世界お遍路 千夜一夜旅日記

2007年10月02日(火) 今日も眠くて、だる・・しかし自作教材

一気に気温下がりすぎだ。
今日もだるくて眠たいが・・・眠ってもおられずに起きて、仕事しています、はい。
午前中いっぱいかけて、次のような問題つくりましただ。
小4・5・6年用の自作教材ですだ。
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  映画 「ひめゆり」を見て 〜感想文〜 十月     イルカコース用

 長岡アジア映画祭で「ひめゆり」という映画を見ました。これは、ドキュメンタリーです。 実際にあったできことを取材して撮影する映画のことを、ドキュメンタリー映画といいます。
 では、「ひめゆり」はどんなできごとを取材したのでしょうか。
 それは戦争です。今から六十二年前、日本は戦争をしていました。第二次世界大戦、太平洋戦争ともいわれる戦争です。戦争の終わり頃には、沖縄で激戦がありました。
 そのとき、一五歳から一九歳の女子学生がたくさん戦場へ動員されました。傷ついた兵士たちを看護(かんご)したり、軍の仕事を手伝ったりするのです。そんなことはしたくない、とはいえませんでした。みんな「お国のため」といって、一生けんめい働きました。がんばりました。
 この女子学生たちのことを「ひめゆり学徒隊(がくとたい)」というのです。映画の題は、ここからきています。
 アメリカ軍が沖縄に上陸(じょうりく)して戦争がはげしくなるにつれて、ケガをしたり死んだりする兵士も多くなりましたが、ひめゆり学徒隊の女子学生たちもつぎつぎと死んでいきました。にげ場を失って、水も食料もなく海岸をさまよったあげくに爆撃されて亡くなった人もおおぜいいたそうです。
 ひめゆり学徒隊として動員された人は先生も含めて二百四十人で、亡くなった人は百三十六人! 半分以上が亡くなっているのです。この映画は、このはげしく悲しい戦いで生き延びた人たちの証言をまとめています。
 戦争の時は少女だったのですが、今はもう七十代、八十代のおばあさんです。その人たちが自分がにげまどった海辺や、友だちを失ったどうくつを訪ねて、当時の話をしてます。
 本村つるさんは次のように話していました。
「夕方、米軍機が去るのを待っていたら、急に弾(たま)がおちてきたんです。安座間晶子(あざまあきこ)さんが重傷、宣保(ぎぼ)春子さんは、体ごと吹き飛んでどこにいったかわからなくなりました。晶子さんは、自分はもうダメだから殺してくれといいましたが、みんなで大丈夫だからと励ましました。でも、最後はお母さんや妹さん、家族のことを言いながら静かに亡くなっていきました。」
 さっきまでそばにいた友だちが吹き飛び、もう一人は家族のことを話ながら亡くなっていく・・・十九歳だった本村さんはどんなにショックで、つらかっ
たでしょうか。
 石川幸子さんは水が飲みたかったようすを次のように話します。
「水、水って、下を見て、そしたらあった。水たまりなんですよ。手ですくえるほど多くなかったので直接口をつけて飲もうとしたら、とってもくさいんです。でも息を殺してガブガブ飲んだ、多分、オシッコやら死体の汁やらいろいろと混じっていたと思います」
 とてもとても、今の私たちにはできないことです。
 美しい沖縄の海や、緑がしげる南国の景色をバックにしてこんな話が続きます。
 わたしはだんだんと画面を見ていることが苦痛になりました。これ以上見たくない、聞きたくない、と思いました。それでも、話している元ひめゆり学徒隊の人たちはわたし以上につらくて必死だと思うので、目をそらさずにスクリーンを見つめました。 
 やがて、わたしは映画を見ながら、ホエールウオッチング行った沖縄の座間味島(ざまみじま)で出会ったオバア(沖縄ではおばあちゃんのことをこういいます)のことを思い出しました。
 海が荒れて、船が出ないので、何人かのオバアたちとおしゃべりをしていました。ひとりのオバアが、後ろにジャングルが迫る拝所(はいしょ)という、島の人たちがお祈りをする場所に連れていってくれました。そして、とつぜん自分の首を見せて「これは、ここで集団自決(しゅうだんじけつ)したときの傷だ」と泣きながら話しだしたのです。
 傷あとは、のどの辺りに大きくえぐるようについていました。
「お父さんが、わたしののどをカマで切った、弟もやられて死んだ、お母さんもやられた。お父さんは自分で自分の首をしめたけど、死ねなくてほかの人にしめてもらって死んだ。」
「どうやって、生き延びたんですか。」
「たくさんの人がここで死んだよ、その中で三日間死んだマネをしていた。三日目に、上陸してきたアメリカ軍に助けられた。十二歳だったよ。」
 集団自決というのは、アメリカ軍につかまるなら自分たちで死ね、という軍の指示です。オバアのお父さんは好きで家族の首を切って殺そうとしたわけではないのです。命令だったのです。心の中で、血の涙が出ていたと思います。
「今までこんな話はだれにもしなかったよ。悲しすぎてできなかったんだよ。今も昨日のことのように思い出すからねえ。あんたは本土から来た人だ、どうかこの話を帰ったらして下さい。」
 オバアに泣きながら頼まれました。
 わたしはオバアの頼みを実行しようと、機会があるとこの話をしています。
 元ひめゆり学徒隊の人たちも、ひさんな戦場のようすや亡くなった友のようすを伝えるのが使命だと、こうやってカメラの前で語り続けているのだろうと思います。なんの体験もないわたしと比較するのも失礼で申し訳ないのですが、そのように考えます。
 忘れてしまいたい、思い出したくない話を一生懸命にしてくれているのです。そうすることで平和の大切さを考えてほしいという気持ちなのです。
 映画を見ながら、改めて「何がなくても平和が一番」ということばを胸にきざみました。そして(忘れてしまいたいことを語ってくれてありがとう。)と思いました。
 二時間十分の長い映画でした。上映後、監督さんが話してくれました。
「この映画を十三年かけて撮りました。遺言(ゆいごん)として残したい、という元ひめゆり部隊の人たちのことばに心を動かされたからです。」と。
 この映画祭の会場で、わたしはめったにしないことなのですが、手を挙げて発言してみました。座間味島のオバアの話をしました。
 そして「沖縄には、まだたくさんのオバアやオジイが、つらくてなかなか人に語れない思いを胸におさめてくらしておられるように思います。どうか、その人たちのお話も発掘してフィルムに収めて下さい。」と監督さんにお願いをしました。監督さんは、深くうなずいてくれました。
 もし、沖縄に旅することがあったら、ぜひ「ひめゆり平和祈念資料館」を訪れてほしいです。それから、「ひめゆり」の映画を見る機会があったら、ぜひ見て、ひめゆりの生き残りの人たちの「遺言」に耳を傾けて平和について考えてほしいと思います。

