サミー前田 ●心の窓に灯火を●

2010年01月21日(木) 浅川マキの死、自分の影の一部が消えてしまったような気がする

この人のことをいつか書かなければと思っていたのだが、それが追悼になるとは・・・。なかなか気持ちがまとまらない。
 浅川マキ。俺は80年代後半の何年か、マキさんと少しだけ交流があった。

 関東近郊のマニアックな情報誌「シティロード」(現在廃刊)でバイトしている時、新譜で聴いた『こぼれる黄金の砂』が好きだった。マキさんが編集部の音楽担当の市川さんと懇意にしていたこともあり、88年初頭、山口冨士夫さんのバンド=ティアドロップスのライブの案内を送ったことがある。開演直前に会場の入口にてマキさんを見つけた俺は、直接の面識はなかったが挨拶をした。マキさんは「山内テツも誘ったんだけどね」と言った。そしてこっそり帰っていった。
 数日後、マキさんから大きな封書が俺宛に届き、丁寧なお礼の手紙とライブの招待券が入っていた。そこには、「冨士夫もいい意味で大人になっていないなと思って嬉しくなってしまった」とも書いてあった。非常に喜びつつも恐縮していた矢先、マキさんから俺に電話があり、長々と話をした。電話の内容はほとんど忘れたが、いきなり「あなたの顔が可愛かったから電話したのよ〜」と冗談を飛ばされて、ちょっとびっくりしたことを覚えている。その封書と手紙は今も大切に保管してある。
 
 それ以来、俺はマキさんのライブに通うようになる。大晦日だったか、吉田拓郎をゲストに迎えた池袋の映画館「文芸座」でのオールナイトコンサートは特に印象的だった。
 89年初頭、ある大きなイベントに出演してもらおうと思い、連絡をとった。電話での説明では概要が伝わりずらかったのか、深夜、マキさんの住む六本木のマンションに行くことになった。お酒を少々呑みつつ雑談をしていたが、アナログとCDで発売された新作『NOTHING AT ALL TO LOSE』、そのCD盤を聴いてどう思うか尋ねられた。まだCDのマスタリング技術に関して、ミュージシャン達はそれほど神経を使っていなかった時代だったが、マキさんは「かなり苦労してここまでCDの音を作ったの」と言っていた。そして、なぜかT-REXのライブビデオを延々と観ながら俺に言う「この時代(73年とか?)の聴衆と、現代(89年)のお客さんの音楽の聴き方は全然違うでしょう」。
 その頃、近藤等則さんが「笑っていいとも」のテレフォンショッキングに出ることになり、事前の打合せで「浅川マキじゃなきゃだめ」と指名したらしく、フジテレビから交渉の電話が何度もあったがマキさんは最後まで折れず、当日番組を視たら、近藤さんが指名した人は、番組レギュラーのクマさんになっていた・・・などという笑い話も聞かせてくれた。
 結局イベントには出てもらえなかったが、俺にとっては一生忘れられない一日となった。その後もライブには通い、たまに長い電話もいただいたりした。

 定期ライブがピットインに移った頃から、なんとなく足が遠のいてしまったので、そろそろ見にいかなきゃと思いつつも、2009年末も見逃してしまった。元気だという話も耳にしていたので、まさかの訃報である。マキさんには、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
 多分、マキさんの死について世間の扱いは、団塊の世代がどうしたというような、一時期活躍した歌手みたいな報道なんだろう(チェックしていないが)。人間同士のロマンを大切にしていた人だった。最後まで「アンダーグラウンド」に拘り、自身の音楽を貫いていた唯一無二の存在。もう誰にもこの穴はうめられないんである。「時代に合わせて呼吸するつもりはない」っていうマキさんの名言を思いだす。

 



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サミー前田 [MAIL]

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