ふつうっぽい日記
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2004年06月24日(木) じめじめ

じめじめと、嫌な感じの空気。
もうすぐ、雨が降りそうだ。

今、バイオリズムが下降気味なのか、どん底なのかは分からないけど、悶々としている。
天気のせいかもしれない。この際、天気のせいにしておくか。


来月は、選挙がある。送られてきた投票所入場整理券で、知った。
まぁ、何やら駅の前で演説している人がいるから、そういう時期なのか、とはなんとなく感じてはいたけど。
そして、そういう時に電話をかけてくる友人もいるわけで。
定期的に普通に連絡を取ってくれたら、抵抗もないのかもしれないけど、決まってこういう時期が多い。

たまたま某所で立ち聞きした一光景では、「商品をたくさん買ってくれたしぃー、そう、こだわる政党なんてないしぃー、“はいはい”って、言ったよー電話かけたり大変そうやわー」と。
私も偶然、販売と関わっているが、果たして、友人が注文をしてきたとして、そう簡単に思えるのだろうか。なんだかな、である。

その友人からは、ご丁寧に、自筆で、自分の推薦する方のプロフィールを書いてよこした。一見、普通の手紙みたいに。
悶々としていた私であるから、速攻で返事のようなものを送った。
その中には、自作の美容新聞もちゃっかり同封した。まぁ、そのこと(美容新聞を添付したこと)に関しては一切ふれず、近況を自己中心的に書きなぐり、ちょっとした“なんだかな〜”というぼやきも練りこんでおいた。

今日は、本屋に行く日で、雨が降りそうなので、降る前に、と、余裕もって出かけた。一応、バッグには、折り畳みは入れておいたが。
食材の買い出しは、今日は考えてなかったので、気力にまかせて本屋でのひとときをダラダラと満喫。
漫画で綴った女性の行動スタイル実際にあった話(?)みたいなのを少し立ち読み。

褒められたい、感謝されたい(したい)、という欲求は言葉にせずとも、あるんだとは分かっていても、そのカタチが、自分のツボとは違っていたら、なんか落ち着かない。とは、分かっていても、相手のツボを確かめる勇気はなかなかない。“気持ち”をある時は言葉で伝え、ある時は“モノ”で伝える。“モノ”で感謝をされた時、気遣いをされた時、「わ〜い★」と比較的私は好意として素直に受け取ろうとする。でも、「気を遣わないで〜困るわ〜」という場合もある。

ちょっと思い出したこと。
ある方から香典返しが送られてきた。
故人は、主人の野球仲間だった。
それはその家族(奥さん)の名前で送られてきたものであり、主人は「こんなことしなくていいのにね(気を遣わなくていいのに、という気持ちをこめて)」と言っていた。私は流れにのったものであり、そうすることがその家族にとって、気を遣わないやりかたなんじゃないの、みたいな言葉を返した。特に家族ぐるみで、とかいうほどの関係ではなかったし、家族の方が目の前を通ったとしても誰かは分からない。

“モノ”は、特別だから贈る場合と、いろいろと言葉にするほどではないし、食べ物だったら食べるだろうしとか、ちょっとした気持ちってことで、軽く流してほしい場合があると思う。どちらも、それに対するお返しなんて求めていないから、「まぁ〜★ありがとう〜これからもお互いにヨロシクなのよ」と受け止めてくれたら自然に流れると思いたい。

でも、エチゴヤ〜ソチモワルヨノウ的な、何かそれによって、裏で動かねばならないというのはご免だけど。

気の遣い方は永遠のテーマだ。


2004年06月15日(火) 週末日記(その2)

日曜日は、前日に食べきれなかったお菓子などを食べ、小腹を見たし、11時過ぎにチェックアウト。天気は憎いくらいの快晴。
せっかくなので、シティホテルの近所の住吉大社で参拝。
この日は大安でお宮参りや結婚式があっていた。
お宮の掃除係だかの関係者から、「お宅はどちらからいらっしゃったとですか?」と話しかけられ、3名は気づくと私から少し離れていて、私が答えるのが自然なカタチになった。「大阪からなんですよー」というと、「それはそれは。遠くから。せっかくなので、表から参拝されるといいですよ。」と順路を教えてくれた。私は関西人気取りで「ありがとう」とお礼を言った。
私も人間的にオモシロくなってきたなぁと思った瞬間でもあった。
参拝を終え、博多駅へ。私の予定が午後1時半までだったので、博多駅の近くの店で昼食。楽しい時間はあっという間だった。
3名は夕方まで行動をともにできたようだった。

