おひさまの日記
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| 2010年05月30日(日) |
誰もが自分を許したい |
私が「ホ・オポノポノ(以後ポノポノと記載・笑)」を好きな理由のひとつは、 「今自分に起こっている問題はすべて自分の責任」ということが、 原点になっているということ。
誰のせいにもできないなんて、ワクワク・ゾクゾクする。
何かあると、いつもポノポノを思い出す。 人間だから、醜くなる瞬間はいっぱいある。 けれど、その後、ポノポノを思い出す。
問題は過去の体験から生まれた痛みの記憶が引き起こす。 その記憶が消える時、問題が消える。 自分の問題が消える時、問題を見せていた相手の問題も消える。 その痛みの記憶を消してゆくのがポノポノ。 かなり簡単な説明だが(笑)
誰かがどうだとか、あれをしたこれをしたとか、 何がどうだとか、だからああなんだこうなんだとか、 そんなぐちゃぐちゃな気持ちをかき分けていくと、 人間の心の奥には美しいものがある。 それは、静かで穏やかで凛としている。
これは私の中にある問題を見せているんだ、 この出来事の責任は私にある、 この問題を解決するにはどうしたらいいだろう、 神様、導いてください…
そう心の中で、時には声に出して言葉にする時、 問題やつらい気持ちがそのままそこにあろうと、状況は同じだろうと、 不思議と心が澄んでゆく。
その時に知る。 自分の欲しい感覚はこれだ、と。
人にすることは自分にすること、その言葉通り、 人を責めることは自分を責めること、 人を裁くことは自分を裁くこと、 問題の原因を外に見つけようとしている限り、 私達は自分を責めて裁き続ける。
けれど、それをやめた時、私達が人を責めて裁くという形をとって、 自分を責めて裁くという行為が、初めて終わるのだ。 すべての問題の責任が自分にあると考えることが、 自分を許すことになってゆく。
「私のせいだ、私が悪いんだ」
それは、責任が自分にある、というのとは違う。 ただ自分を責めているだけだ。
責任を持つということは、
「この問題の原因は私にある。 それを認めます」
と受け入れること。 正しいとか正しくないとか、悪いとか悪くないとか、 そういうことじゃない。 そこにどんな感情があってもいい、 それがありながらも受け入れること。
それによってどれほど楽になるかは、 体験した人ならわかると思う。 苦しみのさなかにいようとも、凛とした清々しさがある。 最初は抵抗があるかもしれないけれど、 そういう考え方をぜひ試してほしい。 悲しみながらでも、怒りながらでも。
誰を責めるわけでもなく、 ガマンして犠牲になるわけでもなく、 勝つことも負けることもなく、 物事出来事に必要な対処をし、 そして、あとはその流れの中に自然にいる、 どんな嵐が吹き荒れても、風にあおがれながらでもそこにいる、 そんな人でいたい。
私は上手に生きようとは思わない。 精一杯生きようと思う。 カッコ悪かったり、不器用だったり、 時には、やっちゃった…なんてことがあってもいい。 その瞬間の自分を許しながら、次の瞬間のために最善を尽くす、 そういう生き方がいい。 泣きながら、鼻水たらしながらでも、精一杯生きたい。
「あなたは言葉にできない存在です。 愛そのものだから」
そう言ってくださった人がいる。 至高の言葉だった。 私の罪と汚れ(自分で自分を責める想い)を一瞬で消し去る言葉だった。 私は泣いた。 思い出すと今でも泣ける。
人は誰もが自分を許したいのだ。
ねぇ。 あなたが自分を許す時、それによって許され救われる人がいるの。 あなたをとても大切に思っている人が。 あなたも愛そのものです。
愛しています。 ごめんなさい。 許してください。 ありがとう。
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