原案帳#20(since 1973-) by会津里花
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2003年09月30日(火) 119ライブのチラシ

チラシ、いちおうできました。
でもWordで作ってそのままUPしたのでメチャクチャ重たいしおかしな表示になるし、そもそもWordのWeb表示って何? いらないことばっかじゃん! ソースで本名まで見えちゃうし(もう消したけど)。
たぶん表示されない人もいるだろうけれど、見てみたい人はドーゾ↓:
119ライブin やまぼうし
http://www.jackies.jp/music/live20031109-flyer.htm


できるだけ早くWeb専用の「Flyerページ」と差し替える予定です。

2003年09月28日(日) おやまあ

★1・FAQ
★2・FAQ:2
★3・「ふつう」という特殊性



★1・FAQ

うちのHPで言われたのはこれが初めてだけど、口汚い罵り言葉がごく当たり前になっている匿名掲示板なんかを見るとときどき見られる、初歩的な罵詈雑言:
もちろん、不愉快だからこうやってさらしものにしてしまうんだけど。

---------------------------------

お前らみたいなのが存在するから
迷惑するんだよ!!! 消えろ! 死ね!
ウダウダ言ってねーでカウンセリングでも受けろ
お前らはキチガイなんだよ。

男は男。切っても付けても女にはなれねぇーんだよ
悔しかったら子供産んでみな できねーだろ!


---------------------------------

わたしはそれに対して、まず「子ども産むだけなら犬猫でもできるよ」と答えることにしている。
(っていうかそこまで言わざるを得ないほどひどい罵り方をオフラインでされたことがあったので、それ以来咄嗟にその言葉が出てきてしまうようになった)
こんな言い方をすると「犬猫」がかわいそうだけど……

(もしもちょっと前の「国立」のことで恨まれているのだとしたら、わたしなんかにそんな影響力があるのか、と目を丸くしてしまう。
そうではなく、たまたま本当にそういう問題を抱えている人がこのHPを見つけてしまったのだとしたら、知名度が上がってきたんだな、とちょっと嬉しい。
わたしの個人的事情を勘ぐって「煽り」を入れているのだとしたら、その人は恥ずかしい勘違いをしている。
見ていて相手のほうが憐れに思えてしまう)

へえへえ。
カウンセリングは受けてます。
子どもは産めないけど、純女さんたちにも産めない人はいくらかいるので、↑の書き込みをした人(どうやら女性らしいけど)は、実は女性も敵に回しているんですよね。

あと、子どもを産めるか産めないかを人間の価値であるかのように言い立てるのは、「戦争してたくさん殺し合いをしよう」と言ってるのとあまり変わらない、とも付け加えておきましょう。

もう21世紀なのにね。
まだまだわかってない人はたくさんいるんだよね。
GIDとしての活動、やっぱりがんばらなくっちゃ。……あ、無理のない程度にね。

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★2・FAQ:2

これは他人事じゃない。わたしの元配偶者ももしかしたらそんなふうに思っているかもしれない。
(細部は違っているけど。それに、彼女はこんな見苦しいことを書くような人間じゃない)

---------------------------------

一緒に住んでいる彼は、このようなHPを拝見し、
ホルモン剤を飲むようになりました。

でも私と知り合ってから男性を取り戻し薬は止めました。
しかし一緒に住むようになり、私と彼の身内の方とゴタゴタしてしまい、
(私には全く悪気は無かったのですが。ただのバカでした)
それが原因かどうか判りかねますが、薬を再び飲むようになりました。

私の事を女性としては見なくなりました。
私は女性としての自信も無くなり、在価価値すらも見失いました。

それをずっと我慢して、ずっと、なるべく作り笑いをしてました。

もう限界でした。それを、その関係のHPに不満をぶつけてしまいました。
訳が判らなくなりました。頭の中が混乱してしまいました。

もう生きる気力は有りません。

申し訳ございませんでした。
……(以下略)

---------------------------------

「ただのバカでした」というのは書いているご本人がそうなのか、それとも相手(彼の身内)なのか、ちょっとわかりにくい。
それも気になるけど、もっと気になるのは「彼がホルモン剤を飲むようになった」=「自分のことを女性として見なくなった」と短絡しているところ。
(レスにも書いた)
この二つのことは、関係がない。
こういうことは、もしも協力できるなら、二人でそろってメンタル系のカウンセリングを受けるとかするべきだと思う。
で、きちんと問題の所在を明らかにしながら解決するべきだと思う。

っていうか、GID当事者の皆さん、わたしが言うのはほんっと余計なお世話なんですけれど、カウンセリングはちゃんと受けましょうね。
もしも「身体的性別の恋人や配偶者」がいる人は、その人との関係と自分のGIDをごっちゃにしないよう、充分気をつけましょうね。
GID全体が誤解されるのを防ぐために。

……あ。言ってることが自分に跳ね返ってきちゃった。

でも、わたしはわたしの問題と精一杯取り組まなければならないし(それが子どものためでもある)、わたしの元配偶者は彼女自身の問題と精一杯取り組まなければならない。
それは、お互いが自立した状態で行うべきだ。

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★3・「ふつう」という特殊性

(このことはあんまり詳しく書かないほうがいいのだけれど、これだけは書かせて!)

「ふつう男だったら……」
という言い方を、何度も何度もされた。
そのたびに、わたしは「ああ、この人はそんなにがんじがらめになっているんだ(かわいそうに)」と思うようになってしまった。

なんか、社会的ステイタスの高い職に「男として」就いていたほうが、今みたいに定職も持たずに性別も「一見女(だけど本当は男なんだろ?)」という状態で生きるよりもいいじゃないか、ということをしつこく言われたような気がする。
けれど、それ、わたしにとっては「はぁ!?」の世界なのだ。

確かにわたしも、そういう「縛り」の中で生きていたことはあった。
でも、それがどれほど無意味か、全身でわかってしまった今となっては、いくらそういうことを力説されても
「ああ、この人(『ふつう男は』を連発する人)かわいそう」
としか思えないのだ。

