堀井On-Line



7589,閑話小題 〜娑婆の喧嘩作法

2021年12月06日(月)

   * 喧嘩のベースは‘相討ち’…
 喧嘩と言えば、まずは先手必勝… そして差し違いの相討ち… 
何があっても、これさえ知っていれば腹が坐る。今度の地元の県議と国会議員の
トラブルは、テラ銭狙いの行違いになる。長岡城下町の古狸と、元県知事の恩讐
のかなたの感情の縺れ。当然、テラ銭が貰える算段だった古狸が、まさか音声を
録音されているとは思ってなかったが、スレッカラシの中古狸にしてやられて、
逮捕の可能性も出てきたことに…まさかメジャー問題に発展するとは思っても
いなかった! 見ている分には面白いが。不景気の最中、利権確保が難しく
なったということ。2〜3000万は、それは大変な金額。 検察と警察が、前回の
汚職で御本尊の身柄をおさえなかった失態が問題になって然るべき。 
これは地方狸の問題だけではない。これで御本尊… 致命的打撃だろうが… 
その言訳が奮っている。その弁とは…
<他にも数多く話した一部分でしかない。削され、再構築された内容!>
政治家同士の会話、いや対話を録音し、逆に脅し返すなど風上にも置けない、
行為であるが… <県政では通っても、自分が国政に携る身分にくら替えした
ことさえ、知らないとは、好い加減にしろ!>が道理だろうが… 既に故人だが、
以前は国会議員に、公共工事に口出しテラ銭稼ぎをする、この類の人物がいた。
当初は、高邁な理想を持った人物だったが… 
「政治は、一にカネ。二に金、三にカネの世界。」綺麗ごとで済まされない。
 若かりし時節に、父から面白い話を聞いたことがある。
<町内で、ある陳情を頼んだ時に、秘書と称する紳士然とした男が、期日のない
何枚かの空手形を持ってきた。当然、それは、永遠に落とすことはない贈与、
収賄の第一歩。>  受け取れば収賄になると受け取らなかったと…
 城下町なるが故に年内は尾ひれ端ひれのついた内幕情報が交差することに…
政治家の二人の会話の大部分が <代議士を何も今さら…>になる。 
町内会には、この手の男たちが手を拱いて… まあ大らかな地方都市の、
イカレタ物語である。

・・・・・・
7233,閑話小題 〜『ゲシュタルト療法』について…
2020年12月06日(日)
   * <ゲシュタルトの祈り​>
 この祈りについて、ここでも幾つかテーマの中で取上げていた。
これはパールズが作ったゲシュタルト療法の思想を盛り込んだ詩で、
彼はワークショップでこの詩を読み上げることを好んだ。
 ―
【 私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。
 私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。】
 この詩は、ゲシュタルト療法を始め多くのカウンセリング療法の精神や
哲学をよく表しています。
何かの犠牲になることなく自分を大切にすること、他人を尊重すること、
健全な人間関係はその上に成り立つという事を語ってくれていると思います。
その線引きがうまくできずに苦しんでいる人にとって、この詩は救いになるはず。
この詩に出会って生きるのが楽になったという人も多いです。
 ―
  ♦ ゲシュタルトの祈り」(その他の日本語訳)
◉ 「私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。
私は何もあなたの期待に沿うためにこの世に生きているわけじゃない。
そして、あなたも私の期待に沿うためにこの世にいるわけじゃない。
私は私。あなたはあなた。
でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ」
◉ 「われはわが事をなさん。汝は汝の事をなせ。
 わが生くるは汝の期待に沿わんがために非ず。
汝もまた我の期待に沿わんとて生くるに非ず。
汝は汝、われはわれなり。
されど、われらの心、たまたま触れ合うことあらば、それにこしたことなし。
もし心通わざればそれもせんかたなし」(国分康孝訳)
 ―
▼ < 和同… 「和して同ぜず」「人は人。我は我。されど仲良く」
 など、古来より、日本には似たような言葉があった。西欧の基本は個人主義。
唯一絶対の神様(アッラー)と個々人の関係が、まず有って、その契約を互いに
尊重し合うベースある。 日本人の「世間主義」が、まず、群れの意思が優先
され、そこで思考停止が必要となり、群れの一員として組込まれる。
それが嫌なら、一匹狼として、その外郭に自ら出るしかない。これが難しい。
ただし、距離を決めて、遠吠えをして、互いに近寄らないこと。 群れると、
ヘドロ化した自らに、辟易してるが故に、遠吠えに怯えている。このコロナ禍は、
大きな問題を投げかけている。社会的距離が、まず求められる。この距離感が、
国、民族、宗教により大きく違っている。そこに、スマ―フォン、タブレットと
くれば、混乱して当然。個々が、それぞれの情報を発進し始めたから、問題は
複雑になる。

