即興詩置き場。

2005年05月23日(月) さいとういんこさんのお腹が大きい5月22日



さいとういんこさんのお腹は大きい
大きく膨らんでいる
さいとういんこさんの子供が大人になる頃
僕はもう59歳だ
それまで生きているかどうかわからない
生きているつもりもないし
自信もない

夜の虹を思う。
月の輪を慕う。

魂と魂はいつもどこかでつながってわかれて
形として目に見えるものも見えないものもあって
いつか見えてくるものもあるのだろう
それまでは
僕たちは
あえて僕たちという言葉を使うならば
僕たちは
見えない場所でこそ絡まりあっているんじゃないだろうか
複雑に
とても複雑に
複雑というのは
理解できない場所にあるという意味で
あるいは
理解しようとしない場所にあるという意味で

ときどき魂の形について考える
形とは目に見える形だけではなく
匂いとか
手触りとか
空気とか
そういう形について
魂、という言葉についても考える
安易に使い過ぎてるんじゃないかということも考える
ここにある
僕の魂について

さいとういんこさんの子供はたぶん女の子だそうだ
名前はまだ決めていないらしい
エコー写真も見せてもらった
一昨日撮った写真
指をしゃぶっていた

とても良い詩のステージを観た
三人のステージだ
彼らは清らかにそこにあって輝いている
それはたとえば
何かのエネルギーが指向性を獲得して
存在として産まれ形として表出するような
そういう輝きで
それは一般にはおそらく「わたし」と呼ばれるものだ
「わたし」は
「わたし」であることは
とても特殊で貴重なのだ
彼らはどういう仕組みで「わたし」を獲得したのだろう
どういう魂が「わたし」でいられるのだろう
もし彼らがポジなら僕は
(その先は言わない)

さいとういんこさんのお腹を
僕は怖くて触れなかった
何か
汚してしまいそうな気がして

在るということはときにそれだけで平然と何かを傷つける
そんなことは幾度も体験している
傷ついたことも
傷つけたことも
数えることすら忘れてしまうほど
そうやってつながってわかれて
大きな音でちぎれていく

夜の虹を思う。
月の輪を慕う。
それは僕にとって
何かの大切な象徴だ

さいとういんこさんの子供のことを思う
僕がもう生きていない時間と場所で生きる
ほんの少し、本当にほんの少しだけ
僕とつながっているのかもしれない
さいとういんこさんの子供の魂のことを思う
時代の連環、あるいは世代のバトンタッチ
そんなありふれた言葉でよく表現される思いについて
そしてもう何万年も前から言われ続けているこのありふれた思いについて

僕の詩について話そう
技術とかそういうことではなく
僕の詩がどこにどのように在るかについて話そう
僕の詩は見ている
見ているだけで関わらない
関わろうとしない関われない
僕の詩はそこにあって
そこで生きている
それは僕がどこにどのようにして在るかとつながっている

(もし彼らがポジなら)

魂の形について考える
魂の形について考える
見えるようなつながりがいっぱある
どの魂がどのようにつながっているのか
つながりたがっているのか
そして拒絶しているのか
戸惑っているのか
そういうのがわかる
見える
見えてしまう魂の輪について
それはもう酷くわかってしまうので
加わらない
加わろうとしない
加われない
僕の魂の形について考える
あるいは
僕の詩が生きている場所について考える
どことつながっていて、
どことつながっていないかについて考える

だからこんなの詩じゃないと思っている
詩と呼ばれなくたってかまわない
垂れ流しでけっこうだ

どこかで何かを
捨てたのか、落としたのか
最初から持っていなかったのか
それはよくわからないけれど
僕の魂の形について考えてみる
たぶん僕は今
とても恥ずかしいことをしている

魂の輪は消えない
消えるのではなくちぎれるのだ
ぶちっと
大きな音でちぎれて
その音は痛みとして感じることができる
誰もが
同様に

さいとういんこさんのお腹は大きい
大きく膨らんでいる
それは魂のつながりの証であり結実だ
さいとういんこさんの子供が大人になる頃
僕はもう59歳だ
それまで生きているかどうかわからない
生きているつもりもないし
自信もない
それどころか今
もう生きていないんじゃないかって
思うこともある
たぶんどこかで僕は
僕の知らないうちに
いなくなってしまったんだと思う





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