

借りる人「これ、借ります」

職員「自動貸し出しシステム、ご存知ですか?」
借りる人「知っているけど分からないから、カウンターに来たんじゃないか!(ムッ)」


借りる人の推定年齢60代。
・「自動貸し出しシステム」は便利ではあるが、それはカウンターの労働力を機械化したものに過ぎない。
・カウンターの職員との関わりが面倒だと考える「借りる人」にとっては優しい機械である。
・とにかく「機械」っていうのがダメな人っていうのもいるのです。
・「借りる人」と「職員」。
「職員」は「借りる人」を逐一覚えていない。(と思う)
「借りる人」は「職員」を覚えているものである。
・機械ですることを一般化するのは厳しいということもあることを知っておこう

機械で貸し出し手続きをした実績がある人はカードになんだかのサインが出るようにしてはどうだろう。いや、機械を使った回数が分かるように。今までの貸し出し総回数に対してのその回数の履歴。100回借りてきているけど1回しか機械を使ってないとすれば、1回機械でやってみたけどどうも面倒なのでカウンターで手続きをすることを選んだのかもしれない。

何が面倒なのかについては、各個人の感覚によるものだったりするだろうからそのあたりに配慮できたらいいのかな、と思われる。

カウンターに並んでイライラする人、便利だと言われて機械を使ってみたけどイライラする人、カウンターでの入力作業にイライラする人、カウンターに並んでいる人がイライラしているんじゃないかと思い込んでイライラする人…。

図書館っていうのは、ワクワクするところであってほしい。
私はカウンター手続きでも機械での手続きでも別にどっちだって構わない。
機械を使うことは苦痛ではないのでただ機械を使って手続きをやっているだけである。
カウンターの方から、「この本、いいですよ」なんて言われたらとても嬉しいと思うだろうなぁ。
そして、他にも何かいい本を紹介してもらえたらいいなぁなんて思うかも知れない。

銀行ロビーなどでよく見かける、全体を見渡して戸惑っている人(客、利用者)に声をかける人ような人(継続的であることが望ましい)が一人いるだけでもその場の混乱は抑えられるだろうと思った。


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高齢化の進むコミュニティについて。

いわゆる「自治会」の主たる構成メンバーが65歳以上という組織は多いと思われる。
「子供会」というのは子ども中心としてその保護者から構成される組織と想像する。
少子高齢化と言われるように、かつては「子供会」の規模が大きかったのが、その子達が親元を離れ、親だけで「自治会」を運営していかざるをえないという形。

先日、実家に行ったときに母から「このフロッピーの情報を知りたい。自治会の前任者から託されたもので、前任者は離れて暮らす子どもにこのデータを作ってもらっていたそうなので、前任者に聞いてもどうにもならなくて。もし、これが使えなかったら一からデータを入力しないといけないし」と言われる。

そして、「うちのパソコンの2台でも開けるか試したけどフォーマットがどうのっていうメッセージが出て開けないから、あんただったらどうにか出来るんじゃないかって思って」


私はこういった。
「2台で出来ないならうちのパソコンでも出来ないってことだよ。
今どき、フロッピーなの?
私のパソコンにはフロッピーを読み込む口はついていないよ。
次に続く人のことを考えようよ。」

母は「次に役員になる人は一人暮らしの高齢者。…(ため息)どうなるんだろうねぇ…」

私「パソコンなんかワシャ知らん!持ってないわい!って言われたらどうするの?」

母「昔は手書きだった。でも、字が下手だからワープロを使うようになって…」

私「必要なのは内容だよ。手書きでも読めたらいいじゃないか。」

母「昨日の夜はエクセルで表を作って印刷したら引いた覚えのない線が出てきたから、修正液でお父さんと一生懸命に消して寝たの3時だったよ…」

私「別にそれくらいどうってことないよ。
データを打ち直す時がやってきたんだって思ったらいいじゃないの」

詳しいコミュニティの実態は分からないけど、「子供会」と「自治会」(老人会かもしれないけど)協働していけば補っていけるんじゃないのかって思うのだけど、なかなか難しいのだろうか。


2011年04月10日(日) 「過程や行為の尊さを認め伝える」

今回のタイトルは「発達障害の子がいる学級経営のコツ」という連載が載っている雑誌をぼーっとしてめくっていて目に入った言葉の表現の一部分である。
「教室は間違えてよい場所に」という項目の中の最初に書かれてある。

「教室は間違うところです!」
「失敗することは勉強です!」
何度となく聞かされたし、聞いてきた言葉なので「全ての授業の基礎として」というもう一つ外側の項目も、はいはい…と読み流されても「ふつう」であるだろう。

それを間違いだとも厚かましいともせず、「ふつう」を広げるために、「ふつう」をあえて立ち止まり、その続きを進むために流れた考えのような思いのようなものについて書いてみることにする。


ーーーー

「読書メモはするな」と、何かの本で見た。
「読書術」だとかそういうテーマで展開されていた文章であったかに記憶しているが細かいことは忘れた。つまり、メモはしていない。いや、この展開を言葉に綴った著者としては「それでいいのだ。満点である。」と評価に値するのかもしれない。

