一つの決着

実体を愛することが怖い。
表象に触れるように愛でることはできても
それをつかむことはできないし、
ずいずいと踏み込んでいくことはできない。
身体の持つ生々しさが苦手なのだ。
自分をさらすことも嫌だし、
全てをさらしてほしいとも思わない。
何もかもを知ることが良いことなわけではないんじゃないかな。
さらす=愛する、だとすれば、私には到底無理だ。
個人は個体であったそれ以上のものにはなりえない。
人類補完計画の理念に共感するところはあれども
そこまで誰かと共に在りたいとは思わない。

さて、この考え方は珍しいのか。
同調するような人とは会った試しがない。
常にこのことを表明しているわけではないし、
恋愛したい!結婚したい!と言っているような人に
言ってみてもぬかに釘みたいなものだろう。

何かを(人でも何でも)すごく好きになったときに
それが壊れてしまったり無くなってしまったり
私のことを裏切ってしまうようになることが怖いから
あえて踏み込まないようにしているのかもしれない。
だから、好きになればなるほど近づくことができない。

そして、実体を愛することができないのは
身体を介在することによって欲望が「上演」されるからだ。
今ふとそう思った。
身体の場において「欲望」が現れることが嫌なのだ。
自らの身体において剥き出しにされる「欲望」を
理性が好きになれないのが原因なんじゃないだろうか。

うん、そんな気がする。

ある種の潔癖さと自意識の強さのせいだな。

2009年05月04日(月)

そらいろのねこ / コギト