七転八倒 〜彩音の日常&育児日記〜
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2003年09月22日(月) 誕生してからの道のり

この日記、ふつうに育児日記にたどり着くまでに、すごく時間を要するような
気が・・・。(笑)
やっぱりはしょって書こうかな。
でも書き出すと長くなってしまうのよねー。
やっぱり心の赴くままに書くことにします・・・。


出産直後から、私の不安との戦いは始まっていた。
病室(大部屋)に行ってからも、私は不安でノイローゼに近い状態。
さすがに産んだ晩は、疲れてるから何も考えずに眠れた。

たーぼーは、先生方の処置のかいあって、蘇生した。
が、自分で上手に呼吸できないため、保育器の中に入れられていた。
夜の授乳がフラフラになりそうなくらい辛かった。
不安が強かったためなのか、お乳が出ない。
妊娠中のマッサージもロクにしていなかったツケだったのかもしれない。
出ないお乳、吸うのがヘタなたーぼー。悪循環。

私の不安状態は、たーぼーが退院するまで、ひどく続いた。
というのも、たーぼーは私の退院よりも一週間、退院が遅くなったのだ。
経過観察のため。自発呼吸がちゃんとできるかどうか、観察の必要があったのだ。
たーぼーが入院中は、私は毎日病院に通って、出ないお乳をしぼり、冷蔵庫に
保管して帰った。
家で搾乳して持っていったこともあったっけ。
どちらにしても微々たるもんだったけど・・・。

なんとか退院できることになったたーぼー。
でも、呼吸ができなくなったらどうしよう?私の心配は消えたわけではなかった。
怖い・・・めちゃくちゃ怖かった。


仮死で産まれたこともあって、退院してからも定期的に病院で経過観察をすることになり、
病院にはよく通ったものだった。

そうそう、夜泣きの期間はものすごくつらかったなー。
夜中起きるのにフラフラで、早く夜の授乳が終わればいいなと思っていた。

1歳になるまでは風邪で熱を出したり吐いたりした程度で、たいした病気にもならずに
済んでいた。
予防注射やら病院通いやらで忙しかったけれど。

1歳児検診なるものを病院で受け、そして医師に言われる。
首すわりも遅く、ハイハイもせず、寝返りすらまともにできないたーぼー。
先生から衝撃的なことを伝えられたのはこの頃だったと思う。
右半身に軽いマヒがある、と。
確かに握力は左の方が強かった。右はうまく動かせなかったのだ。
(そして、たーぼーは今左利きになっている)

先生の紹介で、療育施設に通うことになる。
ここでたーぼーはハイハイやらつかまり立ちやら、一連の運動のリハビリ的なことを
やってもらった。
1年半後の、1998年7月、2歳1ヶ月で、たーぼーはようやく一人で立って歩いた。
今でもしっかりと目に焼き付いている。うれしそうに歩いたたーぼーを。
その日のことは、出産の日の次によく覚えている。
今度こそ感動して泣いたことも・・・。


療育が1年半ほど続き、我が家が引っ越すことになった。
お世話になった先生方とのお別れの日、不安と感謝でまた泣いた。

最後に診察担当の先生が言ってくださった言葉をまた覚えている。
「いちおう卒業という形ですね。大丈夫、この子は追いつきますよ」
現にまだまだ追いついてないけどね。
でも大丈夫、一生追いつかなくても、息子は息子の個性で生きられる。
生きられるはずだ。

引っ越すまでは実家にいたのだが、いろいろとあって・・・。
見知らぬ土地で一から始めることになった。
が、それと共に、私は不安で鬱状態へと突入していくのである。


1998年9月、東京都某市に引っ越す。
知り合いも誰ひとりいない土地で、子育てが始まる。
引っ越す前から不安だった気持ちが爆発したように、引っ越して1ヶ月経った頃から
鬱状態・・・ノイローゼのようだった気がする。
不安、号泣、恐怖など、ありとあらゆる感情が私を支配していた。

たーぼーの療育は、こちらの市に越してからも、こちらの療育施設で続いていた。
同時に問題を抱えたお子さんとそのママたちのグループ活動にも参加した。
その中で仲良くなった友達とは、今でも連絡し合って、時々会ったりしている。

今でこそそういうことができているが、当時はそれもできないほど、私はひどい精神状態だった。
1999年1月、ついに医師の診断を受けることになる。
いわゆる精神科というものだろうか。
(その某クリニックには2001年3月まで通った。
 が・・・どうもなんだか違う・・・と思い、のちに別の心療内科に通うことになる)

先生のすすめもあり、たーぼーをその年の春から保育園に入園させることになった。
私の療養目的とたーぼーの療育を兼ねて、である。
その目的であれば、働いていなくても入園は可能だったのだ。

そしてたーぼーの保育園生活は4年に及んだ。
できなかったことができるようになっていくその姿に、私は他のお母さんよりも
涙を流すことが多かったと思う、
正直言って。
でも、他の人が体験できないような小さなことに感動できたのは、幸せなことだったと
思っている。
たーぼーが私にもたらしてくれた幸せなのだ。

保育園に通いながら、定期的に療育に通っていた。
その頻度は、以前のそれよりも少なかった。
それで大丈夫なようなことを先生に言われていたからだ。
私にも安心感があった、のだ。
が、小学校入学の前の年、先生に言われた言葉は・・・
「軽度の知的障害です。特殊学級に入ることをすすめます」。
そんな・・・!?
いきなりそんなことを言われても、私には納得できなかった。

そして・・・友達に紹介された療育病院に通うことを決心したのだ。
2003年2月、こちらの土地でのたーぼーの本格的な療育が始まった。


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