私は、最近、読書メモをすることが心地よいという状況にある。
「メモはするな」という親切な導きに反抗しているような行動である。

このことが無意味であるとしても、いや無意味であるからこそ、別にそのことをしてもあちら側からすると「無意味」であるだけでこちら側が「無意味ではない」であるに過ぎないのだからいいのだ。
ただしていない、ただやっているに過ぎない。



「そのことをして、よかったか悪かったか。」

そのことをやっていたときの自分が自分であったのならば、ズレていようがいまいが表現としての自分の「形」なのだからそこで立ち止まっても立ち止まらなくても自由なのである。

そのことをしたときの自分と「今、ここ」の自分の完全なる一致などおそらくありえない。
その違いを調査する必要も極端な揺らぎのある場合はありうるのです。



常時狂人。
その連続においてはそれがまさに常。
時として狂人。
それはそのまま時として狂人。
狂人の定義が自分を包括するものであったと追い込まれると狂人を超える狂人になりかねないと想像することは、おそらく妄想か、限りなく妄想に近い想像。

無害な狂人というのはあるのか。
有害であったろうと想像する狂人の時代。

始まりと終わりの意識をたとえ境目が分からなくとも区切ることのできた「今、ここ」

たしかに我、存在するなり。
次への狂人の始まりか
狂人をも愛し認める意識の始まりか。


ーーー
実は、偶然手にした文章のある一部分をタイトルにしてこれを書いた訳ではない。
ふとよぎった言葉をメモした後で、偶然手にした文章のある一部分をタイトルにできそうだと思い書き続けてみたに過ぎないのだ。


「正しいことの他に、頑張った過程や行為の尊さを認め伝える。」
教育雑誌は哲学的思索の友とするのはなかなか私にとって心地よい。

来週末から就職活動。
自分自身、つまり私が何をやりたいのか。
やってきたことを鳥瞰すると、同じ「形」を貫いてきていることに気づいた。
つまりはその「形」を粘り強く継続していくことなのだ。
「使命」というものがあるとすれば、これなのかもしれない。


あなたの上司やあなたの子どもの教師、あなたの親にもし不満があるのなら「疑問」に置き換えて、お尋ねしてはどうだろう。

即答できる人がホンモノとは限らない。
時間を与えていい。
充分に「考える」時間を与えるべきだ。
「考える」ことそのことをその人は知っているのか、分かっているのか。
「考える」ことをした表現の形が文章なのか発する言葉なのか音楽なのか数学なのか英語なのかは考える人に委ねられる。考えることを聴く人、考えることを理解する側にも歩み寄りが必要であると考える。

教員であれば大卒相応の教養があるはずなので、「あなたの哲学を知りたい」と迫ってもいいと思う。その哲学をあなたが理解できればその教員のことは理解できる気がする。
その教員のことを好きになろうと無理することはなく、仲介に何か少しでも理解できるものがお互いにつかず離れずの距離が取れるのではないだろうか。

その努力をするかしないかではまったく変わってくる。


私は「教員」という人たちとの関わりは難しいと思っている。
おそらくこれら教員にとっても私は理解が難しい存在であると思われる。
対教員との特別な関わりから私を理解してもらおうとするとおそろしくエネルギーを消耗するだろう。教員ではなくても。
場合によってはお金もかかるかもしれない。(「つきあい」)

私は短い実践の中で一つ試したことがある。

「どうも好かない人」
でも、その人を理解したかった。
その人の子どもを褒めてみた。
これはその人がその子を褒めることができないという点を増大させてしまったに過ぎなかったと映った。
次に、その子どもと関わるその人をフレームに入れて、「その人」の努力を第三者に伝えてみることを実施した。
第三者と私との信頼関係も試されることになる。
どうなったかというと、その人は私に心を開いてきたのだった。
その人と私の間に位置した子どもの存在。
「その人」が大人であり、大人との人間関係構築から始めるのは難しいが、子どもとの関係から、つまり、「私」と「子ども」の関わりの「形」が、第三者にとっては私に対しての評価の材料になり得るということを一つの例として私の中で刻まれた。



「あなたの哲学は」と聞かれて、「ニーチェにしようかプラトンにしようか」というのは話にならないのです。

私がある人を、いいな、と思う時、その人の哲学を知りたくなるのです。
好かないと思うときも、哲学を知りたいという気持ちを持っていたいと思った今日である。


2011年04月09日(土) こう言われたらこう考える

「考えすぎだよ」

考えを聞かされた人は、もしかすると話について行けてないかも知れない。
長文化しているだけかもしれない。
短文で伝えたら必要以上にいろいろと助言をしてくれるかもしれない。
その助言はもしかするとくどいくらいに長文かもしれない。