午後2時過ぎから父と母と北九州方面へ。
両祖父の墓参りと両祖母との面会が目的だ。
ずいぶんと、墓参りに行けてなかったので、ちょっと気になっていた。
新しい花を生けて、草むしりをして、写真も撮っておいた。
父方の祖父のお墓には裏側に父の名前も刻まれている。
祖父が買った墓であり、息子達の名前が連ねて刻まれているのだ。
家紋もある。整備の行き届いた霊園で広い。
祖父のお墓の場所は「さくらE」とか記号があった。
近隣の墓石を見ると、同じ家紋が結構あった。
母方の祖父のお墓は、結構旧い。通路も20センチくらいか?という感じで、大小デザインも、方向もいろいろ分散しているような感じで、昔ながらの墓地という感じだ。
家紋などは描かれてはいない。
両墓参りを済ませると、気持ち、何かが楽になったような気がした。
癒されたのか?

さて、祖母との面会。
両祖母とも介護老人保健施設にいる(いた)
先に、母方の祖母を訊ねるべく施設へ向かった。
父も母も久々の訪問のようだった。
面会ファイルをめくる。
?祖母の名前はない。
え?不安な気持ちが走った。
家に戻ったのか?入院か?それとも?いや、まさか。
祖母の家には長男が同居していて、施設から5分くらいのところなので、行ってみることにした。

門の前に車を寄せようとしたら、門の内側に見なれない女性がいて、訪問者の対応をしていた。父が「誰だ?お母さん、なんか知らない人が門のところに立っとぉよ!」と母に。「誰?ばあさんの知り合いやろか?」
母はその女性(オンナ)に「あのぉ〜ココの家の者なんですが、おばあちゃん、います?兄貴は?」と聞いた。するとオンナは「申し遅れました、私、ヨシコと言います。おばあちゃんは、入院しているんです。…(お兄さんは)ゴルフに今出かけていまして(略)今のあの人にはゴルフが生き甲斐のようなところがありますね。…(略)私も言ったんですよ。兄弟におばあちゃんのことを知らせなくてよろしいんですか?って。でも、あの性格なので…もう一度、厳しくわたくしの方から言っておきます」ヨシコは、伯父の世話をしている人だということ(旧い言葉でいうと、内縁の妻)が後から分かった。伯父は数年前に離婚しているので、ヨシコとは変な関係などではなさそうだった。父も母もヨシコの存在の動揺が大きかったらしく、祖父の仏壇に手を合わせることも忘れ、祖母の入院している病院に向かった。

祖母は3月6日に肺炎を起こし、病院に移されたとのことだった。
施設にいた頃の祖母には私は会ったことがない。
結婚して新婚旅行の土産を渡しに行った時、ちょっとボケているな、とは思ったが、家の中で歩いていたし、しゃべっていた。
病院で寝ている祖母は酸素ボンベをつけられ、声をかけられても、目を開けることはなかった。目尻に少し光るものを見た。メヤニだろうけど、最初見た時よりも、少しして輝いていた様な気がした。開けようと少し頑張って涙が出たのかもしれない…
祖母の病室は3台ベッドが並んでいて、同じように酸素ボンベを付けている方が眠っていた。もう1人は検温をされながらも、目をギロッと見開き口元は笑っていて、頑張って呼吸をする荒い息づかいが聞こえた。
看護師さんが病室まで案内してくれて、父が「いつから、こんな風に?」と聞くと「結構、初めっから、こんな風でしたね」という答が返ってきた。
なんとも言えない感じが漂い、15分くらいして、その場から離れた。
母は実姉に祖母の状態を伝え、「もう、長くないかもしれないから、会っておいたほうがいいみたい」的なことを言っていたようだ。
まだ、これから持ち直すかもしれないし、この状態であっても、何年か生き続けるかもしれない。だけど、私の帰省により、発覚したこの状態。
虫の知らせというのかもしれない。

