原案帳#20(since 1973-) by会津里花
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2000年09月30日(土)

★09.30-1・創作の話題
★09.30-2・断ち切ること



★09.30-1・創作の話題

at 2000 09/30 14:42 編集

(少年少女文庫の掲示板「クリエーターズ・フロア」への書き込み;なんか、内容がよくなってしまったので転載します(^^;)
(最初のほうは、他の人へのレスになっているのでカット。ここに書くのに適した部分だけ)

--------------------(以下本文)

さて、私も(大人になってからはたった数本しか書いてないけれど)自分なりの意見を書きましょう。

・18禁
この「文庫」でも、実を言うと「性描写」のようなことを100%締め出してしまっているわけではなくて、一定の範囲で「おっけー」というか「ストライク・ゾーン」があるんですよね。
(だからカナメさんも悩むのでしょうけれど)
あくまで私なりの見方ですが、「性描写」であっても、なんか20年以上前の医学書とか、流通できない裏本とか、動物の生態学のような書き方とか、うーん、うまくまとめられないけれど
「えぐい」
のはダメ、というか、今の私の感覚だと「イヤ」ですね。
あと、作品の主題を損なうほどの書き込み方をした場合。
作者がそっちに気を取られてどないするねん。
私自身、ある作品で、不必要にそういう要素を入れてしまって、自分ではそのときは「そこそこ」だと思っていましたが、ある人から
「ぜんぜん萌えん」
と言われて、それで読み返してみたら、顔から火が出るほど恥ずかしかった、という経験があります。
だって、余計な性描写のせいで「ハズしてる」んだもん。

あー、やだやだ、あんなの思い出すのはー。
「なんでもないと思っていることでも、ふと気がついてしまうと恥ずかしさの『スイッチが入ってしまう』」という現象、ありません?>みなさま

・名前
これ、私の場合をどう書けばいいのだろう。
小学校の頃に「漫画」(って言っても、ノートにボールペンで書くだけの稚拙なの;人間の「手」もロクに書けず、「ドラえもんの手」になってた)を書きまくっていたんだけれど、そこで「キャラクター遊び」みたいなことをして、けっきょくお話には出て来もしないキャラをたくさん作り出して喜んでいたことがありました。
それは、中学校で「人には言えないお話」を書くようになってからもしばらく続きました。
で、「キャラ遊び」では「意味のある名前」も一つの楽しみだったのですが、……
飽きちゃったんですね。

で。
けっきょく、今ではこんな感じ。
本名。(アブナいなあ) 実際には「アナグラム」をよく使います。
記号。「U」とか「K」とか(←カフカに教わった)、「L」なんていうのも(←倉橋由美子から)。
それに漢字を当てはめるの。

ただ、キャラを作っていて今でも「超えられない限界」を感じるのが、

けっきょく自分以外は出てこないじゃないか。

ということ。
私の中には、男として振舞っている自分もいるし、女として考えたり感じたりしている自分もいる。
「自分と自分」の人間関係で、お話が成り立ってしまうのです。
ある意味、こういうのがいちばん「えぐい」のかも。

あ〜あ、早く「私以外」の人がキャラになってくれないかなっ。
私は、それではじめてこの世の中に出て行ける。

ごめん、なんか思いっきりメンタルなお話になっちゃったね。

--------------------(以上本文)

文中に出てくる、小学校の頃の漫画とか中学校の頃の「人には言えないお話」(そうそう、これ、学校がぜんぶ終わってからも暫く続けていたんだっけ(^^;)、残念ながら今では全て消失してしまっています。

そうそう、「記号」の名前って、「人に言えないお話」の中で、「ちゃんと人格を持つようになった」数少ないキャラの名前でもあります。
彼らは「サヴァイヴァー」なのです。

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★09.30-2・断ち切ること

at 2000 09/30 14:21 編集

どうしても逃れられないことがらを、思い切って「断ち切ってしまう」こと。
ときには、それによって初めて成長できる、ということがあるのです。

私は、(前のほうの記事でちらほら示してきましたが)ある人間関係を断ち切りました。
そうしたら、それ以外の人間関係が、なんだか「立ち上ってくる」ような感じで生き生きしてきたのです。

その人には悪いけれど、その人自身が解決するしかないこと。

やっぱりその人に悪いけれど、私のことをその人に押し付けないこと。

「癒着」?「共依存」?

私にはもう、その人にとって「こうしたほうがよかったのだ」と言うことさえできない。
心のどこかが痛むけれど、この痛みをごまかしてはいけない。

断ち切ったおかげで、断ち切らずに生き生きしてきた人間関係が、いくつもあるんです。

母をhugすることさえ、できたのです。

感謝。

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2000年09月28日(木)


★09.28-1・「命の夢」を見た

at 2000 09/28 12:44 編集

……と思う。

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2000年09月26日(火)

★09.26-1・「デビルマンレディー」(1)
★09.26-2・「デビルマンレディー」(2)



★09.26-1・「デビルマンレディー」(1)

at 2000 09/27 05:59 編集

破滅的な「2元論による命の夢」。

んー、読んだばかりなのが一つ、実は元々永井豪の絵柄があまり好きではないのがもう一つ。
で、うまく言えないけれど。

「永井豪の絵柄が好きでない」理由:
なんか、男女ともバンバンに発達してしまっている肉体を描くのが好き、というか得意のようだけれど、私にとっては基本的にそういうの、気持ち悪い感じしか持てないのよねー(^^;
で、たぶんそのせいで、しばしば「デッサンが歪んでいる」ように見えてしまうのでした…… 
そういうわけで、私の永井作品に対する批評は、どうしても良くない評価になりがち;好き嫌いでものを言ってるんだよね、実は(^^;

ただ、それにも拘らず17巻をほぼ1日で読みきってしまったのは、設定の中で「デビルビースト」という、人間が突然悪魔or怪物のような姿になってしまう現象&姿のことを「ミトコンドリアによる突然変異>『進化』だ!」としてしまっていたから。

あーん、読みながら、いろいろと感じたのに……。
思ったよりも深い世界設定ができている、と思いつつ(私は永井豪の世界観には「浅い」という偏見を持っているんですよ(^^;)、それがどことなく「マージナル」における萩尾望都の世界観と通じるところがある、でもそれって結局「男の側」からの描き方で、なんだか「再生」へは向かわずに「破滅」に向かっているような気がして仕方ない、……と考えたりしていたのでした。

でも、やっぱり「パラサイト・イヴ」の強い影響があるのは見逃せないなあ。
人から影響受けると、いつもそれをひねったりせずにそのまま出しちゃうんだもん。
ダンテの「神曲」も「そのまま」だし。
あと、岩明均「寄生獣」とか。

まあ、もしかしたら、永井先生には先生の「大きさ」や「深み」があって、私がそれを理解できないだけなのかもしれない。
「そのまま使う」のはあくまでピースとしてであって、そういうものの「組み合わせ」の中に「大きさ」があるのかもしれない。
けれど、残念ながら、私にはその感性がよくわからないのでした。
これは「キライ」とか言うよりも本当に「わからない」ので、ちょっと寂しかったり悔しかったりもします。
だって、置いてけぼりにされてるような気もするもん。

文句言うなら「感想」なんか書くなーー!!>自分

あっ、だから、興味があったらぜひお読みくださいね。>みなさま
文句言ってはいるけれど、面白かったから読みきれたんだよ!!

