おひさまの日記
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| 2010年06月29日(火) |
愛から生まれ、愛に帰る |
子供の頃、周りの誰かが死んでも悲しくなかった。 泣くこともなかった。
「人が死ぬと悲しい」というのはなんとなくわかっていたのだけれど、 その「悲しい」というのはどんな感情なのかわからなかったんだろう。
じいちゃん、つまり、母の父親が亡くなった時、 まだ小学校に上がる前だった私は、 冷たくなったじいちゃんの前で泣き崩れる母を、ただじっと見ていた。 私には母の悲しみを感じることができなかった。 ただ察するだけだった。 察して黙っているのが、唯一できることだった。
小学生になり、同級生が病気で亡くなった。 死というものが実感できず、やっぱり私は悲しくなかった。 友達はわんわん泣いていた。 私も泣かなければいけないような気がして、一生懸命泣いてみた。 涙が少し出た。
同じく小学生の頃、親戚の子がふたり亡くなった。 よく一緒に遊んだ子だった。 ため池に落ちたお兄ちゃんを助けようと手を伸ばした妹も落ちて、 ふたりとも帰らぬ人となった。 とても悲しいことだとよくわかった。 けれど、その悲しいという気持ちを感じられなかった。 おばちゃんは我が子を失って泣き崩れていた。 私はただ見ていた。
十数年かわいがっていた犬が死んだ時、私は泣かなかった。 悲しいということがよくわからなかった。 犬はミッキーという名前だった。 何ヶ月か経った時、ミッキーの写真が出てきて、 それを見た時、突き上げるように何かがこみ上げてきて、 私は壊れたように泣いた。 泣きながら名前を何度も呼んだ。 どれほどミッキーが大好きだったか、 ミッキーがどれほど私を大好きだったか、よぉくわかった。 そして、もうミッキーはいないのだと。 でも、それから二度と泣かなかった。 その写真も二度と見なかった。
私はある程度の年齢になるまで、 悲しみをうっすらとしか感じることができなかった。 それに、感じないようにもしていたのだと、今はわかる。
幼さゆえに、純粋に感じられなかった。 そして、ある程度成長しても、 感じるのが苦しかったゆえに、感じないようにしていた。
月日が流れた。
今なら、大切な人を亡くした誰かを見た時、その悲しみを感じる。 大切な人が亡くなった時、悲しみ、そして、泣く。
たくさんのことがあった。 そこで知らなかった感情に出会った。 感じたものがみんな自分のものになった。 わからなかったことがわかるようになった。
愛がそこにあるから、悲しみが生まれる。 それもわかったから、私はもう安心して悲しめる。 痛みも悲しみもひっくるめて、人生は美しい。
人は愛から生まれ、愛に帰っていくんだ。 人が死ぬということ、やっと少しわかった気がする。
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