世界お遍路 千夜一夜旅日記

2002年04月25日(木) ★周防大島2日目★

お遍路の体癖がとれていないので、つい9時頃に眠くなる。今朝も早起きできのうの日記アップ。5時半、起きると、ちょうど朝日が出たばかり。きれいだった。

今日は茂兵衛さんのご子孫である中司善子さんにお会いし、昼からは役所の方が紹介してくださった郷土史家の金本さんにお会いする予定だ。

8時34分のバスで出かける。
昨日さがしておいたお宅の赤いかわらをめざしていく。
8時45分ついてしまった。少し早いが仕方ない・・・・。
ごめん下さい、と声をかけると眼鏡をかけられた細い立ち姿の女性が出てこられた。
私が、四国を歩いていて茂兵衛さんのことを知って興味を持ちまして是非、生まれ故郷に来たくて・・・役場に電話したらこちらをお教えくださり・・・と説明したら、まあおはいりなさい、と招き入れてくださった。

どうやら、犬と2人?住まい。ご主人の表札はかかっていたが・・・・。
私がお話ししながら、足を崩していいか、といったら、じゃ、あちらでお話ししましょうと、次の間をあけられた。
窓から瀬戸内海をみおろすすてきなロケーション。そこに籐の椅子とテーブルがおいてあった。
おしゃれ、と思っていたら、ご自分はここに住んだのが50代に入ってから、ソウル(植民地時代の)で生まれ、福岡、呉、福岡などをご両親やご主人の仕事の関係でまわられたという。なるほど。
お聞きしたお話は、差し障りもあると思うので詳しくは書かないが、これが戻ってきましたのよ、と茂兵衛さんの遺品である大粒珊瑚のりっぱな数珠を見せてくださった。それから、小さな柳行李3はことお菓子のはこ2個の遺品も。
金のキセルもあったらしいが、誰かがどうにかしたのか見たことはないといわれた。
「あけてみていいですよ」といわれたのであけて見せていただいた。
たくさんお札や書簡、日記、わげさ、印鑑など。書簡などはずいぶんと崩してあるので私には読めなかった。日記などの几帳面さ、公式の居所を書くときには大島郡の住所かいている、保証人の一人が大島の人、などから、よく書かれているような家出、出奔ではない、と思った。善子さんも、出るときがずいぶん多額のお金をもらっていっているようですよともいわれた。
そりゃ、まあ、大庄屋の息子が突然お遍路になるからとて托鉢なんぞできるわけがない、ということだろう。まして、当時は江戸末期、土佐藩などは、路銀がじゅうぶんでなかった遍路は入れなかったというし。
書簡に、証券入れなどというのがあって、400円モノお金を預けて運用していた。

昼近くまで遺品を拝見し、お昼までごちそうになって1時過ぎのバスで辞した。

2時、宿に来てくださるという郷土史家の金本さんを待った。
表具やさん、というお仕事なので、少時間があくのだという。それにしても「行きますよ、うちはわかりにくいから」といってくださって感謝。

茂兵衛堂を立てるときに発願者の石川氏が作った史料の小冊子(善子さん宅にはなかった)のコピーと、中司家の手書き系図、などを持ってきてくださった。

この地域の歴史とともにいろいろとお話を聞いた。
茂兵衛さんはなぜ帰らなかったんでしょうね、といったら、ホントの修行者、行者になったんでしょう、この地域のお寺の住職は庄屋の出が多いですよ、茂兵衛さんが主受けしても別におかしくはないですよ、ということをいわれた。
お遍路をするうちにはまったんでしょう、とも。
やっぱりそうなのかな?
1時間半ばかりお話しして帰られた。

さすがに疲れて、茂兵衛さんのコピーを読むうちに少しうたた寝してしまった。
今日は海に波がたって寒い一日だった。





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