見つめる日々

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2010年05月31日(月) 
疲れ果てていて、気づいたら眠っていた。そのためなのか、タオルケット一枚しか掛けていず。寒い寒いと目を覚ますと午前二時。起き上がるにはまだまだ早い時刻で。どうしようかと迷い、でも起き上がって風呂場に向かう。引き伸ばし機をセットして、暗室の用意。娘も眠っているのだから、朝までの数時間は私の自由。焼きたいものが在る。三月に撮ったものたち。そろそろ時期かもしれない、と、少し前から気になっていた。一度軽く焼いてみたものの、まだまだだなと思った代物。
どんよりとした曇り空の下撮ったから、メリハリがついていないネガ。これをどう焼こうか。どうしようか。私はメリハリのある画面が好きなのだ。ノーマルに焼けば、それはどうってことはないグレートーンになるのだが。それじゃぁ何となく納得がいかない。
フィルターをいろいろ試しているうちに、あっという間に一時間が過ぎる。あの日の焚き火がふと、脳裏を過ぎる。吹き付ける風の中、私たちは小さく円を描いて焚き火の周りに集っていた。黙って耳を傾けている者もあれば、ひたすら喋り続ける者もいた。そんな私たちに構わず風は吹き続け、海は鳴り続けていた。海のごうごごうという音は、遠く近く、近く遠く、唸っており。水平線は闇に溶けているような時刻。私たちはただ、焚き火の灯りを頼りに、そこに在た。くべるものがなくなってくると、誰かしらがおのずと立ち上がり、何処からか木切れを集めて戻ってくる。その繰り返しだった。私たちはそうして火を守り、自分たちを守っていた。
暗室の中、浮かび上がる像。印画紙の上焼き付けられ。私は一枚、また一枚、作業を繰り返す。あの日、寒さに凍え赤くなる手足を、それでも私たちは動かし続けた。崩れる砂山に、それでものぼり、走り、海に向かった。撮影も終わりになる頃、ようやく厚く垂れ込めた雲がほんの僅か割れて、光が漏れた。それはとてもとても儚く柔らかくそこに在って。灰色がかった濃紺の海は、ただただ、ごう、ごごう、と唸り続けていた。
最初は。ただ、同じ被害者の人たちと何かできないか。そう思いついて、始めたことだった。でも、被害者が顔を晒すことが、どれほどしんどいことか、私は私なりに知っていたから、そんなことを実現することは不可能だとも思っていた。なのに、参加してくれるという人たちが在た。そうして、始まった。
これから先もこれが続いていくのか。それは分からない。いつ終わってもおかしくはない。でも、私のカメラの前に立ってくれる人がひとりでも在るかぎりは、続けていきたい。そう、思っている。

ベランダに出、大きく伸びをする。冷たい空気が漂っている。街はまだしんしんと眠りの中のようで。微動だにしない景色を、私はただ、じっと眺める。東からゆっくりと、でもはっきりと、光の筋が伸びてくる。途端に街景がふわぁぁっと明るく染まる。陰影の現れた街景は、とくん、とくんと脈打ち始め。私は空を見上げる。高いところ、うっすらとかかる雲。風はほとんどない。
私はしゃがみこんで、ラヴェンダーのプランターを見やる。萎れていた一本も、とりあえずまだ枯れる様子はなく。水を確かに吸っているのだろう者たちは、ぴんと葉を伸ばしており。鼻をくっつけると、ラヴェンダー独特の香りが鼻腔をくすぐる。
デージーはここに植え替えてから新たに新芽を出した者も多くあり。母が言っていたとおり、彼らはしぶといのだな、と思う。か細く、見かけは儚く見えるけれども、その生命力はとてつもなく強くしぶといのだな、と。
ホワイトクリスマスは、新芽を次々芽吹かせており。それでも何だろう、この樹は、しん、とした空気を纏っている。決して騒ぐことがない。白緑色の新芽が、徐々に徐々に色を変えてゆく。古い葉は、それに全く構うことなく、しんしんとそこに在る。
マリリン・モンローの赤い新芽は、徐々に色を緑色に変えてきており。その緑色は、どこか青味がかった緑色で。これがじきに深い緑色になるのだなぁと思うと、本当に植物は不思議だと思う。こんなに静かな生き物なのに、決して同じ姿であることが、ない。
ベビーロマンティカの萌黄色の新芽は、艶々と輝いてそこに在る。マリリン・モンローのそれと比べると、本当に瑞々しくて、若々しくて、赤ちゃんのようだと思う。
パスカリの若葉は、だいぶ赤味が消えてきて、今、緑色に姿を変えてきている。病気に冒されることもなく、よくこの元気な葉を広げてくれたと私は嬉しくなる。パスカリたちの、こうした粉を噴いていない葉を見るのは、どのくらいぶりだろう。本当に嬉しい。
部屋に戻り、お湯を沸かす。生姜茶を入れながら、さっき吊るしたプリントを眺める。暗闇で見ているのと、こうして光の中見るのとでは、また違ってくる。これが乾くとまた、ほんのちょっと違う。とりあえず、この路線で焼いていこうと決める。

ママさ、男の子に告白されたこと、ある? ん? 告白されたこと? まぁ、あるよ。その時、どうした? んー、おつきあいすることになった人もいれば、ごめんなさいって断ったこともある。え、そんなに告白されたことあるの? ははは、あなたよりママは長く生きてるんだよ、そういうこともいろいろあるさ。ごめんなさいするのってしんどくない? んー、しんどいといえばしんどい。でも、好きじゃないなら、しょうがないじゃん。まぁそうなんだけどさぁ。ママから告白したことも、ある? んー、最初、一回だけ、あるよ。えー、そうなの? うん、ある。どうだった? 中学生の時かなぁ、俺のこと好きなんだろとか言われて、うん、好きだよって言った。で、つきあうことになった。えーーー、それって、言わされたのと違うの? んー、どうなんだろ、まぁどっちでもいいじゃん。それでそれで? んー、結局数年して別れたよ。それからそれから? いろいろおつきあいした。短い人もいれば、数年つきあった人もいる。どうしてママ、今はひとりなの? えっ? 今、告白されないの? はっはっは、されないねぇ。もう、ママの周りは、たいていの人は結婚してるよ。結婚してる人とはつきあわないんだ。えっ、結婚してる人には奥さんがいるんだよ、奥さんが居る人とつきあうの? つきあわないの? つきあわないんじゃない? そういうのって、不倫って言われるんだよ。別に、ママから見たら不倫じゃないじゃん。ママはひとりものなんだから。ま、まぁそうなんだけど。いいじゃん、別に! い、いや、それはまずいでしょ。ってか、ママ、やだ、他の女がいる人となんて、つきあいたくない。あ、そうなの。つまんない。…。

ママ、生理ってさ、突然来るの? 突然っていえば突然だね、うん。でもママはたいてい、生理が来る前に、何となく下っ腹が痛くなったり、頭痛くなったりするよ。えー、やだー、そんなの。でも、そういうものなんじゃないのかな、生理って。それでどのくらい続くの? んー、だいたい5日から一週間くらいかな。その間ずっと血出てて、大丈夫なの? なんとなく貧血気味になる人もいれば、大丈夫な人もいる。人それぞれだよ。えー、同じじゃないの? ずるいじゃん。ははは。まぁ、体質とかさ、いろいろあるから、みんなそれぞれなんだよ。ばぁばはどうだったの? ばぁばは生理痛酷かったよ。ママも酷い。じゃぁ私も酷くなるの? うーん、その可能性はあるなぁ。うげー、ユウウツだぁ。林間学校のときになっちゃったらどうすればいいの? 先生に言うんだよ。先生、ちゃんとしてくれるかなぁ。してくれるさ。してくれなかったら帰ってきてからママに言いつけな。ママ、文句言うから。えー、恥ずかしいよー。ははは。まぁ、そんなことになっても大丈夫なように、準備だけはしておきなね。うーん。
もうそういう年頃になったのか、と、改めて思う。私が初潮を迎えたとき、実は私は、生理というものが何かを知らなかった。出血は一ヶ月近く続き、もうだめだ、と泣きそうになっていた頃、下着のシミを見つけた母に、怒られた。余計にショックだったのを覚えている。そして翌日、母は無言で、私の引き出しの中に、ブラジャーと脱脂綿の束を入れてきたのだった。それをどうやって使うのかも私には正直分からず。これまた泣きそうになったことを覚えている。
そういうことが娘にはないように、私は自分が生理が来たら、最近は娘にはっきり言うようにしている。そして、生理用品も、娘が手が届くところに置いておくことにしている。それがいいのかどうか分からない。私の母は、そうした、性的なものは、一切目につかないところにしまっておく人だった。そうした類の言葉を交わしたことも、ない。
私は多分、娘がもう少し年を重ねたら、避妊の仕方も教えるんだろうと思う。それがいいのかどうかも、これまた分からない。分からないが、せっかく女同士の家族なのに、何もそういうことを話し合えないんじゃ、つまらない気がする。堂々と話ができる間柄なのだから、話してしまえ、と、そう思う。

「内省は自己改善〔を目的としたもの〕です。だから内省は自己中心的なものです。気づきは自己改善ではありません。反対に、それは自己、〈私〉が、それがもつ独特の性質、記憶、要求、探求もろとも終わることです。内省の場合には、自己同一化や非難があります。気づきの場合は、非難も自己正当化もありません。だから自己改善はないのです。両者には大きな違いがあります」
「気づきは外部の物への気づきから、対象や自然と接触を保っていることから始まります。まず、身の周りの事柄に気づいていること、対象に、自然に、それから人々に―――つまり関係に―――敏感であること、があります。それから観念への気づきがあります。この気づき―――物に、自然に、人々に、観念に敏感であること―――は、別々のプロセスから構成されているのではありません。それは一つの統合されたプロセスなのです。それはあらゆるもの、あらゆる思考と感情、そして行動を、それらが内部に起こるがままに観察することです」
「問題はもっとずっと根深く、あなた以外の誰もそれは解決できないのです。あなたや私がこの社会をつくってきたのです。それは私たちの行動の、思考の、私たちの在り方そのものの産物です。そして私たちがたんにその産物を、それを生み出した当のものを理解することなく改良しようとしているかぎり、私たちはさらに多くの病気、さらに多くの混沌、さらに多くの犯罪をもつことになるだけでしょう。自己の理解が英知と正しい行動をもたらすのです」

じゃぁね、それじゃあね。娘の手のひらに乗ったココアの頭をこにょこにょと撫でて、私は玄関を出る。東から伸びてくる陽光は真っ直ぐに降り注ぎ、あたりを燦々と照らし出している。
私は自転車に跨り、坂道を駆け下りる。ヘッドフォンからは、Secret GardenのLore of the loonが流れ始める。軽やかに流れる旋律に耳を傾けながら、私は通りを渡る。現れた公園の茂みは、もうこれでもかというほど鬱蒼と茂っており。池の端に立つと、そこはちょうど茂みの切れ目で。その切れ目から漏れて来る光の洪水。池の水面がきらきらと輝く。
大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。埋立地の方は風が強く吹いている。その風を受けながら私は走り続ける。
さぁ今日も一日が始まる。


2010年05月30日(日) 
薄暗い部屋の中で目を覚ます。起き上がり、窓を開けると、ぶるりと体が震えるような寒さ。確かに昨夜は雨がぱらついていた。だからといってここまで寒くなることもあるまい。ちょっと驚きながら、空を見上げる。鼠色の雲が一面に広がっている。風はさほど吹いているわけではなく。だから雲が流れる様子もなく。淡々とそこに、横たわっている。こんな日は、何処から光が漏れ出てくるのだろう。漏れ出づる隙間も、今は見当たらない。
しゃがみこんで、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。六本あるうちの一本が、どうにもこうにもしゃんとしない。水はちゃんと遣っているのに駄目だということは、このまま枯れるということなんだろうか。私は見つめながら思う。でも、今諦めてしまうのはまだできそうにない。このままにしておくことにする。枯れるまでは、枝が茶褐色になるまでは、そのまま置いておこうと決める。
デージーたちはみな元気だ。救い上げた芽は全部、生き生きと葉を広げてくれている。それだけ強いということなのだろうか。そういえば母が言っていたっけ、デージーは一度植えれば、その後種をわざわざ取らなくたって、勝手に芽を出してまた花を咲かせるものなのよ、と。そのくらいのしぶとさがあるということなのか。私はデージーを改めて育てたことがなかったから全く知らなかった。それにしても、母は一体、どれだけの種類の植物をこれまで育ててきたのだろう。どんな花の名前を言っても、彼女が知らないということはあり得ないといっていいほどだ。私が彼女に追いつくことは、まずないんだろうな、と思う。そんなことを思った自分に、私は苦笑する。
ミミエデンを見やれば、新芽をぱっちりと開いている。棘々した縁をもつ、変わった形の葉。そしてまた、新たな芽の息吹が、そこに在る。
挿し木だけを集めている小さなプランターの中、今、わさわさといろいろな枝が葉を広げているのだが、中には黙って立ち枯れてゆく者も在る。同じプランターの中、彼らにとって何が違ったのだろう。生と死とを分ける境は、何処にあったというのだろう。私の目には見えないけれども、はっきりとした境目がそこに在るのだ。きっと。
ベビーロマンティカは、萌黄色の新芽をまた芽吹かせており。みんな葉の色は萌黄色なのだが、新しい葉の艶というのは、どうしてこうも輝いているのだろう。こんな薄暗い空の下でも、彼らは瑞々しく光り輝いており。まるでにこにこ笑っているかのような、そんな雰囲気。
一方、ホワイトクリスマスの新芽というのは、淡々としている。最初白緑色だった芽の塊が、開いて、空気に触れてゆくほどに、緑色になってゆき。それがやがて、濃緑色に染まるのだ。まるで染物の様子をじっと見守っているかのような気持ちになる。それは神聖な空間で。私は息を詰めて、その様子をただ見守る。
マリリン・モンローの、紅い新芽は、ざわざわ、わさわさというざわめきをともなっており。ぐいぐいと伸びてゆくその姿は、まるで我こそはと声を上げているような、そんな様子にさえ見える。今のところ、新しい花芽は何処にもなく。今は彼らにとって新たな緑を芽吹かせる時期なのだな、と納得する。
パスカリたちの、紅い縁取りを持っていた新芽は、もう表は殆ど濃い緑色に変わっており。開いた葉を順繰り見て回る。今のところどの葉も粉を噴いてはいず。これなら大丈夫、病に冒されてはいない。私はほっとする。
ふと顔を上げると、窓際のところの水槽、角のところに、金魚たちが集まってきている。懸命に尾鰭を揺らして、体を支え、口をぱくぱくさせてこちらに合図を送っている。私はいつものように水槽をこんこん、と指で叩く。そうして蓋を開け、餌を適当に撒いてやる。でも彼らはすぐには食べない。一度沈んで、再び水面に浮き上がってきて、それから食べ始める。
お湯を沸かし、お茶を入れる。いつものように生姜茶。あたたかいお茶を口に含むと、途端に体が生き返る気がする。あたたかさが体を一瞬にして駆け巡るのが分かる。
窓は半分だけ開けて、私は椅子に座り、煙草に火をつける。吐き出した煙がゆっくりと、窓の外流れてゆく。さぁ、朝の仕事に取り掛からねば。

久しぶりに高校時代から知っている友人たちと会う。別に特別に用事があったわけでもなく、互いに時間ができたからということで。二人に会うのはどのくらいぶりだろう。
彼らとは高校時代に出会った。私が十六の時だ。十六の夏、私は自主制作の映画作りに参加した。その時に、彼らと知り合った。
何だろう、彼らとは、多分、つかず離れずだった。よく一緒に遊んだが、べったり一緒にいるわけではなかった。要所要所で、一緒になる。そういう具合だった。
そうして、私が被害に遭い、ぼろぼろになっていた時期、その時も、彼らは、そっと見守り続けてくれた。私がどんな醜態を晒そうと、顔色一つ変えるでもなく、声を荒げるでもなく、ただそこに在てくれた。
それがその当時、私にとって、どれほど心強い支えだったか。もうそれは、他に言い表しようがない。
そして、私が離婚すればするで、私が床に倒れ付していると、そっとやって来ては娘の遊び相手をしてくれた。閉じこもるばかりだった時期も、なんやかやと私を誘い出しては、ご飯を食べさせてくれた。
そして今も、私がまだ娘をディズニーランドに連れて行ったことがないと言ったら、どうやって娘をディズニーランドに連れて行くかを計画してくれている。
そんな友人が、ふと、これからが勝負だなぁ、と呟く。私と娘のことだ。母子家庭であるがゆえに、もしかしたら娘は普通に反抗期を迎えられないのではないかと私は心配している。私に遠慮して、反抗もろくにできず、大人になってしまうのでは、あまりにかわいそうだ。そう思っている。そのことを指して、彼らが呟く。これからが勝負だな、と。本当にそうだと思う。そんな時、彼女に寄り添ってやれる年上の誰かがいたら、いいんだろうな、と彼らは言う。そのために彼女と今、コミュニケーションを取っておかないとな、と。
本当にありがたい、と、心の底から思う。そして改めて、子供というのは、一人で育てるものじゃないのだな、と思う。いや、一人で育てられるものではない、と言うべきか。いろいろな人の手を借りて、ようやく育ててゆける。そういうものなのだな、と。
そしてもう一つ。彼らにもし、何かが起きたときは。私は娘と一緒に駆けつけるだろう。もちろん彼らはそんな私たちを知っているから、余計な心配はかけまいと、口を噤んでいるのだろうが。それでも。それでも何かを察知したときには。
私たちはきっと、二人して駆けつけるんだ。

ママ、今日ね、告白されたよ。娘が電話の向こう、小さな声で言ってくる。えっ、告白されたの?! ウン、告白された。好きな人から? うーん、一番ってわけじゃないけど。二番か三番の人? まぁ、そうかな。えーー、すごいじゃんっ。で、何て応えたの? べ、別に、何にも応えないよ。そうなの? もったいなーい。もったいないって、何がもったいないのよ。え、せっかく好きだって言ってくれたんでしょ、何も応えなくていいの? だって、別にさ、一番じゃないもん。まぁね、それはそうなんだけど。学校も違うし。塾は同じなんだから、いいじゃない。まぁそうなんだけど。何がまずいの? って、ママ、何考えてるわけ? え、付き合うのかなーとか。何言ってんの?! え、違うの? 好きって言われただけじゃん、付き合おうって言われたわけじゃないよ! え、あれ、そうなの? 馬鹿じゃないの、ママ、そんなこと私、言ってないじゃん。そっかー、なんだぁ、つまんない。あのさぁ、ママってさぁ、やっぱり変だよ。ん? 何が変なの? 普通さぁ、こういうこと言ったら、お母さんって心配したり、いけません!とか言ったりするものなんじゃないの? え、あ、そうなの? そうだよっ。あ、ごめん。そうなんだ。まぁいいけどっ。ははは、ごめんごめん。
電話を切った後も、私は口元が緩んでいるのを感じる。そうか、娘もそんな年頃になったのか。まだまだおなかがぽんと出て、言ってみれば幼児体型といっていいような頃合だというのに。心の方は立派に、歳を重ねているというわけだ。
そういえば私も、淡い恋ならいっぱいした。最初の恋は儚く散った。相手は心臓を患っている男の子で。よく手を繋いで歩いた記憶がある。その男の子は、小学校に上がる前に亡くなってしまった。次に恋した男の子は、バイオリンを弾く男の子だった。引っ越していってからも手紙を何度か交換したが、気づいたらその手紙も途切れ途切れになり。やがて忘れていった。そういえば、お猿さん顔の男の子に恋をしたこともあった。学校で、好きな人という題名の作文でその子のことを書いてしまい、みんなに笑われたことを思い出す。そうやって幾つか淡い恋をした後、ようやく初めて付き合った人は、やがて暴力を振るうようになり。それは泥沼だった。別れるまでに一体何年かかったか。もう正確に、数えられない。
それからも幾つか恋はした。でも。何だろう。今思い返すとすべて、本当に遠い遠い昔の出来事で。もうはるか彼方の出来事で。
もう自分に、ああいうことが起こり得るとは、到底思えないところにまで、今歩いてきてしまっている。そんな自分は、一週間もすれば、またひとつ、歳を重ねる。
ふと、娘の、「ママ、恋しなさい!」という叱り声が脳裏を過ぎる。いやぁ、ママはもう、恋なんて遠すぎて。忘れてしまったよ。それが正直なところだ。そう思いながら苦笑する。あまりに遠くなりすぎて、実感のともなわない、まるで、そう、陽炎のようだ。

「あなたが自分自身を意識すればするほど、あなたはより孤独になります。だから自意識は孤立のプロセスなのです。しかし、aloneness〔独り在ること〕は孤立ではありません。寂しさが終わるときにだけalonenessはあります。alonenessはすべての影響―――外部からのものも記憶の内部的な影響もどちらも―――が完全にやんだ状態です。そして精神がそのalonenessの状態にあるときのみ、腐敗しないものを知ることができるのです。しかしそうなるためには、私たちは寂しさを、孤立のこのプロセス―――それは自己とその活動です―――を理解しなければなりません。ですから、自己の理解が孤立の、すなわち寂しさの終始の始まりなのです」

出掛ける支度をしながら時計を見やる。今頃実家では、ばばと娘とが、朝の散歩から帰って来た頃だろうか。そうして朝食を囲んでいるところだろうか。
鍵を閉めて家を出る。夕方までは雨は降らないだろう。そう勝手に判断し、自転車に乗って出る。
坂を駆け下りてゆく。風を切って走る、それがとても冷たくて、私は首を竦める。通りを渡ると現れる緑の公園は、鬱蒼と茂っており。でもそれは、灰色の雲の下、暗い暗い塊を今は描いており。
池の端に立ってみる。水面に映るのは、茂る葉群。ふと見ると、ベンチの横、トラキジの猫が横たわっている。大きく欠伸をし、伸びをして、ゆっくりと階段の方へ歩き出す猫。そうしてふと見上げれば、ぽっかり空いた茂みの向こうに広がる空を、二羽の鳥が大きく大きく旋回している。
さぁ今日も一日が始まる。


2010年05月29日(土) 
薄暗い部屋の中目を覚ます。窓を開けると、空には一面鼠色の雲。それも濃淡の強い色合いで、うねうねと続いている。風はそんなに強くはないのだが、空気が冷たい。こんなに冷たいと感じられるのはどのくらいぶりだろう。半袖でいることがちょっとしんどい。椅子にかけてあったパーカーを羽織り、改めて空を見上げる。いつ雨が降ってきてもおかしくはない、そんな雰囲気。この雲が今日途切れることはないんだろうなと思う。
街路樹の緑はそんな空の色を反映させてこごもっている。ひっくり返ったままの若葉が見える。人でいうところの、うつ伏せといった感じだろうか。ふと、その葉の様子に、ミルクがひっくり返って手足をばたばたさせている時の姿が重なる。笑ってはいけないのだけれども、彼女のたぽっとしたおなかがぽてぽてと動き、小さな手足がばたばたする姿、あの姿はなんというかこう、愛嬌があって、こちらを笑わせずにはいない。
しゃがみこんで、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。六本の枝。葉が萎れているものが三つも。昨日ちゃんと水をやったのだが、それでも駄目らしい。私は大きく溜息をつく。別に、母の庭のフレンチラヴェンダーの大群のような、そんな様を求めているわけではなく。さやさやと風に揺れるくらいの草でいい、育ってくれたらと思うのに、なかなかうまくいかない。母に電話をして、たった一匹の幼虫にしてやられた話をすると、デージーなどいくらでも増えてゆくのだから、デージーよりラヴェンダーを優先させるべきだったのよ、と言われた。そういう判断が、私にはまだできない。そういえば、昨日の授業でもそんな話題が出たような気がする。負担に思う相手ができても、それを負担だと言えないことが多々ある、でも自分には一番に守りたいものは何かが分かっていて、分かっているのに、躊躇うところがある、というような。そういう話題が出たときに、過去に囚われるか今を優先するか、それが大きな鍵になる、というような話が出た。判断というのはたいてい、過去の出来事に反映して為されるものだという。でも、大切なのは、今であって、過去ではない、過去にいくら失敗していようとそれはそれ。自分の「今」の判断をこそ信じるべきであって、そうして判断したのなら、後悔すべきではない、と。私はその、後悔が、割り切れないのだな、と思う。後悔してしまうのだ、そこで。ついつい。そうして後ろ髪を引かれることになる。でもそうだと、いつまでも躊躇して、次に新たに進めないことになる。私は私の「今」この時の判断を、信じるべきなんだ。そう思った。それにしても、どんな小さなことでも、判断というのは大切なのだな、とつくづく思う。もしあの時、デージーよりも私がラヴェンダーを優先する判断を下していたら、今頃こうはなっていなかったのかもしれない。もう少し、もう少し、と躊躇っていたから、今私はそのことを後悔している。こういう後悔は、もう、できるだけしたくない、と思う。
ラヴェンダーの傍ら、デージーはみな元気だ。憎たらしくなるくらいに元気いっぱいだ。だから余計に、ラヴェンダーの萎れ具合が気にかかる。
ミミエデンの新芽は順調で。これならしばらくは大丈夫なんじゃないかと思えるほど。ちょっと尖った葉の形をしている。まだまだ小さな葉だが、病に冒されてもいない。
ホワイトクリスマスの、白緑色の新芽。一日で倍くらいに伸びてきた。ぐいぐいという音が聴こえてきそうなほどだ。まだ閉じてはいるが、粉が噴いている様子もない。それはマリリン・モンローの新芽も同じで。紅く染まった新芽があちこちから芽吹いている。一番根元のところから出てきた新芽は、もう五センチほどに伸びただろうか。天に向かって、ただひたすら、手を伸ばすその姿。まるで子供のようだと思う。
ベビーロマンティカからも、新芽が出てきた。萌黄色のその新芽は、明るく、この鼠色の空の下でも輝いている。艶々とした葉。
パスカリたちも、紅い縁取りのある新芽を伸ばしている。その隣、桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹の蕾は、ようやっと開いた。いや、まだ、芯の方は固く閉じているが、そろそろ切ってやってもいい頃合かもしれない。今日帰ってきたら切り花にしてやろう。といっても、こんなに小さな花。どこに挿して飾ろうか。
ふと水槽を見やると、金魚たちが私の方へ私の方へと懸命に尾鰭を揺らしている。餌は十分にやっている筈なのに、と思いながら、私はちょんちょんと水槽を指で叩く。その音に反応してなのか、彼らは一層強く尾鰭を揺らし、口をぱくぱくさせている。私は蓋を開け、ちょっと少なめに餌を撒く。
部屋に入ろうとして、ふと耳を澄ます。がしがしがし。音が響いている。ミルクの音だな、と思い籠を見やると、やはりミルクが籠の入り口を齧っているところで。小屋がひっくり返っているのが見える。私がそっとそれを直してやっている間に、彼女は籠から飛び出してきた。あちゃ、私はミルクが怖いんだよな、と思いながら、彼女を抱き上げる。ひっきりなしに動き続けるミルクの様子に、私はちょっと焦る。どうしよう、噛まれるんじゃないか、と心が思っていることが強く感じられる。きっとそんなふうに思えば思うほど、ミルクにそれが伝わってしまうから、やめなければと思うのだけれども、止まらない。怖いものは怖いのだ。
ふと、思い出す。娘が生まれたての頃。私は娘が怖くて怖くて仕方がなかった。いや、娘がというよりも、生まれたての命の塊が、怖くて怖くて仕方がなかったのだ。もしちょっと力の入れ具合を間違えたら折れてしまうんじゃないか、とか、私は穢れているから触ってしまったらこの子にそれが伝染してしまうんじゃないか、とか。とにかく何から何まで怖かった。手を握ることさえ、おずおずとしかできなかった。
だから逆に、彼女が泣いてくれると、ちょっと嬉しかった。泣いている子をあやすのは、親の仕事。私の仕事。だから抱き上げるときは怖いけれども、それでも、遠慮なく抱いてあやすことができた。よしよしよし。そう言いながら、抱っこする。それはとても幸せな瞬間だった。
彼女が眠っているとき、私は不安で不安で仕方なかった。いつ息が止まってしまうだろう、と、しょっちゅう口や鼻に手を当てて、確かめてばかりいた。あまりにそればかり繰り返しているうちに、彼女の枕元から離れることができなくなって、トイレに行くことさえ怖くなってしまった時期もあった。でも、そうやってそばで見守っているばかりで、私はなかなか手を伸ばせなかった。
自分が穢れている。あの頃、私はその思いにまだ、強く囚われていた。被害に遭い、腕もぼろぼろで。これが穢れている以外の何なんだろう、と思っていた。こんな穢れた親の元に生まれたこの子は、なんて不幸なのだろう、と、そう思っていた。だからかわいそうでかわいそうで、申し訳なくて、触れることさえ憚られた。
今なら言うだろう、それがどうした、と。被害に遭ったからって何が穢れるんだ? 腕がぼろぼろだからって何が汚いんだ? そのくらい、どうした、どうってことないじゃないか、と。苦笑しながらも、そう言えるかもしれない。でも、あの頃は、そんなこと、とてもじゃないが言えなかった。思いつくことさえ、なかった。
今ふと気づいた。そういえば、あの頃あんなによく泣いた子が、今では全然泣かない子になった。どうしてなんだろう。あの子は我慢しているんだろうか、今。我慢して、泣かないんだろうか。最近あの子が泣いたのはいつだったろう。そう、DVDを見ていた時、あの子がうわーんと声を上げて泣いた。そういうことはあった。でも、それだけだ。
思い出す。「泣くのはずるい」と彼女は言っていたっけ。いつの間にか、そんなことを考える年頃になっていたのか、と。改めて、彼女の成長に驚かされる。
昨日突然、久しぶりに、彼女は私の布団に潜り込んできた。そうして私の体の上に足を乗せ、寝始めたんだった。私は「重いよぉ」と何度も文句を言ったのだが、お構いなしに彼女はそのまま寝てしまった。
最近思うのは。私がどんな姿をしていようと。どんな状態であろうと。彼女は私を求めているのだな、ということだ。私が穢れていようと何だろうと、そんなことどうってことないのだ。彼女にとっては。彼女はただ、母親である私をひたすらに真っ直ぐに求めている。ただそれだけだ。そこに理屈なんてものは、存在しない。
私がかつて、父母の背中に追いすがったように。娘は娘で私を求めている。私はそれに気づいておかなければと思う。何をすればいいかなんてことは全く分からないけれども。ただせめて、そういう彼女が在ることに、私は常に気づいていたいと、そう、思う。
そして、私は改めて、心に刻み込む。私が今一番大事にしたいものは。一番大切にしたいものは何か。それは、娘である、というそのことを。

お湯を沸かし、お茶を入れる。今朝は久しぶりに、レモン&ジンジャーのハーブティーにすることにした。香りが分かれば、このお茶はもっとおいしいんだろうに、と思う。まだ私にはうまく香りが認識できない。
半分開け放した窓からは、冷気がゆるゆると忍び込んでくる。さっきより、雲の色が濃くなった気がするのは気のせいだろうか。

ママ、このテレビの本持ってるんでしょ? 原作? 持ってるよ。私、それ読んでみたい。どれどれ、ほら、これだよ。今カバーつけてあげる。えーっ、こんなに小さい字でこんなにいっぱいページがあるの?! あるよ。だってテレビではたった一時間だったよ。テレビでは短縮してるんだよ、いろんなところを。要素要素を取り上げて、そうして一時間の番組に組み上げてるの。こんなに読まなくちゃだめなの? そうだねぇ、全部読まないと面白くないと思うよ。そもそも、これ、今のところ、シリーズで四冊出てるし。ええーっ、他にもまだあるの?! あるよ。げげっ。まだやめとく? と、とりあえず、読んでみる。読めない漢字とかは、聴いてくれれば教えてあげるよ。うーん、それは面倒臭い。はい? だって分からないと困るじゃん。何となくイメージで読んでけばいいじゃん。ま、それはそれでいいけども。本読んでる最中に、辞書調べたりするのって私、嫌なんだよね。いや、あなたの場合、普段だって辞書あんまり使わないじゃん。はははー。ばれてるかー。うん、ばれてる。ねぇママ、ママが居ない時、ママの本、いじってもいい? 後でちゃんと片付けておいてくれるならね。うん、片付けるから。とりあえず、その本、読めたら、その時また考えよう。うーん、これ、とてつもなく厚いよ、読み終わるのいつ? いつだろう? ママはどのくらいでこれ読むの? 一日あれば読む。ええーっ、ママ、異常だよ。わはははは。異常って…。ママの本まで読んだら、私、絶対クラスで一番になるなぁ。でも、読めるのかなぁ、絵のない本。まぁ、読んでご覧? これはテレビで今見たんだし、だいたい分かるでしょ。うーん、まぁやってみるよ。

ゴミを出し、二人して手を繋いで大通りを渡りバス停へ。
私の本はやっぱり、絵があるんだよねぇ、と言いながら、図書館から借りてきた単行本をぱらぱらめくっている娘。私はそんな娘を見やりながら、バスが来るのを待っている。
ママぁ、私さぁ、土曜日日曜日って、ずっと寝ていたいって最近思うよ。ははははは、それはいいかもねぇ、でも、ママは一度もそれ、成功したことないよ。必ず数時間で起きちゃうし。目が覚めると、もう横になってるのが面倒になるし。ママってかわいそー、寝っ転がってるの、私、大好きだよ。羨ましいこと言うねぇ。まぁ、できるときが来たら、そうすればいいよ。いつ? いつだろう? あーあ、まだまだずっと先かぁ! うーん。
今ママ何読んでるの? ん? 何これ、何て読むの? 虐待って読むんだよ、虐待サバイバーとアディクションって本。何が書いてあるの? いろんな虐待を受けて生き延びてきた人たちに対する治療と回復、みたいなことかな。…分かんないよ。ほら、母親に苛められたり、父親に苛められたり、そういうのってあるでしょ? そういうので病気になっちゃった人たちが、治療を受けて、元気になっていく、そこまでの過程が、いろいろ書いてあるの。なんでそんな本読むの? そりゃ、興味があるからだよ。なんでそんなのに興味があるの? うーん、それは、ママにとって近しい話題だからかもしれないねぇ。ふーん。
ママ、メール頂戴ね! そうして手を振って娘は右へ、私は左へ。別れてゆく。
ホームから見上げると、空にちょうど二羽の鳥の姿。大きく旋回し、港の方へと飛んでゆく。娘に、いってらっしゃい、がんばってね、とメールを打ったところで、電車がやって来る。
電車に揺られていると、娘から返信。「うん。じじに昨日ママが焼いたパン、ちゃんと渡すからね!」。何となく口元が緩む。
さぁ今日も一日が始まる。しっかり歩いていかなければ。


2010年05月28日(金) 
起き上がり、窓を開ける。明るい空が広がっている。でも空気は冷たい。ひんやりとした風が、少し強く吹きつけてくる。私は下ろしていた髪を一つに結わき、もう一度空を見上げる。空の天辺に雲はないけれど、地平線の辺りに溜まる雲が、ぐいぐいと流れ往く。それだけ風が強く吹いているということか。街路樹を見やれば、葉の裏を見せながら風に吹かれている。しんしんとした街景の中、唯一それらが動き続けている。
今、ラヴェンダーのプランターはこのベランダに置いてある。昨日怒りに任せてプランターをひっくり返した。植え替えるにはまだまだ早いのだろうデージーに申し訳なく思いながらも、それらをひとつずつ抜いていった。そうして広げた新聞紙の上、土をひっくり返してゆく。間もなくあの幼虫が現れた。私は思い切りシャベルでその体を真っ二つに切った。それだけじゃ足らなくて、シャベルの背で潰した。それでも足りなくて、足でさらに潰した。もう死んでいることが分かっても、怖かった。この生命力逞しい幼虫は、生き返ってきそうな気がして。そうして再びこのプランターの中に現れる、そんな気がして。
結局、プランターの中にいたのは、たった一匹の幼虫だった。そのたった一匹の為に、一本だけじゃなく二本目のラヴェンダーの根もほとんどなくなっていた。食われてしまっていた。あと少ししたら、このラヴェンダーもくたんと萎れていたのだろう。悔しくて悔しくて、たまらなかった。私は二本目のラヴェンダーも、思い切って三分割し、そうして新たに挿すことにした。
プランターの半分をラヴェンダーに、もう半分を、デージーに充てることにした。デージーのこの、何とか弱い根。これが再び土に絡み付いてくれるくらいになるんだろうか。いや、そもそも、ラヴェンダーだって、育ってくれるかどうか。もう情けなくて情けなくて、どうしようもなかった。毎日毎朝こうやって見つめていたにも関わらず、彼らを助けてやれなかった。ここまで追いやってしまった。
幼虫にとっては、根は生きる糧だ。それがあるから大きくなれる。だから本能で食っただけの話だ。私がいくら憎んだからとて、彼らにとってはそれが本能なのだ。一番罪なのは私だ。気づいていながら、ここまで手を出さないでいた。ただ見守るだけでいた。何てこった。本当に、どうしようもない。
プランターをひっくり返し、そうやって植え替える作業を続けながら、私は別のことも考えていた。容赦なく私の生活に入り込んでくるものたちの存在を、私は思っていた。土足で上がり込むそれらのものに対して、私はどういう対処ができるんだろう。無碍に追い払っていいものなんだろうか。それとも受け容れるべきなんだろうか。でも、受け容れ続けたら私が潰れる。私の生活が壊れる。
私は、私と娘との生活を今一番に考えるべきであり。それらを守るべきであり。もしその存在が、多少なりとも、たとえばこちらのドアをノックしてから入ってきてくれるとかしてくれるのなら、まだバランスも取れるんだろうに、そうじゃない、容赦なく入ってくる。そうして私の庭を踏みつけて、何も気づかず手を振って出てゆく。だから私はひどく疲れる。悲しくなる。一体どういうつもりなんだろうと思ってしまう。
か細い小さな小さなデージーの芽を、ひとつひとつ植え替えながら思った。だめだ、これでは。きちんとここからは靴を脱いで上がってね、と、せめてそれだけでも言えるようにならなければ、と。そう思った。今度同じことがあったら、そういう私の意志をちゃんと示さなければならない。そう、私が示さなければ。何も始まらない。
すべて植え替えた後、そっとそっと水を遣った。水に溺れる芽もあった。水が引いた後、それらをまた土で支え、何とか立てた。デージーにしろ、ラヴェンダーにしろ、ちゃんとこれから再生してくれるかどうか、全く分からない。分からないけれど。ここからまた始めるしか、ない。
しゃがみこんで、ラヴェンダーの葉にそっと指を伸ばす。ここに再び虫が飛んできて、卵を産み付けるかもしれない。そうなったらもうお終いだろう。それでも、賭けてみるしかない、彼らの生命力の強さに。祈るしかもう、術はない。
その傍ら、ミミエデンが風に新芽を揺らしている。そうだ、この子も、瀕死の状態だった。それがこうして新芽を出すまでに育ってくれたのだ。きっとラヴェンダーたちも何とかなる。信じるしかない。
ホワイトクリスマスは、新芽をにょきにょきと伸ばしているところで。白緑色のそれは、天を向いて伸びており。なんだかそれを見ているとほっとする。そういえばホワイトクリスマスも、以前伸ばしていた枝を深く深く切ったことがあった。まだその傷跡は株の根元に残っている。病に冒され、結局黒ずんできた枝を、私が切ったのだ。樹にとってあれは、大きな大きな傷だったに違いない。あれから片側だけが育っている。
マリリン・モンローからも紅い新芽が伸び出しており。それらはちょうど枝と枝の間に顔を出していて、これなら切らなくても何とかなりそうだなと思う。白い芽と紅い芽。同じ新芽なのに全く違うこれらの芽。彼らは今、それぞれに何を見、何を感じているのだろう。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かす樹の蕾。外側の花びらが今一枚だけ、ほろり、剥がれて来た。これは開く気配なんだろうか、それとも単に剥がれてしまっただけなんだろうか。私は見つめながら首を傾げる。どうしよう、切ってやるべきか、それとももう少し置いておくべきか。今日帰ってきて、その様子を見て決めよう。
私は玄関に回り、塀に寄りかかりながら校庭を見やる。もうこちらに出てくる必要はないのだが、それでも校庭やプールの様子を何となしに見たくなる。校庭に水溜りは数えるほどで。これなら今日、子供らが校庭で遊んでも大丈夫だろう。そう思う。その向こう、埋立地の高層ビル群の向こうから、朝の光が真っ直ぐに伸びてくる。ビルはその陰になって、黒々と聳え立っている。何ともいえない威圧感を、そこから感じるのは私だけなんだろうか。何処か冷たい、そんな威圧感。同時に、寂しさも感じる。がらんどうの寂しさ。人がどんなに集っても、そこは結局がらんどうに思える。その、寂しさ。