(はるか昔のことはよく知らないけれど、少なくともここ百年ほどの間は)「ふつう」というのがそのまま通用するのは、せいぜい10年がいいところだと思う。
誰もがいつまでも変わらない「ふつう」を求めてしまうものなのかもしれないけれど、どんなにしがみついてもそれはせいぜい10年くらいしかもたない、脆くて儚くて、根拠レスな「思い込み」に過ぎないのだ。

「人を殺すな」が「ふつう誰でもそう思うに決まっていること」?
冗談じゃない。戦争が起きてしまえば、敵国人だけは殺していいことになってしまうじゃないか。
そんな「常識の転覆」は起きてほしくはないけど。

わたしは「考えるまでもなくふつう当たり前」といわれるような「常識」は一切信用していない。
そういう考えもある、ということを自分がものごとを判断するときの参考にするだけだ。
そのくらいにしておかないと、道を踏み誤ってしまうのだ。
(わたしには現実にそういう体験があったし、たぶん多くの人にとってそういうものなのではないだろうか。
「己の欲するところに従えどもおのずから規を超えず」ということわざにもあるように?←意味を間違えて捉えてるかもしれないけど
「考えるまでもなく当然のこと」というのは、実はよほど人生の全てを経験し尽くした高齢者か、神のように全てのことを見通せるほどの達人にしかできないことだと思う)


あ、そうそう。付け加えておこう。

わたしは、無理して男のフリをして「まともな仕事」をして、「ちゃんと家庭を維持」していた頃よりも、女に戻れた今のほうがずっと幸せだ。
経済的に不安定でも、社会的に差別されやすい立場でも、少なくとも「自分でいられる」から。

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2003年09月27日(土) Fender Jazz Bass Plus 一五一会

★1・Fender Jazz Bass Plus
★2・一五一会



★1・Fender Jazz Bass Plus

わたしは「Fender Jazz Bass Plus」という5弦のベースを持っていて、それをメインに使っている。
素材はアッシュで、メチャクチャ重たい。カラーはナチュラル。めちゃキレイ。
アクティブ・パッシブ切り替え式になっていて、Vol/BalとTone(reble/bass)がそれぞれ二連ノブになっている。
今では作っていない。あ、もちろんU.S.Fenderだ。
市場に出回っているかと思って検索してみたけれど、一つも引っかかってこなかった。
もしかしたら欠陥品とかで値段のつけようがないのかもしれない。
でもわたしは快適に使ってるんだけど?

あまりにもレアで市場に出回ってないとしたら、きっとオークションとかに出せばすごい値段がつくんだろうな。でも……

この楽器は決して手放さない。

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★2・一五一会

BEGINが開発したという「一五一会(いちごいちえ)」という楽器が置いてある店に遊びに行った。
(一五一会については→こちらのページを参照♪)試しに弾いてみた。
……めっちゃ面白い!!

「一五一会」は、とてもシンプルな発想と構造の楽器だけれど、実はとてもさまざまな要素を含んでもいるのだ。
楽器のことを文字にするのって、わたしはすごい苦手なんだけど……

気がついたこと:
・「三線(サンシン)とギターの中間」というけれど、実はいつのまにかバイオリンやチェロなどの調弦の要素が入り込んでいる。
・チューニングのしかたを工夫すれば、ブルースやロックンロール、更にはクラシックなどまで、かなりいろんなジャンルで使える。

まあ、わたしは別にK.Yairiの回し者じゃないけどさ。
とにかく、面白いのよ。
音色も、なんていうかビミョーにギターとウクレレと三線の間を行ってるけど、これがまたなんていうか、「カワイイ」の。

ああ、10万円ためて買いたいなぁ……
(買えないくせに)

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2003年09月26日(金) 「ジェンダーフリー教育反対」だと!?

★1・「ジェンダーフリー教育反対」は不採択(東京・国立)
★2・こんなことやってると



★1・「ジェンダーフリー教育反対」は不採択(東京・国立)

世の中には「反動」というものがあるのだなあ、とつくづく感じないではいられません。
まあ、既に「不採択」になってしまった陳情について、今ごろになってからああだこうだ言うのもバカっていうか卑怯っていうか、そんな気もするのだけれど。

あえて陳情書を全文転載します。
ただし、会津はこの陳情書の趣旨には真っ向から反対であることも、はっきりと付け加えておきます。
途中にちりばめられている、教育について確かにもっともだと思われるあれこれのことと、この陳情の醜い趣旨をごっちゃにしないよう、十分注意が必要だと思いました。
なお、途中この色で書かれている文は、会津がチャチャを入れているものです。

---------------------------------

陳情第13号
平成15年8月25日

国立市議会
議長 高島美秋 様

大町晋
(外604名)
国立市立小・中学校におけるジェンダーフリー教育を取り止め、
男女混合名簿の廃止を求める陳情。

陳情の要旨

 多摩島嶼地区教職員組合支部の記録によると、国立では20年前から一部の教職員の間で、男女の性別解消を志向した、男女平等教育が行われていたと言うことです。

 そのようななかで、教職員は「性教協」の主催者山本直英氏をはじめ、フェミニズム主義者を講師に招聘して、講演会・学習会が開催されて、フェミニズムの学習が行われ、ジェンダーフリーの思想が国立の教職員の間に広まっていったと言われています。

 そして、男女平等教育手引作成委員会が結成されるに及んで、ジェンダーフリー推進論の教職員が積極的に参加し、それらの教職員の主導のもとに、「国立市男女平等教育指導手引」が作成されました。

 そのため指導手引は、ジェンダーフリーの思想で一貫しています。

1、ジェンダーフリーの問題点。

 ジェンダーフリーは一般社会で、十分合意形成された概念ではありません。フェミニスト(女権拡張主義者)は、男女の性別は、社会的、文化的につくられたものであるから、社会制度や文化を解体しなければ、真の男女平等は実現できないと主張しているのです。そして男女の性別解消を志向し、「女らしさ」「男らしさ」を認めず、女と男を同じに扱えと言う過激な思想であると言われています。

(フェミニストが「すべての社会制度や文化を解体しろ」と言っているような書き方をしているけれど、会津はそんな言い方は聞いたことないし、フェミニストがそんなことを望んでいるとも思わない。
陳情者はあまりにも乱暴で「暴力的」ですらあると思う。無知は暴力だ。)