・・・・・・
6840,映画評 〜『体操しようよ』
2019年12月06日(金)
 先日のこと。 近くのSJから帰ってきた30分の一間。家内も川西のSJから
帰ってくる直前のフッと空いた時間帯。 何気なくWOWOWにチャネルをまわすと、
軽そうな…『体操しようよ』が放映されていた。 
 定年退職の堅物の初老の男の節目の狼狽するファンタジーモノ。
何とも、何処にもいる儚い男の姿。
【 ひょんなことから地元のラジオ体操に通うことに…
 そこで起こる様々なハプニング。私にとっては近所のスポーツジムにあたる。
平日(10〜17時)会員の時間帯は、主婦、夜の御勤め女性と、定年後の老人が主。
群れたがる人、私のように誰とも話さない人、誰もが実に楽しそうだ。
 このSJのうたい文句が『初心者向き』。 映画の背景と似ている。そこから
覗きみえるのが、それぞれの人生模様。平凡の日常の中で起こる軋轢、背負った
過去と孤独が、これまた味わいがあるようだ。田舎町の平々凡々の生活の中の
味わいが何とも… 
≪  ー映画解説ー
 草刈正雄が7年ぶりに映画主演を務め、定年退職を迎えたシングルファーザー
の主人公が、ラジオ体操を通じた仲間作りや家庭での主夫業に奮闘する姿を描く
ハートフルコメディ。「ディアーディアー」「ハローグッバイ」の菊地健雄監督が
メガホンをとり、草刈演じる主人公の娘役で木村文乃が共演した。
 :妻に先立たれて18年、娘と二人三脚で家庭を営んできたつもりの佐野道太郎
だったが、定年退職後、娘から突然、家事全般を任されてしまう。加えて、娘に
結婚を考えている恋人がいることを知り、ショックを受ける道太郎。
 自由な時間を持て余すため、ひょんなことから地元のラジオ体操に通うことに
なった彼は、体操会の会長や子どもたち、ご近所さんなど、さまざまな世代の
人々と関わりを通じ、それまで知らなかった世界を知っていく。 ≫
 ―
▼ 8年半前に31年間、手掛けた事業から撤退。準備期間を含め45年の事業生活も
 アッサリ終わってしまった。 事業は新潟駅前、家庭は長岡駅裏と職住を分けた、
ある意味、理想的二重生活であった。それが、今度は閉鎖的城下町・長岡の駅裏
での閉ざされた生活。 70キロ圏から、5キロ圏の縮小した池の生活。
そこで見えてくる様々な人たちの生態は、私のあい知らない世界である。 
 誰も、自分の経験と知識以外は知らないことが、分ってないなるが故の歪み。
それがそのまま、合せ鏡の自らの姿として直視せざる得ない現実の日々…。
止せば良いのに、そのまま、このブログに描写…  
 この『体操しようよ』は、私には、そのまま現実。半年前までの8年間のSJは、
週5日、ほぼ皆勤。 このままでは健康そのもので、早々、死ねないと… 今年
から週4日にしたが、同じようなもの! 
 私の知る限り、人生計画を建ててきた人は少ない。 それも人生としても、
波風が少ない環境が、そうさせているのか? ジム通いをしている私も、
〔首輪を付けた紐を引きづって群れているに過ぎない〕…ということ。
死んで三日も経てば、皆、同じ。生きているから、違うからこそ味が出る。 
 一世代上の男たちの行末は、本人と、その群れの崩壊。それでも死ぬまでは
生きていかなければならない。<その刹那を、味わうしかない!>ことになる。

  〜で、以下に続く…
 もちろん、これも偶然の不思議である。
同月同日の過去文を読み返すに、全てが、現在の自分を取り囲んでいる言葉。
なる程、これが「自らの分』そのままである。とすると、死んだとしても、
暫く、「自分」は、これらの言葉、メルクマールが、残る…? 