長文的なことが聞かされた人にとっては、苦痛以外のなにものではないのかもしれない。

考え方が偏っているのかも知れない。
もしかしたらそもそも考えなくてもいいのかもしれない。

知ることより考えることだ、という信念を持てたら、ただ考えているそれだけで結構満たされるのかも知れない。

自分が考えたことに他者が入る込める余地がないくらいに考えを表現してみるという手もある。
「考えている」ことを悟られないようにそれとなく伝えられるものか試してみるという手もある。

本当に聴いて欲しい人の前に気軽な人に考えたことを話してみてその反応で修正する、という手もある。

でもだからといって…。(この先「…」を考えるのは考える人の自由に委ねられる)
考えを聞く人にも委ねられる自由がある。

決断するのは誰なのか。





「この人に一票入れてほしいの。電話したけど忙しいのかな。あんまり頑張りすぎないようにね。」

アハハ。
癒しの時間を楽しんでいました。心配には及びません。
ところで、選挙に関してですが、私は、選ぶ視点を持っています。
与えられた権利は自分で考えて使いたいと考えるからです。
考えるに値しないとか考えたいけど一人では出来ないという人にとっては、あなたの助言は有効な存在になると思います。
私に関しては、その対象ではないということをあなたが理解してくれることを私は期待しています。では、また。



考えること。
「あちら側」と「こちら側」から覗いてみて、どちらも想像してみる。
相手が「あちら側」であるだけで、そして私が「こちら側」であるに過ぎないことが分かれば繋がっていきそうな気がします。

決断するのは誰なのか。


2011年04月08日(金) 「これは何でできているのか」

「これは何でできているのか」
もう少し、長く解説するような表現にするなら「これはどんな素材から作られているのか」。
「どうして、なぜ、できているのか」ではなく。


私はこの「これは何でできているのか」という問いかけを自分にすることで、「恐怖心」から逃れようとした経験があることを覚えている。
その「恐怖心」と対峙したのは、小学6年生。

どうして6年生だと覚えているかというと、その場を共にした親しいメンバーを思い出すとそのメンバーが5年生であったことを覚えているからである。そのメンバーとは1歳違い、つまり私が1歳上であったことを覚えているからである。

「どうして、覚えているか」については、一貫性はないのが「ふつう」と思われる。

そして、「これは何でできているのか」という言葉を覚えているのは、メンバーにそのことを伝えた時に笑われたからである。「嘲笑」の類ではなく、私の発想の意外性に思わず笑わずにおれなかった状況であった。

それでは、いったいどういう「恐怖心」と対峙したのか。
その状況はどんな具合であったのか。


それは学外サークルのようなものでのキャンプ。
親は同伴しない。
世話係は大学生など社会人。

山の中の夜というのは非常にただそれだけで怖さを演出する。
「暗さ」も際立つ。
「肝試し」というプログラムもあったが、それに関してはどさくさに紛れて男子の手を繋いだ、という記憶に留まっている。それは、「恐怖心」がテーマとはされなかった。

夜、テントの中。
世話係の大学生が懐中電灯を巧みに操り、「語る」ことを始める。

この「語る」こと。
家族とは遠い場所で、しかも暗い山の中で語られるというのはもうそれはすごい臨場感。
「語る」ことをする人についての情報もほとんど取り込まれていない中で、「聞かされる」という位置関係。一対一だったら、その瞬間に泣いていたかも知れない。
しかし、キャンプというイベント。
親しいメンバーと一緒の場で「聞かされる」という安心感は一応ある。
しかし、「一応」。
想像は聞く側に委ねられ、懐中電灯の「光」によって、それぞれの「恐怖」の想像が語られる言葉以上に迫ってくる。

私は、「ダメだ」と思った。
でも、そこから一人外へ逃げ出すことはもっと「恐怖」だ。
そして、「泣く」なんてことも出来ない。

私は、テントの内側を見つめ続けた。
別のところに意識を集中させようと試みた。
だただたテントの内側を見続けた。
しかし、耳から入ってくる言葉は想像力をかき立てないわけにはいかなかった。

そこで私は、テントの内側を見つめながら「これは何でできているのか」について考えることを始めた。「色」からする仮説、「見た目の質感」からする仮説。

変な人以外にどう定義すればいいのか分からなくなる気がする。
若干、小6。

功を奏し、語られる内容についての恐怖心から逃げることができた。
しかし、メンバーと「怖かったよね」という「共感」を共有できないという悲しい現実があった。
しかし、私はハハハと笑い、「これは何でできているのかって考えていた」ことを打ち明けた。
「そんなこと、考えよったと?」の後に、想像をしたようで、笑いを引き出し、メンバーの内の一人は後日「私も考えてた」なんぞ言い出した(これは多分、ウソだろう)



ーーーー

様々な場面で引き出されるべき、乗っかっている気持ちのようなもの。

「逃げていると、どこまでも追いかけてきますよ。」


小6で技として発見獲得した、逃避のための「形」(手段)は、しばらく私の中で基盤となっていた。この「形」(手段)の揺らぎ、崩壊は「三十七歳の乱」として確実に刻まれることになるとは小6の私は知るよしもなかった。


