ふつうっぽい日記
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2010年08月16日(月) 「一人いるよ」

彼はずいぶん前に言った。

「前に付き合っていた(肉体関係も持った)彼女と今も友だちっての」


毎年、毎年、私が作る年賀状の宛名の中の女性で誰がその人なのかを思いながら。


何人か候補がいる中の一人の女性の名前がパスワードにされているのを知っている。
先日、話題にした。

変えるつもりはないということを行動から悟った。
よほど忘れられない人なのだろう。
彼にとって。


毎日ログインする度にその名前を入力するのだから。
パスワードの女性は知っているのだろうか。
私は彼女に私のこの落ち着かない思いを伝えたい衝動をなんとか抑えている。


私はこの先も寛大でいられるだろうか。



全然関係ないが、ある女性が夫の名前で私のアドレスを登録していた、ということがあって、「夫宛のメールとお間違いしてあるみたいですね?この内容を、私からお伝えしましょうか。それともあなたから夫に内容を伝えますか。私、不愉快なんですけど。」と返信した。
すると、「失礼ですが、私はそんな気持ちは一切ありませんのでご心配なく」と返事が来た。
二人とも「大人」とは言えない。



来年から、年賀状は個人で管理しようと申し出たいと思った今日である。

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追記。

10年以上も夫婦でいて、「ちゃんと」「嫉妬」している私は
たしかに
あなたを愛している証拠。

あとは素直になれば、冷静になれば
ちゃんと「独占」している時間がどれだけあるか
分かる。

あはは。
今は笑える私がいるよ。


2010年08月13日(金) 突き動かされるピュアな勢いであったことに気づいた日

私が倒れて

いきなり義母と妹が来て

パニックが押し寄せてから

もう何日も経った。



今日、ふと繋がった。

昨日、発病後初めて実家に電話をした時

義母から電話があって母を出すように言ったという。

教育方針を聞きたい的な内容だったそうだ。

父が電話に出て、内容としては「どうして実の娘がこういう状態になっているのに親として真っ先に駆けつけないのだ!」と憤ってあったという。

その時は、私は「まぁまぁ、そういう人だから」となだめた。
どちらかというと実両親サイドの「味方」であった。


でも。

今日の夕方過ぎになって、昨日の久しぶりの電話で心のエネルギーを消耗したのか、わさわさと落ち着かない気持ちが突き上げた。


そして繋がった。
義母は「いきなり」少々常識的なことよりも行動を優先させる人であったが、それは心から直観的に突き動かされて「嫁」を見舞う行動を起こした、ただそれだけなのだ。
行ってみないと状況は分からない。

私は症状上、尖った態度を取る道を選んだ訳だが、翌日、花が贈られてきた。

今朝まで、「両親来なくてよかった」と考えていた。
でも、両親は来るべきだったのだ。
たとえ、門前払いをくらっても。

昨日の電話を思い出す。

「来て欲しい時は言ってくれたら行くんだからね。来て!っていうのを待っていたのよ」


患者の私が、不安定な私が、言える余裕なんてない。
まして幻聴が聞こえる中、夫の存在をも危ういのに、自分が自分であることも微妙であったのに。

私は夫に誰とも会いたくない!と言った。
その言葉を言う前に、義母等は来た訳だが、今思えば、純粋な心配な気持ちであったのだろう。
そして、私は「愛されている」と思った。
実の親よりも。


夫は我が父へ「二人を見守っていて下さい」的な内容メールを送ってくれたという。
実両親は心配だったという。
我が夫が。

でも、夫からそういうメールをもらってもなお、「でもね、娘の事が心配だから…」と強引に行ってみようという発想はなかったのか。


「来て欲しい時は言ってくれたら行くんだからね。来て!っていうのを待っていたのよ」

待っていたと言われても、私には伝わらない。
「行ってみたいと思うんだけど、都合どう?」くらい申し出てもらわないと分からない。

急性期真っ最中にも「いつ招待されるのかと待っていたのよ。部屋が片付いてなくても、布団がなくてもそんなのいいの」とも言っていた。

言われないと分かる訳ないじゃないか!