本を広げ、そこから要所要所をノートに書き出す。ただそれだけの作業なのだが、なかなか思うように進まない。ノートの字が、だんだんミミズのように見えてくる。
ふと、友人に言われた言葉が浮かぶ。あなたのそういう力ってお父さんお母さんからの血だと思う、と。
血、なんだろうか。分からない。私は父母から、ノートの取り方や勉強の仕方を教えられたことはない。小さい頃からおのずとそうしていた。字を書くのがそもそも好きだった。だから書き方の時間になると私は嬉しくてたまらなかった記憶がある。
白い紙に鉛筆で字を描いていく。ただそれだけのことが、私には嬉しかった。きれいに書けば書いただけ、ノートはきれいに埋まってゆく。後で見返した時、あぁちゃんとまとまってる、と思える。それだけでもう、嬉しかった。
だから、授業で取るノートと、清書するノート、それぞれあった。授業の時に走り書くノートの字は、だからもう、どうしようもなくぐちゃぐちゃで。私にしか読み取ることは不可能なほどの字だった。でも、どれほど先生が言ったことを残らず書くかがそこでは勝負で。勝負というのは変かもしれないが、私にとってはそれが大事で。先生の言ったことは残らず全部ノートに書き取ってやる、というような気持ちが、私にはいつでもあった。そしてそれを家に帰って整理する。自分に分かりやすいように並べ替えたり、ちょっと言い回しを変えたりしながら整理する。
そういう、淡々とした作業が、私は好きだった。
そうして何度もノートに書き写しながら、ようやっと覚えていく、そういう性質だった。それは多分、今も変わらない。
そういうのを、血というんだろうか。なんだか不思議な気がする。血、といわれると、ちょっと反発したくなるのはどうしてなんだろう。
母のフランス語のノートを、幼い頃、一度だけ見つけて覗き見たことがある。小さな流れるような文字で、私のような力の篭った字ではなく、流れるような文字がそこに、たくさんあった。辞書から書き写したのだろう意味や、参考書から書き写したのだろう例文が、そこに詰まっていた。一度見て、私はすぐ閉じた。なんだか、見てはいけないものを見た気がした。母の秘密を覗いてしまった、そんな気がした。
父は夜遅く帰ってくるにも関わらず、帰ってくると、必ず英語の勉強をしていた。NHKの英会話のテキストと、彼のノートが、食卓のテーブルの端に、いつも置いてあった。その中を覗いたことはない。でも、必ずあった。
努力を人前で、見せる人たちじゃぁなかった。努力をこれでもかというほどしているのに、それを絶対に人前で見せない。見せないから、他人には、まるで、ひとっとびにそれができているかのように受け止められてしまう。でもそれを、飄々と受け流す。そういう人たちだった。
あなたのお母さんは何でもできるからいいわよね、と言われるならまだしも、あなたのお母さんもお父さんもなんか気取っちゃってて、近寄りがたくていやな感じ、と言われることもあった。あんなお父さんお母さんの子だから、あなただってデキるんでしょ、と、のっけから言われることもあった。あんなお父さん、あんなお母さんって、一体何なんだ、と、私は心の中、いつも反発していた。一体何を知っていてそんなこと言えるんだ、と。何も知らないくせに。本当は何にも知らないくせに。
私は、知らぬうちに、父母のそうした姿を追っていたんだろうか。
ただ、ひとつ言えるのは、私は父母のように、飄々と立っていられるほど、強くない、ということだ。そのことを思うと苦笑してしまう。もし父母のように立っていられたら。どれほどいいだろうに、と思ったりもする。でも。
今思い出す。母がぽつり言っていた。言いたい人には言わせておけばいいの、同じレベルに落ちる必要はないのよ。自分は自分、そう割り切っていけばいいの。
ああ言ったとき、母は本当は、辛かったんじゃなかろうか。もしかしたら、他人の心無い言葉に、傷ついていたんじゃなかろうか。
友人の言葉を口の中で反芻する。そうか、血、かもしれないな、と、納得し、ちょっと笑う。それはそれで、いいかもしれないな、と。

朝練があるという娘を起こし、私はお湯を沸かす。生姜茶を、水筒分も作っておくことにする。それから娘のお弁当だ。インゲンに挽肉を少しと卵とで炒め合わせ、その間に作り置きしておいた肉団子に味付けする。それから缶詰のパイナップルを忘れずに。この前果物を入れ忘れたら、すかさず言われた。ママ、果物の入ってないお弁当なんて、お弁当じゃないよ、と。本当に悲しそうな顔をして言われたっけ。そんなもんなんだろうか、ちょっと不思議に思った。私の母の作る弁当には、果物なんて殆ど入っていなかったことを思い出す。そうしておにぎりは昆布のおにぎり。
ステレオからはSecret GardenのMovingが流れている。

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。私はバス停へ、娘は学校へ。
東から伸びてくる陽光が、くっきりとアスファルトの上、陰影を描いている。強い陽射しだ。バス停に立つと、陽射しがあまりに眩しくて、私は手を翳す。
やって来たバスは結構空いており。私は後ろの席に座って本を広げる。昨日図書館から借りてきた本だ。とりあえず目次をざっと眺める。
突然、乗り合わせていた赤子がうわーんと泣き出す。母親が慌てて立ち上がり、子供をあやし始める。客の数人が顔を上げただけで、他の人たちはみな、めいめいに何かをしている。ゲームをしている人、ノートを広げ勉強している人、ウォークマンを耳に当てている人、みんなそれぞれ。
結局終点まで泣き止むことなく、その母親は立ったまま駅に降りる。私はその脇をすり抜け、たかたかと歩く。駅は大勢の人が行き交っており。私はその間をじぐざぐに歩く。
川を渡るところで立ち止まる。朝陽を受けて輝く川面は、今白銀色に輝いており。どんなに両岸を埋め立てられていようと何だろうと、滔々と流れ続ける川。
さぁ今日も一日が始まる。私はまた歩き出す。


2010年05月27日(木) 
薄暗い中目を覚ます。窓を開けるとひんやりした空気が広がっている。辺りはまだずいぶんと濡れている。しんと静まり返った街は、まるで時が止まったかのように見える。私はしばし立ったまま、その静止画のような景色に見入る。
その時ぱっと、動くものがあった。あぁ雀だ。久しぶりにここで会った。私が立つ場所の、目の前の電線に一羽、痩せた雀が止まっている。なんだかちょっと様子が変だなと思って見ていると、立て続けに糞をした。なんだ、踏ん張っていたのか、とちょっとおかしくなる。すると今度はその雀は、私のすぐそばの手すりに止まった。そうして私の方をじっと見ている。私もその雀を見つめている。雀のくせに、こんなに人のそばに来るものなんだろうか、いやそもそも、こんなふうに人を見つめて、何かを欲しそうにするものなのだろうか。私は、手元に米粒を用意しておかなかったことを少し悔やむ。もし持っていたら、差し出すことができたのに。雀はしばらくそうして手すりに止まっていたが、やがて街路樹の方へと再び羽ばたいてゆく。
それにしても、何て空気がひんやりしているんだろう。Tシャツ一枚で出てしまったことを悔やむ。腕を少しさすりながら、私はしゃがみこむ。ミミエデンは順調に新芽を湛えており。挿してから、この枝はやけに元気に見える。一体何がいけなかったのだろう。あの古い株の、何がいけなかったんだろう。分からない。
挿し木たちを集めた、小さなプランターの中。うどん粉病を発見する。とうとううどん粉病がここにまでやってきたか、という感じ。でも、せっかく挿し木から出てきたばかりの葉を、今手折っていいものなんだろうか。私は迷う。このまま伸ばしておいた方がいいんだろうか。いややっぱり。逡巡し、しばらくそのままにしておくことにする。
ホワイトクリスマスは、白緑色の新芽を伸ばしており。それは、他の新芽の色と全く異なる。これがやがてこの古い葉のような、深緑色になるのかと思うと、ちょっと不思議。
その隣で、マリリン・モンローは、紅い新芽を芽吹かせている。あちこちから出てきた新芽。見方によっては、樹が紅い斑模様に見える。結構な根元からもひとつ芽が出てきた。これは、適度に伸びたところで切ってやらなければならないかもしれない。
ベビーロマンティカは、今、しんしんとそこに在る。花を全部無事に咲かせ終わって、ほっとしているかのようだ。新芽の気配も今のところ見られない。でも、葉はみんな元気いっぱいで、明るい緑色を輝かせている。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹の蕾。まだ閉じたまま。それでも、桃色の丸い粒がそこに、ぽてんと在るのは明らかで。ちょっとでもいい、何とか開いておくれよ、と私は祈るように思う。
パスカリたちの、紅い縁取りのある新芽たち。今のところうどん粉病の気配は見られない。このまま無事に、元気な葉を開いてくれるといいのだけれども。
部屋に入ろうとして、ふと見ると、金魚たちが私の方を追いかけてきている。私は蓋を開け、餌を振り撒いてやる。ちょっと突付いて、一度水中に潜り、そうしてようやく食べ始める。いつもの仕草。大きな体を尾鰭で支え、上手に餌を突付いてゆく。
玄関に回り、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。この中にあの幼虫がいる。それが分かっているのに、今何もできない自分。それが悔しくてたまらない。なんとも言いようのない気持ちが、ぐわぐわと胸の中渦巻く。今この時だって、もしかしたら、デージーのか弱い根を食べているかもしれない。或いはこの、今はまだ元気なラヴェンダーの根を食べているかもしれない。そう思うと、いてもたってもいられない気持ちになってくる。でも。せめてデージーがもう少し大きくなるまでは、いじることができない。
新たに挿し木したものたちは、元気に葉を広げている。やはり、水を吸い上げる力というのは偉大なんだなと思う。彼らが無事に育つことができるように、私には今何ができるんだろう。私は自然、唇を噛んでいることに気づく。この新たな挿し木にもし根が生えてきたって、それさえ食べられてしまうかもしれないというこの環境。
憎い。憎たらしい。久しぶりに、憎い、と思った。鉢の中に居るあの幼虫の姿が、ありありと浮かんだ。ふと、娘を小学校へ送り出したときのことを思う。それがどういう環境であるのかを下調べする暇もなく、余力もなく、私はただ、あの子を送り出した。後になって、そのことを後悔しても遅かった。それでも逞しく育ってくれている娘に、今私はただ、ひたすらに感謝するばかりだ。
校庭には幾つもの水溜りができており。そういえば昨夜雷は鳴ったんだろうか。そういう警報が天気予報で流れていたけれども。水溜りはまるで空の鏡のよう。流れ往く雲を映し出している。幾つも散らばる鏡の破片。
ふと見ると、プールの水がすっかり抜かれている。あれまぁ、いつ抜かれたのだろう。気づかなかった。今プールは、誰かがゴミを掻き集めたのだろう、底の中央にそれが集まっており。そういえば来月だったかには、プール開きがあるんじゃなかったか。娘の学校の予定表を思い出しながら思う。プール。プールには本当にいろいろな思い出がある。泳げるようになって、毎日毎日プールに通った。選手に選ばれ、飛び込み台に立って、飛沫を上げながら泳ぐ。それはたまらなく気持ちがよかった。台風がやってきている最中でも練習はあり、私たちは雨がばしゃばしゃ降りつけ風が唸る中、それでもプールで練習を重ねた。あの頃の先生たちは、今どうしているんだろう。卒業して、全くといっていいほど会っていない。もうあの小学校にあの先生たちは居ない。何処に行ったのかも私は知らない。もしも会えることがあるなら。今はただ、礼を言いたい。あの頃私を支えてくれてありがとう、と、ただその一言を伝えたい。
ふと思う。親子なのだから愛し愛されるのが当たり前だ、なんて言い草は、ただの偽りの神話だと。何が当たり前なんだ? 当たり前なんかじゃない。愛し愛されるのが日常だなんて、誰が言ったんだろう。嘘だろ、と思う。
親子なんだから当たり前。何が当たり前? 何も当たり前なんかじゃない。そもそも、愛してるって一体何だ?
私は子供を産む時、心底怖かった。自分の腹が膨らんでゆくこと自体、怖かった。ここに新たな生命が在る、ということに毎日怯えながら暮らしていた。怖くて怖くて、その恐怖に押し潰されそうになることだってあった。
虐待は連鎖する、誰かがそう言った。いや、会う人会う人が、そう言った。その言葉の向こうには、だからあなたも虐待するに違いないという言葉が含まれているようで、私はだから、怖かった。私も同じことを仕出かして、この子に自分と同じ道を歩ませることになるんじゃないか、と、そう思えて仕方がなかった。
産んだ瞬間、知った。あぁこの子は別個の命なのだ、と。私とは全く別個の、ひとつの命なのだと。それが、私を励ました。安堵させた。
私は確かに虐待されて育った人間だ。でも、私とはまた別個の命がここに在り。ならば、虐待が連鎖するかどうかはまた別の問題だ、と。そのことが、ありありと分かった。
血は繋がっている。間違いなく私の腹で育てた子だ。血は繋がっている。でも、何だろう、私とは全く別個なのだ、と、その時、はっきり思った。
だからこそ、私は、安堵し、素直になることができた。素直にこの子の方を向くことができた。そうして気づけば、この子を必要としている自分が在た。
そしてまた、この子も私を必要としている。そのことが、おのずと、分かった。
いずれは私たちは、それぞれにそれぞれの道を歩んでゆく。それまで私たちは、一つ屋根の下、共に暮らすんだろう。その中で、いがみ合いもすれば、怒りをぶつけ合うことも在るんだろうし、悲しみにくれることもあるだろう。また、共に喜び合い、抱き合うことだってあるんだろう。
でも、そんな中、いつも思っていたい。当たり前なんかじゃない、と。愛し愛されることは決して、当たり前なんかじゃない、ということを。そのことを私は、忘れたくはない。実際私にとってそれは、当たり前なんかじゃなかった。血の繋がった親子であっても、そうじゃなかった。
当たり前じゃない。だから、あぁ愛されているんだなと感じられた時、私は感謝する。とてつもなく感謝する。そして、私もそれに応えようと思うことができる。
いつだったか、とある人からの話に耳を傾けていた時、その人に突然言われたことがある。あなたはこの話、変だなんて思わないの? と。その話は、母親と自分との関係を語ってくれたもので。私にとってその話は、自然だった。母は愛する者、娘は愛される者だなんて考えは、私の中に全くなかったから、その人が、愛されなかった幼少期にどれほど寂しい思いをしたかがありありと分かった。その人が言った。私がこういう話をすると、たいていの人は、でもね、親は子供を愛しているのよ、それが当たり前でしょう?って言うんだ、と。それを言われてしまうと、もう何も言えなくなるの、私にとってはそれは、当たり前なんかじゃなかったから。
そう、当たり前なんかじゃない。母だから、父だから、娘だから、子供だから、愛し愛されるのが当たり前なんて、そんなのただの理想論だ。そう、当たり前なんかじゃなくて。ひとつひとつが、唯一無二の、特別なものだと、私は思う。
今私は、父母から、父母の形なりに、愛してもらっていると感じる。不器用な、つっけんどんな父母だけれども、それでも彼らは間違いなく私を愛してくれている、と。だから私はそのことに感謝する。
私は私で、父母を愛している。幼い頃に追い求めた形とはまた違った形で、私は今、父母を愛している。
そしてまた、私は誰よりも何よりも、娘を愛している。今の私の最優先事項は、間違いなく、この娘だ。
愛というものが何なのか、私にはいまだに分からない。分からないけれども、この気持ちを言葉にするなら、愛しているという他にない、とそう思うことができる。
私はそこから始めるんだ、と、そう思う。
私と娘の、私と父母との、唯一無二の関係を、そこから始めればいいのだ、と。今はそう、思う。

お湯を沸かし、お茶を入れようとしたところに電話がかかってくる。何となく、緊急の電話なんだろうなと思い電話に出る。
ひとしきり話を聴いて電話を切った後、私は空を見上げる。雲がかかってはいるが、今日は一日雨が降らないでいてくれるかもしれない。そんな気がする。
あの雀は何処へ行ったろう。今頃何か食べるものを見つけたろうか。そうであってほしい。

じゃぁね、じゃぁね、あ、冷蔵庫に調理実習用のトマト、入ってるからね。分かった! 手を振って別れる。
自転車に跨り、坂道を駆け下りる。信号を渡り、目の前に現れた公園の緑はもう、森のようで。茂りに茂っており。私は圧倒されて、しばし立ち止まる。息をゆっくり吸い込むと、緑の匂いが胸いっぱいに広がる。
大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。銀杏の葉もずいぶんと大きくなった。銀杏の葉群の向こうに、微かに光が見える。
「超えること、そうしたすべてを超越することは、途方もなく大きな注意を必要とします。この全的な注意は、その中には選択はなく、なるという、変化、変えるといった感じのものは何もありませんが、精神を自意識のプロセスから完全に解き放ちます。そのとき、蓄積している経験者は存在しません。精神が本当に悲しみから自由になると言えるのは、そのときだけです。悲しみの原因となるのは蓄積〔物〕です。私たちは日々、すべてのものに対して死にません。私たちは無数の伝統に対して、家族に対して、自分自身の経験に対して、他者を傷つけたいという自分自身の欲望に対して死にません。人はそうしたすべてに対して瞬間ごとに死ななければならないのです。その膨大な蓄積的な記憶に対して。そしてそのときにのみ、精神は自己―――それが蓄積の主体なのですが―――から自由になるのです」
辿り着いた海と川とが繋がる場所、暗紺色に、泥色を混ぜたような色味が広がっている。見上げると、鴎が二羽、低空を飛行しており。大きな翼は、東から微かに伸びてくる光をがっしりと捉えており。
輝く翼に思わず目を閉じる。さぁ今日も一日が始まる。


2010年05月26日(水) 
起き上がり、窓を開ける。蒸してる。何よりも先にそう感じた。いつ雨が落ちてきてもおかしくないくらいの雲が広がっている。天気予報は何と言っていたっけ。思い出せない。それよりも何よりも。気になることがある。私は再び部屋に戻り、玄関を開ける。ラヴェンダーのプランターを見やる。昨日、とうとう一本のラヴェンダーの枝が抜けた。ふとひっぱったら見事に抜け落ちた。根は一本もなく。つまり、このプランターの中にはあの幼虫がいるということで。根を食われたのだ、全部、見事に。ここまで伸びた枝をそのまま棄てるなんてできない。そう思って、三分割にしてそれぞれを再び挿してみることにした。その苗がどうなっているか、気になって気になって仕方がなかったのだ。
見れば、あれほど萎れていた葉が、ぴんと元に戻っている。水を吸い上げ始めたのかもしれない。一瞬ほっとする。でも。
このプランターの中の土は、もう駄目かもしれない。そもそも、この場所に置いておいたのがいけなかったのかもしれない。ここには虫たちがたくさん飛んでくる。去年アメリカンブルーの根を食われた時、全部を退治したつもりだった。でも、残っていたのだ。どこかに。
今、デージーが育ち始めたばかり。すべてをひっくり返してしらみつぶしに調べるわけにもいかない。でも、このままじゃ、全部が駄目になる。どうしよう。
いつになったら植え替えが可能になるだろう、デージーは。今はまだ無理だ、芽がでてようやく本葉を広げ始めたところ。もうちょっと、せめてもうちょっと伸びてこなければ、無理だ。
もう一本のラヴェンダーの苗をひっぱってみる。こちらはちゃんと根が張っているらしく、びくともしない。でも。それも時間の問題かもしれない。いずれは食べられてしまうに違いない。このままにしておけば、そういうことに、いずれ、なる。
どうしよう。でも、もう少しだけでも待たなければ。デージーを駄目にするわけにはいかない。せめて植え替えが可能になってからでないと。それまで、何とか耐えてくれないか。私は縋るように祈る。
ベランダから見た空は暗かったけれども、こちらの空はぐんと明るい。雲ってはいるが、朝の陽光の気配があちこちに見られる。私はその陽光を浴びながら、ただただ、ラヴェンダーのプランターを見つめている。
事件から十年、二十年が経とうとしても、その傷はやはり、突然に口を開けるもので。そう、それは唐突にやってくる。他人から見ればそれは、些細なきっかけに過ぎなくても。本人にとってそれは、とてつもない深遠に落下したかのような、そんな具合で。ようやく加害者たちのことを記憶の片隅に追いやることができたというのに、それを髣髴させるようなものが突如現れる。そうなると、もう駄目なんだ。それまで懸命にバランスをとって、綱渡りをしていた、その足が、綱を見事に踏み外す。それまで培ってきたものすべてが、ものの見事に崩れてしまう。
ここまで必死にやってきたのに。どれほど必死にここまでを積み上げてきたか知れないのに。なのにどうして、どうして今更。そう思っても、現実は容赦ない。容赦なくやって来る。
そしてまた、元の木阿弥。その、繰り返し。
だから絶望して、途方に暮れて、もうすべてを終わりにしたくなるのだ。
これほど頑張っても駄目なら、じゃぁ私にどうしろというのか。これほど踏ん張ってやってきてもそれでもまた駄目だというなら、じゃぁ一体何をすれば私は赦されるのか、解放されるのか。そんなこと誰に問うてみたって、答えは、ない。
それでも問わずにはいられなくなる。そういうときが、在る。いや、問うことにさえ疲れて、疲れ果てて、もう何も言うことも聴くこともなくなって、ただもう、自分を消去することしか見えなくなる、そういうときが、在る。
友よ。それでも。それでも、私はあなたに、生きてほしいと思う。それがどれほど残酷なことであるのかを承知の上で、それでも私は、あなたに生きていてほしいと、そう思う。
私たちの病気は厄介で、他人から見ればどうでもいいようなところで躓く。たとえば加害者と似た人が在た、加害者に関連する何かがそこに在った、加害者を彷彿とさせるものがそこに在った、もうそれだけで、私たちの日常は崩壊する。いとも簡単に、崩壊する。身動きひとつままならなくなって、声も出なくなって、食事なんてとてもとれなくなって、眠りなんてものだって遠のいていって。世界は一気に色を失い、バランスを崩し、まるで何千何万ピースのジグソーパズルを床にばらまいたみたいに、何もかもが木っ端微塵になる。
それを再び組み上げることが、どれほど大変な作業であることか。
一体それを何度繰り返せば、私たちは解放されるのか。
一体、死ぬまでに私たちは解放されることがあり得るのか。
きっとそれらに、答えなんか、ない。
答えなんかどこにもないから、だからこそ、私たちは生きて、生きていかなきゃならない。生きて、自ら答えを手にしなければならない。
答えをつかめるのは、自分自身、だけ、だから。
死んだら終わりだ。それで終わりだ。私たちが生きた証も何も、そこで失われる。いや、自らの手でそれを、葬り去ることになる。
それだけは多分、しちゃならないことなんだ。もうそれは、理屈なんて抜きに。
生きよう、生きていこう。これから先だって、何度こういうことが起こるか知れない。何度こういう目に遭うか知れない。それでも。
生きることを自らの手で葬っては、ならない。

ねぇママ、MYちゃん、大丈夫かな。大丈夫だよ、きっと。どうしてそう思うの? 大丈夫じゃなければ、ママは困るから。なんで困るの? MYちゃんに関する記憶、ママにははっきり残ってるから。だからMYが死んでも、MYはママの中に生き残ってしまう。生き残っちゃうと困るの? 重いよ、とても。人の生を抱えるのは、とても重いんだよ。そのことを、MYはきっとちゃんと分かってる。だから、そんな無責任なことは、彼女は、しない。ママはそう信じてる。そっか。ねぇこういうときって、友達って何ができるの? そうだね、信じて待つことくらいかな。それしかできないの? じゃぁあなたは他に何ができると思う? たとえば駆けつけて止めるとか、慰めるとか? こんなとき、誰に慰められても嬉しくないとママは思うけど。あなたはどう? うーん、ちょっとうざったいかもしれない。駆けつけて止めようと思っても間に合わないときもあるでしょう? そういうときはどうする? …そっか。そうだよね、間に合わないときの方が、きっと多いよね。じゃぁやっぱり、何もできないんだ。いや、何もできないんじゃない、信じて待つんだよ。待つのか、待つって、いやじゃない? どうして? ただ待つって、しんどくない? そうだね、それはしんどいかもしれない。でも、自分に唯一できることがそれなら、ママはそうしたいと思うんだよ。ママ、もしもだよ、私が死のうとしたらどうする? ん? あなたが死のうとしたら? うん、どうする? びんたして、抱きしめて、一緒に居るよ。えー、さっき言ったのと違うじゃん! それはね、あなたは私の娘だからだよ。ふーん…。私、MYちゃんのこと、待ってることにする。元気になるの、信じて待ってる。そうだね、また遊べるときが来るよ。きっとね。

お湯を沸かしに台所に立つ。するとゴロが、家から出てきて、後ろ足で立ち、こちらを見上げている。その目がうるうるしていて、あまりにかわいくて、私は思わず手を差し伸べる。おはようゴロ。私は声を掛ける。ゴロはいつでも、手に乗せるとそこから全然動こうとしない。手のひらの上、ぴくぴく動いてじっとしている。動いたとしても、私の指先にちょっと鼻をつけるくらいだ。走り回るミルクや、よじ登ってくるココアとは全く違う動きをする。ひとしきり背中を撫でてやって、私は彼女を籠に戻す。
体温がある、小さかろうと何だろうとそばに体温がある、というのは、それだけで人を慰める。やわらかい気持ちにさせる。あぁ生きているのだなぁと実感できる。
今彼女のそばに、そういった体温はあるだろうか。あるといい。あってほしい。

朝練のために早起きした娘のそばで、私は弁当を作り始める。茹でておいたブロッコリーに、シュウマイ、プチトマト、それから玉子焼きを入れ、あとはしそ昆布を混ぜたおにぎりを添えてできあがり。あぁ簡単すぎるお弁当だ。ちょっと申し訳なくなるが、まぁいいとしよう。
ママ、この花、もう少しで咲くの? ベランダに出ていた娘の声が響く。行ってみると、娘は桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹の前に座り込んでいる。そうだね、もう少しで咲くといいんだけれども。病気なの? うん、病気なの、だから無事に咲くかどうかは、ちょっと分からない。そっかぁ、咲くといいなぁ。そうだねぇ。
ホワイトクリスマスからも、新芽が出てきた。マリリン・モンローやパスカリからもそれぞれ新芽が顔を出し始めている。みんな無事に芽吹いてくれればいい。そうして陽射しをいっぱいに浴びて、精一杯生きてほしい。

じゃぁね、それじゃぁね、手を振って別れる。娘は学校へ、私はバス停へ。
徐々に徐々に空の雲が濃くなってきている。そういえば、持って出ようと思っていて、傘を忘れていた。でも今更遅い。バスがちょうどやって来た。
バスに乗りながら、生きること、死ぬこと、それぞれに思いを馳せる。答えなんてどこにもない、そんな事柄をあれこれ思いめぐらしていると、あっという間に駅に着く。
海と川とが繋がる場所で私は立ち止まる。灰色の空の色を映しているかのように、水の色は暗く沈んでいる。誰もいない。鳥たちの姿はどこへ行ったのだろう。
その時、海の方から鴎が一羽、飛来する。ゆっくりゆっくりと風に体を乗せ、旋回している。そうして再び、海の方へと、姿を消してゆく。
さぁ、今日も一日が始まる。私は、続く道を、さらに歩き始める。


2010年05月25日(火) 
起き上がり窓を開ける。辺りはまだ薄暗く。雨はようやく止んだようで。私が大きく伸びをしようとしたその時、東から真っ直ぐに陽光が射して来た。それはくっきりとした陰影を街景に生み出して。瞬く間に辺りは光の洪水になった。一瞬の出来事だった。激変するという言葉はこういうときに使うものなんじゃないかと思った。それまで薄暗い闇の中にあった街が、くっきりと浮かび上がった。あぁ、これが、朝の光だ。
濡れた街路樹もトタン屋根もみんな、きらきらと輝き始める。それまでうっすら残っていた煙のような湿り気も、瞬く間に薄れていった。すべてが朝の陽光に取り込まれて、瑞々しく生まれ変わるのだった。
私はしゃがみこみ、ミミエデンを見やる。ミミエデンの新芽の在り処を確かめる。ちゃんとそこに在る新芽。その姿に私はほっとする。
微かな風が流れている。その風に、ホワイトクリスマスが小さく揺れている。しんしんとそこに在る姿は雄々しく、たとえそれが小さな樹であっても確かにそこに在り。私を勇気付ける。
マリリン・モンローは新しい芽を根元から噴き出させようとしているところ。方向によっては途中で切ってやらなければならなくなるかもしれないが、今はただ見守っていることにする。紅い縁をともなった、瑞々しい芽がそこに在る。
ベビーロマンティカは少し疲れてきたようだ。当然だ、あれだけ続けて花を咲かせていたのだから。昨日液肥を継ぎ足してやったが、これで足りるだろうか。粒肥も継ぎ足してやったのが一週間前、しばらく様子を見ていようと思う。
挿し木を集めている小さなプランターの中。枯れてゆくもの、新たに芽を出すもの、それぞれに在る。葉は枯れても、枝は瑞々しくまだ残っているものもある。もうどれがどの種類だか、忘れてしまった。大きくなって、葉の様子がくっきりわかるようになって、あ、これか、と思い出すんだろう。それまでちゃんと育ってくれることを、今はただ祈るばかり。
パスカリたちはふたりとも新芽を湛え始めており。紅い縁取りのある芽が、それぞれ顔を出している。葉の裏を指で撫でてみる。粉のようなものはもうつかなくなった。農薬を撒いたのがよかったんだろうか。本当ならそんなもの、撒きたくはない。多少虫がつこうと、そのくらい、自然な成り行きだと思うからだ。でも、酷いときは仕方なく撒く。今回がそうだった。でも、撒いて逆効果の時もあるから気をつけなければいけない。
桃色のぼんぼりのような花を咲かせる樹。蕾はもうはっきりと桃色の具合がわかるほどになってきており。まん丸の蕾は、全身桃色で。私は今朝もそれを指で拭う。指に僅かに粉がつき。私はそれを土の上に落とさぬよう、気をつけながら払う。
窓際の水槽の中。ふと見ると、金魚が二匹とも、こちらに集まってきている。おなかが空いているんだろうか。昨日ちゃんと娘が餌をやったはずなのだけれども。私は指でちょんちょんと水槽を叩いてみる。大きな尾鰭を揺らして、金魚たちが指の方に集まってくる。私は蓋を開け、餌をひとつまみ、入れておくことにする。
玄関に回り、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。ラヴェンダーは二人とも元気に背を伸ばしている。こうした姿を見ることができるとほっとする。ついこの前までのあの姿は、本当にいたたまれなかった。いつこのまま立ち枯れてしまうかと、胸が痛かった。何が原因だったのかいまだにわからないが、こうして元気になってくれたのだもの、もうそれで十分。
デージーたちは小さな芽を次々広げており。六枚目、八枚目の葉を広げているものも在る。土の色の上に広がる小さな緑の粒。少し離れた場所からでも、もうずいぶんはっきりと緑の在り処がわかるようになった。細めの、三日月のような細い形の葉。ちょっと力を入れて触ったら、簡単に折れてしまいそうな儚さ。でも間違いなくここで、こうして生きている。
校庭には幾つもの水溜りが広がっており。大きなもの、小さなもの、混ぜこぜに、あちこちに散らばっている。あれらを飛び跳ねて回ったら楽しいだろうにな、と思う。昔、食パンを抱いた買い物の帰り道、そうやって水溜りにぼちゃん、ぼちゃんと入って飛び跳ねていたら、転んで食パンを泥水だらけにしてしまったことがあった。あれは怒られた。とんでもなく怒鳴られ、もう一度買いに行かされたっけ。あれ以来、私は、水溜りでそうやって遊ぶことができなくなった。とてもじゃないが怖くてできない。笑ってしまう思い出だ。
でも。土の上、砂の上の水溜りは、どうしてこんなに魅力的なんだろう。アスファルトにできる水溜りとは全然違う。生きた感じがする。その水溜りに足を乗せたなら、向こう側に行けそうな、そんな予感さえする。今日きっと、この校庭には大勢の子供らが集う。そうして、私が想像しているように、水溜りに入って遊ぶ子らもいるんだろう。ちょっと羨ましい。
ねぇママ、私ね、目標作った。何? 一万ページ、読むことにしたっ。何、一万ページって? 本だよ、本。へぇ、一万ページも読むの? 今ね、千七百と少し、読んでるんだよね。へぇ、そんなに読んだっけ? 今まで読んだ本で今数えられる本、全部数えた。ははは、そうなんだ。ねぇねぇ、ママの本棚で、私が読める本、ある? あるよ。いわむらかずおの「トリガ山のぼうけん」とか、あと森絵都の「カラフル」とか、それから、そうだな、湯本香樹実の「夏の庭」、「春のオルガン」、「ポプラの秋」、あと、梨木香歩もいいよ、ほら、「りかさん」とか読んだでしょう? あぁ、あれかぁ、読んだ読んだ。「裏庭」とか読んでみれば? え、文庫本でこんなにあるの? いいじゃん、読んでごらんよ。面白いよ。まぁ、ページ数は増えるなぁ。ははは、まぁどういう動機で読んでもいいけどさ。他には? 絵本とかもあるよ。酒井 駒子の絵本とか、ママ好きだから、いっぱい持ってる。あ、絵本じゃないけど、あさのあつこの「バッテリー」とかもあったと思うよ。出して来ようか? うーん、迷う。どれにしよう。ねぇ、ママ、「ぼくらの七日間戦争」って面白いの? 前に読んでごらんって言ったじゃない。忘れた? え、そうだっけ? そしたらあなた、今読みたくないって言ったんだよ。えー、そうだっけぇ、面白いの? そうだね、面白いよ、面白いから読んでごらんって言ったんだもん。そっかー。それうちにある? 今ない。でも、必ず図書館にもある本だよ。じゃ、そこで借りればいっか。そうだね、借りればいいね。でもさぁ。何? 私、文庫本って嫌いなんだよね。何で? なんか字が小さいし、絵もないから、つまんない。ははは、まぁ、そうかもしれないけど。でも、文庫本は持ち歩きに便利だよ。まぁねぇ、そうなんだけどねぇ。ねぇねぇ、他に何がある? あぁ、童話集ならいろいろある。何? 小川未明とか浜田広介とかアンデルセンとか。なんかよくわかんない。まぁ、言ってみれば昔話だね。そういうの、興味ある? うーん、あんまりない。恋愛小説がいい。恋愛小説っていっても、あなたの場合、少年少女の恋愛小説でしょ? 他に何があるの? 大人の恋愛小説ってのもあるよ。まぁ、ママはあんまり恋愛小説って読まないんだけどね。なんで読まないの? なんでだろ、一回読んだだけで十分ですってなっちゃうから、読みはしても、本は買わない、みたいな。そんなところがあるなぁ。へぇ、本なら何でも買うのかと思ってた。いやいや、一度読んだだけで終わりの本は、あんまり買わない。じゃ、ママの本棚は、みんな、繰り返し読んでるの? そうだね、たいてい繰り返し読んでる。一度だけで終わるっていうのは、基本的に、ない。へぇぇぇぇ。変なの。本って一回読めばそれで終わりじゃないの? えー、そんなことないよぉ、何度だって繰り返し、その時その時読みたくなる本っていうのがあるんだよ。あなただって、あばれはっちゃくとか若草物語とか何度も読んでたじゃない。そういえばそうか。ふーん、そういうもんかぁ。そういうもんだよぉ。読む時読む時で、感じるところが違ったりするしね。本は長生きするんだよ。長生き? あなたの本棚には、ママが小さい頃読んだ本とかが残っていたりするでしょう? それをあなたも読んでいたりするでしょう? だからね、本は、大切にさえすれば、いつまでも残っていくものなんだよ。ふーん。ママは、それがたまらなく魅力的に思えて、だから、本の仕事に関わろうと思ったんだ。そうなの? うん。私さぁ、最近先生になろうかと思ったんだけど、やめたの。なんで? 男じゃないから。え、男じゃないと先生だめなの? だって、女でいい先生っていないんだもん。「ヤンキー母校に帰る」みたいな、ああいう先生にはなりたいと思うけど。わはははは、そうなんだ。ねぇ、なんで私のこと女に産んだの? それは、あなたが女に産まれてきたからだよ。ママはあなたが産まれてくるそのまんまに産んだんだよ。ちぇっちぇっちぇっ。まぁいいやっ。ははははは。

お湯を沸かし、生姜茶を入れる。この季節になっても、私は基本、あたたかい飲み物を飲む。冷たいものは正直苦手だ。よほど暑くてたまらないという具合でない限り、あたたかいものを飲みたい。
開け放した窓の外には明るい空が広がっており。とりあえず朝の仕事に取り掛かろう。私は椅子に掛け直し、煙草の火を消して、机に向かう。

ママ、よく見るとさ、ミルクもココアも、ふたりとも足の指の数が足りないんだよね。あら、ココアだけじゃなくてミルクもなの? うん、ほら。あらまぁ、ほんとだ。ゴロはちゃんとあるんだけどね。ふーん、ま、いいじゃない。大丈夫だよ。ってか、うちにもらわれてきてよかったよね、この子たち。どうして? だって、もしかしたらいじめられてたかもしれないじゃん、足がないって言って。えー、そんなことでいじめるの? 普通いじめない? いじめるのかなぁ、うーん、そうなのかなぁ。普通はいじめるんだよ、うん。そうなんだ。でもさ、うちにいれば、一本足の指がなくても、どうってことないじゃん。うん、別にどうってことない。そうなんだーって感じ。だからね、うちにもらわれてきてよかったんだよ。ふーん。よかったねぇ、ミルク、ココア、よしよし。

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。荷物を背負って私は階段を駆け下りる。自転車に乗るのは久しぶりだ。よかった、今日晴れて。
勢いよく漕ぎ出して坂道を駆け下りる。目の前を車が走っているのだが、どうにもこうにもゆっくり過ぎて、私は追い抜かして走り出す。
公園の緑はどんどんその茂みを濃くしており。今、茂みの向こうで朝陽が弾けているのだろう、緑の向こう、燦々と降り注ぐ陽光の気配がしている。池の縁に立って、池を見やる。千鳥が二羽、向こう岸を歩いている。何かを探しているんだろうか。時折土を突付きながら、ぴょこぴょこと歩く。
私は彼らを驚かさぬよう、静かに歩いて再び自転車に跨る。大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。一番に出迎えてくれる銀杏並木も、朝の陽光の陰になって、黒々とそそり立っている。緑がひしめき合っているのが、ここからでも分かる。
そのまま真っ直ぐ走り、美術館の脇、モミジフウの樹のところで止まる。見上げるほど高いモミジフウの樹。高く高く伸びて、若葉を湛えた彼の姿は堂々とした威風を放っており。私は小さく挨拶して、また走り出す。

さぁ今日も一日が始まる。


2010年05月24日(月) 
寝苦しく何度も夜中に目が覚めたせいか、瞼が何となく重たい。寝具を跳ね除けて起き上がると、外は薄暗い。窓を開け外に出る。雨。真っ直ぐに降りつける、雨。
アスファルトもトタン屋根もみんな、ぐっしょりと濡れている。黒光りするその色味を、私は何となしに眺める。そんな中、新緑の色味だけがいきいきと浮かび上がっている。
しゃがみこんで、ミミエデンを見やる。また新しい芽の気配がそこに在る。赤く染まったその固い固い新芽。どのくらいで芽吹くだろう。またちゃんと開いてくれるだろうか。これから雨が続く季節。病に冒されたりしなければいいのだけれども。
ベビーロマンティカは花ももうない。今テーブルに飾ってある二輪の花でとりあえず終わりだ。明るい緑色の葉が、微かに雨に濡れながら茂っている。これまで本当にご苦労様。お疲れ様。しばらく休むといい。そうしてまた、時期が来たら花を咲かせて欲しい。そう思う。
マリリン・モンローは、枝葉を広げながらそこに在る。マリリン・モンローの枝に手を伸ばし、途端に引っ込める。棘が刺さったのだ。指の先から小さく血が滲む。マリリン・モンローは棘がとても多い。しかもしれは鋭く尖っている。多分私が今育てている中で、一番棘が多いと思う。ふと想像する。マリリン・モンローはそんなにも鎧を被っていたんだろうか、と。私はマリリン・モンローという人をスクリーンの中でしか知らないから、全く想像するしかないのだが。でもきっと、とてもとても傷つきやすい人だったのではないかと思う。
ホワイトクリスマスは濡れた葉をてらてらさせながらそこに在る。葉数はとても少ないけれど、滲み出るこの存在感。雨に濡れた姿はますますその輪郭を濃くし。けれど決して目立つ姿ではなく。ただしんしんと、そこに、在る。
新芽を出してきたパスカリたち。ようやく新芽を出すエネルギーが復活してくれたんだろうか。私はちょっと嬉しくなる。指先でそっと、その新芽に触れてみる。紅い縁をもった濃い緑色の新芽。やわらかく、ちょっと力を入れたら葉が折れてしまいそうな気がする。私はそっと指を離す。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹。その蕾は徐々に徐々にではあるけれども確実に膨らんできており。私は今朝もその蕾についた粉を丹念に拭う。無事に少しでも開いてくれたら、もうそれで十分。祈るようにそう思いながら。
挿し木をしている小さなプランターの中、幾つかの枝から新芽が伸びている。友人から貰って挿したパスカリの枝も、今のところ無事に育っている。このまま根付いてくれたらいいのだけれども。まだまだ油断はならない。
玄関に回り、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。ラヴェンダーは二本とも元気に背を伸ばしている。もちろん、そのうちの一本は、斜めに伸びてはいるのだが、でも、それでも葉が瑞々しく伸びている。冬に挿した時の背丈から、三倍ほどは伸びている。だからこそ重いのだ、支えきれないほど重くて、斜めになるのだ。それはとても自然なこと。そういえば母の庭ではもう、ラヴェンダーが美しく咲き誇っていた。両手を広げても余るほどのラヴェンダーの茂み一面から、花が噴き出して、微風に揺れていた。あれほどとはいわないけれども、いつか、この子たちをもっと増やして、さやさやと風に揺れるほど増やして、一斉に咲かせてみたい。そう思う。いつのことになるのやら、わからないけれども。
デージーはだいぶはっきりと芽の様子がわかるようになってきており。細っこくて頼りない芽だけれども、確かにそれは根を伸ばしてちゃんと立っており。ふと、娘が歩行器で動き始めたときのことを思う。歩行器で走れるような場所ははっきりいってその当時私が住んでいた部屋の中にはなかった。でも、私には歩行器の思い出があって。そう、私は歩行器でよく遊んだ。足でとーんと床を蹴って滑る、それがとてもとても楽しかったらしく、私は家具にぶつかり壁にぶつかりながらも、何度でも床を蹴って滑ることを繰り返して育った。娘は、狭い部屋ゆえ、床を蹴るということはできなかったものの、床に足をつけて、てこてこと歩いてみるような仕草を繰り返すのを見るのが、私はたまらなく好きだった。この子の足がそうやって、地べたについている、それを実感するのが、たまらなかった。そのかいあってなのかわからないが、娘は結構早く歩き始めた。歩き始めると、少し高いところにあったちり紙を空になるまで引っ張り出してみたり、当時一緒に住んでいた猫たちに頭突きしてみたり、いろいろやってくれた。何故だろう、デージーを見ていると、本当に、そうした懐かしいことをひとつひとつ思い出す。私が記憶の隅に忘れていたいろいろな思い出が浮かんでくる。
校庭を見やれば、幾つもの水溜り。埋立地の高層ビル群のてっぺんの方は、すっかり雨雲の中に隠れており。今日は一日雨が降り続くのだろう。私は見上げながら、街景をぼんやり眺めている。

