おひさまの日記
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泣き疲れて床にうずくまっていた。 それでも力なく涙だけが流れていた。 私消えちゃえばいいのにな、そう思った。
その時、私の顔に何か柔らかいものが触れた。 目を開けると猫だった。 猫はまた離れていった。
少しすると電話が鳴った。 出ないでおこうと思ったけれど、 ずっと鳴っているので仕方なく出た。 出ると同時に切れた。 知らない電話番号からの着信だった。
なにかが私の目を閉じたままではいさせないようにする。 なにかが私をうずくまったままではいさせないようにする。 なにかが私を起こそうとする。
思った。
そうだ、生きなくちゃ。 なにがあっても生きなくちゃ。 ここを越えるために、私は今生かされてるんだ。
起き上がれ、目を覚ませ、放棄するな、向かい合い続けろ、 そう言われているように感じた。
それから私はようやく起き上がり、 抜け殻みたいな心と体を引きずって、 銀行に行って、買い物をして、自分の義務を果たし、 サウナみたいに蒸し暑くなっている車の中に戻ると、 これからどうしようか迷っていた。
そして、中島先生がことある度におっしゃること、 「苦しい時ほど人に与えてください」を、思い出した。
それから近所の百貨店に向かうと、 娘のアンナの前髪が伸びてじゃまそうだったのを思い出し、 ピンを買ってプレゼント用にラッピングしてもらった。 そして、父の日にワークショップで訪れ損ねていた父に、 花束とおいしいシュークリームを買った。
彼等に物を与えると言うよりも、 辛くて動けるような気分じゃないけど、 彼等のために動こう、感謝の気持ちを伝えよう、喜んでもらおう、 そう感じた気持ち、それを私が今日「与える」ものとした。
自分にむち打ってそうやって動いているうちに、 私の中は少し落ち着いてきた。
そして、私は、 あるひとつのことをコミットしたい気持ちでいっぱいになった。
あるひとつのこと、それは、私が「絶対に無理だ」と思っていること。 愛をもって人に接すること。 特に近しい人にそう接すること。 近い人には怒りをぶつけやすいし、不機嫌な自分も平気で見せてしまう。 そして、その矛先を向けたりもする。 それは「愛する」ことではないと思った。 それは単に「クソ甘ったれる」ことだ。
だから、私は決めた。 自分自身にコミットした。 私は人に愛をもって接しようと。
時々またそんな誓いなど崩れ去るかもしれない。 そうしたらまたコミットしよう、そう決めた。 今まで私はそれをコミットしたことがなかった。 なぜならあまりに苦行だからだ。
私にはトラウマがあるからムリだ、そう思っていたけれど、 それじゃ私はいつまで経ってもトラウマにコントロールされるがままだ。 そんなのイヤなんだ。 イヤなんだよ。
だから、コミットした。
くじけても、くじけても、コミットし続けよう。 自分のために。 自分の魂のために。
ワークショップの帰り、 駅から乗ったタクシーの運転手の態度が、 それはそれはひどいものだった。
私が乗ろうとしても同業者と立ち話をしていてドアを開けない、 行き先やルートを行っても返事をしない、 不安になって「あの、聞こえましたか?」と尋ねると、 「あぁ?聞こえてるよ!」と舌打ち。
私は後部座席で怒鳴りたくなるのを押さえるので精一杯だった。 降りる時に「その態度はなんだ、それが客への態度か」、 そう投げつけようと、喉の辺りでそのセリフを用意していた。
けれど、私の中で「この人に愛を与えたらどうなるのだろう」と思った。 いやいや、それは無理、こんな奴に愛を与えるなんて!そうも思ったけれど、 天使と悪魔で例えるなら、天使の私が勝った。
「そこを曲がったすぐで停めてください。 お世話になりました。 ありがとうございます」
すると運転手は言った。
「お、ここでいいのね、はいよ、じゃあ停めるよ。 ありがとうね」
私は代金を支払うと車を降りた。 そして言った。
「おじさん、お仕事頑張ってね」
運転手は「はいよー」と言ってにっこり笑った。 そして、また暗い夜道を戻っていった。
すごく嬉しかった。 おじさんが笑ってくれた。 おじさん結構いい人だった。 そう思うと、なんだかこそばゆかった。
あたりまえのやり取りだ。 けれど、私は怒りをぶつける代わりに、当たり前のやり取りを選んだ。 それがその時の私にとっての精一杯の愛でもあったのだし。
運転手に対して無理にガマンしてそうしたのではない。 彼の中にあるはずである愛の部分にフォーカスしたのだ。 この人にだって愛があるはずだ、 この人だって愛し愛されているはずだ、 愛を知っているはずだ、 そう信じて勇気を出したら、天使の私が微笑んでくれた。
私は家のドアまで歩きながら、 怒りをぶつけて怒鳴らなくて本当によかったなって、思った。 そうしていたら、おじさんの笑顔を見られなかった。 彼の中にある愛の部分を見られなかった。
愛が欲しいなら、自分から愛を与えるしかないのだ、 私はそんなことを考えた。
その体験が、今日の私のコミットにもつながっていた。 できるじゃないか、私できるじゃないか、もうやったじゃないか、って。 そう、あれをやればいいんだ、って。
ただのガマンではダメだ。 ガマンは与える行為ではない。 自己犠牲と自己憐憫と被害者意識が増長するだけだ。 心の中で「コイツぶっ殺す」とか思いながらぐっとこらえ、 笑顔でいても何も変わらない。 変わらないどころか、自分の心がますます怒りと憎しみで煮えたぎる。 単にフラストレーションがつのるだけ。 だから、ガマンじゃないんだ。
私のコミットはガマンじゃない。 愛を見ること。 愛を探すこと。 相手がいかに愛すべき人であるかを探したい。 それでも見つからなければ、せめて攻撃だけは避けたい。
泣いて床で死体のように転がっていた私を、 猫と間違い電話で叩き起こし、 私の中に澄んだ水のような気付きを流し込み、 そして、タクシーの運転手のことを考えるなら、 すでに2日も前から神様はこれを計画していて、 私を今日のコミットに至らしめた。
それが神様からの答えだった。 私がいつも助けてほしい、成長させてほしい、そう懇願する私への、 神様からの答えだった。
生きなさい。 生きなさい。 それでも生きなさい。 求めなさい。 求めなさい。 愛を求めなさい。 欲しいのでしょう。 欲しいのなら求めなさい。 与えることで求めなさい。 それはすぐさまあなたのものになります。 難しいと思うのならやってみなさい。 それはとても簡単です。 難しいと決めつけて逃げるのはもうやめなさい。 人を愛する時、あなたはようやく自分を愛します。 時が来たのですよ。
神様は私の頭の中にそんな言葉を落としていった。
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