新しい秩序が確立されるためには、正しく混乱が体験されることである。


ーーーー
今日は、本当の日付は4月7日時間は午後1時40分頃。
明日は集中したいことがあるため未来的な日付として入力した。


2011年04月07日(木) 「僕」「俺」「私」

ふと思ったこと。

「僕」「俺」「私」
台詞として全て言いそうなのは「男」である。
「俺」を使う人は「僕」を使うのだろうか、なんて想像する。
「僕」を使う人は「俺」を使うのだろうか、なんて想像する。

私が、文章として、「あ、いいな。」と思う人たちに何か特徴がないかなとぼんやりふり返ってみる。

「私」を主語にしている文章をどんどん巡らせていくうちに、ふと、「私個人」の近い出来事が語られる時に、その人たちは「僕」という表現をしてある(ような気がする)。
こういうこともある。小説で「私」を主語として、エッセーや随筆的な文章で「僕」を主語とする。


ーーーー

小学生は、どうだろう。
男児は「俺」「僕」を使う。
どうも「私」というのは、女子っぽいからだろうか。

小さい子の「俺」っていうのは、なんとも可愛げを感じる。
そして、大物になりそうな男気のようなものも感じることがある。

そういえば、学校や学年や学級の方針にもよるのだろうが、一律に「さん」付けで呼ぶことが決められていることがある。

社会に出れば、多くが男性であれ女性であれ「さん」付けで呼ばれる。


ーーーー
家庭内での「俺」「僕」「私」

夫、妻、二人暮らしから子どもが加わった時。

「これ、お父さんのでしょ?」
「ああ。父さんのだ」

「これ、お父さんのでしょ?」
「ああ。俺のだ」「ああ。私のだ。」


「僕」というのが私は想像できない。
「こだま」ではないが、「お父さん」と呼ばれたら同じように「お父さん」で返す、「パパ」と呼ばれたら「パパ」で返すという形がよくあるのかなぁ。


我が両親の会話を何気に聞くと、父は「俺」と言っている。母は多分「私」と言っている。

我が夫婦の会話ではどうだろうか。
夫は「俺」と言っている。私は「私」かというと、ちょっと違う。
この夫婦でしか通用しない呼称を使うことの方が多い。

私が子どもの頃からいいなぁと思っている叔父夫婦。
たしか、「さん」付けで呼んでいた。
我が両親では想像できなかったので、初めは異様に思えたが大切にされているような空気を幼心に感じたものだ。

そういう視点でみるのは、我が両親「夫」と「妻」の関係以外にも私が「子」であるところの「親子」関係をふり返ることが多かったからだ。

同時期に複数の兄弟や姉妹関係が成立する以外の場面では、まずは「一人」から始まる。
その後、「二人」「三人」となっていく。
「一人」であるときに、は「お姉ちゃん」「お兄ちゃん」なんておそらく呼ばないだろう。
おそらく「名前」で呼ばれていたはずである。
「一人」の状態が3年以上続く場合と、1年や2年であった場合、後々「お姉ちゃん」「お兄ちゃん」と呼ばれるようになっても、前者は「名前で呼んでくれていた」という実感は心地よい基盤になっているのではないかと想像した。
「物心」というのが3歳くらいなのかな、とした場合であるが。


私には2歳下の妹がいるが、妹は今でも「名前+ちゃん」で呼ばれている。
そして、さすがに最近は戸惑いも伝わるが自分でも「名前+ちゃん」と呼ぶことは家庭の中では自然であった。

私は物心ついた時から今に至るまで「お姉ちゃん」なのである。
ここで、大胆な発想をしてみる。
「おねえ」…「緒祢江」「緒音絵」(フリガナはオネエ)
名前自体を「おねえ」にすると、「一人」の状態が1年であれ普遍であれずっと「おねえちゃん」または「おねえ」と呼ばれるのではないか?!
「二人目」や「三人目」にこの名前を適用すると、やっかいそうであるが。

で、私の「テーマ」が顔を出す。
今さら、両親が私の「名前」を呼び捨てしてくるという違和感。
両親二人の関係においては、私が登場する際、もしかしたら「名前」呼び捨てをしてきたのかもしれない。でも、私が立ち聞きする限りでは「お姉ちゃん」だった。

不思議なことに、友人から「名前」で呼ばれるのは自然であり、むしろとても嬉しい。
中学時代は、憧れの「名前」呼び捨てが当たり前の世界だった。
しかし、私の中ではそれは当たり前ではない世界であって、一つのハードルを越えたのだ。
課題をクリアした、というか。
親子関係より友情関係が中心になる思春期というものを私が後からふり返るとき、その「どう呼ばれていたか」というエピソードが必ず想起されるのだった。


ーーーー

「私」と「僕」を使い分けている人の文章がどうも私には惹かれるようである。
「僕」には「少年時代」(あの頃、その頃)を一緒に共有させてもらえるような、ほんわかするような気持ちがほんわかと引き出されるのだろうな。