 また、男が「世帯主」になっていることや、妻が夫を「主人」を呼ぶことは、男女の序列化、優位制、上下関係が「家制度」のなかに根付いているからであるとして、今後「戸籍」の在り方を検討しなければならないとしています。

 その根底には父性(父親らしさ)母性(母親らしさ)を認めず、「家」を否定し、家族も解体する思想が潜んでいると言われています。

(これもひどく短絡的な決め付け。
家庭や父性・母性を尊重するには、戦前の旧民法から引きずってきている「家制度」の名残と思えるような慣習的な縛りは、むしろ有害であると思う。
いちばん良い例は、戦後民法が改正されたにも関わらず「おまえは長男だから」と言われて育てられた男性には、社会適応に失敗している人がかなり多いように見受けられるが。)


 今日子供たちの心が重く病み、問題行動が危機的局面を迎え、家庭教育の充実が強く求められている時、ジェンダーフリー教育によって、家庭を不安定にするようなことになれば、子供たちの健全な育成は期待出来ません。

(家庭教育の充実は、上記のような「家制度の縛り」によっては決して充実することはないと思う。
旧制度からくる慣習にあぐらをかいて、社会の変化にまともに対応することができなかったからこそ、子どもたちの問題行動などに顕著に表されるような家庭崩壊が深刻化しているのではないか。)


 ジェンダーフリー教育は、男女の特性「男らしさ」「女らしさ」を認めず、ジェンダーチェックをして日常生活を厳しく見直し、「女らしさ」「男らしさ」えの疑問を持たせ、女の子に「さくら」など可愛い名前をつけ「雛まつり」をしたり、男の子に「翼」など強そうな名前をつけ、「鯉のばり」のお祝いをすることは、「女らしさ」「男らしさ」を押し付ける子育てであるとして、日本人の豊かな心を育んできた伝統・文化を否定しています。

(現実にそういうことまで否定しているジェンダーフリー論者がいるとは聞いたことがない。
妄想による決め付けは醜い。)


 子供たちの健全な成長を阻害するジェンダーフリーのような過激思想に基づく教育は、法規に基づいて公教育を行う学校では、行うべきではありません。

(過激なのはあんたのほうだ。)


2、男女混合名簿の問題点。

 国立では男女別名簿は、「男が先」「女が後」の順序になっているので、男は優れていて、女は劣っている、と言う考えを植え付けるとして差別をなくし、男女平等を実現するためには、男女の区別をつけない男女混合名簿を実施しています。しかし、順序が先だから優れていて、後だから劣っていると言うならば、50音順の名簿では、「あ」が一番優れていて、「わ」が一番劣っていると言わないことでも、誤りは明らかです。

(爆笑!!
差別が先にあって、そのせいで「先・後」が決まってしまうことがらと、そういうこととは無関係に「序列」が決まっていることがらの区別もつかないのか。)


 茨城県に、筑波山麓から流れている「男女川ミナノガワ」と言う川があります。男女混合名簿を主張している国立の教職員は、「男女川」は男が先で女が後だから、性差別であるとして、「女男川」と改名して教えるのだろうか。若し改名して教えるならば、土地の人は強く抗議するであろう。

(大爆笑!!
地名は地名でしょう。それと現実に今でも頑迷に存在する「男女差別」をごっちゃにするおばかが、本当にいるというのか?
あ、一人いた。陳情者だ。)


 ここに男女混合名簿の正体がよく現れています。

(……どこが?(-_-;……)

 国立の教職員は、ジェンダーフリーを具現化するため、「ジェンダーフリーを学校へ」と言う運動として、男女の性別を解消するため、出席簿、男女ともサン付け、整列、男女混合リレー、男女混合騎馬戦、混合組体操、卒業式での証書の受け取りなど、学校生活のあらゆる場で、男女混合教育を実施してきています。

 しかし、どんなに男女の区別をなくし、性別を解消しようとしても、今日大脳生理学の研究で明らかなように、男女では遺伝子、ホルモン、脳神経経路の違いによって感情の現れ方、行動の違いがあるのです。

 例えば3歳後半頃から男の子好む遊びと、女の子の好む遊びは明確に違っています。この現実を見ればジェンダーフリー教育の破綻は明らかです。それにも拘わらず敢えて実施するのは思想的意図があるからに外ありません。

(生物学的な男女差、というよりも「雌雄差」をそのまま放置すると、人間社会は荒廃してしまうと思う。
また、そのような自然の生み出す「性差」と、名簿上「男女を別にする」ということには、実は何の関係もない、ということを冷静に考えるべきだ。)


 性差否定を幼少時から刷り込む意図で行われているので、男女の特性である男らしさ・女らしさの性差否定教育の推進・助長につながる危険性を持っているのが混合名簿です。混合名簿はジェンダーフリーの形を変えたもので、「社会制度」や日本人の豊かな心を育んできた「伝統文化」解体し、「家庭」を崩壊に導く思想が潜んでいることを見逃してはなりません。

(どうやら「混合名簿」にいちばん嫌悪感を抱いているらしい>陳情者
今では一見して男の子か女の子かわからない名前の子もよくいるので、現場で教師が男女を取り違えて何か混乱することでもあったのだろうか。
確かにそういう場面にぶつかってしまったら、当該の教師にとっては「正念場」だろうと思う。
その時こそ、「守るべき性差」と「必要のない性差」を識別する力をつける最高のチャンスだろう。)


 このことを考慮して、新潟県白根市立茨曾根小学校では、男女混合名簿を廃止しました。

(むしろ「家制度」イデオロギーからなのではないか。)



3、国立市で男女混合名簿が始まり、定着した理由。

 国立の学校で、どうして男女混合名簿が始まり定着したのか、その理由について、多摩島嶼地区教職員組合国立支部女性部は次のように述べています。

☆国立市における勤評闘争、主任制反対闘争の歴史が、民主的学校運営に影響を与えたこと。
☆反管理・反差別を原則とする組合運動が生きて機能していたこと。
☆組合の運動方針として上からの通達に一切従うことなく、教員主導で、教育委員会、学校指導でないこと。
☆名簿に限らぬ混合名簿、男女平等教育の実践があったこと。
☆混合教育と、市民の日の丸・君が代反対闘争とドッキングできたこと。

