diary/column “mayuge の視点
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最終回です…回顧録第六章

第六章 決断

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人生の転機

 その後、社会人三年目を終えようとするマユゲにとって、ひとつの転機が訪れる。

 会社の規定上、ちょうど三年目の終わりの時期から受けることができる、社内転局試験の受験資格が得られたのだ。「石の上にも三年。何ごともある程度の期間やってみなければ分からないはず。辛いのは何処へいっても同じ。今やっていることの辛さから逃げ出すことだけは止めよう」。そう思って営業の仕事をやってきて、また逆に言えばそう考えることで将来のことを考えるのを後回しにしていたフシのあったマユゲも、ここを転機と捉え、この試験にエントリーすることにした。

 希望異動先は、クリエイティブ・セクションである。なんとなくであっても、もともとこの業界への就職を考えたのは、CFをつくるというクリエイティブの部分に魅力を感じていたわけで、この試験を受けることはマユゲにとって、ごく自然な選択だった。

 しかし結果はNG。今、振り返ってもあのときの課題に対して自分が提出した案はつまらないものだったと思う。しかし、この後死ぬ気になって再チャレンジしたかというと、そうではない。この会社の営業としてクリエイティブの仕事を見てきたのだが、何としてもそこに移って仕事がしたいという思いは結局最後まで持てなかったのだ。ここが自分の中途半端なところであり、「自分は逃げているのではないか」と何度も自分自身に問い掛ける原因となった出来事だった。

 時を同じくして、また異動の話が持ち上がる。当時の局長は、マユゲ的には何処にいきたいかを一応聞いてくれたのだが、マユゲは「営業ならば自分の中ではどこでも変わりはありません」と答えた。そしてフタを開いてみれば、マユゲの配属先は、社内でも忙しさナンバーワンの呼び声高い、某化粧品会社S担当のチームであった。

 実際異動してみると、さすがに当社メインクライアントのひとつであるこの化粧品会社S担当チーム、大人数で、しかも優秀な人物揃い。そのうえ現場・管理職を問わず、超ド深夜まで皆さん本当によく働くのだ。当初は、よりによってとんでもないところに来てしまったものだと内心思った。ここの部署で、結果的には二年近くに渡って仕事をすることになるのだが、ここでの経験は、マユゲにとってさらに貴重なものだったと思う。

 「きっと、もの凄く大変に違いない」と覚悟していたが、本当に大変で、もう笑うしかなかった。特に最初の一年間は、飛ぶように過ぎた。その中で、自分的にはその前の三年間分以上成長できたのではないかと感じる。何より、ここへ来る前に営業から出ようとしたことをカミングアウトしていたことで、自分的にそれなりに吹っ切れるものがあったからなのだろう。

 ペアを組む上司にも恵まれた。仕事の面で求められる諸要素を見事に備えているタイプの人なのだ。頭の回転が速く、恐ろしいほどの行動力。そして几帳面で、忍耐強く、冷静で、クライアントにもしっかり主張を通しつつ、相手の機嫌を損ねないコミュニケーション上手。マユゲに足りない部分をことごとく見せられているかのようで、とても刺激になり、勉強になった。怒らない人なのだが、逆にそれが怖くてこっちも一生懸命頭を回したものだ。マユゲの、気遣いの足りない、時に少々生意気な言動も、全然気にせず面倒をみてくれた。

               ◇

神様がいま考えろと言った

 Sチームでの嵐のような一年間が過ぎたころ突然、入社以来初めて、忙しさの波が退いた。

 早く帰ることに慣れていないマユゲは当初少々困惑したが、ちょうど自分について考える時間を持つことができたわけだ。これも神様の計らいだったのかと今になって思う。自分はどういう人間なんだ? 自分はどう生きたいんだ? 自分が大切だと思うことがおろそかにされる生活に流されていないか? 本来の自分は、そんなこと別に大事と思わないと感じることに躍起になってないか? このままでいいのか? いやなら、一体いつ行動を起こすんだ? その行動とは一体何なんだ?