友人が話し出す。自分が病気になるなんて、思ってもみなかった。自分だけはそうはならない、と思い込んでいたから。だからずっと、周りに何を言われようと自分は病気なんかじゃないって否定し続けてた。でも。歩いている実感や生きている実感、そもそもこの体の実感が失われていって、何も自分でできなくなっていって。あちこちの病院を訪ねて回った。ただの貧血でしょうって言われたり、ただの眩暈でしょうって言われたり、それはあなたの性格でしょうって言われたり。あっちこっちで様々なこと言われ続けて。でも、どうにも納得ができなかった。そうして二年経とうとしていた頃、それは離人感というものですよって説明を受けて、初めて、納得できた。
それから幾つも薬を飲んで、でも、飲むのにも罪悪感が伴うものなんだね。知らなかった。こんなものに頼って何になるんだろう、とか、人に見られると恥ずかしいとか、いろんな思いが交叉した。だからいつでも人に隠れて薬を飲んでた。それから、私はパニックになると、手を握る癖があって。爪を伸ばして手をぎゅって握り締めると、爪が食い込んで、血が滲んでくるんだよね。その血を見ると、ようやく安心した。安堵した。ああ、私の血だ、って。大丈夫、私はまだ生きてるんだ、って。血を見てやっと安心できた。だから、人から見えないところを、私はあちこち傷つけて、血を出して、そうやって自分を落ち着けて、なんとか社会生活を営んでた。
薬を飲み始めて、十三年が経つの。最近ようやく、常時飲むのは一種類の薬だけで大丈夫になってきた。それでもやっぱり、人前で飲むことはできないから、いつもポケットに入れてるんだ。
いまだに電車に乗るのが怖いの。電車に乗るときは必ず一番後ろに乗る。車掌さんがいるでしょう? 何かあったときはいつでも車掌さんにSOSを出せる、そういう場所じゃないと、電車に乗れない。十年以上も時間が経っているのに、おかしいよね、でも、いまだにそうなんだ、怖い。
私の場合、そんな大きな被害じゃぁなかった。それでも、こんなふうになるもんなんだね。あの時、初めて知った、ああいうとき声なんて出ないんだ、ってこと。声を絞り出そうとしても、声が出なかった。まるであひるが首を絞められたみたいな、そんな、とうてい自分の声には思えない、そんな代物がちょこっと出ただけで。そういうもんなんだね。
自分が実際そうなって、病気になってみて、日常ってものがどれほど幸せなものなのかを知った。当たり前にできてたことができなくなる。崩れていく。失われていく。それがどれほど恐ろしいことなのかも、その時知った。当たり前のことって、実は、全然当たり前なんかじゃぁないんだね。
今振り返って、今まで経験したことが、無駄だとは思わない。でも、比較するわけでも何でもなく、ただ純粋に思うのは、何も知らないで、平凡に生きられたら、それはとてもとても幸せなことだってこと、そのことを思う。
同時に、私は、多少なり知ることができて、それはそれでよかったと思う。もしああした経験がなければ、今の私はないんだし、そもそも、誰かの気持ちに寄り添うことなんて、考えもしなかっただろうから。しなくて済むならしないに越したことはないけど、でも、経験したことは、無駄ではないのだ、と、そう、思う。
普段控えめな友人が、自分のそうした気持ちをずっと話してくれる。私は相槌を打ちながら、彼女の話に耳を傾ける。二人注文したロイヤルミルクティーは、もうすっかり冷めてしまっているけれど、そんなことどうということはなく。窓の外、徐々に暮れてゆく景色。
彼女の話に耳を傾けながら、私は自分の記憶を辿っていた。私が病院に飛び込んだときのこと。病名を告げられたときのこと。薬を飲みすぎて倒れたときのこと。腕をざくざく切っては血まみれになっていたときのこと。今でも慣れない電車には乗りづらいこと。様々なことを思った。そしてふと思った。もう忘れてしまったことも、多々あるのかもしれない、と。友人の話を聴いて、あぁそうだった、そういう感覚が確かにあった、という形で思い出すことはできても、自分自身でおのずと思い出すことのない記憶も、今ではもうたくさんあるのだ、と。
それだけ時間が経ったのだな、と思った。
彼女が別れ際に言った。こんなふうに話ができるようになるなんて、思ってもみなかった。時間って、すごいね。
そう、ここに至るまで、友人にどれほどの血反吐の道があったろう。それを思うと、私には中途半端な言葉は掛けられなかった。できるのは、ただ、彼女に寄り添っていること、それだけだった。

見に行った展覧会の、写真のプリントたちに、目を奪われる。濃密な黒と白、それらが描き出すモノの輪郭たちの、なんと美しいことか。見終わる頃には、どっぷりと疲労していた。でもそれは気持ちのいい疲労感で。
帰りがけ、車窓の中から新緑を眺めていても、私の脳裏にはあの、モノクロ写真たちが闊歩していた。そしてふと思う。印画紙も現像液もフィルムも、どんどん失われていく今という時代。ここを越えて、写真は何処へ行こうとしているんだろう。越えていったとき、新たに見えてくるものは何なんだろうか。

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。私は階段を駆け下りて通りを渡る。ちょうどやって来たバスに飛び乗って駅へ。
電車が川を渡ってゆく。川は泥緑色をして轟々と流れており。私はその有様にしばし言葉を失う。混み合う電車の中、しばし物思いに耽る。
すべてを押し流してゆく川の力。まるでそれまで川の水が経てきた大地の怒りが、そこに集約されているかのようで。いや、怒りだけじゃない。怒りや悲しみや、様々な思いがそこに込められているかのようで。
さぁ一日が始まる。私は電車を飛び降り、階段を駆け上がる。


2010年05月21日(金) 
何度も目が覚めた。じめっとした空気が重苦しく、その重圧で目が覚めるのだ。そうやって気づけば朝を迎えた。起き上がり、窓を開けると、うっすらと靄がかかっている。でも、この明るさは。靄がきらきら輝いて見えるほどに明るい。あぁ雨は上がったのだ、今日は晴れるのだ、そのことを思い、私は大きく伸びをする。
街路樹の緑もアスファルトも屋根も何もかもが、まだ濡れている。雨はついさっき止んだばかりなのだなと思う。葉にくっついている雨粒に、陽光が降り注ぎ、まるで透明のキャンディーを転がしたかのような有り様。あちこちで、小さな笑い声が響いているかのよう。軽やかな軽やかな、笑い声が。
見上げる空には雲ひとつなく。美しい水色がそこには広がっていた。靄もじきに消えてしまうだろう。そうして街景はくっきりと、浮かび上がるのだ。
しゃがみこんで、ミミエデンを見やる。若葉がぴんと張っている。その葉を指で小さく弾く。ちゃんと弾き返されてくるその勢いに、私はほっとする。ちゃんと生きてる。そのことにほっとする。
ベビーロマンティカの残りの蕾たち。今二つ残っている。これらも、今日晴れたらきっと、開いてくるんだろう。もう先が綻んで、ぽっくりとした形を見せている。帰ってきて開いていたら、切り花にしてやろうと私は心にメモをする。
マリリン・モンローの足元、色の変わった葉を幾つも摘んでゆく。指で触れただけで、ぽろりと落ちるほどそれは脆く。私は落とさぬように手にそれらを握りながら、ひとつも取りこぼしがないように摘んでゆく。ステレオから流しっぱなしの音は、ちょうどSecret GardenのElanに変わり。私はその音に耳を澄ましながら、摘み続ける。
ホワイトクリスマスは変わらずしんしんと、そこに在る。微かな風を受けながらも、びくともしないその姿に、私は安堵を覚える。我が家のホワイトクリスマスは、そんな、立派な樹でも何でもない。はっきりいって貧相といった方が合ってる。それでも溢れてくるこの存在感。気品を伴ったその存在感に、私は励まされる。
パスカリたちは、新芽を出してくるわけでもなく。このところずっと沈黙している。今この樹の中では何が起こっているのだろう。私はあれこれ想像する。彼女らが吸い上げる水は足りているだろうか、肥料は足りているだろうか。他に何か、足りないものはないだろうか。そんなことを考える。そしてふと思う。野に咲く薔薇は、なんであんなに力強く、凛としているのだろう、と。誰が水を与えてくれるわけでもなく、誰が肥料を与えてくれるわけでもなく。それでも咲いて、それは、周りを圧倒するような気配を漂わせており。ああした野に咲く薔薇が、本当は私は一番好きだ。
桃色のぼんぼりのような花を咲かせる樹の蕾。ほんのりと桃色に色づいて、そこに在る。私は今朝もそれを指で拭う。拭って病が治るわけではないことなんて、百も承知で、それでも拭う。せめて無事に咲いてくれますよう、祈るように。
玄関に回り、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。ラヴェンダーはとりあえず今朝は元気そうだ。ちゃんと背筋を伸ばして立っている。その立ち姿を眺めながら、私は何となく微笑む。よかった、これなら大丈夫そうだ。一時はどうなることかと思った。このまま枯れてなくなってしまうかもしれないとも思った。それがこうして甦ってくれた。私はありがとうと心の中ラヴェンダーに声を掛ける。たくさんの花を咲かせてくれなんて、そんな贅沢は言わない。生きていてくれればいい、そう思う。こうして風を感じ、陽射しを感じながら、生きていてくれればいい、と。
デージーはだいぶその姿がはっきり分かるようになり。目を凝らさずとも、今ならもう分かる。そこに在ることがちゃんと分かる。早いものはもう六つ目の葉を広げている。きれいに二つずつ葉を広げてゆくデージーたち。その規則正しいリズムは、一体何処から生まれてくるんだろう。不思議でならない。この子の親たちも、そうやって芽を出し、花を咲かせ、種をつけていったんだろう。だからここに今こうしてこの子たちが在る。螺旋状に描かれる遺伝子の図が、ふと脳裏に浮かぶ。そうやって受け継がれてゆくものたち。生命の不思議。
雨上がりの校庭を見やる。幾つも幾つも生まれている水溜り。子供らがつけたのだろう足跡に沿って水が溜まっていたりもする。昨日は授業参観だった。雨の中でかけると、掃除をしていた娘の友達が早速声を掛けてくれた。正直に言うと、私は親御さんだけでなく子供の顔と名前もはっきり覚えていない。覚えなくてはと思うのだが、覚え切れない。その子たちのうちで見分けられたのはたった一人。情けない母だといつも思う。どこかで会ってるよな、ということは分かるのだが、名前と顔がどうしても一致しないのだ。娘の話の中に幾つも名前が出てくる。その名前だけは覚えている。でも、顔が思い浮かばない。こんな子かな、あんな子なのかな、と想像はできても、それ以上ができない。そしてこの時期の子供の顔はどんどん変化する、その変化に私は、まったくついていっていない。
授業参観は、6月に行なわれる林間学校についての説明を子供たちがしてくれる、という内容のものだった。全員が必ず一度は発表できるように工夫されているのだろう、順番が回ってきた子供たちが、時に恥ずかしそうに、時に堂々と、発表を続けてゆく。この子たちの、一年生の頃を思えば、それはすごい成長なのだと思う。でも、残念ながら私には、この子たちが一年生、二年生だった頃の記憶がほとんど残っていない。
あの頃はまだ、病の具合が酷かった。授業参観も、十分そこに居られればいい方だった。娘はそのことを誰よりも先に察して、手で合図してくる。その手に押されるように、私は教室を出、家に逃げ戻るのだった。あの頃、もし娘が、ママが見てくれないと言って泣くような子供だったら、私はどうなっていただろう。きっと崩れていたに違いない。本当に、娘には感謝している。
私は子供の頃、子供は親を選べない、ということをよく嘆いた。もし選べていたのなら、こんな親の元に生まれてはこなかった、と、そう思っていた。親を選べないように仕組んだ神様を、心底憎んだ。でも。
娘を産んで、本当に親を選べないで生まれてくるのか、と時々疑問に思うことがある。娘は私を選んで生まれてきてくれたんじゃなかろうか、と。たとえばこの授業参観の話でも、もし娘が娘でなかったら、私はあの頃無事に過ごしてこれなかったろう、そう思うと、娘は私を選んで、仕方なくであっても選んで、私を生かすために生まれてきてくれたんじゃぁなかろうか、と。そう思えてしまうことが、ある。
娘の順番になり、娘が私の顔を見て、しまった、というように顔を歪めながら発表をしていく。そして、多分ど忘れしたのだろう。尻切れトンボになって発表は終わった。ばつが悪そうな顔をしてしゃがみこむ娘。私は、ばつが悪そうにしていることこそが気になった。そんなこと気にすることはない。失敗しようと何だろうと、やってみること、それがまずは大事。
授業が終わり、娘が駆け寄ってくる。ママ、帰らなかったの? うん、途中で何度か帰ろうと思ったんだけど、あなたが発表してからと思って。あぁ、私、後ろの方だったからね、順番。うん、だから結局最後まで居ることになっちゃった。もう帰る? うん、すぐ帰る。この後親が集まるんでしょ? それには出ない? うん、それには出ないで帰る。それがいいかもね、うん、分かった、じゃぁまた後でねー!
降り続く雨の中歩いていて思う。娘がもし私を選んで産まれてきてくれたのなら。私もあの親を選んで産まれて来たということだ。あの父、あの母を自ら選んで。以前の私なら、冗談じゃないと思っていたところなんだろうが、今はそうは思わない。選んで産まれてきたともまだ思い切れないが、でも、あの親だったから今の私が在る、とは、思う。そうでなければ、今の私はなかった。ありえなかった。
ふと思う。私はもう知っていたんだろうか、こうした人生を歩むことを。あの親を選んだ、その頃の私から見て今の私は、どんなふうに見えるだろう。ちゃんと納得できているんだろうか。
そうだと、いい。

「混乱や対立、恥ずかしさや憤慨を生み出すものはこの、げんにあるものや、あるがままの自分の回避です。あなたは私や誰かに、自分が何であるかを話す必要はありません。しかし、それがどういうものであれ、愉快なものであろうと不愉快なものであろうと、あるがままの自分に気づいていることは必要です。それと共に生き、それを正当化したり拒絶したりしないことが必要です。それと共に生きなさい、それに名前をつける〔=レッテルを貼る〕ことなく。というのも、その名前は非難か正当化だからです。それと共に生きなさい、恐怖を持つことなく。というのも、恐怖は交わりを妨げるからです」
「人生を比較することなく、あなた自身を他の人と心理的に比較することなく生きることは可能でしょうか?」「全く比較しない精神は、並外れて機能的になり、並外れて生き生きとします。なぜならそのときそれは、あるがままのものを見ているからです」

ねぇママ、何やってんの? 本のカバー、取ってるの。せっかく本屋さんがつけてくれたカバーなのに、なんで取るの? 読み終わったら取ることにしてるんだ。へぇ、そうなんだ、あ、それいいかも、私もそうしよう。でもさぁ、ママ、こんなに読んだの? そうだねぇ、もう古本屋さんに売っちゃった本もたくさんあるよ。それでもまだこんなにあるの?! まぁ、そういうことだね。私の趣味とは全然違うね、ママの本、私には全然わかんない。ははは、そりゃ、まだあなたの年頃でこんな本ばっかり読んでたら気持ち悪いよ。ばぁばも言ってたよ。何を? ママの読む本はよくわかんない、って。はっはっは、そうそう、ばぁばもじぃじも、そう言うね。ママの本って何が書いてあるの? うーん、心のこととか、美術のこととか、いろいろだなぁ。あなたは今、恋愛小説ばっかりでしょ? なんで知ってるの? だって、図書館から借りてくる本見れば分かるよ。ったくもー、人の本勝手に見ないでよ! いいじゃんいいじゃん、読めばいいよ。ママもそういう時期はあったさ。今はもう恋愛モノって読まないの? うーん、そういえば、全然読まないな。ママ! だからだよ! 何? ママが恋愛できないの、だからだよ! 何、何、突然。ママ、恋愛モノ、ちゃんと読みなさいっ、それで勉強しなさいっ! 何勉強するの、いまさら。今さらとか言わないでっ。そんなんだから恋できないんだよなー、ママの今度の誕生日の目標は、恋愛することだねっ! やだよ、そんなの! だめー、それに決まりー! やだやだやだっ!

娘と一緒に家を出る。娘は朝練で学校へ、私はバス停へ。じゃぁね、それじゃぁね、手を振って別れる。
娘の小さくなっていく姿を見送りながら、思う。もう大丈夫だな、と。昨日のあの虚しさは、小さく消えてなくなった。いや、あの砂地の端に埋めてしまった。自然、私の体からもその感覚は消えていった。
ふと携帯電話を握って、私は住所録を操る。消去してしまおう、と思った。すべての連絡先を消去してしまおう。もう、私にもあの子にも関わりのない人だ。私は、登録されていたすべての連絡先を、そうして消去した。
私たちは私たちの道を歩いていけばいい。過去に縛られることなく、しがみつくこともなく、歩いていけばいい。
埋立地の高層ビル群の後方から伸びてくる陽光は、まっすぐに辺りに降り注ぎ。雨上がりの街をきらきらと輝かせる。
やって来たバスに乗り、駅へ。美しく晴れ渡る空が、窓の外に広がっている。そうして駅に着き、私は歩き出す。
さぁ今日も一日が始まってゆく。


2010年05月20日(木) 
少し体が重い。そう感じながら起き上がる。薄暗い部屋の中。窓を開けると、外は霧雨。粉のような雨がちらちらと舞っている。そう、降るというより舞うという言葉の方が似合う、そんな細かな細かな雨だ。微かに流れる風に沿って舞っている。
街路樹の緑にも、細かな雨粒がくっついている。葉の毛羽に沿ってくっついている雨は、いずれ雫になって落ちてゆく。街全体がしっとりと濡れている今朝の景色。私はゆっくりと、息を吸い込む。
しゃがみこんでミミエデンを見やる。ミミエデンは小さいながらも葉を広げており。先日まで在ったミミエデンの樹には、とうとうこうした葉を広げさせてやる機会がなかった。そのことを思い出す。思い出すから余計に、この枝にはせめて、たっぷりと生きてほしい、そう願わずにはいられなくなる。ゆっくりでいい、ゆっくりでいいから、たっぷりと生きて欲しい、そう思う。
昨日二つの大きな花を切ってやった後のマリリン・モンローは、ようやく荷物を降ろして、ほっとしたかのような雰囲気が漂っている。無事に咲かすことができたよ、無事に花を開かせることができたよ、と、それが安堵の溜息になって漏れ出ている、そんな感じだ。本当にお疲れ様。今その花たちは、揃ってテーブルの上、飾られている。鼻を近づけると、あのほんのり甘く、同時に涼やかな香りが漂ってくる。私はその匂いを嗅ぐたび、ほっとする。
ベビーロマンティカのひとつの花も、そろそろ切り花にしてやっていいかもしれない。まだ他にも蕾は残っている。今日帰ってきたら切ってやろう、私は心の中そう決める。明るい緑色の葉たちにも、今は雨粒が霧のように降ってきて、僅かに濡れている。艶々とした葉が、雨粒のせいでさらに輝いて見える。
ホワイトクリスマスは、並んだプランターの、一番端っこに植わっており。そのためか、一番雨に濡れている。その濃くて暗い緑色の葉たちが、いつもよりさらに、ずっしりとした重量感をもってみえるのは、濡れているせいなんだろう。私は葉を指で拭ってみる。肉厚の葉は、私の指の間でぶるんと震える。その瞬間、ぽろん、ぽろんと雨粒が落ちてゆく。きれいな澄んだ音色。
桃色のぼんぼりのような花を咲かせる樹。こちらにはあまり今雨はかかっていないようで。乾いたままの葉、乾いたままの蕾。私はその病に冒された蕾をそっと拭う。粉が土に落ちないよう、気をつけて。拭ってやると、一瞬でしかないのかもしれないが、それでも粉が消えて、姿が露になる。うっすらと桃色に染まり始めた蕾。咲いたらさぞかわいらしい姿になるんだろうに。このまま無事に咲いてくれるといい。咲いたらすぐさま切らなければならないとしても、それでも。
植えっぱなしのイフェイオンたちにも、雨は平等に降っており。幾つもの雨粒を湛え、疲れきった緑の葉たちが沈黙している。ほっと一息ついているかのようだ。ムスカリたちの葉はもう枯れてしまった。また来年まで、しばしの別れ。
玄関に回って、ラヴェンダーのプランターを見やる。ラヴェンダーたちは揃って元気にしていてくれている。よかった。あの、葉が萎れてきたときのラヴェンダーは、悲しかった。このまま枯れてしまったらどうしようかと思っていた。でも、結局何がいけなかったんだろう。何がこの子に足りていなかったんだろう。私は首を傾げる。原因がよく分からない。分からないまま、元気になった今の姿を見、私はほっとしている。なんか私ってちょっとずるいかも、と思った。結局、ラヴェンダーたちにすべて任せてしまった。私が手を出すところはほとんどなかった。水を遣る、という行為しか、私にはできなかった。申し訳ないと改めて思う。
デージーの芽は、ようやく娘にも識別できるほどに大きくなり。へぇ、朝顔の芽とかとは全然違うんだね!と言われてしまった。そりゃ違うだろ、と言いかけて、私は口を噤んだ。娘にとって、薔薇やイフェイオン、ラナンキュラスなどといった球根類はよく見てきたけれども、種から私が育てているところは、確かに殆ど見ていないのだ。そのことを思い出した。ほら、これが本葉なんだよ。ママ、本葉ってこんなに小さいんだっけ? うーん、種の種類にもよるんだと思うよ。ひとつずつ違うからね。なんで種一つ違うだけで、こんなに芽まで違うの? えー、同じだったら困るじゃない。どうして? 同じだったら、誰が誰だか分からなくなっちゃうじゃない。ふーん。人と同じだね。何が? 人も、ひとりひとり顔が違う、姿が違う、何もかも違う。ちゃんとその人が誰なのか、分かるように、神様がひとりひとり違うように作ったんだね。ふーん、ママって変なこと考えるね。へ? みんなさぁ、人と違うのが怖いとか恥ずかしいとか思うんだよ、普通は。ははは、まぁね、そうだよね、普通は。クラスの子でもさ、ひとりだけ違うことすると、すぐハブにされたりするし、ひとりだけ違う格好してると、陰口叩かれるし。たまったもんじゃないよ。うんうん、ママの時もそうだったよ。そうなの? うん、ママも、しょっちゅうハブにされたり、陰口叩かれたりしたよ。えー、そういう時、どうしてた? 黙って放っといてた。悔しくてこっそり泣く時もあったけどね。へぇぇ、ママでも泣く時あったんだ! あったよぉ。ママ、泣き虫だったんだよ、小学生の頃とか。えー、そうは見えない。ははは。でもさ、陰口なんて、どんなに普通にしてたって言われるときは言われるし、ハブにされるときはされるし。だから、いちいち気にしてたら、心がもたないからね。自分が間違ってないと思うなら、しゃんとしてればいい。そういうのって強いって言うんだよね。ははは。よくそう言うよね。でも、強いとか弱いとか、そんなの関係ないよ。自分にとってそれが間違っていないなら、しゃんとしてればいい。それだけのこと。ふーん。
人づてにその知らせが届いた。その人が、今、とある活動を始めたのだと。人づてに、その知らせが舞い込んできた。だから私はその人の活動がどんなものかを知ろうと、辿ってみた。するとそこには、私が作ったものが、その人の名前で上がっていた。
ぽっかりと、心に穴があいた。呆然とした、というのともまた違う。ぽっかり、ぽっかりと、心に穴があいたのを、私は感じた。
間違いなく、それは私が作ったもので。でも、そこに付されているのは、その人の名前であり。
私は、もう、辿るのをやめた。
ようやくその人が、活動を始めたというから、だから辿ってみようと思った。ようやくそういう気力が沸いてきたのだったら、応援したいと思っていた。ついさっきまで私はそう思っていた。でも。
でも、これは何なんだろう。
私は、とりあえず煙草を吸うことにした。煙草を深く吸い込んで、天井に向かって思い切り吐いた。でも、私の胸の中に巣食ったもやもやは、ちっとも消えてなくならなかった。それどころか、濃くなるばかりだった。
だから私は、自分の中に尋ねてみた。見つめてみた。
悲しい、とも違う。悔しい、とも違う。じゃぁ何なんだろう、これは。私の中にもやもやと、充満するこのものは、何なんだろう。私はじっと、それを見つめた。
あぁ、そうか、私は虚しいのだ、と気づいた。そう、虚しい。虚しいのだ。
私の作ったもの。それは、間違いなく私が作ったもの。音源も、私が奏でたままのものが使われている。当然だ、私はこれを楽譜化しなかった。おかしな言い方かもしれないが、もし楽譜化していたとしても、全く同じように再現できるものではなかった。
私が作った音源に、その人の弦楽器の音が重ねられて、それはネット上にアップされていた。作曲した者の名前は、その人になって。
そう、私は虚しいのだ。たまらなく虚しいのだ。こんなことをして、何になるというのだろう。一体何がしたいんだろう。そう思った。
虚しい、ということが分かって、私は困った。この気持ち、どう処理したらいいんだろう。そう思った。この湧き出る思いを処理する術が、今、見当たらない。
泣いたり喚いたりできれば、気持ちも少しは晴れるのかもしれないが。全くそういう気が起こらない。虚しいという以外に、何も起こらない。困った、どうしよう。
たとえば、その人に連絡して取り下げてもらうこともできるだろう。抗議することもできるんだろう。でも。
なんだろう、そういう気持ちさえ、沸いてこない。私はすっかり、虚しいに呑みこまれてしまっている。さて、どうしよう。私は頭を抱えた。そして、気づいた。まず、この気持ちの置き場所を考えよう。
私は自分の内奥の感覚に意識を集中した。この気持ちの置き場所は何処だろう。今私にとって一番心地いい、この思いの置き場所は、一体何処?
最初に、穴ぼこが浮かんだ。穴ぼこの中に落とし込んでしまおうか。一瞬そう思った。でも、それはできない。何故か、それはできないと思った。穴ぼこにとってそれは負担すぎる。すると次に、「サミシイ」が浮かんだ。そして。
あぁ、「サミシイ」の砂丘の端っこに、これを埋めさせてもらおう。そう思った。
「サミシイ」は、何も言わず、私を見守っていた。私がしようとすることに、何一つ口を挟むことなく、ただ黙って、私に寄り添っていた。私は、砂丘の一番奥、一番端っこに、だからその虚しいを埋めた。
「サミシイ」と一緒に砂丘の、海が見えるところに座り、しばし海を眺めた。すると、さっきまであったどっぷり呑みこまれているという感覚が、すっと薄れてきた。そして、しゅるしゅるとそれは小さくなり。やがて、虚しいは、私の一部になった。
あぁ、よかった、そう思った。私はまた来るねと挨拶し、「サミシイ」に手を振った。「サミシイ」は小さく笑って、こちらを見ていた。
私はもう二度と、その人に連絡を取ることはないだろう。私から連絡を取ることはもう二度とない。走馬灯のように、私の脳裏、その人との時間が駆け巡っていた。共にいた時間は、でももう、過去のものだった。
さようなら。私は小さく声に出して言ってみた。さようなら、さようなら、さようなら。
それで、終わりだった。

友人から電話が掛かってくる。友人が思い出したように言う。ねぇさん、娘が言ってたよ。何を? 私はパパがいなくても生きていけるけど、ママがいないと困るって。わはははは、そうなの? うん、そう言ってた。そんなこと言ってたんだぁ、驚きだなぁ。だからさぁ、ねぇさん、もうちょっと自信持っていいよ。自信? うん、頑張ってるよ、ほんと、だからさ、自信持っていいんだよ、ねぇさんは。いやぁ、それはなぁ、難しいよなぁ。気持ちは分からないではないけどさぁ、でも、今を精一杯頑張ってるじゃん、できること、できないこと、ちゃんと見分けて、頑張ってると思うよ。それは、ちゃんと娘にも伝わってるんだからさ。うーん、そうかなぁ、頑張ってるのかなぁ。うーん。

校庭にできた幾つもの水溜り。子供らの足跡は、雨に消えてしまったんだろうか、昨日在ったドラえもんの落書きも、もうそこには残っていない。
部屋に戻り、お湯を沸かす。生姜茶を入れていると、ゴロがもそもそと小屋から這い出してくる。おはようゴロ。私は声を掛ける。鼻をひくひくさせながら、こちらを見上げるゴロ。私は手のひらに乗せてやる。それにしてもゴロはずいぶん大きくなった。ミルクのような肥満体じゃぁなく、がっしりとしているが、でも、もうココアより完全に大きい。その頭をちょこちょこと指で撫でてやる。その瞬間、いやーな予感がした。ゴロを籠に戻し手のひらを見ると、そこには小さなうんちがあった。やっぱり。やれれた。

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。玄関を出ると、世界全体がけぶって見える。雨はやはり、降るというより、舞っている。
バスに乗り、駅へ。バス停からさらに歩く。海と川とが繋がる場所に、今は鳥たちの姿はなく。私はとことこと歩き続ける。
埋立地に立つ高層ビルの、てっぺんはみな、雲の中。あの雲の中に立ったら、どういう景色が見られるんだろう。どんな世界が広がっているのだろう。私は立ち止まり、見上げながら、そんなことを思う。
さぁ、切り替えていかないと。今日という一日が、始まってゆく。


2010年05月19日(水) 
起き上がり、窓を開ける。明るい空が広がっている。天気予報では今日は崩れるという話だったが、大丈夫なんだろうか。空を見上げながら思う。でも、今見上げる空はきれいに晴れており。うっすらとした雲がところどころにかかってはいるものの、それでも明るく。風が少し強く流れている。その風に靡くようにして、街路樹の葉々がざわざわわと揺れている。向こうの丘の上の団地はまだ眠りの中のようで、しんしんとそこに在る。真下の通りを行き交う人も車もまだなく。でもきっとこの街のどこかで、私のように今起きて空を見上げている人はいるんだろう。そんな気がする。
振り向くと、マリリン・モンローがぱっくりと口を開いており。思わず歓声を上げる。それは今まさに咲いているところで。私は部屋に戻り、植木鋏を持って出る。そうして二つのマリリン・モンローの花を、それぞれ切り花にする。鼻を近づけると、甘くて、けれど涼やかな香りが鼻腔をくすぐってくる。この香りを嗅ぐのもどのくらいぶりだろう。二輪いっぺんに花瓶に生けるのもいいけれど、ちょっと迷って、それぞれ一輪挿しに挿して飾ることに決める。こうして開いてみると、クリーム色にうっすらとオレンジの水彩絵の具を混ぜたような、そんな色合いをしている。冬に咲いたものよりずっと濃い色だ。これを母に届けたかった、と思う。せめて写真だけでも、とカメラを握り、シャッターを押す。最近パソコンを始めた母に、写真付きのメールを送ってみるのもいいかもしれない。
改めて、マリリン・モンローの樹を眺める。きっと疲れただろう。花を咲かせるために、懸命にそのエネルギーを使ったろう。ありがとうね、私は心の中声を掛ける。強い風に揺れるマリリン・モンローは、黙ってこちらを見つめている。本当にありがとうね。でも、これで終わりじゃぁないからね。そう言って、私はちょっと笑う。
ミミエデンの新芽はちゃんと開いてきており。濃い緑色の、ちょっととげとげしたような葉の形。決してかわいらしい葉ではない。かわいらしくなかろうと何だろうと、それでもこうやって芽吹いてきてくれることに私は感謝する。
ベビーロマンティカの葉というのは、明るい、萌黄色に近い緑色をしていて、形も丸くかわいらしい。その葉が風に揺れている。蕾たちも風に微かに揺れている。そのうちの一つがだいぶ開いてきた。ぽっくりぽっくり。明日には切り花にしてやった方がいいかもしれない。その開いてきた花はちょうど葉の陰になっていて、だからこそ早く切ってやりたいと思う。
ホワイトクリスマスは新芽の気配を湛えながら、しんしんとそこに在る。他の樹たちにどういう動きがあっても動じない、そんな気配が漂っている。濃緑色の葉は、少し埃に塗れているようで。私は指の腹でそっと、一枚一枚、拭ってやる。
桃色のぼんぼりのような花を咲かせる樹の蕾も、ずいぶん膨らんできた。ほんのり色づき始めている。微かに分かるその色味。本当にそれは桃色なのだ。昔ながらの桃色。花は小さくて、本当にあなたは咲いているの?と尋ねたくなるほど小ぶりで、でも、それが、その桃色にちょうどお似合いで。もしこの蕾が粉に塗れて咲くのだとしても、それでも私は楽しみにしている。
農薬を撒いた後のパスカリたちは、じっと黙っている。何の変化もない。私は葉の裏を撫でてみる。今朝は指先に粉のようなものがつくことはなく。とりあえず収まったんだろうか。それとも、今たまたまつかないだけなんだろうか。それは分からないけれども。続けて見守っていこうと思う。
玄関に回り、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。だいぶ元気になってきたラヴェンダー。私は、張りの戻ってきた葉を、そっと撫でてみる。くてんとなっていた時よりもずっと、弾力が戻ってきている。よかった。もう一方のラヴェンダーは、ちょっと斜めに伸びてはいるけれども、でも、変わらず元気にしていてくれる。ありがたいことだ。そうして土の方に目を移し、デージーの芽をひとつずつ見つめる。だいぶ大きく育ってきた。これなら少し離れた場所からでも、凝視すればちゃんと芽だと分かるだろう。ラヴェンダーよりもちょっと濃い目の色の葉たち。本葉をひろげてきたものがたくさん。こんな風の強い日でも、大丈夫なんだろうか。いや、大丈夫なんだろう。野に咲く花はみんな、そうやって生きている。
校庭の方を見やる。ちょうど埋立地の高層ビル群の向こうから朝日が昇ってきたところで。強い陽射しが真っ直ぐこちらの目を射る。東の空では雲がぐんぐん流れており。空はくるくると表情を変えている。
校庭に残る足跡は、そんな陽光の下、浮かび上がっており。ふと目を凝らす。あの、ジャングルジムの前に描かれているのは何だろう。確かに何かが描かれている。あぁ、ドラえもんだ。私は思わず笑ってしまう。誰が描いたのか知れないが、確かにドラえもんらしきものがそこに描かれている。ちょっと丸い顔が歪んで、横に大きいドラえもんだ。そういえばこんなお絵描きを見つけたのは、初めてに近いかもしれない。私はしばらくその絵に見入る。そういえば昔は、チョークを使ってあちこちのアスファルトの道路にいたずら描きをしたものだった。土の道路には指や枝で絵を描いた。みんなそうやって、遊んでいた。今の子供たちで、道路に何かを描いているところなど、そういえば見たことが殆どない。ああした遊びは、なくなってしまったんだろうか。車が通って危険だからと、遮られてしまうようになったんだろうか。なんだかちょっと、もったいない気がする。
そういえば娘は、小さい頃、トトロが好きだった。私が模造紙を出して、お絵描きをしようと誘うと、必ず、トトロ、トトロ、とねだった。私は見よう見まねでトトロを幾つも描いた。アンパンマンなどといったキャラクターより、もしかしたら彼女は、トトロのあの丸いあったかい体が好きだったのかもしれない。そんな娘も、考えてみれば、道路にお絵描きをするということを、あまりしてこなかった。何度かそれをしたことはあったが、近所の人に咎められて、やむなく諦めた。そんなに、道路にお絵描きするのはいけないことだったんだろうか。今思ってもちょっと不思議に思う。
砂場に指で絵を描いて遊んだこともあった。でも、その砂場自体、今では数が本当に少なくて。そして、近所の砂場は、時間が区切られていた。朝の九時から夕方の五時まで。それ以外の時間には網がかけられる、といった具合で。最近海の近くにまた公園はできたが、そこにも砂場はなかったっけ。何故砂場を作らないんだろう。あれほど楽しい場所はないだろうに。危険だから? その危険を運んでくる人は誰れ? 言ってしまえばそれはみんな、大人と呼ばれる人たちじゃぁないのか。その大人は、さんざん砂場にお世話になったんじゃぁないんだろうか。私はそんなことを思い巡らしながら、ぼんやり校庭を見やる。
最近思う。ひとりで過ごす時間の大切さ、を。それは、大人も子供も同じように大切なんじゃなかろうか、と思う。考えてみれば子供の頃、みんなで野原に集まり、めいめいが花輪を作って遊んだことがよくあった。あの時、一心に花を編んでいる最中というのは、みんながみんな、ひとりだった。一緒にその場所に居ることは居るけれども、みながみんな、ひとりに集中していた。ああいう時間って実は、とても貴重なものなんじゃぁないか、と、最近特にそう思う。
それだから、というわけでもないのだが、娘には、できるだけひとりで過ごせる時間を作ってやりたいと思うようになった。もちろん、家の中に私は居り、ちょっとドアを開ければ私はそこに在るわけなのだが、それでも、ひとりで何かに没頭する時間、というのを、彼女に作ってやりたい、とそう思うのだ。そろそろ彼女も難しい年頃になる。ひとりで考えて、ひとりで答を出さなければならないことも多々出てくるだろう。もちろん必要になれば私はそこに在るわけで。その時は私に声を掛ければいい。彼女が声を掛けやすい態勢で、私はここに在ればいい。
ママ、これ、何? あ。何? それはママの、昔の日記帳だよ。そうなんだ。ママ、こんなにいっぱい書いてたの? そうだねぇ、もっといっぱいあるよ。押入れの中に入ってる。どうしてこんなにいっぱい書くの? うーん、どうしてっていうか、書きたいから書いてたの。どうして書きたくなるの? そうだなぁ、書くとさ、すっきりするんだよ。それに、気持ちも整理できるし。どうして書くとすっきりするの? うーん、えぇっとねぇ、ほら、もやもやした気持ちってあるでしょう? ああいうのを、どうにかこうにか言葉に置き換えられると、あぁそうか!って納得できるときあるでしょう? まぁ、あるっていえばあるかも。そういう感じかなぁ。ママは、いろんなこと悩んだり考えたりするとき、必ず何か、書いて整理してた。吐き出してた、って感じかな。ふーん。こういうのって読み返すの? あ、全然読み返さない。どうして読み返さないの? うーん、なんでだろう、まだ、読み返す時期じゃぁないのかな。じゃぁどうしてとっておくの? ははは、それは、下手に棄てると恥ずかしいからかも。それに、自分の分身みたいなところがあるから、棄てられないっていうのもあると思う。ふーん。あなたも日記、書いてみる? え、やだ。あら、そうなの? まだ、いい。そっか。まぁ書きたくなったらそのとき書き始めればいいんじゃない? んー、私、踊ったり歌ったりする方が好きだな。あぁ、そうだね、あなたはそういうところがあるかも。なんか悩んだりいやなことあったりするとき、ぱーっと踊ったり歌ったりすると、すっきりするよ。ああ、それはいいよね。ママには、そういう術がなかったから。ママは踊ったりするの、好きじゃなかったからさ。もったいないなー、踊ればいいのに! ははは。まぁ、人それぞれの形があるってことだよ。
それにしても。私は、娘が返してくれた日記帳をぱらぱらと捲る。よくもまぁこんなにも書いたものだと我ながら思う。気づいた時にはもう、私は日記帳をつけるようになっていた。さすがに小学生の頃の日記帳は今もう残ってはいないが、でも、この家の中、押入れの奥には、中学生の頃からの日記帳が、ダンボールにごっそり、しまい込まれている。読み返すことなど、はっきりいってない。ないのだが、棄てられない。でも。死ぬ前には、すべて処分しておきたいと、そう思っている。
娘に言った通り、これは私の分身でもある。だからこそ自分の手で処分したい。そう思う。

ママ、じゃぁ行って来るね! はいはい、行ってらっしゃい。お弁当、ちゃんと作っておいてね。分かった分かった。じゃぁ気をつけてね。はーい!
今日から朝練が始まる。週に二日。七時二十分には家を出る娘。結局彼女はバスケットを選んだのだが、さぁて、どうなることやら。
でもちょっと羨ましい。ピアノのために、球技をできないできた私にとって、バスケットというのは憧れのスポーツの一つだった。あの、滑らかにシュートする姿は、私にとって羨望の的だった。それを今、娘がやろうとしている。思い切りやってくればいい、そう思う。
同時に、彼女に圧し掛かるのは、多分、人間関係だろう。もしそこで躓くことがあるなら、その時私がサポートしてやればいい。あとはただ見守るのみ。

二杯目のお茶を入れる。何となく、レモンティーを作ってみる。メープルシロップを少し入れて、レモン果汁を入れて。ほんのり甘いレモンティーのできあがり。
そのお茶を飲みながら、お弁当を作る。キャベツとベーコンの炒め物。玉子焼き。苺に鮭握り。本当に簡単に出来上がってしまった。こんなんでいいのか、と思うのだが、それ以上の工夫も、私にはできない。諦めることにする。
ついでに、夜のお味噌汁も作っておくことにする。娘の好きな玉葱の味噌汁。これがあれば、塾から帰ってきておなかが空いていても、何とかなるだろう。

「何かを失ったからといって、けっして絶望してはいけません、それが人間であれ、何か一つの喜びであれ、幸福であれ。すべてまたいっそうすばらしく訪れてくるものです。落ちるべきものは落ちるのです。われわれに属するものは、われわれのところにとどまります。すべてのことは法則にしたがって起こるのです。それは私たちの認識よりもっと大きく、私たちがそれに離反するようでも、それは見かけにすぎないのです。ひとは自分自身の内部に生き、生全体に思いをひそめねばなりません。生の幾百万と知れぬ可能性のすべてに、広さに、未来に。そういうものと向き合うとき、過ぎ去ったもの、失ったものは何一つないはずです。」(リルケ)

鍵を閉め、部屋を出る。さっきまであれほど燦々と降り注いでいた光が、雲に遮られている。見上げれば、空には雲がかかっており。それは灰色の雲で。
私は自転車に跨って、坂を下る。信号を渡り、公園の前へ。ちょうど手を繋いだ父娘が保育園へ行くところのようで。ゆっくり娘の歩調に合わせて歩く父親の姿に、私は目を細める。
大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。風が強い。びゅうびゅうと唸っている。その風を真横に受けながら、私は走り続ける。
さぁ今日も一日が始まる。信号が青に変わった。私は勢いよく、横断歩道を渡ってゆく。


