| 6632,読書日記 〜『『無知の科学』だってさ! −5 |
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2019年05月13日(月)
<『知ってるつもり――無知の科学』 スティーブン スローマン,フィリップ ファーンバック(著)> * 未知の未知 ・21歳時に初めて一ヶ月間の欧州旅行で経験したのが「未知の未知」。 欧州は石の文化。世界史そのままが遺跡として、そのまま現存する世界。 「世界は「知らないこと、想像を絶することで満ちている」ことすら知らな かったのである。世界史の教科書の写真が目の前の突きつけられ衝撃は、無知 たる自分に未知を知らしめてくれた。カナダのロッキーの広大な景色に触れた 時の驚愕。『 ここは地球上? これを目の当たりにしないで大部分の人は 死んでいくんだ。全てを投げうっても、経験すべき光景。良かった!』 感動とは「未知の未知」に、その人を導いてくれる。
ここで… <・物事には、「自分が知っていると知っていること」、既知の知。 ・「自分が知らないということを知っていること」、未知の知。 ・さらには「自分が知らないということを知らないこと」、未知の未知がある、 とアメリカのラムズフェルド長官は言っている。> と。 未知である認識がないことには手が打ちようがない。知らないということ 自体がわかっていないのだから事実上お手上げ。
・ダニング=クルーガー効果の原則がある。、 < 能力の低い人物が自らの容姿や発言・行動などについて、実際よりも高い 評価を行う優越の錯覚を生み出す認知バイアス。この現象は、人間が自分で 自分自身の不適格性を認識することができないことによって生じる。 「優越の錯覚を生み出す認知バイアスは、能力の高い人物の場合は外部(=他人) に対する過小評価に起因している。一方で能力の低い人物の場合は内部(=自身) に対する過大評価に起因している。」とする。若い女の思い入れ深い自己評価 の過剰な差異などに見られる。
・この研究で、「与えられた活動の評価基準への無知に由来する自己評価の誤り」 の多さを示している。自身の能力に対する過大評価の傾向は、読解や診療、自動車 の運転、チェスやテニスの試合など様々な場面で見られた。また、この効果を定義 したデイヴィッド・ダニングとジャスティン・クルーガーによって2012年に行われた 「なぜ能力の低い人間は自身を素晴らしいと思い込むのか」という調査によれば、 能力の低い人間は以下のような特徴があることが分かった。 〜自身の能力が不足していることを認識できない 〜自身の能力の不十分さの程度を認識できない 〜他者の能力を正確に推定できない その能力について実際に訓練を積んだ後であれば、自身の能力の欠如を認識できる。 キャリア組の高速配転による育成は、それで、自分の能力不足を埋めるためにある。
・・・・・・ 6265,閑話小題 〜「これ以上はいけない」と宣告する境界線 −2 2018年05月09日(水) 《『街場の読書論』ー歩哨的資質についてーより》 * 歩哨的資質ですか! 聖地や秘境との邂逅の場で、何やしらかが、「これ以上、立入るな!」と 無言の得体のしれない何かを感じたこと屡々。その時々に私の知っていること など、ほんの僅かで、圧倒的未知の世界の一部から得る啓示に慄然とする。 <「存在しないもの」と「存在するもの」のフロントラインにおけるふるまい> とは、分かりやすい表現である。人間は未知とのフロントを守護する歩哨ですか。 考えさせられる内容のため、全文を数回に分け紹介しながら考えていく。 ――
≪毎日新聞社が高野山金剛峯寺で開いているセミナーで一席おうかがいしてきた。 「公共性の再構築」という演題だったのだが、それは3・11以前に出した ものなので、もう少し踏み込んで「社会制度の作りなおし」というテーマで 70分お話しする。 このところ繰り返し述べている「存在しないもの」と「存在するもの」の フロントラインにおけるふるまいということをまた申し上げる。
私たちの世界は「存在しないもの」に囲繞されている。 宇宙の起源を私たちは知らないし、宇宙の果てに何があるか (というより「何がないか」)も知らない。 時の始まりを知らず、時の終わりを知らない。 『ヨブ記』で主はヨブにこう問う。
「わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。 あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。 あなたは知っているか。 だれがその大きさを定め、 だれが測りなわをその上に張ったかを。 その台座は何の上にはめこまれたか。 その隅の石はだれが据えたか。 (・・・) あなたは海の源まで行ったことがあるのか。 深い淵の奥底を歩き回ったことがあるのか。 死の門があなたの前に現れたことがあるのか。 あなたは死の陰の門を見たことがあるのか。 あなたは地の広さを見きわめたことがあるのか。 そのすべてを知っているなら、告げてみよ。」(『ヨブ記』38:3−18) ヨブはこの問いの前に絶句する。
私たちは私たちの生きているこの世界の「外部」についてほとんど何も知らない。 私たちは私たちの手持ちの度量衡では考量できないもの、手持ちの言語では 記述できないものに囲繞されている。 私たちが理解できる世界と、理解を超えた世界のあいだには目に見えない境界線 がある。 「存在するもの」と「存在しないもの」のあいだには目に見えない、 手で触れることもできない境界線がある。けれども、その境界線を守護するのは、 私たちが「人間の世界」で生きてゆくために必須の仕事なのである。 誰かが境界線を守護しなければならない。 『ヨブ記』においては主がその仕事を担っている。 主はこう言う。
「海がふき出て、胎内から流れ出たとき、 だれが戸でこれを閉じ込めたか。 (・・・)わたしはこれをくぎって境を定め、 かんぬきと戸を設けて、言った。 『ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。 あなたの高ぶる波はここでとどまれ』と。」 (『ヨブ記』38:8−11)
「存在しないもの」に向けて「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上は いけない」と宣告する境界線がある。 高野山の奥の院に足を踏み入れたときにも 「フロントライン」に近づいた感覚がした。 弘法大師がそこでとどめた「高ぶる波」の微かな波動が感知された。 聖域というのは、そこで完結している場所ではなく、何かとの「境」なのだ。 機能的には「かんぬきと戸」なのだ。 〜つづく ≫ ― ▼ カナダに初めて行って、ロッキーの景観に圧倒され自失茫然とした。 その時の内なる声、「もしかして、これを見ずして死ぬところだった! とんでもない! 夜半8時過ぎの薄暮のなか、バンフのレイクルイーズの周辺を家内と散策した 時のこと。家内が疲れ果て帰った後、更に独りで湖畔を歩いていると、何やしら リスやカワウソ、ビーバー、鹿?などが威嚇する鳴き声。それでも女性一人が、 次々と帰ってくるのに励まされ歩いていると、今度は雷音が、「もう帰れ!と 言わんとばかりに聞こえてきたため、Uターンをして帰った。 世界的カーレーサーの明言、『限界までは誰でも行ける。問題は、その先、 どの位行けるか!』。 イスラエル、ケニア・タンザニア、シリア・ヨルダン など秘境、異郷ツアーで味わうのは、その歩哨の感動体験の感覚。 <これらを見ずして、誰が死ねようか。見なければ、体験しなければ、それは 存在しないことと同じ。聖域とは、聖地とは、大自然の懐とは、そういうところ!>
追:【そんなことこそ大変だろうが、拘ることもないさ。中心を穴が空くほど 凝視して、捨身になれば、一瞬でも解放されるよ、自分という柵から! 折角、宇宙の彼方から観光旅行で、『光』を見に来たのだから。 縛ってるのは自分以外、誰も居ないよ。 分かってはいないのは私自身。】
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