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2003年08月10日(日) 徹夜明けに、モスクワを思う。

●朝5時に仕事を終えて、「モスクワの地下鉄の空気」という本を抱えベッドへ。7時頃ようやく眠気を覚えて本を閉じ、目を瞑る。MAX11時まで寝ても平気だな、と、目覚ましをかけていたのに、9時に演出家に電話で起こされた後、相次いで仕事の電話。諦めて起きだし、ゆっくり朝ご飯。起床予定時刻には、家を出る。

●モスクワのことを思い出す。たかだか2週間しかいなかったのに、様々な事件、出来事があり、濃密な時間だったから。
 何より、チチェン人の劇場テロに出くわしたこと。地下鉄の隣の駅の劇場で芝居を見ていたわたしは、翌日、事件を知った。それからは、ホテルにいる間、テレビに釘付け。窓の外にはクレムリン。観光客を閉め出して、ものものしい警備が続く。街を歩けば、そこかしこに実弾の匂い。占拠が続く中、劇場はハウスオープンを続ける。上演前、休憩中、終演後には、無線連絡の声がホールに響く。「桜の園」をマールイ劇場で見た時には、小銃を膝に置いた警官が斜め前で観劇していた。ボリショイでオペラを見た時には、休憩中サンドウィッチをほおばるかなり御高齢のおばあさんが、「あたしゃ、前の戦争の時も、毎日通ってたからね」とクロークのおばさんにしゃべっていた。歩くのもままならないのに、食べ物をほおばる姿が逞しかった。モスクワ座では、喜劇の上演前に演出家が出てきて「こんな時に劇場にきてくれてありがとう」といった挨拶をし、拍手喝采を浴び、上演中は劇場に笑いの渦ができていた。
 その間も、占拠は続き、延々続き、プーチンは、十分な解毒剤が用意できないままに、化学兵器を用いて、突入。事件は解決を見たが、多くの人質も、化学兵器に命を取られた。テレビは、生き残った人たちを見舞うプーチンの心配げな顔ばかりを映し続けた。
 わたしの仕事場、劇場には、爆弾を腹に巻き付けた女達が、無様とも果敢とも言い難い死に顔を晒していた。多くは、紛争で夫を亡くした女たちだった。

 出来事は、そこにあって、目の前にあって。言わば単なる事象であって。
 しかし、そこに何を見るかは、ただの旅行者であるわたしにさえも、委ねられていた。

 モスクワを思うとき、わたしは自分の仕事に対して、とってもフラットな気持ちになれる。目の前の些事、目の前の大事に踊らされず、この仕事をやっている自分と、落ち着いて向かい合おうという気持ちになる。

●それにしても、モスクワの地下鉄は深い。延々と潜る。エスカレーターに乗ったら本をおもむろに開く人がたくさんいたくらいだ。歩かず走らず乗っていたら、一駅分くらいの時間は優にたってしまうのだもの。構内の案内は恐ろしくわかりにくいし、外人を適当に連行して賄賂、外貨をまき取ろうとする警官が待ちかまえているし、ちょっとしたワンダーランド、ちょっとした異界なのだ、モスクワの地下鉄は。(その後ペテルスブルグに行ったら、ネオナチが跋扈しており、これも怖かったけど)
 滞在中、わたしは夜休みなく劇場に通ったけれど、それは毎夜、一人歩きをするということ。大事な仕事を帰国後に抱えていたわたしは、実に用心深い人となり、昼間、チケットを入手するついでに、必ず劇場からの導線を予行演習として歩いた。きっちり回りの状況を把握しながら。で、終演後は、「わたしはここの人間だから」って顔をして、すたすたと迷いなく帰途につく。……一人旅はなかなか大変だけれど、終わってみると、その予行演習の時間が実になつかしい。
 どうしてそんなにモスクワに惹かれるのか、と思う。
 芝居好きの街だからか。それとも、あの、あらゆるどうしようもなさが、逆にいいのか。

 だって。たとえば。
 7連泊で予約していた部屋を、2泊目の夜、他の部屋に移ってくれと言われて。なんだか知らないけれど、改装だから仕方ないんだと言われ。「だって予約してあったんだから改装を待てばいいでしょ」というようなことを、理解されない英語で伝え。断って。向こうが「仕方ないなあ」って顔をしていたから一安心したら。
 次の日劇場から帰ってくると、ヒーターははぎ取られ、電話とテレビは引っこ抜かれて、壁紙は一部剥がされていた。
 そういうことなのねと観念して、「どこへ移ればいいの?」と聞いたらば、「フロントに聞いて」「旅行社に聞いて」「ジジュールナヤ(各階にいる鍵を預かってるおばちゃん)に聞いて」とたらい回しにされ、引っ越しを終えるのに半日を要した。……一事が万事、そういう国だった。
 自分だけ頑張っても損、という考え方は、共産圏ならではのもの。サービス業なんて絶対根付かないし、働かずにすめば、それに超したことはないのだ。
 貧しさは、人を暴力的にして、白タクの兄ちゃんにあやうく身ぐるみ剥がれそうになったりもしたけれど、彼の外貨への強い欲望を思うと、そんなに否定的にもなれない。

 で、だから、どうしてそんな国がそんな街が気になって仕方ないのかと問われても、わたしには説明がつかない。……たぶん、出会い方なのだと思う。

 恋人がパリに惹かれ続けれるも、やはり、そういう出会い方をしたのか。
 A氏とどういう関係であろうと、わたしは年末に生まれる仕事の僅かな間隙を縫って、パリを訪ねるだろう。そこに、どういう出会いが待っているのか。

●台風一過。傷跡を残した台風だったが、過ぎた後の清々しさは。
 暑くても暑くてもわたしは夏が好き。紫外線がどんなに肌に悪いって言われても、陽の光を浴びるのは好き。どうせ、いつかはなくなる体なのだ。使い切って、思い切り気持ちいいことして、死なずして、どうする!


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