 おぼろげながら考えついたプランについて、男女を問わずいろいろな年代の友人に相談をした。カズンドしかり、新田祥司しかり、麻生哲朗しかり、フジモトしかり、そのとき惹かれていた尊敬できる素敵な女性しかり……。この少し前だったかと思うが、ホームページでこの「mayugeの視点」を始めたのがちょうどこの頃であった。いろいろなことを話し、書き、そして考えた。

 湯屋泰宏と多摩川河川敷グランドで仰向けになりながら話し(4月27日)、映画『ルディ』を見て感動し、麻生の勧めで見たドラマ『白線流し』に「激しく感情移入」し(6月11日)、高校時代の友人と会い、当時を振り返り(6月21日)、女の子のスカートをきっかけに自分を諌め(6月23日)、会社外の同級生女子ご意見番フジモトにプランをぶちまけ意見をもらい(7月5日)、自分でやりたいと意志を持ったことを、一人の力で成し遂げられるかをまず試すべく、キナバル登山を計画し(8月13日〜)、その準備として富士山頂を単独行で極め(7月16日)、二十代最後?の恋をし(7月26日)、大学アメフト時代の友人の近況に思いを馳せ(8月28日)、シドニー五輪で「意志の力」というものを改めて認識し(10月5日)、アニキの応援歌に勇気をもらった(10月22日)わけである。

 こうして様々なきっかけで自分を見つめなおし、将来を考え、その中で、会社員生活からの「卒業」を決意するに至ったのだった。人生、生きられる時間には当然限りがある。その人生の中で、毎日を生活していく以上、その糧を支えることになる「仕事」にかける時間は大きなものとなるだろう。そして自分は社会人五年目。これからはどれだけ仕事に「意志」をもって取り組めるかが、残された人生の充実度に直接影響を与えることとなるだろう。だったらこのままでは駄目だ。このまま毎日に流されて「これは自分がやるべき仕事ではない」という中途半端な考えを抱えながらやっていくことは、まわりに迷惑をかけるだけでなく、他でもない自分に対して裏切りをはたらくこととなる。このまま行ってしまえば、いつか後悔するときが来る。幸い自分は結婚もしていないし、節目と考える三十歳までに残された時間があと三年ある。今しかない。そう考えたわけである。

 そこでマユゲの今の「意志」を大切にできる、これからのプランに行き着いたのだ。そのプランというのは、ただ聞くと、とても安易で無計画で甘えたものに聞こえる代物。実際きっとそうなのかもしれないとも思うが、しかしそれは、9月5日をもって二十七歳となったマユゲが、それまでの人生経験をすべて踏まえた上で、会社を辞め収入を失う上に借金までするというリスクを犯してでも、今やりたいという「意志」の持てることであったのだ。これまで夢は何かと問われても何も答えられなかった自分が、初めて夢を持てたと自信をもって言えるものだった。

 誕生日を少し過ぎたある週末、マユゲの考えを両親に説明するため、実家に帰った。意外に冷静に、そして思いを込めて、ほぼ正確に自分が考えるプランと、それに至るまでの思考の流れの全てを話せたのではないかと思う。母親はショックを隠しながら、その後の人生や体のことをしきりに心配してくれた。マユゲはそのとき母親の顔に否定しようのない老いを認めてしまった。今まで散々苦労をかけてきた挙げ句、この歳になってまた心配をかけてしまう自分を責めずにはいられなくなった。一方、父親は一言。「お前の話を聞いて、お前が逃げているのではないということが分かった。俺は全面的にお前のやろうとしていることを応援する」。

 若くして子供を持ち、ある面では自分を犠牲にしながらも、教師というひとつの職業を勤めあげてきた父親から、この言葉がでてくるとは正直驚いたが、同時にその懐の深さに改めて尊敬の思いを強くした。自分の職業に誇りを持ち、世間がなんと言おうと自分が正しいと信じた道を突き進む父。俺もそうなりたいよ。立派な両親に対して、このだらしのない子。本当に頭が上がらないが、これが最後だ、やらせてくれ……。

 その夜はかつて自分が使っていた部屋に寝たのだが、その壁には、父が貼ったのだろうか、いつの間にか見慣れない大きなポスターがあった。それは、雄大な南アルプスの山々を遠くに望むどこか片田舎の駅の風景写真を一面に使った、旅情を誘うJRのポスターだった……。