2010年05月18日(火) 
起き上がると明るい光が窓の外広がっている。私は窓を開け外に出る。ベランダに立つと少しひんやりした空気が私を包み込む。そよそよよと流れる微風が心地よい。全体的に世界は白っぽく見えはするが、昨日よりもずっと澄んでいる。トタン屋根にちょうど陽光が射して来ており。白銀に燃える屋根。向こうの丘に立つ団地は、まだしんと静まり返っている。街路樹の葉群も、今朝は静かに佇んでおり。小さな若葉は、まだ微風に耐えられるほどの重さももたないんだろう、時折さややと小さく揺れる。
私はしゃがみこんで、ミミエデンを見つめる。暗緑色の葉が、ちょこねんとくっついている。懸命に広げられた手のひらみたいに、その葉はぴっと開いており。このまま育ってくれることを、ただひたすら祈る。
ベビーロマンティカはまた新たな蕾をつけており。だから今在る蕾は全部で四つ。そのうち二つは、だいぶ綻んできた。ぽっこりぽっこり開く花。もし味わったら、南瓜の煮つけのような、ほっくりした味なんじゃぁなかろうか。そんな気がする。ちょっと甘くて、ぽくぽくした味。
マリリン・モンローの蕾のひとつの首が、だいぶ重たげに撓ってきた。花に手を添えると、ずっしりと重い。この重さをいつも支えているのだから、それはそれはしんどいに違いない。これは支えを添えるべきか、それともこのままいっていいのか。迷うところだ。もう少し、もう少し開いたら、できるだけ早く切り花にしてやりたいと思ってはいるのだが。あと少し開かないと、それができない。もうちょっとだ、もうちょっと頑張れ。私は心の中、マリリン・モンローに声を掛ける。もう一つの蕾は相変わらず天を向いており。綻び始めた先の方を風に晒している。
ホワイトクリスマスに、新芽の気配が現れた。紅い紅い固い芽。枝と枝の間から、ちょこねんと顔を出している。これが綻び出すのはいつだろう。まだまだ先に違いない。違いないけれど、それでも気配はここに在る。それが、嬉しい。
農薬を軽く吹き付けたパスカリたちを見やる。私は一枚、一枚、葉の裏を確かめる。あのいやなざらざら感は残っていないかどうか。触って確かめる。すべての葉をそうやって確かめられたらいいのだろうけれども。パスカリはまだしも、桃色のぼんぼりのような花を咲かせる樹の葉は細く小さめで、すべての葉をひっくり返して見届けることができない。少しでも状態がよくなってくれればいいのだけれども。
桃色のぼんぼりのような花を咲かせる樹の蕾は、日毎大きくなっており。まだ色も何もついていない、白い蕾だけれども。私は今朝も指の腹でその粉を拭ってやる。それしか今私にできることがない。悔しいけれど。どうかほんのちょっとでもいい、綻んでくれることを、今はただ、祈る。
玄関に回り、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。そろそろ水を遣る時期だろうか。それともあと一日、待った方がいいんだろうか。ラヴェンダーの葉の具合を見ながら私は考える。あまりこまめに遣りすぎて根腐れを起こしたら元も子もない。それに今は、デージーの小さな芽もこの中にたくさん在る。
デージーの芽は、相変わらず目を凝らさないと分からない程度の小さなもので。それでもちゃんと本葉をつけてきているのだから、すごいと思う。この小さな小さな体の中に、一体何を秘めているんだろう。どんなものを孕んでいるんだろう。
ふと思い出す。娘が生まれて、できることなら母乳で育てたいと思った。でも、私の乳は、娘が望むようには出ず。一ヶ月もしないうちに、母乳では全く足りない状態になってしまった。結局、一ヶ月目の検診の際、混合でいきましょう、と先生に言われることになる。でも何故だろう、言われた途端、余計に乳は出なくなった。出そう出そうと思う程に、出なくなっていった。母親失格、という言葉が、その時浮かんだ。出産前にさんざん助産婦や母から言われていた言葉だった。私の傷だらけの腕を見て、こんなことばっかりしているようじゃ母親失格です!と。そう言われ続けたんだった。その言葉がありありと、思い出された。あぁやっぱり私は母親失格なのか、と、でも、泣こうにも泣けなかったことを覚えている。粉ミルクを溶きながら、どうやったら少しでも母乳に近づけることができるんだろう、なんて、無駄なことさえ考えた。そうして自分の腕を見、何処までもこの傷は私を追いかけてくるのか、と、そう思った。
結局、三ヶ月目には娘はすべてを粉ミルクで過ごすようになり。がりがりだった体はどんどん膨らんでゆき。いつのまにかぷっくらした赤ちゃんになっていった。そういえばあの頃、私は腕を切り続けていたんだろうか。覚えていない。娘がまさに赤ん坊だった頃、私はどうしていたんだろう。それから数年後、また大きな波が来るとも知らず。
何故こんなことを今思い出すのだろう。デージーのこの小さな小さな芽を見ていると、つい、娘が赤ん坊だった頃を思い出してしまう。デージーの芽と娘の小さな芽とが、重なり合うからかもしれない。
そういえば離乳食も、私は適当だった。ちゃんと作ったという覚えがない。何でもありあわせのもので済ませていた気がする。だから、今、友人たちの、離乳食を立派に作っている話を見聞きしたりすると、偉いなぁすごいなぁと思う。同時に娘に感謝する。あんなありあわせのものでも、ちゃんと食べてくれたのだから。今確かに、多少の好き嫌いはあるものの、食べないということはあり得ない。娘は私以上の量をしっかり食べてくれる。そういう娘を見ていると、私はひどく安心する。
そんな私だからだろう。友人に問われると、子育ては適当さが大事なのかも、と応えてしまう。思いつめたら終わりだ、と思うからだ。思いつめると、何もかもが行き詰まる。悪い方悪い方へと転がり落ちていってしまう。あぁでもそれは、子育てに限ったことではない。生きているそのこと自体、思いつめると、ネガティブな方向へと転がり落ちるところがある。適度に余白を持って、その余白で時に遊び、時に寝転がり、そうやって自分を楽にしてやらないと、何もかもが行き詰まっていってしまう。そういう時ほど、体を使って深呼吸をすることが大切になってきたりする。実感を伴った感覚が、自分を助けてくれる。深呼吸を考えた人って、実はすごい人だと思う。
校庭を眺めながら、私は足跡をひとつひとつ辿ってゆく。名もなき足跡たち。でもそれは、間違いなくそこに誰かが生きていた、その証で。唯一無二の標で。だからこんなにも、いとおしい。
部屋に戻り、顔を洗い、お湯を沸かす。生姜茶を入れ、椅子に座り、開け放した窓から外を見やる。さっきよりずっと明るい空が、そこには広がっている。

ママ、私、このドラマの主人公みたくなりたい。へ? どういう意味? こういう出会い、してみたーいっ! はっはっは、何それ。何がいいと思うの? だってさぁ、ちょっとずつちょっとずつ近づいていって、お互い好きだってことが分かって、恋人になって。ちゃんと好きだとか言い合うし、そういうところっていいと思わない? あぁ、ちゃんと好きだとか何だとか伝え合うところがいいってこと? うん、言わなくちゃ分からないじゃん。そうだねぇ、うん、それはいいかもしれないね。今、私、新しく好きな人いるんだよねー。あら、そうなの? でもさぁ、なんかちょっと、その人、冷たいっていうわけじゃないんだけど、クールなんだよ。へぇ、そういうのが好みなんだ。今まで好きになった人みたいに、一緒に遊ぶっていう感じじゃないんだよなぁ。ふぅん、そうなんだ。なんか、同じ教室にいても、ひとりですっとそこにいる、みたいな、そんな感じ。へぇぇ、そういうのがいいの? いや、なんかかっこいいから、好きになったんだけど。ははは。まぁ、片思いのときが一番楽しいっていうから、思い切りどきどきを楽しんだら? えっ、そうなの? うーん、ママはよくわかんないけど、一般的には、片思いのときが一番楽しいって言うらしいよ。変なの、両思いになった方がいいに決まってるじゃん! ははは。じゃぁ、両思いになれるように女磨きしてちょうだい。えー、何磨くの? たとえば靴磨いたり顔磨いたり。何それ。真面目に言ってんのに! ははは。まぁまぁ。ってかさぁ、ママ、いい加減恋したら? はい? 何突然言ってんの。前から言ってんじゃん。いい加減恋しなさいよ。別にぃ、今出会いもないから恋もない。女が廃るよ、女がっ。…、あなたに言われたくない。わーい、女が廃るんだよっ、早く恋しなよっ! …ほっといて! わはははは。

久しぶりに穴ぼこにあった。穴ぼこの周囲には風が静かに流れていた。でも、地べたにはまだ、草も何もなく。私は土を握り締めながら、思う。耕し方が足りないんだろうか。それとも他に、何か原因があるんだろうか。まだ穴ぼこの中に、何か埋もれているものがあるんだろうか。
穴ぼこはしんしんとそこに在り。私はだからしばらくその傍らに座っていた。目を閉じて耳を澄ますと、風の音が聴こえてきそうなほど、静かな時間だった。それは長い年月を経て生じてくる、そんな静けさだった。
先日本棚を整理した折、たくさんの、アダルトチルドレンに関する本が出てきた。もう二十年、三十年前に出版された本ばかり。その頃私は一生懸命こうした著書を読んで、自分を辿ろうとしていたんだと思う。でも、怒ることを否定してきた私には、それを辿ってみることしかできなかった。そうして年月を経て、今ようやく怒るだけ怒ることができて、その先にこの静けさが在った。その当時では思ってもみないことだった。
この静けさのお陰で、私はまたここから始めることができる。そう、思う。

ママ、うちって本いっぱいあるよね。そうかな。どうしてこんなにいっぱいあるの? うーん、それはママが本が好きだから。ママ、どうして本が好きなの? うーん、本を読むと、自分の知らなかった世界がそこに在って、読むことで世界がぐんと広がるから。ふーん、世界が広がるとどうなるの? うーん、自分が体験してみたいことが増えるよ。知ってることと体験することって違うの? それは違うよ。どう違うの? 知ってるっていうのは、頭で知ってるだけでしょう。でも体験するっていうのは、自分の身をもって知るってことだから、実感を伴うんだよ。実感って何? 実感? そうだなぁ、うーん、たとえばあなたが勉強してるとき、今までできなかった問題の答が突然ひらめくときがあるでしょ、そういう時、やったー!って思わない? 思う。やったー!って思ったことって、その後もちゃんと覚えてるでしょう? まぁね、うん。それとか、水泳でもいいや、それまでバタフライ泳げなかったのに、練習して泳げるようになるとさ、もう体が勝手に覚えているでしょう? うんうん。頭だけで理解したって、体は動かないんだよね。ふぅん、そうなの? うん、そうだと思うよ。頭と体両方で知って動けることって大事なんだよ。ふーん。でなけりゃ頭でっかちになっちゃう。頭でっかちって? あれ? 頭でっかちとか言わない? あんまり言わない。そうなんだ、ママの頃、そういう言葉、よく使ったよ。頭でっかちってさ、はっきり言えば悪口でさ、頭ばっかりよくって行動が伴ってない人のことを頭でっかちって言うんだよ。へぇぇ、そうなんだ。でもね、体験できることも、やっぱり限られているからさ、だから、ママは本を読んで、いろいろ知りたいと思うんだよね。知って、できることなら体験したいって。ふぅぅぅぅん。ママって変わってる! 何が変わってるの? それじゃ、今に本に埋もれて潰れちゃうよっ。ははははは、それもいいかも。えー、私、やだー! ははははは。

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。娘の手のひらの上には今朝はミルクが乗っており。小さな短い耳をつんと立てて、こちらを見つめている。だから私は彼女の頭をこにょこにょと撫でてやる。娘は外まで出てきて、見送りのダンスなんて言いながら、踊っている。どう見てもそれは、ドリフのダンスの延長だと、母は思う。
自転車に跨り、坂道を下る。信号を渡り、公園へ。茂る緑の匂いが、入り口の辺りにまで漂ってくるようになった。深く息を吸うと、胸いっぱいに緑の匂いが広がる。池の縁に立つと、今ちょうど陽光が、木々の間から射し込んでくるところで。池の水面がきらきらと輝く。
大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。埋立地も今日は風が緩く。私はそのまま自転車を走らせる。プラタナスの並木道、若葉がちらちらと、陽光に輝く。
さぁ今日も一日が始まる。


2010年05月17日(月) 
起き上がり窓を開ける。ひんやりとした空気が私を包み込む。空全体に、薄い薄い雲が広がっている。明るい陽射しがぼんやりと、街を覆っている。街路樹の緑は、そよそよよと風に揺れ、時折裏側の白緑色を見せている。世界全体がどこか、白っぽい。
しゃがみこんでミミエデンを見やる。新芽は間違いなくそこに在り。私はそっと指先でその葉を撫でる。ちゃんと生きている。そのことが指先から確かに伝わってくる。もうそれだけで、私は十分に嬉しい。
ベビーロマンティカは、次の蕾も徐々に綻んできており。もうじき開くんだろう。ぽっくり、ぽっくりと。先日切り花にした折、ついでに枝も少し長めに切って、それを挿し木にした。今小さなプランターの中、他の挿し木の枝と一緒に並んで植わっている。どちらかだけでも無事に根付くといいのだけれども。
マリリン・モンローの蕾は、昨日からぐんと大きく綻んでいる。あと少し、あと少し、だ。それにしても花の色が冬に見たものよりずっと濃い。肥料をたくさんあげたわけでも何でもないはずなのだが。何かが違ったんだろう。でも何が違ったんだろう。自分では分からない。
そういえば母の庭の中央に、真紅の薔薇が咲いていた。真っ直ぐに立った樹の、一番てっぺんに、凛々と咲いていたっけ。今でも鮮やかに思い浮かべることができるほど、それは鮮やかだった。ふと思う。母の庭の薔薇の樹は縦に伸びる。私のプランターの中の薔薇の樹は横に枝葉を広げる。この違いは、プランターか地べたか、という違いなんだろうか。ちょっと不思議。
ホワイトクリスマスは今日もしんしんとそこに在り。その存在感は相変わらず大きくて。私はその葉を指で弾いてみる。ぱつんっと揺れて、また元の位置に戻ってくる枝葉。大丈夫、この樹もちゃんと生きている。
パスカリたちの様子がやっぱりちょっと変だと思ったのは昨日。そうして葉の裏を丹念に見てゆくと、細かな粉がついており。これはおかしい、ということで、本当に久しぶりに農薬を撒いた。パスカリ二本と、桃色のぼんぼりのような花をさかせる樹と、その他二本。名前を忘れてしまった。どんな色の花が咲くのか、正直今すぐ思い出せない。あっちこっち枯れたり挿し木して増やしたりしているから、もうどれがどれだか、私が把握していない。全く情けない育て主。
玄関に回り、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。昨日よりはなんだか元気そうに見えるラヴェンダー。少し葉っぱがぴんとしてきた。これならいけるかもしれない。私は急に元気付けられる。このまま無事にいってほしい。祈るように思う。
そしてデージーは。早いものはもう本葉を出しており。よかった、順調に成長している。小さな小さな、本当に小さな葉だから、凝視しないと見逃してしまうけれど、それでも彼らは日に日に成長しているのだ。この命のしぶとさ。素晴らしいと思う。おなかにいた娘も、そういえばしぶとかった。おなかに芽吹いたことが分かって一週間後、出血し、切迫流産ということで即入院した。調べれば、前置胎盤で、このままでは妊娠を継続することは不可能かもしれないとも言われた。ひたすらベッドの上じっとして過ごす毎日。トイレに行くのにも許可が必要だった。中絶を周囲からこれでもかというほど勧められたのもこの時期だった。なのに、娘は、子宮口にかかっていてこれ以上成長したらもう諦めてくれといわれていた胎盤を、少しずつ逆方向に成長させていった。あれは一体何故だったんだろう。今でも不思議に思う。あれは私の力じゃぁなかった。間違いなく、生命の力だった。そうやって妊娠期間中の殆どを、絶対安静で私は過ごすことになったけれど、それでも、娘は必死に私の内にしがみついて、離れなかった。絶対に生まれてくるんだという意志が、まるでそこに在るかのようだった。その意志に突き動かされるようにして、私は毎日を必死に乗り越えた。そうして今、私と娘がこうしてここに在る。
ふと思い出す。そういえば、夫は逃げたのだった、と。そのことを思い出して、私は自然苦笑する。子供ができたことが分かり、それを最初拒絶して、夫が逃げ出してしまった時期があった。だから母子手帳には、私の名前しか記されていない。その手帳を見た助産婦に、何度叱られたか知れない。お父さんがいなくちゃかわいそうでしょ、ちゃんと名前が書けるように何とかしなさい、と。そう叱られた。そのたび、帰り道、私はひとり唇を噛み締め、涙した。でも何だろう、あの時私は覚悟ができたのだ。この子は私の子であって、他の誰の子でもない。だから私が育てていくのだ、と。そういう覚悟が、その時もうすでに、在った。まぁ結局、それが現実になった、ということか。
本葉を出した子らに向かって、私は声を掛ける。おまえたちの親はもうこの世にはいないけれど、でも、間違いなくおまえたちの体の中にはちゃんと在る。ちゃんと生きてる。だから、自信をもって、芽吹いておいで。待っているから。
校庭を見やると、幾重にも重なる足跡。昨日は野球チームの練習があった。その足跡たちだ。洗濯物をしながら耳を澄ますと、子供らの歓声が響いていたのを思い出す。回れ回れ、そこだ、いけー!と、何人もの子供の声が響いたと思うと、今度は監督らしき人の声で、しっかりやれ!と叱咤の声が響くのだった。
部屋に戻り、水槽のそばに立つ。それだけで、金魚は角のところに集まってきて、餌をくれ、餌をくれ、といったような泳ぎ方をする。でも私が餌をやると、すぐには食べず。しばらく水の中を漂って、それから、ようやく餌に食いつく。その時間差が、なんともいえない。
ふと見ると、ゴロが起きてきている。おはようゴロ。私は声を掛ける。ゴロは後ろ足で立って、前足をちょこんと出してこちらを見ている。私は餌箱に残っていたひまわりの種を摘んで、彼女に渡す。彼女は口で咥えたかと思ったらすぐさまほっぺたにその種をしまいこむ。ほっぺたに触ってみると、だいぶ大きく膨らんでいる。どうもたくさんの餌を今、そこに貯めこんでいる最中らしい。
ベランダで髪を梳きながら、改めて街を見回す。さっきよりずいぶん明るくなってきた。でもまだ白っぽく、街の輪郭はその向こうでぼんやりしている。晴れても今日は、一日こんな感じなんだろうか。見上げる空にはやっぱり薄い薄い雲がヴェールのように広がっており。
顔を洗いながら、娘との喧嘩を思い出す。ちゃんと学校の準備をしなさいよと私が言ったのに対して、彼女ははいはいと応えた。でも実は、準備など全くしていなくて、彼女は別のことをしていた。そのせいで、忘れ物を三つ、していた。
彼女には忘れ物が多い。私がいくら言っても、彼女は忘れ物を必ず何か一つはしている。父が私に怒鳴りの電話を入れたのも、実は娘の忘れ物のせいでだった。
私は娘を叱った。ママが言ったこと、何も聴いてなかったの?と言うと、彼女は何も返事をせず、押し黙っている。ママが尋ねているのに、あなたは返事をしないんだね。そう、分かった。じゃぁママも、あなたに話しかけられても返事しないから。私はそう言って、その後しばらく口をきかなかった。
娘はあれやこれや、私にちょっかいを出してきた。が、もうこれは、我慢比べだと思って、私は一切反応しないことに決めた。娘にその私の気持ちが伝わったのか、やがていやぁな感じの沈黙が、部屋の中、流れ始めた。
私が仕事の合間、煙草を吸っているところに、娘がやって来た。ママ。ママ。…。ママ、ごめんなさい。何がごめんなさいなの? ママがちゃんと用意しなさいって言ったのにしてなかったから。違うよ、ママの話をちゃんと聴いてないからママは怒ってるんでしょ。ごめんなさい。ねぇ、ごめんなさいって言葉だけ言えばいいってもんじゃないんだよ。言葉をいくら繰り返しても、そこに気持ちがこもってなかったら、何の意味もないどころか、その言葉は人の気持ちを逆撫でするものでしかなくなっちゃうんだよ。…。言葉を大切に使いなさい。ごめんなさいって言うなら、その時はちゃんと気持ちを込めていいなさい。はい。
それでお終いにした。後は彼女が考えるしかない。考えて、実行に移すかどうかは、彼女次第だ。私はそれを、ただ見守るしかできない。
つくづく思う。こういうとき、つくづく思う。片親っていうのは不自由だな、と。私が怒ってしまったら、もうそれだけで、彼女には行き場がなくなる。それだけで苦しくなる。もしここにもう一人大人がいたならば。その人物が彼女をフォローすることができる。そうして、そこで彼女は冷静に、考えることもできるんだろうに。
こういうときだ、彼女に、申し訳ないなと感じるのは。私が片親であるばかりに、彼女には余白が少ない。選べる余白が少ない。だから極力、怒りたくはないと思う。

久しぶりに「サミシイ」に会った。「サミシイ」の辺りには変わらぬ光景が広がっており。何故か私はそのことにほっとする。「サミシイ」は遠くの海を眺めながら、笛を吹いていた。そうしてこちらに気づくと、にっこり笑った。
私は、ここ最近あったことを、かいつまんで彼女に話す。彼女は黙って聴いている。私が話し終えると、二人の間には、沈黙がしんしんと流れた。でもそれは、決していやな沈黙ではなく。心地いい沈黙だった。
ねぇ、今あなたは私に何をしてほしい? 私は尋ねる。すると「サミシイ」はしばらく首を傾げて考えている。私はそれを見つめている。
「サミシイ」が言った。別れは別れとして受け止めて、次に進もう。
少し意外だった。「サミシイ」は、あの別れを悲しく受け止めているに違いないと思っていたからだ。でも、返ってきた言葉は違った。受け止めた上で次に進もう、だった。
私がじっと彼女を見つめていると、彼女から感じ取れるのは、ただ、やれることはやったでしょう、それならもう、次に進もう、だった。
私は頷いて、立ち上がった。また来るね、と挨拶をして、その場を後にした。
そしてふと思った。私なんかより、「サミシイ」や穴ぼこの方が、ずっと頑丈で、タフなのかもしれない、と。ちょっと苦笑した。苦笑しながら、私はやっぱりまだまだだな、と思った。

じゃぁね、それじゃぁね。娘の手のひらの上にはココアが乗っている。きっとさっき起こされたばかりなのだろう、とろんとした目をこちらに向けて窺っている。私はココアの頭をちょこちょこと撫でて、娘に手を振る。
坂を下り、信号を渡り、公園へ。鬱蒼と茂る緑の中、こじんまりとした池。池の縁に立って、改めて空を見上げれば、濃い緑の向こう、白く煙る空が広がっている。茂みから出てきた猫が、いきなり座って毛づくろいを始める。
再び自転車に跨り、大通りを渡って高架下を潜り、埋立地へ。街路樹の銀杏たちは風にその身を晒しており。さやや、さややと揺れている。
プラタナスの樹たちの若葉が、ちょうど今朝陽を受け、輝いている。新しく建てられたビルの緑たちも、今一斉にその身を陽光に晒している。まだ残る空き地には、コスモスのような花びらの、オレンジ色の花が揺れている。何処からともなくやってきて根付いた種が、こうして花を開かせる。巡る生命。
さぁ今日も一日が始まる。青に変わった信号を、私は勢いよく渡ってゆく。


2010年05月16日(日) 
窓を開ける。少し冷たい空気が広がっている。うっすらと雲のかかった空。あぁ今日は曇りなのだなと納得する。そういえば昨日の天気は、と思い出そうとしてすぐ思い出せない自分がいた。忘れているらしい。でもこの、忘れるという術、ないより在った方がずっと、楽に生きることができる。確かに仕事の技術などは忘れたら困るのだが、そうでないことは適度に忘れるのがいい。忘れて、その都度その都度新しく体験する方が、ずっと楽だし楽しい。そういえば、忘れるという術を失っていた時期が、自分には在った。それは私が殆ど眠りから離れていた時期とも重なる。一日が一日でなく、昨日も今日も明日も繋がっている、そんな毎日だった。延々と連なる時間の、あらゆることを記憶していた。細かな、どうでもいいことまで逐一私の脳は記憶し、ちくちくと私を刺した。そのせいで幾つのものたちを失ってきただろう。私が忘れるという術をもたなかったために、どれほどの多くのものを失ったろう。今思い返すとそれは、怖いくらいだ。だから、眠れるようになって、適度にものを忘れるようになって、私は、生きることが本当に楽になった。重石がひとつ、とれたような、そんな気さえする。
街路樹の緑は、揺れることもなくしんしんとそこに在る。仄かな光に照らされた明るい緑色。もう萌黄色ではない。風に晒され、日に晒され、時間に晒されていくうちに、萌黄色は頑丈な色合いへと変化していく。若葉はもう若葉ではなく、肉厚の、たっぷりとした葉になってゆく。
私はしゃがみこんで、ミミエデンを見やる。小さな小さな挿し木から、萌え出てきた葉。ベビーロマンティカよりずっと濃い目の緑色の葉。ミミエデンのこんな葉を、私はとても久しぶりに見る気がする。
ベビーロマンティカの蕾たち。先っちょが僅かに綻び出した。今樹に残っているのは三つの蕾。昨日二つを切り花にした。今テーブルに飾ってある。小さな花なのに、その存在感は大きい。ぽっくりと丸い花。
マリリン・モンローの蕾は、綻び出してはいるものの、そこからちっとも動こうとしない。いや、私の目に分からない程度には、日々動いているのだと思うのだが。でも、何だろう、ちょっと疲れ気味なんじゃぁなかろうかと思う。もう蕾を湛え始めてどのくらい経つか。かなり長い時間が経っているはずだ。その間、この蕾を保つために、この蕾を開かせるために、きっと樹の中では必死にエネルギーをかき集めているに違いない。もうちょっとだよ、もうちょっとで花が咲くよ、頑張れ。私は心の中、マリリン・モンローに声を掛ける。
ホワイトクリスマスは相変わらずしんしんとそこに在る。あまりにしんしんとしていて、その存在はもう、そこになくてはならない、そんな代物になっている。変化せずとも、ただそこに在り続けるべき、そんな存在。
パスカリたちは、まるで今、これからどうしようか考えあぐねているような気配がする。新芽を出そうか、どうしようか、と考えているような。出す葉出す葉、すべてが病葉で、きっとパスカリも困っているに違いない。もういい加減新しい元気な葉を出したいと思っているに違いない。でも大丈夫、あなたがいくら病葉を出してきても、私は諦めることはないから。だから安心して、次の芽を出すといいよ。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かす樹。蕾は刻々と大きくなっていっており。それはやはり、白く粉を噴いており。だから私は今朝もその粉をそっと、指先で拭う。病に冒されていようと何だろうと、もうここまで来たのだから、咲いて欲しい。そう思うから。
玄関に回り、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。デージーの芽は、もうあっちこっちから萌え出ており。でもそれはとても小さくて。だからちょっとプランターから離れたところから見ると、まるで土の模様のようにさえ見える。それほど小さい。でも。確かにこれは生命なのだ。生きているのだ。これを見ていると、娘が私の子宮に宿ったときのことを思い出す。まさにそれは点だった。小さな小さな、これっぽっちの点で。機械で目の前に映し出されても、最初それが何だか分からないほどで。あの時私は、何をどう捉えていいのか、心底惑ったのを覚えている。それがいつの間にか目や口や鼻や、骨が見えるようになって。あれよあれよという間にヒトの形になってゆき。一体何が自分の体の中で起こっているのかと、戸惑う毎日だった。先日棚を整理していたら、突然、妊娠当時の日記が出てきた。もう色褪せたコピー写真が、そこにはいちいち貼ってあり。前置胎盤だった折のもの、切迫流産で入院した折のもの、微弱陣痛に悩まされていた頃のもの、様々な記録を改めて見、ちょっと笑った。もう一冊は、娘が生まれた当初の日記で。夜泣きする娘を抱っこしながら記したらしい、蚯蚓のような字の頁もあった。ふと思う。デージーに今、親はいない。ひとりで芽を出し、根付き、そうして成長し花を咲かせようとしている。その心細さはいかほどだろう。いや、それとも、エネルギーに溢れているのだろうか。もうここにはいない親が残した栄養を食べて、今必死に、次の芽を出そうとしている。そう思うと、いとおしさも倍増する。育て、育て。そうしていつか花を咲かせ、種をつけておくれ。祈るように思う。
ラヴェンダーの一本はまだ、しんなりと葉を垂らしており。心配は募る。このまま駄目になってしまったりしないだろうか。気がかりだ。でも、今できることは何もない。ただ祈るのみ。
もう一方のラヴェンダーは、根元から新たな芽を出しており。これで三つ目。そしてその新しい芽はぴんと立って、空を向いており。元気に育てよ、このまま。私は指でそっとその芽を撫でる。
昨日父から、怒りに任せた電話が朝入った。とんでもない怒鳴り声が、がんがんと受話器で鳴り響いた。何故この人はこんなにも怒りを爆発させているのだろう。私はそう思いながら、受話器を握っていた。そして思ったのは、今はただ彼が爆発させている怒りに付き合うしかない、ということだった。だから、うんうん、と相槌をうちながら、ただひたすら、私は耳を傾けた。
以前なら、こうはいかなかったな、と思う。以前の私なら、その怒鳴り声に慄いて、抗って、泣くか喚くかしていた。父の声をどうにか遮ろうと、電話を放り投げていたかもしれない。でも何故だろう、そうしなくても、もう大丈夫な気がした。
ちゃんと話を聴けば、いつか話は終わるし、父のこの怒りも行き場を見つけるだろう。そんな気がしたのだ。今とんでもなく怒鳴り散らしているけれど、さんざん怒鳴り散らせば、必ず終わりは来るし、父自身がはたと気づくに違いない。そう思えた。
父の怒鳴り声に耳を傾けながら、今、自分にできることは何だろう、と考えている自分がいた。それは、今までの私には、見られない感覚だった。
怒鳴るだけ怒鳴って、一方的に言いたいことを言った父は、ようやく気が済んだのか、自分から電話を切った。ここでも、何故だろう、あまりいやな気持ちはしなかった。気が済んだならよかった、とさえ思った。切れた電話をしばらく眺め、私は受話器を置き、煙草を一本吸った。
もちろん、いつもこういうわけにはいかないんだろう。私が切羽詰っている時だったら、こうはいかないだろう。でも、少しでも余裕があれば。前のようにぶつかりあってしまわずとも、やっていけるんだ、と、その時思った。ぶつかりあって、傷つけあって、罵り合って。それは、とても疲れる。それがなくても接していられるのなら、それに越したことはない。
夜、まるでその電話をフォローするかのように、母から電話が来た。朝、父さん怒鳴ってたでしょ、と母が言う。うん、怒鳴ってたね。年取って、余計に固くなってるのよ、父さんは、もうこれは治らないから。年取ればとるほどこうなっていくと思うから。母が言う。うん、分かった。私も頷く。
もしかしたらこういうやりとりは、世間では、当たり前に為されていることなのかもしれない。でも、我が家では、遠いものだった。いつだってぶつかりあって傷つけあって罵り合って、そうやって相手を滅茶苦茶にしなければ終わりが来なかった。そういった以前のことを思うと、今の変化は私には大きくて。逆にちょっと、ついていけない。何でこんなふうになっているんだろうと、不思議にさえなる。でも。
父母が死んでしまう前に、そうなることができてよかった。と、そう思う。
人と人との関係は、本当に不思議なものだ。緒を切ってしまわなければ、いかようにも変化していく。変化する可能性が、必ずどこかに残ってる。
あぁだから、緒を切ることはこんなにも哀しいのだ。そのことを、改めて思う。

娘に電話をすると、娘がじじばばに聴こえないように小さな声で私に話してくる。ママ、明日のテストね、私自信あるんだ。そうなんだ。うん、社会はね、満点狙ってるの。へぇ、頑張んなよ。他もね、それぞれ点数これ以上はとるって決めてるんだ。そかそか。まぁ凡ミスしないように、それだけ気をつければいいよ。うん、頑張る!
娘が勉強に熱心になるほど、私はどこか、傍観者になってしまうところがあるらしい。なんというか、無理するなよ、と思うのだ。別に勉強ができなくても、基本さえ抑えておけば、生きていくことはできる。生きていけさえすれば、いろんなものがおのずと開けてゆく。だから、勉強ばっかりしていい点とろうなんて必死にならなくていいんだよ、と思ってしまう。
あの子が頑張ろうとするのを、私は、ただ見守るしかできない、と思う。彼女が助けて欲しいときに手は差し伸べたい。でも、基本は後ろで、見守っていたい。そう思う。
娘よ、本当に好きなことを、やりたいことを見つけることができれば、母はそれでいいと思う。そして多少のことを蔑ろにしても、そのことに向かって突き進んでゆけばいいと思う。挫けても挫けても、自分が信じるように生きていけばいいと、母は思う。母はそれをずっと見守っているから。

久しぶりに朝シャワーを浴びて、髪を洗い、外に出る。空を見上げれば曇天。朝よりも濃い雲が空全体に広がっている。
自転車で坂道を走り下り、ちょうど青になっていた信号を一気に渡る。見えてきた公園の緑は色濃く翳っており。大きな大きな森がそこに在るかのような、そんな色濃さ。立ち寄った池はしんと静まり返っており。誰もいない。猫さえもいない。微動だにしない池の水面に見入れば、髪を後ろに結わいた自分の姿がくっきりと映る。悪戯に、指で水面を弾いてみる。ふわわんと広がる波紋。幾重にも重なって生まれ、そしてやがて消えてゆく。
大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。風は微風で、だから街路樹の銀杏の葉も今朝は静まり返っている。ずいぶんと大きくなってきたその葉を見上げつつ、私は走る。
イヤホンからは、ちょうど大好きな曲、Raise your voicesが流れ始める。
さぁ、今日も一日が始まる。


2010年05月15日(土) 
起き上がると、窓の外が明るい。窓を開けてベランダに出る。くっきりと陰影のついた景色が目の前に広がっている。粉っぽさのない、澄んだ景色だ。私は大きく息を吸い込む。ひんやりした澄んだ空気が、胸いっぱいに広がるのがありありと感じられる。
風はそよそよと流れており。街路樹の葉たちも、静かに止まっている。街路樹の足元のポピーも、今朝はしんと静まり返っており。どこもかしこもが、しんしんとしている。耳を澄ますと、その張り詰めた静けさの中、きぃーんという音が響いてきそうな気さえする。
しゃがみこんで、ベビーロマンティカを見つめる。今咲いている花は二つ。ぽっくり、ぽっくりと丸い花が咲いている。明るい煉瓦色をほんのり残した濃い黄色。見ているだけでこちらの胸の中があたたかくなってくるような、そんな色合い。ベビーロマンティカに病葉は見られない。今のところ、蕾の首のところに、白い粉が噴いている、それのみ。このままでいってくれると嬉しいのだけれども。今日帰ってきたらこの二つの花も切り花にしてやろう。まだ残りの蕾も待っている。
マリリン・モンローの蕾は綻んではいるのだが。今のところ、綻んでいる、というだけで、まだまだ開くのには時間がかかりそうな気配。芯が固くまだ閉じている。薄いクリーム色のはずが、今では濃いクリーム色になってしまった。この花の色の違いというのは、どこから生じてくるのだろう。何が違うのだろう。私が育て続けているというのに、違いが生じる。それが、自分でよく分かっていない。
ホワイトクリスマスはしんしんとそこに在り。でも何だろう、悠然としているから、私もあまり焦ることがない。時々心配になるものの、でも、どこかで大丈夫だろうと信じていることができる。そんな安心感が在る。
パスカリの病葉を昨日摘んだばかりなのだが、また新たに、小さな顔を出したばかりの新芽が粉を噴いている。まだ摘めるほどの大きさでもない。どうしよう。鋏で切ろうか。一瞬迷ったが、しばらくそのままにしておくことにする。それにしても、この違い。ベビーロマンティカやマリリン・モンローの勢いとの違い。それは呆然とするほど。
桃色の、ぼんぼりのような花の樹の蕾。またひとまわり、大きく膨らんでいる。私は今朝も、彼女を拭う。拭ったからとて病気が治るわけじゃないなんてことは、百も承知で。今のところ他に花芽の気配はなく。だからこそ、これを何とか咲かせてやりたいと思うのだ。
玄関に回り、ラヴェンダーを覗き込む。少し復活したかな、と私はまだ垂れている葉に触れてみる。少なくとも昨日よりは復活したかもしれない。でも。昨日母に言われた。怪しいと思うなら、掘り返してごらんなさい、もしかしたらまた幼虫に根を食われているかもしれないわよ。確かにそうだ。今根元を指で掴んで揺らしてみても、抜けてくる気配はないが、でも、この状態は確かに怪しい。今日帰宅したら、早速掘り返してみようか。いや、それはできない。今デージーが芽吹いている最中だ。それを全部台無しにしてしまうことになる。私は頭を抱える。さて、どうしたもんだろう。このままラヴェンダーを放置したくはないが。でも。デージーはどうする。
母の言葉が頭の中くわんくわんと回る。しかし。今掘り返したらすべての芽が駄目になってしまう。それはやっぱりできない。私は、掘り返すのは諦めて、さらに様子をうかがうことに決める。あぁこんなことになるなら、ラヴェンダーのプランターに種を撒くんじゃなかった。今更後悔しても、もう遅い。
もう一方のラヴェンダーの枝は元気で。ちょっと斜めに立ってはいるものの、それは最初私が挿したその挿し方が多分斜めになっていたというだけだと思われ。私は指先で枝を軽く弾いてみる。とんっという見えない音がして、枝は揺れ、でも、ちゃんと元の位置に戻ってくる。あちこちから新芽を芽吹かせ、それでもちゃんと立っている。
校庭の足跡を眺めながら、ふと思う。昨日は学校は避難訓練で。連絡網が回ってきて親が子供を迎えに行った。急いで私が行くと、ちょっと早すぎない?と娘に笑われた。その帰り道、学童の指導員さんとすれ違う。お久しぶりですと挨拶しながら思い出す。長いこと世話になったなぁと。思い返せば学童にお願いしていた頃というのは、私は全く娘を迎えに出ることなどできず、ひたすら指導員さん頼みだった。あの頃学童というものが存在しなかったら、私は娘を無事に育てることなんて、きっとできなかった。娘が被害に遭った時も、親身に相談に乗ってくれたのは指導員さんだった。なかなか人の輪に溶け込めない私を、それでも行事のたび引っ張り出してくれて、何かと気に掛けてくれたのは、指導員さんたちだった。私ががりがりに痩せて倒れんばかりの時も、じっと見守ってくれていた。そうして娘にたくさんの遊びを教えてくれた。私が教えられないことを、たくさん。本当に、何と感謝したらいいのか分からない。もし今、卒業式の後、一番に何処へ行きたいかと聞かれたら、それは多分、学童だ。学童に、お礼を言いに行きたい。そう思う。
埋立地に立つ高層ビル群の向こうから、朝の陽光がくっきりと伸びてくる。太陽の位置も、冬とは全く異なる場所。それは自然なことなのだろうが、こうやって見るとその不思議さをまざまざと思う。地球は回っている。その、当たり前のことを、改めて、思う。
昨日は授業だった。マイクロカウンセリングの実習一回目。意志の反映技法と指示とを扱った。それは、とても簡単なものなのだが、簡単だからこそ、その人その人の味が露になるものだった。やってみて、そのことを実感した。たとえば意味の反映でも、カウンセラー役の人が何処に焦点を当てるか、それが、人によって全く異なる。自分ならここに当てるだろうと思うと、その人は全く異なる視点からその人の話を聴いており。あぁこうやって違いが生じてくるのか、と、痛感した。同じ技法を同じだけ学んでも、その人がもともと持っているものによって、その人がどう生きてきたか、生活の中でいつもどんな判断をするのかなどによって、全く進め方が異なってくる。人間性が反映されるというのはこのことなのか、と、改めて実感した。毎日毎日が、いや、生きているというそのこと自体がもうすでに勉強なのだということを、痛いほど感じた。
娘を迎えに行った後、そのまま私はバスに乗る。実家に行くことになっていた。母の今後の病院の予定を聴くのと、それから母が買ったパソコンを設定するのと。その二つの用事で、私は電車に揺られ、実家に向かう。駅から実家へ行くまでの、大通りは、ずいぶんと様変わりした。私がいた頃、この辺りはまだまだ小さな住宅地で、環状線もまだあくまで予定地であり。がらんとした雰囲気だった。それが今はどうだろう。あちこちにマンションが立ち並び、住宅も建て替えられて新しいものばかり。それも二世帯住宅が多く在り。駅から徒歩約二十分。長い長い坂道を上り、公園の脇を通って実家へ。
実家の庭にはたくさんの花が今咲いており。ラヴェンダー、薔薇、ベゴニア、梅の実も今大きく育っているところで。数え切れない花が溢れ返っており。その中に母がいた。庭仕事をしていたらしい。庭に立つ母を見るのは久しぶりだ。私は少し離れて、しばしその様を眺める。病に倒れ、長いこと庭に立つこともできなかった。母の庭が荒れていたあの時期。今もまだ母の庭は、母の手が届かぬところが残ってはいるものの、でも、あの荒れていた時期とは全く様相が異なる。あぁ、母だな、と、そう思った。そうやって庭で自分の愛するものを愛でている、それが、母だ。
声を掛け、部屋に入る。新品のパソコンが、食堂のテーブルに載っていた。母に電源を入れてもらい、説明する。説明していると、母ではなく父が次々質問を飛ばしてくる。苦虫を潰したような顔をする母。私はその父と母の間、挟まれながら、あれやこれや説明を続ける。
父母と三人でこんなふうに時間を過ごすのはどのくらいぶりだろう。覚えていない。覚えていないほど、久しぶりだった。三人とも、それぞれに、年を重ねているんだろうけれども、そういうとき、不思議と年を忘れるものなのだな、と思った。私は父母の娘であり、父母は間違いなく私の父母であり。じじでもばばでもなく父母であり。
長い時間がかかったな、と思う。たった数時間であっても、私たちはこうした時を持つことが、ずっとできなかった。食卓を共に囲むことさえ、できなかった。食事は、食べ物がいくらあたたかくても、食事は、冷たい食事だった。会話も冷え切って、いや、それどころかいつでも張り詰めて、いつ破裂するか分からない、いつ破裂してもおかしくはない、そういうところをいつも歩いていた。今こうした時間が持てる、そのことに、私は幸せを覚える。恵まれているな、と思う。確かにここに至るまでの道程は長かった。長かったけれど。でも、今も父も母も私も生きており、生きて、こうしてテーブルを囲んでお茶を飲んでいる。それができるという幸せ。他に表現する言葉など見当たらない。
帰り道、ひとり電車に揺られながら、思う。相手が生きていること、生きてこの心に在るということの幸せを、思う。もちろん、生きているからこそだからこそ切ないことも多々あるけれども、それでも。生きているからこそ再び巡り会える、それは幸せ以外の何者でも、ない。

お湯を沸かし、生姜茶を入れる。ステレオからは、Gates of dawnが流れ始める。それを聴きながら、私は時計を確かめる。娘に六時に起こして欲しいと言われたっけ。そろそろその時刻だ。
一本の煙草に火をつけ、深く息を吸い込んでから、もう一度窓際に立つ。向こうの丘の上に立つ団地に、今、燦々と陽光が降り注いでいる。今日は陽射しが思った以上に強い。そろそろ車が通りを行き交い始める頃。バスも走り出す。