ほんわか。
春の陽気は「僕」を敏感にさせる。

私も「僕」があればいいなぁ。


2011年04月06日(水) 「誇り」に思うこと

医療現場に関わっている友人が、「医療チーム」として被災地に入ることが決まったということを知った。

彼女との付き合いはもう10年くらいになるのかもしれない。
まだ、「ホームページ」が気軽に作れた時期。
メールアドレスも戸惑いもほとんどなく載せて、交流を楽しんでいた。
それが「よき時代」であったかどうかは分からない。

私は彼女に「あなたは私の誇りです」といった内容を伝えた。
激励の気持ちをこめて。
様々な葛藤を、今まさに抱え込み、受容中であると察する。

私の表現した「誇り」という言葉にも、多少戸惑いの想いが巡った様子。
自分の中にその言葉を巡らせ、素直な言葉が戻ってきた。
「父親にもそう言ってほしい」

そう言って、旅立たせてほしい。
背中を押して欲しい。
という想いのようなもの。

父親とは「断絶」状態にあることも伝えて来た。
そして、「でもヘーキよ」という彼女の気持ちも。


「父親にもそう言ってほしい」


「お前は父さんの誇りだ。自慢の娘だ。」
こう言われたら、グッとくるだろうなぁ。
娘としては。


ーーーー
そして、私は想起する。
自分自身のこと。

母に「一つでもいいから、褒めて」と懇願した去年の自分自身を。

「褒められたい」その気持ちをどうにか自分自身の中で収めようと私は自然に努力していたことが分かった。
「褒める」とはどういうことなのか、試行錯誤していた。
自己課題として意識していなかった。

さらに想起する。
大学時代、「教育」を学び、「褒める」ことの大切さということを知るが、立ち止まった。

「私に、褒めることができるのか。」
「私は、教育には向かないのかもしれない。この道は間違いかも知れない。」

ここまで来ても、それは「自己課題」としては意識されなかった。


それから10年以上の時を経て、関わる子どもから「先生、今からボクを褒めてよ!」と言われた。その時、たしかにその言葉は自分自身を巡ったが「今」思うとまた違う側面が見えてくる。
その「ボク」の言葉表現されたのは、その現場との別れが確定してからだった。
「ボク」が私との別れを意識したからそのような言葉を伝えて来たかは分からない。
しかし、それは私に対してのメッセージであることは信じる確実な存在だ。

ある行動が「褒める」に値するのかは、考えれば考えるほど分からなくなる。
「褒めてくれたから、信頼できる」「褒めれば、信頼される」というような基準があることを見込んで、期待して意識して関わったつもりはない。


存在を認めてくれた。
これなのかな、と今の私は思っている。
どこにその「存在」を認めるか。
ただ、目の前に立ってること、目で見えるからそこに存在しているという意味での「存在」ではなく。
行動や言葉や散りばめられた表現から想像する自分という存在に気づけた喜びなのだと思う。


「褒めてよ」言って、即答できなかった母親の姿から、私は学んだ。

私は「褒める」「褒められる」「褒められたい」気持ちのようなものを知っているのだということを。その「視点」のようなものをつかもうと奮闘してきた努力を自然にしていたことを。

「褒める」ことの大切さを知っていることが分かることができたこと。
そこには母親の存在が必須であったともいえる。


ーーー
医療に関わっている友人への「誇り」に思うこの気持ち。
被災地に入るそのことに対しての「誇り」に限定されない。
私は彼女を知るようになってから、「誇り」にずっと思ってきたのだ。
それを表現する時が、「今」来た。
「熟した」とも言えるだろうか。

彼女と出逢ったこと、コミュニケーションをとり続けてきた「必然」のようなものさえ感じる。
そこにも、確実な「存在」がある。

言葉や表現は引き出される時がくるのを待っている。
引き出されるのは、言葉、単語そのものだけではなく、「気持ち」のようなものも乗っかっている。その「気持ち」のようなものには、「怒り」だって「憎しみ」だって「羨ましさ」だって「下心」だってあるのだ。重いようなネガティブのような「気持ち」

大体の法則のような特徴のようなものを知ったような気になれる、なってしまうのが「大人」。
歳を重ねる流れ。
重いようなネガティブのようなその「気持ち」のようなものは人生で生きていく内に知っておいた方がいいものであるなら、「大人」は小さい「いのち」と向き合いながらその対話を続けたほうがいい。対話の途中過程で強烈に泣いたり、強烈に怒ったり、強烈に暴れたりすることは当たり前のように思えてくる。

