DEAD OR BASEBALL!

oz【MAIL

Vol.196 女性選手という事件
2005年02月11日(金)

 結構古い話になるが、「欽ちゃん球団」ことゴールデンゴールスの発足トライアウトで、女子硬式野球で3年連続日本代表に選ばれている片岡安祐美(熊本商)が合格したという。

 正直なところ、ゴールデンゴールス自体がまだ海のものとも山のものともわからない面があるので、この事実が日本の野球界、さらにはスポーツ界全体にどのような影響を与えるかはわからない。が、これが一つの大きなムーブメントになる可能性を秘めた“事件”であることは、かなりのところで間違いないことのように思える。

 私事になるが、私は学生時代、大学の研究室でジェンダー論を研究するゼミに所属していた。男女問題に特別関心が強かった訳ではなく、経済学部に所属しながらスポーツ関連の研究がこじつけでもできそうなゼミが、そこしかなかったからである。

 卒業論文でも、「ジェンダーとスポーツ」をテーマに研究を進めたのだが、これが予想以上に興味深い研究になった。紙数の関係上、提出した卒業論文は競馬を主軸にしたものになったが、同時にジェンダー論の視点から立った野球も、見渡せば見渡すだけ面白い研究になった。

 「ジェンダーとスポーツ」というテーマは、使い古された言葉だが古くて新しいテーマである。

 男女間には、生物学的に宿命付けられた肉体的能力差がある。しかし、スポーツをすることが誰しもに平等に与えられた基本的人権であるならば、その意欲を拒むことは、本来許されない。だが、楽しむ為であるならともかく、競技という観点から見るのであれば、現実的な障害があるのも厳然たる事実だ。

 「ジェンダーとスポーツ」というテーマの最大の問題は、運動生理学上の観点から見たスポーツと社会学上の観点から見たスポーツの、二律背反とも言える概念的対立である。もちろん、男尊女卑という価値観が長く支配したこの国では、長い歴史の中で潜在意識下に刷り込まれた文化的定義の問題もある。

 漢字ばかりが並んで堅苦しいが、平たく言えば、最も大きな問題はスポーツというものの捉え方の対立だ。スポーツとして捉えた場合、或いはイコールコンディション下の勝負論として捉えた場合、男性と女性が何のハンデキャップも無しに同じ競技を行う事は果たして自然か、という議論に行き着く。陸上競技で、男性選手が女子選手の記録を破ったからといって自慢する人は存在しないだろう。一方、球技のテニスの世界では、女子のトップ選手でさえ、男子選手のオープンクラスには手も足も出ないとされている。

 現実的なレベルで考えた場合、現状男性と女性がイコールコンディションで戦う競技は、かなり数が限られている。私が知る限り、馬術、競艇、ヨット、競馬というぐらいのものだ。厳密に言えば、体重制限等の面で全く差がない訳ではないが、男女が同じフィールドで戦えるスポーツは、人間の身体能力が100%近い比率を占めていないスポーツに限られている。

 現状、高野連の規定では、女子は公式戦に出場できないことになっている。同じ舞台で戦う資格すら与えられないまま、片岡は高校3年間、ただひたすら甲子園を目指し、女子だからという特別扱いは一切なく熊本商の硬式野球部で白球を追っていたという。

 スポーツの世界は、決して平等ではないという前提がある。能力的には決して平等ではない、という前提だ。それは確かに当たり前すぎる事実だが、参加しようとする意思までも拒むというのは、傍から見る目にすれば厳しいとは思う。一方で、身体能力で絶対的な差があるならそれも仕方ないだろう、という気持ちもある。

 2001年5月28日、神宮球場で行われた東京六大学野球春季リーグ戦の東京大×明治大の2回戦で、東大3年・竹本恵(当時21)と、明大2年・小林千紘(当時19)の両女性投手が先発し、球史に新たな一ページを刻むと共に様々な物議を醸した。

 この現象は新しいもののように捉えられていたが、1950年に女子プロ4球団で日本女子野球連盟を結成している経緯からも、女子野球自体の歴史は新しいものではない。国内外で団体が解散を繰り返した過去もあるが、現在は日米とも定着したリーグ戦が繰り広げられている。