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★09.26-2・「デビルマンレディー」(2)

at 2000 09/27 06:38 編集

(一度書き込んだのに、「強制終了」に遭って消えてしまった。もーめんどくさいから、てきとーに書くわっ)

・「2元論」
萩尾望都「マージナル」との比較。
なんで比べるのかというと、どちらも「極限状況」を描くことで、人間の本性を純化して表そうとしている、と見られるから。
作者が二人とも「O型」で、「生命への執着」は他の血液型と比べて強く、ストレートに表現しやすい傾向がある(みたいだ)から。
どちらも「ジェンダーの越境」を取り扱っているから。

ただ、扱い方がぜんぜん違う。
「マージナル」は「生殖」そのものを取り上げている。
「デビレディ」(=「デビルマンレディー」はこのように省略するのだそうだ。以下これで統一;じゃ、「マージナル」は「マジ」かい?)の場合は、「人類の進化のもう一つの可能性」として「暴力」を挙げている。
これだけでは「ジェンダー」には直接関わってこないように思える。

けれど、永井豪の漫画って、しょっちゅう「両性具有」が出てくるし、この人も何とかして「越境」を果たしたい、という思いに駆られているのは、前の記事にも書いた「肉体の強調」ということからも分かるような気がする。
事実、「デビレディ」でも、かなり重要な設定として「両性具有」や「性転換」が現われてくる。
そうして、「性」を介して人間関係のあり方、結びつきのようなものが示されているようだ。

ただ。
「結びつき」=「身体の結合」という単純な図式が「全てを物語っている」かのような描き方になっているような気がして、ううーん……とうなってしまうのです、私は。

一方で「ビースト化」という現象があって、そこでは「怒り」「恨み」などの強い「負の感情」が「進化の原動力」として扱われている。

ああ、やっぱ、ダメだぁー。
私には、永井豪の「性と暴力の体系」が理解できないの。
なんで「性」に「暴力」がくっついているの?

そこのところに焦点が合わないから、私の感想もぼけぼけになっちゃうんだよー。

私はチンパンジーはいやだ。
ボノボがいい。
オランウータンでもいい。
ゴリラもいいけど、やっぱりあまりよくない。

「進化」って、どういうこと?

(この叫びが出れば、永井豪の執筆意図は達せられたのかもしれない(^^; まーいーや、それでっ)


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2000年09月24日(日)

★09.24-1・depression
★09.24-2・萩尾望都「アメリカン・パイ」のこと
★09.24-3・「アロイス」



★09.24-1・depression

at 2000 09/24 13:16 編集

・女であること。実感。
「辛さ」まで、実感。
genderということ。

・「言語」9月号を今ごろ読む。
「語順の文法」……また、私が考えていたこととだいたい同じ。
ちゃんと研究すれば、すぐに見つけられたかもしれない。
ちょっと無駄骨みたい……。
ううん、むしろ自分が考えていることの方向性とかが「正しい」ことの証左。

・身体が疲れれば、気持ちも沈む。
そんなこと、当たり前。
以前の私は、それをもっと抽象的な理由によるものだと思っていた。
そんなこと、考えすぎるなよー。
頭を使えば、頭が疲れる。
だから、気持ちも沈んでいく。
同じこと。

Gute nacht.
Bonne nuit.
(発音しか覚えてないので、綴りが合ってるかどうか心配)
ねいるあっちむ、っと、まんなよ。

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★09.24-2・萩尾望都「アメリカン・パイ」のこと

at 2000 09/24 16:05 編集

萩尾望都作品目録(「お役に立てば嬉しいリンク」参照)の「掲示板>ツリー掲示板」に新規ツリーを立ち上げてしまったけれど、あこさんやゆうのさんの書き込みで、私が自分では「わかんない」と思って諦めていた(でも諦めきれずにもう一度調べ始めていた)ことが、どんどん明らかになっていきました。

私は「リュー」のつもりで生きていたのかもしれません。

すべて消えても 想いだけは残るのだ

このテーゼは、私にとってあまりにも魅力的です。
私自身が「想い」の産物であるように思えてならないから。

あ。
ここで「アメリカン・パイ」から、きっと視点が「マージナル」に移行するんだわ。

「想い」とは?

……命の夢。

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★09.24-3・「アロイス」

at 2000 09/24 19:14 編集

で、今、「萩尾望都作品集」前期第17巻「アメリカン・パイ」のところを読んでいて、ついつい「アロイス」も読み返してしまった。

ああ、やっぱりテーマは「半神」と同じなんだ。
ここでは、自分で自分を裏切っていくことに対する、強い自己否定が前に出ている。
まあ、そんなに簡単に決めちゃったら、一面的すぎるけれど。

ただ、前にも思ったけれど、「アロイス」では「一人の身体」に宿る「二つの魂」がせめぎあう、という設定になっているんだけれど、(作中でもそれらしいこと言っているけれど)「二つの魂」=「二つのキャラ」は、ちゃんと「違う顔」をしていたのだった。

それにしても、上手に描き分けているなあ。
「ルカ」が「アラン」、「アロイス」は「エドガー」みたいな顔だけど、「ポーの一族」ではぜんぜん血のつながりのないキャラだったから、「同じ顔なのに違って見える」ように仕掛けてあるのって、かなり微妙な技のような気がする。

-----------------------------------

私も、一つの身体なのに、今では前とは違う顔。
(さっき、とても久しぶりに会った人がいて、前に会ったときのことを思い出したら、その頃と今とで自分の顔がかなり変わってしまっているだろう、と感じたので;思春期を過ぎてから短期間にこれほど顔が変わる経験をしたことは、少なくともこれまではなかった……「男」だったからね)

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2000年09月23日(土)

★09.23-1・パターン
★09.23-2・手話ニュースでオリンピック



★09.23-1・パターン

at 2000 09/23 06:24 編集

>>
ミラボー橋の下をセーヌは流れ
わたしたちの恋が流れる
わたしは思い出す
悩みのあとには楽しみが来ると

日は暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る

(G.アポリネール「ミラボー橋」より;堀口大學・訳)
>>

楽しみのあとには悩みが来る と
それが私の躁状態。
そういう「どうにもできないこと」のせいにしてはいけない。
けれど、気をつけているつもりで、いつも「全く同じパターン」に嵌ってしまう。
気をつけるやり方を変えるべきなのか。
それとも、「普段と違うこと」を常にチェックするべきか。

悩みのあとには楽しみが来る
楽しみのあとには悩みが また 来る

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★09.23-2・手話ニュースでオリンピック

at 2000 09/23 13:29 編集

手話ニュースでオリンピックを見た。
手話の特徴の一つに
「表情」
がある。
ふつうに口でしゃべるのよりももっと表情を大きく、はっきりとさせるのだ。
何かで読んだのかどうか、どうやら「手話」といっても「手」だけを使って話をするのではなく、身体の「音声以外の全て」を使って発話する、というのが手話の正体のようである。

おかげで、1週間分のオリンピックを僅か15分しか見ていないのに、それなりに感動してしまったわ♪

大修館書店の月刊雑誌「言語」に「手話ネイティヴ」の人の話が出ていたが、実は音声言語よりも手話のほうがずっと情報量が豊かだと思う、と書いていた。
確かに音声言語は時間に沿って情報を並べていくしか情報の表示方法がないが、手話では例えば「いったん置いといて」みたいなことをやれば、提示した情報が「立体的な構成」を持つようになる(ある程度視覚化する)のだ。
その人の言っていたことで印象的だったのは、(そのまま引用ではなく自分なりの言い方に変えてしまうが)手話ネイティヴの人が音声言語を使うと、手話だったら簡単に盛り込める情報をいわば「タテに並べる」ことになるために、とても「もたもたした感じ」になってしまうということだ。

ここから先はほとんど私の言い訳になってしまうけれど、私も含めて何だか「話が長い」「おしゃべり」な印象のある人って、実は「ことば」以外のイメージを抱えていて、それを無理やり「ことば」に変えようとするので、たくさん使わないと(実は「いくら使っても」!)充分に表せないような気がする(というより、たぶんその通りなのだろう(^^;)。
いったん全てをことばに変換してしまうことのできる人というのもいるのだろうけれど、私にはそんなことしようとしても頭の中が平べったくなってしまうだけなのだ。

あら?
なんか違う話になっちゃった。

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2000年09月22日(金)

★09.22-1・就職
★09.22-2・胸
★09.22-3・気分いいっ♪
★09.22-4・「愛を下さい」



★09.22-1・就職

at 2000 09/22 12:09 編集

……といっても、まだ決まったわけではないけれど。
夜から朝まで働くことになりました。
こんどは「男であること」を求められはしないと思います。
念のため、お守りの代わりにくまちゃんをディスプレイの上に置きました。

もっと、女らしく。
ううん、「私らしく」なるために、もっともっと演技を身につける。
「自分らしさ」を表すには、むしろ「演技」が必要なの。
女はそれを躾けられて育つ。
私も、ちょっとスタートは遅いかもしれないけれど、自分を躾けて育っていくの。
(そうそう、たぶん「自己表現には演技が必要」なんて、「男・女」に関係ないんだよね。
ただ、私は「ヘンに拘っている」ので、「女として」でなければ自己表現ができないのよ)

#「自己表現」?
#もうさんざんしているくせに。
#まだ言うか?