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6476,閑話小題 〜居間の晩酌の味わい
2018年12月06日(木)
   * 独りの味わい
☆ 毎朝、4時前に起床し、この文章を書いたり、翌日分のテーマ探しをした後に、
 (3月末〜11月末)信濃川の二つの大橋を一周のポタリングに一時間かける。
その後、朝食をとり朝風呂に入るが、これも慣れてしまうと至福の時間になる。
独りの世界に嵌るため。それが、過去文の文章に、そのまま現れ現在の自分に
語りかけてくる。
 夕方には17時から18時半まで居間で、iPadかTVを見ながら独り晩酌をする。
この時間も朝の時間帯と同様に至福の時間。 この習慣も、8年近くになるが、
そうそう長くは続かないことが分かっていればこそ、独りの至福時間を味合う
ことが出来る。また、午前中の、合間の読書時間も孤独の最たる時間になる。 
孤独は時空を超え、作家、思想家との魂の交流が可能になる。 この4月から
続けてきた早朝の、信濃川の土手沿いの自転車散歩も、今年分は終わりつつある。
昼の晴間に隔日位に12月半ばまで何とか行く。 これは精神の毒素を吐出して
くれるため、可能な限り続けている。これから毒素4ヶ月分が蓄積する…
ヨガとか、海外ツアー、週一のシネマ通いも、毒消しになっているが、ミニ・
チャリの習慣も効果的である。そのため、「毒素にやられた病人の程度が直感
で察知できるという想いこみ」が私に確かにある。 精神の毒素も必要。

☆ 緩やかな落ち着いた時間の中で、突然、過去の不快なフラッシュが湧き上
 ることがあること屡々。ソクラテスが、知識人と自認している人達にとって
耳の痛い人たちに、「無知の無」など、説教したため、怨まれ、非難されても、
平然としているため、知人が理由を聞くと、「ロバに嘶かれて、腹を立てる者
がいるかね」と宣ったとか。孤独の世界に住む者にとって、嘶きに対し、孤独
の壁の修正などの手入れが必要だが、耳を貸す必要など一切にないのである。。 
群れ犬には、孤独、孤立ほど辛いものがないが、一匹オオカミにとって、
孤独世界こそが至福の唯我独尊の世界であるためだ。

・・・・・・
6111,閑話小題 〜「山椒魚」の悲しみ!
2017年12月06日(水)
   * 山椒魚と「わたくしめ」
 井伏鱒二の『山椒魚』を読み返し、「人生とは、それぞれが谷川の岩場に閉じ
込まれて終えるだけのことか」と、学生時代に受けた衝撃を思いだした。あれから
50年が過ぎ、齢70年を2年も過ぎた。必死に岩場から這い出て、様ざまな岩場を
彷徨ってみた。思いの外、面白かったが、中途半端な彷徨いだったことも事実。
人生の黄昏時期に改めて読み返すと、なかなか味わい深い。ネットで「山椒魚」 
「あらすじ」で検索すると、簡潔にまとめた内容があった。
≪・谷川の岩屋をねぐらにしていた山椒魚は、あるとき自分が岩屋の外に出られ
 なくなっていることに気がつく。二年の間岩屋で過ごしているうちに体が大きく
なり、頭が出入り口に「コロップの栓」のようにつかえるようになってしまった
のである。ろくに動き回ることもできない狭い岩屋のなかで山椒魚は虚勢を張るが、
外に出て行くための方途は何もない。彼は出入り口から外の谷川を眺め、メダカの
群れが先頭の動きにあわせてよろめいているのを見て嘲笑し、渦に巻き込まれて
沈んでいく白い花弁をみて「目がくらみそうだ」とつぶやく。
・ある夜、岩屋のなかに小海老がまぎれこみ、山椒魚の横っ腹にしがみつく。
山椒魚を岩石と勘違いして卵をうみつけているらしい。しきりに物思いにふけって
いるらしい小蝦の様子をみて山椒魚は、屈託したり物思いに耽ったりするやつは
莫迦だと言う。しかし山椒魚がふたたび出入り口に突進し、栓のようにはまり
込んだりといった騒ぎをはじめると、はじめは狼狽していた小蝦も失笑する。
・その後、山椒魚は外へ出ることを再度試みるが徒労に終わり、涙を流して神に
むかって窮状を訴える。彼は岩屋の外で自由に動き回っている水すましや蛙の姿
を感動の目で眺めるが、そうしたものからはむしろ目をそむけたほうがよいと
考え目蓋を閉じる。彼は自分が唯一自由にできる目蓋のなかの暗闇に没頭し、
寒いほど独りぽっちだ、と言ってすすり泣く。
・悲嘆にくれるあまり「悪党」となった山椒魚は、ある日、岩屋に飛び込んで
きた蛙を閉じ込め、外に出られないようにした。蛙は安全な窪みのなかに逃げ込ん
で虚勢を張り、二匹の生物は激しい口論を始める。二匹のどちらも外に出られず、
互いに反目しあったまま1年が過ぎ、2年が過ぎた。蛙は岩屋内の杉苔が花粉を散ら
す光景を見て思わず深い嘆息を漏らし、それを聞きとめた山椒魚はもう降りてきて
もいいと呼びかける。しかし蛙は空腹で動けず、もう死ぬばかりになっていた。
お前は今何を考えているようなのだろうか、と聞く山椒魚に対して蛙は、今でも
別にお前のことを怒ってはいないんだ、と答える。
―(注)明日どうなるかわからない無名作家だった井伏鱒二が生活を続けていた。
「山椒魚」の冒頭近くには、「人々は思ひぞ屈せし場合、部屋のなかを屡々、
こんな具合に歩きまはるものである」という文があるが、「山椒魚」はこのような
作者の生活、世に出られない焦り、そして時代の閉塞からくる「思ひぞ屈した」
状況を反映しているものと考えられる。そのような「思ひぞ屈した」感情はまた
井伏の初期作品に共通するユーモアの基底をなしているものでもあるが、しかし
中村光夫は井伏と「山椒魚」を次のように述べている。<氏の「思ひぞ屈した」
憂鬱は、この醜い両棲類に代置されることで、明瞭な形を与へられ、自己を限定
され、理想化されたので、この点では氏の後の小説のどの主人公も、この一匹の
山椒魚に及ばないのです> ≫