 日本と海外の大きな違いは、日本には軟式ボールが存在するという点。現在海外では米国を中心にカナダ、オーストラリア、香港、中華台北などで女子野球が存在するが、いずれも硬式ボールでプレーしている。国内では3つの女子野球に関するリーグがあり、高校は全国高等学校女子硬式野球連盟、大学は全国大学女子野球連盟、クラブチームは全日本女子軟式野球連盟がそれぞれ主管となり大会を開催している。

 尚、現在では女子のみで行うプロの団体、リーグは世界中に皆無で、アマのみが存在している。ちなみにオリンピック種目は男女参加が原則だが、国際オリンピック委員会により「野球=男子」「女子=ソフトボール」と規定されている。ただ、2001年に国際女子野球連盟が発足しており、女性の野球選手は今後も増えていくことが予想されている。

 国内で女性選手が男子選手の中に参加した例では他に、1995年に東京六大学野球で明大のジョディ・ハーラー投手が登板した例がある。また、1991年にはプロ野球のオリックスブルーウェーブに2人、2000年には近鉄バファローズに1人、アメリカ人女性選手がプロテストに参加した経緯がある。結果は3人とも不合格だった。

 男女の選手のボーダーレス化現象は、一部では確かに進んできている。だが、真の意味でのジェンダーフリーという面には依然程遠いのも紛れない事実であろう。スポーツの特質上、生物学的に差がある男女が完全な意味でのイコールコンディションに立つことは難しいと言わざるを得ない。

 共存は必要であるが、それと不公平のない棲み分けはまた別問題である。女性には女性のスポーツとの接し方がある。ただ、常に門戸は開かれるべきであろう。高い志を持って男性と同じ立場で戦いたい願う選手に対してその門戸を閉じることは差別的なものだろうし、その逆に女性だからという理由で不遇な冷や飯を食べさせられることもまた差別的だ。

 プロスポーツにおいては、そのパフォーマンスのみが唯一絶対の価値観だ、と私は思っている。だからこそ不条理と不平等が渦巻くこの世界で、スポーツは人間社会の一服の清涼剤としての存在意義を持ち得るのではないだろうか。

 片岡の存在が、何かしらの形で野球界に新しいきっかけを生み出すことができれば、それは素晴らしいことだと思う。ただ、「何かしら」が何なのか、そのきっかけはどんなものなのか、ということは、正直なところ私にはわからない。

 ゴールデンゴールズがどこまでこのチームに対して真剣に考えているか、という部分も、無礼を承知で言えばいまだ不透明で見え辛い部分がある。チームの性格上、話題性は確かに重要だろうが、どこまでが本気でどこまでが話題作りなのか、正直言ってその境目が見えにくいというのが率直な印象だ。

 それでも、と思う。片岡がこのチームにいることで、何かしら新しいストリームが生まれるのであれば、これは紛れもない“事件”なのだ。

 恣意を多分に含んでいることは正直に白状しておく。女子野球のことは、卒業論文の研究でそれなりに調べた。思い入れはある。

 一度、片岡のプレーをじっくり見てみたいという欲求はかなりある。プレーのレベルに、恐らく男女間で埋められない差があるのは事実だが、野球をするという枠組みにまでそれを持ち込みたくない、というのは個人的な思い入れである。

 片岡は、大学で野球を続けることを希望していたという。大学野球で女性選手が出場したことは、確かに前例がある。だが、その前例は、かなりの部分でマスコミが見世物という扱いをしたのも、率直な実感だった。そこではない別のクラブで、一人の女性選手がプレーする。野球を続ける。

 何も起こらないかもしれない。おとぎ話なのかもしれない。ただ、何かが変わるかもしれない。高野連の規定が変わるようなことがあれば、それは一大事件だ。それだけの衝撃は、女子野球という枠組みの中では、恐らく発生させることはできない。

 新しい流れを生み出すきっかけになり得る、一滴の雫であることは間違いない。だからこそ、そのことは、私にとっては紛れもない“事件”なのである。注目していきたい。



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