一日24時間彼らはそうし続けるものだろうか。一年365日そう続けるものだろうか。

ここで、子どもの言葉を思い出す。
「うるさいとしかいえない教室で、静かにそこにいてくれたのは、先生一人だけでした。
先生のことは絶対に忘れません」

名前や顔なんて忘れても、「そこにいた」という形、存在の形のようなものはこの子には残っていくのだろうなと想像すると熱くなる。

子ども等と関わる想いはさらに高まる。

この「考え」が巡る形を覚えておきたいと思った今日である。


2011年04月05日(火) 『生と死をめぐる世界観』

私が平成6年8月8日に提出し、返却された教育哲学レポートのタイトルが『生と死をめぐる世界観』である。私が二十歳そこらだった頃に書いた文章である。

「教育哲学」の担当は現在、大学で教授をされてある。
この先生も若かった。まだ講師だったのではないだろうか。
いくつかの「伝説」も出来たくらいだ(と、私は思っている)
学生に対して謙虚で純粋で、冷静で、面白い雰囲気を次第に醸し出すようになっていった。
「ローリング アオキ」と囁かれていたこともある。
以降、登場の名前として親しみをこめて「ローリング アオキ」を使うことにする。

なにゆえ「ローリング」なのか。

それは先生の起こしたある動作を「ローリングしてしまった」と自ら解説したことによる。
実に冷静であり、その「動作」が滑稽であったがゆえに、その冷静さに学生は注目し、その「存在」に親近感を抱くことになったのだ。
まだ初対面の域を脱していない時期であったことや、「教育哲学」という難しそうな講義に一歩引いていたことも、その影響のようなものの条件であったと思う。

どんな動作をしたかについては、触れないことにする。

チョークを持ち、教壇に立つ人であれば起こりうる動作である、ということだけ書いておこう。
だからといって、その動作を計画的に実行してしまうのは、おそらくその場は白けるだろう。

ローリング アオキ氏は、学生達の教員採用試験の会場(福岡県)への道で日の丸付きのハチマキを頭にまいて、「先生〜!(こんなところで何やっているんですか!)」という学生からの声かけに「頑張れ!」と声援する、そのような先生でもあった。


ーーーー
さて、教育哲学レポート『生と死をめぐる世界観』。
B5サイズのレポート用紙にボールペンで書かれている。
パソコンやワープロも主流とは言えなかった時代である。

さて、自らの文章を再読し、見所の視点としては4点。

1点目 「ローリング アオキ」氏による直筆コメント
2点目 内容の文章全体(調べ、考えている様子)
3点目 参考として貼り付けてあるモノクロコピーの図
4点目 「参考文献」


1点目と4点目について。

なんということだろう。
評価は「○A+プラス」と書かれてある。

《コメント》
死の問題について、よく調べられ、考えられている。本格的な思想テーマは真っ向から取りくんでいる点がよい。
Death Educationは現代の大きな問題だ。
死をみつめることは、生をみつめることだろう。


《参考文献》(書かれてあるそのまま)
・哲学的探求の新構想 北樹出版
・プラトン 斉藤忍随 著 岩波新書
・生と死の心模様 大原健士郎 著 岩波新書
・子どもの宇宙 河合隼雄 著 岩波新書
・続 死ぬ瞬間 E・キューブラー・ロス著 読売新聞社
・新 死ぬ瞬間 E・キューブラー・ロス著 読売新聞社
・イメージの博物誌 魂の航海術 死と死後の世界 平凡社
・自殺のサインをみのがすな 稲村 博 社団法人農山漁村文化協会


ーーーー
参考文献の書き方が緩いな…とふり返る。
8冊の内、2冊は今も所有している。
プラトンと河合隼雄氏の本。
あとの本は、おそらく図書館で借りて参考にしたのだと思う。

そうか。
私はE・キューブラー・ロス氏の本をすでに知っていたのか…。
これは我ながら意外だった。
しかし、「死生観」に関するテーマであるなら行き当たる著作だったはずだ。


なるほど「自分自身を知ること」というのは、歳を重ねても、愉快なテーマであるわけだ。
「臨床」や「心理」に関わる専門職は「自分自身を知ること」は訓練として必須と言われている。
(河合隼雄氏の本にも言葉を変え何度も目にする)
「さぁ、知ろう!」と黙々とその時から過去をふり返ることに意義があるのではなく、「その状況」で思いがけず「知らされる」ことになるからではないかと思われる。

思いがけず、「掻き出される」「想起される」。
避けてきた課題、抑圧してきた気持ち、封印してきた過去から噴出する「怒り」云々…。
それらを意識できたからといって、「完璧」「完全」ではない。

「自分自身を知ること」というのは、誰でも持てるテーマ。
心を揺るがす状況に置かれた時、「自分自身を知ることというテーマに向き合う時がやってきたのだな。よしよし。いっちょ、考えてみますか」と問いかけることを覚えておきたい。


ーーーー
【参考】
河合隼雄 『「日本人」という病』 潮出版社 1999年

9頁
「自分自身を知らないと話にならない」

51頁〜54頁より抜粋
「夢で、地震の夢を見て「ギャーッ」と泣いたりするのは、あまり心配いりません。
「よしよし。もう大丈夫よ」と言っておけばいいのです。
大丈夫、大丈夫と言っておけば、スーッと治まっていきます。」