▼ 初老性鬱症も、こんなものか? このブログにも、そのままの屈折が色濃く
 出ている。「日々、是、口実」の一つになるが、<井の中の蛙大海を知らず」+
「されど空の深さ(青さ)を知る」というが、狭い岩場にいても、空が雄大なことを
知ることができると? 人生を振返るとき、限りないエネルギーを私という器に
閉じこめら、山椒魚のように鬱屈した己を省みて涙する。また夫婦間の軋轢も、
似た(妻=蛙)ようなもの。お互いの首を縛りつけた紐を持ち合い、締付けあい、
罵声を投げあう。蛙を他者として、色いろな人を当てはめると、これまた面白い!
「誰?」「あ・な・た」 いや「めだか」に… もちろん、冗談です。
ノイローゼにも… 自殺もしたくなるわ、屈折もするわ… そこを何とか?
「にっこり笑って、ハンカチーフ」が、人生のコツ。最近は、B級グルメを食べ
ながら… が効果的と気づいた。まあ、可愛いものである。
 蛙が死んだ独り身は、それはそれは寂しい孤独と、孤立が待っている。
生臭い「死」と「生」の境目にある岩場の中の生きものの感じる孤独とは?
「呆けていなけば、やってられません」ということで… お後が宜しいようで。
――――――
2011年12月06日(火)
3907, ルソーの孤独
 2009年12月1日の随想日記「人生に関する小題」の中で、
現在の私を予感させる文章があった。
≪【 わたしは地上でたった一人になってしまった「孤独な散歩者の夢想」は、
 64歳のときに書き始め2年後の死ぬ直前に終わった文章、ルソーの絶筆である。
「第一の散歩」から「第七の散歩」まであり、その後「八、九、十」がメモの
ような文章が続く。冒頭で、「こうしてわたしは地上でたった一人になった。 
人なつっこい人間でありながら、万人一致の申合せで人間仲間から追い出されて
しまったのだ・・ わたしは、かれらから離れ、すべてのものから離れたこの
わたしは、いったい何者か」と問う。「自分に残されたことは、すべての世間から
放逐された自分はいったい何者なのかを探求することだけなのだ」と自覚する。】
私の周辺の倒産時の男たちの気持ちは、まさに、このようだ。多くの取引先、
部下を路頭に迷わせ、自分の存在の卑小さと、嫌らしさに自己嫌悪を独りする。 
自分は何者なのか? ただ、歩くこともままならぬ、折れてしまった、
これ(私)!である。≫
▼ この文章を書いたのが二年前。そこから、清算を決断するまで売上下降が続く
とは夢にも思わなかった。そしてトドメが東北大震災。税理事務所の30年来の担当
Jさんが、「初めは気が張っているが半年も過ぎれば、ジワジワとボディーブロー
として効いてきますよ!」と忠告してくれた。地方の大方の会社に、この大不況が
直撃していることも事実。大津波の前兆の波が、特に敏感な立ち位置の当方に先に
直撃したが、本体の波が来るのは今年から来年にかけて。
(但しG20が時間稼ぎをして来年に先送り)どのようにシュミレーションを
しても、本体の津波がやってくれば海岸線に近い三次産業、輸出関連産業は、
致命的大打撃を被る。ところが津波に一番危ない会社ほど、大津波に気づかず
高台に逃げていく人を嘲笑う? ルソーの孤独感は、独り死に直面した時に
誰もが経験することになる。ネット上にブログを10年間書き続け、墓としての
思いを入れ続けてきたので、ルソーの孤独感は無い。しかし、この10年間に
多くの友人知人が亡くなっている。亡くなる直前に、ルソーのような絶望的な
孤独感にさい悩されたはず。  このルソーの孤独は、虚無という真っただ中
に漂う私が、壊れていく恐怖が伴う。談志も死を前に強がりを言っていたが・・

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