#ええ、言うわよ。
#だって、もっともっと分かってもらいたいもん。
#そりゃ、人の心なんか絶対に見えやしない、っていうのも分かっているけれどね。

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★09.22-2・胸

at 2000 09/22 13:19 編集

……は、ロウ・ティーン。

それだけよっ(^^;

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★09.22-3・気分いいっ♪

at 2000 09/22 16:08 編集

シャワーを浴びて♪
フル・メイク♪
キャミソールに、スカート♪

ちゃんとした格好をしたら、なぜか洗濯、掃除、布団干しまですっかりできた。
布団カヴァーだってちゃんと洗った。
あとはアイロンを実家で借りれば……さすがにこれは時間がないや。

それにしても、……気分いいっ♪
私は自分の「男の格好」を「アヤシイ姿」だと思ってたのね。
どうりでいつも、身体が動かせなかったわけだ。
不思議ー(^^;

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★09.22-4・「愛を下さい」

at 2000 09/22 18:52 編集

バイト先の「ゆうせん」でやたらとかかるので、若い子に曲名を教えてもらって……
えっ?
Echoesが歌ってたの?
(頼むから「えちょーず」って言わないで(^^;)
それって、まさか1980年代の前半から中盤ぐらい?
……もしそうだとしたら、聞いたことある、ゼッタイ!
(もしかしたら新しい曲なのかも知れないけれど、ちょうど私が東京へ出た頃に流行っていた曲調なので、どっちにしても……)

♪なつかしーーーーー……!!!!♪♪♪♪♪

うちのゆうせんでリクエストしてかけてもらい、録音して少しベースを合わせてみた。
ベースのパターンは思いっきり「ありがち」なのですぐにできるようになったけれど、

気持ちいい〜〜♪♪♪♪♪〜〜〜

私は、やっぱり自分の音をバンドに寄り添わせるのが好き!

さてと、次はEchoesのZoo(原曲の方)も聞いてみよっと♪

#ところでおまえ、カネないって言ってたくせに「ゆうせん」なんかは入ってるのか?
#それ、贅沢すぎないか?
#……私、食費削っても音楽は削れないもん♪

追記:Echoesの方を聞いてみたら、なんか私のオリジナル曲と似てるかも。
って言っても、20年で10曲ぐらいしかできないんだけど(だからプロになんかなれなかった(^^;)

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2000年09月21日(木)


★09.21-1・距離感のある信頼感

at 2000 09/21 17:39 編集

(IFF掲示板より転載)

---------------------------------------

タイトル:勝手に反応(人はそれを「横レス」と呼ぶ(^^;)
投稿者:じゃっきー(里花) [東海]
投稿日:2000/09/21(木) 17:35


こんにちは。
カンリーヌさん、ちょっとお久しぶりです。
(っていうか、ほぼ毎日来てはいるけれど、あえて自分が必ず書き込みしなくてはいけない、と思わないようになっているので)

>人間関係の距離感が大切なのですよね。そして信頼感が。

なんか、昔は分かっていたような。
「わかっていること」でも、傷ついてしまうことで「使えなくなる」こともあるんですね。

一つのことを失って、別のことに気付く、そういうこともあるんですよね。
今の私には「人間関係の距離」はうまくとれないことが多いです。
(ちょっとは取り戻してきたかもしれないけど)

でも、その代わり、こんなことを学ぶことができたと思います。

「人は、いったん到達した発達段階から後退することだってある」

人間関係の中で貴重な経験をし、そこから大きな教訓が得られても、もう二度と同じ過ちは繰り返すまい、と思っていることを、あんがいやすやすと裏切ってしまう。
でも、それって、決して「まだ真実が分かっていないからだ」とかいう「根性もの」みたいな世界ではなくて、分かっていて、基本的には使えるようになっていることがらでも、傷ついてしまってうまく使えなくなってしまっていることだってあるのだ、と。
ちょうど、字を書けるようになった右手を怪我してしまえば、右手で字が書けなくなるのと同じように。

つい最近のある経験から、私は自分が

「距離感のある信頼感」

を本当は知っていたのだ、と思い出しました。
それは、きっと傷ついたから使えなくなっているのです。
今はまだ、ちゃんと治っていないようなので、うまく力の入らない右手のような状態ですけれど、きっとちゃんとリハビリしていけば、また使えるようになるはずだ、と思いました。

ちょっと、ほっとしています。

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2000年09月20日(水)


★09.20-1・「アメリカン・パイ」と「どろろ」と「11人いる!」……「越境のトリック」?!

at 2000 09/20 08:59 編集

(「萩尾望都作品目録」への投稿より抜粋転載;あこさんのコメントへのレス、というかたちになっているため、あこさんの発言に言及している部分はいちおう除きました。その「続き」として以下の文が現われてきた)

--------------------------------

ところで、「アメリカン・パイ」と手塚治虫の「どろろ」には共通点があります。
(藤本由香里「私の居場所はどこにあるの?」からヒントを得ました)
どちらも、主人公ははじめ「男の子」として登場し、後から「実は女の子」と発覚する、というトリックをもっているのです。
「アメリカン・パイ」ではほとんど「発端」、「どろろ」では後半の「転換点」にあたる部分で出てくる、という違いはありますが、リューもどろろも、それぞれに何らかの事情があって女の子なのにまるで「男の子のように見える/振舞っている」。

小学生の私は「どろろ」を読んで(それも連載で! ちょーリアルタイム)、そのことにとてもショックを受けたのですが、つい最近までそれを忘れていたのです。
でも、どうやらその描き方は私の心の深いところに染み込んでいたらしく、だから私はほぼその頃から「いつか私もどろろみたいに女の子になれる」と思ってしまったようです。
その後、実は「11人いる!」で、フロル・フロルベリチェリによってその考え方は「裏付けられ」、フロルの「よく飽きんなあ」に共感し、とても美しく儚いかたちで「アメリカン・パイ」のリューによって「実証」されたのでした。
中学生〜高校生の私にとって、そこまでしてしっかり「定着」してしまった「性別についての構造」は、もう私の中で「現実の感覚」として実感してしまっているのかもしれません。
それが「越境」の原動力であり、私が「ふつー」とは言えない視点を持ってしまっていると思われる所以です。

ただ、藤本由香里さんにしてもあこさんにしても「命の夢」についてもう「女であること」に拘っていないのに、私が「成長後の姿としての女性」を想定してしまっているあたり、なんだか私って幼いなあ、と思ってしまう……。

--------------------------------

投稿はここまでなのですが、これにもう一つ付け加えたいこと。

手塚治虫に言及するとき、私は自分のジェンダー観に対するこの人の影響はとても大きい、と感じてしまいます。
小学校の低学年の頃に読んだいくつかの作品において、性別を越境する試みがとても大胆に行われていますし、それを読んだ私にとっては、心のとても深いところに沈潜してしまっていたのです。
例えば「どろろ」が作品の後半で「トランス」してしまう(私にはそう見えたの! だって、作品の最初からずっと、どろろはいかにも「男の子だぜっ!」という描き方をされていたから!)ことを、その後何十年か「忘れていて」、単行本を買って読み返してみて初めて「えーっ、そうだったの??」とびっくりした、なんていう場面もあるほど。

私はこういうことのせいで、例えば手塚治虫(やその他の作家たち)の描いている「越境もの」が、今後の子どもたちに対して「禁断の書」扱いされてしまうことを危惧します。

いわゆる「18禁」が「未成年者に対して有害な影響を与える」という発想で成り立っているのだとすれば、私に起きていることはまさに「有害な影響」に外ならないと思うのです。
でも、私はそういう発想そのものを、むしろ「危険」だと思います。
それは、私が「年なし、性別なし」やここ「原案帳」で何度も繰り返しているように、「隠されてしまったせいで真実を知りえず苦しむ」ことを助長するだけ、と感じられるからです。
極端なことを言えば、SMとかヘンタイプレイみたいな露骨な性表現を含むものも、然るべき指導がされうる状態であれば子どもに見せても良いのではないか、とさえも思うのです。
(でも、実際に「プレイしているところ」を子どもに見せるのは、ちょっと気持ち悪くてイヤだなあ……)