「その治まり方には、いろいろあるわけです。」

「(中略)三年くらい経って(中略)古傷が痛むような体験(中略)体験と共鳴するのです。
そんなときは、パーッと怒りの感情が出てきます。
そんなときは「また(中略)のことを考えているわ」と思わないで、「ハハーン。また『自分だけが損をする』というテーマが出てきた。これは、どういうふうに考えたらいいかな」と考え治してみることです。」

「(中略)もっと鍛えないといけないというときに、そのテーマが出てくるのです。」

「(中略)地震のことが不意に心の中に出てきたら(中略)
「これは、もういっちょ自分を深めねばならない。考え直そう」とか、「自分だけ損をするという考え方じゃなくて、もう少し広い見方ができるんじゃないだろうか」と考えますと、せっかく克服したことが出てきたということでなくして、自分を鍛えていく新しい契機ということになると覚えておいてください。」


2011年04月04日(月) 学びは続く、どこまでも

その始まりは、「分からない」

一番最初に「学び方」を教えてくれたのは誰なのか。
「それぞ、学びの姿」と教えてくれたのは誰なのか。

ただ、「教えてくれた」と思っているのは私自身の中にある。


ーーーー

大きな出来事(happening)があると、小さな出来事が見えにくくなる。

山の景色、森の景色を遠くから見ていても、身近な一本の木の「存在」に気づかないことはよくあることだ、と、多くの人は多分「知っている」

「あの木は今日もそこにいる」と意識し始めて、気づいた別の木の近くに花をつけた小さな木の「存在」に気づいた。土との境目の様子から、最近植樹したものではないと思われた。

同じ景色の中で、新たにその「存在」に気づく様々な自然。

そうさせたのは、大きな出来事(happening)だ。


地震関連が練り込まれた言葉には、「被災者(個人、複数)」、「そうではない者」との立ち位置から間違いなくその表現は異なる。内容も異なる。視点も異なる。
「祈り」の想いの切り口も異なる。

ある出来事から学べるのは人間の特性、能力ではある。
「学ばせてもらった。」と一段落するのはまだまだ早いのだ、と気づく。


「被災者の立場になって考える」とは、ひたすら「察する」ことを続けることしかない気がする。
その「察する」場所は移動することもありうる。
「察する」ための「材料」みたいなものは、これも人それぞれ。

自助、共助、公助。

メディアで「自助」の「存在」が伝わるようになった。
そこに希望を感じた。
「自助」(最小単位は一個人)活動を支えるために、民間(国民、一個人の複数)からの寄付を活かしてほしいと思った。
「活かし」の経過の様子を見届ける権利が寄付をした人間には与えられるのだと考えたい。
「責任がある」と考えると少々重い。「存在」の距離が遠い。
その様子は「情報」から読み取ることになるのだろうと「察する」

それは5年後かも知れないし10年後かも知れない。


ーーーー

「いのち」が関わるhappening。
学びの「きっかけ」はいつでも何度でもやってくる。

父親不在。
母親自殺。
子どもも「いのち」を落とす。

母親、精神障害。
子どもに、揺らぎの種を蒔く。


母親の声は、誰がどのように聴いている?
子どもの声は、いったい誰が聴く。

大きなhappeningがどれくらい衝撃を与えたかについての情報がどれくらい増えれば、「日本人みんな」が、小さい「いのち」の大切さを学べるというのだろう。

「日本人みんな」「一つになる」
その先には何がある。
その前に何がある。

小さい「いのち」は大きくなる。
やがて必ず誰かを支える人に育っていく。
小さい「いのち」を守ることは支える人の成長を支えること。

小さい「いのち」は必ず大きくなる。
やがて必ず誰かを支える人の成長を見守る。

「いのち」が生まれる理由は必ず「存在」する。
だから「いのち」が「存在」する。
だから「いのち」は生きることを知っている。

「いのち」の外側の見た目の皮。
「いのち」を包んでいる外側。
その皮や外側はまだ知らないかも知れないけど
内側の「いのち」は生きることを知っていることを知っておいた方がいい。




2011年04月02日(土) 心新たに

「感性」や「直感」というのは、なかなかその「存在」というのが分かりにくく、評価されたような感想を受けても、なかなか自分の中で繋がることが難しいにもかかわらず、 その価値みたいなものはすでに知っていることだったりする。

ホンモノの「知識」は行動の後に定着していく気がする。
その「行動」のきっかけのようなもの、試行錯誤を行動に移す力は他者は教えることはできない。

今こうやって、意味が通じるような言葉で表現することが出来ているが、これを言葉にするのに2年間かかった。 今後、さらなる対話をして洗練されていくと思う。

同僚に、「あなたが支援のスキルを教えてくれないから私は上司に怒られた。私は大人だから我慢してきた。あなたが裏表ある人間であることは誰にも言っていない。それはあなたが困ることが分かるから。だって、私大人ですから」云々、がぁーっと言われた。

女性の発する言葉、というのは時にこわい。


いろいろなことを考え、自分の中で論破できた感がある。
専門家のアシストをかりて、約1年。
この道のりは、苦悩だったが、私の中では考え方の層みたいなものが充ち満ちていった実感がある。

支援される人たち、また私たち支援する側の人間も「存在」していることには同じ原点。
アプローチは人の数だけあるし、ほんの何秒か後だったら別の仮説を持てていたかも知れない。
それくらい「確実」なものではない。

因習にとらわれてどうする!