ママ、ココア作ってあげようか。え、ココア? うん。ココアの粉、ない? あ、今日じじから貰ってきた、ほら、ココアの粉。よかったぁ、これで家庭科の宿題できる! 何それ? 家庭科の宿題でね、親にココアか紅茶か麦茶を入れてあげるっていうやつなの。何じゃそりゃ。知らない、宿題なんだもん。そんなのが宿題になるのかぁ、変わってるなぁ。はい、できた。飲んで! ん、ちょっと甘いね。ちゃんとここに感想書いてね。え、そんなのもあるの? うん。でないと宿題の証明にならない。分かった分かった。ママ、これ何て読むの? 美味しいは、「おいしい」って読むんだよ。変な字! 美しい味、おいしい、ってことだね。漢字って変だよね。何がそんなに変なの? 何でも意味くっつければいいと思ってる。ははは、そういうことかぁ、そうかなぁ、ママは逆に面白いと思うけど。そうかなぁ、全然面白くないよ。画数多いから書くの面倒くさいし。ひらがながいい。ひらがなはひらがなでママは好きだけど、漢字も好きだよ。漢字でしか伝わらない雰囲気とかあるじゃない。そうかなぁ、だから日本語って面倒なんだね。うーん、ひらがな、カタカナ、漢字、いろいろあるもんね。覚えるのは確かに面倒かもしれないね。でも、ある程度使えれば、それだけで世界は広がるよ。そうかなぁ。私、本読むのは最近好きになったけど、漢字はいらないと思うよ。ははは。それでよく辞書読もうなんて思ったね。いや、辞書めっこってあるじゃん、あれ見ててさ、面白い言葉そんなに辞書に載ってるのかなって思って。たくさん載ってるよ、実際。暇なとき読んでごらん。あ、睡眠薬代わりにもなるかな。何それ? 眠れないとき辞書開いて眺めてると、ママはだんだん眠くなる。何それー?! なんか読むのが面倒になってきて、もういいやって眠る気になる。ママって眠れないの? まぁ眠れないときは全然自力では眠れない。それってどうやったら分かるの? うーん、その時になってみないと分からない。なんで眠れなくなるんだろ、私、いつでも眠れるよ。ははは、それが健康な証拠なんだよ、いいことだ。でもママも、昔よりはずっと眠れるようになったよ。ふーん。あなたがまだ赤ちゃんだった頃は、全然眠れなかった。一日、二、三時間横になれればいい方だった。たったそれだけ? あ、でもね、その頃はさ、あなたがしょっちゅう泣いてたから、抱っこして泣き止ませるのには、睡眠時間なんてないに等しかったからね、眠れなくてちょうどよかったんだよ。ふーん。なんか、納得いかないけど。ははは、そんなもんだ。

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。娘はバスへ、私は自転車へ。
坂を下って信号を渡り、公園へ。大きく茂る緑。鳥たちの声が響いている。池は今陽光を受けてきらきらと輝いており。陰影の濃い景色が、そこに広がっていた。闇は闇、光は光として、それぞれがきらきらと輝いていた。
大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。埋立地は思ったより風が強く流れており。銀杏の葉がびゅうびゅう風になびいている。その脇を走り、さらに真っ直ぐ走って海へ。
濃紺色の、いや、少し緑がかった海の色がそこに広がっていた。真っ白な波飛沫が弾ける瞬間、波の音もひときわ大きく響くのだった。
さぁ今日も一日が始まる。私は自転車に跨り、再び走り出す。


2010年05月14日(金) 
体が重だるい。起き上がりたくない。そう思いながら起き上がった。部屋の中が薄暗い。窓を開けると、一面に雲が広がっている。昨日のあの天気は一体どこへ消えたのだろうと首を傾げたくなるほどのもくもくした雲で。私はしばしそれに見入ってしまう。ふと光を感じて西を見やる。西の空の雲が薄く、そちから光が滲み出しているのだ。不思議な光景だと思った。朝の空なのに西の空が明るい。なんだか今は朝じゃないような、そんな気さえしてくる。
街路樹が揺れている。さわさわと揺れている。流れ来る風に揺れている。街路樹の足元を見れば、オレンジ色のポピーもまた揺れている。オレンジ色も、だいぶ色褪せてきた。うっすらと白味がかってきた。もうじき花が終わり、種の時期になるのだな、と思う。
そういえば最近、雀の姿を見ない。ごみ収集の日の朝、大きな烏は見るものの、雀の姿がない。改めて辺りを見回すのだが、何処にもいない。一体何処に行ってしまったんだろう。どこか宿を見つけたんだろうか。
流れる風を感じながら、私はしゃがみこむ。しゃがみこんでベビーロマンティカの花を見やる。ぽっくりと咲いたその花。何処か古びた家具を思わせるようなそんな姿。そろそろこれも切り花にしてやる時期かもしれない、と思う。いきなり四つも五つも蕾をつけて、樹はきっと今必死だろう。ぐるんぐるんにエネルギーを回しているんじゃないだろうか。花がこのくらい開いてくれば、あとは切り花にしてもちゃんと楽しむことができるのだから、今日帰ってきたら切ってやろうと思う。残りの蕾たちの付け根には、それぞれ粉が噴いており。それは花弁の方にも少しかかっているから、咲いたらできるだけ早く切ってやらなければならない。きっと一番外側の花弁の先には、粉がくっついたままで咲くんだろう。それがこれ以上はせめて広がらぬよう、切ってやらなければ。あと少し、あと少し、だ。
マリリン・モンローの蕾は、綻び始めたものの、その速度は非常にゆっくりで。まだまだ花が咲くには時間がかかりそうだ。濃いクリーム色の一番外側の花弁は、ちょっと疲れてきた、といった感じがする。これまでずっと蕾を守り続けて外界に晒され続けてきたのだもの、それも当然。私は指先でそっと撫でてやる。もうちょっとだよ、もう少しだよ、と励ましながら。
ホワイトクリスマスは相変わらず、しんしんとそこに在る。気品というのは、こういうものなのか、と、彼女を見ていると思う。おのずと滲み出てくるもの。決して嫌味でもなんでもなく、自然にこちらにも伝わってくる、そういうもの。その根元はすでに、節くれだっていて、ホワイトクリスマスが越えてきた年月を思わせる。
パスカリの一本は、新芽が病に冒されており。これはまた摘まねばなるまいな、と思う。摘まねばならないのだが、なんだかちょっと躊躇う。こちら側のプランターの樹たちは、何故かみんなこじんまりしてしまって、それ以上大きくなろうとしない。これは何故なんだろうと改めて私は首を傾げる。土も肥料も、同じ量をあげている。違うのはプランターの形。それだけ。それだけなのだが、こんなにも育ち方が違う。このプランターの深さが合っていないんだろうか。もっと深いものにしてやった方がよかったんだろうか。今更そんなことを考えても仕方がないのに私はつい考えてしまう。何かが違うんだ、きっと。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹の蕾。日に日に大きく膨らんでいっている。私は今朝もその蕾をゆっくり指の腹で撫でる。粉を拭き取るようにして撫でる。もちろんそれで病が治るわけではない。分かっている。分かっているが、せめて表面に出てきた粉だけでも拭ってやりたい。そう思うから。
玄関に回ってラヴェンダーのプランターを覗き込む。ラヴェンダーの一本を切り詰めてやったのだが、萎びた葉はそのままになってしまっている。切り詰めるのが遅かったか。私は唇を噛む。ここまで頑張ってくれているのに、どうしよう。どうしたらいいんだろう。うまい方法が見つからない。その傍らで、もう一方のラヴェンダーはしゃんと背を伸ばしている。全身から次々噴出す新芽を、重たそうに抱えながらも、背を伸ばしている。そういえば、冬の間は、こちらの方が元気がなかったんだっけ、と思い出す。もうこちらはそのまま駄目になってしまうのかなと何度も思った。それが今はどうだろう。ここまで育ってきている。植物は本当に強い、と思う。
目を凝らすと、デージーの芽が。小さな小さな、本当に小さなその葉を、ぴんと伸ばして、全身で太陽の光を浴びようとしている。今朝その光はほとんど感じられない。それでも、彼らは必死に両手を広げている。信じているのだな、と思った。光は必ずそこに在る、と、彼らは信じているのだ。そして、何度裏切られても、信じることをやめないのだ。そうした強さが、彼らを支えているのだ。
何度裏切られても信じ続ける強さ。私には在るんだろうか。残念ながら、私には、そこまでのものは、ない。何度も裏切られていくうちに、それを断つか、次に進むかを選択する。いつまでも待っていた時期があった。そう、何処までも信じて、待ち続けることをしていた時期もあった。でも、それでは私は前に進んでいくことができないことにも気づいた。だから、何度か裏切りが続けば、私はそれを手放す。今は、そういう私が、在る。
あぁ、根っこを持つか持たぬかの違いが、そうしたところに現れるのかもしれないな、とふいに思った。植物は、ここでただひたすら待ち続けるしか術はない。私はといえば、足を持っている。その足で、立つ場所を選ぶことができる。だからこそ、私は歩き続けて、探し続けてゆくのだな、と。ふいに思った。
校庭は、昨日集っていた子供の足跡でもういっぱいになっている。隅から隅まで、足跡だらけだ。なんだかちょっと笑ってしまう。あんな場所にまで足跡が残っているなんて。そう思って笑ってしまう。そういえば私も子供の頃、大人がとんでもないと思う場所に、よく入り込んで遊んでいた。かくれんぼをした日など、特にそうだった。子供らが探し出す場所はとてつもない場所ばかりで。手足が擦り切れると分かっていながらも、大きな大きな薄の茂みの中に入ってみたり、家と家の狭間の、本当に人ひとり入れるかというような狭い隙間に、体を忍び込ませて隠れたり。思い出すととても懐かしい。
プールは灰色の空を映して、しんと静まり返っている。東から吹いて来る風が小さな漣を描いている。
部屋に戻ると、ゴロが音もなく回し車を回している。おはようゴロ。私は声を掛ける。ゴロはその声に反応して、こちらをついと見上げる。それにしてもあなた、大きくなっちゃったねぇ、と私は笑う。なんだかちょっと貫禄がついてきた、というような、そんな体型。でーんとお尻が大きくなって、頼りなかった胴体にもしっかり肉がついて。これ、お年頃の女の子なら絶対、ダイエットするって思う体型なんだろうなと思ってしまう。
ゴロを手のひらに乗せながら、私は昨日の友人との電話を思い出す。その友人は、数年前に起きた出来事も、ちゃんと覚えていてくれて。だから話がすっと進んだ。ねぇさんが、今ショックを受けているのは当たり前だと思うよ。と彼女が言う。私の知っているねぇさんは、何か事を始めたら、とことんそれに打ち込むでしょう、そうした打ち込んだことがないがしろにされたら、傷つくでしょう。うん。そしてその相手が相手なんだもん、今のようなショックを受けてて、当たり前だと思うよ、っていうか、そうじゃなきゃ、気持ち悪いよ。そう言って彼女が笑う。そうか、気持ち悪いか。私も笑う。
でもさ、本がね、在るんだよね。うん、そうだよね。本が在る、本が見える、それだけで、ずきんと来るんだよね。うんうん、そうだよね。でも、ねぇさんは何もおかしなこと言ってないと思うよ。なんというかさぁ、本当にこれでよかったのかな、って、そんなことさえ思ってしまうんだよね。こんなことになるなら、って思ってしまう自分がいる。でも。でもね、そうしかできなかった自分も在て。うんうん、それでよかったんだよ。あぁ、もう私にやれることは、やり尽くしたなぁって、そう思う。うん、そうだよ。もう十分やったよ、ねぇさん。
そう、思い出すほどに、思い返すほどに、思うのだ。もう、私に出来ることは全部やった、と。なのにこの切なさは何なんだろう。
やれることをやり尽くした、その最後の最後、こうした結果に終わったことが、私はひどく悲しいのだなぁと思う。そうか、私は報われたかったのか、と、そのことに気づいて苦笑する。そんな、何でもかんでも、丸く収まる、なんてことは、あり得ないと、もう十二分に分かっているはずなのに。
でも。
もう切り替えようと思う。私には私の毎日が在る。もう過去になってしまったことは、変えようがなく。過去と他人は変えられない、本当にそうなのだなと思う。だとしたら、私に今できることは。それは、私が私の今を十分に生きることだ、と。そう、思う。
ただ。しかと、覚えておこうと思う。今回のことは、しかと心に刻んでおこうと思う。私がどういう人間で、こういうときにどうなったかということを、しっかり刻んでおこう、と。そして、できるなら二度と、繰り返すまい、と思う。

風呂に入りながら、髪を丹念に洗う。最近トリートメントを疎かにしていたせいか、何となく艶がなくなってきた。年のせいだろ、と思わなくもないのだが、でも、努力することでどうにかなるものなら、と、時間をかけて洗う。
ふと思った。私が、今、女を主張しているところが唯一あるとしたら、それは髪の毛かも、と。あぁそうか、そのくらいは私にもできていることなのだな、とはっと思った。私は湯船に浸かりながら、目を閉じてみる。目を閉じて、何処へともなく言ってみる。
私はこの部分だけは、髪の毛だけは譲れないらしいよ。こればっかりは、大事にしたいらしいよ。うん、私にも、そういう部分がちゃんと、残ってるよ。
聴こえただろうか。あの痛みたちに。届いているだろうか。
分からないけれど。でも。私はなんとなく、微笑んでしまう。よかった、と思う。私の髪はそろそろ腰に届く。手入れの為に切ることもあるんだろうが、それでも、私はよほどのことがない限り伸ばし続けるんだと思う。こうやって夜毎髪を手入れしながら。

ステレオからは、Secret Gardenが流れている。Dawn of a new century。この曲は、進むにつれ、ずんずんと音が膨らんでゆき、聴いていると、一歩一歩前へ進んでゆけるような気持ちにさせられる。好きな曲の一つだ。
お湯を沸かし、お茶を入れる。今日は授業があるから、水筒にも生姜茶を作る。今日はマイクロカウンセリングの二回目だ。実習授業。ひととおり復習はしたものの、ちょっと緊張している。別にうまくできる必要なんてないのだが、そうじゃなくて、何だろう、ちゃんとひとつずつ踏んでいけるだろうか、と、それが私を緊張させる。
ひとつとして落とすわけにはいかない。

誰かのせいにして、それで逃げても、私は結局、そこに戻ってくる。それなら最初から、自分主体で考える方がいい。自分が何をしたのか。自分がどうしたのか。自分が何を選び、歩いてきたのか。そのことを認め受け容れて、それでようやく、次に進むことができる。
失敗なんて、いくらだってする。後悔だっていくらだってする。でもそれはそれでいい。失敗したら、後悔したら、その時立ち止まって、思い返してみればいい。おのずと見えてくるものがあるはずだ。そうしたら、それをちゃんと受け容れて、そうしてまた次に進めばいい。
生き急いでいる時期があった。すべてを駆け抜けてゆこうとしていた時期があった。でも今は違う。今は、生き続けることを思う。私が残りの人生、しかと生き続けるために、今何ができるのか。そのことを、思う。

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。見上げると空には、少しずつ青空が広がってきている。よかった。
天気雨だろうか。空が晴れてきているのに、ぽつり、ぽつりと雨粒が落ちてくる。本当にぽつり、ぽつりと途切れ途切れに。バス停に立って私は空を見上げる。大丈夫、傘はいらない、必ず晴れる。
バスに揺られながら、本を開く。読んでも読んでも頭に入ってこない。観念して本を閉じ、窓の外を見やる。
そういえば父から昨日電話があった。頼まれたことを予定表に記しておかなければ。
ふと、遠くの西の町に住む友人の顔が浮かぶ。元気でいるかい。私は心の中話しかける。最近元気がなさそうだけれど、大丈夫かい。手紙を書こう書こうと思って、のびのびになっている。今日帰ってきたら必ず、手紙を書こう。私はそれも含め、予定表に記す。
川を渡るところで立ち止まる。少しずつ雲間から漏れ始めてきた陽光を受け、ほんのりと光っている川面。流れ続ける川。私はしばしその様に見入る。
さぁ、今日も一日が始まる。しっかり生きていかなければ。私はまた一歩、踏み出す。


2010年05月13日(木) 
目を開けると午前四時半。少し早いかもしれないが、このまま起き上がることにする。何となく頭が重だるい。まぁこれも、昨日のような出来事があれば仕方がないか、と気にしないことにする。薬を飲むほどの痛みでもないのだから大丈夫だろう。
窓を開けると、明るい陽射しが東から真っ直ぐに伸びてきているところで。地平線あたりに雲がもくもくと溜まっている他は、まっさらな空で。なんだか気持ちよくて私は大きく伸びをする。そういえば昨日の天気は不安定だった。雨が止んだかと思えばまた降り出したり。でも今日は一日すっきりと晴れるだろう。空を見ていてそう思う。
街路樹の葉が風になびいている。風に翻り、ばたばたとはためく葉たち。私の立つところにはそこまで風は届いてこないが、きっと通りを勢いよく風が渡っているんだろう。眩しさを感じて目に手を翳し見やれば、ちょうどトタン屋根に陽射しが伸びてきたところで。金色に輝くその屋根は、街景の中浮かび上がっており。そこだけ別世界のような具合になっている。地平線辺りを漂う雲も、流れている。ゆっくりゆっくりと。すべてがそうして、動いている。とどまるものは、何も、ない。
しゃがみこみ、薔薇たちを見やる。ベビーロマンティカの蕾たちがそれぞれ、綻び始めている。昨日切ってやった花は、今はテーブルの上。まさにぱっくりと咲いている。綻び始めた花びらの、先端は明るい煉瓦色に染まり、そして全体はとても濃い黄色。朱色に近い黄色。嬉しいはずなのに、今日はその気持ちが萎える。その理由は分かっている。分かっているけれど、今は棚上げ。もう少し棚上げ。
マリリン・モンローの蕾も、速度はゆっくりだが、それでも綻び始めている。濃いクリーム色は濃緑色の葉たちの中、ひときわ鮮やかにそそり立っており。凛々と天を向いてそれは在り。切ないほどそれは潔い姿で。私は自然指を伸ばし、蕾に触れる。しんとした冷たさの中にも、温度が在り。私はその温度を確かめる。
パスカリの新芽が、粉を噴いている。私はひとつ溜息をついて、それをそっと摘む。病気になるのは仕方がない。これはもう、どうしようもない。なるときは誰だってそうなる。だから私は飽きずに摘み続けるわけだが、それにしたって。こんなにも出てくるもの出てくるものすべてが、病葉だったら、きっと本人が一番切ないだろうに、と思う。
桃色のぼんぼりのような花を咲かせる樹の、病に冒された蕾。それでも膨らんできている蕾。私は今朝もそれを見つめる。じっと見つめながら、まだ切ることが私にはできない、と思う。咲いても、粉だらけの花弁になってしまって、もしかしたら樹にとってとてつもない負担になるかもしれないと思うのに。ふと思い出す。私が妊娠した折のことを。誰もが、障害児が生まれるに違いない、中絶しろ、と言った。まともな子が生まれるわけがない、だから早々に中絶してくれ、と。でもあの時私には、そんな選択肢はなかった。孕んだ命を生み出さずに、自らの手で断ってしまうという選択肢は、なかった。この樹たちにとっても、それは同じなんじゃなかろうか。病気に冒されていようと何だろうと、芽吹く命たちを育まずにはいられない。そういうものなんじゃぁなかろうか。
玄関に回り、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。一本のラヴェンダーはまだ先端をくたりと萎れさせており。今日帰ってきたら、これをある程度のところで切ってやろうと私は心に決める。これ以上このままにしておくわけには、いかない。
そんなラヴェンダーの周り、デージーの芽が、小さく小さく開いている。朝陽を浴びていると、特に、その光の中に埋もれてしまって芽の在り処が分からなくなる。じっと目を凝らさないと逃してしまうほど、それは小さい。それでも生きている。生きて、いる。
校庭に燦々と降り注ぐ朝陽を見ながら、今日はすべてが切ない、と思った。何もかもが切なく見える。切なく映る。それは私の心を反映しているんだと分かっているが。それにしたって、こんなにも一変するものなんだろうか、と改めて思う。するのだよな、と私は納得する。そういうものだ。
部屋に戻り、顔を洗う。思い切り水を出し、勢いよく洗う。鏡の中、映る自分の顔が、どこか歪んで見えるのは、多分、気のせいじゃ、ない。
昨日、一冊の本が届いた。それは予定より一年以上遅れての、出版物だった。それだけ時間がかかったのだなと思いながら、私は封を開ける。一枚目の包装を解いたところで、手が止まった。何となく、見たいような見たくないような、そんな気持ちだった。
この本の出版が形になってきた頃、ひとつの騒動があった。私のまとめた資料が勝手に用いられる、というものだった。それは私にとって大切な大切なものだったから、私は抗った。黙って勝手に出版するという術はないだろう、と、抗った。最終的に、協力者のところに名前が連ねられることに決まりはしたが、私の心持はすっきりしなかった。すっきりしないまま、今日に至っている。
そうして本が届いた。本当なら。喜ばしいものだった。その作家にとって、作家の作品たちにとって、それは集大成といえる代物で。その作家を愛する一人として、私は素直に喜びたかった。でも。
喜べない自分が、在た。
それでも私は本を届けてくださった礼を述べようと、先方に電話をした。すると、開口一番、言われた。これで満足ですか、と。
唖然とした。呆然とした。何が満足なんだろう、と思った。満足もへったくれもあるか、と思った。そして、こんな言葉をいきなり使える相手の心を、疑った。
その人とは、長い時間を共に過ごしてきた。彼女が鬱病に陥った折、私はそばにいた。彼女からのSOSの電話を、いつでも受けた。また、私もその頃病が酷かった。私が発作を起こし、苦しんでいる最中、彼女から電話が掛かってきて、それによって私はどれほど支えられたことか知れない。
そういう、濃密な時間が在った。何年という長い時間だった。そうした中で、彼女から口伝えで教えられたことを私はひとつひとつまとめていった。資料としてまとめた。展覧会を催したりもしたことがあったっけ。思い出すときりがない。
そんな彼女からいきなり、その言葉を突きつけられたという現実に、私は呆然とした。悲しいと思った。そう、悲しかった。たまらないと思った。
言葉は暴力だとよく言うけれど、本当にそうだと思った。諸刃の剣とは、よく言ったものだ、と改めて思った。
彼女の話を聴いていると、まるで私は、金と利権の亡者のようだった。彼女の頭や心の中で、私はもうそういう存在になっているのだと、その時私は改めて知らされた。それはもう、拭いようのないものだった。彼女は私の声など、全く聴いていなかった。
一方通行になってしまったその電話を、私はじっと見つめた。これ以上話しても、何にも生まれないことを、痛感した。
切った電話を、しばらく私は見つめていた。そうして膝の上には、ずっしりと重い、一冊の本が在るのだった。
あの出版社で私は被害者になった。そうして最終的に会社を辞めた。辞めてから、途方に暮れていた私の、一つの支えになったのが、あの作家と彼女との出会いだった。あの時期、彼女やあの作家の存在がなければ、私は超えられてこなかった時間が在った。
そうした過去を、ひとつひとつ、私は噛み締める。噛み締めながら、じわじわと滲み出してくるものを感じていた。そう、もうこれらは、過去、なのだ、と。
過去にそういうことが在った、そのことは、事実だ。紛れもない事実。でも、今はもう、違えてしまったのだ、という、これもまた、歴然とした事実、なのだ、と。
私は膝の上、重い重い本を開く。巻末を見れば、そこに間違いなく私の名が在った。でも今となっては切ない、刻印だった。
私が主張したことは、間違っていたんだろうか。あの時そのまま見て見ぬふりをすれば、よかったんだろうか。いや、それは違う。それはそれ、だ。それはそれ、だけれど。
こんなにも切ないのは何故なんだろう。たまらないのは何故なんだろう。
そうか、私はあなたにだけは、そんなことを言ってほしくない、と、そう思っていたんだ。そのことに気づく。他の誰が何と言おうと構わないが、せめてあなたにだけは、そんなことは言ってほしくない、と、そう思っていたんだ。
私は自分の中で、じわじわと広がってゆくどす黒いものを感じていた。それは痛みを伴っており。私の体を蝕んだ。
同時に、もはやもうあれらは過去なのだ、と、その思いも浮かんできた。すべては過去なのだ。そして今、私たちはもはや、交わりようのないところにそれぞれ、在る。それが、事実。
私は膝の上の本を、そっと閉じた。もう今はこれ以上、見るのはやめようと思った。箱に丁寧に仕舞い、本棚の前にそっと、置いた。いつかこの本を、素直に嬉しいという気持ちで開けるときが来るだろうか。来ると、いい。そう願いつつ。私は本から手を放した。
この本は、一つの別れの形なんだな、と。そう思いながら。
そして、思った。彼女にこれからよほどのことが起きない限り、私は彼女のところへ行くことはないだろう。訪ねることも、電話をすることも、ないだろう。今までありがとう。あの頃の私の支えとして、あなたは間違いなく存在していた。そのことに、ありがとう。そして、どうかこれからの時間が、あなたの、残り少ない時間が、どうか幸多きものでありますよう。

ふと思うのは。少し前の私だったら、こういうことに、耐えられなかったと思う。泣き喚いて、泣き叫んで、抗っていただろうと思う。
でも何故だろう、今は、そうは、ならない。
確かに今私は悲しい。辛い。切ない。胸がいっぱいだ。それでも。涙も零れなければ、叫ぶことも、ない。ただじっと、この現実を受け止めようとしている自分が、在る。
同時に、泣くこともできないのは、辛いなぁと苦笑する。せめて涙一粒でも零れるなら、それに任せて感情を流すことができるんだろうに。今の私はそれも、したくないらしい。
だから私は、淡々と、これを味わおうと思う。この現実を、ただじっと、少し離れた場所から、見つめていようと思う。

ママ、最近ゴロ太ったと思わない? うん、もうココアより大きくなっちゃったよ。これ、ちょっと太りすぎだと思わない? ミルクよりはずっと小さいけどさぁ、なんか体格いいよね。ちょっとねぇ。食べすぎなんだよ、餌の量とか変えた? ううん。そんなことはないけど。話しながら、娘はココアを、私はゴロを手のひらの乗せて撫でている。本当に、ゴロはココアより遅く生まれたにも関わらず、今比べると、ひとまわり大きくなってしまった。大丈夫なんだろうか。ちょっと心配。
ママ、ママ! 何? こっち見てよっ。だから何? 声だけじゃなくてこっち見てよっ。あぁ、ごめん、何? こっち見て欲しかっただけだよっ! な、何よ、それだけ? それだけじゃないってば、ちゃんとこっち見て返事してよ。あぁ、まぁ、うん。ごめん。ママ、今日変だよっ。あぁ、ちょっと仕事でいろいろあって。…。ごめんね。だからって、ちゃんとこっち見てね! ハイ。
怒られてしまった。ごめんと謝ったものの、今日は勘弁してくれという思いもどこかに在った。同時に、ちゃんと線引きをしなければ、とも思った。日常に差し支えるようじゃ、まだまだだな、私。そう思った。

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。玄関を開けると光の洪水で。でも風が思ったよりも強い。
自転車に跨り、坂道を一気に下りてゆく。信号を渡って公園へ。池の端に千鳥はいなくて。代わりにざわざわわという葉群れの擦れる音が響いている。今日は池の水面にも、大きな波紋が生じている。
大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。こちらはもっと風が強くて、銀杏の葉が千切れんばかりの勢いで風に嬲られている。その脇を走り抜け、信号をまた渡ってモミジフウの樹のところへ。ビルの間を抜ける風が、轟々と唸り声を上げている。私はその狭間に立って樹を見上げる。真っ直ぐにそそり立つ樹の、その立ち姿をしっかりと目に刻み込む。
そのままさらに走って海へ。港はもう忙しげに幾隻もの船が行き交っており。汽笛が何処からか響いてくる。巡視船が勢いよく走り出す。
もう一日は始まっている。私も走り出さなければ。再び自転車に跨り、私は勢いよくペダルを漕ぐ。


2010年05月12日(水) 
窓を開ける。まだ残る雨。私は空を見上げる。灰色の、うねりを伴った雲が空全体を覆っている。雨は未明には止むと、天気予報では言っていたのに。私は手を伸ばしてみる。小さな雨粒が、ぽつ、ぽつ、と落ちてくる。そんなにいっぱい雨粒を貯めて、雲は何をそんなに伝えたかったんだろう、とふと思う。もちろんそんなこと、想像してみたって分かるわけもなく。でも、何だろう、妙に気になる。
街路樹の若葉は、雨のお陰でその輝きを露にしており。そして数日前よりもずっと、茂っている。これで陽射しが出たなら、どれほどに輝くんだろうと思う。今はまだ、雲の灰色を映して暗い色をしているが、それでもその透明感はここにまで伝わってくるほどなのだから。通りを行き交う人や車はまだない。しんと静まり返っている街。ただじっとして、朝を待っている。
私はしゃがみこんでベビーロマンティカの開いた花を見やる。ぽっくりとした花の形をしている。丸みを帯びたその花弁は、幾重にも重なり合い。そしてしんしんと、天を向いている。今日帰ってきたら、早々に切り花にしようと思う。まだまだ蕾は残っているのだから、樹にエネルギーを残しておいてやらないと。それにしても、なんて暖かな色なんだろう、この花の色は。まさにぽっくり、という言葉がお似合いな様相。ぽっくり、ほっくり。そんな感じ。もしこの花と同じくらいの豆があったとして、それを長い時間かけてゆっくりと煮たら、このぽっくりという味が味わえそうな。そんな気がする。やわらかくて、ほんのり甘くて、ぽくぽくしている、そんな感じ。
マリリン・モンローの、蕾の色が、なんだかやけに濃くなってきた。薄いクリーム色だったのが、一夜にして、濃いクリーム色になってきたような、そんな気がする。どうしたんだろう。何があったんだろう。私は首を傾げる。それともこの色は外側の花びらだけなんだろうか。内側は、いつものように薄いクリーム色をしているんだろうか。まだ分からない。
ホワイトクリスマスはその横で、いつものようにしんしんと立っている。ホワイトクリスマスを木に譬えるなら、もしかしたらそれは樅の木かもしれないな、と思うことがある。もちろんうちのホワイトクリスマスはそんなに茂ってはいないのだが、それでも、何だろう、この立ち姿や、醸しだされる雰囲気が、樅の木を思わせるのだ。静かな静かな、それでいて多くを湛えた木。
パスカリは紅い新芽を広げ始めている。今のところ、粉は噴いていない。大丈夫そうだ。私は安堵する。でも、その隣の樹たちは、こぞって白い粉を噴かせている。古い葉は大丈夫なのだが、新芽の殆どが粉を噴いているという具合。私はそれをひとつひとつ摘んでゆく。粉を落とさぬよう気をつけながら摘んでゆく。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹の蕾。私が粉を拭ったその痕が、まだ鮮明に残っている。その部分だけ粉が拭われ、でも、またその下から新たに粉を噴きださせようとしているかの気配。一度捕えた獲物は離しはしないといったふうに、病はそこにとりついているかのようだ。それでも、蕾は膨らんできており。徐々に徐々にだけれども確実に膨らんできており。だから私は迷うのだ。どうしたらいいんだろう、と。
玄関に回り、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。ラヴェンダーの、くたんと萎れた先は、最初の具合よりはだいぶ復活しており。まだ首を垂らしてはいるが、それでもその萎れ加減は丸みを帯びてきており。私はほっとする。このまま復活してくれるかどうかは分からないが、それでもここまで戻ってきたのだ。枝が死んだわけじゃない。そのことがわかってほっとする。よかった。最終的に先をちょっと切らなければならなくなるかもしれないが、それでも、死んでいるわけじゃないということが分かったのだ。それだけでもよかった。
デージーの芽が、あちこちから噴き出してきている。小さな小さな、本当に小さな芽だ。ちょっと離れると、土の色に混じってしまって、芽の在り処が分からなくなるほど。だから私は目を凝らして、じっと見つめる。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ…。十個以上の芽が、あちこちから噴き出してきており。なんだか嬉しくなる。新しい命がここに確かに在る。そのことが、私には嬉しい。おかしな話だが、私はもう想像してしまうのだ、この子たちが無事に花を咲かせた後、私がまた種を拾い集める光景を。想像してしまうのだ。そうして、命が連なっていく様を、思い描いて嬉しくなる。
昨日一日降っていた雨のせいで、校庭には幾つもの水溜りができている。そういえば子供の頃、ああした水溜りにぼちゃんとはまるのが好きだった。なんだか宝の池に見えたのだ。その中にぼちゃんとはまりこむ。それだけで、ひとつ得したような気持ちになった。もちろん親には怒られるわけだが、それでもわくわくした。どきどきした。私は小さい頃蕁麻疹をもっていて、長靴などを履くと、靴が足に擦れる、その部分に、どわっと蕁麻疹が現れるという具合だった。そのせいで私は長靴を、あまり履くことができなかった。だから、長靴を履いて水溜りにぼちゃんとやる時は、特別なことだった。思い出すだけで、わくわくしてくる。今もし長靴を履けたら、私はまた、同じことをやるんだろうな、と思う。
校庭の周りに集う樹たちの緑が、鬱蒼とし始めている。この雨で一気に濃くなった、そんな気がする。私にとってはたとえば憂鬱な雨だったとしても、植物たちにとっては命を繋ぐ雨なんだなということを、改めて思う。
プールの水面、まだぽつり、ぽつりと雨粒の痕が生じている。それでもこの灰色の雲の向こうには光が溢れているのだろうなと感じられる。そのくらい、空は明るくなってきており。私は東の空を改めて見やる。雲を見つめていると、目がじんじんしてくる。それはあの向こうに光の洪水があるせいなんだと思う。
部屋に戻ると、Secret GardenのCelebrationがちょうど流れ始めているところで。私はこの曲も結構好きだ。聴いていると、音に合わせて気持ちがずんずんと明るくなっていく気がする。そういえばと思い出し、昨日煮た豆の様子を見やる。鍋の中、たっぷりと膨らんで柔らかくなった豆。一粒食べてみる。ちょっとお砂糖がいつもより多かったかもしれない。でもこの、豆を煮るという行為が、私は何より好きなのだ。長い長い時間をかけて、ことこと、ことことと煮詰めていく、その作業が、たまらなく好きだ。部屋の中、私と、ことことと鳴る豆の鍋しかない数時間。でも、その豆の音は、私を豊かにしてくれる。私は独りなのに、独りじゃないような。誰かとずっと静かに穏やかに会話しているかのような、そんな豊かさをもたらしてくれる。
洗面台で顔を洗う。昨日短く切り揃えた前髪が、ぴょんぴょん跳ねている。ちょっと短く切りすぎたかなと思ったりしないわけではないのだが、まぁ、長いのが苦手な私には、これもまぁちょうどいいのかもしれないと思い直す。
そういえば、昨日、尋ねられたっけ。離婚して、一人身になって、それから恋愛したりしてないんですか?と。尋ねられて、改めて考えてみた。そういえば、まともに恋愛するって、もう何年していないだろう、と。
私の昔を知る友人たちは、みな、私を、恋多き女と呼ぶ。確かに、途切れがなかった。途切れなく、誰かしらと付き合っていた。私も贅沢なことに、それが当たり前だとどこかで思っている節があった。
そうして結婚して、離婚して。離婚してから何故こんなにも恋愛していないんだろうと改めて考える。そうして彼女に応えたのは、今はそういう時期じゃないように思えるんだよねぇという言葉だった。彼女が再び問うてくる。そういう時期じゃないって? うーん、なんというか、もし恋愛するなら、娘にも誇れる恋愛したいと思うし、でも、それに見合うような出会い、今のところしていないし。だから、今は恋愛の時期じゃないのかなって思ったりするよ。そうなんですかー、でも、私がもし離婚して息子を引き取ったら、私も同じ考え方すると思うの。ひとりで育てようって思うと思うし、育て終えてから、それからまた後のことは考えればいいって思うと思う。ははは、でも結構焦ったりするんだよ、これでも。何を焦るんですか? いや、改めて考えるとさ、子供が成人した頃には私って一体何歳よ?!って思うと焦るわけよ。えー、あなたが焦るの? 絶対そんなことなさそうに見えるのに。えー、焦るよ、結構焦る。焦らなくていいですよ、全然、その時になってからで十分間に合いますよ。そうなのかなぁ、そう言われても、やっぱり焦るものは焦る。でも、それでも今は、こういう時期なのかなってことも思う。友人はそれなりにできるんだけれどね。それ以上は親しくならないんだよなぁ。ははは。あ、それ、なんか分かる気がします、一定の距離は保つんですよね、自然に自分で。そうそう、そうなの、どうせなら長く付き合いたいから、なおさらに一定の距離感をもって付き合うようになるんだよね。あー、そうそう、そうなんですよぉ。でも、やっぱり、独り親って大変ですか? うーん、大変、なのかなぁ、大変じゃないって言ったら嘘になる気がするんだけど、でも、大変だって思ってたら、逆に、やってられないかも。そういえば、元旦那からはちゃんと養育費とか貰ってるんですか? いや、貰ってない。ってか、今何処に居るのかも分からないし。何やってるのかも分からない。そういうもんかぁ、うーん、なんか、そういうのって変だよね。ははは、変なのかなぁ、どうなんだろう。別れたって二人の子供であるには違いないのにね。ま、そうだけど、私はもう、心の中では、私が独りで産んだ子供だって割り切ってるよ。そうなんだぁ。でもね、最近時々、ふっと怖くなる時があるんだよね。どういう時ですか? 今、娘が、録画した昔のドラマとか見てて、その時、お父さんが別れた子供を助けるシーンがあったりしてさ、その時に娘が、お父さんっていいよなぁ、私だって欲しいよ、って、独り言言ってたりするわけ。えー、そんなぁ。いや、彼女は私に向かって言ってるんじゃなくて、まさに独り言で言ってるんだけど、だからこそ逆に、切なくなるっていうか。うーん、うまく言えないんだけど…。あ、でも、独り言だからこそ切なくなるって、分かる気がする。うん、そうなの、そのたび、このままでいいのかなぁって思いになるんだよね、どうするのが本当は、この子の為に一番いいんだろう、って。うーん、でも、そういうことこそ、割り切っちゃっていいんじゃないですか? そうなのかなぁ。でないと、あなたが苦しくなる一方じゃなくって? まぁ、そうなんだけどね。うん、そうなんだけど。そういうところで、迷うんだ、どうするのが本当は一番いいのかな、って。そっかぁ…。
友人と別れ、雨の中歩きながらも、そのことが頭の中、ぐるぐる回っていた。どうするのが一番いいんだろう、と。娘にとって、どうするのが一番、幸せなんだろう。

お湯を沸かし、生姜茶を入れる。今日もお弁当の日。私は、とりあえず今冷蔵庫にあるものを確認する。キャベツとベーコンとを炒めて、その後小さな肉団子を作り、それぞれ弁当に詰めてゆく。最後にプチトマトを飾って、あとはおにぎりを添えてできあがり。簡単弁当。それでも文句一つ言わずに食べてくれる娘に、感謝。
煙草を一本吸ったら、朝の仕事に取り掛かろう。半分開けた窓から、少し冷たい空気が流れ込んでくる。そろそろ娘を起こす時間にもなるからと、私はお香を焚くことにする。今の手持ちの中では、グリーンティーの香りが一番好き。
そういえば今日は友人の誕生日だ。後でメッセージを送らないと。忘れないように私は手のひらにボールペンで小さくメモする。

じゃぁね、それじゃぁね。娘はココアを差し出す。差し出されたココアの背中を、私はこにょこにょと撫でてやる。行ってくるね。行ってらっしゃーい。
声に押されながら玄関を出ると、雨がちょうど止んでいる。これなら自転車で大丈夫だ、と私は決めて、自転車に跨る。数日乗らなかっただけで、体が自転車を恋しがっていたのが分かる。
坂を下り、信号を渡ると公園が目の前に。公園の緑は鬱蒼としており。それはまさに夏の前触れで。私はしばし立ち止まる。これっぽっちの雨で、こんなにも表情が濃くなるなんて。思いながら私は緑を見つめる。じきに、この緑の匂いが、この辺りにまで漂ってくるようになるんだと思うと、なんだかちょっとどきどきする。
大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。銀杏の葉もぐいっと枝から大きく手を広げてそこに在る。数日前とは見違える姿だ。
最近、無謀な運転をあまりしなくなった。変な話かもしれないが、人生脚本を思い浮かべてしまうのだ。無謀な運転をして、自分を危機に晒して。その構図に、自分のこれまでの人生の在り方を、見てしまう。でも、私はここで怪我をするわけにもいかないし、死ぬわけにもいかない。それなら、もうちょっとだけでもいい、安全運転をしようか、と、そんなふうに思うようになった。
信号待ちしていると、ぐいっと赤信号を無視して走り出す車の姿。青信号の方の車の列が、一瞬崩れる。クラクションが静かな街並みに鳴り響く。
その音につられるように、猫が躑躅の茂みから這い出してくる。のっそりと歩きながら、大きな欠伸。私と目が合うと、何だよ、といった顔をして、そのまますれ違ってゆく。
青信号に変わった。私は勢いよくペダルを踏み込む。
さぁ、また一日が始まってゆく。