*問題  
この文は、次のような下書きメモをつくってから書きはじめました。
 どこからどこまでが、下書きメモの番号にあたるか、読んで� 屐 廚いΔ佞Δ砲�ぎって下さい。
 また、下書きメモにはなかったけれど、書きながら付け加えた部分もあります。それはどこでしょうか。( )で囲んで下さい。
  � ,呂犬瓩里海箸�
  �◆ 屬劼瓩罎蝓廚箸いΡ撚茲里擦弔瓩�
  �� 場面をせつめいしながら感想を書く
       友だちが死んだ 水を飲むなど・・・
  �ぁー�分の体験を書きながら映画の感想へもっていく 
       座間味島できいた話
  �イ�わりのことば 
      もし沖縄に旅することがあったなら・・・
     映画も見てほしい・・・

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軍による集団自決の指示の教科書からの削除抗議、沖縄の11万人デモの思い、当然だろう。
座間味のオバアを思いだしながら、わたしも沖縄在住だったらいったぜい、と思った。
・・・
ここへきてまた入塾したいという問い合わせがぼつぼつと来る。
手作りの教材で、誠実にやって行くしかないと再確認しておる昨今である。
それと、大人として「戦争は最悪なんだ」と言うことを伝えてもいきたい。

それにしても眠たい・・今晩もはやくねようっと。(でも、11時だなあ、今日は遅くまで生徒さんいるし)


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