               ◇

意志伝達

 両親への報告を終え、次は会社への意志伝達が大きな問題であった。くしくもこのタイミングというのが、マユゲが所属するSチームが、参加していた大型のプレゼンを立て続けに落したり、長年Sチームの頭脳として活躍してきたベテランの転出が決まったりと、部長にとってはまさに厄年となっていたときだった。明らかに気力体力限界のところで仕事をし、それでも前向きに頑張っている部長に、事前の相談もなく突然退職の意向を告げるのは、非常に躊躇われた。

 まず、ペアを組んでいる上司に意志を伝えた。これでも精神的には一苦労だったが、次は部長に話さねば……。諸処の状況を鑑み、後になればなるほど、かける迷惑が大きくなると思い、断腸の思いでその数日後、部長に切り出した。部長は、相当面食らっていた様子であった。だがそのあと、とても温かい言葉を返してくれた。「それはお前の人生。個人的には応援してやりたい。でも、すぐにというのは勘弁してくれ……」。

 意志を伝えたのは9月であったが、これまた業務上の諸処の都合により、結局、退職日は世紀を越し、2001年1月末日ということで落ち着いたのだった。当初は12月いっぱいでの退職を希望していたマユゲとしても、納得しての決着だった。

 そして何よりも寂しい思いだったのが、リベンジャーズを離れること。こんな自分だって、何かやれるに違いないという自信を持てたのは、リベンジャーズ・ディフェンスキャプテンとしての経験によるところが大きかったと思う。リベンジャーズを離れることを決心し、より一層の気合で取り組んだ2000年秋のシーズンが残念な結果に終わったことは、本当に、本当に悔しい。でもこれは、神様がまだまだと言っているのだ、と捉えよう。帰って来てからも参加できる体でいられるだろうか? 自分の後に続く「ヤング・リベンジャーズ」の面々に、自分のハートは伝わっただろうか? リベンジャーズの遺伝子は受け継がれただろうか? その答えは今後のリベンジャーズの活躍にみることとしよう。

               ◇



 こうして考えてみると、自分は実に多くの人に支えられて生きてきたんだと、つくづく思う。本当に感謝している。そのひとり一人に今の自分が抱えている思い、「プラン=夢」を正確に伝えることは難しい。ただ、できる限り伝えてから、次の一歩を進めたいと思っている。

 そのプラン=夢とは、世界放浪の旅、である。

 約二年間かけてアジア、ヨーロッパ、アフリカ、オセアニア、アメリカ大陸を旅する。その一連の旅程の中に、ワーキングホリデーというかたちで海外に住むというチャレンジを織込むつもりだ。その間に達成しようと思っているのは、語学のブラッシュアップだけ。敢えて、帰って来てからどんな仕事に就くかは決めずに旅する。その中で、こんな人に会った、こんな物をみた、こんなこと考えた、というような自分なりのフィルターを通して吸収したことを誰かに伝えて、そこから何かを感じてもらいたい。これが、今やりたいことの全てなのだ。

 ささやかな、ドキュメンタリー。そこには文があり、絵が必要となるだろう。このホームページでやってきたことの延長で世界に飛び出す、そんなイメージだ。この旅をする中で、農業をやりたいと思ったり、教師になりたいと思ったり、はたまた坊さんになりたいと思ったり、やっぱりまた会社員になりたいと思ったりするかもしれない。

 今これだけの、時間的にも経済的にも贅沢なときを過ごそうとしているわけであって、この先どの道を思うにしても、三十歳を目前にするマユゲにとってその道は相当に厳しいものになるに違いない。ただその道は、「意志」を持って人生を賭けられるものにしたいと思っている。そしてその責任は、すべて自分にあるのだ。再び果てしなく広がる自分の将来の可能性と、同時に感じる「後の無さ」に身震いする思いだが、今、言えるのは、自分のこれからの人生が「楽しみ」だと思える、そして、初めてしっかりと前を向いて生きていると思えるということ。「楽しみ」とは困難とセットになって存在する、ということは、短いながらも今までの人生で勉強したつもりだ。

 先日、クライアントに通う地下鉄の駅のホームで、日経新聞の看板広告が目に留まった。そこには、こんなコピーがあった。

 「あなたは何を見て21世紀を生きますか?」

 その看板を前に、スーツ姿のマユゲは心の中でこう言い返してやった。

 「世界を見て生きてやるぜ!」

(おわり)


※12月31日をもって「mayugeの視点」2000年版を終了しました。

2000年12月31日(日)

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