| 重みある身体 |
疲れが、単なるもしかしたら怠け心かもしれないけれど、 とりあえず疲れと称しておくべき何かが体の中に蓄積されていて、 寝ても食べても飲んでもぼんやりしても日に日に重々しくなっている。 重石のある身体は生きているという感じがするが 私はできるだけシンプルに軽く生きていたいのである。
母に家で酒は飲むのか、と問われ、 飲まない、と嘘をついた。
実家ではほとんど飲んでいないのに、飲みたい素振りも見せていないのに 私のどこからアルコールを感じ取ったのかと思えば、 母は、実家に帰った時は一人でビールを飲むのだ、と言う。 普段、アルコールを摂取しない彼女は、 決して実家ではないホームという終の住処にいる実母を見舞うと、 空っぽになった実家でビールを飲むのだ、と言う。 そこにあるのは悲しみなのか疲れなのか怒りなのか。 底知れぬ感情と折り合いをつけるために彼女はアルコールを摂取するのだろうか。
私はといえば、家で飲む、のである。
怒りも悲しみも寂しさも混乱も不安も全てをなくしたいと願って飲む。 けれども、しかしながらも、 一瞬底に沈んでいく感情たちは明日には浮かび上がってくる。
感性は理性ではおさえきれない。 感性が理性を上回る。
たぶん、いや絶対か、 私は社会に適合できない人間なのだ。 わずかばかりの理性が普通たらんと活動するばかりに どっちつかずの状態、そして今。
際にある。 どちらかに場所を定めれば楽になるのだろうか。 それは二項対立の中にしかないものなのか。 正気と狂気、安心と不安、感性と理性、幸福と不幸。 人間はそう簡単に割り切れやしない。
三十までにどうにもならなければ死ぬ。
その決意とともに、 私は毎日死に近づいている。 その決意がなくとも、 人は毎日死に近づいていく。
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2010年06月10日(木)
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