あ、違った。
「露骨な性表現」と、私が影響を受けた「越境の表現」は、全く別のもの、と考えるべきでしょうね。
きっと、私の中に「越境の表現」のほうにより強い影響を受けるような何かが、内在していたのでしょう。
それをいっしょくたにして「隠すべきではない」と言ってしまうのは、ちょっと乱暴すぎました。
また極端な言い方をすれば、私と同世代で手塚を連載から読んだ人がみんな「越境の表現」に強い影響を受けてトランスしようとしてしまっているのか、ということになっちゃいますよね。(^^;

--------------------(ここから文意が少しずれるので、いったん仕切りますね(^^;)

私は早く大人になりたいです。
女として。
「男としての私」がなんだかひどく幼稚っぽいところが多い、ということの言い訳をする気はありませんが、それならこの先「大人の男」になれるか、と言われたら、これはちょっと無理だと思います。
だって、「大人の男」には絶望しているから。
私の近くにいる「大人の男」たちは、みんな仕事についてはとても素晴らしい、尊敬に値するものを持っているけれど、「人として」見たら、あまりにも貧困な人が多すぎる。
少なくとも、人として私が「ああいうふうになりたい」と思えるようなものを持っている人がいないのです。
けれど、女としてなら成長できるような気がするのです。
豊かになったり年老いたりすることが「あんなふうになれればいい」と思える人は、悉く女性なのです。
それは都合の良い幻想なのでしょうか。
でも、たとえ幻想でも、捨ててしまったら私の未来は再び暗黒の絶望に塗りつぶされてしまうでしょう。
十代の頃に「30歳以降の自分は想像もできない」と思っていたのと同じような状態に、また戻ってしまうでしょう。
情けないけれど、あの頃からこっち、「大人の男」について、より良い幻想を育てることはできなかったのです。

ううん。
破綻してしまわなければ、それでもある程度妥協して「男」を身にまとって生きていくことができたかもしれません。
でも、いくら無理して「男のふり」をしても、なんにも報われないんだもん。
もう、やだ。そんなの。

まだまだ、「男をやっていた時の癖」で、私は「言うべきことが言えない」「決めるべきことを決められない」など、ちょっと致命的とも思える欠点が改められません。
おそらく、多くの人が「そんなこと、男か女かなどということには関係ないだろう?」と訝るでしょうね。
でも、私にとっては、「男の自分の決断」とか「男の自分の表現」とか、そういうものは自分の姿としては思い浮かべることができないし、仮にできたとしても「暴力的」「破滅的」になってしまわざるを得ない、と思えて仕方ありません。
慎重にものごとを決定するなら。
豊かに自己表現するなら。
「女の私」が、それをしましょう。

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2000年09月18日(月)

★09.18-1・(今日は大忙し)私がオンラインで「男言葉」を使えなかった理由(わけ)
★09.18-2・「話を聞かない男、地図が読めない女」



★09.18-1・(今日は大忙し)私がオンラインで「男言葉」を使えなかった理由(わけ)

at 2000 09/18 12:38 編集

今日は忙しいので、メモだけ。

↑の理由。
男言葉で書き込む人たちって、何かというと無意味な議論に走るから。
(言い合って勝つか負けるかだけを問題としている、みたいな;そういうのは一種の「スポーツ」なんだから、ちゃんとオフラインで対面してやらないと満足できないだろうに(^^;)

私自身もそうなりそうだったから?
けっきょく、「男言葉」を使うことができたのって、インターネットをはじめて最初の1、2ヶ月間しかなかったように思うし、そんな頃じゃ、書き込みも1、2回しかしなかった。
だから、本当はどうだったか、分からない。

きっと某「2ch」の厨房も、みんな男言葉で書き込みしてるように見えるけれど、本当は「女」もいるはずよね。

ううっ、さぶっ。

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★09.18-2・「話を聞かない男、地図が読めない女」

at 2000 09/18 12:42 編集

読んでいて、どうしてもうんざりしてしまう。
西洋風な「決め付け(ステレオタイプ)」があって、例えば私の中で「そんな男(女)はめったにいない」と思うようなタイプを「男(女)は〜」と典型であるかのように決め付けちゃっているんだもん。
「おたくら夫婦はそうかもしれないけれど、旦那さんにも奥さんにも当てはまらない組み合わせやケースがいくらでもあるよ〜!!」
と叫びたくなってしまった。

それでうんざりしてしまったので、「後半に面白いことが書いてある」と友人が言ってくれたのに、そこまで読む気がしないのね……。

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2000年09月17日(日)

★09.17-1・決定版!私が「喫煙」に拘る理由
★09.17-2・愚痴愚痴モード〜ゲシュタルトの祈り



★09.17-1・決定版!私が「喫煙」に拘る理由

at 2000 09/17 08:45 編集

(テーマ掲示板から転載)

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私はときどき、というよりもしょっちゅう、自分のしていることの真意がわからなくて自分に対して戸惑ってしまうことがあります。
そういうときは、周囲にはどうしても迷惑をかけてしまうようですが、そのことにぐたぐたぐたぐた拘っているうちに、ようやく自分の真意や意図がわかってくることも多いです。

で、Westさんのご意見にレスしようとしているうちに、「これが真意なのでは?」という言葉がようやく出てきたので、また新しくスレッドを作って書きます。

------------------------

私自身がもう一度喫煙者になってしまわないように強い心を持ちながら、でも、喫煙する人たちと共存していきたいのです。

私にとって大切な人たちが喫煙者である、ということは、決して「喫煙者だから『大切だ』と思うことを止めたい」なんていうことにはならないのだから。

ただ、このところこうやってじたばた掲示板にやたらと書き込んでいること自体、実は「煙草の禁断症状」とよく似た苛立ちのような気がして怖いんです。

私は決してもう一度喫煙者になってしまいたくはありません。
(決して自分以外の人が喫煙者であることを否定したり排除したりするものではないこと、どうか分かってください;喫煙の文化には魅力すら感じます)
でも、かつて喫煙者だったこともあるためか、伏流煙か喫煙者自身からの影響を受けやすいかもしれないのです。

喫煙者の方にお聞きします。
禁煙しようと努力している人の目の前で、これ見よがしに喫煙すること、どう思いますか?
(きっと「そんな意地悪なことはしない」という人と「それでも平気でいられるようにならなければ、今の社会では禁煙を貫くことができないのではないか、だからそういう試練を与えることは親切だと思う」という人と、意見が別れるのでは?)

どうも私は、「禁煙しようとして意地を張っている」状態に「逆戻り」してしまっているようです。
それが、自分自身に対して、とても悲しく、悔しいです。

そのことだけ、どうか喫煙者の皆さんに分かっていただければ、それだけでもどんなに嬉しいことか。
この上「私の目の前では絶対に吸わないで!」なんて言いません。
(私は元パートナーにずっと言われてましたけどね(^^; そのおかげで止めることができた、というのも、いくらかあると思いますけれど)

「喫煙者vs嫌煙者」みたいな構図で議論が進んできましたけれど、
「禁煙しようとしている人に対して」
という視点で両者が再考したら、いったいどういうことになるのでしょうか?

