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2001年05月01日(火) 五月の葉っぱのように。

 時すでに5月。このHPを立ち上げたのは、昨年の5/7。歳をとればとるほど1年が短く感じると言うし、自身、実感もしてきたことだが、この1年は長かった。仕事から仕事へと追われて過ごしたからか、それとも、自分が停滞しているからか。
 日記をつけていくことも。無作為の他者に読まれてよいようにと書くことが、弾みになることもあれば、いきおい意味がないと思いこむ要因にもなり、よくぞ1年続いたことであった。時折もらう感想や励ましのメールに少なからず応えようとしてきたのだろう。そしてまた、自分の書いた文章が、思わぬ時に自らを救ってくれることもある。「継続は力なり」などと言う、手垢のついたことばを、再び信じてみようかという気持ちになってくる。

 今日も5月とは思えぬ冷え込む1日。わたしの気分も天気に似て、うっすらと影が差し、弾けない。諸々の思いが流れの速い雲のように、心中をよぎっていく。
 先日亡くなった作家のことを考え、「模倣犯」を書いた宮部氏のことを考える。
 劇作家、秋元松代氏は、自らの並ならぬ世界への憤りやら愛情やらをいったん鎮め、作品に転化していくのだと語った。そして、俳優や演出家に一言一句でも変えられるようだと、作品としての価値はないとする完璧主義者だった。結婚はせず、老いてからは親族と一切の関わりを絶ち、壮絶なる孤独と共に生きていらした。書かなくなってからも書けなくなってからも、「作家」として生きたはずの彼女の、その孤独なる精神生活を思うと、その強靱さにわたしは言葉もない。自らの作品から得る収入で晩年を過ごし、いつまでも自分と他者両方に厳しく、最期は、自らの最高傑作が劇場にあがり、観客の喝采を浴びているさ中、苦しみもなく発っていかれた。作家として、最高の幕切れを、ご自分で演出されたようであった。強い女性だった。わたしの想像などはるかに越えて。
 宮部氏の「模倣犯」を読み終えて感じたのも、作家としての彼女の、無類の意志の強靱さだ。
 彼女が精緻に構築していく物語には、彼女の現世への思いが色濃く織り込まれていく。彼女の精神、彼女の手によって捏造された物語が、現世を映し出す鏡になっていく。そしてその鏡は、時に沿って、作家としての彼女の成長に沿って、より相対化された厳しいものになっていく。更にまた、これが宮部氏の最も素晴らしいところなのだが、どんな人間にも、同じく暖かい視線を注いでいる。そう、初期作品から読み進めてくると、人物の相対化の仕方と愛情の注ぎ方のバランスがどんどん絶妙になってきているのだ。悲惨な犯罪描写が多くても読後感に人肌のぬくもりがあるのは、それによるものだろう。
 存在しなかった物語を存在させてしまう力業、信じさせる技術、まっすぐな視線で対象や現実を見据える自らの世界に対する位置取り。
 わたしは同世代の女として、彼女の存在を誇らしいとさえ思う。そして、いつも通り、無力な自分に思い至る。

 HPを立ち上げようとして最初に日記をつけた日、わたしは5月をこんな風に書いた。

 また五月がやってくる。
 四月を迎えて、また花の季節がやってくると思ったように、新緑の季節がやってくる。五月の葉っぱはまだ成長の途上。人の手の大きさで言えば小学校五年生くらい。葉と葉の間からまだまだ空が垣間見える。その緑はまだ淡く薄く頼りなく葉脈だってはかなげで、陽の光は思うさま彼らをすり抜けてくる。
 五月は木漏れ日のいちばん美しい季節だ。

 自分が自らの人生でまだ何も成し遂げていないと落ち込むよりは、歳がいくつであれ、5月の葉っぱのような人でありたい。途上であるからこその、美しさ、軽やかさ、風通しのよさ。
 ざわめく心をひとり鎮めて、伸びゆくエネルギーに変えていきたい。5月の葉っぱのように。


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