2010年05月11日(火) 
体に気だるさを感じながら起き上がる。何となく体が重く鈍い。眠りが足りなかったんだろうか。いや、私にしてはそれなりに長い時間横になっていたはず。でも十分に眠り足りたという感がない。夢に魘されたという記憶もない。私は首を傾げる。
窓を開ける。重く暗い雲が一面に広がっている。こんな雲は久しぶりだ。私は思いながらそれをじっと見上げる。今にも雨粒が落ちてきそうな気配。風が少し吹いている。その風は十分に湿気を含んでおり。どおりで私の髪の毛の具合がおかしいわけだ。湿気を含んで何となく膨らんでいる感じがする。でも、もし雨が降るなら、植物たちにとっては恵みの雨だろう。このところ照り続けだったから、きっと喜ぶに違いない。そう思う。通りにはまだ人も車もなく。街路樹はしんしんとそこに立っており。若葉は空の色を映して僅かに灰色がかっている。何処もかしこも灰色。
しゃがみこんで、私は開き始めたベビーロマンティカの花を見つめる。明るい煉瓦色に濃い黄色をたっぷり混ぜたような、そんな色合い。香りは、私には殆ど分からない。分からないけれどきっと、本当は香りがあるんだろう。私は想像する。どんな香りだろう。何処か懐かしいような、それでいて軽やかな香りだったらいいな、と思う。昨日のうちに半分開いてきたから、きっと今日明日で満開になるんだろうと思う。小さめの、本当に小さめの花だ。マリリン・モンローやホワイトクリスマスに比べたら、え、と驚くほどに小さい。でも、その小ささがかわいらしい。こんなに濃厚な花だからこそ、小さく咲いてちょうどいい。そんな気がする。
その隣で、マリリン・モンローの蕾は、徐々に徐々に綻び始めている。こちらは薄いクリーム色の花弁で。ベビーロマンティカの厚めの花びらよりもずっと、薄い。でも開くと、この花びらは本当にたっぷりとした量感を湛えるのだ。その姿がもうじき見られると思うと、楽しみで楽しみで仕方がない。
そういえば、私は最初、マリリン・モンローという名前が好きになれなかった。花の形で選んだものの、どうしてこの花にマリリン・モンローなんて名前がついているんだろうと不思議に思っていた。だから最初のうち、あまりこの樹をかわいがることができなかった。でも、おかしなもので、マリリン・モンローの、精神科医との記録を読んでから、その見方が変わった。あぁそうだったのか、と、私は知らなさすぎたのだなぁと思った。そして去年、あの大きな大きな花を見てから、一層この樹がいとしくなった。まるでこちらのそうした心の動きを読んでいるかのように、この樹は育っていく。縦に、というより、横に育っていくのがちょっと可笑しい。
ホワイトクリスマスは相変わらずしんしんとしている。ちょっと私のことは放っておいてね、と言っているかのようだ。あまり見つめられたくない、と言っているのかもしれない。でも私は彼女が気になる。だから見つめてしまう。
パスカリたちは、今日もこじんまりまとまってそこに在り。紅い新芽をのぞかせている。私はその新芽に、指先でちょこんと触れてみる。紅色の新芽。まだまだ頼りない柔らかさがそこに在る。
桃色のぼんぼりのような花を咲かせる樹の、蕾を見やる。昨日私が指で粉を拭った、その痕がそのままに残っている。もちろんこれで病気が拭われたわけでもなく。きっとまた粉は現れる。分かっている。分かっているけれども。でもできるなら、開かせてやりたいのだ。できることなら。
そしてその間、名前をすっかり忘れてしまった、薔薇の樹が二本。こちらも今は小休止状態で、新芽の気配はあるものの、じっと黙ってそこに在る。
玄関に回り、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。昨日先がくねっと萎れた一本。水をやったのだが、遅かったんだろうか、まだ復活していない。私はだんだん心配になってくる。これは、早々に先を切ってやった方が、今後のためになるんじゃなかろうか。そういう気持ちになってくる。どうしたらいいんだろう。こういうとき、どうしてやるのが一番この子の為になるんだろう。この先っちょには、もう花芽がついており。だからできるなら切りたくないのだが。でも。こんなにくたっとしてしまっていて、水を遣っても元に戻らないなら、切ってやるべきなんじゃなかろうか。迷う。どうしよう。
もうじき雨が降りだすんだろう、そんな気配の空の下、ビル群が立ち並ぶ埋立地。高いビルの、上の方はすでに雲の中に隠れてしまっている。あの雲の中歩いたら、どんな感じがするんだろうな、と思う。もし娘と二人あの場所へ行ったなら、きっと娘は体中で踊り始めるに違いない。そんな気がする。
校庭は、昨日集っていた子供らの足跡でいっぱいだ。あの中に、娘の足跡もあるんだろうか。あるとしたらどこら辺に残っているんだろう。私はあちこち目をやる。もちろんそれが分かるわけもなく。そんなことは分かっているのだが。でも。この校庭のどこかに娘の足跡もあるのかと思うと、なんだかいとおしくなってくるから不思議なものだ。
校庭の周りに立つ樹木の緑も、ずいぶんと生い茂ってきた。今にもこもこと緑の森が現れるんだなと思うと、楽しみでならない。そう思った瞬間、飼育小屋から鶏の劈くような声が響いてきた。そういえばまだ娘が二年生だった頃、夏休みに飼育小屋の世話に行ったっけ。オスの鶏が、いばりくさっていて、メスたちを従えてこちらを威嚇してきた。それを板で抑えながら小屋の掃除をしたんだった。思い出すとちょっと笑える。
部屋に戻ると、こちらもがらがらと回し車の音が響いており。あの音はミルクだなと思いながら近づくと、やはりミルクがでっぷりとした体で一生懸命回し車を回しているところだった。おはようミルク。私は声を掛ける。ミルクは、餌くれるの?という顔で、こちらに近づいてくる。だから私は手が空っぽであることを身振りで示す。もちろんミルクはそんなことお構いなしだ。がしがしがし、と、扉の入り口のところを齧り始める。ミルクの場合、扉をちょっとでも開けると、自力で這い出してきてしまうから、私は扉は開けず、声を掛ける。もうちょっと待っててね。娘が起きたら相手してもらえるから、もうちょっと待っててね。
洗面台に向かい、顔を洗う。何となくくすんだ顔色。やっぱり何処か疲れが残っているのかもしれない、と思う。でもまぁそれはそれ、せっかく朝になったのだから、新しい気持ちで一日を過ごしたい。
私は目を閉じ、体の内奥に耳を澄ます。
胃の辺りに違和感を感じ、私はそれに従ってそこに会いにゆく。穴ぼこだ。穴ぼこは、じっとそこに固まって在った。
おはよう。私は声を掛ける。穴ぼこは、それでも体を固くしている。
どうしてそんなに体を固くしているの? あなたの何がそんなふうにさせているの? 私は尋ねてみる。それとも、これは私の今の生活の、何かに関係があるの?
そしてふと浮かぶもの。それは、私の中の、じんわりとした異物感だった。それはここ最近ずっと覚えているもので。言ってみればそれは、生活に対する不安、だった。
不安、というとちょっと大袈裟かもしれないが。でも、それ以外に今いい言葉が思いつかない。不安というか、何というか、まさに異物としか表現しようがない。
私が勉強を始めたことによって、収入が激減している。その現実が、ありありとそこに在った。激減したことによって、いろいろなところに不具合が出てきた。その不具合さ加減が、最近、とみに明らかになってきており。そうした現実が、私に圧し掛かってきているのだ。
期限は決めている。勉強するにしても、このチャンスは最後で、そしていつまで、と決めてはいる。決めてはいるが、それがちゃんと実を結ぶかどうかも定かではなく。だからこそ、不安になるのだ。こんなことをしていていいのか、大丈夫なのか、生活は成り立つのか、と。
あぁそうか、そうした私の感じが、穴ぼこに影響を与えているのかと、納得した。穴ぼこは、私のそうした感じをそのまま受け取って、今、体を固くして閉じているのだ、と。
また臨時の仕事を増やそうか。そのことは、以前から思っている。でも果たして自分の心と体のバランスが取れるのかと、私はそのことで躊躇していた。でも。
もう躊躇しているような場合じゃぁないのかもしれない。
私は思いながら、穴ぼこを見つめた。どうするのが一番いいんだろう。
しばらくそうして思いめぐらしながら、私は穴ぼこの傍らに座っていた。穴ぼこはもちろん何も言わない。言わないが、心配そうだった。私を気遣ってくれているのだな、と感じられた。
だからこそ私は、方向をはっきり定めなければいけないな、と思った。
穴ぼこさん、大丈夫、考えてみるから。ちょっと時間を頂戴。私は声を掛ける。そうして立ち上がり、手を振って、その場を後にする。

ステレオからはちょうど、George MichaelのHeal the painが流れ始め。私はお湯を沸かす。生姜茶を入れて、椅子に座る。まだミルクの、がしがしと扉を噛む音が響いている。その音をぼんやり聴きながら、私は今日のスケジュールをチェックする。そうだ、今日はお弁当を作らなくちゃいけない。そのことを思い出す。私は慌てて冷蔵庫をチェックし、とりあえず作れそうなメニューを考える。昼に戻ってくれば、間に合うだろうと予定を整理し、再び椅子に座る。
煙草を一本吸い終えたら、朝の仕事に取り掛かろう。躊躇ってなんていられない。

じゃぁね、それじゃぁね。二人してゴミを出し、そこで手を振って別れる。私はバス停へ。バスが遅れているらしい。バス停には長蛇の列。やってきたバスも混み混みで、まっすぐに立っているのも難儀なほど。
晴れていたなら自転車でびゅーんと走っていけるのに、と思いながら、電車に乗り換える。電車の駅三つ分。私はぼんやりと外を眺める。やがて現れた川は濃い深緑色をしており。ゆったりとゆったりと流れている。どんなにゆったりであろうと、流れ続ける川のエネルギーをそこに思う。
しっかりしなければ。私は窓の外過ぎてゆく川の姿を見やりながら自分に言ってみる。私の肩にはいろんなものが圧し掛かっている。それでも、潰れるわけにはいかないのだから。
さぁ一日が始まる。電車はホームに滑り込み、私は勢いよく駆け出す。


2010年05月10日(月) 
窓を開けると、空の高みにうっすらと雲が広がっている。それは空全体に広がっており、風と共に動いていた。昨日より湿気があるんだろうか、何となく髪の調子がそう言っている。街路樹の若葉がそよよと風に揺れている。私の髪も、風に揺れる。
ふと、先日亡くなった師のことを空に思い浮かべる。厳つい風貌の先生だったが、でもその内面はとても繊細で、柔らかかった。私がまだ虐めに遭っていた頃、その気配を一番に察してくれたのもその先生だった。直接担任になったことはなかったが、部活で顧問だった。短い期間だったが、それでも印象に残っている。もう、こうやって見送るばかりの時期に私もさしかかっているのだな、と、改めて思う。そういえば若い頃は、多くの友人を自殺で失ってきた。どうしてそんなに多くの人がと思うほどの数だ。それらはいってみれば、暴力的な死だった。でも何だろう、こうやっておのずと迎える死というのは、なんて自然なんだろう、と思ってしまう。穏やかな、時の流れを感じる。
私はしゃがみこみ、ベビーロマンティカを覗きこむ。五つの蕾が、膨らんで膨らんで。今、その一番最初の蕾が綻び始めている。明るい明るい煉瓦色。ちょっと黄味がかっている。葉の柔らかな色合いに反して、このベビーロマンティカの花の色は、どういったらいいのだろう、なんというか、しっかりしている。しっかりと、厚い花弁だ。そこからはバロックの旋律が淡々と流れ出してきそうな、そんな気配。
その隣で、マリリン・モンローも花びらを綻ばせ始めている。まだまだほんのちょっとだが、それでも綻んでいる。薄いクリーム色の花びらの先はもう、ほんのり朱色がかっている。最初の蕾だからなんだろうか。時折こういう具合になる。
ホワイトクリスマスはその隣にしんしんと立っている。新芽の気配はあるものの、しばし沈黙、といったところか。でも何だろう、ベビーロマンティカやマリリン・モンローに比べたら今、葉の茂り方も何も貧相なのだが。それでも、ホワイトクリスマスには気品がある。凛とした気品が。私はそれが何より好きだ。
パスカリたちは、まるでこのところ続いている強い陽射しに縮こまっているかのよう。新芽を出してきてはいるけれど、それでもこじんまりしている。この季節の、この陽射しの強さに閉口している、といった感じ。私はそばに挿してある液肥の量を確かめる。大丈夫、ちゃんとある。
桃色のぼんぼりのような花を咲かす樹の、根元の蕾。相変わらず真っ白に粉を噴いている。それでも摘めない私は何なんだろう、とふと思う。こんなにも明らかに粉を噴いているというのに。無駄と分かっていながら、指先でそれを拭ってやる。それで病が治るわけでもないということは百も承知で。
玄関に回り、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。大丈夫、デージーの芽はちゃんと在る。私はほっとする。まだこうやって覗き込まなければ分からないほどに小さい芽だが、それでもちゃんとここに在る。まだ広げた葉先に、種の殻をつけているものもいたりして。本当にかわいらしい。その横でラヴェンダーは、風にさややと揺れている。こんなにも新芽をくっつけて、疲れているだろうに。それでもラヴェンダーのその枝は、必死に体を支えている。このエネルギーは一体何処から来るんだろう。見習わなければ、と思う。
風を受けながら振り返り、校庭を覗き込む。幾百幾千の足跡がそこに在る。昨日は野球チームの練習日だった。だからだろう、大きく滑り込んだような痕も残っている。そういえば娘は、野球の練習をここから眺めるのが好きだと言っていた。好きな男の子たちがこぞって野球チームに参加しているからかもしれない。いつも時間があるときは、ここから応援している。私はそんな娘の後姿を、眺めている方が好きだったりする。
部屋に戻ると、Elegieが流れ始めている。私の足元で、何かが動く。ゴロだ。おはようゴロ。私は声を掛ける。ゴロはその声に反応し、こちらを見上げてくる。なんだかほっぺたの様子が妙だ。多分ひまわりの種をいっぱいに詰め込んでいるんだろう。私はつい笑ってしまう。ゴロは扉を開けてもまだ自分では出てこない。だから私はそっと扉を開けて、彼女の頭をこにょこにょと撫でてやる。娘がよく最近言う、ママはゴロばっかり構って、ゴロにえこひいきしている!と。そうかもしれない。正直、ミルクは怖いのだ。すぐ噛み付いてくるから、それが怖い。娘の手に乗っているときにミルクを撫でるのは全然平気なのだが、私が進んで彼女を手のひらに乗せるかといえば否だ。ココアはココアで、しょっちゅう眠っているから、どうもタイミングが合わない。そうなると、つい、こうやって声や音に反応して出てくる、噛み付かないゴロばかりを、構ってしまうということになる。そうやってえこひいきするから、ミルクは余計に噛むんだよ!と娘は言う。確かにそうなのかもしれない。そうなのかもしれないが、ミルクの噛みは強くて、流血せずにはいないから、余計に私は怖気づく。申し訳ないと思いつつ、つい。
ふと見ると、机の上に、紙切れが載っている。つまみあげてみると、それは娘からのメモだった。「ママ、母の日、何もできなくてごめんね。いつもありがとう」。そう書いてあった。あぁそうか、昨日、私が母に、私と娘からだよと、ガーベラを贈ったから、彼女はまずいと思ったのかもしれない。でも、お小遣いも何もまだあげていないのだから、何かをプレゼントするなんてまだ娘にはできない。だからこういう、言葉だけで、もう十分なのだ。私は娘の寝顔を見ながら、ありがとね、と声を掛ける。
洗面台に行き、顔を洗う。毎朝見ている顔だけれども、どうも馴れない。自分の顔なのだけれども、できれば自分の顔じゃない、と思いたいのかもしれない。鏡の中の顔は、そんなことを言っているかのようだった。私はおまえの顔じゃぁない、と。でもそれは間違いなく私の顔のはずであり。私は苦笑する。
目を閉じ、体の内奥に耳を傾ける。
私はあの痛みたちの気配を再び感じ取る。でも何だろう、先日感じたような躊躇は、もうなかった。だから私は躊躇いなく、彼女たちに挨拶をする。そうして傍らに、座り込む。
鈍色の痛みたちは、少し軽くなって、そこに在った。私を待っているわけでもなく、でも、やっぱりどこかで待っていたのかもしれない。じっとそこに、在った。
私は、ちょっと考えていたことを、口にしてみることにした。
あなたたちの居場所を、作ろうと思うの。そんなふうに痛んでいるのは、疲れるんじゃないかと思って。ううん、私が、疲れるの。だから、あなたたちの居場所を作って、あなたたちにそこに居てもらおうかと思って。どうかな?
私はまだあなたたちに、直接触れられるほど、強くはないから。だから、あなたたちを包装紙に包んで、しまっておきたいの。あなたたちを忘れるというのではなく、ちゃんとあなたたちはここに在って、そのことを私もちゃんと覚えていて、でも、お互いに痛くないようにしたいんだけど、どう?
痛みたちは、何も言わない。言わないで、私を見ていた。私を試しているようだった。
包装紙でも布でもいいの。そうやって大事に包んで、私はこの肩の辺りの棚にあなたたちをしまいたいのだけれども、どう?
それでも痛みたちは何も言わない。黙っている。そうして私を見つめている。私も彼女たちを見つめている。
私は試みてみることにした。イメージした。彼女たちを包んで、そっと包んで、しまいこむイメージ。そうして肩の、この辺りの奥に、そっと置いておくイメージ。
適当な距離を、もちたかった。そう、適度な距離。あなたたちと私の間の、適度な距離を。今の距離はちょっと近くて、だから私は、息苦しくなってしまうから。適度な距離をもって、時間をもって、そうしてあなたたちをちゃんと見つめていたいから。
すると、ふっと痛みが軽くなった。軽くなって、私の手を離れ、棚の奥にしまわれた。
ありがとう、と声を掛けた。私はあなたたちを忘れはしないし、また会いに来るし、だからここに在てね。そう声を掛けた。
そうして私は、その場を離れることにした。
次にふっと浮かんできたのは、穴ぼこだった。穴ぼこが、まるで何かを歌っているかのようだった。私は耳を澄ます。何の音だろう、何の言葉だろう。
穴ぼこが、さみしいよぉ、さみしいよぉ、と歌っていた。私は吃驚した。何故穴ぼこがさみしいよぉ、などと歌うのだろう、と思ってしまった。思って、はっとした。
そうか、長いこと会いに来なかったから、穴ぼこはまた、自分がひとりぼっちにされたと思ってしまったんだ、と気づいた。あぁごめんなさい、と私は詫びた。
そんなつもりはなかった、あなたを放っておくつもりはなくて。ただ、ちょっと立て込んでいて、あなたに会いに来れなかっただけで。あなたを忘れたわけでは、全然ないんだよ。私は言った。穴ぼこは、しくしく、と泣いていた。彼女が泣くにつれて、胃の辺りがしくしくと痛んだ。
でも。何だろう。同時に私は嬉しくもあった。そうやって泣けるって、どれほど幸せなことだろう、と思った。
子供の頃、私は、そうやって泣くことなんてできなかった。いつでも強く、優秀で、立派な父母の子でいなければならなかったから、さみしいと泣くことなんて、冗談でも赦されなかった。子供じみた真似なんて、父も母も好かなかった。
いつでもだから、背伸びしていた。私は背伸びして、先を先を生きていた。そうやって走って走っていかなければ、到底追いつかなかった、父母の望む像には、とてもじゃないが追いつかなかった。
でも。もうそんな必要は、ない。あなたは子供らしくあっていいし、泣いても笑っても、そんなこと自由にやっていいことで。
私は穴ぼこにそっと手を添えた。しくしく泣く穴ぼこを、そうやって撫ぜた。穴ぼこは、冷たく冷え切っており。でも、生きているのだな、と思った。
自分の中に潜んでいるこういったものたちを、私は慈しまなければいけないな、と思った。いや、それは義務ではなく。決して義務ではなく。でも、私こそが為さねばならぬことなのだな、と思った。
穴ぼこが泣き止むのを待って、私は言った。大丈夫、また来るよ。そう言って、手を振って、別れた。

じゃぁね、それじゃぁね。あ、その前に、チュー! ええっ、やだよ、あなたのチューは、チューじゃなくてぶちゅーなんだもん。なんでよぉっ、いいじゃんいいじゃん! じゃぁぶちゅーじゃなくてチューにしてよ。やだ。やだじゃないってばぁ。
笑いながら別れる。私は階段を駆け下り、バス停へ。空は薄く霞んでいるが、それでも明るい。涼やかな風が渡っている。
連休がようやく終わって、駅の様子も普段に戻ったようだった。制服を着た子供らの姿も多い。私はその間をぬって先を急ぐ。
今日は病院。そういえば、病院に何も期待しなくなって、どれくらい経つんだろう。昔の私は、病院が支えだった。週に一度、二度、病院に駆け込んで、悲鳴を上げる。それが、日課のような日々もあった。今思い出すと、ちょっと恥ずかしくなる。
川を渡るところで、本から目を上げる。川は朗々と流れ。今陽射しがこれでもかというほど川に燦々と降り注ぎ。川は白銀色に輝いている。
さぁ今日も一日が始まる。私は再び、本に目を戻す。


2010年05月09日(日) 
ひとりの寝床から起き上がる。勢いよく窓を開け、ベランダに出る。
空には高いところにうっすらと雲がかかっているだけで、とても明るい。水色の空がもう見え始めている。風が心地よく流れてゆく。街路樹の若葉も、ひらひら、さやさやと揺れている。その街路樹の足元では、オレンジ色の薄い薄い花びらが、これもまた、ひらひらと揺れている。まるで風が歌っているようだ。そう思った。街はまだ眠りの中。人の姿も車の姿もない。大通りはからんとそこに広がっており。向こうのトタン屋根に今ちょうど朝陽が当たっているところらしく。きらきらきらきらと輝いている。
しゃがみこみ、ミミエデンを見やる。挿し木したミミエデン。色艶が少しずつ戻ってきている。枯れたミミエデンは、何がいけなかったんだろう。うどんこ病だけで駄目になったわけはない。でもその理由が分からない。とにかく今は、この挿し木が無事に育つことを祈るばかり。
マリリン・モンローに病葉を見つける。一枚の病葉。私はそれを摘む。他にはないか、じっと見つめる。今のところはないようだ。ほっとする。蕾はもう先が綻び始めた。本当に僅かだが、綻んでいる。とうとう母の日には間に合わず、母に贈ることはできなかった。昨日電話をした折、母にそのことを詫びた。咲いたら贈るよと言うと、そんなもの自分で楽しみなさいとすかさず言われてしまったが、咲いたら必ず、一輪は贈りたいと思っている。
その隣、ベビーロマンティカの蕾の色がぐいぐいと現れ出している。明るい煉瓦色と濃い黄色が入り混じったような、そんな色味。ちょっと怒っているようにも見えるその色合い。私は試しに尋ねてみる。何をそんなに怒っているの? すると、怒ってなんかないよ!と、すかさず返事が来るような気がする。それを怒ってるって言うんじゃないの?と私は思ったりするのだが、でも、なんだか楽しい。ベビーロマンティカを見ていると、いたずらっ子を思い出す。そういう雰囲気が、この樹にはあるのだ。
ホワイトクリスマスはしんしんとそこに在る。しばらく休憩、といった感じがする。大きな濃緑色の葉が枝から垂れ下がっている。新芽の気配はあるのだから、このまま待っていて大丈夫だろう。
パスカリたちの間、薄いオレンジ色の花を咲かせる薔薇に、病葉を見つける。私はそれをそっと摘んでやる。せっかく広げた葉なのに病葉で摘まれてしまうなんて、樹は思ってもみないんだろうな、と、申し訳なくなる。その隣、桃色のぼんぼりのような花を咲かせる樹の、蕾は真っ白で。私は見る度、どうしていいのかと考え込んでしまう。本当は摘むべきなんだろうと思う。ここまで真っ白なものを残しておくのはいけない。病気が拡がってしまう可能性の方が大きい。それは分かっている。でも、そう、でも、なのだ。どうしても摘むことができない。
玄関に回る。ラヴェンダーの鉢をじっと覗き込む。昨日見つけた芽が、今朝も間違いなくそこに在ることを私は確認する。ぐわんと気持ちが盛り上がるのを感じる。デージーの芽が出たのだ。本当に小さな、爪の先よりも小さいと思われるような双葉が、間違いなくあちこちに出てきている。昨日これを見つけたときは、本当に本当に嬉しかった。もう諦めていたから、尚更に嬉しかった。あぁ、デージーは生きていたのか、と、それが何より嬉しかった。目を凝らさないと分からないほどの小さな小さな芽だが、間違いなく彼らはそこに在り。生きているのだった。
ラヴェンダーの一本が、朝陽を浴びると何故かくたんと萎びてしまう。いくら水をやっても、そうなってしまう。何がいけないんだろう。分からない。片方のラヴェンダーはちっともそんなふうにならないのに、片方だけがくたんと萎びる。何か原因があるに違いないのだが。それが分からない。いきなりぐいぐいと伸びすぎたんだろうか。詰めてやった方がいいんだろうかとも思うのだが、どうなんだろう。一度母に尋ねてみようか。
昨日子ども会の野球チームが集っていた校庭。彼らの走り回ったその汗の痕がそこに在る。それを眺めながら思い出す。娘が、学校の朝練にバスケットで参加したいと言い出したこと。そのことを友人に聴かれ答えたら、陰口を叩かれたと娘がしょげていた。私と一緒にやりたくないんじゃないの、と娘は下唇を突き出して言っていたが、そうなんだろうか。そういえば娘と同じ年頃の頃、私も人の陰口に振り回されていたことがあったっけ。気になって気になって仕方なくて、だから誰もが自分の陰口を言っているようにさえ見えて、毎日が針の筵だった。家にも学校にも居場所がなくて、一体自分は何処へ行っていいんだろうと途方に暮れていた。娘はまだそんなところまではいっていないようだが、大丈夫だろうか。少し心配になる。でも、私が今気にしたって何も始まらない。娘に何か起きた時には私がフォローする。それだけ、だ。私はアンテナを張って、彼女のSOSをキャッチする、それが何より大事なことだ、と思う。
部屋に戻ると、がしがしと籠を齧る音が響いている。近づいてみると、やはりミルクだ。この大きな音は間違いなくミルク。私は苦笑しながら彼女の籠をとんとんと叩く。そういえば昨日安売りしていたキャベツの葉があったと思い出し、私はちぎって彼女に差し出す。途端にがしっと掴みかかり、齧り始めるミルク。本当に食いしん坊なんだなぁと思う。だからこんなにでっぷりと体格がいいんだろう。病気にならなければいいのだが、それだけが心配。
その気配を察して起きてきたゴロとココアにもキャベツの葉を差し出す。ゴロはちょっと齧っただけで、飽きたらしく、後ろ足で立ってこちらを見上げている。ココアはゆっくりと、キャベツの葉を齧っている。三人三様。本当に、人それぞれ、だ。
開け放した窓の際には、昨日洗ったセーターがそのまま干してある。触ってみるとまだちょっと湿っている感じがする。でも今日のこの天気なら乾くだろう。私はそれをそのままに置いておくことにする。
ふと思い出す。昨日届いた手紙に、強い人間というのは、決して弱音を吐かずに前に進んでゆく人間というイメージがする、ということが書いてあった。でも、果たしてそんな人間はいるんだろうか。全く弱音を吐かずに前進だけしていける人間なんて、いないだろうと私は思う。誰にでも弱くなる時期はある。強いときもあれば弱いときもある。それが人間なんじゃぁなかろうか。私はそう思う。
ネガティブにしかなれない時期だってもちろん在る。そういうときこそ、ポジティブな時の自分を思い出すといいのかもしれない。それを思い出して、イメージしてみる。そして、それを辿ってみる。今の自分と比較するんでなく、前向きな自分をイメージして、それがどれだけ自分にとって心地いいことかを思い出してみる。そして、じゃぁ今の自分に何ができるのかなと問うてみる。最近私はそういうふうにしてみるようにしている。それさえできないときがあるじゃないか、といわれるかもしれないが、それさえできないと思う時ほど、イメージしてみることにしている。そして、思い出すようにしてみる。私の中にはそういうエネルギーも在るということを、思い出してみることにしている。自分の中にそういうエネルギーが在ったということを憐憫をもって思い出すのでなく、そういうエネルギーが在ったという事実をそのまま見、大丈夫、今もまだ残ってる、どこかに残ってる、と信じるようにしている。そうすることで私は、ずいぶんと救われる。
でも、そういうふうな心の持ち方ができるようになったのは、はっきりいって最近のことだと思う。長いことそんなふうには考えられなかった。誰が何を言っても、無駄だった。私はもう駄目なんだと、そう思い込んでいる自分が在った。長い長いトンネルの、向こうの出口の光さえ見えない長いトンネルの、闇の中に在た。でも多分、そんな中でも、少しずつ少しずつ、進んでいたんだろう。やがて光が僅かに見えるようになり。そうして今ここに、在る。
私は洗面台に向かい、顔を洗う。鏡の中顔を覗くと、さっき見たデージーの新芽への喜びに溢れている顔が在った。ちょっと笑ってしまう。たったそれっぽっちのことでこんなに、と人には思われるかもしれないが、でも、私にはとてもとても嬉しいことだったんだ、と、改めて思う。
目を閉じ、体の内奥に耳を澄ます。
すぐに、鈍色の痛みが浮かんできた。私はちょっと躊躇する。正直、今会っても、何を言っていいのかが私には分からないからだ。
ただ黙って向き合う。すると、じわじわと何かが伝わってくるのを感じる。
痛みは、私に、おまえはやはり否定している、と言っていた。否定しているということから逃げている、とも言っていた。そうしてただそこに、在った。
私は黙って、その言葉を噛み締めてみた。否定している、否定していることから逃げている。それはどういうことなんだろう。私はしばし、その言葉に体を預けてみた。
ふと思う。母子家庭や父子家庭を営んでいるその人たちは、今たとえばどんなことを思っているんだろう。どんなふうにして家庭を成り立たせているんだろう。
私にとって今間違いなく、一番は娘だ。娘が何とか、生きていってくれることを、願っている。そのことを思ったとき、あぁ、と何かが過ぎった。
そうだ、私は同時に、焦ってもいるのだ。
確かに、私は今一番に娘のことを考えている。私の女としての人生より、母親父親としての人生を一番に考えている。でも同時に、じゃぁ私の女としての部分は、とも、私自身が思っている。そのことに、気づいた。
そうか、私自身がそう思っていたのか、と、私は愕然とした。だから、この痛みたちは、訴えているのだ。私のちぐはぐさを。そのことが、分かった。
私自身が焦っているのだ。勝手に年齢を数えて、娘をひとり立ちさせた後では、もう時間なんてないじゃないか、と思っているのだ、と、気づいた。
どうなんだろう。本当に時間が残っていないんだろうか。
娘が成人する頃、私は五十になっている。そこからまたさらに、私が元気なら、二十年、三十年の時間が残っている。その間を私は、どうやって過ごすんだろう。
そのことがきっと、不安なのだ。私は。不安でたまらないのだ。
私は笑いたくなった。なんだ、私が勝手に不安になって、だから私は今自分の性を否定することで楽になろうとしているのか、と。
いろんなことが在った。私が私の性を否定するしかない、それしか術がないような出来事が多々あった。そういうことを経て、私は否定することに馴れてしまった。否定していることの方が楽になってしまった。そして今、こういう状況の下にあって、さらに私は、今度は自分自身によって否定しようとしているのだ、と。
じゃぁ共存させる方法はあるんだろうか? それは正直分からない。私が女になったらどうなってしまうんだろう、という気持ちの方が大きい。その怖さの方が大きい。だから私は、進むことができないでいるのだ。
私は、黙ってこちらを見つめている痛みを見つめ返し、ぷっと吹き出してしまった。ごめん、笑っちゃいけないと思うんだけど、あまりに愚かで、笑ってしまったよ、と、言った。そう、あまりに愚かだ。私は愚かで、これっぽっちのちっぽけな人間だ。
私は否定していることを認めようと思う。拒絶し、今は楽な方に逃げようとしていることも認めようと思う。それでもなおかつ、今しばらくは、このままで在りたいと思っている自分が在ることも、認めようと思う。そのままに、認めよう。うん、そうだ。
私にはそこまで幅はないから、残念ながらそこまで器用には生きられないから、だからいっぺんにそこまでのことを為すことはできない。残念ながら。
私はあと十年は母親として生きていたいし、そうでなければ一個の人間として、生きていたい。女としての部分は、二の次、三の次、だ。確かに、もうその頃には私の性は失われて、女の部分が空っぽになってしまっているかもしれない。でも。
先のことは、正直、分からないから。今私がどうであるのか、そのことしか、私には今分からないから。今在るそのことを、そのままに認めていこうと思う。
私は痛みたちに、ありがとうと言った。そして、あなたたちが在ることはとてもよく分かった。だから忘れることはない、ちゃんと覚えている。その上で、私は生きていたいと思う、と告げた。
痛みたちはそんな私をじっと見ていたが、すっと後ろへ下がった、そんな気配がした。納得したわけではないんだろうけれど、それでも、私を尊重しようと、すっと後ろへ下がってくれた、そんな気配を感じた。
ありがとう、と私はもう一度言った。ちゃんと覚えているから。決して忘れることはないから、あなたたちの存在を。私は覚えているからね。私はそう言って、また来るよ、と声を掛け、立ち上がった。

お湯を沸かし、生姜茶を入れる。それと一緒に、レモンティーも入れてみる。何となくレモンの味が恋しい。そう思って。せっかくだから仕上げにメープルシロップをスプーン一杯入れて。
ステレオからは、Invitationが流れ始める。その音を聴きながら、私は一本煙草をくゆらす。後方では、まだミルクの、がしがしと扉を齧る音が響いている。

昨日届いた本を鞄と授業のノートとを鞄に入れ、玄関を出る。階段を駆け下り、自転車に跨る。坂を一気に駆け下り、信号を渡る。
公園の緑はどっしりと茂っており。池の端に立つと、千鳥が今日も集っているのが見える。千鳥たちはやけに忙しそうに動き回っている。躑躅の陰に猫が一匹。大きな欠伸をして、また寝転がる。
そういえばこの先には猫屋敷があった。もう猫おばさんはいなくなり、猫屋敷も今は、誰も住んでいない。空き家になっている。空き家になってもう何年経つんだろう。
私は大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ走る。プラタナスの若葉が輝く通りを一気に走り抜ける。新しく出来た公園、小さな公園、まだ誰の姿もない。
海と川とが繋がる場所、鴎たちが集っている。大きく空を旋回して海に舞い降りる姿。雄々しさをそこに感じる。
さぁ今日も一日が始まる。私は再びペダルを踏み込む。


2010年05月08日(土) 
午前三時。起き上がり、支度を始める。浴室に暗幕を張って、溶液を作り、引き伸ばし機をセットして。そうして作業に取り掛かる。
今回焼くのは八点。来月の個展で展示するのは七点。八点から一点落として七点に絞ることに決めている。もうほぼどれを落とすだろうということは自分で分かっている気がするのだが、でも最後の最後で迷っている。こっちにしようか、それともこっちにしようか。だからもう、がっと焼いてしまうことにした。
ピントを合わせる時、私は何故かいつも息を止めてしまう。それが多少長くても関係ない。息を止めないと、ピントを合わせられない。
私はデータというものを控えない。だからいつもぶっつけ本番だ。その時の気分、按配で、決めてしまう。これだからプロになれないんだなと苦笑するものの、それが私の性質なのだから、とも思っている。
何故だろう、暗室に篭っている時というのは、音楽が要らない。私はいつでも、何をするときでも音が必要になってくるというのに、この時ばかりは音は要らない。しんと静まり返った中、聴こえるのは紙の音、水の音、そして私の息遣いのみ。でもそれで、十分。
引き伸ばし機から、現像液に印画紙を入れる、そうして像がほんのりと浮かび上がってくるその瞬間が、私は好きだ。たまらない。どきどきする、のともちょっと違う、何て言ったらいいんだろう、どわっと体の内奥から何かが噴き出して来る、そんな感じがする。
一枚焼けると、勢いがついてきて、次々焼いてみたくなる。でもそこで勢いに任せると画が乱雑になってしまうから、自分の勢いを抑え、一つ一つの作業に神経を集中させる。
暗室、という、その暗闇であることも、私に大きく作用しているのかもしれない。落ち着くのだ、ほっとする。だから安心して手元に集中できる。
一枚、また一枚、そうやって仕上げてゆく。水洗する槽の中、印画紙がゆっくりと揺らめいている。私はようやく深呼吸する。
あっという間に二時間が過ぎた。ぎりぎりで八枚、仕上げることができた。着地点を決めていたから今回は二時間で済んだが、そうでなかったらとてもこれじゃぁ終わりにはならない。
昔、よく発作を起こしていた頃。あの頃、私は毎日のように暗室に篭った。たとえば腕を切り刻みたい衝動に駆られ、腕を切り刻み始めてはっと気づく。こんなんじゃいけない。そうして私は風呂場に飛び込み、暗室作業にとりかかる。そうすると、何故か、それまでの衝動が方向を変えてくれた。腕へひたすら向かっていた衝動が、印画紙へと方向を変え、私を救い上げてくれた。そうして気づけば朝を迎えるということが、一体何度あったことか。そんな時見る朝陽がどれほどに眩しく、でもいとおしかったか、を、今改めて思う。私の腕がちぎれずにここに在るのは、そうした行為があったおかげかもしれないと、大袈裟じゃぁなく、思う。
私はベランダに出て、もう一度大きく深呼吸する。ひんやりした空気が胸いっぱいに広がる。気持ちいい。風も心地よい具合に流れている。街路樹の若葉たちが、ひらひらとその風に揺れている。街路樹の足元に植わっているオレンジ色の花びらを見せているポピーも、一緒に揺れている。
私はベランダにしゃがみこみ、ミミエデンを見やる。ミミエデンの、古い株は、もう終わった。よく頑張ったなと思う。病に冒されながら、それでもここまで頑張ってくれた、ご苦労様、ありがとう。思いを込めて、私は株を撫でる。でもその脇で、今、挿し木したミミエデンが、まだ懸命に踏ん張っている。こちらはまだまだ息をしている。挿した当初より、少し、緑に艶が戻ってきた気がするのは気のせいだろうか。
ベビーロマンティカの蕾が、いつの間にか五つに増えている。気づかなかった。見落としていた。その新たな蕾たちは、葉の陰から顔を覗かせ、一生懸命空を見上げようと首を伸ばしているところだった。まるでミミエデンの分も、自分が花を咲かせてやろうとするかのように。
マリリン・モンローの蕾も、微かに風に揺れながら、それでも天を向いてそこに在る。蕾を指で弾いたら、きっと凛々という音が聴こえてくるんじゃないか、と、そう思えるほどの真っ直ぐな姿。見つめていると自然、こちらの背筋も伸びてくる。
挿し木たちを集めた小さなプランターの中、新芽がこぞって粉を噴いている。水を遣りすぎたか、私は慌てる。さぁ、挿し木の新芽を摘んでいいものかどうか。私は迷う。迷って迷って、今しばらく、そのままにしておくことに決める。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる薔薇の、花芽はすっかり粉を噴いており。でも、その花芽は確実に大きくなってきており。これを摘めというのか、と私は惑う。摘みたくない、と思う。できるなら咲かせてやりたい。どうしよう。困った。もうしばらくでもいいから、様子を見ようと決める。
パスカリたちは相変わらずこじんまりとまとまっており。今のところ新芽に粉のついている気配はない。このまましばらくいけそうだ。
そうして私は玄関に回る。回って、慌てて如雨露を取りに戻る。そうして早速水遣り。しんなりとよたっていたのだ、ラヴェンダーが。これは迂闊だった。ラヴェンダーは薔薇とは違って小刻みに水をやらないと、こういう具合になることを、すっかり忘れていた。如雨露から滴る水はあっという間に土に吸い込まれてゆき。これでもう大丈夫だろう。また水を吸い上げれば元に戻ってくれるはず。私はラヴェンダーにごめんねと詫びる。
部屋に戻り、再び風呂場へ。そろそろ水洗も終わった頃だろう。私は印画紙を一枚一枚干してゆく。風呂場の小窓を開け、その傍らに一枚一枚吊り下げる。もうその頃には、どれを落とすのか、決まっていた。本当は飾ってやりたいけれど、展示してやりたいけれど、またの機会にしよう、と決める。
食堂に戻ると、半分開けた窓から、風が流れ込んできていた。ゴロが起きている。おはようゴロ。私は彼女に声を掛ける。後ろ足で立ち、鼻先をひくつかせているゴロ。私はちょっとだけよと断って手のひらに乗せる。彼女はしょっちゅう後退して手のひらから落ちそうになるから、私は予め彼女のお尻に手を添える。彼女の顔を見て気づいた。今ほっぺたの中にはいっぱい餌が入っているのだな、と。笑えるくらいそれは、ぷっくりと膨らんでおり。でも彼女は上手に顔を洗ってみせてくれる。
私も顔を洗おうと、洗面台へ向かう。鏡の中、すっきりした自分の顔を見て、やっぱり暗室作業は自分に合っているのだな、と納得する。もともと私は写真というものが大嫌いだった。撮るのも撮られるのもキライ。カメラなんて冗談でも持ちたくない、というのが昔の私だった。そんな自分を思い返すと、今はちょっと笑える。なんであんなに拒絶していたんだろうな、と。魂を吸い取られるってわけでもないだろうに、でも、私は自分の姿が印画紙の上に残る、というそのことが、もう赦せなかったのだ。たまらなかったのだ。写真なんて、とだから思っていた。でも。その写真という術のおかげで、私はここまで越えてきた。不思議な縁だな、と思う。
目を瞑り、気持ちを体の内奥に集中させる。
鈍色の痛みたちは、まだそこに居残っており。当たり前だ、何も解決していないのだから、消え去るわけがない。でも何だろう、それらに向き合おうとする自分の体が、何だか重い。憂鬱とまではいかないが、重い。
考えていた。私は今酷く戸惑っているということを、改めて考えていた。
日々女っぽい体つき、仕草を身につけてゆく娘の傍らで、私は何をしているんだろう、と感じている自分がいることに気づいた。そして、こんな、自分の性を否定している母親が彼女のそばにいて、本当にいいんだろうか、大丈夫なんだろうか、と、不安に思っている自分がいることも発見した。
そして。私が娘と自分の性の在り方を、比較しているらしいことにも、気づいた。でも。
そこまでだった。
それ以上が、何も考えられなくなった。
だから私は耳を澄ましてみる。痛みたちに、耳を澄ましてみる。痛みたちは今、改めて私に何を伝えようとしているんだろう、と。
痛みたちは、そんな私を、どこかで拒絶しているかのようだった。拒絶、まではいかないとしても、何だろう、こう、認めていない、というような。そんな気配。
何がそんなに認められないの、と問おうとして、やめた。それは愚問だ。彼女らにとって、今の私の在り方が、認められないことは、もう分かっている。そして、彼女らが私にどうして欲しいかも、もう、ほとんど分かっている。
でも。
私はまだ、二の足を踏んでいた。越えるにはあまりに大きな隔たりだった。
ふと思った。そうした隔たりが生じてしまったのは、何故だったんだろう。ああした被害に遭っても、自分の性を受け止めている人たちは多々いる。私のような人間ももちろん在るが、そうじゃない人たちも多々在る。この差は、どこから生じているんだろう。
何か一つでも、クリアできることはないだろうか。私はあれこれ思い巡らしてみる。でも。でも、なのだ。でも、がついてしまうのだ。どうしても。
私は再び耳を澄ます。彼女たちは今何を思っているのだろう。
カナシイ、という響きが、漂ってきた。そういう自分で在ることが、カナシイ。彼女たちは、まるでそう歌っているかのようだった。
カナシイ。そう、カナシイかもしれない。彼女たちは、私が否定しているということは、もう自分たちは用なしで、それは、この世のすべてから用なしとみなされていると思っているかのようで。自分たちは存在しているのに、その存在をありとあらゆるところから、用はないとみなされている、と、思うしかないところに、彼女たちは在るかのようで。
それがどれほどカナシイものだか、私にも、ありありと伝わってきた。
でもじゃぁ、私はどうすればいいんだろう。そう思ったところで、はたと気づいた。
あぁ私は、否定しているわけじゃなく。別に今、明らかに彼女たちを否定しているわけじゃなく。ただ、この状態が、楽なんだ、ということに。改めて気づいた。
これも私の在り方のひとつであって。それは昔とは全く異なる立ち位置かもしれないけれども、でも、これもこれで私の一つの在り方であって。私は逆に、今はそうでありたいと、思っているところがあるんだということ。
私はだから、痛みたちに言ってみた。ねぇ、私、あなたたちを否定しているわけじゃないってこと、今改めて気づいた。否定しているわけじゃなくて、ただ、それを今、誇示する必要がないってだけなんだよ。確かに私は女の性からちょっと離れたところで今生きているけれども、でも、女や男をあまり意識したくないっていうのは、本当だけれど、でも、否定はしてない、よ。うん。それじゃ、だめなのかな?
痛みは、納得がいかない、というふうにこちらを見ていた。
だから私は続けて言ってみた。私、今は、自分が女に産まれて来たこと自体は、キライでも何でもないよ、むしろ、そうあってよかったって思ってる。女だからこそできたこと、経てこれたこと、たくさんあると思うから。もちろんそれによって失ってきたものも多々あることは事実だけれど。それでも、女に生まれてきたこと自体は、私は今は恨んでも後悔してもいない。そこからもう一度始めるんじゃ、だめなのかな? 今すぐに、この隔たりを飛び越えろって言われても、私多分、もっと怖気づいて、できなくなってしまう。それなら、この位置から、改めて始める、っていうことの方が、私にはできそうな気がする。いや、そうしたいと思うんだけど、それで、いいかな?
痛みたちは、黙っていた。納得してくれたわけじゃない。そのことは、ありありと分かった。でも。黙っていた。黙って、私を見つめていた。
あの子との生活も、これからもっともっと、性を意識しなくちゃならないことが出てくるんだと思う。あの子自身が、これからもっともっと女になってゆくわけだから、そのすぐそばに私は在るのだから、否応なく意識していかなくちゃならない。戸惑うよ、どうしていいんだろう、って。でも。少なくとも私は、あの子の性まで否定しようなんて気持ちは、さらさらないのだから。あの子と共存しながら、私は私で模索していきたいと思う。それじゃ、だめなのかな?
失った性を、滅多切りにされた性を、どうやったらもう一度素直に手にすることができるのか、今は全く分からないけれど、でも、ここから、やってはみるから。
本当は。本当は痛みたちは、私に、ひとっとびにこの隔たりを飛び越えて欲しかったんだろう。でも、私にそれは、できそうになかった。そのくらい、あまりに大きな隔たりだった。いろいろな出来事によって、その溝は、深く深く、抉られていた。
また来るよ。私はそう言って立ち上がる。痛みたちは、じっとこちらを見ていた。まるで推し量るように、こちらを見ていた。私の気持ちがどこまでのものなのか、推し量るように。
目を開けると、途端に周りの音が押し寄せてきた。多分ミルクだろう、回し車を回す音、ステレオから流れる曲はwindancer、風が窓を通り抜ける音、葉が擦れる音、世界には音が溢れている。