一方から他方へ「移行しようとする者」に対して「離れられる側」と「受け入れる側」は、それぞれどのように考えるのでしょうか。
このことは、もしかしたら、このHP全体のテーマの一部「性転換」ということにも近似しているのかもしれません。

どうか、できるだけ多くの人のご意見をお待ちしております。

追.
いちおう、念のため

これほどじたばたじたばたしていますけれど、私は自分で喫煙したことは、少なくともここ2ヶ月間はありません。
2ヶ月よりも前はどうだったかと言うと、(現場を目撃した人もいると思いますが)
「お酒を飲むと喫煙してしまうことがある」
という状態でした。
普通は飲酒しても別に喫煙したいとは思わないのですが、隣で誰かが喫煙していると、なぜか
「お酒を呑んでいるときは例外ってことにしちゃえ」
と、判断が鈍ってしまっていたのです。
(これは「飲酒」の副作用……これについても言い出したら、今「喫煙」について堂々巡りに近い拘りが続くのと同じようなことが起きると思いますが、「自己管理が必要」とだけ触れて、今は置いといて)
別に、隣で喫煙している人が悪いのではありません。
おかしな「例外」を作る私の弱さが悪いのです。

今は、「例外」のせいでけっきょくは(習慣的に吸ってしまうことにはなってしまわないものの)完全に禁煙していることにはならなかった、と悔やんでいます。
(だいたい1年に2回か3回は吸ってしまっていた;ここ7年強の間に)

だって。
私がこうやって告白すれば、かなり多くの人が
「なんだ、けっきょく吸ってるんじゃないか。だったらエラソーなこと、言わなければいいのに」
と思ったでしょ?
そのとーり!!!
もう、自分でも許せないのです。

ううん、私はもっと「自由になりたい」のです。
「自分のことを棚上げにする」なんていう苦しみ、できるだけ少ないほうがいいもん。

ふう。
あと、皆さんに改めて考えてもらいたいのは、やっぱり「禁煙」って、とても大変なことなのだ、ということ。

私の好きなバーナード・ショウの言葉を、また引用しましょう。
「禁煙ほど簡単なことはない。なぜなら、私など、今までに何度でも禁煙したことがあるぞ」
……それって、「何度も禁煙に失敗した」っていうことじゃーん!!
やーん、私、そんなの、やだー(;_;)

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★09.17-2・愚痴愚痴モード〜ゲシュタルトの祈り

at 2000 09/17 14:06 編集

(今回は「男モード」でも「Mモード」でもなく、「愚痴愚痴モード」です。ちょっと、ううん、かなりイヤなヤツになります、私)

(……つい、その人について具体的なことを書こうとしてしまいましたが、それだけは「してはいけないこと」でした。私が「自由を手放す」ような行為を行ってしまってはいけないですよね……)

で、これだけ。

私は、その人に宛てて「ゲシュタルトの祈り」の訳文を送った。
私が全部を引用するのは、著作権上の制約がなくてもよくよくのことなのは、私の手紙の書き方に何度も触れていれば分かるはず。

でも、その人は、そのことについて何も反応を示さなかった。

私が混乱してしまい、まさに読んだ人をも危険な精神状態に陥れるかもしれないようなことを書いた、そのことにははっきりと反応してきたのに。

間違いなく、その人は、私の「マイナス」の部分を増幅するタイプなのだ。

私は、その反応を読むちょっと前に、その文章を削除していた。

でも、それでも目ざとくそういうところに反応してしまうのを見て、とにかくとても嫌だった。

きっと、いつか「あなたのせいだ」と言われるような何かをこの人は引き起こすのではないか、とも思った。

だから、私はその人に「このホームページを見ないで欲しい」と書いた。

そうしたら、その人は、「自分の意思で公開しているくせに人に見て欲しくないのか。見て欲しくないなら閉鎖するのか」というようなことを言ってきた。

#悪いけれど、こういう屁理屈の振り回し方、まるでオヤジだと思う#

私がその人のどういうところにショックを受け、私が示した何を読み取ってほしいか、には何のコメントもなかったのだった。

「ゲシュタルトの祈り」は、今にして思えば、その人への「お詫び」も兼ねていたのだと思う。
けれど、その気持ちは届きはしなかった。

今、私は同じ「ゲシュタルトの祈り」を、自分を慰めるために引用します。

-----------------------------

わたしは「わたし」を生きる。
あなたは「あなた」を生きる。
わたしは何もあなたの期待にこたえるためにこの世に生まれてきたわけじゃない。
あなたもわたしの期待にこたえるためににこたえるためにこの世に生きているわけ
じゃない。
あなたはあなた。わたしはわたし。
もし、二人がわかりあえるなら、それはとても素晴らしいこと。
わかりあえないとしても仕方のないこと。

-----------------------------

アーメン。(=この言葉には「本当に」「全く」「そのとおり」「そうだよね」というような意味があるのだそうです)

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2000年09月16日(土)

★09.16-1・ぎくっ……びくびく
★09.16-2・人権
★09.16-3・お知らせ



★09.16-1・ぎくっ……びくびく

at 2000 09/16 16:44 編集

☆上の擬態語は、「バスジャック少年」のことが昨日報じられたときの私の反応です。
何人もの人に言われたし、それはある程度は私にも当てはまっているということを、この少年の場合は、ついに(ある程度なのでしょうけれど)「公に」犯罪と関連づけられてしまったのです。

「インターネットにハマり過ぎて、精神的におかしくなっていった」

でも、オール・オア・ナッシング(カタカナはヘンね(^^;)みたいな見方は幼稚ですよね(^^;
バスジャック少年=インターネットにハマった=>犯罪
私(里花)=インターネットにハマってる=>犯罪?!
みたいな。

「テーマ掲示板」で、「喫煙」のことについてたくさんの人に参加してもらってケンケンガクガクの議論をしています。
(ううっ、なんだか「ケンケンガクガクの議論」なんて、オヤジのセリフじゃーん! それも、政治家かなんかのような「典型的な政治的オヤジ」…… 落ち着け>自分)

どうしても、人は「議論の焦点」に集中するあまり「それが全て(とあの人は言っている)」と思い込んでしまいがちなものです。
(この「人は」っていう「一般論」的なくくり方が、そもそもいちばんの曲者だし(^^;)
でも、そうなりやすい議論の中でも、まるでそのこと自体を修正するため、とでもいうようなかたちで、議論そのものが健全に進行していく、っていうことはあると思います。
うまく言えてないけれど、わかっていただけますでしょうか?
「喫煙」の議論そのものが、そういうかたちで進んでいると思うのです。
こんなに健全な議論ができるなんて、って、私、嬉しくて仕方ないのです。

☆でも、その一方で、ある人からこう言われました。
(元は私がその人に「もう私のページは見に来ないで!!」って言ってしまったからなんですけれど、私がそこまで言ってしまうのって、どういう事態かお察しいただける人が多いのでは?)

>HPを公開していて…、『見るな!』と言うのは変じゃない?
 見られたくないのならば…閉鎖しますか?

 ご自分の意思でHPを開設し…
 ご自分の意思で情報を公開しているのですよ。

☆確かに、「HPの公開」には、ともすればそこに書かれていることをどれほど危険なかたちで反映してしまうかわからない、という側面があります。
それは、「バスジャック少年」の件でも、私の身近に起こったことがらでも、私は今まで以上に気をつけなければいけないのだなあ、と思い知らされるのに充分すぎるほどです。

けれど、「17歳」という未成年で、しかも精神的にかなり調子が悪くなってしまっている人が見てしまうのは何らかのかたちで「規制」することも含めて周囲が「気をつけなければならない」ことでしょうけれど、大人だったら……と思ってしまうのです。

☆昔、「ビートルズの歌を聞いたから殺人した」ということを犯人が言った、という事件がありました。
私自身がまだ子どもだったので、「わー、ビートルズの影響力ってすごーい」などと脳天気に驚いたりしていましたが、今はそれどころではありません。
犯人が憎いです。
だって、その発言が元で、ビートルズの曲がたとえ1曲きりだったとしても「放送禁止」になってしまったのだとしたら(実際、なったことがあったらしいです;どこの国のことかはよく知らないけれど)、……
犯人は、「精神の自由」を多くの人から奪う、という二重の犯罪を犯しているのです。
自分勝手な思い込みのせいで!!
そうして、(もしかしたら「精神の自由」が少ない子ども時代を送ったのかもしれない)私が最も嫌うのが、この「二重の犯罪」なのです。

☆前述の「HPを公開していて『見るな』と言うのは変」と言った人に、改めてお答えします。

≪他人のHPを見ても、その結果に対して自分で責任を持てるようになるまで「自主規制」してください。
自分で規制できないのだったら、他人に規制してもらってください。
あなたは、私の「精神の自由」を犯そうとしています。
それは、実はあなた自身の「精神の自由」を、自ら手放すことにつながるのです。≫

私は意図していようといまいと「盗作」が許せないの。
時には、たった一つの過ちが二度と許せないことだって、あるの。

------------------------

タイトルと本文が合わなくなってしまいました。
私はそれほどまで、悔しい思いをしているのでしょうか。




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★09.16-2・人権

at 2000 09/16 17:04 編集

「人はすべて、生まれながらにして自由、平等の権利を有する。」

中学校の公民で教わりますよね。
日本人なら、誰でもこのことを知らなければ国民としては生きていけないから、わざわざ「義務教育」として教えるのですよね。

でも、人権には実は「保留条件」があるのです。
人権が与えられるのは、「自由」や「平等」をそのとおりに「使いこなせる」人に限るのです。
だから、まだ上手に使えない「子ども」は「保護者」によって人権を制限されながら早く使いこなせるように、と教育を受けるのだし、
他人の人権を奪ってしまった「犯罪者」は、自らの人権を大きく制限されるのです。
時には命さえも!