最後に父方の祖母との面会。
母方の祖母との出会いが思ってもないことになったので、ちょっと不安な気持ちも正直あったが、父の「小倉(こくら)のおばあちゃんは、心配せんでいい。しゃべるし。子どもは?って絶対聞かれるから覚悟しておかな」というのは本当だった。

食事前10分という微妙な時間で、食事室には何十人というお年寄りが集まっていた。父が食事室を覗いたので私もひょこっと顔を出した。
一斉に注目。介護士の男性が、「分かりましたぁ?」とこっちに聞いてきた。おばあちゃんを探す。介護士の男性のすぐ近くにいた。
車いす使用者が多い中、我が祖母はちょこんと普通の椅子に座っていた。「あ、あれだ!」と指を指した。介護士の男性から歩行器を渡されたおばあちゃんはゆっくりとこっちに歩いてきた。介護士の男性は「もう少ししたら食事の準備ができるけー、それまでそこでしゃべっちょり」と言ってくれた。小さなロビーの椅子に座った。

ばあちゃんはすぐには私が誰か分かってなくて、ちょっと間があって妹の名前を言った。「違うよー」というと、「KAZUちゃんねー。元気しとったねーアンタ、変わったネェー」と、そして「アンタ、赤ちゃんまだねぇ?ばあちゃん待っとるとよぉー」と言ってきた。元気でよかったというのと、心配かけさせているんだ、と、思うと、ウルウルして言葉が出なかった。その後は、撮影タイム。「じいちゃんのお墓参りもしてくれて、じいちゃん、喜んでるでぇーKAZUちゃん、ありがとうね。じゃ、もうここで、いいけん。ご飯じゃけん」とばあちゃんは歩行器を押しながら、ゆっくりと食事室の中に消えていった。

長い日曜日だった。驚きの事態もあったはずなのに、気が楽になったような感じが私の中にはあった。

大阪へ戻る月曜日。
朝9時過ぎに親友Rが車で迎えにきた。
9人乗りくらいのワゴン車。
空港方面にショッピング施設がオープンしたらしく、そこに行こうということになり、出発。地図にはない施設で、「分かるかいなぁー無事たどり着けるかいなー」と不安そうだったが、看板を見つけなんとか無事に到着。
土日は駐車するのに3時間待ちとか聞いていたのだが、さすが平日。
それもオープン10分前とあって、駐車場も選び放題。
空港には12時までには行かねばらなかったので逆算して11時半までの散策&ショッピングタイム。

「広いねー」「わー」と見上げながら、でも、しっかり店をチェック。
ある洋服屋さんで2人は立ち止まった。
「わー3000円が1000円だってぇー可愛いー」。
それからは、ちょい主婦ちっく。
ワゴンをあさる。
オープンしたてなので、色柄も選び放題。広げ放題(笑)
いつしか「KAZUちゃんは、どれにする?」と、買うモードになり、色違いで同じセット(キャミソール&なんかその上に重ねる坊さんの袈裟みたいなのん&カーディガン)を選んだ。
「私はいつもぶなんなものを選ぶのよね」とR。
「私は、珍しい色とか挑戦しようかなって最近思うのよね。持ってない色とか」と私。「8月にも帰ってくるんだよね?じゃー、その時にコレ着とかないかんね?!」「そうだね!」と2人。あ〜、いい感じのお買い物タイム。近所だったら、たまにこういうことは普通にやってるんだろうな…と思い、ちょっと現実を見てしまった。
それから食料品の店で自宅用明太子などを買い、最後に気になっていたロッテリ○の小梅ちゃんシェーキ(今だけ105円ってやつ)を堪能。
そして、空港まで送ってもらい、慌ただしくお別れ。

12時50分発だったので、チェックインを済ませて荷物を預けても時間があったので、ラーメンを食べた。今回は替え玉システムのないところで、味は、まぁまぁ。

12時30分に搭乗口へ。持ち物検査というか、セキュリティチェックというのか、それが結構時間がかかった。
検査される客は少なかったからか、じっくり検査されたような感じだ。
行きがけはこんなに時間は取られなかったのだけど、場所にもよるんだろう。土産物の紙袋はOKで、私とリュックが何かの反応が出たらしく、細かいチェックが入った。

