ロロ「ボーイ・ミーツ・ガール」

ロロの「ボーイ・ミーツ・ガール」を王子小劇場で観てきました。
ものすごい評判の良さだったので、ついつい行ってしまいました。

そんな、みんなが言うほどかなあ、というのが第一印象。

でも、仕方ないな。
要は、恋の話なんだもの。
恋愛に対して否定的な考えを持っている私が
恋の話を楽しめるわけがないのです。

恋愛は不可能だ、とまでは言わないにせよ、
ある種の思いこみと妄想だろうと常々思っているわけで、
そんな人間が今回の作品をポジティヴに受け取れるはずがない。
完全に自分の考え方の問題。申し訳なくも。

話はともかくとして、
物語自体や動き方にアクロバットな展開を期待していたのだけれど、
終始まあ無難だったのではないでしょうか。

音楽や展開は類型を多用しながらも、ずらしを入れることで
それなりに独特の空間ができていました。

(そうそう、どちらかといえば、快快に連なるかなあと思いました)

ただ、恋愛(運命の人云々)や自分とは何かという問題、ミステリの構造など
いかにもな展開は「スーパーオリジナル」な恋愛を求めている登場人物とは逆説的に
非「スーパーオリジナル」な構造であったように思います。

基本的には、やっていることは面白いかもしれないけれど
恋愛に興味ないし、人はばたばた死んでいくし、
別に好みではないし、けっこう退屈していたのですが、
終わりの場面で急激なカタルシス。
一見すると感動の最後といった「型」だったからじゃないかと。
だまされたらいかん。

ちょうど12年前の『PT』という雑誌を読んでいて、リアリズムについて考えていました。
リアリズムと言っても演劇に関して。
新劇はさておき、平田オリザら90年代と10年代演劇のリアリズムの違いは
「とりとめのなさ」の前景化ではないかと思います。

思いつきですが、例えばチェルフィッチュ以前の演劇において
物語は言葉も動きもノイズを生じさせることなく、それはないものとして、
進行させていたような気がしていて、それが最近になって
これまで排除されてきたノイズを組み込んて日常を描くようになってきたように思うのです。

世を見やれば、日常の会話も動きも筋の通ったものなど数少なく
あちこちと漂って会話は帰結に達します。
そうした「とりとめのなさ」を現代の演劇は描いていて、
いわばネオ・リアリズムとでも言えそうな気がしています。
(でも、五反田団なんかはシュールレアリズムなんじゃないかと思っていますけど…)

舞城王太郎との比較が散見されますけど
私は一冊しか読んでいないのでわかりません。
ああ、そうかもってくらいです。

取り急ぎ。
2010年08月21日(土)

そらいろのねこ / コギト