「使いこなせる」という書き方をしましたが、少しはっきりした言い方をすれば、「責任」と「能力」、と言い換えてもいいでしょう。

また、人権が奪われるときの決り文句は、たぶんこういう一言に集約されるでしょう。
「この者(たち)に人権を持たせていても、使いこなすことはできないだろう」
正当であれ、不当であれ。

黒人が公民権運動の中で主張してきたのは、「黒人はあなたたち白人が思っているような、人権を享受する責任や能力を欠いている人種ではない」
ということに尽きるでしょう。

人は、自由のために生きる。
お互いに自由であるためにこそ、お互いが平等でなくてはならない。

今、私はこのところずっと囚われてきた
「人は自らのエゴのために生きる(だから他人や、まして他の生き物や物質のことなんか、知ったこっちゃない)」
とは、少し次元の違うところでものを考えているようです。
はっきり言って、「エゴかどうか」はこの際、問題にしたくありません。
人間の「責任」も「能力」も、おのずから限界があるので、それを超えることまではわかるわけがないのです。
限界の外側から見ればいかに人間が全体として愚かであろうと、それはおのずから「制限」されていて当然なのです。

大切なのはむしろ、

今知っていることに対して、どれだけ誠実であれるか

なのではないでしょうか。

私自身、ここ半月ほどの間に、それまでは知らなかった、知ることもできなかった、多くのことを知りました。
でも、私は、「知った」ことに振り回されるのではなく、それらのことに対してどれだけ誠実であれるのか、に敏感でありたい、と思います。

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★09.16-3・お知らせ


at 2000 09/16 17:43 編集

*きっと、トップページを見ずにここに来る人も多いと思うので*

常連さんなんかのほうが気付いてない人が多いかもしれないけど、
(だって、私自身がめったに更新しないから(^^;)
「お役に立てば嬉しいリンク」
に2件ほど重要なページを追加しました。
見てね♪

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2000年09月15日(金)


★09.15-1・ちぇっ

at 2000 09/15 01:18 編集

……でも、まだまだ。
私、負けないよ。

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2000年09月14日(木)


★09.14・ふぁいとっ。

at 2000 09/14 21:22 編集

……うまくいくかどうかわからないけれど。
私、がんばる。
がんばって、外も中も内面も、女らしくなる。
(もちろん、それって私が「私じゃなくなる」ことではないの。私は、今までよりももう少し、大人になるの。)

ふぁいとっ。

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2000年09月13日(水)

★09.13-1・届かぬ想い
★09.13-2・だからぁ
★09.13-3・ビクトル・ハラ
★09.13-4・ねえねえ、聞いて聞いて!!
★09.13-5・TVの音楽番組



★09.13-1・届かぬ想い

at 2000 09/13 08:26 編集

私の創作と人生のテーマは

「届かぬ想い」

です。
実は、わかりにくいので最後まで読んでくれた人はほとんどいないと思うけれど、「反(ANTI)」も同じテーマで書かれているのです。
他にも、亡き父に言いたい、聞きたい、という気持ちで過ごしていることとか、とうてい叶えられないような希望を抱くこととか……。

まるで、それが私の行動原理であるかのようです。

でも、このことは大きな危険をはらみます。
なぜなら、この「テーマ」、っていうよりも「傾向」っていうのかな? は、(前に書いて消しちゃったんだけれど)

私の願いはいつも叶えられることがない。

という一種恨み節のような「思い込み」になってしまうからです。
ふだん言語化して思っているわけではないので「自覚している」とは言い難いのですけれど、私の行動は時として今挙げた一行を前提としているようなところがあります。
「叶えられない」ことを前提にして「希望を持つ」なんて、矛盾もいいところですよね。
自分で自分を裏切るネタを用意して食い漁るなんて、なんという「人生の浪費」!

しかも、もっと怖いのは、本当ならば叶えられるはずの想い・希望まで、「どうせ叶えられないのよっ」と言って自ら捨ててしまう(ようなそぶりをする)こと。
そうやって、「希望を持っているくせに、その希望からわざと逃げ回る」ということを繰り返すのです。
これじゃ、自分のことイヤになるはずだわよねー(^^;
(試しに自分が何度も何度もそういうことを繰り返すヤツだったら、と想像してみてください……ね?)

でも、私にこう言ってくれる人もいるでしょう。

「無意味な先読みはするな。深読みすればするほど、どつぼにはまって抜け出せなくなるから。」

だよね。ありがとう。

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★09.13-2・だからぁ

at 2000 09/13 08:41 編集


書を捨てよ、街に出よ。

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★09.13-3・ビクトル・ハラ

at 2000 09/13 09:43 編集

(あれっ? まだ家でオンラインしてるわけ? なんて言わないで!! 一つだけ書かせて!!)

ああ、なんということ。
NHK−FMで「ビクトル・ハラ」の曲を流している。
私が仲間たちと一緒に細々と歌っていた頃には、見向きする人はほとんどいなかったのに。
時代は変わりました。

嬉しさと悔しさと。
喜びと悲しみと。
聞こえてくる音の中に、私が共に歌った仲間の声が、姿が、次々に浮かんでくる……

涙が止まりません。

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★09.13-4・ねえねえ、聞いて聞いて!!

at 2000 09/13 14:51 編集

(って、おまえ、けっきょく1日中家にこもってるんじゃないか……なんて言わないでね(^^;)

今ね、NHK−FMで
「ウェストサイド物語」(レナード・バーンスタイン)
全曲がかかり始めたの!!!!
全曲よ、全曲!!!!

あーん、今日は「当たり」だぁ(嬉し涙)。

私の「はじまり」。
姉に連れられて見に行って、なぜか途中から見ただけだったけれど、生まれて初めて「2度目に同じ映画を見た」のもこの作品。
それほど好きだったの。

歌手がね、

マリア=キリテ・カナワ
トニー=ホセ・カレーラス

なんだって!!
あーもう、どぉしよぉ〜〜〜♪♪♪♪♪

*一瞬冷静になると、「いかにも」なクラシックの歌手が「ウェストサイド」を歌う、っていうのは……っていう気がするかも。
でもね、オリジナルの映画の声も好きなんだけれど、私自身、少しだけれど「声楽」もやったので、クラシカルに解釈した歌い方に対して「どうしても違和感」みたいなの、ないから。
ま、プレヴィンのピアノ、とか、私の所属していた吹奏楽部の定期演奏会、とか、違ったヴァージョンの演奏もいろいろ聞いているので、「新世界」みたいに「ヨーゼフ・クリップス指揮+チューリッヒ・トーンハレ楽団」でなくてはダメっ!(=つまり初めて聞いた演奏が「インプリンティング」になっている)なんてことはないのよね。

書は捨てても、「音」は捨てられないわぁ〜。
(ため息……)

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★09.13-5・TVの音楽番組

at 2000 09/13 20:59 編集

音質はぜんぜんダメなんだけれど(私の耳が感じちゃうほどの低域が出てくれないんだもん)、やっぱ「画面」があるのがいいよね。
今、「慎吾ママ」見て「振り付け覚えたい〜!!」って思ったし、
「ポルノ・グラフィッティ」(よくは知らないけれど、けっこうバンド名といい、ヴォーカルの声といい、曲といい、私の興味をそそるのよ〜)のベーシストが、ベースをとっても「タテ」に構えているのを見て、「この子はウッドベース出身なのかなあ?」って思ったし。

普段全く見ない(見てもNHKスペシャルぐらい(^^;)テレビを見て、刺激を受けちゃった。

P.S.
モー娘。は相変わらず「学芸会」だし。
そこがいいんだけどねっ……私もああいうの、やりたかったぁ…… <=こういうところは純女さんとは絶対、感覚が違うと思う。だって、純女さんたちが「さんざんやってきた」ことが「できなかった」からこそ、私は「憧れる」のだから。
なんせ、中・高は「男子校」だったからねえ。
高3で学芸会みたいなこと(お芝居)はやれて、それはそれでとても良かったんだけれどね。(^^;
<今、その中で脚本の半分をつくり、役ももらっていたのを思い出しました!! なんで忘れてたんだろう? そのことについては、いずれ詳しく。では!>