 教員組合のこのような活動のなかで、教員は平成2年に、日教組全国教研集会で「混合名簿の実践から見えてきたこと」を発表。また、東京教組教研集会で「男女混合名簿から見えてきたこと」を発表するなど、朝日新聞の報道とあいまって、国立の混合名簿による教育は全国へと広がっていきました。

 教職員組合国立支部女性部が述べたように、国立の学校における男女混合教育は、組合運動として教員主導のもとに行われて、定着していったのです。法規に基づいて適正に行われるべき公教育が組合運動のもとで、ジェンダーフリーと言う片寄った思想の教育が行われたことは、由々しい問題で、子供たちの人格形成に大きく影響します。国民の間に教育の理念や目的について意見の対立がある場合、議会制民主主義のもとでは、国権の最高機関である国会で制定された法律こそ、国民の一般的な教育意思が表明されたものです。公教育を行う学校はこの法律に基づいて教育を行わなければなりません。

 学校教育法の示す教育の目的、学習指導要領の示す教科の目標から著しく逸脱していて、過激な思想に基づくジェンダーフリー教育と、その思想を具体化した男女混合名簿は、教育基本法第10条の政治的中立の規定に背くものであり、教育法規に基づいて教育を行う学校では行ってはなりません。

(ジェンダーの分野が、国会でも法律でも特に立ち遅れた日本だからこそ、現場主導で変革がなされていったのであって、法律を無視しようなどという意図はないはず。
↑の部分には、いかにも「組合=過激思想の集団=悪者」が「社会の混乱のための手段」として「君が代・日の丸反対」やジェンダーフリー教育を進めてきたかのような書き方になっている(あれもこれもごっちゃにするな!!)。
なんて偏向した、過激な感性なんだろう>陳情者
陳情書を書いた人の過激なイデオロギーのほうが、よっぽどこんにちの社会に混乱を来し、子どもたちに悪影響を与えるだろうことは、想像に難くない。)


 子供たちにとって、小・中学校の時期は人格の基礎を培う大事な時期であり、二度と繰り返すことの出来ない掛け替えのない時期です。この時期にどのような教師に巡り合い、どのような教育を受けたかは、子供たちのその後の人生に大きな影響を与えます。人心無垢な子供たちの人生を誤らせてはなりません。

(これもよく「右」(←実は冷戦終結後は存在の意味を失っているんだけど)の人たちの言うことだけど、確かに一見もっともらしい。
教師が最低限の資質を備えていない中で教育を受けることになるのは、子どもたちにとって不幸といわざるを得ないだろう。
でもさー……
そういう考え方が度を越すと、人それぞれの持つ多様性を否定することになるんじゃないかなあ。
それぞれの個性をもつ教師(当然、教員資格に見合った最低限の資質は絶対必要だけど;セクハラしない、とか)と、同じくさまざまな個性を持つ子どもたちが、たまたま一つの教室で出会う。
それから1年(なりもっと長い期間)同じ教育空間を共有する、ということを、「こんな教師じゃダメだ」と否定的に見るのではなく肯定的に見守っていくことこそ、子どもたちにとって最善の教育の場を提供することになるのではないか。
陳情者にはそのことがわかっていないのではないかと思うと、心寒い気がしてつらい。)


 このことを念じ、愛する国立の子供たちの健全な成長を願って、次の事項を陳情いたします。



陳情項目

国立市立小・中学校におけるジェンダーフリー教育を取り止め、男女混合名簿を廃止すること。

(注:この陳情は不採択になりました。)


---------------------------------

説明が必要そうな「注釈」もかなり書き込んでしまったけれど、わたしは自分のジェンダー感覚が現在の現実の社会から逸脱しているとは思わない。
むしろ、こんな陳情書が今年になってもまだ出てくる、ということのほうに、20世紀前半の亡霊に出くわしたような気味悪さを感じないではいられない。
反動」そのものだと思う。

最後に。
わたしがこんなふうに「国立」に過剰ともいえる反応を示しているのには、それなりにちゃんと理由がある。

東京にいた頃(ってもう十数年前のことだけど)に、わたし自身が国立の政治に、ほんのわずかに「端っこ」と言ってもいい程度だけれど、関わったことがあるから。
そのときに会津が見聞きした経験から思ったのは、国立市の政治がかなり良心的な方向を目指そうとしている、ということ。
中央からの攻撃で、それが何かと邪魔されることが多い、ということ。

東京都国立市で、真の意味で市民にとって最善の政治を目指す人々に、(勝手で余計なお世話だけど)心からエールを送りたい。

(「教育」にこだわるのは、「塾」だけど本格的に「教育機関」と言っても過言ではないようなしっかりした職場に勤めさせてもらった経験がある、ということが理由だけど、そのことともあいまって、わたしは殊更にアツくなってしまうんでしょう)

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★2・こんなことやってると

↑みたいなことやってると、そのうちどっかのたちの悪い人たちにからまれてしまうかも。

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2003年09月24日(水) 音楽三昧

★1・音楽三昧(相変わらず)
★2・音楽三昧(info)



★1・音楽三昧(相変わらず)

「Woody Cloud」で「練(neri)」を聴き、「EXPERIENCE」で「ウィスキー山崎」を聴き。
もう、言い尽くせないほど勉強になっている。

わたしは「力まないヴォーカル」を目指したい。
ジャズのスタンダードが歌えるほどに。 ……だといいなあ。

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★2・音楽三昧(info)

Corrs "Unplugged"

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2003年09月23日(火) 「人のために生きる」ということ

(疲れています>たぶんしょうもないこと書いてしまうと思う)

よく「家族のためにトランスを諦めて」という人がいる。
わたしも「家族のために音楽活動を捨てて」という時期があったから、その気持ちはわかる。

けれど……

それは良くないことだと思う。
「ために」といってせいにされる家族がかわいそうだし、本人も家族も幸せにはなれないだろう。
「家族が好きだからトランスよりも家族を選ぶのが幸せ」というのならわかる。ていうか、そうであってほしい。