「靴を脱いでください。ベルトを着用でしたら、それも外せるようでしたら、外してください」と。使い回しスリッパを履かされ、再検査。
OKサイン。靴とベルトは、リュックと同じようにトレーに載せられ赤外線(?)チェックに載せられた。

リュックに関しては「全部、見せていただいてよろしいですか?」と言われ、どうぞ、というしかない。
あらゆるポーチを開けられ、ずみずみまでチェックされる(女性検査員)
生理中であったので、それ関係のポーチもある。
「この中には何が?」といちいち聞かれる質問にも答えねばらない。
雑雑したメーク道具の入ったポーチも隅々までチェックだ。
別のポーチに美顔器を入れていたのだが、「美顔器で、化粧品です。あ、充電して使うものでして」と言うと、「ええーっと、歯ブラシですか?」って…それに対するツッコミはしなかったが、検査員は小道具1個1個をトレーに載せて、リュックを背負って、ふたたび検査機にかけた。

「原因は分かりましたので、もう結構ですよ」と言った。何が原因だったのかの説明はなかった。「自分でリュックに詰めましょうか?」という私の声を無視して、検査員は、リュックに1個ずつ、荷物を詰めていった。「お手間を取らせました」と言って、私は解放されたのだった…検査員は二十代くらいのまじめそうな女性。
私は検査の練習台になったのかもしれない。
最後の最後で事務的に流れるであろう場所でどっと疲れてしまった。

8月の帰省も、安全に過ごせますように。


2004年06月14日(月) 週末日記(その1)

先週、金曜から今週月曜まで福岡に帰省した。
単身帰省である。

いくつか、目的があり、重なったというかスケジュールを重ねたのだ。
月1回とか定期的に帰るのはできないので、とくに、単身帰省とする時はなるべくスケジュールを詰めるようにしている。

11日(金)
午前10時40分伊丹発の飛行機。
久々の飛行機での帰省だ。
自動チェックインシステムの座席指定をする時に考え過ぎて(いや、根拠のない自信に突き動かされて?)、中央列の中央というかなり潔い席を取ってしまった。にもかかわらず、乗り込む時には「中央列」としか頭に残っておらず、平気で「中央列」の「通路側」に当たり前の様に着席した私だった。
「あのう…」と半券を見せてたたずむ男性会社員に声をかけられるまで私はその椅子に座り続けたのだった(泣)
でも、私にしては珍しく「んなっ。あーごめんなさいねー」と言って、席をずれた(ちゃんと「中央列」の「中央」に着席。右に男性会社員、左に男性会社員:ちょっと年齢高め。両手に何?花じゃない。)
台風の影響も少しあって、上空では多少揺れた。よって、ドリンクサービスは変更され、キャンディが配られた。

ほぼ定刻に、福岡空港に到着。
出発地の大阪は、雨が降っていたが、福岡は雨の後もなく、夏日に近かった。預けた荷物を受け取り、地下鉄乗り場へ急いだ。
福岡空港駅から博多駅まで行き、“いつものラーメン屋”に向かった。少し、土地勘が狂っていて、逆走してしまい、案内図を見て、正しい方向をつかんだ。“いつものラーメン屋”は、少し並んでいた。旅行バッグを店内のロッカーに預け、順番を待った。
1人なので、気楽だった。
予定通り、替え玉(半分の量:半替)をして、にんにくも少し入れて、秘伝のたれも基本量、ねぎは白ねぎ、チャーシュー入り、麺は「かためん」。
隣の席とは仕切りがあるし、接客する店員とも長いのれんがあるので目を合わさずに麺を食べるのに集中できるあのシステムの店だ。
ほのかににんにくの匂いを降りまきながら、化粧室でうがいをして、軽く化粧直し。
JRで実家のある町まで20分弱。
平日ということもあり、家の人間は迎えに来れず、暑い中、雨傘と帽子をかぶり、家まで20分弱歩いた。
実家で、荷物の整理をして、ふたたび福岡市内に向かった。