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2000年09月12日(火)

★09.12-1・「ボーダー」について
★09.12-2・「取り返しがつかない」としても



★09.12-1・「ボーダー」について

at 2000 09/12 22:32 編集

(koronpaのホ−ムペ−ジ(04/10/12転記にあたって追記:URLは現在あるかどうかわからないので削除しました)からの引用です。ありがとう、ころんぱ姉さん)

≪境界性人格障害は怖い病気ではない。又、最近ニュ−スで有名精神科医がやたらとこの病名を出しまくるが、診断もせずに勝手に決めてはいけない。スト−カ−や通り魔が全部この病に直結するものととらえられ、「ボ−ダ−は危ない、怖い」といったイメ−ジがついてしまう。精神科医ならそれくらいわかってもらわないと、家族としても腹立たしい。マスコミの反応の大きさを知らないのでしょうか・・・。≫

ある事件(ある人から、私のこの原案帳に対してとってもいやらしい反応をされた)がきっかけで、私は(その人に対してとても腹が立っている、というのもあるけれど)

自分のホームページ活動が他人に影響を与えている

ということを気にするようになりました。
これまでは「こんなヘンな、中途半端なT'sのHPなんか、善意で来てくれる人以外には相手になんかされてはいないだろう」と思っていました。
けれど、そういう考えのほうがよっぽど「傲慢」なのだ、ということに気がつきました。
(私がある面好きで、ある面大嫌いな小林よしのりという人が「ゴーマン」という言葉を流行らせましたが、あれとは違う意味で)「無知な傲慢さ」ほど惨めなものはありません。

上に引用させていただいたことは、実は「マスコミ」だけに言えることなのではないのです。
私が、自分がおかしなことをするたびに、それの「言い訳」のように「ボーダー」という言葉を振り回したら。
ぞっとします。
「自己診断してはいけない」と再三書きながら、全体としては「そうは言っても、やっぱりボーダーなんだぁ」という印象を読み手に与えるような論調は、なんだかまるで、実は私がボーダーを「差別」しているから? とまで思えてきて、本当に寒々とした気がします。

過度に自罰的な言い回しをしたがるところとか、「ボーダー」とよく似た兆候があるのは確かに多くの人が頷くことでしょう。
けれど、本当に私がボーダーなのかどうかは、専門家(=医師)の診断を仰がなければなりません。
それをないがしろにすることは、もしかしたら、「ボーダー」を自覚し、常に「自分なんか治療してもらっても意味がない」というような無力感や「あの医者はけっきょく自分のことなんか分かるはずがない」という猜疑心、その他さまざまな「心の中の妨害」と戦いながら、なんとかして「生きたい」という思いをもって治療を受けている人たちに対する「冒涜」なのではないか……。
そんなふうに思います。
もしも私の「ボーダー」関係の表現の中に不快な印象を持たれた方がいたら、深くお詫びいたします。
また、私の表現のせいで「ボーダー」について偏見や誤解を抱えてしまった方がいたら、やはり深くお詫びしたいです。
ただ、読み手の偏見や誤解は、読み手自身が気付かないからこそ偏見や誤解なのであり、だから結局のところ、私が謝る相手は謝られていることには気付かないのです……。
こういう状況を「取り返しがつかない」っていうんですよね。
できれば、この一文を読んだ方が、ご自分の心の中の「偏見や誤解」についての点検をされますよう。

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★09.12-2・「取り返しがつかない」としても

at 2000 09/13 07:48 編集

前の記述について。

>ただ、読み手の偏見や誤解は、読み手自身が気付かないからこそ偏見や誤解なのであり、だから結局のところ、私が謝る相手は謝られていることには気付かないのです……。

この部分、自分で書いてて何となく違和感がありました。
…だんだん気がつきました。
これ、下手をすると
「ほら、そこのあんた! あんたに謝っているんだよ。気がつかないの? バカだねえ…」
と言っていることにはならないでしょうか?
はっきり言って、読んだ人は
「傲慢な言い回し!」
ととってしまうのではないでしょうか。

そーか、私はこんなに恥知らずで「エラそー」だったのか。

>こういう状況を「取り返しがつかない」っていうんですよね。

たとえそうであったとしても。
私は相手を特定して謝るしかないし、特定できないのならば(だって、大した数ではないとしても、私の知らない人が何人もここを読んでいると思うから)、ここに書いているように「謝罪広告」のようなものを出すところまでしか、私にはできませんよね。

「ゲシュタルトの祈り」を思い出そう。

>できれば、この一文を読んだ方が、ご自分の心の中の「偏見や誤解」についての点検をされますよう。

(ぶちぶち:いつものことだけれど、まずこういう言葉は自分に向けて言い、自分にとって屈辱的でなければ人に向けるといいのだわ。……ああっ、でも、私「屈辱的な言葉」、好きだから…… 自分の困った性癖を自覚してしまうのであった;あー恥ずかし;;;)

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2000年09月10日(日)

★1・09.10-1・「負けない」
★09.10-2・「煙草の戦略」
★09.10-3・決めたこと。



★1・09.10-1・「負けない」

at 2000 09/12 22:35 編集

この日記「原案帳」や、私のHPのほかのページが、ある人にとても有害な影響を与えているらしい。
いっそHPを作って更新するなんて行為は止めるべきなのかなあ、とさえも思ったけれど、それより先に。
私のページを読み込みすぎて、私の思いだけで世界が構成されているかのように感じてしまう人がいるようですが、どうかパソコンのスイッチを切って、外に出てお友達と会ってください。
私は、この世の全てなんかではありません。
多くて60億分の1ぐらいだし、人間だけがこの世の全てでもないので、その比率は更に桁単位で小さくなります。

もちろん、「外へ出て人と会う」ことがそんなに大きなことだと知ったのは、私の最近の経験によります。
それまでは、オンラインが少なくとも私の「トランス」については全てでした。

「現実に」人と関わること、人とのかかわりを「現実的に」上手にできること=迷惑をかけないこと、好かれること、ちゃんと言いたいことを伝えること……
書いちゃえば当たり前なんだけれど、それで初めて、人は「生きている」のよ。

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★09.10-2・「煙草の戦略」

at 2000 09/11 18:11 編集

(「テーマ掲示板」からの転載です)
------------------------
私には、なぜそんなことが起きるのか、理由は全くわかりません。
生物ではない「物質」に、「自己保存の意思」なんてあるわけないもの。
でも、もしかしたら、「ヒト」という、「思い」を司る生き物が作り出した「モノ」には、何らかの「意思」が宿るのかもしれません。
今のところ、私には「煙草に宿る意思」は、他のところにも書いちゃったけれど「アメリカ先住民の呪い」としか思えないのです。
荒唐無稽なんだけれど、そうも言い切れないところがあると思う。

よくは知らないのだけれど、煙草はもともとアメリカ先住民の宗教的・政治的・社会的な儀式に使われるものだったようです。
ヨーロッパ人たちが先住民を幼稚なエゴで殲滅し、ふと目に留めた「おもしろそうな習慣」を本国に持ち帰った頃、まだまだ幼稚で排他的だったキリスト教社会は、当然「喫煙」という行為の背後に潜む文化的な意味などには目を向ける余力を持ちませんでした。
ちょうど始まりかけていた産業革命によって「洗練」され、やがて確立する資本主義社会の「雰囲気」として「喫煙」が「定着」したとき、彼らの「呪い」は成就したのではないでしょうか。

私には、工場や輸送用機器の吐き出す排煙と喫煙が、どこかでつながっているように思えてなりません。
例えば、喫煙の習慣がなければ、工場の排煙に対する嫌悪感はもっともっと大きなものだったはずです。
そうしたら、そのことに拘るあまり、資本的生産形態の発達はもっともっと遅々として進まなかったのではないでしょうか。

今ある世の中を過去に遡り、それとは違ったコースを歩んでいたらよかったのに、という仮定でものを言いたがるのは、現状にちゃんと目を向けない「卑怯者」と謗りを受けるのは避けられないでしょう。
けれど、私自身がもしかしたら存在できなかったのかもしれないとしても、煙草がなくて産業革命も資本主義も未発達で、世界中の大半の国家がいわゆる「発展途上国」みたいな状態で喘いでいたら……
少なくとも、「国さかえて山河滅び、山河滅びて国滅びる」、どっちみち滅亡への選択肢しか残されていない現状は、もう少し人間的に考えて回避できていたのではないでしょうか。

