![]() わからない。一体どうすればあんな心境になれたのか。 昨日の日記で、勝負は厳しく、でも受け入れるしかない、と書きましたが、誰にとっても「受け入れ」難い出来事。“怪我による交代”、“PKの失敗”、“オウンゴール”……決して起きて欲しくないこうした悪夢の中でも、誰も予想すらできなかった最悪の結末がジダンを待っていました。マテラッツィを通して、悪魔が彼にささやいたとしか思えない。あの瞬間、緊張の糸が切れてしまいました。ジダンは、私のフランスを応援する気持ちの半分と一緒にピッチを去ってしまった。それでも残りの半分を奮い立たせてフランスの勝利を祈りました。後半は優勢にゲームを進めていただけに、追加点が入るのではと期待していましたが、数的不利な立場に陥ってからは、とにかくPK戦まで粘れという気持ち。アンリ、ジダンを欠いたPK戦では圧倒的に不利だとしても。 はっきり言えることは、主審がレッドカードを振りかざしてくれてよかった。もしジダンがあのままピッチに残って戦い、フランスが得点するか、PK戦で勝ったとしたら、ジダンはもっと不名誉な立場に置かれることになったはずです。少なくとも、私はフランスの優勝を喜ばなかったでしょう。そんな勝ち方は空虚すぎるし意味がない。サッカーに駆け引きは付き物で、それも実力のうちですが、あの行為は、マラドーナの「神の手」とは性質が違う。 五人目のキッカーが現れた時、はっとしました。グロッソ、グロッソ、またしてもグロッソ。頭の中を、オーストラリア戦のロスタイムに彼がPKを獲得したこと、ドイツ戦の延長後半14分で彼がシュートを決めたことが駆け巡り、三十秒に満たない間、私の中で嵐が吹き荒れました。これがどういう事だったかうまく説明することはとてもできない。グロッソは蹴った。ゴールが決まり、スタジアムが歓喜に包まれた瞬間、対照的に私の中の嵐は過ぎ去り、彼を讃えていた。これでやっと素直に、心からイタリアの選手を好きになれると思いました。とりわけ、私を最後まで打ちのめしたグロッソを。でもそれにはもう少し時間が必要。あとはただ退場したジダンのことを思いながら、PKを外したベテランのトレゼゲをアンリが慰めている姿や、大はしゃぎするアズーリの姿を眺めていました。最初からイタリアを応援していればもっと楽しめただろうし、感動もしたはずですが、涙を流し、銀メダルを早々に外すフランス選手を見ながら、このチームを応援してよかったと思いました。リベリー、ギャラス、ヴィエラ、特にアンリ。柔らかなタッチでゴール前に迫るアンリには恋をしてしまいました。 私のW杯はずっと連敗続き。今まで一度も、応援しているチームが優勝したことはありません。94年大会は最初からアズーリを応援して、今大会とは正反対の立場に置かれました。延長の末のPK負け。いつもならイタリアを応援しているはずなのに、オーストラリア戦から続く“因縁”のおかげで、今回ばかりはどうしてもできなかった。でも今日からは、ピルロやカンナヴァロ、ガットゥーゾの今後に注目したいと思います。 サッカーは残酷。世界中で何億人という人が気持ちをひとつにしていても、思い通りにならない。試合が終わるまでは約束されていることは、何一つない。三十四歳までサッカーに身を捧げてきた最大の功労者にさえ、この仕打ち。マテラッツィの挑発や、フリンクスのパンチ、クリスティアーノ・ロナウドのルーニーに対する“罠”、それらもまた美しいプレイ、感動的な場面と同じくサッカーの一部であり、カーンとレーマンの“和解”とジダンの退場劇は、その表と裏。 今大会は無謀にもほぼ全試合見ましたが、サッカーが好きでよかったと改めて思いました。この面白さ、この感動を知らずに生活するなんて、自分えの虐待だ! しばらくクラブチームのリーグ戦に注目するのを怠っていましたが、これからちゃんと見ようと思います。今、英国で大変なピンチに立たされているCロナウドの動向も気になるところ! いろんな記事を読み漁っていて、こんな愉快な台詞を発見したのでご紹介。 「サッカーに勝るものなんて世の中にないさ。宗教はいっぱいあるけど、みんなが信仰できるものは世界に1つしかない。それがサッカーだ」byフアネス いくつか紹介したい記事があるので、また後で書きます。
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