博多駅からバスで1時間、牧場も近いらしいというある場所。
博多ー天神ー六本松(九大キャンパスがある学生の多い町)を抜けて、静かな住宅街を目指す。彼女とはメールで連絡を取り合った。
彼女とは、かつて同じ職場だった。
携帯メールにバス停からの行き方が書かれてあり、文末に「遠いけど覚悟してきてね)とあり、バス停からどれくらい歩かされるのか、かなり想像した(笑)覚悟する遠さというのは、博多からの所要時間だったようだ。
関西で移動に1時間というのは、そんなに苦ではないと私は思っているので、その感覚だと、「楽勝」の域だと思うのだ。バス停からは、ほんの5分くらいだった。それに、道も単純。
「居酒屋を左に曲がって突き当たりの茶色のマンション」
迷うどころではなかった(笑)
彼女には2歳くらいの男の子がいて、昼寝をしている時間なので、ピンポンは鳴らさず電話をするように言われていた。
電話をしたら、10秒くらいでマンションのメイン玄関に現れた。
賃貸の3階建てだが、セキュリティはしっかりしていた。

部屋に案内されて、「ここにチビがいるの」とその部屋を覗くと、動いていた(笑)お目覚めだった様子。
軽くお茶を飲み、せっかくだからということで美顔用カルテを記入していただいた。私が美顔活動(ビューティーアドバイザー)をしているということは、あらかじめ伝えていて、ちょっとした資料も送っておいた。
3年くらい前の私とちょっと似た“眉のコンプレックス”を持っていたのだった。
化粧品を買っている店や美容院でサービス眉カットをしてもらうが、なんかスゴイことになり、苦笑いしながら帰宅というあの納得のいかない自分の眉のカタチ。もう、いいや!と彼女は1年くらい眉は野放しにしていると言った。アドバイザー経験もまだ2年くらいの、それも4年ぶりに会う私に眉を差し出してくれたが、きっと、不安でいっぱいだっただろうな、と思った。
残念ながら(幸い?)、私はシャキーン☆と眉をカットするような勢いがあるタイプの美容部員ではない。
警戒心も、たっぷりある。(もう少し自信持とう!:自分への励まし)
今回はそのあたりが彼女の緊張を解いたようだ。
繋がっていた部分と、不要な箇所と、少し長さが目立った部分をカットしただけ。自分で眉のお手入れはしてほしいと考える私は簡単に「これからの眉の対処」みたいなのを告げた。
何度も何度も、彼女は鏡を見ていた。
軽く、化粧直しまでして、お茶タイム第二弾。
あっという間に時計は午後6時を回っていた。
チビちゃんのドアップとマンションの写真を撮り、バス停へ向かった。

次は午後7時半からの実家家族との食事会である。
博多駅近くの中華料理店を妹が予約していてくれた。
妹と博多駅筑紫口で落ち合い、母を待つか店に向かうか3分くらい考え、店に向かうことにした。予約していた席は個室で、10分くらいして母が汗をかきかき、描いた眉をにじませながら登場。
父はパーティのはしごをしてくるとかで、1時間くらいしてから登場した。
実家一族はほどよく飲むほうであり、今回は焼酎の五合瓶を思いきってオーダー。残ったら持ち帰りができるとあったし。
まぁ、結局、父も飲んだので、五合瓶はいい感じに空いた。
帰宅してから、父と妹はダウンした。
私と母はヘロヘロしていたが、なんかいろいろとしゃべった。

翌日、土曜日。
昼までゆっくりと過ごした。
やった事といえば、処分物の選り分け。
何十年前のだ?というホコリにまみれたぬいぐるみを一掃した。(袋詰め)
いろいろ、思い出もある品もあったが、きりがないのでどかーんと処分するっていうのは必要な作業だ。まだまだ、処分できそうなモノはある。
少しずつ、どかーんと作業をしていきたいと思った。
土曜日はミニ同窓会が夕方6時から実施され、その後、仲良し4人組で二次会。4人は福岡県あちこちに散らばって住んでいるため、腰を据えて過ごすためには宿泊付きが有意義なのだ。今回も、博多駅前のシティホテル(父の紹介)を予約しておいた。
二次会を共にする仲間4人中2人は土曜日も勤務なのでチェックインは、一次会が終わってからとなる。
私と北九州方面に住むMは、先発隊ということで、4時半くらいにチェックインをして、二次会の買い出し。二次会はシティホテルの部屋(和室)で実施した。