それじゃぁね、じゃぁね、手を振って別れる。娘はバス停へ、私は自転車に跨り坂を下る。公園は緑がこんもりと茂っており。朝陽は茂みの向こうで弾けている。もうじききっと、この辺りにまで緑の匂いが漂ってくるに違いない。そういう季節だ。
大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。
街路樹の銀杏たちが揺れている。埋立地はいつでも風が強い。立ち並ぶビルの隙間をぬって吹く風は、どこか乱暴で冷たい。その風に吹かれながら、私は海に向かってただ走る。
久しぶりに数羽の鴎と出会う。港の辺りを飛び交う鴎は、翼を銀色に輝かせ。それは鮮烈な色彩で。私は思わず目を細める。
海は濃紺に少し深緑を混ぜたような色合いで。もう港の中では忙しげに船が行き交っている。太陽は煌々とそこに在り。
さぁ、また一日が始まる。私は自転車に跨り、先を急ぐ。


2010年05月07日(金) 
窓を開けると、一面薄く雲に覆われ、くぐもった空が広がっている。風が思ったよりも強く吹いており、私は手首にはめていたゴムで急いで髪の毛を結わく。そのくらい風が強い。街路樹の若葉たちも、全員が全員、裏側を見せてひらめいている。裏側の緑は、表の緑色よりずっと白っぽい色。毛羽立っているから触るとざらざらする。街路樹の根元に植えられたポピーの花たちも、一斉に揺らいでいる。時に花が千切れそうになるほどの勢い。もちろん決して千切れないしなやかさを花たちは持っているのだが。ああした姿を眺めていると、私は清宮質文の葦の絵を思い出す。葦の茂みの中、小さな小さな赤子を抱いて立つヒトガタ。あの絵を思い出す。
ステレオからは小さくSecret GardenのElanが流れている。私はその音を耳の遠くで聴きながらしゃがみこむ。マリリン・モンローの茂みも風に揺れている。いつも天を向いている蕾も、今日はゆらゆらと揺れながらそこに在る。もう私の親指の頭ほどの大きさに膨らんできた。もし今これを包丁で二つに割ったなら、ぱつんっと弾ける音が聴こえてきそうなほど。きっと今、この内側にはぎっしりと花びらが詰まっているはず。触れる指先に、その重さがじわりと伝わってくる。
ベビーロマンティカもこれまた風に揺れている。揺れるほどの緑を湛えているということか。私はその様を眺めながら、ひとつも病葉のないこの力強い姿にほっとする。四つの蕾は、それぞれに揺れながらも力を漲らせており。私はそのひとつを指でつまんでみる。ぎっしりと花びらの詰まったそれは固く固く閉じており。今か今かとその時を待っているのが伝わってくる。
ホワイトクリスマスの大きな葉も、揺れている。ベビーロマンティカやマリリン・モンローと比較すると何分の一かしか茂っていない葉だけれど、その大きさゆえ存在感がある。濃暗緑色をしたその葉たち。
桃色のぼんぼりのような花を咲かせる樹は、風を避けて小さく縮こまっている。花芽はやはり白く粉を噴いており。本当はここで摘んでしまわなければならないのかもしれない。でも私には摘めない。もう少し、せめてもう少し。そう思ってしまう。こんなんだから病気がなかなか治らないんだろうか。申し訳なくなる。
パスカリも、僅かに揺れながらも、必死に体をちぢこませている。新芽はとりあえず粉が噴いてはいず。このまま開かせても大丈夫そうだ。私はほっとする。
玄関に回り、ラヴェンダーを見やる。びゅんびゅんと風に撓りながらそこに在るラヴェンダーたち。でも根っこは、しかと地中に張り巡らせているんだろう。びくともしない根元。私は何となく羨ましくなる。こんなふうに地面に足をしかとつけて立っていることができたら、どれほど力強く歩けることだろうと思って。そしてちょっと笑う。そんなこと羨ましく思ったってどうしようもないのに、と。
校庭の端っこ、プールはさざなみだっており。深く強く風にあわせて刻まれる紋様。まるで水中に何かが潜んでいるかのような、そんな様相。見上げれば雲はぐんぐんと動き流れ。止まることを知らないかのようだ。埋立地の高層ビル群が目の前に幾つか広がっている。そのビルの後ろ側でも、雲が渦巻いている。薄い灰色のものもあれば、濃い灰色のものもあり。入り混じり、重なり合いながらぐいぐいと流れ動いてゆく。
部屋に戻り、顔を洗う。水はずいぶんとぬるくなった。あの冬場の冷たい水がちょっと懐かしい。私は顔を洗うときほど、冷たい水を好む。ぬるいと、なんだか顔がだらけてきそうな感じがして、苦手なのだ。
誰かが回し車を回している。その気配を感じながら、私は目を閉じ、体の内奥に耳を澄ます。
私はざわざわが在た場所に出掛ける。そこでゆっくりと息を吸い込み、気配を感じ取ろうと試みる。
ざわざわはもうざわざわではなくなっており。肩に圧し掛かる、重たい鈍い痛みのようなものに変わっていた。
私はその鈍色の痛みを見つめながら、それが何かを発するのを待っている。
重い。
最初にそのことが浮かんだ。そりゃぁ重たいだろう。どれほどの思いがそこに詰まっているかしれないのだから。重いに違いない。
鈍色の痛みは、じっと黙ってそこに在った。しこっているような、痛みだった。しこっている。そう、しこっているのだ。解きほぐされない何かが、そこに在った。
その時、連鎖的に別の痛みが飛び込んできた。何だろう。私は振り返る。そこには、下腹部の、鋭い痛みがあった。でもこれらはまるで、連動しているようだった。だから私はそのままそこに座り、ただ感じるままにしてみる。
私の性の在り処が分からない。その痛みたちは、そのことを言っていた。
私は一瞬にして参ってしまった。どうしよう。そう思った。分からないのは、私も同じなのだ。いやむしろ、私は否定しているところが、在る。
痛みたちは、疼いていた。疼いて、懸命に何かを主張しようとしていた。私は少し慄きながら、それを眺めている。
私は果たして、女でよかったんだろうか。女に生まれてよかったんだろうか。間違いだったんじゃなかろうか。痛みたちは、まずそのことを謳っていた。女に生まれなければ、父母が惑うこともなかった。女に生まれなければ、あんな事件に遭うこともなかった。それはそうだ。でも。
でも。そう言ってしまって本当にいいんだろうか。私は問う。それでいいのか。
そうだ、女でなければ、私は娘を産むことはできなかった。女に生まれたから、それができたんじゃぁないのか。
痛みたちは、疼いていた。疼いて疼いて、泣いていた。女なんかに生まれたから、私はこんなに辛かった、と。
でも、そんなもの、取り替えようがない。どうしようもない。悔いたって、何にもならない。私は言ってみる。
だったらどうしておまえは女を誇らない? どうして誇りをもとうとしない? 逆に私は問われた。女であることを否定しているのは、おまえ自身じゃぁないか。
私は閉口した。確かにそうなのだ。誰よりも何よりも、私自身が、自分が女であることを今でさえ受け容れかねているところがあるのだ。それは、事実だ。
女であることを認めると、私はまるで、さらに弱くなるように思えるのだ。崩れていくように、思えてしまうのだ。どうしてだろう、どうしてなんだろう。
今女であることを受け容れたら、私は崩れてしまう。女でも男でもないところで、生きている方が楽で。だから私は、自分の性を蔑ろにしている。
痛みたちは言っていた。自分を受け容れろ、と。自分が何であるのか、そのことをしかと見ろ、と。
正直、見れない、と思った。私は崩れたくないから。これ以上弱くなりたくないから。今見ることはできない、と思った。
その思いが言っていないうちからもう伝わってしまったのだろう。痛みたちは、一瞬の沈黙の後、さめざめと泣きだした。それはまるで涙の川のように、私に伝わってきた。哀しい涙だった。
だから考えてみた。折り合いをつけるには、どうしたらいいんだろう。
少し時間をちょうだい。私は言ってみた。私になりに考えてみるから、少し時間をちょうだい。痛みたちは、じっと私を見つめていた。黙ったまま、見つめていた。
また来るね。そう言って私は立ち上がった。また必ず来るから。待っていてね。そう言って、その場を後にした。
目を開けても、痛みはそこに在った。じんじんと痛かった。私はその痛みを手で撫ぜてみた。なんだかこちらも泣けてきそうな気がした。どうしていいか分からなかった。
女だからこそ、子供を産めた。そのことは、分かった。そのことには感謝している。でも何故だろう。諸手を挙げて、喜ぶことができない。そのことには感謝している、と、限定でしか言えない。とてもじゃないけど言えない。
鏡の中、映る、ぼんやりした自分の顔を眺めながら、ふと思い出す。髪をおろした私を見て、友人が、女っぽいんだねぇ、本当は、と、声を上げたことを。それが女友達だったから、私はこそばゆさを感じながらもありがとうと言えた。でもあれが男友達だったら、とてもそんな反応はできなかった。途端に髪を結わいただろう。
自分の中に女という要素が残っている。そのことだけで私はすでに罪悪感を覚えている。汚らわしささえ覚える。そう、汚らわしいのだ。罪悪感というよりも、汚らわしい。
こんなにも嫌悪する自分の性。私は自分自身、戸惑っている。

ステレオからは、Divertimentoが流れ始める。軽やかなその旋律に、私はふと救われるものを感じる。重苦しい何かからすっと前に押し出される、そんな気配。
お湯を沸かし、お茶を入れる。今日は授業だから、授業にもっていく水筒にも生姜茶を入れる。今日は怒涛の授業だ。とても居眠りなんてしている暇はない。そんなことをしたらすべてがおじゃんになる。そのくらい重要な授業だ。だからお茶も濃い目に入れておくことにする。
そうして弁当も一緒に作る。娘がもやしを食べたいと突然言い出した。そこで野菜炒めを作ることにする。もやしと韮とベーコン。塩胡椒で味付けし、まだ固めのうちに弁当に盛り付ける。玉子焼きも一緒に入れる。あとはプチトマトで彩をつけて、おにぎりはしそ昆布で。

ママ、今年から朝練に参加しないといけないんだけどさ、どれに参加すればいいと思う? どれって、自分のやりたいのにしなよ。うーん、じゃぁバスケかなぁ。バスケかぁ。ママはピアノやってたから球技って殆どできなかったの、球技って楽しいっていうから、いいんじゃない? なんでピアノやってると球技できないの? 突き指とかしたら大変だから、球技はやっちゃいけなかったの。えー、かわいそう! ははは。まぁそれはママが選んだことだから。そうなんだぁ、じゃ、私、バスケにするっ。うんうん。でもね、私、試合には出たくないの。え、そうなの? うん、試合、キライ。どうして? 試合になるとみんな、ええかっこしいになるから! えー、そうなの? うん。
ママって、好きな人の前で、かっこつける? ん? かっこつける、つけない、どっち? んー、かっこつけてもしょうがない気がするけど…。私ね、かっこつけないの。それはどうして? だって、ばれるじゃん、どうせ。それなら最初からわかってる方がいいじゃん。あぁなるほどね。うんうん。そうだよね。でもさ、女ってみんな、変わるよね、好きな人の前とかになると、いじいじするっていうかさ、小さくなるっていうかさ、なんかそんなふうになって、かわいこぶりっこになるの。あれ、私、嫌なんだよね。ははは。まぁそういう子もいるわな。ああいうの見てると、何やってんの、と思う。はっはっは。あんたの正体、私、知ってるよって突っ込みたくなる。わはははは。まぁそれはやめときな。そりゃ、やんないけどサ!

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。雲がぐいぐい動いていくのが空を見ていると分かる。私は迷った末、傘を持って玄関を出る。
やって来たバスに飛び乗り、駅へ。傘を持った制服を着た子供らが、大きなランドセルを背負って歩いている。その後について私も歩く。
駅前の喫煙コーナーはぎゅうぎゅうづめで。あんなところで煙草を吸っても、全然味わえないだろうにといつも思う。もうどうしようもないときは仕方なく私も吸うけれど、それでなければ入りたくない。
橋を渡るところで立ち止まる。ちょうど川の中ほどに、光が降りているところで。濁った緑色の川の水は、止まることなく流れ続け。
さぁ今日も一日が始まる。私は勢いよく、歩き出す。


2010年05月06日(木) 
薄い雲のかかった明るい空が広がっている。本当にそれは薄くて、ヴェールのような雲。そして空全体を覆っている。
街路樹の若葉がそよ風にさやさやと揺れている。だいぶ大きくなった葉。ちょっと見ただけでも、それらが一つとして同じものはないことが分かる。一つ一つ、唯一の葉。
まだ人の姿も車の姿もない通りを見やりながら、私は大きく伸びをする。今朝もずいぶんとあたたかい。目の中で唯一動く気配を感じ、見ると、通りの向こう側、街路樹の足元で、犬が幹に背を擦り付けている。何処から来たんだろう。迷い犬だろうか。ちゃんと飼い主がいるのであればよいのだけれども。
昨日水を遣ったというのに、プランターの土の表面はもう乾いている。どれもこれも乾いている。私はしゃがみこみ、ミミエデンを見やる。
枯れてはいない。大丈夫、まだ枯れてはいない。古い樹と挿し木したものとをそれぞれ比べながら思う。枯れていなければ、まだ見込みはある。そう信じて、私は待つ。
パスカリたちはそれぞれ小さくまとまって、そこに在る。濃くて暗い緑色をした葉。若葉でもこうした暗い色をしているパスカリ。その狭間で、桃色の花を咲かせる樹が、小さく小さく茂っている。出てきた花芽の、すっかり粉を噴いている様を見やる。今朝もまた、どうしよう、と私は思う。切るに切れない。そんな感じ。せっかく出てきた花芽なのに、これまでもを摘んでしまうのはあまりに忍びなくて。
ベビーロマンティカの蕾は明るい煉瓦色をした部分と、一部、明るい濃い黄色をした部分とが現れてきた。その二色が入り混じっている、といった感じ。とうとう、母の日には間に合わなかったか。仕方がない。咲いたらそのときに改めて花を贈ればいい。
マリリン・モンローの蕾も、これでもかこれでもかというほど膨らんではいるのだが、これもまた、母の日には間に合わないだろう。マリリン・モンローは、挿し木もしている。それはいずれ母にプレゼントしようと思っている代物。今のところ無事に育っている。茂みになったら、母に渡そうと思っているのだが、そこまでいくにはまだまだ時間がかかりそうだ。
ホワイトクリスマスは新芽の気配を湛えているものの、今はじっとそこに在る。濃緑色の葉は、大きくて、はっきりとしている。その葉を、陽光に向けてぴっと開いている。私はその葉をそっと撫でてみる。ぴんと張った葉。私の指の腹を弾くように。
玄関に回り、ラヴェンダーを見やる。この連休中、ずっと晴れていたおかげなのか、もう全身新芽だらけのラヴェンダーたち。細い体がその重みに耐えられるのか、心配になるほど。それでも懸命に天を向こうと体を支えているのだから、そのエネルギーというのはいかほどのものなのかとつくづく思う。
昨日誰も訪れる者のなかった校庭は、からんとしており。乾いた砂が広がっている。どこからかやってきたのだろう鳥が、校庭のジャングルジムの辺りに集っている。何をしているのだろう。ここからでは、その詳細は分からない。が、なんだか楽しそうに、ジャングルジムの上、行ったり来たりしている。
プールはしんしんとそこに在り。そういえば来月にはプール開きか。時の流れはなんて速いのだろう。今年ももう半年が経つということか。その速さに私は改めて驚く。中学生の頃、私は水泳部だった。だからプールの掃除も担当だった。気持ち悪いといえば悪いのだけれども、誰よりも早く、一番にプールに入れることは、私の楽しみの一つだった。なんだかプールを占領できるみたいで、それが嬉しかったことを思い出す。
部屋に戻ると、ステレオからはSecret GardenのDawn of a new centuryが流れている。雄々しいその音色を聴きながら、私は顔を洗い始める。
鏡の中の顔は、もうすっかり起きており。さっきまでうっすら汗ばんでいた顔も、水でばしゃばしゃあらってもうさっぱりしていた。その顔を眺めながらふと、昨日届いた手紙のことを思い出す。それは父親から性的な虐待を受け続けた女性からの手紙だった。それがどれほど、彼女の生き方に影響を与えたのか、それが痛いほど伝わってきた。いつも思う。自分のことも含めて、こうした体験から得てしまったもの、失ってしまったものを取り戻すことは、本当にできないんだろうか、と。私はどうなんだろう。あの時失ってしまったもの、背負わなければならなくなったものたちと、どうつきあってきただろう。無我夢中すぎて、どう言葉に表していいのか、分からない。それが正直なところだ。ただ、うまく言えないが、そういったものたちとつきあっていくことは、少なくともできる気がする、私は今そう思っている。ただそれには、とてつもない時間と労力とが必要になるけれども。本当に本当に、これでもかというほどの長い時間とエネルギーとが、必要になるけれども。
目を閉じ、体の内奥に耳を傾ける。
体の中で、何かがざわざわと動いている。私にはすぐそれが何かが分かった。これはついさっき思い出していた、手紙と繋がるものだな、と。
ざわざわ、ざわざわ、音が続く。気配がする。私はその傍らに座り込み、耳を澄ます。
ざわざわは、とある場面を映し出す。それは、加害者が私に謝罪した時の場面だ。彼が頭を下げる。下げて、詫びを延々と述べる。それを私は聴いている。あの場面だ。
それまで私は、加害者に詫びてもらえたなら、何かが少しでも何かが変わるんじゃないかと思っていた。変わってほしいと思っていた。変わるに違いない、とも思っていた。でも。
違った。何も変わらなかった。謝罪されても何も、変わることはなかった。私の中の傷は傷であり、もう起きてしまったことを変えることは、もはや誰にも何にもできないのだった。そのことを、知った。
あぁもうだめだ、と思ったのは、改めて思ったのは、あの時だったような気がする。諦め半分と、同時に、どうしようもなさを私は抱え込んだ。こんなことなら謝罪なんてしてもらうんじゃなかったと、思った。謝罪させた分、加害者は楽になっただろう、でも私は。私は楽になんてちっともならない。その現実が、ありありとそこに在った。
あぁもう逃げ場はない。そのことを、思った。もう私は何処にも行けない。何処にも行きようがない。そのことを、痛感した。
加害者に時効はあっても、被害者に時効はないのだという、当たり前の事実を、私は改めて、思った。一度起きてしまったことを変えられる人など、物など、何処にもないのだという当たり前の事実を、私は改めて知った。それがあの時だった。
今振り返れば、あれを契機に、私はさらに泥沼にはまっていった。これでもかこれでもかと腕を切りつけ、自分を傷つけ、血まみれになり、それでも気がすまなくて、自分をすり減らすことばかりを繰り返した。そうして多くのものをさらにさらに失った。
今その頃の私を知る友人が時折思い出したように言う。あの頃、あなたの腕の新しい傷を見るたび、娘さん、心配してたよね、と。私はそれを聴きながら小さく笑う。いや、笑うしかないのだ、だって私はほとんどそのことを覚えていないのだから。
そうやって私は私の手で多くの人を傷つけた。多くの人の心を傷つけた。そうやって私は生き延びてきた。その事実を、改めて、思う。
ふと、ざわざわが動く気配がした。私はそちらを見やる。
ざわざわは、そういったこと一切合財を、ちゃんと背負っていけよ、と言っているかのようだった。同時に、それは重たくて重たくて重たくて、逃げ出したくなるんだよ、と、泣きそうな顔もしていた。
あぁそうだ、と思った。そう、逃げ出したいくらいそれは、重たい代物だった。いや実際、私は一時期逃げ出した。すべてから逃げ出して、ひとりだけ、助かろうとしていた。この世から消え去ればすべてから楽になれると、そう思って、ひとりだけ助かろうとしていた。でも。
それをして何になる?
あぁそうか、ざわざわは、ずっと、耐えてきたのだ、と気づいた。逃げ出したくなるほど重たくて重たくて重たくて、でもそこから逃げることもできなくて、ただひたすら、その重石の下で、耐えてきたのか、と。
ざわざわは、ざわざわと揺れていた。私の視界全体が揺れていた。ざわざわはそのくらい、大きな気配だった。それはきっと、そのくらい大きくなければ、背負ってこれない代物相手だったからなんだろうと思った。
そうだ、もうそろそろ、私がしっかり背負う番なのだな、と思った。それに耐えられるくらいにはなってきた私を見計らって、ざわざわはここに出てきたのだろう、と。
ざわざわは、今にも泣き出しそうだった。私も、ちょっと泣きそうだった。
大丈夫か、と、ざわざわは言っているかのようだった。だから私は言ってみた。多分大丈夫。あなたはもう、楽になっていいんだよ、と。
その瞬間、ざわざわが止んだ。止んで、辺りはしん、と静まり返った。
そうして私の肩に、ずしんと何かが降りてきた。でもそれは、いやな重さじゃぁなかった。確かに重いけれども。でも。
そこにはたくさんの思いが、詰まっているようだった。

ステレオからは、Raise your voicesが流れ始める。私の大好きな曲だ。どんどんと広がってゆくその音色に、私は背中を押されるような感じを覚える。
お湯を沸かし、生姜茶を入れる。入院している友人から、いつの間にかメールが届いている。そのメールを読みながら、私はお茶に口をつける。
半分開けた窓からは、そよ風が流れ込んでくる。ちょっと冷たいくらいの、ちょうどいいそよ風。私の髪をそっと撫でてゆく。

娘が最近繰り返し私に聴く。ねぇママ、私が一万ページ読んだら、おかしいかな? ん? おかしくないんじゃない? おかしくなぁい? ほんとに? うん、おかしくないと思うよ。そうかなぁ。どうしておかしいと思うの? いや、だってさぁ、何となく…。何となくなぁに? みんな、信じてくれるかなぁと思って。あぁそういうことか。別にいいんじゃない、ちゃんと記録つけてるんだし、ママはあなたが読んでいることをちゃんと知ってる。でもさぁ、みんなはそう思わないかもしれないじゃん。思わない人は思わない人で放っておけばいい。そういう人たちは、何処にでもいるよ。どうして信じないのかなぁ? 本当のことなのに。本当のことだと余計に、信じてもらえないってことが多々あるんだよ、世の中には。なんか変なの。そうだね、変だよね、ママもそう思う。でもこのことに関しては、ちゃんとママは、あなたが読んでいるのを知っているんだから、それで十分じゃない? そうなのかなぁ、うーん。
一万ページ読むと何があるのか、それは分からないのだけれども、娘は、友達に信じてもらえるかもらえないかを、とても気にしている。信じてもらえなくても本当のことなんだからいいじゃないの、と私がいくら言ったとしても。多分彼女は、その狭間で当分の間揺れるんだろう。
誰かに信じてもらえるか、もらえないか、という尺度で、すべてをはかっていた時期があった。信じてもらえないと、もう何でも価値がないというような。信じてもらえなければ何の価値もない、と。
そんなことはないと気づいたのは、知ったのは、言ってみれば最近のことだ。これだけ生きてきた私でさえそうなのだから、娘はまだまだ惑うだろう。私はそれを、見守っていようと思う。

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。私は階段を駆け下り、自転車へ。
坂道を勢いよく下り、公園の目の前へ。もう緑が茂って、朝陽を直接見ることができないほど。朝陽は緑の向こう側。
公園の池には千鳥が今日も集っており。千鳥たちは忙しげに辺りを探っており。巣を作る材料を探しているのか、それとも餌を探しているのか、どちらだろう。池の周りはぐるり、躑躅の茂み。躑躅ももう終わりに近づいてきたのか。時の流れはなんて早いのだろう。
大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。銀杏並木が朝陽を背に、真っ直ぐに立っている。それはまさにそそり立つといった表現が似合う姿で。私はしばし見惚れる。こんなふうに真っ直ぐ大地に根を張って立っていられたら、どれほど気持ちがいいだろう。
今、青々と葉を茂らせた桜の樹から、雀たちが一斉に飛び立った。
信号が青に変わる。さぁ今日も一日が始まる。


2010年05月05日(水) 
ステレオからSecret GardenのElanが流れ始める。私は窓を開け、ベランダに出る。薄く雲がかかった空。でも明るい。乾いた空。何処もかしこもが乾いている。プランターの土もすっかり。私は早々に水を遣ることにする。挿し木だけ集めた小さなプランターから、パスカリのそれぞれ植わっているプランター、そしてミミエデンとベビーロマンティカ、それからホワイトクリスマスとマリリン・モンロー。そうして玄関に回ってラヴェンダーのプランター。プランターの下から水が流れ出してくるのを確かめる。
再びベランダに戻って、ミミエデンの様子を見る。元々あるものは今、枯れるかどうしようか迷っているというような具合。私は辛抱強く待つことにしている。信じて待つ。ただそれしか今の私にはできないから。
挿し木したミミエデンも、今はまだ、何の変化もない。当然だ。まだ挿し木して間もないのだから。それでも、どこかほっとしたような表情が垣間見えるのは気のせいだろうか。それでちょっとでも生気が戻ってくれるなら。と思う。
パスカリにまた新たな芽の気配。今度は粉が噴かなければいいのだけれども。私はその芽をじっと凝視する。今はまだ固く閉じられたその芽。紅く紅く染まったその芽。でも、生気が漲っている。だから私は安心する。
桃色のぼんぼりのような花を咲かせる樹の、下から出てきたものに花芽がついているのだが。すっかり粉を噴いており。私は迷う。どうしよう。でもせっかく花芽が出てきたのに。これを摘んでしまうのは簡単だけれど。でも。もうしばらく様子を見ておこうと決める。粉の噴いたものが、そうでなくなるわけはないのだが、それでも。
もう一本のパスカリの新芽が、粉を噴きそうな気配。葉が歪んでいる。こうなるとたいてい、粉を噴き始めるのだ。でも。もうしばらく、もう少し、摘まずに様子を見ることにする。もう少しだけでもせめて。
ベビーロマンティカの蕾は順調だ。ぱつんぱつんに張り詰めた蕾。まだもう少し大きくなるのかもしれない。去年の花は、こんなに大きく膨らむことはなかった。今年一番初めの蕾だからこうなっているんだろうか。それにしたって、これは一応ミニ薔薇の種類なのに。あまりに蕾が大きいから、私はちょっと戸惑っている。でも、反面、嬉しい。
マリリン・モンローの蕾は、今日も真っ直ぐに天を向いてくれている。柔らかな、薄いクリーム色をしたその蕾。そっと触れてみる。固く固く閉じられたその蕾。触れるほどにどきどきしてくる。いつこれがふわっと綻んでくるのだろうと思って。
ホワイトクリスマスは新芽の気配を湛えながらそこに在る。この新芽が芽吹くまでにはもうしばらくかかるんだろう。ホワイトクリスマスの新芽は、パスカリと違って緑色だ。同じ薔薇の樹なのに、こんなにも、違う。
玄関に回り、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。やはりデージーの種はだめだったか。仕方ない、一体何年冷蔵庫にしまいっぱなしにしていたか知れないのだし。悪いことをしたなぁと思う。せっかく摘んだ種だったのに、無駄にしてしまった。申し訳ない。一方ラヴェンダーは、もはや古い葉など何処へいったかという勢いで新芽を出し続けている。細い体にこれでもかというほど新芽を湛えた姿は、子供を大勢ひきつれた母親といった風で。か細いのに、これほど力強い姿も他にはなかなかないだろう。
部屋に戻ると、ゴロが待っていた。こちらをうかがって、後ろ足で立ちながら鼻をひくつかせている。おはようゴロ。私は声を掛ける。ゴロは、ちょこまか歩きながらこちらにやって来る。私は彼女を摘みあげ、手のひらに乗せる。そういえば昨日娘の友人がやって来て、手のひらにゴロを乗せてやったときも、後退して、もう少しで床に落ちるところだった。今ゴロは、私の手のひらの上、じっとしている。でも目だけはきょろきょろと動かして、周りの気配を見やっている。私はゴロの餌箱の中からひまわりの種を一粒取って、彼女の鼻先に持って行く。そうすると、彼女はがっしと口で種を咥え、でも私がひまわりの種を放さないでいると、両手を出して私の指に触れてくる。手を出してくれたところで、私はひまわりの種を手放す。一瞬のうちに彼女のほっぺたの中に、ひまわりの種は吸い込まれてゆき。満足そうな顔をするゴロ。私はちょっと笑ってしまう。
洗面台に行き、顔を洗う。少し汗ばんだ顔を、思い切り水で洗う。それにしても、水もずいぶんぬるくなった。昔々、まだ祖母が生きていた頃、祖母の家に井戸があった。あの井戸の水は、冬暖かく、夏冷たいというものだった。あの水が、なんだかとても懐かしい。水はああであってほしいと私は思う。
目を閉じ、体の内側に神経を集中させる。
背中に乗っかったような、何か乗っかっているような重たい痛み。痛み、じゃないか、それは、まさに重い、といった具合。私はその重さに挨拶をしてみる。
重さは、私の背中にべっとり貼り付いているかのようで。だからそれは部分的に重いのではなく、全体的に重い、のだ。
私はその重さの前に座って、重さ全体を眺めてみる。それはもうずいぶん前から貼り付いているような、年季の入った代物だった。
何がそんなに重たいのだろう。私は尋ねてみる。返事はなく。重さはただ黙ってそこに在る。だから私はもうしばらくその重さを感じてみることにする。
そうしてよく眺め回してみると、重さのあちこちが擦り切れており。それはもう使い古したリュックのようで。色褪せたその姿は、時間の長さを物語っていた。
私は、その重さが過ごしてきたのだろう時間の長さを想像する。私が今持っている服のどれよりも古びたその重さ。ということは私の幼い頃からそれは私に乗っかっていた代物ということで。この重さは、一体いつ頃からの記憶を持っているのだろう。
重さからふと、何かが伝わってくる。何だろうと耳を澄ますと、それは、弟の気配だった。不器用で、私と比べるとのんびり屋で、何処かひょうきんな弟だった。幼い頃の弟は笑っているか泣いているか、だった。それが中学を過ぎた頃から、怒るしかしなくなった。怒りを爆発させては、家の壁に穴を開けていた。
そんな弟の、小さい頃の姿が、浮かび上がった。あぁそうか、私は弟に妙な責任を感じていたのだった。弟がこんなふうにならなくちゃならないのは自分の責任だと、何故か私は思っていた。弟が笑うたび、だから切なかった。無理矢理笑ってるんじゃないかと、いつも気が気じゃなかった。弟にそんなふうにさせてしまう原因は、ひとえに自分に在ると、その頃の私は思っていた。
うちの家族は、いろんな意味でばらばらだった。皆がばらばらの方向を向いていた。一つ屋根の下、そうやって、ばらばらのまま、過ごしていた。
家族がこんなふうにばらばらなのは、異端分子の自分がいるからだ、と、私はいつの頃からか思っていた。もし自分がここにいなければ、この家族はきっとうまく回るんだろうに、と、いつもいつも思っていた。どうしてそう思ったのか、分からない。私が父を素直に父と呼べなかった、そのことが、大きく作用していたように思う。当時離れて暮らしていた父を、私はおじさんと呼んだ。母にこんこんと教えられ、弟が父を父と呼ぶのを見、ようやく私は父を父と呼び始めたのだった。でもそれは、私にとって、大きなマイナス要素になった。私はお父さんをお父さんと呼ぶことさえできない娘なんだと、妙なレッテルを私は自分で自分に貼ってしまった。
最初からマイナスで産まれて来た子供。そんなふうに、私は自分をみなしていた。五体満足で生んでもらったというのに、それなのに、私はマイナスの子供。そういうふうに私は自分で自分をみなした。だから家族の不和は、すべて、自分の責任だと思った。自分なんかがいるから、すべてうまく回らなくなるんだ、と。そんなふうに。
そういう自分が在たことを、改めて、重さを眺めながら私は思い出していた。
おなかにいる子供は男の子だと思い込んでいた父母。その期待を裏切って生まれてきたのは女の子で。父母の用意していた名前も服も何も、私は裏切って、女の子として生まれてきてしまった。そんなこと、どうってことないだろうと今なら思う。今なら、仕方ないじゃないかそんなこと、と、笑って済ますことができる。でも、当時私には、それさえもが自分の裏切り行為だったと、そう思った。私は男に生まれてこなければならなかったのに、女として生まれてきてしまった、その時点で、父母を裏切った、と。
今思えば、よくもまぁそんなことまでいちいち思いめぐらしたもんだ、小さい子供が、と、笑ってしまう。でも、当時の私には、真剣だった。すべて、真剣だった。父母を裏切ったということは、大きなショックだった。父母の期待を最初から裏切っている子供だという事実が、私をマイナスにさせた。
そんな子供だからこそ、弟には悪影響を及ぼしてはいけないと思うのに、いろいろな場面で作用してしまって。もうどうしようもなかった。すべてが悪循環だった。そうして私が高校を最初辞めた時、それは事実になってしまった。悪影響を及ぼすから弟と一切接触しないように、と、母から明言されたとき、それは私にはもはや、当然のことに思えた。
重さを眺めながら、私はそういった一連の出来事を、つらつらと思い出していた。
今なら笑って済ますことができることも、あの当時は。そう、あの当時は、とてつもなく大きなことだった。そうして私は、潰れた。
あぁ、重さは、私がそうした中で潰れて来た、その痕なのかもしれない、と思った。
だから私は、ゆっくりと、重さに向かって言ってみる。もう、大丈夫なんだよ、と。
そう、もう大丈夫なんだ。弟は弟でもう自律し、自分の家庭を必死に営んでいる。それは決して楽なものではないけれども、でも弟は精一杯それに対して責任を持ち、一人前の男としてやっている。そしてまた、父母に対してそんなふうに、自分をマイナスにばかり受け止める必要は、もはや、ないのだ、とも。
いろいろなことが、あった。本当にいろいろなことがあった。でも、たとえば私が生まれたとき、父母は本当に喜ばなかったんだろうか。あんなことばかり私に言ってきた父母だけれども、全く喜ばなかったわけはない。少なくとも五体満足で産まれて来た私を、これっぽっちも喜ばなかったわけがない。今更父母にどうだったと聴くことはないだろうけれども、それでも私は、今なら信じられる。父母は、父母なりに、喜んだはずだ、と。
それでいいじゃないか。もうそれで十分じゃぁないか。
そう思うから。
重さはふっと軽くなった。軽くなって、でもまだ貼りついていて。はたはたと、風にひらめいていた。私は、それでいいと思った。飛んで消えてしまうことを望んではいなかった。そこに在ればいいと思う。在って、必要なとき、私に思い出させてくれれば、いい。と。そう思う。
私は手を振って、また来るね、と挨拶をする。私が惑ったとき、きっと重さは私に教えてくれるだろう。大丈夫、と、教えてくれるだろう。そう思った。

久しぶりに会った友人はこれでもかというほど疲れており。私は何も彼にしてあげられることがなくて、戸惑った。でも、ただ今一緒にいるということだけは嘘ではない、と、それだけだった。
今気がかりなことが、彼の心には充満しているようだった。私を殆ど見ないその目は、私を越えて、他のところを見ていた。
私にできることは何もない。そのことを、強く思った。私にはただ、彼がまた元気を取り戻す日を、信じて待つ、そのことくらいしか、なかった。
思い返してみれば、彼と出会ったのはもう昔だ。それから縁が続いている。つかず離れずの距離で、続いている。私が一番しんどかったとき、彼は何度も助けてくれた。励ますでもなく、ただ一緒にいてくれた。家族ぐるみでのつきあいは、私だけでなく、私の娘をも励ましてくれた。
彼を見ていると、真摯に生きる、ということをその都度思い出させられる。荒波にもじっと耐え、その時が過ぎるのを信じて待つ、というその姿勢を、私は彼から教えられた。そして笑えるときには思い切り笑うのだという、そのことも、彼の背中から学んだ。
だから祈ろうと思う。今彼の心に在る気がかりが、少しでも早く、軽くなりますように、と。そうしてまた、必要な時が来たら、笑って会いたい、と。

準備を整え、階段を駆け下り、二人して自転車に跨る。そこで一悶着。荷物が多くて籠に載りきらない。それなら背負って走るしかないのだが、娘がそれじゃぁ走れないと言う。自分の荷物は自分で持つ、というのがうちの基本。背中に背負うリュックなら、問題ないと判断し、私は彼女の荷物をリュックに入れ替える。そうしてようやく出発。
公園はもう緑がもくもくと茂っており。緑の向こうに朝陽が燦々と降り注いでいるのが見える。立ち寄った池には、千鳥が集っており。私たちは彼らを驚かさぬよう、傍らで見守る。あちこちを突付いて回るかと思えば、今度は背筋を伸ばしてぴっぴと歩く千鳥。なんだかちょっとおかしくて、私たちは笑い出しそうになる。それを堪えて、再び自転車に跨る。
大通りを越え、高架下を潜り、埋立地へ。銀杏の葉も、もうずいぶん茂って来た。ここでもまた、朝陽は向こう側。茂った緑の向こう側。そこに向かって私たちは走る。
モミジフウを越え、さらに走り、海へ。濃紺色の海は、朝陽を全身に受けきらきらと輝いており。白い波飛沫が散る。
今、銀色の腹を見せて、魚が飛んだ。一瞬の出来事。
さぁ今日もまた一日が始まる。私たちは思い切りペダルを踏み込む。