自分の行動(「直感」のようなものに突き動かされての動き)を誰にでも意味が分かるように言葉で表現して記述する、ただそのことだけでも人によって違うわけで、極端な場合「コンプレックス」と対峙することにもなる。
このことを気づかせて(学ばせて)もらったのも同僚の言葉がきっかけ。



「一生懸命頑張っていると、かならず見ている人がいる」

これは、15年前私が会社勤め時代に通っていた会計学校の講師が何気に語られた言葉。
今では私の大きな励みになっている。
支援の現場でお世話になった 職員の方へもこの言葉を添えた。


「リベンジ」「再挑戦」ではなく、心新たに教育を考えていくきっかけを、自分自身で繋いでいきたい。


2011年04月01日(金) 「新年度」

この春の時期。
期待と不安の入り交じる、スタートの時期であることも多い。

「新年度」が4月からというのと、「新年」が1月からというのに、意味が分からない時期があったことを思い出す。
「年度」という区切りが「新年」で「年」が一つ増えるのに、そのままであるというのがなんとも意味が分からなかった。
海外では9月からがスタートの時期なんていうのを聞いたりすると、ますますその意味が分からなくなった。

22年度卒業生。卒業したのは23年の3月某。

ーーーー

「早生まれ」というのも、意味が分からなかった。
3月末に誕生日である私は、「学年」でいうところの後の方(遅い方)なので「劣等感」さえもっていた。
しかし、意味が分からない中で、「早生まれ」の「早」という文字にほのかに安堵感も抱いたこともないことはなかった。

「遅い」より「早い」というのがなんだかよさそうだ、という物差し。

人生を過ごす中で、「回り道」もまた人生の奥行きを出す、なんていう言葉に触れて、考え方は一つではないことを知った。

「早期−(なんとか)」
発達の早い時期に出会わせておくこと。

例えば小さな子が流暢に「英語」を話す様は、お見事に映る。
その子等が「親」になった時、その「英語」はどのように影響しているだろう。
その「親」となった「子」にも、やはり「早期ー(なんとか)」の方針や精神は引き継がれているのだろうか。
そも、その「早期−(なんとか)」の方針や精神というものによって学びの環境に誘導されたのだ、という感覚、自覚、意識というのはかつて「小さな子」であった人間はどのように受け入れるのだろう。

こうあれこれ謎を抱くのは、「早期−(なんとか)」にどこか「憧れ」のようなものがあるのだろう。

受け入れ方は時の経過とともに、移ろっていくのだろうが、選択肢が広がるという感覚が分かればゆったりと人生を送れるのかもしれない。


疾病に関する「早期ー(なんとか)」もまた、治療の選択肢が広がるという視点で、心身の「心」に多少のゆとりが持てて、「身」の確実な揺らぎをゆったりと自覚(受容)できていくのかもしれない。

「受容」の段階が「痛み」と向き合う時期。


ーーー

「遅咲き−(なんとか)」
この境界もまた微妙だ。
「最年少」「標準」

極端な例に注目される。
「最年少」と「遅咲き−(なんとか)」の間が「標準」か。
だとしたら、「標準」の帯はおそらく広くなっている。

はは。なるほど。
かつての「境目」だったところがずれていくわけだ。


「最年少」と「遅咲き−(なんとか)」
「最年少」が「早期−(なんとか)」の結果だとしたら、期待したくなる。
「遅咲き−(なんとか)」にも、大いに期待したくなる。

そして、自分にも期待できそうに思えてくる。




ーーー

「新年度」が4月からスタートする。
5月は「五月病」の5月。
9月より新年度スタートだったら「十月病」なのか。
季節は秋で、まぁ、どっちつかず。
春と秋は暑い夏と寒い冬、寒い冬と暑い夏の中間、境目なので「微妙」とすると納得がいくからそうなのだろうか。


「自然」(季節)の流れに同調できるから都合がいいのか。

「そういう時期なのだから、まともじゃなくても、ちっとも変じゃない」

こうも考えられる。
「自然」(季節)の流れに同調してないような時期、五月、十月以外のいつでも、「病」になったとしたら、同調の流れをも超越するほどなのだから、

「そういう時期にそうなのだから、まともじゃなくても、ちっとも変じゃない」



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「新年度」スタート。

茶色の木肌からピンクの花をつけるあの木は、気づくと緑色の葉を付ける。
ピンク色の花びらを豪快に落としまき散らしながら。

この自信のなさ、不安との対峙、これがとにもかくにも行動することで意識されなくなるとき、フッと立ち止まることを忘れずにいたい。

今日は快晴。
久々に外での読書が楽しめそうな今日である。



KAZU |MAIL