でもね。
わたしも「家族が好きだから音楽より家族を選ぶのが幸せ」と思おうとした。
でも、それだけはしてはいけないことだった。
「家族が好きだから自分でないほうが幸せ」というのは、あまりにも悲しい勘違いだった。

わたしは、基本的に音楽以外のこと(労働とか)はできるだけしないで生きていこうと思っている。
たとえそれでお金が稼げなくて、人のお世話にならないと生活できないということであっても、その生き方をもう二度と変えたいとは思わない。

「家族のため」といって自分を圧殺していた日々。
わたしは自分に対して恐ろしいことをしていた。
その後で、どれほど自分が歪み、狂ってしまうか、本当にそうなってしまうまではわからなかったのだ。
それはわたしが愚かだったから仕方ない。

でも、もうわかっているのに、同じ過ちをわざわざ繰り返しに行くことは、できない。
恐ろしさに身が竦んでしまうのだ。

-----------------------

日本人には、どことなく「自分のためではなく人のために生きるのが美しいこと」というような価値観があるようだ。
(今でもあるみたい? げろ)

でも、それは異常だと思う。

自分をなくした人間が、人のために生きることなどできるはずがないのだ。
わたしは一見「自分のことを無にして他人のためにだけ尽くして生きた」かのような美談を聞くたびに、そのお話の主人公の「自己満足」を見つけずにはいられない。
そうして、それが「美談」であればあるほど、その主人公は「自分を無にして」なんかいなくて、実はまことに「自分らしく」「自分であることをまっとうして」生きていた、ということに気付かされるのだ。

人のために良かれと思って何かをしようとする人は、必ずそれが自分にとってどんな利益があるのか、ちゃんと考えてからにしてほしい。
それができない人は、余計な恩の押し売りで、自他共に不幸に陥れるだけだと思う。

わたし自身が他人に対してそうしてしまったことがあるし、そうされたこともあるから、あえてしつこく言う。

繰り返す。
自分を大切にできない人間は、決して他人を幸せにすることなんかできない。

だから、わたしは自分のために生きる。

人を音楽で喜ばせたいのも、それで自分が満足できるからだ。
わたしがこの世で生きていていい、と思える確証が得られるからだ。
わたしは、自分が納得できる音を人に送って、喜んでもらって、そうして満足する。
できるだけ、そのようにだけ、生きたい。

バイトするのも、そのお店の仕事に楽しいことや自分にとって価値のあることや知ると役に立ったり面白かったりすることがあるからだ。
それがない仕事なんて、他にやれる仕事が一つもなくても、やらない。
あ、やる。それで収入を得なければ、自分が生きていけないのなら。

今は、まともな収入を得なくても、たまたま生きていける状態にいる。
だから、バイトを増やすヒマがあったら音楽やる。
きっと、まともな収入を得ないと生きていけなくなったら、「自分が生きるために」それなりに働くようになるのだろう。
でも、好きな仕事しかやらない。いや、できない。
(以前は、実は嫌いな仕事でも「この仕事が好きなはず」と自分に思い込ませて続けようとしたことがあった。でも、「カネはキライ」とか言ってるやつに、できるだけ他人から多くの金をもぎ取るような仕事ができるわけないじゃんねー)

生きるために働く。自分であるために音楽する
(本当は「生きるために、自分であるために音楽する=働く」でありたい。
けれど、それはなぜか日本では冷遇されているらしい……
なんでこの国は未だにこんなに貧困なんだろう……)
それがわたしの、たぶん生きていく上でのボーダーラインを決める基準だろう。
それが満たされない(満たされる見込みもない)のなら、わたしは生きるのを止めよう。

……いや、それでも生きていくだろう。死ぬ勇気はないから。死ぬのは怖いから。
ホームレスだろうとなんだろうと、生きてはいくだろう。
自分のやりたいことだけをやって……

2003年09月22日(月) 静岡の音楽シーン

@ライブハウス"GAJAH"にて

今年に入ってから音楽活動を再開したけれど、わたしはその規模についてどうやら勘違いしていたらしい。

昨日"HEAVEN"で昔の知り合いで音楽活動を(わたしみたいにくじけたりせず)続けている阿部ヒロユキさん(しまった漢字がわからない)のライブを聴きに行ったら、そこには"MISATO & SHIN"と"neri"の二組(計4人)がいて、阿部くんも含めてみんな「音楽にかけている」っていうか、何かこう迫力を感じてしまったのでした……

で、わたしはすごい遠回りしてしまったけれど、本当は「同じ世界に生きる人」なのかもしれない、そんな気がして仕方ないのでした……

2003年09月19日(金) Mild Live #5:またまた大盛況!

いやー、自分でもびつくり。(「つ」を大文字のままで書いてしまうほど)
DJブースがあるので席が3〜5は減ってしまっているけれど、ギリギリ立ち見が一人出るほどの満席。
たぶん、40名弱は来てくれた。
チップインも6700円ちょっとだった。

金曜日だった、ということもあるけれど、それにしても嬉しい。
内容的にも、やっぱりわたしは「ベーシストとして歌う」のが正解なんだ、と思えた。
うひゃー、ということは。
ふだんギターだけで弾いて歌ってる曲、ベースで歌えるようにしないといけないのか?
そ、それは……

まだ今年いっぱいはスタイルを固めないこと。
↑実はこれ、自分に言い聞かせているのでした。
来年になったら、きっちりまとまりのある自分の個性で勝負する。
だから、今はまだ「歌いたい歌を歌う」ことを優先して、どういう形態で歌うかまでは縛らないことにしよう。

とはいえ。
今回あんなに楽しかった理由の一つは、明らかに「10年前にやっていたことをもう一度」だったからで、それだけに甘んじないで新しいことに取り組んでいくパワーを持ちつづけるためにも、あれに満足してしまいたくはない。

ま、理屈はともかく。
楽しかったーーーーーーーーーーーー!!
〜♪〜 〜♪〜 〜♪〜 〜♪〜 

次回は10月29日(水)・「邦楽特集」(EXPERIENCEなのに邦楽やってもいいのか??) 。
「'70s中心に」なんてチラシには書いちゃったけど、歌いたい歌の大半はむしろ「'80s」なのでした。
だいじょうぶかなぁ?
これから1ヵ月半(というほどはないけど)、精一杯準備しよーっと!