2010年05月04日(火) 
起き上がると一番に、辺りが薄暗いと感じた。もっとすっきりと晴れ渡る空を私が想像していたからに違いない。そんな薄暗い部屋、窓を思い切り開ける。ひんやりした空気が一気に流れ込んでくる。私はそのままベランダに出て、大きく伸びをする。
まだ人気のない街は静まり返り、しんしんとそこに在る。ベランダから手を伸ばせば届くところに、街路樹の若葉が手を広げている。私はそれにそっと触れてみる。空気よりさらにひんやりした若葉。そして何よりも、柔らかい。私がもし爪を立てたら、途端に破れてしまうんだろう。その儚げな、それでいて力強い若葉に、しばし見惚れる。
しゃがみこんで、ミミエデンの枝を覗き込む。何の変化も、もちろんまだあるわけでなく。それでも、何だろう、覗き込まずにはいられない。どうか生きてほしい、どうか枝葉を広げて欲しい、そう思うから。
桃色のぼんぼりのような花を咲かせる薔薇の、根元から出てきた新しい芽には、確かに花芽がついているのだが、危うい。白い粉が噴いてきそうな気配だ。私は指でそっとそっと触れてみる。せっかく出てきたというのに、早々に摘まなければならなくならないようにと、今はただ祈るしかない。
他のものたちの新芽にも、ちらほら、粉の噴いたものが見られ、私は順繰りに摘んでゆく。どうして今年は、こんなにもうどん粉病が激しいのだろう。何が悪かったのだろう。分からない。分からないから困る。近々また、石灰を撒いてみようか。私は心の中、そう決める。それで何か少しでも、変わってくれるといいのだけれども。
ベビーロマンティカは今四つの蕾をつけている。そのうちの、一番太っている蕾が、ちょうどこちらを向いて、じっとしている。私もそれを見つめ返す。明るい煉瓦色の花弁の色が見え始めたその蕾。他のもの達は哀しいかな、蕾と茎とが繋がるところに粉をそれぞれ噴いており。でもここまで来たのだからと摘まずにいる。花芽を摘んでしまうのはさすがに、躊躇われる。せめて咲いてから、早々に切って、切花にくらいはしてやりたい。
マリリン・モンローは二つの蕾をつけており。そのうちの一つが今ぱんぱんに膨らんでいる。薄いクリーム色の花弁はとてもやわらかい色合い。やさしく儚げな、色。そういえば交流分析の本を読むと、マリリン・モンローの人生脚本についてが書かれているところによく出会う。彼女にとりついていた禁止令が、彼女をあそこまで追い込んでしまったという記述を読むたび、私は想像する。彼女のその禁止令が働いただろう場面を。そして、自分に置き換える。私は果たして、それらを書き換えることができるだろうか、できているだろうか、と。
ホワイトクリスマスは、今ちょっと小休止、といったところか。新芽をゆっくりゆっくり出してきてはいるが。ふと思った。肥料が足りないのかもしれない。全体的に肥料が足りないのか、もしかして。そういえば液肥や堆肥はそれなりに継ぎ足してはいるが、それ以外のケアなど私は殆ど何もしていない。普通薔薇を育てる人は、もっとこまめに世話をするんだろう。あぁいけない、また他人と比較している自分がいる。比較して自己嫌悪に陥ったって何の得にもならない。そう思い苦笑する。とりあえず、近々肥料を買ってきて、継ぎ足してやろう。そう決める。
玄関に回り、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。そこに変化はなく。ラヴェンダーが新芽を重たそうに湛えている。デージーの種はやっぱり駄目だったんだろうか。残念だなぁと思いつつ、校庭の方を見やる。校庭の足跡はちょっと寂しげに見える。子供らがこのところ留守にしているせいかもしれない。校庭の端、プールは今、ちょっと弱々しい東から伸びる陽光を受け、輝こうとしているところ。でも東の空はうっすらと雲がかかっており。
部屋に戻り、顔を洗う。昨日帰ってきて、殆ど何もせずに寝床に入ってしまった。顔を洗うことさえしなかった。娘に踏まれても、起き上がらなかった。人ごみに出ると、どうも駄目だ。でも何だろう、たっぷり横になったせいか、体は復活している感じがする。
目を閉じて、体の内奥に神経を集中させる。
そこには「サミシイ」が在た。私は「サミシイ」におはようと挨拶をする。「サミシイ」はちらりとこちらを見て、小さく笑った。
あぁ私のことを、ちゃんと見て笑ってくれた、とその時思った。初めてに近いかもしれない。彼女がそんなふうにして笑うのは。
それは本当に小さな小さな、笑顔だったけれど。でも。確かに彼女は笑っていた。
私は「サミシイ」の傍らに立ち、彼女と同じ方向を眺める。いつの間にか、そこには空と海とが現れており。私は少し吃驚する。この景色は、一体何処から生まれたのだろう。
それは、私が何度も通ったことのある、あの砂丘に似ていた。丘はもっとなだらかで、そのなだらかな中に「サミシイ」が在るのだが、それでも、海と空との在り方は、あの砂丘にそっくりだった。
遠く遠くに小さく広がる空と海とを、私は、「サミシイ」の隣に立って、しばらく眺めた。
そしてふと、思った。「サミシイ」はもう過去を生きているわけでなく、もしかしたら今を生きているのかもしれない、と。
少なくとも、「サミシイ」はもう嘆いてはいなかった。
今まで蓄積されていたものたちを、すべて受け容れ、そこに在った。もし今「サミシイ」に過去のことを並べて見せたとしても、「そんなことがあったよね」と、彼女はさらりと流してしまいそうな、そんな雰囲気だった。
私はなんだか、とてもとても嬉しくなった。でもそれは激しい嬉しさではなく、じわじわと滲み出してくるような、やわらかな嬉しいだった。
私はまた来るね、と、「サミシイ」に言い、手を振った。本当は、彼女の手を握りたかったのだけれど、なんだかそれはまだ早いような気がして、今日はやめておいた。今度会うときにはきっと。そう思った。

友人の話をあれやこれや聴かせてもらう。聴きながら、私は、自分の中の軸についてあれこれ思い巡らす。
あんなことをされた、こんなことをされた、と思っていたことがあった。あんなこともあって、こんなこともあって、だから私はしんどくて仕方がないと思っていた時期があった。たまらないと思っていた。こんな人生ならもういらないと思った。
でも何だろう、視点をちょっと変えてみると、それらはがらりと色を変えた。
そういったこと全部、自分が選択してきたことなのだ、というふうに視点を変えたら、すべてが変わって見えてきた。そうしたら、それまでもう、前になんか進めないと思っていたものが、すっと前に進めるようになった。
どんなことでも、最終的に自分が選択し、自分で進んできたのだと、自分で責任を引き受けたら、いろんなことが楽になった。すっきりと合点がいった。
どこかで私は逃げていたのだろう。きっと。逃げをやめたら、私はすんなり前に進めるようになった。
もちろんそれでも、いろいろなことに悩むし、躓くし、落ち込んだりもする。それでも何だろう、大丈夫だとどこかで思える。思っている。ここを越えればまた、明るい場所が待っていると、信じることが、今はできる。

世界は比較で溢れている。これでもかというほど比較比較比較、で成り立っている。そんな中に在って、自分もやはり、比較をせずにはいられなかったりする。
でも、それなら、比較してしまう自分を自覚していようと思う。そうして常に、自問していようと思う。自分の尺度は、と。自分の軸は、と。他人の物差しで自分を計るのではなく、自分自身の物差しで計ってやりたい。だからこそ、自覚していよう、と思う。

友人が話してくれる。インナーチャイルドの存在すら、今感じられないのだ、と。もうずっと無視してきたから、踏みつけてきたから、見ないようにしてきたから、今もはやどこにそれが在るかさえ、分からないのだと。
何かをしたい、と自分から思う、その思いさえ、定かでないのだ、と。
私はその話に耳を傾けながら、自分にも問うてみる。
そして、思う。今そのことに気づいたということが、大切なのだろうな、と。そこから始めればいいのだ、と。
分からない分からないと声を上げるだけでは、きっと駄目なのだ。インナーチャイルドの声は本当に小さいから、震えているから、きっと今の私たちの叫び声にかき消されてしまう。だから、耳を澄ますことが大事なのだと思う。何処にいるの、と、常に問いかけて、耳を澄ましていることが、大切なのだと思う。
抱きしめてほしかった自分、無条件に愛しているよと言って欲しかった自分、ただ笑いかけてほしかっただけの自分、そういった自分は必ず、どこかに埋まっているから。ただ今もう、疲れ果てて、諦めすぎて、声を上げることさえやめてしまっているのだから。
ゆっくり、辿っていくことが大事なのだ。きっと。

私が原稿を書いていると、娘がいきなり顔を出してくる。そうして彼女の言うところの変な顔シリーズを次々やってみせる。それを無視して私が原稿を書いていると、彼女はさらに変な顔をしてみせる。とうとう私が笑うと、「まったくもー、無視すんなよー!」と彼女もげらげら笑い出す。
つくづく思う。彼女のこういうところは、一体何処から生まれたんだろう。私は一度としてやったことがない。私の近しい人たちの間で、こういう仕草をやってのける人は誰もいない。だから彼女の天性のものなんだとは思うのだが。
私の腹から生まれた代物でありながら、全く別個なんだなと、改めて思う。それが私には嬉しい。

朝の仕事を早々に終えて、弁当作りに取り掛かる。取り掛かって、はっと気づいた。梅干も何も、要するにおにぎりの具材を何も用意していなかった。慌てて私は棚を開け、ごそごそ引っ掻き回す。とりあえず、かつおぶしがあった。これで何とかいけるだろう。おかかおにぎり。
開け放した窓からは、ひゅうひゅうと風が滑り込んでくる。その風を感じながら、唐揚げを作り、野菜を茹で、おにぎりを握る。ステレオからは、Coccoの焼け野が原が流れている。娘がそれに合わせて踊っている。もちろん頭にはミルクを乗せて。
さぁ今日も、一日が始まる。


2010年05月03日(月) 
昨日よりも少し暗い部屋の中。起き上がり窓を開ける。ところどころに雲が広がっている空。あぁ雲が広がっている分だけ、空の明るさが少なく感じられたのかと、私は見上げながら思う。街路樹の若葉が風に揺れている。少し冷たい風が、東から流れている。通りを往く人も車もまだ、ない。しんと静まり返った街。私はぐるりとそれを見渡す。
私はしゃがみこみ、挿したばかりのミミエデンの枝を見つめる。こんな短い間でどうこう変化するわけではないことは知っている。知っているのだが、気になるのだ。どうしても気になる。だから私はじっと見つめる。やわらかな濡れた土に挿したミミエデンの枝は、まっすぐに天を向いている。ここからどう育ってくれるだろう。どこから新芽を出してくれるだろう。今はもうただひたすら、そのことが気になる。
ベビーロマンティカは相変わらず茂っており。そこだけ見ていると、まるで生い茂る新緑の樹のそばにいるかのよう。だから私は息をそっと吸いこんでみる。そこには新鮮な酸素がたくさん漂っているような気がするから。一番大きな蕾は、明るい煉瓦色に染まり、今か今かとその時を待っている。他の蕾たちも、それぞれに膨らんできており。それらはまだ萌黄色だけれども、それでも確実に膨らんできており。私はほっとする。
マリリン・モンローの蕾もまた、真っ直ぐに天を向いて立っている。その姿は何故こんなにも潔く見えるのだろう。惚れ惚れする。私はこの花の歴史は知らない。どういう経緯でマリリン・モンローと名づけられたのか、そういったことは何も知らない。だからあれこれ想像してみる。そして、この花を今マリリン・モンローが見たならば、何と感じるのだろう、と。
ホワイトクリスマスは徐々にではあるが新芽を広げており。危ういながら、まだ白い斑点にはなっていない、そんな感じだ。いずれ斑点が浮き出してきてしまうかもしれないが、それまではせめてこのままで、と思う。
パスカリはパスカリで、今まさに新芽の用意をしているといったところ。僅かに見えるその頭は、真っ赤に染まり、固く固く閉じている。これから萌え出るのだぞ、という力が漲っている。桃色のぼんぼりのような花のさく樹は、やはり先日見つけたものは花芽だったらしく。でもまだまだ小さく細い花芽で。頼りなげなその芽は、いつ風に折れてもおかしくないほどで。でも、折れないのだ。決して折れることはない。徐々に徐々に太くなり、そうして芽を伸ばすのだ。
玄関に回り、ラヴェンダーのプランターを覗く。日に日に新芽を出してゆくラヴェンダーの、その力強さには目を見張るものがある。もう新芽がたくさんすぎて、支えるには重いだろうにと思うのに、それでも彼らは新芽を出す。次々に。今朝陽を浴びながら、一心に天に手を伸ばそうとしている。
校庭は昨日町内会の野球チームが集って練習をしていた、その痕に塗れている。走り回っていた子供らの足跡。ふと思った。校庭から足跡がなくなってしまったら、一体どんな光景がそこに広がるんだろう、と。子供らがいなくなってしまったら、校庭はもう、校庭じゃぁなくなるのかもしれない。そこはただのがらんどうになって、廃墟になるのかもしれない。どうかそんな日が来ることは、ありませんよう。
部屋に戻ると、がりがりと齧る音がしている。あぁミルクの齧る音だな、と見やれば、やはりミルクが扉のところにがっしと齧りついている。そしてゴロはゴロで、音もなく回し車を回している。おはようミルク、おはようゴロ。私は声を掛ける。こちらをぱっと見るゴロ。一方ミルクは、お構いなしにがしがしと扉を噛んでいる。私は実はミルクが苦手だ。なんだか勢いが良すぎて、噛まれそうで怖いのだ。でも、今遊んでやる娘がいない。私はこわごわ、ミルクの籠の扉を開ける。途端に飛び出してくるミルク。私は慌てながら、彼女を手のひらに掬い上げる。ひっきりなしに手のひらの上動き回るミルク。実はこれも怖い。私はびくびくしながら、彼女の背中を撫でる。それでようやく落ち着いてくれれば、言うことなしなのだが、彼女の場合そうはいかない。一度撫でると、もっとやれ、もっとやってくれ、と暴れ始めるからだ。もっと構って欲しいという気持ちはとてもよく分かる。分かるのだが、どう扱っていいのかが分からない。困った。私は、ひとしきり撫でて遊んで、そうして元の籠に戻す。まだまだ不満気のミルクに、小さく頭を下げて、今度はゴロへ。ゴロは怖くない。よほどのことがない限り噛み付いたりしないことが分かっているからだと思う。だから安心して手のひらに乗せることができる。ゴロは手のひらの上で、じっとしている。じっとしているのだが、頭だけ、あっちこっち動かして、でもちょっとすると、何故かこの子は後退する。だから手のひらから落ちそうになる。私は尻を押し上げてやる。
そのうちにココアも起きてきた。あちゃーと思いながら、私はココアにも挨拶し、今度はココアを手のひらに乗せる。そうだよねぇ、娘がいないから、寂しいんだよねぇ、退屈してるんだよねぇ。今日帰ってくるから、もうちょっとだから待っててねぇ。私は彼らに声を掛ける。ココアは私の腕をよじ登り、肩にまで上がって、ちょろちょろしている。ごめんね、ごめんね、と詫びながら、私はココアも籠に戻す。
洗面台で顔を洗う。少し寝不足気味な目がそこに在るのを感じる。鏡を覗くと、何となく腫れぼったい。私はとりあえずマッサージしてみることにする。それで腫れがとれてくれればいいのだけれども。
そうして目を閉じ、体の内奥へ意識を向ける。
胃が固い。そう思って振り返ると、穴ぼこが在た。おはよう穴ぼこさん。私は挨拶をする。そうして穴ぼこの傍らに、座り込む。
穴ぼこの周りにはもうちゃんと風が吹いており。その風はそよ風にも似た感じで。私の髪を撫でながら流れてゆく。私はその心地よさを思う存分味わう。そして、心底ほっとする。この場所に風が流れているというそのことに、ほっとする。
でも何だろう、今日の穴ぼこは、固く固く閉じているようだった。何かに向かって、閉じている、というような、そんな気配。
怖がっているのかな、と思い、しばし耳を澄ます。怖がっている、ともまたちょっと違う。もう少しこう、震えるような、不安に近いような、そんな、感じだ。
何があなたにとってそんなに不安なんだろう。私は尋ねてみる。穴ぼこは、ただじっと閉じて、まさにじっと、そこに在る。
これから何かがやって来る。まるで穴ぼこはそれから自分を守るかのようにしてそこに在る。そのことが、とても気になった。一体何がやって来るというんだろう。今の私の生活に、それはどう繋がっているのだろう。
いや、今の、ではない。私の内奥の、私の中に埋もれたものの、それらの残骸の波のような、そんな代物だ。そのことに、思い至った。
短い時間で、いろいろな変化があった。目に見える変化ではないけれども、私の中でいろいろなものが崩れもしたし、壊れもした。そうしたものがまるで、一気に、津波のようになって押し寄せてくるんじゃないか。まるで穴ぼこは、そう思っているかのようだった。そうなることによって、自分はまた、呑みこまれてしまうのではないか、と。それを恐れているかのようだった。
あぁそうか、今までの私なら確かに、それに呑みこまれて、倒れてしまっていただろう。この頃、倒れ果てる自分の姿を夢に見ることが多々あったが、それもその表れだったのかもしれない。
だから私は自問してみる。私は倒れるのだろうか、と。
答は、否、だった。もう倒れることは、ない。そう思った。
何故だろう、それには自信があった。もう倒れることはない。転ぶことはあっても、倒れ伏すことはない、そう今思う。それだけの道を経てきた。そう思う。
もしも、もしも倒れたとしても。私は大丈夫だ。また起き上がる。起き上がって、また歩き出す。そう思う。
だから、穴ぼこに言ってみる。大丈夫だよ、津波のように押し寄せてきたとしても、私は生き延びるから。そう言ってみる。過去の様々なものたちが津波のように襲ってきたとしても、私はそれによって今を諦めることはない、と。
穴ぼこは、ちょっと緩んだように見えた。一瞬だけど、そんなふうに見えた。私は変わらず、ずっと彼女の傍らに座っている。座って、ただそばに在る。
それにしても、何だろう、この自信は。まさに、これが自信ってものなのか、と私は改めて思う。決して揺らぐことのない、自分に対する思いが、そこに在った。確かな思いがそこに、在った。
穴ぼこの周りには風が相変わらず流れており。それは私の頬を心地よく撫でてゆき。そうして見やれば、穴ぼこのあの、かたくなに閉じられた気配はもうすっかり緩んでおり。
私は立ち上がる。また来るね、そう言って、その場を後にする。
お湯を沸かし、生姜茶を入れる。ステレオからはSecret GardenのCelebrationが流れている。窓の外はさっきよりも一層明るくなっており。開け放した窓からは、風が吹き込んでくる。窓際に干しておいた昨日洗ったセーターも、もうすっかり乾いた。口紅をさっと塗って、髪を一つに結わく。さぁ煙草を一本吸ったら、とりあえず朝の仕事に取り掛かろう。

「沈黙によって、体と精神と魂と、完全なる均衡が保たれる。自分の存在を、ひとつの統一として保っていられる人間は、生活にどんな波風がたとうとも、いつまでも平静で、動揺しないでいられる。木の葉が揺れても、湖のきらめく水面に波紋がおころうとも、平静でいられる。文字をもたなかった私たちの賢者たちにとっては、これこそが理想の態度であり、最上のふるまいだったのである。
 「沈黙とは何ですか」と問われたら、賢者はこう答えるだろう。「それは大いなる神秘だ」「聖なる沈黙、それは大いなる神秘の声なのだ」。
 「沈黙すれば、何が得られるのですか」と問われたら、賢者はこう答えるだろう。「それは、自分を自分自身で支配すること、真実の勇気であり、持続力であり、忍耐力であり、品位であり、敬意なのである。沈黙は、人格の礎石である」と。(「インディアンの言葉」ミッシェル・ピクマル編)

娘に電話を掛ける。今お風呂入ってんだよね! と笑う声は明るく弾んでいる。何かいいことあった? ん、別にないけどぉ、まぁ楽しいよ。そうなんだ、別にないけど楽しいんだ。うん、まぁね! こっちはミルクやココアの世話が大変だよ。あー、ミルクはすぐ興奮するからねぇ、また噛まれないようにしなよ! うんうん、分かってる。それにしてもさぁ、小さな声でしか話せないけど、テレビが全くない生活って、どうなの? ははは、まぁ、じじもばばも、テレビ嫌いだからね。なんか時代間違ってるって感じがするよっ。ははははは。

バスに乗り、駅へ。明るい陽光があちこちではじけている。ホームに立つと、疎らな人。昨日一昨日の駅の様子とは異なる。こういう閑散とした駅が好きだ、私は。そう思う。
走り出した電車の中、こっくりこっくりと居眠りをする人、必死にゲームをする人、携帯に見入る人、みなそれぞれ。私は本を閉じ、窓の外を見やる。
ちょうど電車は川に差し掛かったところで。川は燦々と降り注ぐ陽光を受けて、きらきらと輝いている。白く光るその水面。川岸には人が繰り出しており。釣りをしている人もいれば、バーベキューの用意をしているのだろう人たちの姿も。
降り立った駅も人影は疎ら。私は靴音を響かせて歩き出す。
さぁ今日も、また一日が始まる。


2010年05月02日(日) 
ひとりの寝床で目を覚ます。娘は実家に行って留守の夜、何となく寝床が広くて、寝心地がいいのか悪いのか、よく分からなかった。慣れというのは或る意味怖い。
窓を開けると、今日も明るい空。ちょっと塵がかっているように見えるのは気のせいだろうか。ひんやりとした空気が辺りに流れている。ステレオからは、有元利夫のロンドが流れ始める。澄んだ音色が空高くのぼってゆくようだ。街はまだ眠りの中。しんと静まり返っている。通りを渡ってゆく人も車も、まだひとつも、ない。この辺りの屋根の色はそういえば、暗い色が多いと改めて気づく。眺めながら、実家の辺りの光景を思い出す。住宅街だったせいか、明るい屋根も結構あった。贅沢にも庭がある家が殆どで、門構えもしっかりある家ばかりだった。この辺りの家々とは、ずいぶん違う。
私はしゃがみこみ、昨日新たに加わったプランターをじっと見つめる。昨日思い切って、ミミエデンを挿し木してみたのだ。まだ残っている少ない枝のひとつを、挿してみた。さぁまたここからだ、と思う。元々の樹が生き残ってくれることをもちろん願っているが、それがもし叶わなかったとしても、せめてこれだけは、そう思う。どうか新芽が出てきてくれますよう。
桃色のぼんぼりのような花が咲く薔薇の樹の名前を、また忘れてしまった。昨日ちゃんと調べたのだが。後でもう一度見てみないと。やっぱり自分の手でちゃんと書かないと、私は覚えないらしい。何でもそうなのだ、私は。昔から、勉強でも何でも、一度は自分の手で書いてみないと、実感が伴わない。今勉強している心理学のノートなど、もう二度三度書き直している。そうやって繰り返し書くことで、私はようやく覚えていく。もうちょっとちゃっちゃか覚えていけたらいいのだろうけれども。もうこれは昔からの癖なのだろうな、と思う。学生の頃もそうだった。試験前、何度でもノートを書き直し、書き加えた。そうやって繰り返し自分の手で作業することで、ようやく頭に入る。このどんくさい頭の構造、もうちょっとどうにかなればいいのになぁと思わないではないのだが。
ベビーロマンティカの蕾から、昨日よりまた少し、大きく明るい煉瓦色が漏れ出ている。染まり始めた蕾は、もうぷくんぷくんに膨らんでおり。いつ綻び始めてもおかしくないくらいに膨らんでおり。でもここからまた、少し時間がかかるのだよな、と思う。その待ち時間を越えてようやく、咲いてくれるのだ。それまで無事に育ってくれることを、今はただ、祈るばかり。
マリリン・モンローの蕾も、順調だ。薄いクリーム色がだんだんとはっきり現れてきており。まん丸に太ったそれは、もう私の人差し指の先ほどは大きく育っている。病葉も今のところ見られない。私はほっとしながら葉をそっと撫でる。少し固めの、頑丈そうな葉が、私の指先で、跳ねる。
ホワイトクリスマスの新芽も、怪しくはあるけれども、今のところ大丈夫そうだ。いつ斑点が現れてもおかしはないのだが、葉が必死になって伸びようとしている。その必死さ加減が、こちらにまでじんじんと伝わってくる。
植物のこうした懸命さは、いつでも私にエネルギーを与えてくれる。何というかこう、内側からじわじわと湧き出てくる泉のような、そうしたエネルギーだ。決して、どくどくと流れゆくものではなく、じわじわ、じわじわと溢れ出して来る、そうしたもの。それはやがて、私の中に広がり、私を彩ってゆく。
曲はSecret GardenのSanctuaryへ。私はそれをぼんやり聴きながら、今度は玄関に回る。扉は陽光ですでにあたたかくなっており。私はその温度を手のひらで確かめながら、そっとドアを開ける。東の空はまさに光の塊で。私は思い切り手を伸ばす。もちろん届くわけなどないのだが、そんなことは分かっているのだが、それでも伸ばしたくなる。目に見えない何かを掴もうとするかのように。
プランターの中、ラヴェンダーがまた新芽を蓄え、そこに在る。強い風が吹いたら飛ばされそうな儚さなのに、この力強さは一体何処からくるのだろう。撓ることはあっても決して折れない。このしなやかさ。憧れる。陽光を受け、緑はもう緑でなく、黄金色に輝く葉。指でそおっと輪郭をなぞる。そうして私は立ち上がり、廊下の端から校庭を見やる。
誰もいない校庭。ひっそりと静まり返っている。子供たちがいない間の校庭というのは、どうしてこんなにも寂しげなのだろう。いや、寂しげで、同時に、心待ちにしているといった気配が滲み出ている。子供たちをいついかなるときも待っている場所なのだな、と、改めて思う。
部屋に戻り、顔を洗う。鏡の中に浮かび上がる顔を見ながら、自分の中にエネルギーが今在ることを感じる。それは儚いエネルギーかもしれない。後になってみればそうなるかもしれない。が、それでも今在ることに、変わりはない。それがちょっと、嬉しい。
目を閉じ、体の内奥に耳を澄ます。
何だろう、今朝は結構体の中がすっきりしている。すぅっとした空気が流れているとでもいうのだろうか。そんな感じがする。何となくその風から、「サミシイ」を感じ、私は「サミシイ」に会いに行く。
「サミシイ」は、少し髪が伸びたようで。垂れた髪がほんの少し、風の形を描いていた。私はおはようと挨拶をする。そうして「サミシイ」の傍らに立つ。というのも、「サミシイ」が立っていたからだ。座っているのなら隣に座ろうと思っていたのだが。
「サミシイ」には相変わらず、口がない。口がないから、私は「サミシイ」の声を実際に聴いたことはない。いつも、映像のようなものが、私に直に伝わってくる、といえばいいのだろうか。そんな感じなのだ、「サミシイ」と話すときはいつも。
「サミシイ」は当てもなく歩いている、とことこと歩き回っているかのようだった。何をしているのかと問いかけようとして、私はやめる。邪魔をしてはいけないと思った。
「サミシイ」は、探し物をしているようだった。そうして、はっとした。「サミシイ」が探しているものが何なのか、直に伝わってきたからだ。「サミシイ」は、私の中心を探しているのだ。
私の中心。それは何だろう。どんな色をしているんだろう、どんな感触をしているのだろう。
「サミシイ」は、目を凝らしているわけではなかった。ただ、ぼんやりと、探しているのだった。あるかもしれないもの、あるはずのもの、あるべきもの。それを、探しているのだった。
私も辺りを見回してみた。砂に触れ、ちょっと探ってもみた。でも、もちろんそれは、容易に見つかるような代物ではなく。
そんな時、「サミシイ」とぱっと目が合った。「サミシイ」が、微かに笑った、そんな気がした。
ふと思った。人の中心って、何だろう。そもそも中心って何なんだろう。そんなもの、果たして在るんだろうか。皆に在るものなんだろうか。在るとしたらそれは、どんな形をしていて、どんな色をしていて、どんな感触なんだろう。私の心の中、そんな思いがぐるぐる回った。それはたとえば、大切にしているもの、とかなんだろうか。それとも、そうじゃなくまた別の、ものなんだろうか。
軸。軸のようなもの? かもしれない。私はそれをとうの昔に折ってしまった、そのことだけははっきり分かっている。だから、実感がないのだ。私の中心、軸、というような、そういうイメージが、浮かんでこないのだ。
いつもならここで、愕然とするところなのだが。何故かこのとき、私はそうはならなかった。何故だろう。それはきっと、「サミシイ」が決して焦っても何もいなかったからかもしれない。「サミシイ」は、まるで、死ぬまでに見つかればいいんじゃないのかな、というような、そんな雰囲気を醸しだしていたから。
そうか、と思った。そうか、死ぬまでにそれが見つかればいいのか、と、私は思って、ちょっと笑えた。なるほど、私はこれから、自分の軸を作っていけばいいのだし、何もそれは焦ることも何もないし、愕然として落ち込むことでもないんだな、と、納得した。人は人、私は私、私は私のテンポでやっていけば、それでいい。
そう思って隣の「サミシイ」を見やると、「サミシイ」はぼんやりと何処かを眺めていた。まるでそれは、風を感じ、眺めているかのようだった。「サミシイ」はひとりだけれども、決して閉じられてはいないのだと、その時改めて知った。あぁそうか、「サミシイ」は閉じてはいないのだ、今は外に開いていて、世界を感じながら、自分なりの方法で何かを探している最中なのだな、と。
それは、私を安心させた。私に力をくれた。あぁそうか、と、納得できた。ひとりと孤独は決して同じものではなく。そして私は今、ひとりではあるけれども、孤独ではなく。それはとても大切なことで。
私は世界に今開かれているのか。そのことを改めて私は自分に問う。

友人に預けていた額縁を受け取りに出掛ける。あまりの陽気のせいか、頭痛が抜けない。ちょっとふらつきながらも、心地よい風に励まされる。でも友人に全く元気がない。体調を崩しているのだという。一緒にご飯を食べるのだが、彼女はそれも残してしまう。横になりたいと言って伏せる彼女の傍らで、私は片付けものを手伝う。
ふと思った。彼女はいつもここで何を考えているのだろう。何を感じているのだろう。特に今、いろいろなことが変化しようとしている今、何を感じ、考えているのだろう。
我が家から眺める景色とは全く異なる景色が、窓の外に広がっている。それをぼんやり眺めながら、思う。早く彼女の具合がよくなりますように。と、祈るように思う。
帰りがけ、人ごみに酔ったのか、よろけてしまう。階段から落ちそうになって、咄嗟に額を庇い、額縁五つを載せたカートの下敷きになってしまった。大丈夫、今の衝撃なら額縁の中のガラスは無事なはず、そんなことを思いながら立ち上がろうとして、びりっと音がした。どこかにひっかかっていたのだろう、服が、思い切り、破けた。あらーっと思ったが後の祭り。前がびりりと破けた服のまま、歩くことに。恥ずかしくて俯いてしまう自分が、ちょっと笑えた。多分どこかに痣はできているんだろうか、それにしたって、額縁のガラスが割れていないということが、嬉しかった。今度の個展は約一ヵ月後。

娘に電話を掛けると、声が弾んでいる。何かいいことあったの? と尋ねると、まぁいろいろね! と返事が返ってきた。そうなんだ、いろいろいいことあったんだ、うん、まぁね。よかったね。うん。あ、ママ、ハムたちにちゃんと餌あげてね。お願いね。分かってるって。ちゃんとあげるよ。
電話を切った後、娘がいつもやっているように餌箱三つにそれぞれ餌を振り分ける。ミルクもゴロもココアも、みんな一斉に小屋から出てきて、扉のところで待機している。その姿がおかしくて私は笑ってしまう。でも彼らは真剣だ。私は笑いを堪えながら、それぞれに餌をやる。金魚にも合わせて、餌をやる。二匹の金魚は、おお、やっと餌の時間か、といったふうに大きな尾びれをひらりと揺らし、水面に浮いてくる。そうして口をパクパク開けて、器用に餌を吸い込んでゆく。
夜の時間が、ゆったりと、流れている。

自転車に跨り、坂道を勢いよく下ってゆく。公園の緑は今まさに東からの陽光を全身に浴びているところで。燦々と降り注ぐ陽光に、きらきらと輝いている。深く息を吸い込むと、緑の匂いが全身に広がってゆくような気がする。池の端で自転車を止め、しばし佇む。先日の千鳥たちは何処へ行っただろうか。そう思っていると、千鳥が二羽、ちょんちょんと躑躅の陰に現れる。また何か、藁のようなものを咥えている。まだ巣を作っている最中なのだろうか。私が在ることなどお構いなしに、彼らは忙しげだ。
私は音を立てないよう、そっと自転車を動かし、再び跨って大通りを渡る。そうして高架下を潜り、埋立地へ。
銀杏の樹たちはみな、赤子の手のような若葉を湛え、風にその手をひらひら揺らしている。真っ直ぐ走り、モミジフウのところへ。黒褐色の幹に、夥しい萌黄色の葉。勢いよく噴き出している。まさに葉が鈴生り、といった具合。
そのまま海まで走る。濃紺色の海は、白い波を立てており。その時、魚がぴょんっと跳ね上がった。まさに私の目の中、魚は銀色の腹を翻し、再び海に戻ってゆく。その見事な円弧の様は、私の目の中で残像を描く。
さぁ今日もまた一日が始まる。新しい今日という一日が。


2010年05月01日(土) 
ステレオからSecret Gardenのchildren of the riverが流れ出す。その音を聴きながら私は窓を開ける。明るい空が一面に広がっている。
少し肌寒い程度の風が流れている朝。新緑が目に心地いい。明るくてこの柔らかな萌黄色が、やがて少しずつ少しずつ逞しく厚くなってゆくのだ。葉に年輪などというものはないけれど、でも、人の手の様を見ているような、そんな気持ちになる。トタン屋根が東から伸びる陽光を受けて輝いている。街はとても静かだ。まだ眠っているかのよう。通りを行き交う人も車もなく、ただしんしんと、陽光が降り注ぐ。
イフェイオンはただ葉が生い茂っており。この葉は切ってやるべきなんだろうか、それともこのままでいいんだろうか。自然に生えているイフェイオンを見ていると、そのままになっているのだから、そのままでいいのかもしれない。ちょうど郵便局の前に、このイフェイオンたちが街路樹の根元、群生している。うちの花より少し白っぽいそれ。もう今は花も終わり、うちと同じく葉が茂っているばかりになっている。その代わり、鈴蘭に似た花が、早々と咲いている。これがとてもかわいくて、実は前から欲しいと思っているのだ。まさか郵便局の前で掘り返すわけにもいかず、時々娘に頼んで手折ってもらってくるのだが、純白の鈴にぽちょんぽちょんと緑の斑点をつけた、その花。香りがするわけではないのだが、もしするなら、とても涼やかな香りがしてきそうな気がする。いつかどこかで球根を見かけたら、必ず買おうと思っている。
ミミエデンを昨日詰めてみた。やはり、もう終わりが近づいているのだと知った。哀しかった。ここまで生きてくれたのに、結局花を咲かせずに終わらせてしまうのかと思うとたまらない気持ちがした。何とかここから生き返ってくれないものかと祈るばかりだ。
その傍ら、ベビーロマンティカはこれでもかというほどの勢いで葉を伸ばし。茂らせ。蕾の根元がひとつ、粉を噴いてはいるけれど、他は全く異常がなく。まるでミミエデンの分もと勢いづいているかのようで。ちょっと切ない。蕾はもうだいぶ花弁を見せるようになってきて、明るい煉瓦色のそれが垣間見える。ほんの少しずつ少しずつ、見える分量が増えてゆく。母の日辺りには咲いてくれるといいのだが。
マリリン・モンローの蕾も、もう今ぱつんぱつんに膨らんでおり。でもまだこれが、膨らんでゆくはず。もうこれでもかというほど膨らんで、突然或る日、割れるのだ。その日が今から楽しみでならない。病葉もなく、元気に樹は育っている。
ホワイトクリスマスはその隣で、徐々に徐々に新芽を出し始めている。数は少ないけれども、それでも生きているということを訴えている。生きていてくれればもうそれでいい。そう思う。花を咲かせることがなくても、生きて季節を越えていってくれれば、もうそれで十分。そんな気がする。
パスカリたちの昨日の新芽は、ずいぶん開いてきた。今のところ斑点の様子もなく、このまま開かせても大丈夫そうだ。私はほっとする。ミミエデンがこうなってしまった以上、せめて他の者たちは、と思うから余計なのかもしれない。桃色のぼんぼりのような花をさかせる樹も、下のほうから新芽を出し始めた。それはもしかしたら花芽でもあるかもしれず。もう少し大きくなってみないと分からないが。ちょっとどきどきする。
玄関に回り、ラヴェンダーのプランターを覗く。ラヴェンダーは二本とも、それぞれ新芽を湛えており。なんだかちょっと重たそうだ。そりゃぁそうだ、これだけ次々新芽を出していたら、重たいに違いない。デージーの芽は、全く今のところ出てくる気配がない。出ないことも覚悟はしているが、でもやっぱり、楽しみに待ってしまう自分がいる。いけないいけないと自分をそのたび諌めるのだが、それでも。
校庭の周囲には様々な種類の樹が植わっている。一本の桜の樹が花の終わりを迎えた頃から、あちこちから、徐々に徐々に新芽が吹き出してきている。じきに学校の回りは緑の洪水になるんだろう。今萌葉の色が朝日に眩しい。
部屋に戻ると、音はfirst day of Springに変わっており。ふと昨日の授業を思い出す。風景構成法のセラピーを行なったのだが、私と組んだ相手の人が、この絵はちょうど今この季節なんです、と言っていた。緑が萌え出る季節、すべてが始まる季節、いろんなことが回ってゆく季節、と。また、分かち合いの時に気づいたのだが、家を何軒も描いている人がいた。その家の周りは線で囲ってあり、それは或る意味、その家の領地、といった意味合いが含まれている線だった。私はといえば、描いた家は自分の家ではなく。もちろん領地などというものを考えもせず。ヒトガタも、きちんと表情や仕草まで克明に描いている人もいれば、私のように棒状人間、記号人間を描いている人もいたり。最後に足りないものとして付け加えるものも、同じ橋であっても、その人その人でこめている意味が違ったり。同じ要素を順番に、描いていくだけの方法なのに、こんなにも人によって違うのかと、改めて知った。これは他の描画法よりも、絵を描くということに対する負担が少なくて済むものかもしれないなぁと思う。用いる時期が適切ならば、本当に役に立つ代物だろうと思う。
洗面台に向かい、顔を洗う。鏡の中の顔はそれなりにすっきりしており。まぁこんなもんかな、と思う。そういえば今朝娘は、私の体にどかんとぶつかるような格好で眠っていた。夜中何度か彼女の腕が飛んできて起こされたのもそのせいかもしれない。この冬結局、彼女はパジャマというものを着なかった。下着一枚ででーんと眠っていた。今ももちろんそうだ。耳を澄ますと彼女の寝息が聴こえてきそうな気がする。
目を閉じ、自分の体の内奥に耳を澄ます。
頭の上の方に、違和感を覚える。ずきんずきん、じゃぁない、なんというかこう、どっしりとした、そう、あの文鎮のような痛みだ。
おはよう文鎮さん。私は声を掛ける。文鎮はこちらをちらと見やり、それからまた、何処かをじっと凝視している。
彼女の凝視している先が何なのか、私も視線を追ってみることにする。でもそれは濃い闇の中で、何があるのかは分からない。
でも彼女はそこをじっと凝視している。そして何処か、不愉快そうな、厭そうな表情を浮かべている。
私は尋ねてみることにした。何がそんなに不愉快なの? 何がそんなに厭なの? すると文鎮から何かが伝わってきた。
それは父から受けた痛みの数々で。これでもかというほど殴られた後の痛みで。その痛みの中で私は泣くこともできずただうずくまっている。自分が悪いんだ、またやってしまった、また父を怒らせてしまった、私が悪いんだ、と、ただそうやって唇を噛んでいる自分だった。文鎮は、それを見ながら、不愉快になっているのだった。
自分が悪いんだと私が自分を責め苛むことによって、文鎮は逆に生まれてきてしまったのかもしれない、と、その時思った。どうしてそんなこと思わなくちゃいけないの、どうしてこんなことされなくちゃいけないの、どうしてどうしてどうして! その声にならない叫びが、文鎮から滲み出ていた。文鎮は縮こまるばかりの私に、不愉快になっていた。
あぁそうか、文鎮は私のこういうところが嫌いでたまらないのだな、と思った。いや、たまらなかったのだな、と言い直すべきかもしれない。いや、どうなんだろう、今もそれを繰り返していないと誰が言える?
文鎮がふっと言った。あなたは自分で自分に嘘をついてる。私ははっとした。そうか、文鎮はそういうふうに私を捉えていたのかと、改めて知った。
私は存在したい、生きていたいと思いながら同時に、自分を否定しまくっていた。それが両方存在していた。だからちぐはぐになって、分裂してしまったのかもしれない。ただ、私があの家で存在し続けるには、自分のその片方の欲求、存在したいという欲求を、認めるわけにはいかなかった。だから私は全否定に入った。そうして文鎮が生まれた。
ずきずきや文鎮が、私を無力だと言う意味が、改めて分かった気がした。
私は自分の無力さ加減を、厭というほど知っている。
文鎮が言った。あなたは今、自分を好きだと言える? 自信をもって、言える?
言えない、と思った。まだまだ自信をもって言うことなんて、できやしないと思った。哀しいかな、それが私の現状だ。
認めざるを得ない、とつくづく思った。私はまだまだ、自分を好きだなんて、言えやしない。
文鎮が大きく、溜息をついた。分かっていたよ、と言わんばかりの勢いだった。私はただ、黙ってそれを見つめていた。
私は自問自答していた。自分で自分を好きになる方法、それは何だろう、と改めて考えていた。でもそんなすぐに、答は見当たらなかった。
文鎮は、そんな私もお見通しであるかのように、ただじっと、私を見ていた。
ねぇ文鎮さん、私は今まだ、自分のことを好きとはいえないけれど、でも、少なくとも、前よりは、好きって思うんだ。まだまだこれからなんだけど…。文鎮はなおも私をじっと見つめている。少しずつ積み重ねていくから、待ってて。私は言ってみる。
文鎮は黙っていた。でも、さっきまでの、あの不愉快の塊のようなものは、ずいぶん消えてなくなっていた。
また来るね、私はそう言って立ち上がる。手を振って、その場を後にする。
目を開けると、曲はちょうどGates of Dawnに変わっており。私はそのまま食堂へ行ってお湯を沸かす。生姜茶を入れる。いつもより濃い目がいいと思って、お湯の量を少なめにする。
半分開けたままの窓からは、そよ風が滑り込んでくる。私は煙草を一本口に咥え、火をつける。これ一本吸ったら、とりあえず朝の一仕事に取り掛かろう。私は椅子に座り、準備を始める。

お米屋さんに質問をしに行かなくちゃいけない。娘が言う。社会科の宿題なのだという。じゃぁあそこのお米屋さんがいいよ、ほら、いつもお米買いに行くとラムネくれるところ。あぁ、うん、あそこに行こう! 夕方、私たちは自転車に跨って走り出す。
燃えるわけでもなく、穏やかに暮れてゆく夕暮れ。その中を私たちは走る。公園の緑も、今は徐々に沈みゆく頃。
娘が質問している間、私は辺りを散策する。この辺りに住んでいたことがあった。短い時間ではあったが、確かにそういう頃があった。畳屋、表具屋が並んで建っている通り。その先には公園があって。私は毎日のようにそこを訪れていた。もうなんだか、はるか彼方の、遠い昔の出来事のように思える。
正直、あの頃からしばらく、私の記憶は途切れ途切れだ。いろんな人に助けてもらったんだろうと思う。それさえ、切れ切れにしか覚えていない。あまりにたくさんのことがありすぎて、あまりにずたぼろになりすぎて、人が覚えていることさえ覚えていない。まるで壊れたオルゴールのように、その飛び飛びでしか記憶は流れていかない。
ありがとうございました、と娘の小さな声がする。なんだか恥ずかしげな、本当に消え入りそうな声だ。だから私がわざと大きな声で言う、ありがとうございました。すると米屋のおばさんが笑って手を振ってくれる。娘は、顔を赤らめて私のところへ戻ってくる。ああいうときこそ、大きな声でお礼を言わなくちゃだめだよ。う、うん、分かってる。じゃ、もう一回言い直してくる? 私が笑って言うと、やだーーー、と騒ぎ出す。そんなに大きな声が出るなら、最初から大きな声でお礼言ってくればいいのに。い、言えないんだよ。どうして? どうしてもっ。
まぁこの年頃の子なら、そんなこともあるんだろうと思いつつ、それでも、お礼や謝罪の言葉は、ちゃんと言えるようになってほしいと心の中思う。それさえ言えれば、あとは多少こんがらがっていようと、伝わるものは伝わってゆくもの。そう思うから。

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。ママ、ハムたちの世話、お願いね。了解。ミルクはひまわりの種あげると興奮するから、気をつけてね! うん、分かってる。
海と川とが繋がる場所は、陽光を受けてきらきらと輝いており。そこに海鳥は一羽もいなくて。ちょっと寂しい。
大通り沿いに、躑躅が満開。一面濃いピンクの波だ。耳に突っ込んだイヤホンからは、矢野真紀の大きな翼がちょうど流れてきた。
さぁ今日も一日が始まる。


遠藤みちる HOMEMAIL

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