もちろん、今私が誇張して言った「滅亡論」も、それを捉える人が私以外にもいっぱいいることからわかるとおり、いったん知ることができれば、みすみす指を咥えて滅亡を待ちつづける、というようなことはしないでしょう。
別の滅亡への道を探し出すでしょう。
人間は、単なるバカではありません。
とてつもなく複雑なバカなのでしょうね、きっと。
------------------------
喫煙・禁煙については、非常に大きな問題を含んでいると思います。
いちがいに「何がなんでも禁煙しろ」と言い切れないような。
「喫煙は悪」という風潮は広がっているのに、JTが自力で会社再建不能に陥った、というお話も聞かないし。

でも、今回私がこんなかたちで(とても「無神経」に!)提起しているのは、たぶんかなり多くの人たちに理解してもらえないとは思うけれど、

「感謝」

が基軸にあるのです。
できれば、それだけは分かってもらえないでしょうか……
表し方がそんなに異常なのでしょうか……

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★09.10-3・決めたこと。

at 2000 09/11 18:25 編集

現実の社会で、できるだけ外へ出ること。
逆に、オンラインでは、あまりよく知らないHPで妙な書き込みをしないこと。

お金と時間の使い方を「女らしく」すること。
(これははっきり言って、私の個人的な「思い込み」に過ぎません)

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2000年09月09日(土)

★09.09・喫煙……
★09.09・あと、なんかもう一つ
★09.05-10・負けないでがんばっている人(復刻)



★09.09・喫煙……

at 2000 09/09 02:30 編集

ぐすん。
私が大好きで、とっても大切にしたいなー、と思っている人、ほとんどみんな「喫煙者」なの。
私から見ると「煙草の薬物成分が思考回路に微妙に影響して、『文化としての喫煙』になってしまっている」、そのことにがんじがらめになっていることが、いかにお肌などの体調や健康にに悪影響を及ぼしているか、いかにその人が喫煙を止めたら美しくて今以上に健康になれるか、思えば思うほど切なくて悲しいの。
ねえ、みなさん!
1.喫煙者に対して禁煙を勧めるべきか?
2.喫煙者に対して煙草を止めさせる上手な方法は?
3.喫煙者の人にお聞きしますが、「喫煙を止めたら生きていけない」と思いますか?
以上の3点について、みなさんのご意見をお寄せいただけたらな、と思います。
もちろん、私が「みんな禁煙してほしい」とか思っているからと言って、賛成意見しか書いちゃダメ、ということはありません。
1.や2.について「そんなことは考えてもムダ」というような辛らつな意見でもけっこうです。
どうか、私に考えさせてください。私が少しでもそのことについて絶望的な気持ちになる必要がないように、どうか助けてください……。

うわー、なんかすごい問題提起。
どうか、このことで私が大切な友人を失うことのないように……。
神様、お願いします!!!!

****ご意見は「テーマ掲示板」へお願いします****
(04/10/12転記にあたって追記:この掲示板は消えてしまったのでURLは削除しておきます)

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★09.09・あと、なんかもう一つ

at 2000 09/09 02:56 編集

書きたいことがあったんだけど。

忘れちゃった(^^;

こういうことも、あるよね(^^;(^^;(^^;

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★09.05-10・負けないでがんばっている人(復刻)

at 2000 09/09 03:01 編集

が、いるのだから。

私が、負けて、どうするの。

できることだけでも、するだけ、して、あとは、謝るしか、ないじゃないの。

負けないで、がんばっている人がいるのだから。

私だって、負けちゃ、だめ。

もちこたえなくちゃ。

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2000年09月06日(水)


★09.06・お騒がせしました(^^;

at 2000 09/06 21:18 編集

本当に、すみませんでした。

きっと、何人もの人に心配をかけてしまったと思います。

確かに、私の「気持ち」の中には嵐がやって来たのでしたが、それは一時的なものだったようです。

今はもうそれは去りました。

もう、だいじょうぶ(^^)

もう一度、(しつこいかもしれないけれど)ご心配をおかけした皆様、本当にごめんなさい。

では

*9/06追記:
そういうこともあって、当初は「原案帳に残っていてもいい」とは思っていましたが、今度はこのページを見る人に悪い駅用や誤解を与えるかもしれないということがあって、次の記事は削除しました。

・ボーダーの叫び(1)〜(6)
・ごめんなさいいいいいいいい
・負けないでがんばっている人

もしかしたら削除などしないほうが良かった記事もあったのかもしれませんが、気持ちは似たところから出ていたので、やっぱり止めました。

「一人で閉じこもって思い悩むよりも、行動できるときに行動することのほうが大切」

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2000年09月05日(火)

★1・09.05-1・何かが変わっていく……
★4・09.05-4・ジェンダー学会のこと(1)



★1・09.05-1・何かが変わっていく……

at 2000 09/05 12:04 編集

壁紙を変えた。
(「テーマ掲示板」がパープル、「お話ししましょ♪」が黄色)

今日までにお片づけしなくちゃいけなかったのに、してないよぉ。

私の中で、何かが変わっていく……

ねむ〜い。


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★4・09.05-4・ジェンダー学会のこと(1)

at 2000 09/05 12:05 編集

1.カルメン

当日、抄演ではあったけれど、オペラ「カルメン」が演じられました。
実はそのおかげで、私は「カルメン」について全く何も知らなかった、ということに気がつきました。
あんなに有名なのに?
私のほかにもそういう人がいるかもしれないので、ごくごく簡単にあらすじをご紹介。
といっても、私がやるとあんまり意味のない紹介になっちゃうかも。

<あらすじ>
バスク人の貴族出身のドン・ホセは、魅力的なカルメンに惹かれて所属していた軍を脱走し、彼女と同じ盗賊になる。
ところがホセは、カルメンに同じく(?)思いを寄せる闘牛士を殺してしまい、しかももうドン・ホセのことがイヤになっているカルメンをも刺し殺してしまう。

誤解しているかもしれないので、今岩波文庫で読んでいるところです(^^;。

このお話で私が関心を持ったのは、ドン・ホセの「しつこさ」です。
私の二面性が言うの。

(1) 男のそういうしつこさ、恐ろしい!!
いくら好きでも、しつこくしつこく「よりを戻そう」と迫った挙句、もう絶対に取り戻せないと分かると、可愛さ余って憎さ百倍、っていうの? 相手を殺してまで自分のものにしようとするなんて!!
……実は、私自身、よりを戻そうとしてつきまとってくる男の恐ろしさを目の当たりにしたことがあります。
本当に、怖かった。

(2) 男のそういうしつこさ、分かる。
私自身が、諦めきれなくて相手の家の周りをうろついたことだってあるのだから。
これじゃまるで、ストーカー。
「男女」には関係ないのだろうけれど、あまりにも惨めだった。

で、ここでは二面性が仲良く肩を並べてしまうのよ。

「諦めきれない思いって、気持ち悪い、怖い」

自分の中にもそういう火種がまだくすぶっていると思うと、一刻も早く切り取ってしまいたい。
「ガイドライン」がダメなら、自力ででも……。
(ボーダーの破壊行為は、更に巧妙さを増していく……)

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2000年09月03日(日)

★09.03・「夏期休暇」に行ってきました

at 2000 09/03 10:26

たっだいま〜!!
なんか、ちょっと、すごかった、私の「夏期休暇」。
9月1日は完全にスイッチを切っていましたが、その後9月2日に「日本ジェンダー学会」というのに出席(というよりも聴講?)。
ちょっと詳しく書きたいな。(あとで)
2日の夜は新宿「スワンの夢」
http://www.din.or.jp/~swan/index.htm
更になんと「デパH」へ……。「H」はすごすぎ(+o+;;;
2日のことは、とってもすごい勉強になりました。
「スワン」の晴美ママ、いっぱい歌わせてくれてありがとうございます♪
また行きますね♪
で、つい今しがた帰ってきました。
徹夜してしまったので、これから寝ます。
おやすみなさ〜い♪
zzzz....

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