119ライブ」もよろしく
(こっちのほうはいろんな人たちにサポートしてもらって、より広いかたちのライブにしようと思っています)

2003年09月17日(水) 鬱がやってくる瞬間

今、鬱が来た。
何の理由も思い当たらない。
強いて言えば、バイトを休んだことか。
……
えと。
……
違う。
せっかくバイト休んでやっておきたいことがあったのに、事実上から振りになってしまったからだ。

そうか。
「鬱」というより
「悔しい」と思うべきなんだな。

小柄な男が、身に染み着いたらしいせこそうな態度でしゃべっている。
相手はどうやら、役人らしい。

はっ。(←鼻で笑う様子)
あれが「頭の悪い箱モノ行政」の原動力か。
人のよさそうな役人が、ペースに巻き込まれて大局を見失っていく。
もちろん小柄な男は必死なのだ。
「親方日の丸」という、彼が理解できる精一杯の理論に従って。
いくら「土建屋ヤクザ体質」と言われたって、すぐに変えられることではない。

2003年09月14日(日) 悪夢

おはようございます。

恐ろしい夢を見て、目が覚めました。
なんであんな夢、見たんだろう。

具体的な状況は、目が覚めてほんのちょっとたつ間に、頭の中からどんどん抜け落ちてわからなくなっていきます。

でも、覚えていること。それは、こんな内容でした。

わたしは「相手」(男性?)を無実の罪に陥れて、ものすごく惨たらしい死に方をさせてしまう。
相手は最後まで「自分は無実だ」と叫ぼうとしつづけるが、さるぐつわをかまされていて全く自分の主張ができない。
ところが、呪いか何かで(よく覚えていない)わたしは少しずつ自分の罪を思い出し……または暴露され……、じわりじわりと相手の味わった苦痛を思い起こさせられていくのだ。

神さま。
聖書もろくに読んでいないくせにお祈りするのは許されないのでしょうか。
どうかお願いです、わたしの罪を許してください。
わたしは誰を陥れたのでしょうか。
……ああ、あの人ですね。
わたしはあの人を無実の罪に陥れ、わたしに対して何の反駁もできないようにしてしまったのですね。
神さま。わたしは恐ろしいです。
あなたのお裁きを待ちます。
でもどうか、あなたの深いお慈悲の心でお許しくださることを、心からお祈りいたします。
わたしがもしも間違った神に祈ろうとしているのでしたら、どうかそのままお裁きを下されますよう。
……(名によって祈ることができません)

[5:20 03/09/14]



とか言いながら、「GIDしずおか」のHPを更新してしまった。
http://www.jackies.jp/gidszk/index.html
途中からでも、学習会はぜひオススメ! 興味のある方はぜひどうぞ!

2003年09月11日(木) 「911」に寄せて

★1・「911」「中秋の名月」「火星大接近」……
★2・月と火星
★3・信仰
★4・「119」



★1・「911」「中秋の名月」「火星大接近」……

なんか、いろんなことがいっぺんにあって、何を書いたらいいのかわからない。

「911」は、わたしも含めて割合多くの人たちの中で「風化」してしまったようにも思える。
少なくともわたしは「911」には、人から言われるまで気がつかなかった。

あ。違う。
わたしは「911」からは決してパニックをもらったりしないのだった。
冷静に「911」と向き合うことができるのだ。

「阪神大震災」とか「地下鉄サリン事件」「バスジャック」「池田小事件」などでは、思いっきり自分から頭を事件の中に突っ込んで、誰にも頼まれてもいないし当事者でもないのに、きっちりパニックやっていた。

「911」は、確かにとんでもないテロで、許すべきことではないと思う。
けれど、わたしにはどうしても「自業自得」と思えてしまったし、「一度くらい自分で痛みを味あわなければ懲りないんじゃないか」という気もしていた。

そうして、「テロ組織壊滅」のために、なぜか特定の国家を対象にして、その国から何らの攻撃を受けたわけでもなかったのに一方的に惨たらしい侵略戦争を仕掛けたブッシュと合衆国政府に、完全に幻滅してしまったのだった。
それまでは「アメリカ主導の世界平和もアリかな?」と思っていたけれど、そんなのは見通しの甘い幻想だったと気付かされたのだった。

自分が痛みを感じたときにどう反応するか、あの国は、いや、あの国「も」、こんなにもろいのか。
これじゃあ、世界平和のリーダーシップなんてとれるわけないや。

ということで、わたしはアメリカを「見限った」のだった。

今でもアメリカの侵略について肯定的な見方をしている人は多いと思うけれど、わたしは世界平和のために、ためらわずに言明する。

アメリカは明らかな侵略戦争を起こしたし、その意味では彼らがよく言う「テロ国家」「悪の枢軸」とはアメリカ自身のことだ。
何らかの言い訳をつけてアメリカの犯罪を許してはいけない。

それから……
これも、できれば目を覆って見なかったことにしたいような惨たらしい事実だが、アメリカは自分が加害者である戦争について、被害者に対して一切「戦後補償」をしたことがないのだった。
ベトナム、中南米諸国、アフガニスタン、そうして今度のイラク……
(わたしが知らないだけで、まだまだありそうだ。たいていCIAが暗躍して、戦争の相手国に都合よく「悪役」を仕立て上げ、「だからアメリカは悪くない」ということにしてしまうのだ)
アメリカの繁栄は、無責任の上に成り立っているだけだったのだ。

責任逃れのいちばん最初は、日本に投下した原爆だろう。
「戦争を早く終結させてアメリカの犠牲者を最小限に抑えるため」という口実は、今わざと「アメリカの」という一言を加えただけで、どれほど利己的で無責任な考え方か、一目瞭然だろう。
この口実のために、日本人はアメリカを適切に憎むことすらできなくなってしまった。
「共依存」(←この言葉はもう古いし不適切だと批判されているが)の日本は、アメリカのこの「悪い癖」を助長することに一役買うようになってしまった。
「わたしが味方すればこの人はもう原爆を落としたりしないだろう」=日米安全保障条約 (ああこれってDV構造だったのか)