やはり、私は彼らから本当の意味で愛されてないのかも知れない。
いや、ただ、彼らは「愛する」ということを知らないだけなのかも知れない。


もしかしたら、息子を気遣う「母」としての「義母」の愛情の勢いだったのかもしれない。

義母が、そうっとしてくれていることに私はただただ感謝している。







2010年08月12日(木) 曖昧な記憶に翻弄されて

3歳よりも前の記憶は、「隠滅」されるらしい。
物心というのはだいたい3歳らしい。

妹は「お母さんのお腹の中でぬりえをしていた」とよく言っていた。
実際、そういうことはありえない。

3歳の頃、塗り絵にはまっていて(塗り絵で遊ぶ時間が中心で)過去にさかのぼっても、きっとそうだったのだろうと結びつけたのだろう。

母はこういって笑っていた。「それにしちゃ、そんなに絵が上手じゃない」
これは一応そのありえない状況を想像(信頼、受け入れ)したからだろうと思う。

まぁ、塗り絵が上手であっても絵を上手に描けるかというと別の領域だ。
線の内側をはみ出さずに塗るのが塗り絵だ。


4月末から約2ヶ月、私は「過去」にとらわれていて、「過去」の出来事の中で「犯人探し」のようなものをしていた。私を産み、育てた親にその責任を問うようなこともやった。
「今日1日どうやって過ごしていくか」を考え行動するよりも、「過去」が優先してしまうそんな精神状態にあった。

後にその過去をふり返って問い詰めたりしたことが再び自分の中に戻ってきて、自分を責めることになるのだ。

自分の放った言葉は自分に跳ね返ってくる。
たとえ相手の反応がなかったとしても。
いや、相手の反応がないと、より強い力で戻ってくるとも思える。
そして、壁打ちテニスを何度かやることになり、やがて、我に返り、別の手段を講じる。


同じ「反応がない」という状況でも、相手との関係が深い場合は、内側に向かう。
自分を責める。

私は母に対して、メールで結構きつい言葉をつらつらと送った。

『トラウマ返し―子どもが親に心の傷を返しに来るとき 』という本を読んだのもきっかけだった。

今日の新聞の本の広告欄では「忽ち8刷」と書いてあった。
(私が買ったその本は6刷だった)


私は母に「私はどんどんこういうことを伝えていくと思うけど、あなたはあなたの人生を優先にして決して悩まず、私が歩んで欲しい楽しい60代を過ごしてそれを私に伝えるようにしてください。そうすることで、私は落ち着いていくことができるのです」といった言葉を送った。

実の親に対して、実に堅い内容だとは思う。
しかし、私が私の課題として向き合い、乗り越えたり、何かの「障害」があったとしても「受容」していくには、これがベストだろうと私は判断したのだ。

私が私であること、私が私の問題として抱えることが成長。

私は人の親の経験をまだしていないが、「親心」としては「心配」ではあるのだと思う。


親離れ、子離れ。

昔は「通過儀礼」的な行事で、その心理的距離は自然に成長、発展していったのだろうと思う。
成人式や結婚式は、ある種の「別れとはじまり」のけじめの儀式。

しかし、その見た目(どんな衣装を着るか、誰を呼ぶか、失礼のないように配慮せねば)などに視点がおかれやすく、「三つ指ついて…」というのは私はさせてもらえなかった。
「いつでも戻ってこい」というのが親心であったのだろう。
今思えば、「させてもらえなかった」のではなく、「しなければならない」重要な儀式だったと思う。その時に家族みんなが泣いたとしても。
結婚式で「花嫁からの手紙はしないよ。だって、お母さんからそれだけはしないでねって言われたから」と言っていた友人もいた。

私は涙ながらにも手紙を書き、読んだことは小さな儀式をクリアしたと思う。

私も見た目を気にしていたな、と反省した。
「どうして、お父さん泣かなかったのだろう…」と何年もことあるごとに思い出した。
私の知らないところで、号泣したのだろう。
声を抑えて泣いたのだろう。
抑圧して、これからの自分の人生を奮い立たせたのかもしれない。


KAZU |MAIL