ミニ同窓会は、20人くらいの規模で、とくに自己紹介タイムがある訳でなく、会費を払い、運ばれてきた料理を食べ、飲みたい飲み物(飲み放題枠の)を注文し、仲の良かったメンバーでしゃべって終了した。
卒業して、9年だけど、そんなに大きな違いはなく、グループ重視の会話を楽しんだ。独身?既婚?では、子どもは?というのは、やはり基本らしかったが、適当にかわしておいた。「ウチ、旦那がオッサンやからー」とか言うと、「○○ちゃんのところは、38歳だってよー。オッサンなんて…」と、
“そんなこと言わなくていいのに”的なストレートな視線が来たが、笑ってごまかしておいた。仲良し4人以外のミニ同窓会のメンバーとは、おそらく、5年、10年スタンスくらいの面会になるだろうから、私は結構気楽に会話を楽しんだ。何人かは、「KAZUさんは、大阪に嫁いで、なんかキャラ変わったよね…」と思ったかもしれない。無責任かもしれないが、受け売り台詞かもしれないが、「知るか!」と思った。多分、それは、「結婚して5年なのに子どもいないのぉ?」という質問をされることへの守りのようなもんだと思う。ま、そういう微妙な時期っていうのは、同窓会系、クラス会系にはつきものらしいし。

さて、二次会。
私以外の3人は、部屋着に着替え始めた。私は部屋備え付けの浴衣でいいと思っていたので、先にシャワーを浴びさせてもらい浴衣に着替えた。
テレビではお笑い系の番組があっていて、芸能人の話など女性っぽい話題で盛り上がり、11時過ぎ、CMのない番組で放映される「○のソナタ」にチャンネルは変えられた。私は「○ソナ(略名)」は、初めて見た。
韓国ドラマだというそれは、吹き替え版であり、「ね?笑えるところもあるやろ?」と結構見ているという私を除く3名は私の反応を観察していたようだった。この3名とは演劇サークルも一緒だったので「これはわざとらしい演技だよね〜」なんて声もあった。
その番組が終わってから、エンドレスなおしゃべりタイム。
8月にも、このメンバーに東京の人間を加え、宿泊付き観劇(宝塚)企画を予定しているのだが、その時に向けての結束会をしようと思っていたが、いやはや女である。それも、独身。
いつしか雑談のテーマは出会い、恋愛、結婚への道のように変わっていった。

「KAZUが結婚して5年か…」「わーーー。5年の間、何してきたんだろう?」「親から勧められる見合いって嫌だわ。ちゃんと恋愛をしたい」「そもそも、好きってどういうこと?」「本当に好きな人には、そのままでいてほしいって思うから、近付いてきてほしくないって思うのよね」「出会いっていうけど、そこらへんに歩いている人に声かけるわけにはいかないしねぇ…」「友達の友達っていうのもあるけど」「職場での出会いは考えられないわ」

何度も、このメンバーとはいろいろしゃべる機会はこれまでにあった。
しかし、どこまで踏み込んで自分のことをしゃべるか?というのは、考えながら気を使いながらなところが私にはあった。
唯一、このメンバーでは、既婚者なので、語る場面は多かったが、それでも、「ここまでしゃべると、引いてしまうだろうなー」というラインがあった。しかし、今回、私は酒の力も、三十路であることの力(?)も借りて、ちょっと濃厚な敏感な話もした。
「KAZUが結婚するっていうのも、驚きだったんだよ」と誰かがいい、残りの2人も頷きあっていた。

私の中では流れがあり、“普通”であり、周りにもそのように映っていると思っていた。その流れも、伝わっているだろう、と。
私が頑張って恋愛を進めていったことを語れたことで、3名との友情がまた一歩深まったようにも思えた。
十代、二十代とは違い、三十路の恋愛となると、やはり、結婚がどうしても延長にあり、考え過ぎるあまり、石橋を叩き壊してしまってしまうというのも分かる(本当には分からないが)
それぞれがどんな恋愛のカタチを刻んでいくかは分からないけど、友人としては見守っていきたいと思った。


KAZU |MAIL