おひさまの日記
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2005年09月06日(火) 俗世に生きる

私は小さい頃、尼さんになりたかった。
大人になったら出家してお寺に行くと決めていた。
山奥の人里離れた誰とも会わなくてすむお寺に行きたかった。

お坊さんになれば、俗世から離れて暮らして、
ひたすら仏の世界と向かい合っていけると思っていた。
そして、とても幸せになれると思っていた。

今思えばとてもつらかったからだろう。
親をはじめ、人と人とのつながりに疲れて、傷ついて、
そんなものじゃなくもっと崇高なもの、神仏のそばで生きていきたかったのだろう。

さくっと過去の自分に突っ込むと現実逃避(笑)
いやいや、あの頃の私よ、すまん、すまん、君は本当に苦しかった。
子供なりの頭で一生懸命に考えてたよね。

実際大人になったら、私は俗世にまみれて生きている。
私が疲れ果てて切り捨てたかった人と人との関係の中で生きている。

人は、人との関係の中で傷つくけれど、人との関係の中で癒されていく。
人との関係の中でこそ癒されていく。

最近思うのよ。

誰かとの関係の中で、
悲しくなる度、
怖くなる度、
傷つく度、
ムカつく度、
落ち込む度、
つらい感情が動いて心が揺れる度、
それは、失った私自身を取り戻すための大いなるプロセスを通過しているのだと。

子供の頃そんなこと誰も教えてくれなかった。
大人になったって誰も教えてくれなかった。
だから、つらい時はただつらくて、それはひたすら不運なことで、
人生にそんなものがない方がいいし、あるべきじゃないと思ってた。

そりゃもちろんない方がいい。
けれど、それらは必要なものだということが今はよくわかる。

なぜなら、そのつらい感情こそが、
私達が失った大切なものへにつながる道であり、
つらい場所から抜け出すためのナビゲーターだからだ。

それをしっかりと感じていくこと、感じ抜いていくこと、それが大切。
感情に翻弄されるんじゃなく、それを感じ抜いていくんだ。
翻弄されるだけなら、ただやみくもに苦しむのと同じ。
「翻弄される」とは、その感情そのものになってしまうことと表現できるかもしれない。
「感じ抜く」とは、その感情を感じながらも、しっかりとした個をどこかに持って感情に責任を持つことかもしれない。
あくまで個人的見解と表現だけど。

つらいことが、つらくなくなるために必要だなんて、
なんだか逆説的だけど、でも、そうなんだよね。

失った大切なもの、それを取り戻すことによって、
私達は神を体現していくことになるのだと思うよ。
って表現すると堅苦しいけど、つまりは、満ち足りてゆくのだと思う。

じゃあ私達は何を失ったのか。
それは自分自身の一部だ。
私達は生まれた時完全な存在なんだけど(赤ちゃんだから生活能力はないけどね)、
育っていくうちに、ありのまま(=完全な自分)で生きていると不都合が起こってくる。
親に怒られたり、暴力を受けたり、否定されたり、無視されたり、抑圧されたりする。
親のエゴで理不尽な扱いを受けているのだけれど、幼い心はそんなことなど知りもせず、
自分がそうやって「ダメ」扱いされた部分を自分から「なし」にしてしまう。
それを持っていたらもっとつらい目に遭ってしまうから。
「こんなもの自分にはいらない」「こんなの自分じゃない」
悲壮な想いでそんな部分を自分から切り離し、無意識の奥の方へと押し込めていく。

そして、その「なし」にしてしまった、でも実はしっかり「あり」な部分が、
ズキズキと痛んで、私達の人生に大きな影響を与えている。

でも、その「なし」にしてしまった部分を、
私達は無意識に押し込めてしまっているので、
それが自分にあることに気づくことができないんだな。
だから想い通りにならない時、苦しい時、きっと人はこう思うだろう。
「どうしてこうなってしまうの?」と。
無意識の中に原因を隠してしまっているので、わからないのだ、
自分の人生がなぜつらいものになるのか。

そんな時にこそ、人と人との関係の中で、私達は解決の糸口を見ることができる。

それが、私がセッションでも日記でもよく使う言葉、
投影(自分の気づいていない自分のある部分を人に映し出してみること)、
特にネガティブな投影、シャドー。
それが解決の糸口。

人は鏡とは言い古された言葉だけど、真実。
私達は人という鏡を使って気づいていない自分の姿を知る。
人に自分の姿を見る時、私達は感情が動くことでそれがわかる。
特にシャドーはネガティブな感情が動く。
悲しみ、苦しみ、憎しみ、怒り、妬み、蔑み、
それらがわき起こる時、私達は失った自分と出会っている。

それはひとつの物の考え方だ。
そして、そういう視点で自分自身や自分に起こる出来事を捉えていく時、
私達は今まで見ることのなかった世界を見ることになる。

それが俗世に生きるということなのだと思う。
私は人と関わりを持たないように山奥にひっそりと生きる尼僧にはならなかった。
少なくとも私にとっては正解だったと思う。
俗世にまみれてシャドーに怒り苦しみ生きてきたから、今、ここにこうしている。
昔よりはうんと楽に生きられるようになった。

10年前より、5年前より、去年より、先月より、先週より、昨日より、
いつも今日が素晴らしいと感じてる。

俗世に生きて、自分のシャドーを眺めている。
人と人との関係の中で、
ぐちゃぐちゃな感情にまみれてながら、
なくしてきた自分を探している。
会いたい、会いたい、自分に。


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