下を向いて頭を振ってしまいたいような、耐えがたい事実だ。

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★2・月と火星

「中秋の名月」は、けっこう厚い雲の間から、半ば強引に見えていた。

けれど、大接近している火星は、雲の間のどこから見えるかすらもわからなかった。

物理的に小さなできごとは、大きなできごとの陰に隠れてしまうものだ。

だからわたしは、1日に1回しかニュースを見ないことにしている。
大きなニュースを何度も見ることで、小さな、けれども大切なニュースがわたしの感覚の中で埋もれてしまう、そういうことがないように。

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★3・信仰

日曜日にある教会に行った。
そこで、今でもどうしても納得できない一言をもらってしまった。

「あなた(=里花)は聖書の言葉が間違っている、神様が間違いをする、と言っているのだ」

これはどういうことかというと、聖書=神さまの言葉には「神さまは男を男に作り、女を女に作った」とあって、「生まれた時は男だったのに後から女になった」というのは「神さまが間違ったからだ」ということになる、という主張だ。

うまく言えないけれど、正直なところ、これにはびっくりした。

わたしは、神さまが間違いをなさるなんて思ってもいないし、聖書の言葉が間違っているとも思わない。

まだわたしの心が曇っていて、神さまの言葉がよくわかっていないだけだ。

わたしがこのように生まれ、このように育ってこのような「変化」を受けたのは、神さまの正しさを証しするためであって、決して神さまの間違いだとか聖書の間違いだとかを言い立てるためではない。
もしもそうでないのなら、わたしは今までにもう死んで消滅し、この世に存在してはいないだろう。

ただし。
聖書の言葉には何の解釈も差し挟んではいけない、言葉どおりに読むべきだ、という主張にはいささか違和感を覚えるが。
神さまの言葉だけど、受け取るのはもののよくわかっていない人間だ。
間違って読むことだって、いくらでもあるだろう。
っていうか、そういうことがなかったら、聖書さえちゃんと読めれば戦争なんて決して起きはしないだろうに。
今でもクリスチャンどうしが戦争しているケースはいっぱいある。

わたしは、日本語の聖書にまだまだ間違った訳があるのと同じくらい、英語の聖書の言い回しも信用することはできない。
もしも「英語なら正しいが日本語は間違っている」というのなら、それはイエスキリストの思いを裏切ることになると思う。
同じ理屈で「ギリシア語(またはヘブライ語)なら正しいが英語は間違っている」といわれるだけだろう。
そもそも、聖書そのものが書かれている原語そのものが多様だ。
この議論はきりがないのだ。

イエスキリストはおっしゃった。「異邦人こそが救われる」と。

ミルトン・ダイアモンド博士(ハワイ大学)の言葉を思い出す。(もしかしたらこれも聖書の引用?)

自然は多様性を愛する

「自然」を「神さま」に置き換えても、そのとおりなのではないか。
っていうか、聖書のどこかにそのように書いてあるのではないか。
(知ってる人いたら教えて!)

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★4・「119」

いや、その、わざとじゃないんですが。

たまたま、静岡市にある喫茶店「やまぼうし」(地図とかすぐに用意できてないけど)に遊びに行って、そこでライブをやらせてもらう話をしたのだった。

で、それじゃあこの日がいいかしら、ということになったのが「11月9日(日)」。
時間は「午後7時〜9時」。
「土日の早い時間帯だったらライブに行けるのに」という人が案外多い、というのも、こういうライブをやろうと思った大きな理由。

で。

そのときは気がつかなかったけど、よく見たら

「119」⇔「911」の逆さ

じゃん!

わたしは、テロや戦争ではなく平和のために、「11.9」にライブをやろうと思う。
まだぜんぜん企画も立っていないけれど、このことに気付いてから「ゼッタイやろう!」と意気込んでしまった。

皆さん、よろしくね!
(たぶん「料金は喫茶のオーダー一律500円のみ+チップイン」ということになると思います♪)

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2003年09月07日(日)

ソーカ、キョウハ9ガツ7ニチダッタノカ。
ソーカ、ソーカ。

2003年09月05日(金) Live! Live! Live! (←頭いっぱい)

会津里花の告知板に、次回のライブ予定を追加しました。
もうこのところぜんぜん使ってなかったので、見ている人は少ないと思いますが、時たま更新しますのでチェックよろしく!

あとそれから、
ライブ用チラシの画像もUPしました!
(ちょっと重たいかも?約153KB)

★1・食べられない



★1・食べられない

どーしましょ。
体に力が入らない。
ものを食べる気になれない。

DVと音楽のこと(それぞれはぜんぜん別のもの)を考えると、食べられない。
(そういえば原案帳#22にもそんなこと書いたっけ)

音楽をやっている自分を思う。
そうすると、かつてDVをやってしまったことのある人間と同一人物だなんて、とても信じられない。

DVは犯罪だ。
↑何度だって繰り返してやる。物理的暴力も、心理的暴力(それはよく「支配」と呼ばれる)も。
けれど、DVを引き起こす人間の人格を全て否定し、圧殺するような言動には、断固として立ち向かわなくてはならない。
「理由があるんだから暴力ふるってしまったことも許せ」みたいな、幼稚なことが言いたいんじゃない。
DV加害者の全人格を否定してしまったら、それこそDVの再犯が防げないだろう、ということだ。

それとも、DV犯はとりあえず全員死刑にする、とか?
そんなことしても、人類が最後の2人になってもDVはなくならないだろう。

ああそうか、わたしが死刑に反対する大きな理由はそれだったんだ。
死刑によって犯罪が抑止されるというのは大嘘で、むしろ死刑に値するような犯罪の再生産に加担していると思う。
上にも書いたように、人類が最後の2人になっても、死刑という制度が存在する限り死刑に値する犯罪はなくならないだろう。
そんなことするよりも、死刑に値する犯罪を死刑以外の方法で抑止することをこそ、考えるべきではないのか。
こないだ地元の新聞に「被害者の家族の気持ちを考えたら死刑は当然」というような読者投稿が載っていたそうだが=わたしは相変わらず地元紙は読まない。あれの思い出にもトラウマがあるから。だからこれは記事の転載を見たのだけど=、たぶん投稿者は被害者の家族の気持ちなんて理解できてはいないだろうし、想像力もはたらいてはいないに違いない(投稿記事の文面を見るとそんな雰囲気がぷんぷん漂っていた)。
一般論だけで「正義」を振り回す人間を見ていると、自分が「清く正しく美しい」ことをすることで、実はどれだけの人間を苦しめているかなどということは、全くわからないのだろう、と哀れになる。

うわぁ……
わたし、けっこう具合悪いじゃん。
音楽やってるときだけは調子いいのに。

楽器を抱えたままで寝転んでしまうとか。
町を歩いてみるとか。
(買い物するとか……は、ダメ。ストレスたまるだけ)
整体に行ってみるとか。(これもお金かかるなあ)

お金、ほしい。
100万かかった体を使えばそれに見合った収入があるかもしれない、とは思うけど、それはやりたくない……
(セックスワークを否定しようとは思わないけれど、少なくとも自分がそういう仕事をしながら頭を高く上げていられる自信はない)

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2003年09月04日(木) 9/19ライブの練習

9月19日のライブの練習を、4時間くらいみっちりやった。
その前にバイトで3時間半くらい働いていたので、ちょうど8時間近く「活動」していたことになる。
いいぞいいぞ、自分。ある程度長時間働いてもコケないようになってきた。

それにしても、練習、楽しかった〜。

今度のライブは「ビートルズ特集」! お楽しみに!!

2003年09月02日(火) 「罪を憎んで人を憎まず」

★1・罪を憎んで人を憎まず



★1・罪を憎んで人を憎まず

DV加害者の掲示板入り口
http://www.jackies.jp/dvbtr/index.html
に、こんなことを書き足した。


以下引用---------------------------------

最後に。(管理人より問題提起)

罪を憎んで人を憎まず
暴力加害は間違いなく「加害」です。
それに何かの理屈をつけて言い訳することは、一切許されません。
しかし、だからといって加害者の全人格を否定してしまうことが、「加害者ではない」「被害者だ」という立場の人たちに許されるのでしょうか。
確かに、自分自身に対して許されざる加害をした人に対して「死ねばいい」とか「一生苦しめ」とか強い憎しみを持つのは無理もないことだと思います。
でも、それを「加害者」と呼ばれる人たち全てに当てはめて憎んでしまってもいいのでしょうか……?
このことは、いろんな意味合いで掲示板上で議論するのに相応しいことがらだと思います。
多くの方がご意見をくださるのを心待ちにしています。
わたし(管理人)自身の苦しみに答えを見出せるためにも、お願いいたします。


---------------------------------以上引用


思うに、加害者の加害そのものは、どんな事情があろうと厳しく断罪・処罰されなくてはならないと思う。
けれども、それにつられて加害者の全人格や存在そのものまで否定することは許されるのか。

わたしは、それが許されているのは、直接加害者から暴力などの被害を被った、被害者本人だけなのではないかと思う。
被害者が、自分の体や心や財産などを滅茶苦茶に破壊した相手に対して
「今すぐ死んでほしい」
「いや、安易に死んだりせず、長生きして生きている間中、自分が味わったのと同じ苦しみを味わいつづければいい」
などと思うのは、至極当然だと思う。
わたしも、自分への加害者に対しては、それに近い気持ちを抱くこともあるから。
(やっとそこまで回復してきた)

もちろん、憎むことが許されているからといって、被害者が自力で加害者に対して報復するのはどうかと思うけど……
(今度は被害者だったはずの人が加害者になってしまうかもしれない。それじゃ加害者の暴力は「連鎖」してしまったことになる)

その被害者が、自分に対する加害者ではない他の人への加害者に対して
「おまえは自分に対する加害者と同じ種類の人間だ。おまえもわたしに対する加害者と同じように死ね、あるいは一生苦しめ」
とまで言うことは許されるのだろうか。

加害は加害。
それは決して許されないこと。
でも、加害そのものを加害者の人格全般に結び付けてしまうのは、もしかしたら加害者に対して「甘い判断」をもたらす危険性を含むのではないか。
加害者に良い面があったら、それに引きずられて加害そのものまでが、まるで「悪くなかった」ということになってしまうかもしれない。
これは、被害者にとっても救いから遠ざけられることだと思う。

「変えられないものと変えられるものを区別する知恵を」
というセレニティ・プレア(平安の祈り)にならって、
「加害は加害。他にどんな良いことをしている人だとしても、加害は断罪すべき。
けれども、全ての加害者の全ての人格を加害と結びつけるのは危険。
この二つを区別すること」
ということを、被害者も、また加害者も認識する必要があるように思う。

「加害によって自分の全人格を否定されている」と感じている加害者は、きっと再犯する可能性が高いと思う。
「誰も味方がいない、みんな敵だ」と思っていれば、「敵」に対して攻撃的になるのは当然だと思う。
もちろん、他人を敵に回してしまうのが、実は自分の他人に対する姿勢に問題がある、ということに一刻も早く気付くべきだと思うけど。
そうしないと、その人はいたずらに身を滅ぼしてしまうだろう。
そうして、それは確かにその人の「人格の問題」だと思うけれど、それでもなお、その人の全てが否定されてもいいとは思わない。

良いことかどうかわからないけれど、わたしはわたしに対する直接の加害者(たち)に対して、死んでほしいなどと強い憎しみを抱くことはない。
もしかしたら、この「甘さ」のせいで、後になってから自分が加害者に転化してしまったのかもしれない。

他にも、わたしには人格の面でさまざまな問題がある、とも思う。
でも、わたしはそれでも、自分の存在や人格の全てを否定したいとは思わないし、否定されたくもない。
「おまえは加害者なんだから、今すぐ死ね」と言われても、死ねない。

わたしは、わたしが回復できるに違いない、ということを信じようと思う。

↓このことについて思うところのある人は、入り口から掲示板に入り、ぜひ何か書き込んでください
DV加害者の掲示板入り口http://www.jackies.jp/dvbtr/index.html

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2003年09月01日(月) いえその、

土曜日から日曜日にかけてはいろんなことがあって。


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